プロフィール
HN:
赤澤 舞
性別:
女性
職業:
飲食店店員
趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。
レトロゲームや特撮も好物です。
ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。
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ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
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2020/04/17 (Fri)
こんにちは。
新型肺炎ウイルスの影響が凄まじい今日この頃です。
様々な社会問題や流行り病はいつの時代も無くなることはありませんが、せめて一平民として、過去の文献に学び、最新の情報を常に取り入れ、可能なかぎり最善な行動を取っていたいと個人的に考えています。
過去の文献は、失敗例も成功例もためになるものです。
さて、今回は旧約聖書の中でも指折りの大スペクタクルテーマ『ソドムとゴモラ』のお話です。
※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人(無宗教者)が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
○第十九章
そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着きました。ロトはソドムの門のところに座っていました。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んで言いました。
「さあご主人、どうかあなたがたのしもべの家に立ち寄って足を洗い、泊まっていってください。そして朝早く旅を続けてください。」すると彼らは「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」と言いました。
しかしロトがしきりに勧めるので彼らはロトの家に行きました。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼きました。彼らはそれを食べました。
彼らが床につかないうちに、ソドムの町の人たちが若者から年寄りまで全員やってきて、家を取り囲みました。
彼らはロトに向かって叫びました。「今夜おまえのところにやってきた男たちはどこにいるんだ。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたい。」
ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの扉を閉めて言いました。
「兄弟たちよ、どうか悪いことはしないでください。
お願いします。私にはまだ男を知らない娘が二人おります。娘たちを連れてきますので、あなたがたの好きなようにしてください。そのかわりあの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根に身を寄せたのですから。」
しかし彼らは「引っ込んでいろ」「こいつは他所から来たくせに、さばきつかさのように振る舞ってる。さあ、おまえをあいつらよりもひどい目に会わせてやろう。」と言ってロトの体をはげしく押しつけ、戸を破ろうと近付いてきました。
するとあの人たちが手を差しのべて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸を閉めました。
家の戸口にいた者たちは、大きい者も小さい者も目つぶしを食らったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れはてました。
二人はロトに言いました。
「他にあなたの身内はここにいますか。婿や息子や娘、この町にいる身内の者はみんな、この場所から連れ出しなさい。
わたしたちは、この町を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」
そこでロトは出ていって、娘たちをめとった婿に言いました。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの場所を滅ぼそうとしているから。」
しかし彼の婿たちには冗談のように思われました。
夜が明けるころ、御使いたちはロトをうながして言いました。
「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまうでしょう。」
しかし彼はためらっていました。するとその人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかみました。
ー主の彼に対するあわれみによります。そして彼らを連れ出し、町の外に置きました。
ひとりが言いました。「命がけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけません。この低地のどこでも立ち止まってはなりません。山に逃げなさい。さもないと滅ぼし尽くされてしまいます。」
ロトは彼らに言いました。「主よ、そんなことになりませんように。
ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私の命を救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は山に逃げることができません。わざわいが追い付いて、たぶん私は死ぬでしょう。
ご覧ください。あそこの町は逃れるのに近くて、しかもあんなに小さいのです。どうかあそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私の命を生かしてください。」
その人は言いました。「よろしい。わたしはそのことでもあなたの願いを聞き入れ、その町を滅ぼすまい。いそいでそこへ逃れなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしはなにもできないから。」そのため、その町はツォアルと呼ばれました。
太陽が地に昇ったあと、ロトはツォアルに着きました。
そのとき、主はソドムとゴモラの上に硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされました。
ロトの後ろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。
翌朝早く、アブラハムはかつて主の前に立ったあの場所へ行きました。
彼がソドムとゴモラの方と、低地の全地方をみおろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていました。
こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムのことを覚えておられました。それで、ロトの住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中から逃れさせました。
その夜、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘と一緒に山に住みました。彼はツォアルに住むのを恐れたからです。彼はふたりの娘と一緒にほら穴の中に住みました。
そうこうしているうちに、姉は妹に言いました。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、わたしたちのところに来る男の人などいません。
さあ、お父さんに酒を飲ませ、一緒に寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」
その夜、彼女たちはロトに酒を飲ませ、姉が入っていき、父と寝ました。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知りませんでした。
その翌日、姉は妹に言いました。「ご覧。私は昨夜お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って一緒に寝なさい。そうして、わたしたちはお父さんによって子孫を残しましょう。」
その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、一緒に寝ました。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知りませんでした。
こうしてロトのふたりの娘たちは、ロトによってみごもりました。
姉は男の子を生んで、モアブと名付けました。彼はのちのモアブ人の子孫です。
妹も男の子を生んで、ベン・アミと名付けました。彼はのちのアモン人の子孫です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
過去にも『ノアの方舟』とか『バベルの塔』とか、既出の有名な話はありますが、このお話はだいぶ描写が細かくなっていますね。表現方法が色々工夫されていて、小説としてもだいぶ進化が見られます。
18章の直接の続きになります。
アブラハムと主が「ソドムに10人良い人がいたら滅ぼすのやめる」と約束して別れたあと、主のお付きの二人はその足でソドムにやってきました。
「そのふたりの御使い」ということは、主は一緒に行かなかったんですね。
前回のお話が昼でしたから(「日の暑い頃」ってたぶん昼よね)アブラハム宅での食事の時間を加味しても、数時間かけて徒歩で来たんでしょう。夕暮れ頃にソドムに着きました。
これまた偶然、町の入り口の門のところに、ちょうどアブラハムの甥っ子のロトが座っていました。
ドラクエとかで町の入り口あたりにいる「ようこそ!ここは〇〇の町です!」とか言うキャラを思い浮かべますけどもそんな扱いなんでしょうか。
ロトはふたりの姿を見るなり「立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝み」ました。前章でアブラハムが取った行動と同じですね。
ここも、ロトがこの二人を『人ならざるもの』『神の御使い』と認識していた説と、旅人はおもてなしするべしという風習を守った説で解釈が別れます。私は個人的に、「ご主人」とロトがふたりを呼んでいますので「風習を守った説」を推したいなと思っています。
ロトはふたりの旅人(に見える人)に、自宅に泊まるよう勧めます。彼らが「広場に泊まるからいいです」と言っても退きません。あんまり言うのでふたりは折れて、ロトの家に厄介になることになりました。
客人を自宅に連れていったロトは、ごちそうと「パン種を入れないパン」を焼いてもてなしました。
前回散々パンの歴史について調べましたんで、この時ロトが作ったパンは精製前のライ麦で作られた、クリスピーピザ生地やクラッカーに近い平パンだったことが分かります。
アブラハムのおうちで出した料理はちゃんとメニューも詳細に書いてあったのに、今回はただ「ごちそう」としか書いてありません。
なので勝手な妄想をいたしますと、アブラハムとの生活の差を表したかったのかしらと思います。
第13章でアブラハムと袂を分かってから24年、ロトは豊かなヨルダンの低地を一家の住みかに選び、ソドムの町に身を寄せて暮らしてきました。よそ者として生きづらい面もあったかもしれませんが、とりあえず町の経済の中で暮らしていれば物質面で困ることはありません。
そもそも、ソドムとゴモラは相当栄えた町だったと思われます。
死海のほとりにあったと考えられている二つの町は、牧畜や農耕以外に「アスファルトの輸出」で潤っていたと考えられるからです。
第14章のところで調べた通り、死海は昔は「シディム」という名前の谷で、その谷には瀝青(天然アスファルト)が採掘された後の穴がたくさん空いていました。防水加工に優れた天然アスファルトはバベルの塔のところで触れましたがミイラの加工にも使われており、エジプトへの重要な輸出品でした。
ヨルダン川の恵みのおかげで食料には困らず、先進大国エジプトから外資を稼ぐこともできたわけです。
まとまった財産を持っていたロトたちは、家畜を売ってそれを元手に町の中で商売をしたり、土地を買って自分の家を建てたりして町に溶け込んだのでしょう。遊牧生活を続けるアブラハムの一家よりも、物質的には豊かになったのです。
前章でアブラハムが主たちに出した、子牛肉の料理と凝乳(カッテージチーズ)、搾った牛乳というメニューは、アブラハム家にとっては最大限のおもてなしでしたが、急拵え感が否めないものです。
気温の高いメソポタミアの気候で冷蔵保存など出来ない時代、牛乳は搾りたてでしょうし、カッテージチーズも作ってすぐ食べていたでしょう。
パン菓子も客人たちが来てからサラに命じて焼かせたものですし、仔牛に至っては主たちが訪れてからアブラハム自ら「柔らかくて美味しそうな子牛」を選び出して屠って、料理番の若者に渡して作らせたものです。調理にあまりに時間がかかるものを出せたとは思えませんので、恐らく焼いて出したのではないでしょうか。
つまり『蓄え』としてすぐ出せる保存食料が無かったことになります。
この時代のメソポタミアの台所事情は、果たしていかなものだったんでしょうか?
調べてみますとやはり乳製品は腐りやすいこともあり、貴族など限られた人が口にしていたといいます。 保存食料といえば山羊や羊・牛などの干し肉や塩漬け肉、豆や麦などの穀物でした。野鳥や野うさぎなども食べられていたそうです。
野菜は都市部の富裕層のみが食べられる高級品でしたが、種類自体はかなり色々あったようです。
ネギ、タマネギ、ニンニク、レタス、カブ、カボチャ、きゅうり、テンサイ、チコリーなどの他、レモンやイチジクなどの果物も栽培されていたそうです。
果物は搾って生ジュースとして飲んだり、乾燥させてドライフルーツにしてケーキの材料や甘味料にしたり。こうしてみますと、3000~4000年前とは思えない程料理の文化は確立していたことがわかります。
引用サイト:
