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音楽とお酒と歴史探索が趣味です。色々書きなぐってます。
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赤澤 舞
性別:
女性
職業:
飲食店店員
趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。

一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿

音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。

レトロゲームや特撮も好物です。

ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
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2024/05/19 (Sun)
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2020/02/03 (Mon)
『椿姫』の話題も3回目になりました。

前回はクルチザンヌの成り立ちから、ドゥミ・モンドの終焉まで調べてみましたが、今回はキャラクターに関して突っ込んでみたいと思います。
自分が頂いた役がフローラなので、フローラに焦点を当てたものが多くなってしまいますがご了承ください。


※あくまで素人の調べた結果と妄想です!本気にしないでください。


さて、欲望渦巻くドュミ・モンドでヴィオレッタもフローラも生きているわけですが、クルチザンヌたちの一番の社会的なお役目はなんといっても『仲介』だと思われます。
豪奢なパーティーを開きますと、色々な筋の人がお客としてやってきます。ただパーティーを楽しむためだけではなくて、各々の目的を持ってやって来るわけです。
たとえば、そのクルチザンヌのパトロンとなっている富豪とお近づきになりたい。
たとえば、そのパーティーの常連さんである知人に、他の常連さんを紹介して欲しい。
政治的な意味かも知れませんし、商業的な意味かも知れませんし、肉欲的な意味かも知れません。
もちろんパーティーの主催のクルチザンヌと良い仲になりたい男性もいるでしょうし、新たなパトロンを探しに来た同業者もいるでしょう。
そういった人々の社交場を調え、コネを提供するからこそ、クルチザンヌは重宝されたのだろうと思われます。

それでは、この二人の関係性から考えてみます。恐らくこの二人はほぼ対等な友達関係だと思われます。
同じくらいの規模のパーティーが開ける(パトロンの)経済力があり、同じくらい教養があり、クルチザンヌ歴も同じくらい長い。だから二人の間には嫉妬とか、見栄の張り合いなどをする必要性が無いのです。
ヴィオレッタの方が美しい、ということはあるかもしれません。でも前前回の妄想で個人的に『フローラは元歌い手かもしれない』という勝手な仮説を立てていますので、その前提で考えますときっとフローラには容姿を補って余りあるユーモアとか演技力とか、音楽的素養があったのではないかと(勝手に)考えます。

では、原作を下敷きにしてフローラの人間性を考えてみたいと思います。
原作では、マルグリット以外に計4人の女性が登場します。一人ずつ確認してみましょう。
オペラではジェルモンの語りの中にしか登場しなかった、アルマン(アルフレード)の妹は除きます。

①プリュダンス・デュヴェルノワ
マルグリットの隣に住んでいる、40歳くらいの女性。元娼婦で、女優になろうとしたものの挫折。顔の広さを生かして女性用品店を開き、生活している。
プリュダンス(慎重)という名前とは裏腹に、おしゃべりで軽薄な性格。ただし玄人あがりだけあって社交界の人脈や娼婦の実情を知り尽くしており、アルマンやマルグリットに忠告や説教などをする。その上で、ふたりの仲を取り持つ役も果たす。ちゃっかりもので、しょっちゅうマルグリットからお金や小物をもらう。マルグリットと頻繁につるみ、食事や観劇などを共にする仲。しかし売れっ子だったマルグリットの収入を当てにして借金をしていた為、マルグリットが病気で動けなくなるとぱったり交流を断つ。


②ジュリー・デュプラ
マルグリットの友達のひとり。末期に動けなくなったヴィオレッタの看病から臨終、葬式まで全て見てきた人物。マルグリットに借金の取り立てがきて家中の物が差し押さえられたとき、役人と言い争ったり自分の僅かな貯金を使って差し押さえを止めようとした。
マルグリットの日記を託され、字を書けなくなってからは彼女が続きを記した。
アルマンはマルグリットが亡くなる直前に書いた手紙の指示でジュリーから日記を受けとり、自分たちが別れることになった経緯を知ることになる。
マルグリットが亡くなってからも彼女を慕っていた。


③ナニーヌ
マルグリットの元で働いている女中。マルグリットとアルマンが出会った当初から亡くなるまで、マルグリットの世話をし続けた。


④オランプ
アルマンとマルグリットが別れてから、パリでマルグリットと連れだって歩いていた若い娼婦。顔は美しいが意地悪。アルマンは一方的に別れを切りだして出ていったマルグリットへの当て付けのために彼女を手に入れ、彼女と共にマルグリットに精神的な嫌がらせの数々を行う。オランプも嬉々としてイジメに参加した。


ざっとこんな感じです。
この中で一番フローラに立場が近いのは、①のプリュダンスだと思います。でも、生活のために私物を売ることになったマルグリットに頼まれて、彼女に代わりパリで売買をする役はアンニーナになっています。
現役の娼婦であるところは、④オランプの要素をとったかもしれません。

言わずもがな、ヴィオレッタの召し使いアンニーナは③ナニーヌに②ジュリーの要素を足した役どころとなっています。
ジュリーは、こんなに重要な役どころなのにプリュダンスと違ってほとんど個人の描写がありません。
マルグリットにはたくさんの友達がいましたが、ジュリーはその中のひとりでしかありませんでした。
友達というからには、ジュリーもクルチザンヌ、あるいはそれに準じた職業のひとであろうと予想されます。男友達の奥さんという可能性も捨てきれませんが、小説後半のジュリーの独白を鑑みるに、その線は薄そうです。

抜粋↓
「こうした悲しい印象もわたくしのような生活を送っていては、長い間そのままに残るようなことはありますまい。マルグリット様が御自分の生活を思いのままにおできにならなかった以上に、わたくしなぞは自分の思いのままに暮らせない身の上でございますもの。」

どうして彼女がマルグリットを献身的に看病し、看取ることになったのか、その経緯や彼女の気持ちは描写されていません。

ここまで書き出して改めて、マルグリットの友達と呼べた人物は皆娼婦であったことがわかります。
オランプは友達と言える関係では無かったかもしれませんが、街を一緒に歩いていたのですから同業者としての付き合いくらいは少なくともあったでしょう。

そこで、フローラはどんな人物だったろうかと考えたときに
①プリュダンス
②ジュリーから、アンニーナに取られた要素を除く部分
④オランプ
の要素が材料になるのかな、と考えます。
フローラの人間性やシーンごとの感情は、また別に掘り下げて考えてみたいと思います。

次に、ヴィオレッタとフローラを取り巻く御貴族さまたちについて見てみます。
オペラの第一幕。冒頭のパーティーシーン。
このパーティーの主宰はヴィオレッタで、時刻は真夜中。
たくさんのお客さんがいますが、招待客の一部はフローラのパーティーからはしごしてやって来たために遅刻したようです。
フローラは自分の主催したパーティーをつつがなく終え、そのあとで自分が招待されたパーティーにやって来たわけです。
一幕おわりが夜明けですから、一晩中遊んでたことになります。財力もですが、体力がすごい。

とにかく、フローラと彼女の取り巻きがヴィオレッタのパーティーに到着したところからオペラスタートです。
リブレットのト書きには、こう書いてあります。
『ヴィオレッタは、ソファーに座って医者と幾人かの友人たちと話をしている。その間に、何人かの友人たちは遅れてやってくる人たちを出迎えているが、その〔遅刻組の〕中には、男爵と、侯爵と腕を組んだフローラがいる。』

パーティーに来ている人々は爵位ばかりでとかく覚えにくいですが、そうも言ってられません。
とりあえず登場人物が増えました。

まず、ヴィオレッタと話している医者。グランヴィル〔 Grenvil 〕という名前です。
原作では名前もなく、マルグリットが末期になってから現れますが、オペラではパーティーシーン全てに同席し、ヴィオレッタを看取るメンバーのひとりという、なかなか重要な役どころです。どうも、ただの主治医というには親しすぎるというか、彼もヴィオレッタの信者のひとりではなかろうかと思ったりします。
グランヴィルというお名前ですが、イギリスのグレンヴィル〔 Grenville 〕という姓を意識して付けられたのではないかと思われます。
グレンヴィル家は古い貴族の家系で、代々政治家を輩出しており、首相になった人物も何人かおりました。時代によってはグランヴィル〔 Granville 〕と呼ばれていたようです。
このお医者さんはもしかするとイギリスの古い名家の生まれで、家が没落し学を身に付けて医師になったのかもしれません。フランス、特にパリは18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパ医学の中心でした。留学のためにパリに来て医療を学び、そのままパリで診療所を開いたとしてもおかしくはありません。
元が貴族なら、パーティーに慣れているのも頷けます。

