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音楽とお酒と歴史探索が趣味です。色々書きなぐってます。
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  プロフィール
HN:
赤澤 舞
性別:
女性
職業:
飲食店店員
趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。

一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿

音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。

レトロゲームや特撮も好物です。

ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
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2025/05/14 (Wed)
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2020/02/03 (Mon)
『椿姫』の話題も3回目になりました。

前回はクルチザンヌの成り立ちから、ドゥミ・モンドの終焉まで調べてみましたが、今回はキャラクターに関して突っ込んでみたいと思います。
自分が頂いた役がフローラなので、フローラに焦点を当てたものが多くなってしまいますがご了承ください。


※あくまで素人の調べた結果と妄想です!本気にしないでください。


さて、欲望渦巻くドュミ・モンドでヴィオレッタもフローラも生きているわけですが、クルチザンヌたちの一番の社会的なお役目はなんといっても『仲介』だと思われます。
豪奢なパーティーを開きますと、色々な筋の人がお客としてやってきます。ただパーティーを楽しむためだけではなくて、各々の目的を持ってやって来るわけです。
たとえば、そのクルチザンヌのパトロンとなっている富豪とお近づきになりたい。
たとえば、そのパーティーの常連さんである知人に、他の常連さんを紹介して欲しい。
政治的な意味かも知れませんし、商業的な意味かも知れませんし、肉欲的な意味かも知れません。
もちろんパーティーの主催のクルチザンヌと良い仲になりたい男性もいるでしょうし、新たなパトロンを探しに来た同業者もいるでしょう。
そういった人々の社交場を調え、コネを提供するからこそ、クルチザンヌは重宝されたのだろうと思われます。

それでは、この二人の関係性から考えてみます。恐らくこの二人はほぼ対等な友達関係だと思われます。
同じくらいの規模のパーティーが開ける(パトロンの)経済力があり、同じくらい教養があり、クルチザンヌ歴も同じくらい長い。だから二人の間には嫉妬とか、見栄の張り合いなどをする必要性が無いのです。
ヴィオレッタの方が美しい、ということはあるかもしれません。でも前前回の妄想で個人的に『フローラは元歌い手かもしれない』という勝手な仮説を立てていますので、その前提で考えますときっとフローラには容姿を補って余りあるユーモアとか演技力とか、音楽的素養があったのではないかと(勝手に)考えます。

では、原作を下敷きにしてフローラの人間性を考えてみたいと思います。
原作では、マルグリット以外に計4人の女性が登場します。一人ずつ確認してみましょう。
オペラではジェルモンの語りの中にしか登場しなかった、アルマン(アルフレード)の妹は除きます。

①プリュダンス・デュヴェルノワ
マルグリットの隣に住んでいる、40歳くらいの女性。元娼婦で、女優になろうとしたものの挫折。顔の広さを生かして女性用品店を開き、生活している。
プリュダンス(慎重)という名前とは裏腹に、おしゃべりで軽薄な性格。ただし玄人あがりだけあって社交界の人脈や娼婦の実情を知り尽くしており、アルマンやマルグリットに忠告や説教などをする。その上で、ふたりの仲を取り持つ役も果たす。ちゃっかりもので、しょっちゅうマルグリットからお金や小物をもらう。マルグリットと頻繁につるみ、食事や観劇などを共にする仲。しかし売れっ子だったマルグリットの収入を当てにして借金をしていた為、マルグリットが病気で動けなくなるとぱったり交流を断つ。


②ジュリー・デュプラ
マルグリットの友達のひとり。末期に動けなくなったヴィオレッタの看病から臨終、葬式まで全て見てきた人物。マルグリットに借金の取り立てがきて家中の物が差し押さえられたとき、役人と言い争ったり自分の僅かな貯金を使って差し押さえを止めようとした。
マルグリットの日記を託され、字を書けなくなってからは彼女が続きを記した。
アルマンはマルグリットが亡くなる直前に書いた手紙の指示でジュリーから日記を受けとり、自分たちが別れることになった経緯を知ることになる。
マルグリットが亡くなってからも彼女を慕っていた。