https://www.phantaporta.com/2017/07/blog-post22.html?m=1
古代メソポタミアの粘土板の中には、当時のレシピの記録がいくつか残っていたりするそうです。
アメリカのイェール大学が所蔵する粘土板には、約40種類の紀元前1600年頃の『高級料理』のレシピが載っているとのことです。
よく作られていたのは煮込み料理でした。肉や野菜を放り込んで煮るだけではなくて、野菜を煮崩したり、パンでとろみをつけたり、麦粉の団子が入ったり、獣の血を入れたり、コリアンダーやクミンやミントなどのハーブを乾燥させた香辛料を入れたりと、現代と変わらないくらいバリエーションは色々。
こちらの記事では、その粘土板のレシピを再現なさっていました。↓
引用サイト:
https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/maidon/17-00008
○古代メソポタミア(紀元前3000~紀元前400年頃)の麦とラム肉のシチュー
【材料】(4人分)
ラム肉 200g
エンマー小麦(古代小麦の一種) 50g
セモリナ粉 50g (※パスタ等に使用する小麦粉の一種)
にんじん 80g
クミン粉 大さじ4 (※カレー等に使用するスパイス)
コリアンダー粉 大さじ4 (※パクチーのスパイスで柑橘系の香りが特徴)
ミント 1枝
にんにく 1片
水 600ml
(メソポタミア風だし)
水 1.2リットル
クレソン 50g
きゅうり 100g
フェンネル粉 大さじ1 (※セリ科の多年草のスパイスで甘い香りが特徴)
クミン粉 大さじ1
【作り方】
1. メソポタミア風だしをつくる。鍋に水を入れて、ざく切りにしたクレソン、きゅうり、フェンネル粉、クミン粉を入れて水が半量になるまで弱火で煮込む。
2. ラム肉、にんじんを一口サイズに切る。にんにくをすりつぶす。
3. 鍋に水と1を入れてラム肉、クミン粉、コリアンダー粉、セモリナ粉、エンマー小麦、にんにく、にんじん、ミントを入れて火にかける。
4. 沸騰したらアクをとり、弱火で30分煮込む。適度にとろみが出てたら完成。
○イースト菌のかわりにビールで発酵させたパン「アカル」
【材料】(4人分)
エンマー小麦 200g
セモリナ粉 200g
薄力粉 200g
ハチミツ 適量
塩 適量
ビール 350ml
【作り方】
1. エンマー小麦、セモリナ粉、薄力粉をボウルに入れ、ハチミツ、塩を加える。
2. 1にビールを注ぐ。
3. 木べらで粉っぽさがなくなるまでよくかき混ぜる。
4. 耐熱容器に移し、180℃のオーブンで40~50分焼く。
アカルは、ベーグルのようなしっかりした食感のパンらしいです。
古代メソポタミアのメニューでお食事会をなさっていた方もいらっしゃいました。↓
引用サイト:
https://togetter.com/li/1024149
引用メニュー
○料理
①レンズ豆と炒り麦の粥(リゾット)(イェール大学のタブレットレシピB(7-iv-(46)~(50))
【材料】
レンズ豆、大麦、ポロねぎ、にんにく、玉ねぎ 、鶏肉、赤ワインビネガー、ブイヨン、ミント
②羊肉の塩味の煮込み (イェール大学のタブレットレシピA(20))
【材料】
羊肉、塩、玉ねぎ、クミン、コリアンダー、ポロねぎ、にんにく、ブイヨン
③栽培種の蕪の煮込み (イェール大学のタブレットレシピA(25))
【材料】
玉ねぎ、ルッコラ、コリアンダー、蕪、ポロねぎ、にんにく、ブイヨン
④メルス (マリ王国の宮廷文書 ARM XI,no.13)(古代メソポタミアの焼き菓子)
【材料】
小麦粉、水、牛乳、ビール、植物油、バター、なつめやし、ピスタチオ、干しブドウ、りんご、ハチミツ、クミン、コリアンダー、にんにく
○飲み物
①フレーバーウォーター
【材料】
水、ぶどう、ざくろ
②シェニーナ (清涼乳飲料)
【材料】
牛乳、水、ヨーグルト、塩
③はちみつ入りビール
【材料】
ビール、各種ハーブ、ハチミツ、ワイン
④ハーブ浸けワイン
【材料】
白ワイン、コリアンダー、タイム
創世記第9章のノアのところで調べましたけれども、メソポタミアはふどう栽培には適さない土地で、ワインは少しは生産されていましたが高級品でした。日常的に飲む酒としては、ビールの方が身近なものだったと思われます。
聖書を楽しむ【5】
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%905%E3%80%91
日本では数少ないですが、メソポタミアのお料理が食べられるお店もあります。
こちらは東京にあります、クルド料理のお店。
【クルド料理屋 メソポタミア】
https://mesopotamiajp.jimdofree.com/
↑
ここは個人的にいつか行きたいなーと思いつつ、なかなか行けていないお店のひとつです。
これらの資料を頼りに、ロトがお客様にお出しした「ごちそう」を想像いたしますと、前章でアブラハムが大慌てで用意した精一杯の料理がいかに粗食かわかります。
すぐにこれらの料理が用意できたということは、ロトの家は日常的にこのような食材が揃っていたということになります。
食料がこんなに豊かなのですから、きっとベッドもフカフカだったんでしょうね。ロトはふたりの旅人さんに寝床を提供し、さて自分もそろそろ寝ようかなとお布団に入ろうとします。
ところが、なにやら外が騒がしい。
なんだなんだと外を覗いてみると、なんと町中の人が老いも若きも全員やってきてお家を取り囲んでいます。彼らは
「今夜おまえのところにやってきた男たちはどこにいるんだ。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたい。」
と叫んでいます。
「~を知る」「~のところに入る」という表現は、聖書においてよく使われますが体の関係をもつという意味になります。
つまりソドムの町人全員、老いも若きも男も女も、ロトの家にいる旅人たちと体の関係を持ちたがっているということになります。旅人さんたちは、実は人間ではないだけあってよっぽどイケメンだったのでしょう。
ソドムが「悪徳の都」と言われる大きな理由が、この部分によります。不特定多数との性行為、同性愛が横行しているからだということです。
近年は認められだしている同性愛ですが、このお話の主人公である「ヘブル人」たちの目的は『自分の一族の人口をたくさん増やす』ことですので、彼らにとってはダメなことなのかもしれません。
同じく、不特定多数と行為に耽るのも『自分の子孫』を残したい「男性」の信徒にとっては無駄な行為でしょうね。また、アブラハムの契約である『包茎手術』について調べたときに出てきた、性病を恐れてのことかもしれません。まあそういう考えの人もいるだろうな、とは思います。
(私は個人的には別に好きにしたらいいと思うし、LGBTもありだと思う。ちなみに野性動物の世界では同性愛はよくある。)
『ソドムの罪』にはいくつか説があるようですが、同性愛の禁忌として解釈するようになったのは紀元前2世紀頃からだそうです。
元々は同性愛を許容する古代ギリシャの文化を批判するために、例話として使われるようになったようです。
まあそれはそれとして、ピンチなのは今まさに町中の人に取り囲まれているロトです。自分の家に招き入れた大事な客人を、危険な目に合わせるわけにはいきません。ロトは外に出て、入り口のドアに立ちふさがって
「うちの処女の娘二人を代わりに好きにしていいので、どうか客人には手を出さないでください」
と言います。
現代の日本からみるととんだ父親だなと思うところですが、これはメソポタミア特有の家父長制的な判断と言えるそうです。娘は家長である父親の所有物で、客人をおもてなししたり守ったりするのは家長の義務である。だからどんな犠牲を払ってでも、所有物たる娘を身代わりにしても、家の名誉のために守りきらなくてはならない…とまあ、こういう思考なわけです。
しかしソドムの人々は「引っ込んでろ」と取りつく島もありません。まあ元々ロト家の客人を目当てにやって来た人々ですし、男色家の人やレズでない女性は女に興味は無いですね。
それどころか、「おまえ元々よそ者のくせに偉そうでムカつくな。あいつら(客人)より酷い目に合わせてやろう。」とロトに矛先を変えて襲ってきたのです。
原文の「さばきつかさ」は、王政が樹立する前の時代の指導者的立場の人を指します。恐らくロトの清廉潔白な性格にプラスして、裕福な生活をしていたことも恨みを買う原因になったのではないでしょうか。
壁に激しく押し付けられるロト!そこに四方八方から男たちの手が迫る!!
第14章でメソポタミア連合軍に拐われたり何かとヒロイン体質なロトですが、老齢になっても相変わらずでした。
あわやこのままレイプされてしまうのかというところで、家の中にいた客人たちがドアを一瞬開けてロトを引っ張りこんでくれました。危機一髪。
ドアの前にいた人たちは「大きい者も小さい者も目つぶしを食らったので、戸口を見つけるのに疲れはてた」とありますが、まさか一人ずつの目に指を突っ込んだり、砂をぶっかけたりしたわけではないでしょう。
強烈な光を見せて、まとめて目つぶししたと考える方が効率的だし何よりカッコいい(爆)このシーンを絵に描いている画家さんたちも、大抵光輝く天使として客人たちを描いています。一般人には、背中の羽は見えない設定になっているようです。
(原文には、勿論この客人たちに羽が生えてる描写はありません。)
ふたりの客人は、助け出したロトに
「この町に、あなたの身内は(同居する娘ふたりの他に)いますか?いるならすぐこの場所から連れ出しなさい。実はわたしたちはこの町を滅ぼすために、主から遣わされたんです。」
と言いました。今の一件で、善人10人どころではなくもう町中悪人だらけだと判断されたわけです。
アブラハムと同じで素直なロトは疑うこともなく、すぐに同じ町に住む身内の家に向かいました。
アブラハムたちと別れてこの町に来たときには独り身だったロトも、ソドムに腰を落ち着けてからは家族が増えました。
まず、一緒に住んでいる二人の娘と奥さん。
それ以外にも何人か娘がいるようで、彼女たちは既にお嫁に行って別居しています。
時刻は夜中近く。ドアの前で目潰しをくらって呻く町人たちの横をすり抜け、お婿さんと娘が住んでいる家に走っていくロト。息も絶え絶えに
「主がこの町を滅ぼそうとしてるから逃げろ」
と伝えました。
ところがお婿さんは
「新手のジョークですか?」
次の家でも
「お義父さん、寝ぼけてるんスか」
次の家でも
「面白い冗談っスね(笑)おやすみなさい(笑)」
てな感じで、本気で取り合ってもらえませんでした。
かわいそうなロト。
ロトが一晩中、町を走り回って身内全員に逃げるよう言っているうちに、夜が明けてきました。いよいよ時間切れです。
ふたりの御使いは
「とりあえずここにいる妻と娘ふたりを連れて行きなさい。さもないとあなた方まで滅ぼし尽くされてしまいますよ。」
と警告しますが、ロトはまだ躊躇っていました。
「家族を見捨てて自分たちだけ逃げるなんて!」
「もう一度行って説明したら、分かってくれるかもしれないのに!」
ロト優しすぎない?なんか、ゲームの主人公とか見ている気分です。
そんなロトを見て、こりゃだめだと思った御使いたちは、ロトと奥さん、娘二人の手をつかんで「彼らを連れ出し、町の外に置き」ました。
どういう風に連れ出したのか、徒歩で引っ張って行ったのか、天使みたいに飛んで運んだのか、はたまた瞬間移動したのかは書いていませんので妄想し放題ですね!(爆)
(光と共に瞬間移動したと想像すると一層RPGっぽい)
町の外に強制退去したロト一家に、御使いのひとりが言いました。
「命がけで逃げろ。とにかく逃げろ。うしろを振り返るな!低地にいる間は立ち止まるなよ!山まで行けば安全だから、山に逃げなさいよ!」
ところがロトは
「せっかく助けてもらってありがたいですけど、山までなんて無理ですよ…たぶん追い付かれちゃいますよ…。行けてあの小さい町くらいまでです…。あそこゴールにさせてもらえませんかね?あんなに小さい町なんですから、わざわざ滅ぼすほど大した町じゃないですよたぶん…」
と弱音吐いてます。まあロトも結構なお年寄りですから、体力的に仕方ないですね。それ以前に一晩中ソドムの町を走り回ってたんで、そのまま強制長距離マラソン突入なのも老体にはひどい話です。
御使いは
「じゃああの町は滅ぼさないであげるから、あそこにお逃げ。それまで何もしないでいてあげる。」
と妥協しました。このひとロトにはやたら甘いです。
ちなみに、このときロトが避難所に選んだこの町は後に『ツォアル』というお名前で呼ばれるようになったそうです。
なにが「そのため」なのかというと、ロトが「あの町はすごく小さい」と言ったからです。
13章でアブラムとロトがお別れしたとき、この町の名前がチラッと出てきましたが、そのとき
『ツォアル(ゾアル)はヘブライ語では「小さな」または「重要ではない」という意味』
と調べました。あそこでわざわざ町の名前を出したのは、この台詞の伏線だったんですね。
とりあえず、ロトは老体に鞭打って平地をマラソンし、太陽が完全に昇りきったあとにツォアルの町に着きました。
どれくらいの距離があったのか今となっては正確な距離は分かりませんが、試しにソドムの跡地とされる前期青銅器時代(紀元前3150年~2200年)の都市遺跡バブ・エ・ドゥラー(Bab edh-Dhra)と、ツォアルがシディムの谷(現在の死海)近くの町ということで現在の死海の東にあるムジブ自然保護区の距離をGoogleマップで見てみましたら直線で26km、徒歩ですと5時間20分かかると出ました。老体にはキツい距離ですね。
ロトたちが町に入るや否や、神さまは「よっしゃ!」と言わんばかりにソドムとゴモラに攻撃を開始しました。具体的には、ソドムとゴモラの上に「硫黄の火」を降らせました。これによって、町々と低地全体と、町に住んでいた住民全員と、その地の植物がみんな滅ぼされたということです。
ソドムの跡ではないかと言われているバブ・エ・ドゥラーからは2万人もの人が埋まっているお墓が発見されているそうで、紀元前3000~2000年の世界人口が1400万~2700万人だったことを考えますとどれ程の大惨事だったか想像が出来ますね。