次に、フローラと共に遅刻してきた男爵と侯爵。
リブレットの設定によると、ドゥフォール〔 Douphol 〕男爵とドビニー〔 D'Obigny 〕侯爵というお名前です。
普通に調べても、おふたりのお名前はどこかの貴族とかで出ては来ませんでした。
そこで妄想を巡らせてみます。
このふたり、どちらも名前の頭文字はD。
そこで思い出すのは、マルグリット及びヴィオレッタのモデル、マリー・デュプレシです。彼女は本名をアルフォンシーヌ・プレシといいましたが、源氏名を母のマリーからとり、更に「貴族風に」Du を姓に付けてデュプレシとしました。
デュプレシ、という名前は実際の貴族にもおります。
有名なところですと、ルイ13世の宰相を務めた枢機卿及びリシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシー( Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu)です。

この貴族風の姓は元々「~の出身」という意味だそうです。「姓」という概念のなかった中世初頭頃のゲルマン人領主が、自分の領地名を名乗ったのがはじまりです。伯爵以上の貴族が王さまから与えられた土地を名乗ることが多く、古い家名ですと、家門の発祥地を示していたりします。領土の特権が廃止された19世紀以降に爵位を得た人は、基本的にはこの名字は持てません。新貴族が土地を自分で買ってもダメです。旧家の名前を名乗りたければ、旧貴族の娘と結婚して爵位を継ぐしかありません。
デュ・プレシという名前は「プレシ(出身)の」という意味なわけです。
ちなみにプレシ(Plessis) はパリから6kmほど離れたセーヌ県の町です。
15世紀にはル・プレシ=ピケ(Le Plessis-Piquet)、フランス革命期にはプレシ=リベルテ(Plessis-Liberté)と呼ばれたこの町は、現在はル・プレシ=ロバンソン (Le Plessis-Robinson)と呼ばれているそうです。1840年代に児童文学『スイスのロビンソン』に出てくるような樹の上に建てたレストランが流行し、同じような店があちこちにできた為に1909年改名されたとのことです。

国ごとに「~出身」の冠詞が異なるため、名前も変わります。
ドイツなら「von」(フォン)
イギリスなら「of」(オブ)
フランスだと「du」または「de」(デュ)
フランス語の場合、男性名詞にはdu、女性名詞にはde la がつきます。
騎士や領主など準貴族に後からなった人が元々の姓にこの冠詞をつけて名乗る場合もあります。この場
合、出身地を示す意味は消え、冠詞そのものが称号のような扱いになります。(ヨハン・ヴォルフガング・『フォン』・ゲーテとか)この称号は世襲することができます。

それを踏まえて、ドゥフォールさんとドビニーさんの名前について考えてみます。

まずは ドビニー〔 D'Obigny 〕さんから。
頭文字のDを先程の称号だと仮定して、「Obigny」という名前がどこから来たのでしょうか。
調べてみましたら、なんとなく似てる地名がふたつ出てきました。関係があるかは分かりませんが、とりあえず載せておきます。

①ボビニー/Bobigny
パリの市境から約3キロ離れた、フランス北部の街。
ボンディの森に館を築いた古代ローマの将軍、 バルビニウス(Balbinius)が地名の由来。
Wikipediaによると、1789年当時は人口200人余りの小さな村で、穀物生産が盛んだったそうです。1870年の普仏戦争で荒廃してしまいましたが、19世紀の終わりにパリから鉄道が通じると労働集約型企業の労働者の町へと変貌しました。

あんまり目立たない町なので、ここは関係ないかも?

②オービニー=シュル=ネール /Aubigny-sur-Nère
フランスのど真ん中くらい、ロワール地方シェール県のコミューン。6世紀には既に存在していた古い街です。
1423年、シャルル7世は百年戦争で同盟関係だったスコットランド軍の最高指導者、ジョン・ステュワート・オブ・ダーンリーの功績を称えてこの街を授けます。1429年にジョンが亡くなると、彼の長男アラン・ステュワートが土地と称号を受け継ぎました。しかしアランは1437年、シャルル7世の了承を得てスコットランドに帰国、オービニー領主の称号も辞退します。そこでお父さんと同じ名前の次男、ジョン・ステュワートが後を引き継いだわけです。
それ以降、オービニーはフランスにありながらイギリスのステュワート家が街の当主となります。
1512年、大火事で一度街は焼け落ちてしまいましたが、ジョン(息子)から二代後の当主(孫娘の旦那)ロベール・ステュワート・ドービニー (Robert Stuart d'Aubigny)が大補修して現在も見られる木組の街並みを作ったそうです。

他にも Aubigny という名前の街はあったのですけれども、新しかったり大した情報がなかったりだったので、一番有名なのはこの街だと 思われます。

ステュワート家といえばスコットランド女王メアリー1世を輩出した名門です。エリザベス1世を最期に断絶したイングランドのテューダー朝に対してステュワートの血筋はその後も続き、ウェールズを含むイングランドとスコットランドが合同して成立したグレートブリテン王国の王家になります。
ステュワート・オブ・ダーンリーは正確には分家ですが、由緒ある貴族であることは間違いありません。
…完全に妄想ですが、D'Obigny が D'Aubigny のパロディー的なお名前だとしたら、面白いなと思いました。もしそうならドビニーさんは、ステュワート家の血筋を引く貴族ということになります。

ちなみに D'Aubigny という名前を追いかけていましたら、このお名前をお持ちのオペラ歌手を見つけました。どうやらバイセクシャルの方だったようで興味深かったので、話が脱線しますが載せておきます。

ジュリー・ドービニー(Julie d'Aubigny)
(1670 / 1673~1707)
父親はガストン・ドービニーという人で、ブルボン王室の厩舎長アルマニャック伯ルイ・ド・ロレーヌの秘書でした。ということは血筋的にはやはり貴族になるのでしょう。
見習い裁判官の少年たちと共にダンスや読書、絵画にフェンシングなど貴族の教育を施されたジュリーは、幼い頃から男装を好んでいたそうです。フェンシングの腕前はかなりのもので、男相手にもひけをとらなかったといいます。ベルバラのオスカルみたいですな。
14歳で父親を亡くしたジュリーは父親の上司であるルイ・ド・ロレーヌ伯爵の愛人になったのですが、奔放なジュリーをもて余した伯爵はシウ・ド・モーピンという男とジュリーを結婚させます。それでジュリーは「ラ・モーピン」と名乗るようになりました。
結婚後、シウ・ド・モーピンはフランス南部の行政職に就いたため引っ越ししなくてはならなくなったのですが、ジュリーはパリに残る選択をします。
ひとりになったラ・モーピンは、セランヌというフェンシング教師と関係を持ちました。しかし、あるときセランヌが非公式の決闘で相手を殺害した罪で逮捕されそうになります。ラ・モーピンはセランヌと一緒に、パリを逃亡しました。
二人はフェンシングの観戦試合を行ったり、居酒屋や見本市で歌ったりして生計を立てつつ、旅を続けました。ラ・モーピンはあいかわらず男性の服を着ていましたが、別に女性であることを隠したりはしませんでした。
マルセイユに辿り着いたジュリーはオペラ団体に入団して、この頃フェンシングのインストラクターも辞めました。(たぶんセランヌとも別れた)
旧姓でオペラの舞台に立つようになったジュリーは、今度は女性と関係を持つようになります。しかし相手の女性の両親がそれを良く思わず、彼女を修道院に入れてしまいました。諦められないジュリーは恋人のベッドに修道女の遺体を置いて部屋に火をつけ、恋人を連れて逃亡します。
このまま、セランヌの時のような逃亡劇となるか?…と思いきや、3ヶ月後に女性は家族の元に帰ってきました。ジュリーは結局捕まりませんでしたが、誘拐と放火と法廷に現れなかった罪で火刑の判決を下されます。マルセイユに居られなくなったジュリーはパリに戻りました。パリに戻るまでにも様々な色恋沙汰があったようですが、ともかくパリに着いたジュリーはパリ・オペラ座への入団を望みます。最初は断られましたが、1690年に無事入団が叶い、当初はソプラノ、しばらく後からコントラルト歌手として「マドモアゼル・ド・モーピン」の名前で演奏を始めました。
相変わらず男性の服を日常的に身に付けていたモーピンはオペラ座でも男女さまざまな相手と恋をし、男勝りな喧嘩や決闘をしていましたが、パリ市内の決闘に対する法律が男性のみに適応されていたために罷免されました。
1697年から1698年までブリュッセルでオペラ公演をした後、1705年に引退するまでパリで演奏活動をしていたモーピンは、何度もヴェルサイユ宮殿で歌っていたそうです。彼女の演奏を聴いたダンジョー侯爵は1701年、自身の日記に『世界で最も美しい声』と書いていたといいます。
引退後の彼女の晩年は複数説あり、長らく離れていた夫と暮らしたとか、プロヴァンスで修道女になったとか言われているようですが、正確なところは分かっておりません。1707年に33歳で亡くなったとされていますが、お墓も無いとのことです。