③ナニーヌ
マルグリットの元で働いている女中。マルグリットとアルマンが出会った当初から亡くなるまで、マルグリットの世話をし続けた。


④オランプ
アルマンとマルグリットが別れてから、パリでマルグリットと連れだって歩いていた若い娼婦。顔は美しいが意地悪。アルマンは一方的に別れを切りだして出ていったマルグリットへの当て付けのために彼女を手に入れ、彼女と共にマルグリットに精神的な嫌がらせの数々を行う。オランプも嬉々としてイジメに参加した。


ざっとこんな感じです。
この中で一番フローラに立場が近いのは、①のプリュダンスだと思います。でも、生活のために私物を売ることになったマルグリットに頼まれて、彼女に代わりパリで売買をする役はアンニーナになっています。
現役の娼婦であるところは、④オランプの要素をとったかもしれません。

言わずもがな、ヴィオレッタの召し使いアンニーナは③ナニーヌに②ジュリーの要素を足した役どころとなっています。
ジュリーは、こんなに重要な役どころなのにプリュダンスと違ってほとんど個人の描写がありません。
マルグリットにはたくさんの友達がいましたが、ジュリーはその中のひとりでしかありませんでした。
友達というからには、ジュリーもクルチザンヌ、あるいはそれに準じた職業のひとであろうと予想されます。男友達の奥さんという可能性も捨てきれませんが、小説後半のジュリーの独白を鑑みるに、その線は薄そうです。

抜粋↓
「こうした悲しい印象もわたくしのような生活を送っていては、長い間そのままに残るようなことはありますまい。マルグリット様が御自分の生活を思いのままにおできにならなかった以上に、わたくしなぞは自分の思いのままに暮らせない身の上でございますもの。」

どうして彼女がマルグリットを献身的に看病し、看取ることになったのか、その経緯や彼女の気持ちは描写されていません。

ここまで書き出して改めて、マルグリットの友達と呼べた人物は皆娼婦であったことがわかります。
オランプは友達と言える関係では無かったかもしれませんが、街を一緒に歩いていたのですから同業者としての付き合いくらいは少なくともあったでしょう。

そこで、フローラはどんな人物だったろうかと考えたときに
①プリュダンス
②ジュリーから、アンニーナに取られた要素を除く部分
④オランプ
の要素が材料になるのかな、と考えます。
フローラの人間性やシーンごとの感情は、また別に掘り下げて考えてみたいと思います。

次に、ヴィオレッタとフローラを取り巻く御貴族さまたちについて見てみます。
オペラの第一幕。冒頭のパーティーシーン。
このパーティーの主宰はヴィオレッタで、時刻は真夜中。
たくさんのお客さんがいますが、招待客の一部はフローラのパーティーからはしごしてやって来たために遅刻したようです。
フローラは自分の主催したパーティーをつつがなく終え、そのあとで自分が招待されたパーティーにやって来たわけです。
一幕おわりが夜明けですから、一晩中遊んでたことになります。財力もですが、体力がすごい。

とにかく、フローラと彼女の取り巻きがヴィオレッタのパーティーに到着したところからオペラスタートです。
リブレットのト書きには、こう書いてあります。
『ヴィオレッタは、ソファーに座って医者と幾人かの友人たちと話をしている。その間に、何人かの友人たちは遅れてやってくる人たちを出迎えているが、その〔遅刻組の〕中には、男爵と、侯爵と腕を組んだフローラがいる。』