この町の跡は全体的に白っぽく、炭酸カルシウムと硫酸カルシウム(石膏)で構成されており、元々は石灰岩(大理石など)の建物が高温の硫黄で燃やされたためにこうなったと考えられています。建物跡の壁に見られる渦巻き模様は装飾とかではなく、6000℃以上の高温の熱に晒されたために出来たものだということです。
考古学者ケレンサ・グリッグソン女史によると、この遺跡近郊の死海に沿った平原の5ヶ所でゴルフボールサイズの硫黄の玉がたくさん発見されているそうです。この硫黄の玉は硫黄含有量が98.4%と非常に純度が高く、自然で見られる火山の爆発などによる硫黄が純度40%くらいなことを考えると非常に不自然な物体です。
純粋な硫黄が降り注ぎ街を焼いたという現象自体は、どうやら実際に起こった出来事のようです。
ちなみに「硫黄」という単語は、聖書にはここで初めて出てきました。以降、燃えやすいものとして聖書にたびたび出てくるみたいです。
実際の硫黄はこんな物質です。
(Wikipediaより抜粋)
硫黄(いおう、英: sulfur, 羅: sulphur)は原子番号16番の元素である。元素記号はS。原子量は32.1。酸素族元素のひとつ。
硫黄の英名「sulfur」は、ラテン語で「燃える石」を意味する語に由来する。
多くの同素体や結晶多形が存在し、融点、密度はそれぞれ異なる。沸点444.674℃。大昔から自然界において存在が知られている。
金属鉱床に多く含まれている元素で、火山地域や鉱床とかから採れたり原油の精製の際に副産物として出来たりします。
科学薬品やゴム、合成繊維、農薬、抜染剤の製造に用いられたり、干し柿や干しイチヂクの漂白剤、ワインの酸化防止剤などにも使われたりします。
硫黄は同じ種類の元素の原子が結び付きやすく(カテネーション)、30種類以上の同素体があります。その中で、通常天然で見られる同素体は「S8硫黄」といいまして、常温、常圧では黄色い固体です。結晶形にもよりますが、106.8~112.8℃が融点で融解すると粘性の低い黄色から血赤色の液体となり、159.4℃で粘性の高い暗赤色となります。
約360℃で発火し、青い炎を上げます。そのまま加熱し続けると、444.674℃で沸騰し始めます。
硫黄自体に臭いは無いのですが、噴火口や硫黄泉の周囲など天然の硫黄が存在する場所で多く発生する硫黄化合物である硫化水素は腐卵臭が、二酸化硫黄は刺激臭があるので日本語ではこれらの臭気を「硫黄の臭い」「硫黄のような臭い」と表現することがあります。
…木材の発火点が250~260℃、新聞紙の発火点が291℃なことを考えますと、360℃で発火する硫黄は別段燃えやすいというわけではありませんね。
それはそうとして、まもなく360℃以上の火のかたまりが雨あられと降ってくるんですから大変です。
必死に逃げている最中、ロトの妻は御使いの「うしろを振り返るな」という忠告をうっかり忘れて振り返ってしまいました。「ソドムの裕福な生活や財産が惜しくて、神の忠告を信じられなかったからだ」という意見もお聞きしますが、彼女にしてみたら自分の娘たちをこれから滅ぶ町に置いてきてしまったんですから、振り返ってしまうのも仕方ないと思います。
『うしろを振り返ること、または見ることを禁じられ、それを破ってしまう』というシュチュエーションは、日本神話のイザナミや鶴の恩返し、ギリシャ神話のオルフェオなどにも伝わっているモチーフです。『後ろを振り返らない』という誓約は、かなり昔から人間の儀式や呪術に根付いたものだったと思われます。
今回の場合、神に守られているアブラハムの直接の身内であるロト以外の人間を『ついでに』救うための救済措置の臨時契約となっていました。ぶっちゃけロト以外の人間を助ける義理は神には無いわけですから、誓約を守れなかった妻は助けられなくて当然、ということでしょう。
振り返ったロトの妻は『塩の柱』になってしまった、とのことで、現在『ロトの妻の塩柱』と題された岩の塊がイスラエル南東部の死海西岸の公道90号線に沿ったソドム山の上にあって観光地になっています。(10メートルくらいの高さがあるそうなので、もしこれが本当にロトの妻だったとしたら巨人ですね)
しかしながら、「塩」を意味するシュメール語『ニ・ムル』には「蒸気」という意味もあるそうで、「蒸気の柱」と読むこともできるそうな。つまりロトの妻は跡形もなく蒸発してしまった、と読解することもできるわけです。
そもそも主はロトがツォアルに入るまでは硫黄で攻撃してませんので、妻が塩(あるいは蒸気)になってしまったのはただ振り返ったのが直接の原因ではない可能性もあります。万が一振り返った場合どんなペナルティがあるか、御使いは説明しなかったからです。
しかし何かのペナルティで足止めを食らい、硫黄の火に巻き込まれたのは間違い無さそうです。たとえば「後ろを振り返ったらその時点で身体が動かなくなる」とか。その場合、妻は意識はあるのに硬直状態になり、そのまま焼かれるという非常にむごい状況になったと思われます。
人間の肉体が塩、或いは蒸気になってしまうほどの炎、とはどんなものなのでしょう。
創世記の中で大洪水に次いで壮大なシーンである今回ですが、モデルとなった出来事がかつてあったのだろうと考えられます。これについては色んな学者さんやオカルトファンの方々が色んな説を唱えていらっしゃいますので、有名な説をいくつか見てみます。
①大地震説
「硫黄の火」と「かまどの煙のように煙が立ち上って」という表現が、地震による地割れと液状化現象によるものではないかという学者さんもいらっしゃいます。
テレビのドキュメンタリー番組でもやってました。↓
https://archives.bs-asahi.co.jp/bbc/hi_03_03.html
大地震による地割れで地中のメタンガスが吹き出し、引火して炎が上がった現象を「硫黄の火」と解釈した説です。更に液状化現象により町ごと湖に引きずり込まれたとの仮説が立てられています。
死海はシリア・アフリカ断層のほぼ北端に位置しています。東アフリカを分断し、紅海からアカバ湾を通ってトルコ(アナトリア半島)にまで大地溝帯が延びているこの断層は、これまでも大きな地震を起こしてきました。
そもそも、死海を含むヨルダン渓谷は白亜紀以前はまだ海でした。海底隆起が起こったことでパレスチナ付近の高原が作られたと同時にこの断層が出来たと考えられているそうで、この断層の西側がアフリカプレート、東側がアラビアプレートになりました。
日本もそうですが、プレートの境目地域は非常に地震が多くなります。
そして液状化現象は、砂丘地帯や三角州、埋め立て地、旧河川跡や池沼跡、水田跡などで起こりやすい現象です。
砂を含む砂質土や砂地盤は、普段は砂の粒子同士の剪断応力(物体内部のある面と平行方向に、その面にすべらせるように作用する応力のこと)による摩擦のおかげで安定を保っています。ところがこのような地盤で尚且つ地下水位が高かったり或いは何らかの理由で地下水位が上昇した場所で、地震や建設工事などによる連続した振動が加わりますと、砂の粒子がバラバラになって摩擦の力が弱まってしまいます。剪断応力が0になると砂の粒子が地下水に浮かんだ状態になって、耐久力を失います。この状態が『液状化』です。液状化した地盤では、比重の大きいビルや橋梁は沈下したり、比重の小さい地下埋設管やマンホールなどは浮力で浮き上がったりします(抜け上がり現象)。また、液状化を起こした砂が表層の粘土を突き破り、水と砂を同時に吹き上げたり(ボイリング)することもあります。
ここで死海の当時の様子を考えてみましょう。
前述のとおり、この「ソドムとゴモラ事件」が起こる前は死海は「シディム」という名前の谷でした。谷ということは山と山の合間ということになりますが、ロトがアブラハムと問答して選びとったのは『ヨルダンの低地』とありましたから、標高は低かったでしょう。
現在の死海を見てみると、海抜が-430mと非常に低く、ヨルダン川から流れ込む水の出口がありません。
先程、液状化現象の起こりやすい例を述べましたけれども、この条件に当てはまるのは海沿いの低湿地です。条件を満たせば、内陸の平野部でも発生するとのことです。
ヨルダンは現在でも国土の80%は砂漠地帯ですが、砂漠地帯の地盤は水分を含むと液状化しやすい性質を持ちます。
ヨルダン川の恵みのおかげで農業や牧畜も捗り、飲み水にも困ることのなかったソドムとゴモラでしたが、そのために液状化が起こる条件を満たした土地だったということになります。
更にアスファルトを輸出できるほど地下資源が豊富という事実を考えれば、地割れで地中のメタンガスが吹き出し、引火したとしても不思議はないかと思います。現在でも、天然ガスの輸出はヨルダンの経済を支えているそうです。
②核爆弾説
オカルトファンの「古代核戦争説」を語るとき、インドの『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』と並んで引用されるのが、このソドムとゴモラの滅亡シーンです。『古代核戦争説』というのは、有史以前の地球に栄えていた近代人の知らない超古代文明、あるいは既に知られている古代の文明が、核戦争で滅びてしまったとする説のことをいいます。この話においては、神の力=核だとして、当時の人間より遥かに進んだ文明を持っていた何者かが『主』の正体ではないかと考える説になります。 第5章のネフィリムについて調べたとき出てきた《古代宇宙飛行士説》 ですね。
原子爆弾で人間は塩、または蒸気になり得るのでしょうか?
『蒸気の柱』というワードから広島の『人影の石』を思い出したので調べてみたのですが、現在では人体蒸発説は医学的に否定されているそうです。
(『人影の石』… 広島原爆の爆心地から260mに位置した住友銀行広島支店の玄関前の石段。そこに座っていた人の影の跡とされていた。実際は座っていた人の付着物によって黒くなっている。)
原爆の爆心地付近の地表温度は3000~4000℃に達したと推定されていますが、人体は炭素原子からできた有機物のため骨や炭化した組織は残り、蒸発はしないとのことです。
ネットで拝見したサイトで、広島大原爆放射線医科学研究所の星正治教授(放射線生物・物理学者) の「体全体が完全に炭化した場合、爆風で粉々になり吹き飛ばされて、あたかも蒸発して消えてしまったような状況になったというほうが自然」というお考えを見まして、なるほどと思いました。
核爆弾が空中で爆発すると数百万℃の火球が発生して超高温の熱線と致死量の放射能が周囲に放散され、空気が急激に加熱されることによって強力な衝撃波が起こります。遺骨すら見つからなかった人もたくさんいらっしゃるということですので、蒸発したという説が流れたのかもしれません。
もしもソドムとゴモラが核の力で攻撃を受けたとしたら、一瞬で塩(岩塩)になってしまう→炭 あるいは蒸気になってしまう→炭化したあと吹き飛ばされて消えた という解釈ができます。
③隕石落下説
火が降ってくるという表現から、かつて恐竜を絶滅させ生態系を激変させた隕石落下を連想する学者さんもいます。実際、どうもこのあたりの時期に隕石が落下したらしいです。
ニネヴェの王宮図書館の遺跡で見つかった、古代の天文学者が残した粘土板にそのような記述がありました。
19世紀イギリスの考古学者ヘンリー・レヤード氏が発見したこの粘土板は「プラニ・スフィア(星図)」と呼ばれていて、紀元前700年頃にアッシリア人の書記官が作ったものと見られています。
粘土板が発見されてから150年以上謎のままでしたが、イギリスの航空宇宙技術者のアラン・ボンド氏とマーク・ヘンプセル氏が解析・研究した結果を共著し、2008年に自費出版しました。(writersprintshop出版『A Sumerian Observation of the Köfels' Impact Event』)
その著書によりますと、円形の粘土板には双子座や木星などと共に『アピン』と名付けられた謎の矢印が書き込まれており、「この天体配置があった明け方の5時30分に、4分半かけてアピンは地上に落下した」という記述があったそうです。
コンピューターでその天体配置を再現したところ「紀元前3123年6月29日未明」の空であることがわかり、アピンは典型的な「アテン群小惑星(地球近傍小惑星の分類の一つ)」だとされました。
この小惑星は直接地上に落ちたわけではなくてオーストリアのアルプス上空で空中爆発を起こしたとみられていますが、直撃は免れてもその被害は凄まじかったのではと予想されています。
隕石の破壊力はどんなものか見てみましょう。
家一軒分の大きさの隕石で核爆弾と同じくらいの破壊力を持ち、2.4k㎡以内の建物を壊滅させてしまいます。
サッカー場の大きさ(7140㎡)くらいの隕石になると、ニューヨーク(783.8k㎡)が消滅します。更にマグニチュード7.7の地震に相当する衝撃が起こり、1600km離れた場所でも揺れを感じます。
直径が約800m以上の隕石が地面に直撃した場合はアメリカのバージニア州に相当する広さ(110786k㎡)が壊滅し、吹き飛ばされた塵が太陽の光を遮って気候を急速に変化させます。
かつて恐竜をはじめ地球上ほぼすべての生物を絶滅させた隕石は、エベレストくらいの大きさだったとみられています。
『アピン』はどうだったかというと、直径1.25km。ギリシャ上空で大気圏に突入し、アルプス上空で爆発。破片は900km上空に吹き飛ばされたあと再び大気圏に突入し、軌道を逆戻りする形で地中海一帯にばら撒かれ、更に地中海を越えて現在の死海周辺地域にまで及んだとの仮説がたてられています。直径1.25km級の隕石ですから、破片とはいえかなり大きいでしょう。
破片は摩擦熱を帯びているため、飛んできた地域は瞬間的に地表温度は400℃まで上昇します。更に相当な衝撃波が起こったと思われますので、先程②の核爆弾説のような現象が起こったかもしれません。
そしてそのあと吹き飛ばされた塵が太陽の光を何ヵ月も遮り、地球全体が冷え込みます。この証拠として、南アルプスの氷床コアの調査により紀元前3100年頃に急激な気温の低下があったというデータが挙げられています。
…
大きく分けるとこの3つの説が仮説の柱になっているようです。どの説も、それぞれ支持していらっしゃる学者さんたちが専門で研究なさっていると思いますので、私は一素人としてそれぞれの説を楽しませて頂こうと思います。
もし、その観点から個人的な素人妄想を語らせて頂けるとしたら。これって③の隕石が降ってきて尚且つ①の液状化が起きたのではないですかね?