脱線が長くなりました。
次にドゥフォール[Douphol]さんを見てみます。

ネットのサイトで、古フランス語の冠詞に
de + le = del, deu, dou, du
などのバリエーションがあると見ました。なので、Dou も貴族の称号なのでは?と勝手に妄想してみます。

Dou は称号だとして、phol はどこから来たのでしょう。phol という言葉を単体で調べたら、なんか遺伝子の名前とかタイのお砂糖を作る会社が出てきました(汗)
それでも諦めずに探したところ、なんと見つけたのは日本警察犬協会のホームページで、警察犬の名前一覧の中でした。

【Phol(ポール) Balderの方言 】

とのことです。

Balder(バルドル)は北欧神話の光の神。彼の死がきっかけとなってラグナロクは起こり、神々の時代が黄昏を迎えることになるのです。
アルフレードに手袋を投げるドゥフォール氏の、名前の元がバルドルだとしたらすごい皮肉ですな。

「Phol」という名前を追いかけてみましたら、9~10世紀に書かれた【メルゼブルクの呪文】という書物の中に出てきました。古高ドイツ語で書かれたその書物には、文字を持つ以前のゲルマン民族に伝わっていた魔法や呪文が書かれています。
ドイツ・ヘッセン州にあるフルダの修道院で典礼書の空白ページに書き留められた呪文は、メルゼブルクの図書館に渡り、その後グリム兄弟によって書籍化されました。キリスト教の影響を受けていない資料としては、非常に珍しいものだそうです。
その中の、【馬の呪文】という一節に「Phol」は出てきます。ご興味ありましたら「メルゼブルクの呪文」と検索しますとWikipediaで見られます。

【ポール】という名前はヨーロッパではよくあるお名前ですけれども、Phol という綴りのポールさんはあんまりいらっしゃらないようです。
もしかしたら、ドゥフォールさん本人ないしご先祖は北欧の流れを汲むドイツの人なのかもしれません。

似た名前で「Pohl」という綴りのポールさんは、キリスト教由来の「Paul」 よりは少ないものの、ドイツ系の方でいらっしゃいました。
Pohl という地名も、ドイツにあります。ラインラント=プファルツ州ライン=ラーン郡にあるナッサウ連合自治体のひとつ、Pohl 市です。

偶然かもしれませんが、ドイツの産業革命はこのポール市があるラインラントから始まったといえます。
1815年、ウィーン議定書(ナポレオン戦争の戦勝国の領土変更をしましたよという議定書)によって、プロイセン王国はラインラントを獲得します。ラインラントはライン川を利用した物流の要の土地でもあり、豊富な地下資源を持つ、すごく良い土地でした。ただし首都のベルリンからは結構離れていたので、ラインラントのまわりの諸国と関税同盟を結ばないといけなくなりました。でないと自分の国の領地から物資を運びたいのに、いちいち税金がかかってしまいますからね。
なんやかんや揉めたりしましたがなんとか1834年に成立したドイツ関税同盟によって、ドイツ諸邦国は大きな共通市場を手に入れました。これが足掛かりになって、1840年代からドイツは産業革命に入っていくわけです。

どちらにしてもたぶん貴族のお名前ではなさそうなので、マリー・デュプレシと同じように自分で本名を加工して貴族風に変えたと仮定してみましょう。
根っからの貴族ではない、というところから、色々想像ができて面白いですな。

さて、こうしてヴィオレッタ邸のパーティーにやってきたフローラ、ドビニー侯爵、ドゥフォール男爵。
フローラと腕を組んで登場と書いてありますので、フローラのパトロンはドビニー侯爵なんだなと分かります。
現代に生きていますとあんまり貴族の位とか重要でないので、どっちが偉いとかどーでもいいとか思ってしまいそうですが、この頃ですとそうもいかないでしょう。

Wikipediaによりますと、フランスの爵位は13世紀に国王フィリップ3世が制定したのが始まりで、18世紀に

大公(王族)
公爵
侯爵
伯爵
子爵
男爵
騎士
エキュイエ(平貴族)

までの階級ができたそうです。
フランス革命で一度廃絶されたあと1814年の王政復古で復活しましたが、貴族の特権は伴わない『名誉称号』となります。更に第三共和政以降は、私的に使う以外の効果は無くなってしまいました。
物語の舞台は1850~51年ですので、まだ第三共和政は樹立してません。(第三共和政は1870年樹立~1940年のナチス・ドイツによるフランス侵攻まで)

ドビニーさんは王様を除く上から2番目の侯爵、ドゥフォールさんは5番目の男爵。
結構開きがありますね。
前回の記事で時代背景を調べていて、当時は「地代収入が一万フランあれば男爵の爵位がもらえる」ということが分かっています。つまり、男爵さんはそんなに先祖代々からの貴族というわけではなかった可能性があるということです。

前回記事のおさらい、産業革命時のお金持ちの方々↓
①産業革命にうまく乗って商工業で成功した人
②貴族の称号をお金で買った新興貴族
③復古王政時代に財産を取り戻して、それを元手に産業資本家になった旧貴族

このうち、ドビニーさんは③でドゥフォールさんは①か②なのかもしれません。

ひとまず先のシーンへ進みます。
遅刻してきたフローラ、ドビニー、ドゥフォールを主催者として迎えるヴィオレッタ。そこにガストーネ・ディ・レトリエール子爵が、アルフレード・ジェルモンを連れて入ってきます。
ガストーネはヴィオレッタたちと既に知り合いで、自分の友達であるアルフレードをヴィオレッタに紹介します。

ガストーネは、小説でもガストン・Rという名前で、アルフレードの友人として出てきました。オペラと同じくマルグリットとアルマンを引き合わせる役になります。ただし小説では別に貴族であるという記述はなく、あくまでアルマンとマルグリットの共通の友達という立ち位置です。マルグリットを口説くも断られ、マルグリットと一緒にいたプリュダンスと良さげな雰囲気になります。(プリュダンスはあまり本気ではなかったですが)

『ヴィオレッタとアルフレードを引き合わせる』という目的しか与えられていなかったガストンという男は、オペラではなかなかの存在意義を放っています。
2幕ではフローラのパーティーの興行を取り仕切るなど、人脈と財力を巧みに使える男であることが伺えます。

ひとまずここでは彼の身分『子爵』について少し。
子爵は上から4番目、ドゥフォールさんの男爵よりひとつ上の爵位です。
中世以降のヨーロッパで使われるようになった爵位で、元々は中世ラテン語の vicecomes(後期ローマ帝国の廷臣から来る伯爵)から来ている古フランス語のvis(副)conte(伯)が由来だそうです。
伯爵の補佐役に与えられる一代限りの爵位だったものが後に世襲されるようになったものらしく、日本で言うと地頭さんに近いそうな。
また、儀礼称号として侯爵や伯爵の嗣子(跡取り)や、子爵家当主の法定推定相続人に使われることもあるそうです。法定推定相続人の場合、必ずしも子息とは限りません。

なので子爵さんについては更に色んな想像ができますね。


とりあえず、パーティーで出てくる主要な人物はこれで出揃ったことになります。


身分順にまとめると

ドビニー侯爵
ガストーネ子爵
ドゥフォール男爵
グランヴィル医師

ちなみに原作で出てくる貴族たちは

老公爵
70歳ほどの老公爵。マルグリットがバニェールに湯治に来たときに知り合う。マルグリットに瓜二つの娘を同じ肺結核で亡くしていて、その面影をマルグリットに見ている。マルグリットの放蕩ぶりを心苦しく思いながらも彼女を庇護し、年間七万フランほど貢いでいる。

M・ド・N伯爵
若いお坊ちゃん伯爵。相当な金持ちで、マルグリットの金銭的なパトロン。ただしマルグリットには物凄く嫌われている。

G男爵
マルグリットのために身代を棒に振ったらしい、と噂になっていた。

G伯爵
マルグリットをクルチザンヌに引き立てた人物。古い馴染みで、一緒に芝居を観に行ったりする。年間一万フランほどマルグリットに貢いでいる。マルグリットの死の間際、借金に追われてロンドンに出立。