パーティーに来ている人々は爵位ばかりでとかく覚えにくいですが、そうも言ってられません。
とりあえず登場人物が増えました。

まず、ヴィオレッタと話している医者。グランヴィル〔 Grenvil 〕という名前です。
原作では名前もなく、マルグリットが末期になってから現れますが、オペラではパーティーシーン全てに同席し、ヴィオレッタを看取るメンバーのひとりという、なかなか重要な役どころです。どうも、ただの主治医というには親しすぎるというか、彼もヴィオレッタの信者のひとりではなかろうかと思ったりします。
グランヴィルというお名前ですが、イギリスのグレンヴィル〔 Grenville 〕という姓を意識して付けられたのではないかと思われます。
グレンヴィル家は古い貴族の家系で、代々政治家を輩出しており、首相になった人物も何人かおりました。時代によってはグランヴィル〔 Granville 〕と呼ばれていたようです。
このお医者さんはもしかするとイギリスの古い名家の生まれで、家が没落し学を身に付けて医師になったのかもしれません。フランス、特にパリは18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパ医学の中心でした。留学のためにパリに来て医療を学び、そのままパリで診療所を開いたとしてもおかしくはありません。
元が貴族なら、パーティーに慣れているのも頷けます。

次に、フローラと共に遅刻してきた男爵と侯爵。
リブレットの設定によると、ドゥフォール〔 Douphol 〕男爵とドビニー〔 D'Obigny 〕侯爵というお名前です。
普通に調べても、おふたりのお名前はどこかの貴族とかで出ては来ませんでした。
そこで妄想を巡らせてみます。
このふたり、どちらも名前の頭文字はD。
そこで思い出すのは、マルグリット及びヴィオレッタのモデル、マリー・デュプレシです。彼女は本名をアルフォンシーヌ・プレシといいましたが、源氏名を母のマリーからとり、更に「貴族風に」Du を姓に付けてデュプレシとしました。
デュプレシ、という名前は実際の貴族にもおります。
有名なところですと、ルイ13世の宰相を務めた枢機卿及びリシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシー( Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu)です。

この貴族風の姓は元々「~の出身」という意味だそうです。「姓」という概念のなかった中世初頭頃のゲルマン人領主が、自分の領地名を名乗ったのがはじまりです。伯爵以上の貴族が王さまから与えられた土地を名乗ることが多く、古い家名ですと、家門の発祥地を示していたりします。領土の特権が廃止された19世紀以降に爵位を得た人は、基本的にはこの名字は持てません。新貴族が土地を自分で買ってもダメです。旧家の名前を名乗りたければ、旧貴族の娘と結婚して爵位を継ぐしかありません。
デュ・プレシという名前は「プレシ(出身)の」という意味なわけです。
ちなみにプレシ(Plessis) はパリから6kmほど離れたセーヌ県の町です。
15世紀にはル・プレシ=ピケ(Le Plessis-Piquet)、フランス革命期にはプレシ=リベルテ(Plessis-Liberté)と呼ばれたこの町は、現在はル・プレシ=ロバンソン (Le Plessis-Robinson)と呼ばれているそうです。1840年代に児童文学『スイスのロビンソン』に出てくるような樹の上に建てたレストランが流行し、同じような店があちこちにできた為に1909年改名されたとのことです。

国ごとに「~出身」の冠詞が異なるため、名前も変わります。
ドイツなら「von」(フォン)
イギリスなら「of」(オブ)
フランスだと「du」または「de」(デュ)
フランス語の場合、男性名詞にはdu、女性名詞にはde la がつきます。
騎士や領主など準貴族に後からなった人が元々の姓にこの冠詞をつけて名乗る場合もあります。この場
合、出身地を示す意味は消え、冠詞そのものが称号のような扱いになります。(ヨハン・ヴォルフガング・『フォン』・ゲーテとか)この称号は世襲することができます。

それを踏まえて、ドゥフォールさんとドビニーさんの名前について考えてみます。

まずは ドビニー〔 D'Obigny 〕さんから。
頭文字のDを先程の称号だと仮定して、「Obigny」という名前がどこから来たのでしょうか。
調べてみましたら、なんとなく似てる地名がふたつ出てきました。関係があるかは分かりませんが、とりあえず載せておきます。

①ボビニー/Bobigny
パリの市境から約3キロ離れた、フランス北部の街。
ボンディの森に館を築いた古代ローマの将軍、 バルビニウス(Balbinius)が地名の由来。
Wikipediaによると、1789年当時は人口200人余りの小さな村で、穀物生産が盛んだったそうです。1870年の普仏戦争で荒廃してしまいましたが、19世紀の終わりにパリから鉄道が通じると労働集約型企業の労働者の町へと変貌しました。

あんまり目立たない町なので、ここは関係ないかも?