そして「ノアの方舟」のところでも、恐竜を絶滅させた隕石が洪水の原因だったのでは?と妄想しましたが、
聖書を楽しむ【4】
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%904%E3%80%91
旧約聖書の物語は「執筆当時に伝説として広く残っていた話」を取り入れたパターンが結構多いことが、これまで調べた中で薄々分かってきました。
もしかしたらこの「火が降ってきた」事件も、数千年前には人々が誰でも知っていたメジャーな話だったかもしれません。
つまり
紀元前3123年6月29日未明に起きた小惑星アピンの衝突によりヨルダンの現・死海周辺地域の町が炎上、液状化で沈んだ部分が後の死海に
↓
伝説として残る
↓
紀元前2000年頃アブラハム活躍
↓
口伝や伝承で逸話が伝わる中、隕石落下時の事件もアブラハム伝説の中に取り入れられる
↓
「創世記」執筆紀元前5~4世紀にまとめられる
という流れだったんではないかなーと妄想しています。
隕石落下の主な場所が地中海なことを考えますと、ギリシャ神話に残るティタノマキアの『ゼウスの雷霆』も元は隕石による町の滅亡だった可能性すらあると思います。
(Wikipediaより引用)
ゼウスは雷霆を容赦なく投げつけ、その圧倒的な威力によって天界は崩れ落ち、見渡す限りの天地は逆転した。(フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、青土社、1991)
全空間に漲る雷光はティーターン神族の目を焼き、瞬く間に視力を奪った。雷霆から迸る聖なる炎は地球を尽く破壊し、全宇宙とその根源を成すカオスすらゼウスの雷火によって焼き尽くされた。(ヘーシオドス 『神統記』 広川洋一訳、岩波文庫、1984)
「古代ギリシア語」というインド・ヨーロッパ語族の言語を喋っていた人たちを「古代ギリシア人」と定義した場合、旧石器時代以降にギリシャに住んでいた人たちは古代ギリシアの先住民ということになります。彼らがギリシャに移動してきたのは紀元前2200年頃ですので、「ギリシャ神話」が生まれたのも当然そのあとです。
神話は当然「自分達の民族の正統性」を主張するために作られますから、その地域の古くから伝わる話を取り込んで「うちの神様の仕業でした」とするわけです。
…いつものことながら話が反れました。
とりあえず、主の攻撃によってソドムとゴモラは灰塵となり、ロトの妻は塩柱となりました。
翌朝、アブラハムが主と交渉を繰り広げた高台の場所に立ち尽くして焼け野原になったヨルダンを見つめる黙劇と「主はアブラハムの身内だからロトを助けたんですよ」というナレーションが入り、再びロトに焦点が当たります。
翌日の晩、ロトはせっかく逃げ込んだツォアルの町を出て、ふたりの娘を連れて山に住むことにしました。
なんでそうしたかは、これまた色々な説や意見がありました。「ツォアルに住むのを恐れた」って、何が怖かったんや。
個人的な想像ですと、ロトは慎重で臆病な性格ですからツォアルの人々の様子をみて「これ、また滅ぼされるんじゃない?」と思ったか、「この町では生活できない」と思ったのではないでしょうか。
そもそもツォアルを滅ぼさなかったのは、ロトが「山まではとても逃げられないからツォアルで勘弁してくれ」とお願いしたからです。
でも逃げ込んだツォアルは、小さい町とはいえソドムに劣らず風紀の乱れきった町だった…。同じ地域の、同じカナン人の町ですから、文化もそんなに違うとは思えません。そしてよそ者に対して優しい町とも思えません。ソドムのように、レイプされかかった可能性もあります。
「人間こわい!」となったロトが陰遁生活に入っても不思議ではありません。
ロト父娘は山の洞穴に居を構えました。
何年経ったか、文面ではわかりませんが相当な月日が経ったんでしょう。
姉妹のうち、お姉さんが言いました。
「お父さんは年寄だし、普通の男の人なんてこんな所に婿に来ないし…このままだと私たち結婚も子供も出来なさそうじゃん。もうこうなったらお父さんと子作りするしかなくない?」
原文ですと山に逃げ込んだ次の行にこのセリフなのでギョッとしますが、10年くらい経っていたとしたらどうでしょう。
古典イスラム法の一般的な解釈では女子の結婚最低年齢は9歳だそうで、そして中東の常識では結婚するまでヴァージンなのは男女共に当然とのことです。そして現代でも、ヴァージンを捨てる年齢は他の国より遅い割に結婚年齢は低い傾向にあります。
ということは、彼女たちの感覚ですと30歳は既に行き遅れ感があるわけです。
この時点でのロトの年齢は分かりませんが、99歳のアブラハムの甥ですから息子くらいと仮定すると70歳くらいでしょうか。
その娘たち、それも末娘だと思いますから、40歳のとき生まれたと見積もって30歳。(ソドムにいた、他の既婚のロトの娘たちを姉とした場合)
山に逃げ込んでから10年経ったとしたら、ロト80歳の娘40歳。
家長である父がこの洞窟から出ない以上、彼女たちが再び街で生活することは出来ないでしょう。このままでは子孫を絶やしてしまうと危ぶんだ娘たちの焦りも、分からなくはないです。
焦った彼女たちが計画したのは、酒で泥酔させた父への逆レイプでした(爆)背徳の都から逃げてきたのに、娘たちから近親相姦を受ける羽目になるとは、ロトはとことん被害者属性なキャラクターですね…。
こうして知らない間に娘たちに種を搾り取られたロトは、期せずして孫と息子を同時に得ました。
姉の生んだ男の子は「モアブ」。意味は「父によって」。
妹の生んだ男の子は「ベン・アミ」。意味は「私の親族の子」。
…どっちもそのまんまなネーミングです。
モアブはのちのモアブ人、ベン・アミはアモン人とあります。
モアブは死海の東側、アルノン川(現在のワディ・アル・ムジブ)の南からゼレド川(ワディ・アル・ハサ)までの高原地帯の地域を指します。鉄器時代(紀元前1400年くらい)には、ヨルダン中部のカラク地域にモアブ人の国が出来ていたそうです。
モアブ人たちは、紀元前9世紀後半には北西セム語に属するモアブ文字(同時期のフェニキア文字の仲間)を使い、ケモシュという神を信仰していたとのことです。
ケモシュに関しては詳しく知ることはできませんでしたが、『アシュタロテ・ケモシュ』と呼ばれていたらしいことを考えると豊穣・多産の神だったのでしょう。
少しアシュタロテについて調べた章↓
聖書を楽しむ【14】
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%9014%E3%80%91
一方アモン人はヨルダン川東側の山地、ギレアデ地方に国家を築いたという人々です。カナン緒語に属し古典ヘブライ語やモアブ語と極めて近縁のアモン語を使い、豊作・利益を司る神モレクを崇拝していたそうです。
モレクはモロク、マリク、マルカム(「偉大な王」の意)、「涙の国の君主」などとも呼ばれます。子供を生け贄にする儀式が行われていたそうで、その方法が
『青銅製の「玉座に座ったモレク」像の中に棚を設け、そこに小麦粉、雉鳩、牝羊、牝山羊、子牛、牡牛、人間の新生児(王権を継ぐ者の第一子)を入れ、生きたまま焼く』
というものだったそうです。儀式の際には子供の泣き声をかき消すために、シンバルやトランペットや太鼓などで大音量の演奏を行ったといいます。
さて、こうして当時の大都市が滅び、一方で新たな国を築く民の祖となる子たちが生まれました。
多分、こうして昔の伝説と、執筆当時に栄えていた他民族のルーツを取り込むことで、この宗教は正統性を主張してきたのでしょうね。(どの宗教もそうですけど)
今回はここまでです。
楽曲紹介は
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ「我、汝をいかになさんや、エフライムよ」BWV89
です。
https://youtu.be/IXF-K0RqMLc
一曲目のバスのアリアは、ホセア書の聖句をそのまま歌詞にしているとのことです。
『エフライムよ、お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。』
アドマとツェボイムはソドム・ゴモラと同時に滅びた死海の町です。
アデマはソドムとゴモラの姉妹都市。場所不明。
ツェボイムはエルサレムの東北東約13kmの所にあるワディ・アブー・ダバー。
エフライムは北イスラエル王国のことです。
新型肺炎ウイルスの影響が凄まじい今日この頃です。
様々な社会問題や流行り病はいつの時代も無くなることはありませんが、せめて一平民として、過去の文献に学び、最新の情報を常に取り入れ、可能なかぎり最善な行動を取っていたいと個人的に考えています。
過去の文献は、失敗例も成功例もためになるものです。
さて、今回は旧約聖書の中でも指折りの大スペクタクルテーマ『ソドムとゴモラ』のお話です。
※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人(無宗教者)が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
○第十九章
そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着きました。ロトはソドムの門のところに座っていました。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んで言いました。
「さあご主人、どうかあなたがたのしもべの家に立ち寄って足を洗い、泊まっていってください。そして朝早く旅を続けてください。」すると彼らは「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」と言いました。
しかしロトがしきりに勧めるので彼らはロトの家に行きました。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼きました。彼らはそれを食べました。
彼らが床につかないうちに、ソドムの町の人たちが若者から年寄りまで全員やってきて、家を取り囲みました。
彼らはロトに向かって叫びました。「今夜おまえのところにやってきた男たちはどこにいるんだ。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたい。」
ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの扉を閉めて言いました。
「兄弟たちよ、どうか悪いことはしないでください。
お願いします。私にはまだ男を知らない娘が二人おります。娘たちを連れてきますので、あなたがたの好きなようにしてください。そのかわりあの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根に身を寄せたのですから。」
しかし彼らは「引っ込んでいろ」「こいつは他所から来たくせに、さばきつかさのように振る舞ってる。さあ、おまえをあいつらよりもひどい目に会わせてやろう。」と言ってロトの体をはげしく押しつけ、戸を破ろうと近付いてきました。
するとあの人たちが手を差しのべて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸を閉めました。
家の戸口にいた者たちは、大きい者も小さい者も目つぶしを食らったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れはてました。
二人はロトに言いました。
「他にあなたの身内はここにいますか。婿や息子や娘、この町にいる身内の者はみんな、この場所から連れ出しなさい。
わたしたちは、この町を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」
そこでロトは出ていって、娘たちをめとった婿に言いました。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの場所を滅ぼそうとしているから。」
しかし彼の婿たちには冗談のように思われました。
夜が明けるころ、御使いたちはロトをうながして言いました。
「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまうでしょう。」
しかし彼はためらっていました。するとその人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかみました。
ー主の彼に対するあわれみによります。そして彼らを連れ出し、町の外に置きました。
ひとりが言いました。「命がけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけません。この低地のどこでも立ち止まってはなりません。山に逃げなさい。さもないと滅ぼし尽くされてしまいます。」
ロトは彼らに言いました。「主よ、そんなことになりませんように。
ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私の命を救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は山に逃げることができません。わざわいが追い付いて、たぶん私は死ぬでしょう。
ご覧ください。あそこの町は逃れるのに近くて、しかもあんなに小さいのです。どうかあそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私の命を生かしてください。」
その人は言いました。「よろしい。わたしはそのことでもあなたの願いを聞き入れ、その町を滅ぼすまい。いそいでそこへ逃れなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしはなにもできないから。」そのため、その町はツォアルと呼ばれました。
太陽が地に昇ったあと、ロトはツォアルに着きました。
そのとき、主はソドムとゴモラの上に硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされました。
ロトの後ろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。
翌朝早く、アブラハムはかつて主の前に立ったあの場所へ行きました。
彼がソドムとゴモラの方と、低地の全地方をみおろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていました。
こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムのことを覚えておられました。それで、ロトの住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中から逃れさせました。
その夜、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘と一緒に山に住みました。彼はツォアルに住むのを恐れたからです。彼はふたりの娘と一緒にほら穴の中に住みました。
そうこうしているうちに、姉は妹に言いました。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、わたしたちのところに来る男の人などいません。
さあ、お父さんに酒を飲ませ、一緒に寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」
その夜、彼女たちはロトに酒を飲ませ、姉が入っていき、父と寝ました。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知りませんでした。
その翌日、姉は妹に言いました。「ご覧。私は昨夜お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って一緒に寝なさい。そうして、わたしたちはお父さんによって子孫を残しましょう。」
その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、一緒に寝ました。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知りませんでした。
こうしてロトのふたりの娘たちは、ロトによってみごもりました。
姉は男の子を生んで、モアブと名付けました。彼はのちのモアブ人の子孫です。
妹も男の子を生んで、ベン・アミと名付けました。彼はのちのアモン人の子孫です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
過去にも『ノアの方舟』とか『バベルの塔』とか、既出の有名な話はありますが、このお話はだいぶ描写が細かくなっていますね。表現方法が色々工夫されていて、小説としてもだいぶ進化が見られます。
18章の直接の続きになります。
アブラハムと主が「ソドムに10人良い人がいたら滅ぼすのやめる」と約束して別れたあと、主のお付きの二人はその足でソドムにやってきました。
「そのふたりの御使い」ということは、主は一緒に行かなかったんですね。
前回のお話が昼でしたから(「日の暑い頃」ってたぶん昼よね)アブラハム宅での食事の時間を加味しても、数時間かけて徒歩で来たんでしょう。夕暮れ頃にソドムに着きました。
これまた偶然、町の入り口の門のところに、ちょうどアブラハムの甥っ子のロトが座っていました。
ドラクエとかで町の入り口あたりにいる「ようこそ!ここは〇〇の町です!」とか言うキャラを思い浮かべますけどもそんな扱いなんでしょうか。
ロトはふたりの姿を見るなり「立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝み」ました。前章でアブラハムが取った行動と同じですね。
ここも、ロトがこの二人を『人ならざるもの』『神の御使い』と認識していた説と、旅人はおもてなしするべしという風習を守った説で解釈が別れます。私は個人的に、「ご主人」とロトがふたりを呼んでいますので「風習を守った説」を推したいなと思っています。
ロトはふたりの旅人(に見える人)に、自宅に泊まるよう勧めます。彼らが「広場に泊まるからいいです」と言っても退きません。あんまり言うのでふたりは折れて、ロトの家に厄介になることになりました。
客人を自宅に連れていったロトは、ごちそうと「パン種を入れないパン」を焼いてもてなしました。
前回散々パンの歴史について調べましたんで、この時ロトが作ったパンは精製前のライ麦で作られた、クリスピーピザ生地やクラッカーに近い平パンだったことが分かります。
アブラハムのおうちで出した料理はちゃんとメニューも詳細に書いてあったのに、今回はただ「ごちそう」としか書いてありません。
なので勝手な妄想をいたしますと、アブラハムとの生活の差を表したかったのかしらと思います。
第13章でアブラハムと袂を分かってから24年、ロトは豊かなヨルダンの低地を一家の住みかに選び、ソドムの町に身を寄せて暮らしてきました。よそ者として生きづらい面もあったかもしれませんが、とりあえず町の経済の中で暮らしていれば物質面で困ることはありません。
そもそも、ソドムとゴモラは相当栄えた町だったと思われます。
死海のほとりにあったと考えられている二つの町は、牧畜や農耕以外に「アスファルトの輸出」で潤っていたと考えられるからです。
第14章のところで調べた通り、死海は昔は「シディム」という名前の谷で、その谷には瀝青(天然アスファルト)が採掘された後の穴がたくさん空いていました。防水加工に優れた天然アスファルトはバベルの塔のところで触れましたがミイラの加工にも使われており、エジプトへの重要な輸出品でした。
ヨルダン川の恵みのおかげで食料には困らず、先進大国エジプトから外資を稼ぐこともできたわけです。
まとまった財産を持っていたロトたちは、家畜を売ってそれを元手に町の中で商売をしたり、土地を買って自分の家を建てたりして町に溶け込んだのでしょう。遊牧生活を続けるアブラハムの一家よりも、物質的には豊かになったのです。
前章でアブラハムが主たちに出した、子牛肉の料理と凝乳(カッテージチーズ)、搾った牛乳というメニューは、アブラハム家にとっては最大限のおもてなしでしたが、急拵え感が否めないものです。
気温の高いメソポタミアの気候で冷蔵保存など出来ない時代、牛乳は搾りたてでしょうし、カッテージチーズも作ってすぐ食べていたでしょう。
パン菓子も客人たちが来てからサラに命じて焼かせたものですし、仔牛に至っては主たちが訪れてからアブラハム自ら「柔らかくて美味しそうな子牛」を選び出して屠って、料理番の若者に渡して作らせたものです。調理にあまりに時間がかかるものを出せたとは思えませんので、恐らく焼いて出したのではないでしょうか。
つまり『蓄え』としてすぐ出せる保存食料が無かったことになります。
この時代のメソポタミアの台所事情は、果たしていかなものだったんでしょうか?
