プロフィール
HN:
赤澤 舞
性別:
女性
職業:
飲食店店員
趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。
レトロゲームや特撮も好物です。
ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。
レトロゲームや特撮も好物です。
ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
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2021/01/11 (Mon)
演奏活動がなかなか難しい今日この頃ですが、今私は所属している団体の企画でドイツ歌曲の勉強を重点的にしています。
それで、学生のときから憧れだった『ズライカの歌』をレパートリーに入れるべく、只今奮闘しています。シューベルトとメンデルスゾーン、同じ詞に両氏が付けた音楽の違いも楽しいところです。
今回は備忘録として、そのお勉強の断片を記載させていただきます。
…あ、もちろん聖書の研究ものんびり続けてますよ!
そのお話はまた後日…。
さて、本日は『ズライカ』について調べてみます。
さまざまな作曲家が曲にしている『ズライカ』、詩人は言わずとしれた文豪ゲーテです。ゲーテ自体は超有名なんで、説明省きます(爆)今回はズライカのお話なんで!
そもそも『ズライカ』って何?
と思っていたら、人の名前みたいですね。
それも、イスラム教のコーランに由来する人物のお名前でした。
聖書関連のお勉強でコーランに触れていたのがこんなところで役に立つとは思いませんでした。
彼女が登場するのはペルシャの詩人アマーニーが1083年頃書いた恋愛叙事詩『ユースフとズライハ』。ドイツ語での「ズライカ」さんは、ペルシャ語だと「ズライハ」さんなのですね。
バルヒー、バフティヤーリー、アムアクなどの詩人たちも同じテーマで詩を書いたそうですが、現存はしていないようです。
ヌールッディーン・アブドゥッラフマーン・ジャーミー(1414~1492)という詩人が1483年に書いた長編叙事詩『ユースフとズライハ』は現存していて、日本語訳もありました。
このようにペルシャ文学では有名な題材だった『ユースフとズライハ』、元ネタは先ほど申し上げた通りイスラム教の聖典・コーランです。ただ、元ネタのコーランにはズライハの名前はありません。
ここで元になっているのはユースフさんの方です。キリスト教でいうとヨセフになります。ヨセフっていっぱい居ますけど、旧約聖書で最初に出てくるアブラハムの曾孫のヨセフのことです。
彼の物語が載っているのはコーランの第12スーラ。コーランは全部で114章(スーラ)で構成されていて、その中の12番目の章です。(題名も『ユースフ』)
話の大筋は旧約聖書の創世記とほぼ同じなんですが、細かいところがちょっと違います。
ざっと大まかにお話の内容↓↓↓
ヤアクーブ(ヤコブ)の息子ユースフは、あるとき見た夢を父に話します。それは、「11の星と太陽と月が自分にお辞儀している」という内容でした。
父はこの息子が預言者になるだろうと気付き、ユースフを守るために「兄たちには夢のことを言わないように」と言い含めました。(旧約聖書だとヤコブは兄に喋っちゃう)
ユースフは夢のことを話しませんでしたが、それとは別に父親の寵愛を受ける末弟に兄たちは嫉妬を抱きました。
そこで兄たちはユースフを追い出そうと父親に「野原で一緒に遊んでくる」と言ってユースフを連れ出し、井戸に投げおとします。父には、ユースフは狼に殺されたと嘘をつきました。
井戸に落とされたユースフは商隊に助け出されたあと、とあるエジプト人に売られます。(旧約聖書だとエジプト王宮の侍従長ポティファル)
そのエジプト人はユースフを養子にしようと、大切に育てました。ユースフは賢い青年に育ち、やがて成人しました。
しかし成長したユースフに、義母となるはずだったエジプト人の妻が惚れてしまいます。夫人はユースフを誘惑し、ユースフはそれを拒みました。夫人はユースフに襲われたと偽りますが、主人はユースフの潔白を見破ります。しかしそれでも誘惑してくる妻や女たちから逃れるために、ユースフは自分から牢屋に入ることを望みました。(旧約聖書だと主人は妻の言うことを信じて、怒ってヨセフを牢にぶちこむ)