②オービニー=シュル=ネール /Aubigny-sur-Nère
フランスのど真ん中くらい、ロワール地方シェール県のコミューン。6世紀には既に存在していた古い街です。
1423年、シャルル7世は百年戦争で同盟関係だったスコットランド軍の最高指導者、ジョン・ステュワート・オブ・ダーンリーの功績を称えてこの街を授けます。1429年にジョンが亡くなると、彼の長男アラン・ステュワートが土地と称号を受け継ぎました。しかしアランは1437年、シャルル7世の了承を得てスコットランドに帰国、オービニー領主の称号も辞退します。そこでお父さんと同じ名前の次男、ジョン・ステュワートが後を引き継いだわけです。
それ以降、オービニーはフランスにありながらイギリスのステュワート家が街の当主となります。
1512年、大火事で一度街は焼け落ちてしまいましたが、ジョン(息子)から二代後の当主(孫娘の旦那)ロベール・ステュワート・ドービニー (Robert Stuart d'Aubigny)が大補修して現在も見られる木組の街並みを作ったそうです。

他にも Aubigny という名前の街はあったのですけれども、新しかったり大した情報がなかったりだったので、一番有名なのはこの街だと 思われます。

ステュワート家といえばスコットランド女王メアリー1世を輩出した名門です。エリザベス1世を最期に断絶したイングランドのテューダー朝に対してステュワートの血筋はその後も続き、ウェールズを含むイングランドとスコットランドが合同して成立したグレートブリテン王国の王家になります。
ステュワート・オブ・ダーンリーは正確には分家ですが、由緒ある貴族であることは間違いありません。
…完全に妄想ですが、D'Obigny が D'Aubigny のパロディー的なお名前だとしたら、面白いなと思いました。もしそうならドビニーさんは、ステュワート家の血筋を引く貴族ということになります。

ちなみに D'Aubigny という名前を追いかけていましたら、このお名前をお持ちのオペラ歌手を見つけました。どうやらバイセクシャルの方だったようで興味深かったので、話が脱線しますが載せておきます。