調べてみますとやはり乳製品は腐りやすいこともあり、貴族など限られた人が口にしていたといいます。 保存食料といえば山羊や羊・牛などの干し肉や塩漬け肉、豆や麦などの穀物でした。野鳥や野うさぎなども食べられていたそうです。
野菜は都市部の富裕層のみが食べられる高級品でしたが、種類自体はかなり色々あったようです。
ネギ、タマネギ、ニンニク、レタス、カブ、カボチャ、きゅうり、テンサイ、チコリーなどの他、レモンやイチジクなどの果物も栽培されていたそうです。
果物は搾って生ジュースとして飲んだり、乾燥させてドライフルーツにしてケーキの材料や甘味料にしたり。こうしてみますと、3000~4000年前とは思えない程料理の文化は確立していたことがわかります。
引用サイト:
https://www.phantaporta.com/2017/07/blog-post22.html?m=1
古代メソポタミアの粘土板の中には、当時のレシピの記録がいくつか残っていたりするそうです。
アメリカのイェール大学が所蔵する粘土板には、約40種類の紀元前1600年頃の『高級料理』のレシピが載っているとのことです。
よく作られていたのは煮込み料理でした。肉や野菜を放り込んで煮るだけではなくて、野菜を煮崩したり、パンでとろみをつけたり、麦粉の団子が入ったり、獣の血を入れたり、コリアンダーやクミンやミントなどのハーブを乾燥させた香辛料を入れたりと、現代と変わらないくらいバリエーションは色々。
こちらの記事では、その粘土板のレシピを再現なさっていました。↓
引用サイト:
https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/maidon/17-00008
○古代メソポタミア(紀元前3000~紀元前400年頃)の麦とラム肉のシチュー
【材料】(4人分)
ラム肉 200g
エンマー小麦(古代小麦の一種) 50g
セモリナ粉 50g (※パスタ等に使用する小麦粉の一種)
にんじん 80g
クミン粉 大さじ4 (※カレー等に使用するスパイス)
コリアンダー粉 大さじ4 (※パクチーのスパイスで柑橘系の香りが特徴)
ミント 1枝
にんにく 1片
水 600ml
(メソポタミア風だし)
水 1.2リットル
クレソン 50g
きゅうり 100g
フェンネル粉 大さじ1 (※セリ科の多年草のスパイスで甘い香りが特徴)
クミン粉 大さじ1
【作り方】
1. メソポタミア風だしをつくる。鍋に水を入れて、ざく切りにしたクレソン、きゅうり、フェンネル粉、クミン粉を入れて水が半量になるまで弱火で煮込む。
2. ラム肉、にんじんを一口サイズに切る。にんにくをすりつぶす。
3. 鍋に水と1を入れてラム肉、クミン粉、コリアンダー粉、セモリナ粉、エンマー小麦、にんにく、にんじん、ミントを入れて火にかける。
4. 沸騰したらアクをとり、弱火で30分煮込む。適度にとろみが出てたら完成。
○イースト菌のかわりにビールで発酵させたパン「アカル」
【材料】(4人分)
エンマー小麦 200g
セモリナ粉 200g
薄力粉 200g
ハチミツ 適量
塩 適量
ビール 350ml
【作り方】
1. エンマー小麦、セモリナ粉、薄力粉をボウルに入れ、ハチミツ、塩を加える。
2. 1にビールを注ぐ。
3. 木べらで粉っぽさがなくなるまでよくかき混ぜる。
4. 耐熱容器に移し、180℃のオーブンで40~50分焼く。
アカルは、ベーグルのようなしっかりした食感のパンらしいです。
古代メソポタミアのメニューでお食事会をなさっていた方もいらっしゃいました。↓
引用サイト:
https://togetter.com/li/1024149
引用メニュー
○料理
①レンズ豆と炒り麦の粥(リゾット)(イェール大学のタブレットレシピB(7-iv-(46)~(50))
【材料】
レンズ豆、大麦、ポロねぎ、にんにく、玉ねぎ 、鶏肉、赤ワインビネガー、ブイヨン、ミント
②羊肉の塩味の煮込み (イェール大学のタブレットレシピA(20))
【材料】
羊肉、塩、玉ねぎ、クミン、コリアンダー、ポロねぎ、にんにく、ブイヨン
③栽培種の蕪の煮込み (イェール大学のタブレットレシピA(25))
【材料】
玉ねぎ、ルッコラ、コリアンダー、蕪、ポロねぎ、にんにく、ブイヨン
④メルス (マリ王国の宮廷文書 ARM XI,no.13)(古代メソポタミアの焼き菓子)
【材料】
小麦粉、水、牛乳、ビール、植物油、バター、なつめやし、ピスタチオ、干しブドウ、りんご、ハチミツ、クミン、コリアンダー、にんにく
○飲み物
①フレーバーウォーター
【材料】
水、ぶどう、ざくろ
②シェニーナ (清涼乳飲料)
【材料】
牛乳、水、ヨーグルト、塩
③はちみつ入りビール
【材料】
ビール、各種ハーブ、ハチミツ、ワイン
④ハーブ浸けワイン
【材料】
白ワイン、コリアンダー、タイム
創世記第9章のノアのところで調べましたけれども、メソポタミアはふどう栽培には適さない土地で、ワインは少しは生産されていましたが高級品でした。日常的に飲む酒としては、ビールの方が身近なものだったと思われます。
聖書を楽しむ【5】
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%905%E3%80%91
日本では数少ないですが、メソポタミアのお料理が食べられるお店もあります。
こちらは東京にあります、クルド料理のお店。
【クルド料理屋 メソポタミア】
https://mesopotamiajp.jimdofree.com/
↑
ここは個人的にいつか行きたいなーと思いつつ、なかなか行けていないお店のひとつです。
これらの資料を頼りに、ロトがお客様にお出しした「ごちそう」を想像いたしますと、前章でアブラハムが大慌てで用意した精一杯の料理がいかに粗食かわかります。
すぐにこれらの料理が用意できたということは、ロトの家は日常的にこのような食材が揃っていたということになります。
食料がこんなに豊かなのですから、きっとベッドもフカフカだったんでしょうね。ロトはふたりの旅人さんに寝床を提供し、さて自分もそろそろ寝ようかなとお布団に入ろうとします。
ところが、なにやら外が騒がしい。
なんだなんだと外を覗いてみると、なんと町中の人が老いも若きも全員やってきてお家を取り囲んでいます。彼らは
「今夜おまえのところにやってきた男たちはどこにいるんだ。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたい。」
と叫んでいます。
「~を知る」「~のところに入る」という表現は、聖書においてよく使われますが体の関係をもつという意味になります。
つまりソドムの町人全員、老いも若きも男も女も、ロトの家にいる旅人たちと体の関係を持ちたがっているということになります。旅人さんたちは、実は人間ではないだけあってよっぽどイケメンだったのでしょう。
ソドムが「悪徳の都」と言われる大きな理由が、この部分によります。不特定多数との性行為、同性愛が横行しているからだということです。
近年は認められだしている同性愛ですが、このお話の主人公である「ヘブル人」たちの目的は『自分の一族の人口をたくさん増やす』ことですので、彼らにとってはダメなことなのかもしれません。
同じく、不特定多数と行為に耽るのも『自分の子孫』を残したい「男性」の信徒にとっては無駄な行為でしょうね。また、アブラハムの契約である『包茎手術』について調べたときに出てきた、性病を恐れてのことかもしれません。まあそういう考えの人もいるだろうな、とは思います。
(私は個人的には別に好きにしたらいいと思うし、LGBTもありだと思う。ちなみに野性動物の世界では同性愛はよくある。)
『ソドムの罪』にはいくつか説があるようですが、同性愛の禁忌として解釈するようになったのは紀元前2世紀頃からだそうです。
元々は同性愛を許容する古代ギリシャの文化を批判するために、例話として使われるようになったようです。
まあそれはそれとして、ピンチなのは今まさに町中の人に取り囲まれているロトです。自分の家に招き入れた大事な客人を、危険な目に合わせるわけにはいきません。ロトは外に出て、入り口のドアに立ちふさがって
「うちの処女の娘二人を代わりに好きにしていいので、どうか客人には手を出さないでください」
と言います。
現代の日本からみるととんだ父親だなと思うところですが、これはメソポタミア特有の家父長制的な判断と言えるそうです。娘は家長である父親の所有物で、客人をおもてなししたり守ったりするのは家長の義務である。だからどんな犠牲を払ってでも、所有物たる娘を身代わりにしても、家の名誉のために守りきらなくてはならない…とまあ、こういう思考なわけです。
しかしソドムの人々は「引っ込んでろ」と取りつく島もありません。まあ元々ロト家の客人を目当てにやって来た人々ですし、男色家の人やレズでない女性は女に興味は無いですね。
それどころか、「おまえ元々よそ者のくせに偉そうでムカつくな。あいつら(客人)より酷い目に合わせてやろう。」とロトに矛先を変えて襲ってきたのです。
原文の「さばきつかさ」は、王政が樹立する前の時代の指導者的立場の人を指します。恐らくロトの清廉潔白な性格にプラスして、裕福な生活をしていたことも恨みを買う原因になったのではないでしょうか。
壁に激しく押し付けられるロト!そこに四方八方から男たちの手が迫る!!