牢屋に入ったユースフは、二人の囚人の男に出会います。ユースフはこの二人の夢を解釈し、ひとりは釈放されるがひとりは処刑されると予言しました。そして釈放される方の囚人に、このことを主人に話すよう頼みました。しかしその囚人は、助かった後そのことを自分の主人に話すのをすっかり忘れてしまいました。
数年後、エジプト王が見た夢を解釈して欲しいと首長たちに依頼したのですが、誰も解くことができません。そこでやっと例の囚人はユースフのことを思い出し、王に言及しました。ユースフは牢の中で王の夢を解き明かし、7年後に7年間続く飢饉が起こると予言します。
喜んだ王はユースフを連れてくるよう使いを出しますが、ユースフはその使いに「自分を陥れた女たちの心境はどうなっているのか」を自分の主人に尋ねるよう頼みました。
王が「結局のところ事の次第はどうだったのか」と女たちと夫人に尋ねると、女たちはユースフの無実を証言し、夫人は「ユースフを誘惑したのはわたしです」と自白しました。
こうしてユースフの無実は証明され、夢解きの報酬として王の側近&財務大臣に抜擢されました。
めでたし、めでたし。
本当はここから、かつて自分を陥れた兄たちと和解し父親と再会する物語が続くのですが、今回の本題からは逸れてしまいますので割愛します。
さて、上記のお話の中でユースフを誘惑するエジプト人の妻。名前は無いですが、彼女が「ズライハ」つまり「ズライカ」です。アーマニーが名付け、以降の詩人たちはこの名前でユースフの物語に彼女を登場させました。
ということでズライカという名前の出所は分かりました。
次に、何故ゲーテの作品でコーランの話が出てくるのか調べてみます。
そもそもゲーテはプロテスタントです。彼だけでなく、ゲーテが生まれ育ったフランクフルトの人々はほとんどプロテスタントでした。
しかしゲーテは知識のためにあらゆる文学作品や自然科学研究に触れており、『各々が自分の信じるものを持つことこそが真の信仰である』という汎神論的な宗教観を持っていました。
そんなゲーテがこの「ズライカ」を含む作品『西東詩集』を書いたのは、かなり晩年の時期です。1819年に『西東詩集』を書いた当時、ゲーテは70歳でした。
この歳になっても尚ゲーテの知識欲は衰えを見せず、世界的な視野を文学に取り入れるためフランス文学やオリエント文学などを読んでいました。その中で愛読したのがイランの詩人・ハーフェズ(1325/1326年~1389/1390年)の詩集だったそうです。
恋や酒や自然美を詠ったハーフェズの詩は民衆に人気で、イランでは「コーランが無い家でもハーフェズ詩集はある」と言われるといいます。
1814年、65歳のゲーテはハーフェズ詩集のドイツ語訳を初めて手にし、夢中になりました。
ゲーテは「ハーフェズの詩を理解するには 魂まで一汗かく必要がある」と語ったそうです。それくらい読み込んだということでしょう。
同じ年の夏、ゲーテはライン川流域に旅行に出掛けます。その際、立ち寄ったヴィースバーデンに古い知り合いが訪ねてきました。ヨハン・ヤコプ・ヴィレマーという銀行家兼枢密顧問官の男で、フランクフルト劇場の監督も勤めていた人物です。
そのとき、彼が伴っていたヴィレマーの養女マリアンネとも知り合いになります。
このマリアンネに、ゲーテは非常に心惹かれました。
女優エリザベス・ピルングルーバーの娘として生まれたマリアンネは8歳のときから既に舞台に立ち、14歳のときにフランクフルト劇場のバレエ団に入って歌やダンスで才能を発揮していました。
2回結婚しましたが2回とも妻に先立たれていたヴィレマーは、マリアンネを引き取り養女として育てた後で妻として迎えました。
ふたりが訪ねてきたのが8月4日、ヴィレマーとマリアンネが結婚したのが9月27日なので、まだこの時は結婚していない状態でした。
10月12日、今度はゲーテがヴィレマーを訪ねて、彼の別荘があるゲルバーミューレにやって来ます。そこで楽しい時を過ごしたマリアンネも、ゲーテに敬愛を抱くようになりました。
詩作の才能もあったマリアンネは、ゲーテと詩を送り会うようになりました。
詩の交流をするにあたり、作中でゲーテはマリアンネのことを「ズライカ」と呼びました。(美人な人妻という所は合ってると思うけど、誘惑してくる女の名称を付けられるのはマリアンネ的にどうなのか?)