ジュリー・ドービニー(Julie d'Aubigny)
(1670 / 1673~1707)
父親はガストン・ドービニーという人で、ブルボン王室の厩舎長アルマニャック伯ルイ・ド・ロレーヌの秘書でした。ということは血筋的にはやはり貴族になるのでしょう。
見習い裁判官の少年たちと共にダンスや読書、絵画にフェンシングなど貴族の教育を施されたジュリーは、幼い頃から男装を好んでいたそうです。フェンシングの腕前はかなりのもので、男相手にもひけをとらなかったといいます。ベルバラのオスカルみたいですな。
14歳で父親を亡くしたジュリーは父親の上司であるルイ・ド・ロレーヌ伯爵の愛人になったのですが、奔放なジュリーをもて余した伯爵はシウ・ド・モーピンという男とジュリーを結婚させます。それでジュリーは「ラ・モーピン」と名乗るようになりました。
結婚後、シウ・ド・モーピンはフランス南部の行政職に就いたため引っ越ししなくてはならなくなったのですが、ジュリーはパリに残る選択をします。
ひとりになったラ・モーピンは、セランヌというフェンシング教師と関係を持ちました。しかし、あるときセランヌが非公式の決闘で相手を殺害した罪で逮捕されそうになります。ラ・モーピンはセランヌと一緒に、パリを逃亡しました。
二人はフェンシングの観戦試合を行ったり、居酒屋や見本市で歌ったりして生計を立てつつ、旅を続けました。ラ・モーピンはあいかわらず男性の服を着ていましたが、別に女性であることを隠したりはしませんでした。
マルセイユに辿り着いたジュリーはオペラ団体に入団して、この頃フェンシングのインストラクターも辞めました。(たぶんセランヌとも別れた)
旧姓でオペラの舞台に立つようになったジュリーは、今度は女性と関係を持つようになります。しかし相手の女性の両親がそれを良く思わず、彼女を修道院に入れてしまいました。諦められないジュリーは恋人のベッドに修道女の遺体を置いて部屋に火をつけ、恋人を連れて逃亡します。
このまま、セランヌの時のような逃亡劇となるか?…と思いきや、3ヶ月後に女性は家族の元に帰ってきました。ジュリーは結局捕まりませんでしたが、誘拐と放火と法廷に現れなかった罪で火刑の判決を下されます。マルセイユに居られなくなったジュリーはパリに戻りました。パリに戻るまでにも様々な色恋沙汰があったようですが、ともかくパリに着いたジュリーはパリ・オペラ座への入団を望みます。最初は断られましたが、1690年に無事入団が叶い、当初はソプラノ、しばらく後からコントラルト歌手として「マドモアゼル・ド・モーピン」の名前で演奏を始めました。
相変わらず男性の服を日常的に身に付けていたモーピンはオペラ座でも男女さまざまな相手と恋をし、男勝りな喧嘩や決闘をしていましたが、パリ市内の決闘に対する法律が男性のみに適応されていたために罷免されました。
1697年から1698年までブリュッセルでオペラ公演をした後、1705年に引退するまでパリで演奏活動をしていたモーピンは、何度もヴェルサイユ宮殿で歌っていたそうです。彼女の演奏を聴いたダンジョー侯爵は1701年、自身の日記に『世界で最も美しい声』と書いていたといいます。
引退後の彼女の晩年は複数説あり、長らく離れていた夫と暮らしたとか、プロヴァンスで修道女になったとか言われているようですが、正確なところは分かっておりません。1707年に33歳で亡くなったとされていますが、お墓も無いとのことです。


脱線が長くなりました。
次にドゥフォール[Douphol]さんを見てみます。

ネットのサイトで、古フランス語の冠詞に
de + le = del, deu, dou, du
などのバリエーションがあると見ました。なので、Dou も貴族の称号なのでは?と勝手に妄想してみます。

Dou は称号だとして、phol はどこから来たのでしょう。phol という言葉を単体で調べたら、なんか遺伝子の名前とかタイのお砂糖を作る会社が出てきました(汗)
それでも諦めずに探したところ、なんと見つけたのは日本警察犬協会のホームページで、警察犬の名前一覧の中でした。

【Phol(ポール) Balderの方言 】

とのことです。

Balder(バルドル)は北欧神話の光の神。彼の死がきっかけとなってラグナロクは起こり、神々の時代が黄昏を迎えることになるのです。
アルフレードに手袋を投げるドゥフォール氏の、名前の元がバルドルだとしたらすごい皮肉ですな。

「Phol」という名前を追いかけてみましたら、9~10世紀に書かれた【メルゼブルクの呪文】という書物の中に出てきました。古高ドイツ語で書かれたその書物には、文字を持つ以前のゲルマン民族に伝わっていた魔法や呪文が書かれています。
ドイツ・ヘッセン州にあるフルダの修道院で典礼書の空白ページに書き留められた呪文は、メルゼブルクの図書館に渡り、その後グリム兄弟によって書籍化されました。キリスト教の影響を受けていない資料としては、非常に珍しいものだそうです。
その中の、【馬の呪文】という一節に「Phol」は出てきます。ご興味ありましたら「メルゼブルクの呪文」と検索しますとWikipediaで見られます。

【ポール】という名前はヨーロッパではよくあるお名前ですけれども、Phol という綴りのポールさんはあんまりいらっしゃらないようです。
もしかしたら、ドゥフォールさん本人ないしご先祖は北欧の流れを汲むドイツの人なのかもしれません。