第14章でメソポタミア連合軍に拐われたり何かとヒロイン体質なロトですが、老齢になっても相変わらずでした。
あわやこのままレイプされてしまうのかというところで、家の中にいた客人たちがドアを一瞬開けてロトを引っ張りこんでくれました。危機一髪。
ドアの前にいた人たちは「大きい者も小さい者も目つぶしを食らったので、戸口を見つけるのに疲れはてた」とありますが、まさか一人ずつの目に指を突っ込んだり、砂をぶっかけたりしたわけではないでしょう。
強烈な光を見せて、まとめて目つぶししたと考える方が効率的だし何よりカッコいい(爆)このシーンを絵に描いている画家さんたちも、大抵光輝く天使として客人たちを描いています。一般人には、背中の羽は見えない設定になっているようです。
(原文には、勿論この客人たちに羽が生えてる描写はありません。)
ふたりの客人は、助け出したロトに
「この町に、あなたの身内は(同居する娘ふたりの他に)いますか?いるならすぐこの場所から連れ出しなさい。実はわたしたちはこの町を滅ぼすために、主から遣わされたんです。」
と言いました。今の一件で、善人10人どころではなくもう町中悪人だらけだと判断されたわけです。
アブラハムと同じで素直なロトは疑うこともなく、すぐに同じ町に住む身内の家に向かいました。
アブラハムたちと別れてこの町に来たときには独り身だったロトも、ソドムに腰を落ち着けてからは家族が増えました。
まず、一緒に住んでいる二人の娘と奥さん。
それ以外にも何人か娘がいるようで、彼女たちは既にお嫁に行って別居しています。
時刻は夜中近く。ドアの前で目潰しをくらって呻く町人たちの横をすり抜け、お婿さんと娘が住んでいる家に走っていくロト。息も絶え絶えに
「主がこの町を滅ぼそうとしてるから逃げろ」
と伝えました。
ところがお婿さんは
「新手のジョークですか?」
次の家でも
「お義父さん、寝ぼけてるんスか」
次の家でも
「面白い冗談っスね(笑)おやすみなさい(笑)」
てな感じで、本気で取り合ってもらえませんでした。
かわいそうなロト。
ロトが一晩中、町を走り回って身内全員に逃げるよう言っているうちに、夜が明けてきました。いよいよ時間切れです。
ふたりの御使いは
「とりあえずここにいる妻と娘ふたりを連れて行きなさい。さもないとあなた方まで滅ぼし尽くされてしまいますよ。」
と警告しますが、ロトはまだ躊躇っていました。
「家族を見捨てて自分たちだけ逃げるなんて!」
「もう一度行って説明したら、分かってくれるかもしれないのに!」
ロト優しすぎない?なんか、ゲームの主人公とか見ている気分です。
そんなロトを見て、こりゃだめだと思った御使いたちは、ロトと奥さん、娘二人の手をつかんで「彼らを連れ出し、町の外に置き」ました。
どういう風に連れ出したのか、徒歩で引っ張って行ったのか、天使みたいに飛んで運んだのか、はたまた瞬間移動したのかは書いていませんので妄想し放題ですね!(爆)
(光と共に瞬間移動したと想像すると一層RPGっぽい)
町の外に強制退去したロト一家に、御使いのひとりが言いました。
「命がけで逃げろ。とにかく逃げろ。うしろを振り返るな!低地にいる間は立ち止まるなよ!山まで行けば安全だから、山に逃げなさいよ!」
ところがロトは
「せっかく助けてもらってありがたいですけど、山までなんて無理ですよ…たぶん追い付かれちゃいますよ…。行けてあの小さい町くらいまでです…。あそこゴールにさせてもらえませんかね?あんなに小さい町なんですから、わざわざ滅ぼすほど大した町じゃないですよたぶん…」
と弱音吐いてます。まあロトも結構なお年寄りですから、体力的に仕方ないですね。それ以前に一晩中ソドムの町を走り回ってたんで、そのまま強制長距離マラソン突入なのも老体にはひどい話です。
御使いは
「じゃああの町は滅ぼさないであげるから、あそこにお逃げ。それまで何もしないでいてあげる。」
と妥協しました。このひとロトにはやたら甘いです。
ちなみに、このときロトが避難所に選んだこの町は後に『ツォアル』というお名前で呼ばれるようになったそうです。
なにが「そのため」なのかというと、ロトが「あの町はすごく小さい」と言ったからです。
13章でアブラムとロトがお別れしたとき、この町の名前がチラッと出てきましたが、そのとき
『ツォアル(ゾアル)はヘブライ語では「小さな」または「重要ではない」という意味』
と調べました。あそこでわざわざ町の名前を出したのは、この台詞の伏線だったんですね。
とりあえず、ロトは老体に鞭打って平地をマラソンし、太陽が完全に昇りきったあとにツォアルの町に着きました。
どれくらいの距離があったのか今となっては正確な距離は分かりませんが、試しにソドムの跡地とされる前期青銅器時代(紀元前3150年~2200年)の都市遺跡バブ・エ・ドゥラー(Bab edh-Dhra)と、ツォアルがシディムの谷(現在の死海)近くの町ということで現在の死海の東にあるムジブ自然保護区の距離をGoogleマップで見てみましたら直線で26km、徒歩ですと5時間20分かかると出ました。老体にはキツい距離ですね。
ロトたちが町に入るや否や、神さまは「よっしゃ!」と言わんばかりにソドムとゴモラに攻撃を開始しました。具体的には、ソドムとゴモラの上に「硫黄の火」を降らせました。これによって、町々と低地全体と、町に住んでいた住民全員と、その地の植物がみんな滅ぼされたということです。
ソドムの跡ではないかと言われているバブ・エ・ドゥラーからは2万人もの人が埋まっているお墓が発見されているそうで、紀元前3000~2000年の世界人口が1400万~2700万人だったことを考えますとどれ程の大惨事だったか想像が出来ますね。
この町の跡は全体的に白っぽく、炭酸カルシウムと硫酸カルシウム(石膏)で構成されており、元々は石灰岩(大理石など)の建物が高温の硫黄で燃やされたためにこうなったと考えられています。建物跡の壁に見られる渦巻き模様は装飾とかではなく、6000℃以上の高温の熱に晒されたために出来たものだということです。
考古学者ケレンサ・グリッグソン女史によると、この遺跡近郊の死海に沿った平原の5ヶ所でゴルフボールサイズの硫黄の玉がたくさん発見されているそうです。この硫黄の玉は硫黄含有量が98.4%と非常に純度が高く、自然で見られる火山の爆発などによる硫黄が純度40%くらいなことを考えると非常に不自然な物体です。
純粋な硫黄が降り注ぎ街を焼いたという現象自体は、どうやら実際に起こった出来事のようです。
ちなみに「硫黄」という単語は、聖書にはここで初めて出てきました。以降、燃えやすいものとして聖書にたびたび出てくるみたいです。
実際の硫黄はこんな物質です。
(Wikipediaより抜粋)
硫黄(いおう、英: sulfur, 羅: sulphur)は原子番号16番の元素である。元素記号はS。原子量は32.1。酸素族元素のひとつ。
硫黄の英名「sulfur」は、ラテン語で「燃える石」を意味する語に由来する。
多くの同素体や結晶多形が存在し、融点、密度はそれぞれ異なる。沸点444.674℃。大昔から自然界において存在が知られている。
金属鉱床に多く含まれている元素で、火山地域や鉱床とかから採れたり原油の精製の際に副産物として出来たりします。
科学薬品やゴム、合成繊維、農薬、抜染剤の製造に用いられたり、干し柿や干しイチヂクの漂白剤、ワインの酸化防止剤などにも使われたりします。
硫黄は同じ種類の元素の原子が結び付きやすく(カテネーション)、30種類以上の同素体があります。その中で、通常天然で見られる同素体は「S8硫黄」といいまして、常温、常圧では黄色い固体です。結晶形にもよりますが、106.8~112.8℃が融点で融解すると粘性の低い黄色から血赤色の液体となり、159.4℃で粘性の高い暗赤色となります。
約360℃で発火し、青い炎を上げます。そのまま加熱し続けると、444.674℃で沸騰し始めます。
硫黄自体に臭いは無いのですが、噴火口や硫黄泉の周囲など天然の硫黄が存在する場所で多く発生する硫黄化合物である硫化水素は腐卵臭が、二酸化硫黄は刺激臭があるので日本語ではこれらの臭気を「硫黄の臭い」「硫黄のような臭い」と表現することがあります。
…木材の発火点が250~260℃、新聞紙の発火点が291℃なことを考えますと、360℃で発火する硫黄は別段燃えやすいというわけではありませんね。
それはそうとして、まもなく360℃以上の火のかたまりが雨あられと降ってくるんですから大変です。
必死に逃げている最中、ロトの妻は御使いの「うしろを振り返るな」という忠告をうっかり忘れて振り返ってしまいました。「ソドムの裕福な生活や財産が惜しくて、神の忠告を信じられなかったからだ」という意見もお聞きしますが、彼女にしてみたら自分の娘たちをこれから滅ぶ町に置いてきてしまったんですから、振り返ってしまうのも仕方ないと思います。
『うしろを振り返ること、または見ることを禁じられ、それを破ってしまう』というシュチュエーションは、日本神話のイザナミや鶴の恩返し、ギリシャ神話のオルフェオなどにも伝わっているモチーフです。『後ろを振り返らない』という誓約は、かなり昔から人間の儀式や呪術に根付いたものだったと思われます。
今回の場合、神に守られているアブラハムの直接の身内であるロト以外の人間を『ついでに』救うための救済措置の臨時契約となっていました。ぶっちゃけロト以外の人間を助ける義理は神には無いわけですから、誓約を守れなかった妻は助けられなくて当然、ということでしょう。
振り返ったロトの妻は『塩の柱』になってしまった、とのことで、現在『ロトの妻の塩柱』と題された岩の塊がイスラエル南東部の死海西岸の公道90号線に沿ったソドム山の上にあって観光地になっています。(10メートルくらいの高さがあるそうなので、もしこれが本当にロトの妻だったとしたら巨人ですね)
しかしながら、「塩」を意味するシュメール語『ニ・ムル』には「蒸気」という意味もあるそうで、「蒸気の柱」と読むこともできるそうな。つまりロトの妻は跡形もなく蒸発してしまった、と読解することもできるわけです。
そもそも主はロトがツォアルに入るまでは硫黄で攻撃してませんので、妻が塩(あるいは蒸気)になってしまったのはただ振り返ったのが直接の原因ではない可能性もあります。万が一振り返った場合どんなペナルティがあるか、御使いは説明しなかったからです。
しかし何かのペナルティで足止めを食らい、硫黄の火に巻き込まれたのは間違い無さそうです。たとえば「後ろを振り返ったらその時点で身体が動かなくなる」とか。その場合、妻は意識はあるのに硬直状態になり、そのまま焼かれるという非常にむごい状況になったと思われます。
人間の肉体が塩、或いは蒸気になってしまうほどの炎、とはどんなものなのでしょう。
創世記の中で大洪水に次いで壮大なシーンである今回ですが、モデルとなった出来事がかつてあったのだろうと考えられます。これについては色んな学者さんやオカルトファンの方々が色んな説を唱えていらっしゃいますので、有名な説をいくつか見てみます。
①大地震説
「硫黄の火」と「かまどの煙のように煙が立ち上って」という表現が、地震による地割れと液状化現象によるものではないかという学者さんもいらっしゃいます。
テレビのドキュメンタリー番組でもやってました。↓
https://archives.bs-asahi.co.jp/bbc/hi_03_03.html
大地震による地割れで地中のメタンガスが吹き出し、引火して炎が上がった現象を「硫黄の火」と解釈した説です。更に液状化現象により町ごと湖に引きずり込まれたとの仮説が立てられています。
死海はシリア・アフリカ断層のほぼ北端に位置しています。東アフリカを分断し、紅海からアカバ湾を通ってトルコ(アナトリア半島)にまで大地溝帯が延びているこの断層は、これまでも大きな地震を起こしてきました。
そもそも、死海を含むヨルダン渓谷は白亜紀以前はまだ海でした。海底隆起が起こったことでパレスチナ付近の高原が作られたと同時にこの断層が出来たと考えられているそうで、この断層の西側がアフリカプレート、東側がアラビアプレートになりました。
日本もそうですが、プレートの境目地域は非常に地震が多くなります。
そして液状化現象は、砂丘地帯や三角州、埋め立て地、旧河川跡や池沼跡、水田跡などで起こりやすい現象です。
砂を含む砂質土や砂地盤は、普段は砂の粒子同士の剪断応力(物体内部のある面と平行方向に、その面にすべらせるように作用する応力のこと)による摩擦のおかげで安定を保っています。ところがこのような地盤で尚且つ地下水位が高かったり或いは何らかの理由で地下水位が上昇した場所で、地震や建設工事などによる連続した振動が加わりますと、砂の粒子がバラバラになって摩擦の力が弱まってしまいます。剪断応力が0になると砂の粒子が地下水に浮かんだ状態になって、耐久力を失います。この状態が『液状化』です。液状化した地盤では、比重の大きいビルや橋梁は沈下したり、比重の小さい地下埋設管やマンホールなどは浮力で浮き上がったりします(抜け上がり現象)。また、液状化を起こした砂が表層の粘土を突き破り、水と砂を同時に吹き上げたり(ボイリング)することもあります。
ここで死海の当時の様子を考えてみましょう。
前述のとおり、この「ソドムとゴモラ事件」が起こる前は死海は「シディム」という名前の谷でした。谷ということは山と山の合間ということになりますが、ロトがアブラハムと問答して選びとったのは『ヨルダンの低地』とありましたから、標高は低かったでしょう。
現在の死海を見てみると、海抜が-430mと非常に低く、ヨルダン川から流れ込む水の出口がありません。
先程、液状化現象の起こりやすい例を述べましたけれども、この条件に当てはまるのは海沿いの低湿地です。条件を満たせば、内陸の平野部でも発生するとのことです。
ヨルダンは現在でも国土の80%は砂漠地帯ですが、砂漠地帯の地盤は水分を含むと液状化しやすい性質を持ちます。
ヨルダン川の恵みのおかげで農業や牧畜も捗り、飲み水にも困ることのなかったソドムとゴモラでしたが、そのために液状化が起こる条件を満たした土地だったということになります。
更にアスファルトを輸出できるほど地下資源が豊富という事実を考えれば、地割れで地中のメタンガスが吹き出し、引火したとしても不思議はないかと思います。現在でも、天然ガスの輸出はヨルダンの経済を支えているそうです。
②核爆弾説
オカルトファンの「古代核戦争説」を語るとき、インドの『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』と並んで引用されるのが、このソドムとゴモラの滅亡シーンです。『古代核戦争説』というのは、有史以前の地球に栄えていた近代人の知らない超古代文明、あるいは既に知られている古代の文明が、核戦争で滅びてしまったとする説のことをいいます。この話においては、神の力=核だとして、当時の人間より遥かに進んだ文明を持っていた何者かが『主』の正体ではないかと考える説になります。 第5章のネフィリムについて調べたとき出てきた《古代宇宙飛行士説》 ですね。
原子爆弾で人間は塩、または蒸気になり得るのでしょうか?