そして既に老人となっていた自分のことを若い美男子ユースフと自称するのは躊躇われ、「ハーテム」と名乗ることにします。(「ハーテム・タイ」はアラビアの伝説的な慈善家。「ハーテム・ツォグライ」はその逆で強欲な人物として伝わっている人物。詩人としているのはハッサン・トグライとの混同と見られる)
『西東詩集』の「ズライカの巻」は、誰あろうマリアンネとゲーテの詩のやりとりから出来ているというわけです。
1815年にハイデルベルクで会ったのを最後に、ふたりは二度と会うことはありませんでしたが、ふたりの中には確かに友愛の感情があったと思われます。
今回私が挑戦しようとしている『東風の歌』と『西風の歌』ですが、『東風』はマリアンネがハイデルベルクに居るゲーテに会いに行く時、そして『西風』はそこから去っていくときに馬車の中で書いた詩だそうです。
この翌年、1816年にゲーテは10年連れ添った妻クリスティアーネを病気で亡くしていました。(20年間籍を入れてなかったので、正確には30年の付き合い)
翌年1817年、30年前イタリアへ旅行したことを回想して『イタリア紀行』を執筆、刊行します。
そこから更に2年後に、『西東詩集』を刊行しました。
そこから更に『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『ファウスト』の完成と、死の直前まで精力的に執筆を続けたゲーテでしたが、1832年に82歳の生涯を閉じます。
一方のマリアンネは、1860年に亡くなるまで沈黙を守ったといいます。
ズライハとマリアンネ、このふたりの女性を意識しつつ、『ズライカ』の歌は歌うべきなんでしょうなあ。
シューベルトとメンデルスゾーン、ふたりの表現の違いも面白いところです。
それで、学生のときから憧れだった『ズライカの歌』をレパートリーに入れるべく、只今奮闘しています。シューベルトとメンデルスゾーン、同じ詞に両氏が付けた音楽の違いも楽しいところです。
今回は備忘録として、そのお勉強の断片を記載させていただきます。
…あ、もちろん聖書の研究ものんびり続けてますよ!
そのお話はまた後日…。
さて、本日は『ズライカ』について調べてみます。
さまざまな作曲家が曲にしている『ズライカ』、詩人は言わずとしれた文豪ゲーテです。ゲーテ自体は超有名なんで、説明省きます(爆)今回はズライカのお話なんで!
そもそも『ズライカ』って何?