L若子爵
マルグリットに貢ぎ過ぎて一文無し寸前になり、都落ちした。肖像画でのみ登場。


の4人ですが、オペラで台詞が使われているのはM・ド・N伯爵のみです。まだ知り合っていない頃にマルグリットの容態をアルマンが毎日訪ねに来ていた、とマルグリットが知ったときの伯爵とのやり取りです。

「あなただったら、ねえ伯爵、そうはなさらないわね。」
「僕は君と知り合いになってまだやっと二月なんだからね。」
「でも、あたし、こちら様とおちかづきになってまだ5分しかたたないことよ。あなたって方はいつもとんちんかんな返事ばかりなさるのね。」


このやりとりは1幕のパーティーシーン、男爵とヴィオレッタの会話に引き継がれています。
もしも男爵がドイツ人だったら。
国民性を紹介する本で以前読んだのですが、ドイツの方は一般的に「信頼度=付き合った期間の長さ」という考え方をする傾向があるそうです。そして形式も大切にするので、きちんと紹介されて友人になるということも重要です。なので本人が親しくなりたいと思ってはいても、実際に親しくなるには時間がかかります。
実際に親しくならなければ、気軽に家を訪ねたりも出来ないし二人きりで会うのも憚られる、と考えていたかもしれません。
そう思うと、男爵は真面目過ぎてヴィオレッタに手が出せなかったと見ることも出来ます。


各貴族たちの懐事情や感情、お家の事情なんかを考えていくと、より一層楽しめますね。

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2019/11/01 (Fri)
はい、『椿姫』の記事2回目です。

前回は名前の考察だけで終わってしまいました。
以降は時代背景や登場人物の人間関係まで突っ込んでみたいなと思います。


※あくまで素人の調べた結果と妄想です!本気にしないでください。


今回は、この物語の時代背景を見てみます。『高級娼婦』という職業が、時代特有のものだからです。

そもそも高級娼婦とはなんぞや?
一応音大とかでサラッとやったけど、「こんな職業があった」くらいの知識しか持ち合わせていない私です(汗)せっかくの機会なんで、ちと改めてお勉強してみました。

元々の高級娼婦の起源は、ずいぶん古いものです。古代ギリシャの時代に、生まれたとされています。Wikipediaによると、紀元前7世紀くらいだそうな。
背景には、徹底した男尊女卑の社会があります。民主主義がはじまったとはいえ、女性や奴隷には参政権はない時代です。
男性たちはまず、自分のお家を存続させるために正統な血筋の女性と結婚しようとします。ギリシャでは家を存続させることは市民の義務とされていたためです。このとき、妻となる女性の美醜とか教養とかは関係ありません。「子供を産む」のが妻のお仕事なので、血統だけがしっかりしてれば良いのです。むしろ変に知識をつけてしまうと、一般的な妻としては嫌がられたでしょう。(あれ?現代も女性の見られ方あんまり変わってないような気がする……)

良い家の女性は箱入り娘として育てられて、14~15歳で結婚させられていたようです。相手の男性は30歳前後で、父親同士の交渉によって家の釣り合いや持参金額などを決めます。箱入りで育てられた娘は、結婚後も家から出られません。ガッデム。
妻だって退屈でしょうが、一方で旦那の方も退屈だったようです。せっかく嫁さんをもらっても、親が勝手に決めた、それも人形みたいな幼妻では面白くありません。それで、家庭の外に愛人を作る男性が多かったのだそうです。
同性に走る人も一定数いた辺りはさすが神話がアレなギリシャといったところですが、大体の男性はお相手に女性を求めました。そこで商売としての「娼婦」の人気が出てきたというわけです。
娼婦にもランクがあって、ただ性欲の捌け口にされるお安い娼婦と、金持ちが一緒に連れて歩いても遜色のないお高い娼婦がいました。
このお高い娼婦はだれでもなれるもんではなくて、美しいのは勿論のこと踊りや音楽も出来て、礼儀正しくて、賢く教養豊かでなくてはいけません。要は奥さんに無いものをすべて持っている女性というわけです。
金持ちの男性はすばらしい高級娼婦を連れて歩くことで見栄を競っていたそうで、そこから高級娼婦は「ヘタイラ(ギリシャ語で「連れ」の意)」と呼ばれるようになったとのことです。

そこから、高級娼婦の歴史はしばらく途切れます。
この間、キリスト教の影響で性的なもの全般がタブー扱いになったため、娼婦は黙認はされていたものの高級娼婦のように華々しく活躍は出来ない時代が長く続きました。

さて、時は流れて15世紀ローマ。ルネサンス時代の到来により、古代ギリシャの文化がヨーロッパで復興します。
ルネサンス期の華やかな宮廷が栄えているかと思いきや、ローマ法皇庁の宮廷に居るのは文学マニアの男性ばかり。むさい。
聖職者には配偶者が居ないので、パーティーなんかが開かれても奥さんや娘さんを連れてくることは出来ないわけです。
そうかといって、上流階級の女性を独身男性だらけの巣窟に連れてくるのは危険極まりない。男は狼ナノヨ。
そこで再び、古代ギリシャのヘタイラの登場です。ローマでは「宮廷に仕える女性」という意味の「コルティジャーナ(Cortigiana)」と呼ばれました。
ヘタイラと同じで血筋は関係なく、庶民の中から美しさで選ばれて、上流階級の男性と釣り合うように教育された女性たちです。
彼女たちはむさい宮廷に花を添えるべく、公然と聖職者たちと関係を持ちました。聖職者の大半は貴族階級出身の男性だった為、彼女たちは裕福な暮らしが出来たというわけです。
言わずもがな、ヴィオレッタたち「クルチザンヌ」は彼女ら「コルティジャーナ」が語源となっています。

時代は同じくらいで、所変わってフランス。
フランスにはコルティジャーナとはまた別に、「公式寵姫」という女性たちがおりました。「公式寵姫」は、国王の愛妾(あいしょう)の証明である「メトレス・アン・ティトゥル」の称号を与えられた女性を指すそうです。初めてこの称号を貰ったのはシャルル7世(在位1422~1461年 ジャンヌ=ダルクとの絡みで有名な王さま)の愛妾アニェス・ソレルでした。
目的はやっぱりこれまでと同じで、政略結婚しか出来ない王さまを慰めるために生まれたものです。ただし仕える相手は王さまですから、これまでの娼婦たちとは一味違います。政治的な力を持つ寵姫も居ました。

ディアヌ・ド・ポワティエ(アンリ2世(在位1547~1559年) の愛妾)

ポンパドゥール侯爵夫人&デュ・バリー伯爵夫人(ルイ15世(在位:1715~1774年)の愛妾)

など

王妃さま並の暮らしが出来て、場合によっては国を動かすことも出来る。言うこと無しな気もいたしますが良いことばかりではなく、囲ってくれている国王が亡くなればすぐさま追い出されてしまいます。その上、なにか政治で失敗があったときに責任を負わされることもありました。
ポンパドゥール夫人は『ペチコート同盟』のこともあって七年戦争に負けたとき誹謗中傷を浴びせられたし、デュ・バリー夫人はフランス革命の後でギロチンにかけられ処刑されます。
彼女だけでなく国王やマリー・アントワネット王妃も処刑したアンリ・サンソン氏は、デュ・バリー夫人とも旧知の仲だったそうです。

そんなこんなで、フランス革命による王政の崩壊によって、公式寵姫の制度も消えていきました。フランスの経済状況も、長らくの財政難でボロボロでしたのでね。

ちょっと脱線しますが、ついでに具体的にどんなことが起きたかを調べてみました。
それまで金銀銅貨を使っていたヨーロッパに、『紙幣』という概念が生まれたのは17世紀のイギリスが最初でした。元々は銀行がお客さんから金貨や銀貨を預かって、その預かり票として発行したものでした。金貨とかじゃらじゃらたくさん持ってるのは危ないし、重たいですからね。
そんなとき、財政難で困ったイギリス政府が『財源調達法』なるものを作ります。
どんな法律かというと、120万ポンドを8%の利子で政府に融資してくれたら、紙幣の発行権を持った株式会社銀行の設立を認めてあげますよー。というもの。
日本では、その権利を持った銀行は日本銀行だけですね。
その法律で投資をした投資家たちが発行した紙幣で、国は彼らに更に融資をします。すると株価がとても上がったように見えるので、他の人たちも投資しちゃったりする。そんなかんじで株式ブームになったイギリスでしたが、結局元々の国の財政がうまくいってないんで、いざ投資家が「金貨に換金したい」と言いだしたら対応できなくなりました。
そこでイギリス政府は「貨幣改鋳」をおこないます。つまり金貨や銀貨に違う金属を混ぜたり、小さくしたりして金銀の密度を減らしたわけです。
すると皆さん「えっ、損じゃん!」と持ってた株を売って、質の良い金貨とか金塊とかを買って、タンス貯金します。そしたらもう、お金の流れは止まってしまいますのでバブル崩壊、ということです。あーあ。