『蒸気の柱』というワードから広島の『人影の石』を思い出したので調べてみたのですが、現在では人体蒸発説は医学的に否定されているそうです。
(『人影の石』… 広島原爆の爆心地から260mに位置した住友銀行広島支店の玄関前の石段。そこに座っていた人の影の跡とされていた。実際は座っていた人の付着物によって黒くなっている。)
原爆の爆心地付近の地表温度は3000~4000℃に達したと推定されていますが、人体は炭素原子からできた有機物のため骨や炭化した組織は残り、蒸発はしないとのことです。
ネットで拝見したサイトで、広島大原爆放射線医科学研究所の星正治教授(放射線生物・物理学者) の「体全体が完全に炭化した場合、爆風で粉々になり吹き飛ばされて、あたかも蒸発して消えてしまったような状況になったというほうが自然」というお考えを見まして、なるほどと思いました。
核爆弾が空中で爆発すると数百万℃の火球が発生して超高温の熱線と致死量の放射能が周囲に放散され、空気が急激に加熱されることによって強力な衝撃波が起こります。遺骨すら見つからなかった人もたくさんいらっしゃるということですので、蒸発したという説が流れたのかもしれません。
もしもソドムとゴモラが核の力で攻撃を受けたとしたら、一瞬で塩(岩塩)になってしまう→炭 あるいは蒸気になってしまう→炭化したあと吹き飛ばされて消えた という解釈ができます。
③隕石落下説
火が降ってくるという表現から、かつて恐竜を絶滅させ生態系を激変させた隕石落下を連想する学者さんもいます。実際、どうもこのあたりの時期に隕石が落下したらしいです。
ニネヴェの王宮図書館の遺跡で見つかった、古代の天文学者が残した粘土板にそのような記述がありました。
19世紀イギリスの考古学者ヘンリー・レヤード氏が発見したこの粘土板は「プラニ・スフィア(星図)」と呼ばれていて、紀元前700年頃にアッシリア人の書記官が作ったものと見られています。
粘土板が発見されてから150年以上謎のままでしたが、イギリスの航空宇宙技術者のアラン・ボンド氏とマーク・ヘンプセル氏が解析・研究した結果を共著し、2008年に自費出版しました。(writersprintshop出版『A Sumerian Observation of the Köfels' Impact Event』)
その著書によりますと、円形の粘土板には双子座や木星などと共に『アピン』と名付けられた謎の矢印が書き込まれており、「この天体配置があった明け方の5時30分に、4分半かけてアピンは地上に落下した」という記述があったそうです。
コンピューターでその天体配置を再現したところ「紀元前3123年6月29日未明」の空であることがわかり、アピンは典型的な「アテン群小惑星(地球近傍小惑星の分類の一つ)」だとされました。
この小惑星は直接地上に落ちたわけではなくてオーストリアのアルプス上空で空中爆発を起こしたとみられていますが、直撃は免れてもその被害は凄まじかったのではと予想されています。
隕石の破壊力はどんなものか見てみましょう。
家一軒分の大きさの隕石で核爆弾と同じくらいの破壊力を持ち、2.4k㎡以内の建物を壊滅させてしまいます。
サッカー場の大きさ(7140㎡)くらいの隕石になると、ニューヨーク(783.8k㎡)が消滅します。更にマグニチュード7.7の地震に相当する衝撃が起こり、1600km離れた場所でも揺れを感じます。
直径が約800m以上の隕石が地面に直撃した場合はアメリカのバージニア州に相当する広さ(110786k㎡)が壊滅し、吹き飛ばされた塵が太陽の光を遮って気候を急速に変化させます。
かつて恐竜をはじめ地球上ほぼすべての生物を絶滅させた隕石は、エベレストくらいの大きさだったとみられています。
『アピン』はどうだったかというと、直径1.25km。ギリシャ上空で大気圏に突入し、アルプス上空で爆発。破片は900km上空に吹き飛ばされたあと再び大気圏に突入し、軌道を逆戻りする形で地中海一帯にばら撒かれ、更に地中海を越えて現在の死海周辺地域にまで及んだとの仮説がたてられています。直径1.25km級の隕石ですから、破片とはいえかなり大きいでしょう。
破片は摩擦熱を帯びているため、飛んできた地域は瞬間的に地表温度は400℃まで上昇します。更に相当な衝撃波が起こったと思われますので、先程②の核爆弾説のような現象が起こったかもしれません。
そしてそのあと吹き飛ばされた塵が太陽の光を何ヵ月も遮り、地球全体が冷え込みます。この証拠として、南アルプスの氷床コアの調査により紀元前3100年頃に急激な気温の低下があったというデータが挙げられています。
…
大きく分けるとこの3つの説が仮説の柱になっているようです。どの説も、それぞれ支持していらっしゃる学者さんたちが専門で研究なさっていると思いますので、私は一素人としてそれぞれの説を楽しませて頂こうと思います。
もし、その観点から個人的な素人妄想を語らせて頂けるとしたら。これって③の隕石が降ってきて尚且つ①の液状化が起きたのではないですかね?
そして「ノアの方舟」のところでも、恐竜を絶滅させた隕石が洪水の原因だったのでは?と妄想しましたが、
聖書を楽しむ【4】
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%904%E3%80%91
旧約聖書の物語は「執筆当時に伝説として広く残っていた話」を取り入れたパターンが結構多いことが、これまで調べた中で薄々分かってきました。
もしかしたらこの「火が降ってきた」事件も、数千年前には人々が誰でも知っていたメジャーな話だったかもしれません。
つまり
紀元前3123年6月29日未明に起きた小惑星アピンの衝突によりヨルダンの現・死海周辺地域の町が炎上、液状化で沈んだ部分が後の死海に
↓
伝説として残る
↓
紀元前2000年頃アブラハム活躍
↓
口伝や伝承で逸話が伝わる中、隕石落下時の事件もアブラハム伝説の中に取り入れられる
↓
「創世記」執筆紀元前5~4世紀にまとめられる
という流れだったんではないかなーと妄想しています。
隕石落下の主な場所が地中海なことを考えますと、ギリシャ神話に残るティタノマキアの『ゼウスの雷霆』も元は隕石による町の滅亡だった可能性すらあると思います。
(Wikipediaより引用)
ゼウスは雷霆を容赦なく投げつけ、その圧倒的な威力によって天界は崩れ落ち、見渡す限りの天地は逆転した。(フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、青土社、1991)
全空間に漲る雷光はティーターン神族の目を焼き、瞬く間に視力を奪った。雷霆から迸る聖なる炎は地球を尽く破壊し、全宇宙とその根源を成すカオスすらゼウスの雷火によって焼き尽くされた。(ヘーシオドス 『神統記』 広川洋一訳、岩波文庫、1984)
「古代ギリシア語」というインド・ヨーロッパ語族の言語を喋っていた人たちを「古代ギリシア人」と定義した場合、旧石器時代以降にギリシャに住んでいた人たちは古代ギリシアの先住民ということになります。彼らがギリシャに移動してきたのは紀元前2200年頃ですので、「ギリシャ神話」が生まれたのも当然そのあとです。
神話は当然「自分達の民族の正統性」を主張するために作られますから、その地域の古くから伝わる話を取り込んで「うちの神様の仕業でした」とするわけです。
…いつものことながら話が反れました。
とりあえず、主の攻撃によってソドムとゴモラは灰塵となり、ロトの妻は塩柱となりました。
翌朝、アブラハムが主と交渉を繰り広げた高台の場所に立ち尽くして焼け野原になったヨルダンを見つめる黙劇と「主はアブラハムの身内だからロトを助けたんですよ」というナレーションが入り、再びロトに焦点が当たります。
翌日の晩、ロトはせっかく逃げ込んだツォアルの町を出て、ふたりの娘を連れて山に住むことにしました。
なんでそうしたかは、これまた色々な説や意見がありました。「ツォアルに住むのを恐れた」って、何が怖かったんや。
個人的な想像ですと、ロトは慎重で臆病な性格ですからツォアルの人々の様子をみて「これ、また滅ぼされるんじゃない?」と思ったか、「この町では生活できない」と思ったのではないでしょうか。
そもそもツォアルを滅ぼさなかったのは、ロトが「山まではとても逃げられないからツォアルで勘弁してくれ」とお願いしたからです。
でも逃げ込んだツォアルは、小さい町とはいえソドムに劣らず風紀の乱れきった町だった…。同じ地域の、同じカナン人の町ですから、文化もそんなに違うとは思えません。そしてよそ者に対して優しい町とも思えません。ソドムのように、レイプされかかった可能性もあります。
「人間こわい!」となったロトが陰遁生活に入っても不思議ではありません。
ロト父娘は山の洞穴に居を構えました。
何年経ったか、文面ではわかりませんが相当な月日が経ったんでしょう。
姉妹のうち、お姉さんが言いました。
「お父さんは年寄だし、普通の男の人なんてこんな所に婿に来ないし…このままだと私たち結婚も子供も出来なさそうじゃん。もうこうなったらお父さんと子作りするしかなくない?」
原文ですと山に逃げ込んだ次の行にこのセリフなのでギョッとしますが、10年くらい経っていたとしたらどうでしょう。
古典イスラム法の一般的な解釈では女子の結婚最低年齢は9歳だそうで、そして中東の常識では結婚するまでヴァージンなのは男女共に当然とのことです。そして現代でも、ヴァージンを捨てる年齢は他の国より遅い割に結婚年齢は低い傾向にあります。
ということは、彼女たちの感覚ですと30歳は既に行き遅れ感があるわけです。
この時点でのロトの年齢は分かりませんが、99歳のアブラハムの甥ですから息子くらいと仮定すると70歳くらいでしょうか。
その娘たち、それも末娘だと思いますから、40歳のとき生まれたと見積もって30歳。(ソドムにいた、他の既婚のロトの娘たちを姉とした場合)
山に逃げ込んでから10年経ったとしたら、ロト80歳の娘40歳。
家長である父がこの洞窟から出ない以上、彼女たちが再び街で生活することは出来ないでしょう。このままでは子孫を絶やしてしまうと危ぶんだ娘たちの焦りも、分からなくはないです。
焦った彼女たちが計画したのは、酒で泥酔させた父への逆レイプでした(爆)背徳の都から逃げてきたのに、娘たちから近親相姦を受ける羽目になるとは、ロトはとことん被害者属性なキャラクターですね…。
こうして知らない間に娘たちに種を搾り取られたロトは、期せずして孫と息子を同時に得ました。
姉の生んだ男の子は「モアブ」。意味は「父によって」。
妹の生んだ男の子は「ベン・アミ」。意味は「私の親族の子」。
…どっちもそのまんまなネーミングです。
モアブはのちのモアブ人、ベン・アミはアモン人とあります。
モアブは死海の東側、アルノン川(現在のワディ・アル・ムジブ)の南からゼレド川(ワディ・アル・ハサ)までの高原地帯の地域を指します。鉄器時代(紀元前1400年くらい)には、ヨルダン中部のカラク地域にモアブ人の国が出来ていたそうです。
モアブ人たちは、紀元前9世紀後半には北西セム語に属するモアブ文字(同時期のフェニキア文字の仲間)を使い、ケモシュという神を信仰していたとのことです。
ケモシュに関しては詳しく知ることはできませんでしたが、『アシュタロテ・ケモシュ』と呼ばれていたらしいことを考えると豊穣・多産の神だったのでしょう。
少しアシュタロテについて調べた章↓
聖書を楽しむ【14】
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%9014%E3%80%91
一方アモン人はヨルダン川東側の山地、ギレアデ地方に国家を築いたという人々です。カナン緒語に属し古典ヘブライ語やモアブ語と極めて近縁のアモン語を使い、豊作・利益を司る神モレクを崇拝していたそうです。
モレクはモロク、マリク、マルカム(「偉大な王」の意)、「涙の国の君主」などとも呼ばれます。子供を生け贄にする儀式が行われていたそうで、その方法が
『青銅製の「玉座に座ったモレク」像の中に棚を設け、そこに小麦粉、雉鳩、牝羊、牝山羊、子牛、牡牛、人間の新生児(王権を継ぐ者の第一子)を入れ、生きたまま焼く』
というものだったそうです。儀式の際には子供の泣き声をかき消すために、シンバルやトランペットや太鼓などで大音量の演奏を行ったといいます。
さて、こうして当時の大都市が滅び、一方で新たな国を築く民の祖となる子たちが生まれました。
多分、こうして昔の伝説と、執筆当時に栄えていた他民族のルーツを取り込むことで、この宗教は正統性を主張してきたのでしょうね。(どの宗教もそうですけど)
今回はここまでです。
楽曲紹介は
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ「我、汝をいかになさんや、エフライムよ」BWV89