似た名前で「Pohl」という綴りのポールさんは、キリスト教由来の「Paul」 よりは少ないものの、ドイツ系の方でいらっしゃいました。
Pohl という地名も、ドイツにあります。ラインラント=プファルツ州ライン=ラーン郡にあるナッサウ連合自治体のひとつ、Pohl 市です。

偶然かもしれませんが、ドイツの産業革命はこのポール市があるラインラントから始まったといえます。
1815年、ウィーン議定書(ナポレオン戦争の戦勝国の領土変更をしましたよという議定書)によって、プロイセン王国はラインラントを獲得します。ラインラントはライン川を利用した物流の要の土地でもあり、豊富な地下資源を持つ、すごく良い土地でした。ただし首都のベルリンからは結構離れていたので、ラインラントのまわりの諸国と関税同盟を結ばないといけなくなりました。でないと自分の国の領地から物資を運びたいのに、いちいち税金がかかってしまいますからね。
なんやかんや揉めたりしましたがなんとか1834年に成立したドイツ関税同盟によって、ドイツ諸邦国は大きな共通市場を手に入れました。これが足掛かりになって、1840年代からドイツは産業革命に入っていくわけです。

どちらにしてもたぶん貴族のお名前ではなさそうなので、マリー・デュプレシと同じように自分で本名を加工して貴族風に変えたと仮定してみましょう。
根っからの貴族ではない、というところから、色々想像ができて面白いですな。

さて、こうしてヴィオレッタ邸のパーティーにやってきたフローラ、ドビニー侯爵、ドゥフォール男爵。
フローラと腕を組んで登場と書いてありますので、フローラのパトロンはドビニー侯爵なんだなと分かります。
現代に生きていますとあんまり貴族の位とか重要でないので、どっちが偉いとかどーでもいいとか思ってしまいそうですが、この頃ですとそうもいかないでしょう。

Wikipediaによりますと、フランスの爵位は13世紀に国王フィリップ3世が制定したのが始まりで、18世紀に

大公(王族)
公爵
侯爵
伯爵
子爵
男爵
騎士
エキュイエ(平貴族)

までの階級ができたそうです。
フランス革命で一度廃絶されたあと1814年の王政復古で復活しましたが、貴族の特権は伴わない『名誉称号』となります。更に第三共和政以降は、私的に使う以外の効果は無くなってしまいました。
物語の舞台は1850~51年ですので、まだ第三共和政は樹立してません。(第三共和政は1870年樹立~1940年のナチス・ドイツによるフランス侵攻まで)

ドビニーさんは王様を除く上から2番目の侯爵、ドゥフォールさんは5番目の男爵。
結構開きがありますね。
前回の記事で時代背景を調べていて、当時は「地代収入が一万フランあれば男爵の爵位がもらえる」ということが分かっています。つまり、男爵さんはそんなに先祖代々からの貴族というわけではなかった可能性があるということです。

前回記事のおさらい、産業革命時のお金持ちの方々↓
①産業革命にうまく乗って商工業で成功した人
②貴族の称号をお金で買った新興貴族
③復古王政時代に財産を取り戻して、それを元手に産業資本家になった旧貴族

このうち、ドビニーさんは③でドゥフォールさんは①か②なのかもしれません。

ひとまず先のシーンへ進みます。
遅刻してきたフローラ、ドビニー、ドゥフォールを主催者として迎えるヴィオレッタ。そこにガストーネ・ディ・レトリエール子爵が、アルフレード・ジェルモンを連れて入ってきます。
ガストーネはヴィオレッタたちと既に知り合いで、自分の友達であるアルフレードをヴィオレッタに紹介します。