それを見ていたのが、スコットランド人の経済学者ジョン・ローというひとでした。
この男は金細工師・銀行家の家に生まれた五男坊でした。12歳で父親を亡くし14歳で銀行業を学んだものの、ロンドンに上京すると本業そっちのけで賭博に手を出し「イカサマ師」と評判になりつつ財を築きました。23歳の時、色恋沙汰の末の決闘で相手を殺してしまった罪で絞首刑の判決を受けますが、友人の手引きで脱獄して指名手配されます。逃げた先がオランダのアムステルダムで、そこで銀行業をはじめたというわけです。

彼は「貨幣に大事なのは金銀の価値ではなくて信用だ!紙幣をたくさん刷ることができれば景気は良くなる!」と考え、そのビジネスプランをスコットランドやイタリアに売り込みました。が、断られます。
まあイカサマ師で脱獄犯の男が提唱する怪しげな話に、そうそう国が乗るわけない…………と思ったらひとつだけ、食い付いた国があったんです。
それがルイ15世治世のフランス。
曾祖父である前王ルイ14世が度重なる戦争やら文化事業で大量にお金を使ってしまったために、財政難で藁にもすがりたい思いだったのでしょう。

更にめっちゃ脱線しますけども、ルイ14世は現代日本における「The☆貴族」のイメージを築いたひとである!…と言ったら言い過ぎでしょうか。でも所謂「貴族」のイメージといったら、優雅な芸術鑑賞に独特なお召し物にカツラと香水でしょ。(単純)
まず、彼はバレエを広めました。バレエにどハマリしたルイ14世自身は自らも踊り手で、王立舞踊アカデミーを作ったり、バレエシューズの似合う小さな足を推奨したり、脚線美のためにヒールの高い靴を流行らせたりして、宮廷のトレンドにまでその地位を押し上げました。
二つめ、カツラをつける習慣。まあ元々バロック時代のヨーロッパ貴族たちには既にカツラを着ける習慣はあったようですけれども、20歳の若さで病気になり髪の毛をごっそり失ってしまったルイ14世もカツラを着けておりました。どうやら、160センチしかない身長を嵩増しして王の威厳を醸し出すために、ハイヒール共々愛用していたようです。
三つめ、これは王さま自身というよりまわりの家臣たちですけど、香水を使う習慣。よく、パリの街の下水処理がなってなくてエライ悪臭が漂ってたために香水が使われるようになったとか聞きましたけれども、その粗悪な治水事業のせいか、どうやら19世紀頃まで「風呂に入ると梅毒になりやすい」と信じられていたらしくコレも悪臭の原因であったと思われます。国王でさえ、一生のうち3回しか風呂に入らなかったとか。
そんな中で、ルイ14世の話です。彼は侍医の「歯は全ての病気の温床」説を鵜呑みにして、全部の歯を引っこ抜いてしまいました。まあ確かに磨かない歯は病気の元になりますからあながち間違ってはいませんけど、さすがに全部引っこ抜くのはやりすぎです。その上、侍医は下の歯と一緒に下顎の骨まで砕いて取り除いてしまったそうです。
しかも麻酔の無い時代なので勿論麻酔ナシ、縫合などの技術や消毒液もないので焼けた鉄棒で傷跡を焼いて塞ぐという、拷問かのごとき所業…。
これによって以後の人生の数十年間、ルイ14世は噛まずに丸飲みできる柔らかいものしか食べられなくなりました。入れ歯とかも無い時代なので仕方ありませんね。でも現代の入院食みたいに消化吸収栄養バランスに優れたものはありません。柔らかく煮込んだ鳥とかパンとか、せいぜいそんなもんです。消化不良に悩まされるようになったルイ14世に、医者は下剤を飲ませます。食事を丸飲みしては下剤で下し、を毎日毎日繰り返したわけです。そうしたらもう、悪循環です。王は慢性的に胃腸炎に悩まされるようになり、一日に何度もトイレに駆け込みます。たぶん、のちに彼を悩ませた「いぼ痔」もそのせいです。痔の手術も無麻酔だったとか…。とにかく彼はトイレの中で公務をすることもあったし、トイレに間に合わないこともしょっちゅうだったといいます。そんなわけで、王さまの衣服にも悪臭が染み付いてしまいました。先程のお風呂のお話を踏まえてみますと、ゾッと致しますね。
ずっと側にいる臣下は、それでも顔色ひとつ変えずにお仕事しないといけません。そこで、多いに役立ったのが香水というわけです。

えーと。お貴族さまって大変だったんですね。
とりあえずお話を戻します。

1715年、即位したてのルイ15世はまだ5歳。ルイ14世の弟の息子…つまり甥のオルレアン公フィリップ2世が、摂政になります。このフィリップさんと、ジョン・ローは、実はお知り合いでした。1705年にスコットランドに戻ったあと更にフランスに渡ったローは、お友達になったフィリップに自分の経済論を売り込み、お国の財政難に困りきっていたフィリップは「よし、じゃあやってみてくれ!」とGoサインを出したというわけです。

摂政さまからのGoを貰ったローは、まず王立銀行を作って「金に換えられるのはうちで作った紙幣だけです」ということにしました。そして政府は「納税は全て紙幣によって行うこと」という決まりを作ります。
そうすると税金を払うために紙幣に換金しないといけませんから、人々はタンスに貯めてた金貨や銀貨をこぞって交換します。お金が市場に出回ると、止まってた経済が動き出します。

次に、国の借金を減らすために株を始めました。
まず、王立銀行で会社に投資をします。投資先に選ばれたのは北アメリカの開発会社「ミシシッピ社」という、ミシシッピ川河口にニューオーリンズを建設していた会社でした。別段業績の良い会社というわけではなく、むしろ開発が上手くいっていなくて業績は悪い方でしたが、ネットの無い時代に海の向こうにある会社の実績など一般市民はなかなか知ることは出来ません。まあ市民に知られさえしなければ、投資先はどこでも良かったんですな。

その投資で得た株券を、国債の保有者に『国債と交換で』渡します。当時、フランス国債は既に信頼を失っておりました。配当金を高めに設定しましたので、国債をもっている人は喜んで交換に応じるという算段です。
それだけに止まらず、ローはタンス貯金から流れたお金を株の販売によって回収し、それをまた投資して更に儲けようと考えました。一般市民にもたくさん売るために、ローは色々と工夫をしました。

〇「めっちゃ儲かる!」と大アピール
〇既に株主である人には割安で売る
〇分割払いOK
〇配当金を高く設定する など

おかげで、ミシシッピ社株はとてもよく売れました。
ローのアピールのおかげで株の期待値も膨らみ、株価もどんどん上昇していきます。(半年で約20倍の値段!)売れに売れたローの株はフランスだけでなくヨーロッパ中で人気になりました。
これによってフランスの大赤字は改善の兆しをみせます。1719年、ローは12億ルーブルを王室に貸した見返りとして、徴税権を請け負うことになりました。
王立銀行が税収も投資も全部やりますよ、ということです。更に1720年、ローはフランス財務総監に任命されました。金だけでなく、権力も手に入れたローはウハウハです。
ところがその年の5月、取り付け騒ぎが起こりました。具体的には、オイルショックや震災前後の爆買い溜めなどと同じ現象です。
ある日、ある株主が
「ミシシッピ社株、最近人気すぎて手に入りにくい……なんかもう別の株に乗り換えちゃおっかなー」
と売りに出しました。それを見ていた別の株主が
「あー、確かに手に入りにくいよねー。じゃあ私も売っちゃおう。」
と真似して売りに出します。
更にそれを見ていた、株にあんまり詳しくない別の株主たちが
「あの人たち、今大人気のミシシッピ社株売っちゃったけど、もしかしてこの株危ないのかな?もうすぐ暴落するとか、そういうやつ?」
と疑心暗鬼になって、こぞって売りに出しました。そうすると、もう株価は上がったときの逆現象で下がる一方になります。
元々この景気の良さは、ミシシッピ社には実力は無いのに株価だけが上がり続けていたバブル経済が招いたものです。
ローの提唱する「貨幣に最も大事なのは信用」という考えは図らずも逆の結果で証明されてしまいました。投資家たちは株価が下がり続ける株をいつまでも持っていたくないので次々ミシシッピ社株を売って、より安全な国外の株を買うようになりました。
支払い能力を超えた現金を引き出されて資金が底をついたミシシッピ社は、その年の夏に倒産してしまいます。ローは5月の終わりには財務総監を辞任し、 12月にイギリスへ亡命して、最期はヴェネツィアで亡くなりました。