と思っていたら、人の名前みたいですね。
それも、イスラム教のコーランに由来する人物のお名前でした。
聖書関連のお勉強でコーランに触れていたのがこんなところで役に立つとは思いませんでした。
彼女が登場するのはペルシャの詩人アマーニーが1083年頃書いた恋愛叙事詩『ユースフとズライハ』。ドイツ語での「ズライカ」さんは、ペルシャ語だと「ズライハ」さんなのですね。
バルヒー、バフティヤーリー、アムアクなどの詩人たちも同じテーマで詩を書いたそうですが、現存はしていないようです。
ヌールッディーン・アブドゥッラフマーン・ジャーミー(1414~1492)という詩人が1483年に書いた長編叙事詩『ユースフとズライハ』は現存していて、日本語訳もありました。
このようにペルシャ文学では有名な題材だった『ユースフとズライハ』、元ネタは先ほど申し上げた通りイスラム教の聖典・コーランです。ただ、元ネタのコーランにはズライハの名前はありません。
ここで元になっているのはユースフさんの方です。キリスト教でいうとヨセフになります。ヨセフっていっぱい居ますけど、旧約聖書で最初に出てくるアブラハムの曾孫のヨセフのことです。
彼の物語が載っているのはコーランの第12スーラ。コーランは全部で114章(スーラ)で構成されていて、その中の12番目の章です。(題名も『ユースフ』)
話の大筋は旧約聖書の創世記とほぼ同じなんですが、細かいところがちょっと違います。
ざっと大まかにお話の内容↓↓↓
ヤアクーブ(ヤコブ)の息子ユースフは、あるとき見た夢を父に話します。それは、「11の星と太陽と月が自分にお辞儀している」という内容でした。
父はこの息子が預言者になるだろうと気付き、ユースフを守るために「兄たちには夢のことを言わないように」と言い含めました。(旧約聖書だとヤコブは兄に喋っちゃう)
ユースフは夢のことを話しませんでしたが、それとは別に父親の寵愛を受ける末弟に兄たちは嫉妬を抱きました。
そこで兄たちはユースフを追い出そうと父親に「野原で一緒に遊んでくる」と言ってユースフを連れ出し、井戸に投げおとします。父には、ユースフは狼に殺されたと嘘をつきました。
井戸に落とされたユースフは商隊に助け出されたあと、とあるエジプト人に売られます。(旧約聖書だとエジプト王宮の侍従長ポティファル)
そのエジプト人はユースフを養子にしようと、大切に育てました。ユースフは賢い青年に育ち、やがて成人しました。
しかし成長したユースフに、義母となるはずだったエジプト人の妻が惚れてしまいます。夫人はユースフを誘惑し、ユースフはそれを拒みました。夫人はユースフに襲われたと偽りますが、主人はユースフの潔白を見破ります。しかしそれでも誘惑してくる妻や女たちから逃れるために、ユースフは自分から牢屋に入ることを望みました。(旧約聖書だと主人は妻の言うことを信じて、怒ってヨセフを牢にぶちこむ)
牢屋に入ったユースフは、二人の囚人の男に出会います。ユースフはこの二人の夢を解釈し、ひとりは釈放されるがひとりは処刑されると予言しました。そして釈放される方の囚人に、このことを主人に話すよう頼みました。しかしその囚人は、助かった後そのことを自分の主人に話すのをすっかり忘れてしまいました。
数年後、エジプト王が見た夢を解釈して欲しいと首長たちに依頼したのですが、誰も解くことができません。そこでやっと例の囚人はユースフのことを思い出し、王に言及しました。ユースフは牢の中で王の夢を解き明かし、7年後に7年間続く飢饉が起こると予言します。
喜んだ王はユースフを連れてくるよう使いを出しますが、ユースフはその使いに「自分を陥れた女たちの心境はどうなっているのか」を自分の主人に尋ねるよう頼みました。
王が「結局のところ事の次第はどうだったのか」と女たちと夫人に尋ねると、女たちはユースフの無実を証言し、夫人は「ユースフを誘惑したのはわたしです」と自白しました。
こうしてユースフの無実は証明され、夢解きの報酬として王の側近&財務大臣に抜擢されました。
めでたし、めでたし。
本当はここから、かつて自分を陥れた兄たちと和解し父親と再会する物語が続くのですが、今回の本題からは逸れてしまいますので割愛します。
さて、上記のお話の中でユースフを誘惑するエジプト人の妻。名前は無いですが、彼女が「ズライハ」つまり「ズライカ」です。アーマニーが名付け、以降の詩人たちはこの名前でユースフの物語に彼女を登場させました。
ということでズライカという名前の出所は分かりました。
次に、何故ゲーテの作品でコーランの話が出てくるのか調べてみます。