ガストーネは、小説でもガストン・Rという名前で、アルフレードの友人として出てきました。オペラと同じくマルグリットとアルマンを引き合わせる役になります。ただし小説では別に貴族であるという記述はなく、あくまでアルマンとマルグリットの共通の友達という立ち位置です。マルグリットを口説くも断られ、マルグリットと一緒にいたプリュダンスと良さげな雰囲気になります。(プリュダンスはあまり本気ではなかったですが)

『ヴィオレッタとアルフレードを引き合わせる』という目的しか与えられていなかったガストンという男は、オペラではなかなかの存在意義を放っています。
2幕ではフローラのパーティーの興行を取り仕切るなど、人脈と財力を巧みに使える男であることが伺えます。

ひとまずここでは彼の身分『子爵』について少し。
子爵は上から4番目、ドゥフォールさんの男爵よりひとつ上の爵位です。
中世以降のヨーロッパで使われるようになった爵位で、元々は中世ラテン語の vicecomes(後期ローマ帝国の廷臣から来る伯爵)から来ている古フランス語のvis(副)conte(伯)が由来だそうです。
伯爵の補佐役に与えられる一代限りの爵位だったものが後に世襲されるようになったものらしく、日本で言うと地頭さんに近いそうな。
また、儀礼称号として侯爵や伯爵の嗣子(跡取り)や、子爵家当主の法定推定相続人に使われることもあるそうです。法定推定相続人の場合、必ずしも子息とは限りません。

なので子爵さんについては更に色んな想像ができますね。


とりあえず、パーティーで出てくる主要な人物はこれで出揃ったことになります。


身分順にまとめると

ドビニー侯爵
ガストーネ子爵
ドゥフォール男爵
グランヴィル医師

ちなみに原作で出てくる貴族たちは

老公爵
70歳ほどの老公爵。マルグリットがバニェールに湯治に来たときに知り合う。マルグリットに瓜二つの娘を同じ肺結核で亡くしていて、その面影をマルグリットに見ている。マルグリットの放蕩ぶりを心苦しく思いながらも彼女を庇護し、年間七万フランほど貢いでいる。

M・ド・N伯爵
若いお坊ちゃん伯爵。相当な金持ちで、マルグリットの金銭的なパトロン。ただしマルグリットには物凄く嫌われている。

G男爵
マルグリットのために身代を棒に振ったらしい、と噂になっていた。

G伯爵
マルグリットをクルチザンヌに引き立てた人物。古い馴染みで、一緒に芝居を観に行ったりする。年間一万フランほどマルグリットに貢いでいる。マルグリットの死の間際、借金に追われてロンドンに出立。

L若子爵
マルグリットに貢ぎ過ぎて一文無し寸前になり、都落ちした。肖像画でのみ登場。


の4人ですが、オペラで台詞が使われているのはM・ド・N伯爵のみです。まだ知り合っていない頃にマルグリットの容態をアルマンが毎日訪ねに来ていた、とマルグリットが知ったときの伯爵とのやり取りです。

「あなただったら、ねえ伯爵、そうはなさらないわね。」
「僕は君と知り合いになってまだやっと二月なんだからね。」
「でも、あたし、こちら様とおちかづきになってまだ5分しかたたないことよ。あなたって方はいつもとんちんかんな返事ばかりなさるのね。」


このやりとりは1幕のパーティーシーン、男爵とヴィオレッタの会話に引き継がれています。
もしも男爵がドイツ人だったら。
国民性を紹介する本で以前読んだのですが、ドイツの方は一般的に「信頼度=付き合った期間の長さ」という考え方をする傾向があるそうです。そして形式も大切にするので、きちんと紹介されて友人になるということも重要です。なので本人が親しくなりたいと思ってはいても、実際に親しくなるには時間がかかります。
実際に親しくならなければ、気軽に家を訪ねたりも出来ないし二人きりで会うのも憚られる、と考えていたかもしれません。
そう思うと、男爵は真面目過ぎてヴィオレッタに手が出せなかったと見ることも出来ます。


各貴族たちの懐事情や感情、お家の事情なんかを考えていくと、より一層楽しめますね。

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