このあとイギリスも似たような株暴落を起こしてバブル崩壊を味わいますが、信用を失ったのは株式だけで銀行は無事でした。産業革命でイギリスが大きく発展し、『資本主義国家』になることができたのも銀行に資本があったからです。
フランスは銀行も株式も同時に大ダメージをくらってしまって、しかもそれが国のお財布だったのでエライことになってしまったのですね。フランス革命の一因にもなったし、のちの産業革命にも乗り遅れてしまったというわけです。

そんなこんなでフランス革命でブルボン王朝が滅び、フランス第一共和政と第一帝政を経て、復古王政になった時代(1815~1830年)。政治はまたしても貴族・聖職者階級中心なものになっていました。市民の中でもブルジョワにあたる人々は不満を募らせ、1830年7月に『7月革命』を起こします。ちょうど「レ・ミゼラブル」や「ラ・ボエーム」の時代のお話ですね。
シャルル10世に代わり国王に即位したのはオルレアン家のルイ・フィリップでした。彼は自身も資本家で、資本家や銀行家の支持を得ていました。
新王は自由主義と立憲王制を採用したものの、その実体は典型的なブルジョワ支配制でした。学会の会員でなくては選挙権も貰えず、国民の0.6%しか該当しませんでした。
ことあと起こる革命の主体勢力であるプロレタリアート(賃金労働者階級)は何の権利も持てず不満を募らせていき、それが18年後の二月革命に繋がっていくのですが、そのお話はとりあえず置いときます。

賃金労働者階級の不満はあれど、国としてみるとこの時代のフランスは高度成長期でした。
先のミシシッピ計画破綻の痛手のせいでイギリスほど爆発的ではなかったものの、産業革命のおかげで経済が発展しフランスは再びバブル時代に突入しました。

この時代の富裕層を大きく分けると

①産業革命にうまく乗って商工業で成功した人
②貴族の称号をお金で買った新興貴族
③復古王政時代に財産を取り戻して、それを元手に産業資本家になった旧貴族

に分類できるそうな。
新王のルイ・フィリップは③にあたります。
①は、第一帝政期に地代収入が一万フランあれば男爵の爵位が貰えたため、大抵のお金持ちは貴族の称号を得られたそうです。

ということで③はともかく、①と②は元々平民です。今まで見上げてきた王侯貴族の生活を、実現できる財力を手に入れたら、まあするよね!かくしてブルジョワジーたちは庶民の憧れだった「宮廷の暮らし」の真似事をし始めます。豪華な住居に服、食べ物、使用人と一通り揃いましたら、次に求めるのは遊びです。フランス革命前の時代に王さまが連れていた寵姫、あれを自分たちも欲しいなぁと考えました。
それで生まれたのが、ルネサンス時代のコルティジャーナを再現したクルチザンヌたちです。
ではその娘たちをどこから調達してくるか?となりますと、もちろん貧困層からです。いつの時代もおんなじです。

富裕層は増えたとは言っても、相変わらず国民の一握りでした。富裕層の人数層が厚くなって個々の資産が増えた分、ブルジョワジーとプロレタリアートの貧富の差は大きくなるのは当然ですな。
女性は男性より更に人権はなく、賃金なしで稼業を手伝わされたり、客、同僚、親兄弟にまで性の慰みものにされることも珍しくなかったといいます。(まあこれも、どの時代も似たようなものですが…)

男性ですら身分によって制約のあるこの時代、貧困家庭に生まれた女性がこの生活から抜け出すためには富裕層のパトロンを見つけるほかありません。偶然出会ってうまく結婚できたら最高ですけども、星の数ほどいる貧困層女子に「待っていればいつか王子さまが」なんておとぎ話的展開はまずありません。そこで彼女たちは大都会パリへチャンスを探しに来るわけです。
ダンサーや女優、お針子などで日銭を稼ぎつつ、夜は娼婦として活動し、パトロンを探すのです。いわゆるグリゼット(女性労働者)です。語源はお針子さんなどが着ていた安価なドレスの、灰色の生地からきているそうです。
まあ今さらネタバレも何もないですが、ボエームのミミもメリー・ウィドウのマキシムの踊り子たちもみんな娼婦ということです。
某ダンスの先生にお聞きしたんですが、フレンチカンカンの踊り子たちが着ているあの特徴的なスカート、よく踊りながら捲ってますけども、本物のキャバレーでは下着を何も付けないのが普通だったそうです。ショー自体が、今夜のお相手を男性客が品定めするためのイベントだったんですね。
お金持ちの男性はお気に入りの娼婦が見つかると、有り余る財力を使って自分と同伴させても遜色ない淑女に仕立てます。豪奢なドレスに装飾品に住居、場合によっては教育を施します。
「〇〇伯爵が連れている娼婦メチャメチャ美人で頭いい」となったら、連れている男性にも箔が付くというものです。そうなったらしめたもので、彼女は高級娼婦(クルチザンヌ)として名を馳せることになります。つく客の層も変わって、場末のキャバレーとは比べ物にならない程金払いのよい相手になります。
クルチザンヌとなった娼婦は相手を探して副業をしなくてよくなったので、自費でパーティーを開いて、お客になりそうな人や売り出し中のグリゼットを招いたりするというわけです。
このような、貴族とクルチザンヌたちのための社交場は「ドゥミ・モンド」と呼ばれますが、この名前を付けたのは小説『椿姫』の著者デュマ・フィスです。『椿姫』が流行ったから、この呼び名も流行したんですね。
半分(ドゥミ)の社交界(モンド)という意味で、公の社交界では夫婦そろって出席するのが当たり前ですけれども、この社交界では男性側しか出席しないところから名付けられたそうです。

『クルチザンヌ』という名称は、1830~1848年の七月王政までと、それ以前の公式寵姫もまとめて呼ぶ傾向にあるようです。この時代のクルチザンヌたちは、デュミ・モンドで活躍した女性たちということで『デュミモンディーヌ』とも呼ばれます。
一般大衆からしますと自分達と同じ身分から富裕層へのしあがったわけですから、そりゃもう憧れの的でした。今でいうアイドルやモデルのような存在で、ブロマイドなどもたくさん売られていたようです。
1852~1870年の第二帝政時代にデュミ・モンドは最盛期を迎え、皇帝ナポレオン3世が失脚してパリ・コミューン、そして第三共和制の時代になると、バブルの終焉と共に消えていきました。

19世紀末、クルチザンヌの意思を継いだグリゼットたちはココットと呼ばれるようになります。ココットという名前は、彼女たちが付けていそうな質の悪い香水から付けられたそうです。
彼女たちは現代の『働く女性』の雛形とも言えるかもしれません。
1880年代、女性の賃金労働者が増えると共に、婦人服に紳士服の影響がみられるようになりました。クルチザンヌのときと同じくアイドル、ファッションリーダーだった彼女たちは、女性用スーツを着て闊歩するようになります。
そして時代が下るにつれ、身体を売らなくても労働賃金だけで食べていける、男性と同じように社会で暮らしていけるように、ようやくなっていったのです。(それでも、現代ですら女性蔑視が問題になってますが…。)

現在、女性も働くのが当たり前な時代になっておりますが、それまでにはこんな歴史があったんですなあ。
『椿姫』もキャリアウーマンの元祖のひとりと考えますと、演じる際に身が入りますね。

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2019/08/23 (Fri)
こんにちは。

最近このブログには聖書の研究ばっかり書いておりますので、たまには他の話題も書こうかなと思います。
実は来年の3月に、オペラ『椿姫』でフローラの役をやらせて頂けることになりました。
『椿姫』はオペラでも一番と言って良いほど有名な作品にもかかわらず、私は合唱はやったことがあるだけで実は深くまで調べたことがありませんでした。なので、せっかくですのでいつもの趣味研究のノリで色々調べてみようと思った次第です。

フローラは主人公ヴィオレッタとおなじ《高級娼婦》です。つまり、劇中でヴィオレッタと最も近い目線で物事を見ていることになります。
もうひとりのヴィオレッタ、あるいはヴィオレッタが選ばなかった道の先にいるヴィオレッタという見方も出来るのでは?どこかでそのような記事を書いていた方がいらっしゃったように思うのですが、この言葉がとても思い出されました。
そうなりますと、今まで記号のように覚えていた登場人物たちの人となりや状況をよく知らず「なんかパーティーによく来てる人たち」として認識している訳にはいかなくなりました。
合唱団演じる「パーティーの客」ならまだしも、パーティーの主催側であるフローラが招く人たちの人間関係や経済状況を知らない筈はないからです。