そもそもゲーテはプロテスタントです。彼だけでなく、ゲーテが生まれ育ったフランクフルトの人々はほとんどプロテスタントでした。
しかしゲーテは知識のためにあらゆる文学作品や自然科学研究に触れており、『各々が自分の信じるものを持つことこそが真の信仰である』という汎神論的な宗教観を持っていました。
そんなゲーテがこの「ズライカ」を含む作品『西東詩集』を書いたのは、かなり晩年の時期です。1819年に『西東詩集』を書いた当時、ゲーテは70歳でした。
この歳になっても尚ゲーテの知識欲は衰えを見せず、世界的な視野を文学に取り入れるためフランス文学やオリエント文学などを読んでいました。その中で愛読したのがイランの詩人・ハーフェズ(1325/1326年~1389/1390年)の詩集だったそうです。
恋や酒や自然美を詠ったハーフェズの詩は民衆に人気で、イランでは「コーランが無い家でもハーフェズ詩集はある」と言われるといいます。
1814年、65歳のゲーテはハーフェズ詩集のドイツ語訳を初めて手にし、夢中になりました。
ゲーテは「ハーフェズの詩を理解するには 魂まで一汗かく必要がある」と語ったそうです。それくらい読み込んだということでしょう。
同じ年の夏、ゲーテはライン川流域に旅行に出掛けます。その際、立ち寄ったヴィースバーデンに古い知り合いが訪ねてきました。ヨハン・ヤコプ・ヴィレマーという銀行家兼枢密顧問官の男で、フランクフルト劇場の監督も勤めていた人物です。
そのとき、彼が伴っていたヴィレマーの養女マリアンネとも知り合いになります。
このマリアンネに、ゲーテは非常に心惹かれました。
女優エリザベス・ピルングルーバーの娘として生まれたマリアンネは8歳のときから既に舞台に立ち、14歳のときにフランクフルト劇場のバレエ団に入って歌やダンスで才能を発揮していました。
2回結婚しましたが2回とも妻に先立たれていたヴィレマーは、マリアンネを引き取り養女として育てた後で妻として迎えました。
ふたりが訪ねてきたのが8月4日、ヴィレマーとマリアンネが結婚したのが9月27日なので、まだこの時は結婚していない状態でした。
10月12日、今度はゲーテがヴィレマーを訪ねて、彼の別荘があるゲルバーミューレにやって来ます。そこで楽しい時を過ごしたマリアンネも、ゲーテに敬愛を抱くようになりました。
詩作の才能もあったマリアンネは、ゲーテと詩を送り会うようになりました。
詩の交流をするにあたり、作中でゲーテはマリアンネのことを「ズライカ」と呼びました。(美人な人妻という所は合ってると思うけど、誘惑してくる女の名称を付けられるのはマリアンネ的にどうなのか?)
そして既に老人となっていた自分のことを若い美男子ユースフと自称するのは躊躇われ、「ハーテム」と名乗ることにします。(「ハーテム・タイ」はアラビアの伝説的な慈善家。「ハーテム・ツォグライ」はその逆で強欲な人物として伝わっている人物。詩人としているのはハッサン・トグライとの混同と見られる)
『西東詩集』の「ズライカの巻」は、誰あろうマリアンネとゲーテの詩のやりとりから出来ているというわけです。
1815年にハイデルベルクで会ったのを最後に、ふたりは二度と会うことはありませんでしたが、ふたりの中には確かに友愛の感情があったと思われます。
今回私が挑戦しようとしている『東風の歌』と『西風の歌』ですが、『東風』はマリアンネがハイデルベルクに居るゲーテに会いに行く時、そして『西風』はそこから去っていくときに馬車の中で書いた詩だそうです。
この翌年、1816年にゲーテは10年連れ添った妻クリスティアーネを病気で亡くしていました。(20年間籍を入れてなかったので、正確には30年の付き合い)
翌年1817年、30年前イタリアへ旅行したことを回想して『イタリア紀行』を執筆、刊行します。
そこから更に2年後に、『西東詩集』を刊行しました。
そこから更に『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『ファウスト』の完成と、死の直前まで精力的に執筆を続けたゲーテでしたが、1832年に82歳の生涯を閉じます。
一方のマリアンネは、1860年に亡くなるまで沈黙を守ったといいます。
ズライハとマリアンネ、このふたりの女性を意識しつつ、『ズライカ』の歌は歌うべきなんでしょうなあ。
シューベルトとメンデルスゾーン、ふたりの表現の違いも面白いところです。
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