彼女たちはどんな思いで生き、死んでいくことを義務づけられて描かれたのでしょうか。
それを自分でも整理したくて、この記事を書くことにいたしました。

前置きが長くなりました。早速はじめたいと思います。

まずオペラと原作両方の観点から調べるにあたって、原作の作者について軽く触れます。
小説『椿姫』はアレクサンドル・デュマ・フィス(1824~95)が24歳の若さで書いたデビュー作です。
フィス(息子)と付けられているとおり、有名なお父さんがおります。アレクサンドル・デュマ・ペール(父)は『岩窟王』『三銃士』などを記した大作家です。お父さん自身もなかなかの苦労人でした。彼のお父さんのトマ=アレクサンドル・デュマ、つまりデュマ・フィスからするとお祖父ちゃんは、黒人と白人の混血だったので色々差別を受けたようです。お父さんは将軍だったのですが、ナポリで2年ほど捕虜になった際食事にヒ素を入れられた為に心身衰弱し、亡くなりました。遺族には終身年金が下りなかったので幼いデュマは貧しい生活を余儀なくされ、高等教育も受けられなかったそうです。劇作家として成功したデュマ・ペールの作品には、父親のデュマ将軍をモデルにしたものも多いといいます。自らが受けた人種差別に反発して、社会改革や革命にも参加しました。
デュマ・フィスは、そんな父とベルギー生まれの縫製工、カトリーヌとの間に私生児として生まれました。
のちに認知され高等教育を受けることはできましたが、暗い少年時代を送り、若い頃は父親の金で遊び歩いていたそうです。そんなときに出会ったのが、アルフォンジーヌ・プレシ…俗にマリー・デュプレシと呼ばれた娼婦でした。マリーはノルマンディーの行商人の娘として生まれ恵まれない少女時代を過ごしましたが、1845年頃のパリで裏社交界の花形にまで上り詰めた女性です。気品と教養と知性を兼ね備え、フランツ・リストなどを始めとする知識人や上流階級の男性と関係を持っていたといいます。出会った当時20歳だったデュマ・フィスはマリーと恋に落ち、彼女の情人のひとりになりました。しかしマリーは肺結核に侵され、23歳の若さでこの世を去ってしまいます。
彼女をモデルに書いたのが、小説『椿姫』というわけです。
詳しくは音楽之友社のリブレットに色々書いてあります。(爆)

今回主に調べたいのはこの小説を戯曲にして、更にオペラにした、ヴェルディ作曲の『椿姫』です。
ですので、原作小説はあくまで資料として使うに留めます。
原作者に関しては、『小説の主人公マルグリット・ゴーチェとアルマン・デュヴァールのモデルが、原作者本人と彼の亡くなった恋人マリー・デュプレシである』ということが分かれば十分です。

さて、原作とオペラリブレットを目の前に置きまして、とりあえずリブレットを開いてみましょう。
あらすじのあとに、便利な登場人物の一覧があります。

ヴィオレッタ・ヴァレリー、という名前が一番上に書いてあります。このひとがオペラのヒロイン。小説のマルグリットにあたる人物です。

ヴィオレッタはイタリア語で『すみれ』です。かわいい、素朴なお花ですね。
ヴァレリーという名前は、ヨーロッパ系の名前でローマのウァレリウス氏族(Valerius)に由来するお名前だそうです。wikiでこの名前の有名な人を見ますと、フランス人も居るんですけど、ロシア方面の方が多いような気がします。

すみれの花言葉は「謙虚」「誠実」です。
(紫のスミレの花言葉は「貞節」「愛」、白いスミレの花言葉は「あどけない恋」「無邪気な恋」。
黄色いスミレの花言葉は「田園の幸福」「つつましい喜び」。)
一方原作の「マルグリット」はマーガレットのことで、やはり素朴な花の代表格です。 花言葉は「真実の愛」「信頼」。

なのに、あだ名は椿姫。
これは原作を見れば分かりますけれども、彼女が公共の場に現れるときに必ず椿の花束を持っていたからです。一ヶ月のうち25日は白い椿で、5日は赤い椿と決まっておりました。なんで椿が赤かったり白かったりしたのかというと、月に5日だけの赤い椿の日は生理中だから娼婦のお仕事できません、という合図だそうです。
当時椿の花はヨーロッパに伝わったばかりでかなり高級なお花だったようです。そんな花を毎日買っていたのですから、彼女の散財ぶりが想像できるというものです。

素朴な花の名前を持ち元来はその名の如く素朴な少女だった彼女が、娼婦という商売のために本来の気質とかけ離れた生活を送っていたという表現でしょうか。
原作内で、田舎にてアルマンと暮らすマルグリットの様子にこんなシーンがあります。

「かつては花束に一家族が楽に暮らせる以上の金を使ったことのあるこの娼婦も、今では時々芝生にすわって、自分と同じ名のささやかな草花に一時間もじっと見とれているようなことがありました。」

モデルとなったマリーも、元々は田舎で生まれ育った娘です。元は無邪気で素朴な少女だったのでしょう。


では、フローラはどうでしょうか。
オペラリブレットの登場人物、ヴィオレッタの次の段にフローラ・ベルヴォアという名前があります。今回私がお勉強しようとしている役です。
フローラは明確なモデルがいません。原作にも、それっぽい立ち位置の人は何人かいますが、明らかに対応している役は無いです。

まずはお名前に関して少し。
『フローラ』は、ローマ神話に出てくる花の女神の名前です。元々はギリシャのニンフで、クロリスという名前でした。(ゼウスの血をひくアムピーオーンの娘という説もあり)
あるとき西風の神ゼピュロスがクロリスに惹かれ、彼女を拐ってイタリアへ連れてきます。そして主神にクロリスを神へ昇格するよう願い出てお許しを貰いました。こうしてクロリスは花と春と豊穣を司る女神フローラになったというわけです。
ローマ神話において、フローラは戦神マルスの誕生を助けた逸話で有名です。主神ユピテルが独力で戦女神ミネルヴァを産んだため正妻としての面目を失ったユーノーに請われ、フローラは女性が触れるだけで身籠れる花を授けます。それによって生まれたのが戦神マルスというわけです。

格上の身分の男性に魅入られて社交界に連れてこられ高級娼婦になったマリーと、境遇を重ねてしまいますな。


名字のベルヴォア【Bervoix】に関してですが、こちらはちょっと正解が分からなかったので、調べたものと妄想とメモっておきます(爆)

はじめ片仮名で検索したら Belvoir という綴りの地名が出てきたので、そちらで調べましたら、フランスのコミューンとイギリスの村でこの名前の地名が出てきました。この綴りですと意味は「綺麗に見える」になるので、自分の美しさを売る商売人にはピッタリの名前かと思ったのです。しかし実際の綴りは Bervoix ですので、意味はまるきり違います。
「voix」はフランス語で「声」です。一方「ber」は、フランス語どころか他の国の言葉でも明確な意味が出てきませんでした。出てきても電子用語とかベルリンの略称とか、あとはインドネシア語の節頭辞とか。

関連があるかは分かりませんが、よくヨーロッパの男性名や名字で見られる「ベルナルド」、フランスですと「ベルナール」の「ベル」は古語ドイツ語の「熊(berin)」に由来するそうです。
(ベルナールはber(n)-hard で「強い熊」。)
ドイツのベルリンとか、ベルンも『熊』が語源です。

熊は古代では「大きくて強い」ゆえに神聖なものと見られていました。エジプトでワニやライオンなどが崇拝されていたのと同じ理由ですね。
東ロシアのニヴフ族は熊を先祖と神両方の顕現と考えていて、大がかりな「熊祭り」を行うそうです。
どんな祭りかというと、まず子熊を捕まえて大切に育て、大きくなったら熊を喜ばせるための祝宴を催します。それから儀式の衣装を着せて、凍った川に立てた柱に鎖で繋いで若者たちが弓で射り、最後に権利のある人(司祭みたいな?)がとどめをさします。熊の亡骸は解体されて、何週間もかけて皆で食べます。すると熊の魂は神に戻り、自分達の繁栄が約束される…。こんなお祭りです。
非常に古代の色が濃い祭りですね。
またフィンランド神話には、オツォ(Otso)という 熊の精霊(多くの呼び名のうちの1つ)がいます。フィン族もロシアのように熊を屠るお祭りがあります。
アイヌにも似たお祭りがありますね。

熊の意味を持ったヨーロッパ人の名前には他にも、古代英語【beorn】の含まれた男性名 Osborn や、北欧の男子名 Björn(ビョルン)などがあります。

…盛大に話が逸れてしまいました。

ともかく、この意味で考えますと【bervoix】は「熊の声」?
もしかしたら、源氏名で後から付けた名前かも。
クルチザンヌたちの中には元女優や歌手、あるいは兼業していた人も多かったようですので、もしフローラが元歌手だったら………色々妄想が捗りますなあ!

とりあえず今回はここまで。

拍手[3回]

2014/05/23 (Fri)
はいごきげんよう。

マクベスのことを妄想しまくっていたらテンション変になってきて、本当に作ろうと思えばレディマクベスと侍女の二次創作本ができるんじゃないかとか考えてしまっています。


変人?誉め言葉ですね!(爆)


まず侍女は年齢どれくらいなんだろう、って考えていたのですが、それによって関係はだいぶ変わるんですよねぇ。

乳母とお姫様(スズキと蝶々さん)、だったのか
比較的年の近い主従関係(ロジーナとスザンナ)、なのか
レディマクベスが侍女の育ての親のような関係(ケルビーノとロジーナ)、なのか

はたしてどれだ!!

公式では侍女の年齢については何も触れられていないので、妄想し放題なのですけど!!!

まぁ、今は自分に近い年齢で考えてみています



レディが年上、年の離れた姉あるいはぎりぎり親の年齢、だとしよう



以外、侍女視点の妄想劇場はじまりはじまり~(爆)



『むかしむかしのスコットランドに、グラミスという豊かな国がありました。
王さまのマクベスとお妃さまは、とても仲良しな夫婦でした。
二人には子供がいませんでしたが、とても幸せに暮らしておりました。

お妃さまには可愛がっている召し使いがおりました。何かと気の利く世話好きな娘で、あるときお妃さまはその娘を自分のお付きの侍女にしました。
侍女は真面目な娘でしたので、とても頑張って働きました。お着せにお使いなど、側仕えの仕事を完璧にこなしました。そして何より、ご主人であるお妃さまに、絶対の忠誠心を持っておりました。
お妃さまも侍女を信頼していて、貴族しか出られないパーティーに連れていったりしました。

そんなある日のことです。王さまが、戦に出ることになりました。
お妃さまはとても心配して、侍女に言いました。
「あのひとは優しくて、王さまには申し分ないけれど、すこし臆病なところがあるのが珠に傷。無事に帰って来られるかしら。」

侍女はこう答えました。

「大丈夫でございますとも。マクベスさまはとても運の良いお方、きっと大活躍してお帰りになりますわ。」

それからしばらくたって、戦地の王さまから手紙が届きました。
どうやら王さまが敵の大将をやっつけて、無事に凱旋なさるとのことでした。その上そのご褒美に、コーダ国の王さまに任命されたというのです。
けれどもそれを読んだお妃さまは、なぜだか晴れない顔をしておりました。

侍女はおかしいなぁと思いながらも、夕方には王さまが到着するというので大急ぎで支度をしました。
しかも、王さまの更に上のご主人さまであるスコットランド王も、一緒に来るという話です。

掃除もいつもよりピカピカに、
料理もいつもより豪華に、
身なりもいつもより上等に、
ベッドも毛布も最高級のものに、

ぬかりなく準備しました。

間もなく王さまが帰ってきました。
帰るなりお妃さまに会いに行ったので、よっぽど会いたかったのだなぁとほのぼのした気持ちで、部屋に入っていく王さまを見送りました。


ところが部屋から出てきた王さまは、お妃さまと同じような、浮かない顔になっていました。

それでも、スコットランドの王さまをお迎えするときには、王さまもお妃さまもニコニコしていましたので、侍女はホッとしたのでした。

次の日の朝早く、侍女が朝の支度をしておりますと、にわかに部屋の外が騒がしくなりました。何が起こったのかと侍女は廊下に出ました。客間の前に人だかりが出来ています。

なんと客間にお泊まりになっていたスコットランドの王さまが、ベッドの上で血まみれになってこと切れておりました。
お城はもう大騒ぎです。

侍女は凄惨な現場に驚きましたが、お妃さまを支えなくてはと気力をふりしぼって側に付きました。
お妃さまは青ざめていましたが、思ったよりもしっかり立っていました。ただ、異様なほど目を見開いて、スコットランドの王さまのなきがらを見つめておりました。


スコットランドの王さまが亡くなってしまったので、間もなくマクベスさまが次のスコットランド王になりました。
スコットランド王には息子がおりましたが、父王さまが亡くなってすぐに隣の国へ逃げていってしまいました。
そのために、王子さまが父王さまを殺したのではないかと噂になりました。

あの事件以来、お妃さまは何かにつけてイライラするようになりました。
侍女は、あの事件が原因かと考えたのですが、その苛立ちはもっぱら夫の王さまに向けられているようでした。
そして当の王さまは、スコットランド全土の王さまになったというのに、いつも何かに怯えているようでした。
お勤めも忙しくなったせいか、お妃さまともあまりお話をしなくなりました。

侍女はお妃さまが寂しくないように、たくさん話しかけました。

「王さまはお仕事がお忙しいのですよ。」

「そうかしら。わたくしの顔を見るのが怖いのかもしれないわ。」

「そんなはずがありません、愛する奥方さまを怖がる殿方がどこにおられるというのでしょう。それにマクベスさまは今やスコットランド王、この国であの方が恐れるものなど何もございますまい。」

「あのひとはまだわたくしのことを愛していると思う?」

「ええ、ええ。もちろんですよ。あの方ほど奥方さまを大事になさる王さまを、私は他に知りません。」

するとお妃さまは安心したようにため息をつくのでした。

「そうよ、そうよね。わたくしはあのひとがわたくしを一番に可愛がってくれたらそれでいいのよ。かわりにわたくしはあのひとの望みなら、なんでも叶えてさしあげるわ。そうよ、なんでもよ。」

そう言って笑うお妃さまの横顔が、なんだか影を帯びたように見えて、すこし侍女はゾッとしました。』




ここまで書いて力尽きたよ!\(^o^)/

侍女とレディの会話は完全な妄想だよ!
あえてダンカン王の名前を書いてないのは、侍女にとってマクベス城の中が世界の全てだと思うからだよ!

ちなみにここまでが1幕で、実際のオペラだとこのあと2幕の2重唱に入ります!
あー妄想楽しい!

きっと、こんな調子で少しずつ狂っていくレディマクベスを、侍女は17年間ずっと見守るのだろうな。そして最期を看とるんだろうな。

そんでもって、万感の思いでマクベスにそれを報告したのに、マクベスも狂っちゃってるから奥さんのことなんてどうでもよくなってて、仲良かった頃を知ってる侍女にしてみたらもう呆然とするしかないだろうな。

その直後にマクベス城は攻め落とされるわけで、侍女も恐らく無事じゃ済まないと思うけど、最期にはマクベス夫人の亡骸の側で自ら命を断ってたりするとすごく悲劇的だな!もうこれで一本お話出来ちゃうよな!


そんな妄想が止まらないのですが明日5時起きなのでそろそろ寝ないとヤバイな!

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2014/05/19 (Mon)
ヴェルディのマクベスというオペラ。昨日すごいなぁと思ったのは、合唱にも役柄によってそれぞれの正義があって、それを音楽で語ってるところだなぁと思いました。

バンクォーを殺す暗殺者たち(男性合唱)はバンクォーを殺すことを悪いことだと思ってないし、もしかしたら主人のマクベスから命じられたこの仕事に対して『正義の鉄槌を下してやる』くらい思ってたかもしれない。「必殺仕事人」とか、「暴れん坊将軍」の隼人(お庭番)みたいに。
闇に隠れて仕事してるけど、それに対してほの暗い喜びや誇りがあるとか。
あとは単に「この仕事やったら大金が貰える」っていう類いの喜びかもしれないし。

マクベス。うーん深い。

そんな相模原シティオペラのマクベス

相模原シティオペラ
ヴェルディ作曲  歌劇『マクベス』

7月26日 17:30開場  18:00開演
7月27日 13:30開場  14:00開演☆←私 侍女で出ます

全席自由 4000円

場所・相模原市民会館 (JR横浜線『相模原』駅より、バス5分)

合唱にも是非是非ご注目!!

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* ILLUSTRATION BY nyao *