です。
https://youtu.be/IXF-K0RqMLc
一曲目のバスのアリアは、ホセア書の聖句をそのまま歌詞にしているとのことです。
『エフライムよ、お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。』
アドマとツェボイムはソドム・ゴモラと同時に滅びた死海の町です。
アデマはソドムとゴモラの姉妹都市。場所不明。
ツェボイムはエルサレムの東北東約13kmの所にあるワディ・アブー・ダバー。
エフライムは北イスラエル王国のことです。
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2020/02/20 (Thu)
こんにちは。
だいぶお久しぶりな更新ですが、こっちの研究も懲りずに続けております。
※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人(無宗教者)が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
○第十八章
主はマムレの樫の木のそばでアブラハムに現れました。彼は日の暑い頃、天幕の入り口に座っていました。
彼が目を上げてみると、三人の人が彼に向かって立っていました。彼は見るなり、彼らを迎えるために天幕の入り口から走っていき、地にひれ伏してお辞儀して言いました。
「ご主人。お気に召すならどうかあなたのしもべの所を素通りなさらないでください。少しばかり水を持って参りますので足を洗い、この木の下でお休みください。少し食べ物も持って参りますので、それで元気を取り戻してください。それから旅を続けられるように。せっかくあなたがたのしもべの所をお通りになるのですから。」
彼らは「あなたの言った通りにしてください。」と言いました。
そこでアブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って言いました。
「早く、3セアの上等な小麦粉を練ってパン菓子を作っておくれ。」
そして、牛のところに走って行って、柔らかくて美味しそうな子牛を取って、若い者に渡しました。若い者は手早くそれを料理しました。
アブラハムは凝乳と牛乳と、料理した子牛を持って彼らの前に供えました。木の下で、彼らはそれを食べました。
彼らはアブラハムに「あなたの妻サラはどこにいますか」とたずねました。アブラハムは「天幕の中に居ます。」と答えました。
そのうちの一人が言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻ってきます。そのとき、あなたの妻サラには男の子ができています。」サラはその人のうしろの天幕の入り口でそれを聞いていました。
アブラハムとサラは老人になっていて、サラは普通の女にあることが既に止まっていました。
サラは心の中で笑って言いました。「老いぼれてしまった私に何の楽しみがあるというんでしょう。主人も年寄だし。」
そこで主がアブラハムに言いました。「なぜサラは「私が本当に子を産めるのだろうか。こんなに年を取っているのに。」と笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今頃、定めた時にあなたのところに戻ってくる。そのとき、サラには男の子ができている。」
サラ「私は笑いませんでした。」と打ち消しました。恐ろしかったからです。
しかし主は言いました。「いや、確かにあなたは笑った。」
その人たちは立って、ソドムを見下ろす方へ上っていきました。アブラハムも彼らを見送るために
彼らと一緒に歩いていました。
主は考えました。「わたしがしようとしていることをアブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は彼によって祝福される。
わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと彼の後の家族に命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就させるためである。」
そこで主は言いました。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪は極めて重い。わたしは下っていって、わたしに届いた叫びの通りに彼らが実際に行っているかどうか見よう。わたしは知りたいのだ。」
その人たちはソドムの方へ進んでいきました。アブラハムはまだ主の前に立っていました。
アブラハムは近付いて申し上げました。
「あなたは本当に、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか。もしかしたらその町に50人の正しい人がいるかもしれません。本当に滅ぼしてしまうのですか。その人たちのために、その町をお赦しにはならないのですか。
正しい者を悪い者と一緒に殺し、そのため正しい者と悪い者が同じになるなんてことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界を裁くお方は、公義を行うべきではありませんか。」
主は答えました。
「もしソドムの中で50人の正しい者を見つけられたら、その町全部を赦そう。」
アブラハムは言いました。「わたしは塵や灰に過ぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。もしかしたらその50人が、5人足りないかもしれません。その5人のために、あなたは町全部を滅ぼされるでしょうか。」主は答えました。「滅ぼすまい、45人の正しい者を見つけたら。」
アブラハムは言いました。「もしかしたら40人かもしれません。」主は答えました。「滅ぼすまい、その40人のために。」
更にアブラハムは言いました。「主よ、どうかお怒りにならないで私に言わせてください。そこに30人いるかもしれません。」主は答えました。「滅ぼすまい、30人を見つけたら。」
彼は言いました。「私があえて主に申し上げるのをお許しください。もしかしたらそこに20人見つかるかもしれません。」すると仰せられました。「滅ぼすまい、その20人のために。」
彼はまた言いました。「主よ、どうかお怒りにならないで今一度私に言わせてください。もしやそこに10人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられました。「滅ぼすまい、その10人のために。」
主はアブラハムと語り終えると去って行かれました。アブラハムは自分の家に帰っていきました。
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恐らく時間的には前回のお告げからそんなに経っていないであろう、ある日のお話になります。
アブラハムは甥っ子のロトと別行動を取って以降20数年間、ずっと住居を変えずにヘブロンのマムレ( 現パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区南端の町)にある樫の木のそばに住んでいました。
今回は、このアブラハムの住居に主が訪ねてきましたよ、というお話ですと一番はじめにネタバレがされています。
ある暑い日にアブラハムが自宅である天幕の入り口で座っていると、三人の人がアブラハムに向かって立っていた、とあります。
どんな人なのか描写が一切無いので性別も年齢も不明です。そういえば神が人の形を取って書かれているのは初めてですね。
自宅の前でボーッとしてたらいきなり知らない人がいてじっとこっちを見ているという状況は現代からするとなかなか怖いですが、アブラハムは彼らに気付いたとたん「走って近付いて地面にひれ伏し」ました。
でも別にアブラハムがこの人たちを神だと気付いたからではなくて、この時代、この地域の“旅人が来たら丁重に迎えてもてなす”という風習のためだそうです。だからアブラハムも彼らを「神」とか「主」とは呼ばずに「ご主人」と呼んでいます。
ホテル業などを営んでいなくても、一般家庭に旅人を泊めることは珍しいことではなかったようです。 それだけ旅人がいっぱいいたんでしょう。 行商人のキャラバンはもちろん、貧しさから故郷を捨てる人、ハガルのように労働環境に耐えかねて他国へ逃げようとする人もいたかもしれません。
そもそもアブラハム自身、旅人の身の上です。きっとカナンに着くまでに、色んな人にお世話になったでしょう。途中、エジプトではファラオの厄介にもなりましたしね。
その恩を返すためなのか、アブラハムの接客はとても丁寧です。人によっては、アブラハムの接待は単に遊牧民の習慣で迎え入れただけではなくて、王さまに対する奉仕にも見えるという人もいるようです。その解釈ですと、アブラハムは確信は無いにしてもこの客人たちは神さまに近い何かだと感じ取っていることになります。ほんとに神と思ってるのか、それとも「お客さまは神さまです」精神なのかは判断が分かれるところです。
まず、アブラハムは「水を持ってきますので足を洗って、木陰で休んでください」と言いました。真っ先にアブラハムがそう言ったということは、その人たちがめっちゃ足が汚れていて、疲れていそうに見えたんでしょう。たぶん。
その人たちは別に旅人であると記載されてはいませんが、旅人なんだろうなと思われる格好をしてたというわけです。
旧約聖書時代の人々の服装について書かれていたサイトを覗いてみますと、
①一枚布の腰巻き or 半ズボン風の下着
②その上に膝丈の肌着
③半分に折った一枚布の折り目部分に穴を開けて首を通す上着
④長い布を折り畳んだ帯で上着を締める
という出で立ちです。女性もほぼ同じ格好ですが、少々丈は長め。
これに、砂や陽射しがキツいので被り物をします。男性は布を被ってバンドで固定したり帽子を被ったりして、女性は長めのベールを被ります。
宗教画によく見られる格好ですね。
素材は麻や羊毛、山羊毛、皮革など。絹も無くはなかったようですが、王さまレベルのお金持ちで無ければ手には出来なかったようです。
履き物は革のサンダルが中心ですが、貧しい人や祭司は裸足だったとのこと。
『聖書の時代』といっても旧約の初期と新訳ではだいぶ年代の開きがあるかと思いますので、本当にアブラハムたちがこんな服装だったかは分かりませんけれども…。
ただでさえ砂の多い地域を当時の簡素な靴で徒歩移動するのですから、足は相当汚れます。
主人の足を洗うのはしもべの仕事の一つだったそうで、旅人のおもてなしの際もしもべが洗っていたそうな。
アブラハムが自ら「足を洗いましょう」と進言したということは、最初の言葉通りしもべのようにお仕えしますよ、という意味になるわけです。
もてなしの提案を受けた彼らは、「あなたの言った通りにしてください。」と答えます。
たぶん、ここでアブラハムが家にいるしもべたちに「あの旅人さんたちをもてなして差し上げなさい」と一言命令すれば、数百人のしもべたちによる盛大な宴会で接待が出来たはずです。なにせ第14章のメソポタミア VS カナンの戦のとき、しもべ318人を引き連れて両軍を相手どって戦えるくらい、アブラハム家には使用人がたくさんいるんですから。
でもアブラハムは自らの手によるもてなしを提案しました。旅人をもてなすご馳走の準備も、自分で走り回って行います。
100歳近い老人のおもてなしとか、受ける側は逆に申し訳なくなりそうですけども、まあ走れるくらい元気なら大丈夫でしょうか。
とりあえず、走って家の中にいるサラのところに行って「急いでパン菓子を作れ」と言いました。
しかも「3セアの上等な小麦粉」という指定つき。
「セア」は、サトゥムとも言うそうですが、ヘブライの乾物・液体の容量単位です。今の単位に換算すると、1セアは7~13リットルだそうです。つまり3セアは、21リットルから最大で39リットル…
計量サイトで調べましたところ小麦粉(強力粉)は1リットル550グラムとのことですので、12,100~21,
450グラム。つまり約12~21キログラム。
日本ではよくスーパーで売ってる食パン、1斤の重さは約370グラムで、小麦粉換算すると約240グラムだそうですので、約50~89斤分になります。一本の食パン型からは3斤の食パンができますので、食パン型で約17~30本のパンを作れと言ったわけですね。
まあ、食パンの場合は膨らませてフワフワの状態になりますから、この地域の主食になっているモチモチなパンに換算したらもっと少なくなるかもしれません。
私は2年ほどパン屋さんでアルバイトをしていたのでよくパン作りのシーンは見ていたのですが、小売りの個人店でもほとんどのお店は機械で生地を捏ねているはずです。 御歳90の族長の奥方自ら、この量のパンを作るのはなかなかの重労働です。
ちなみに日本人には量が分かりやすいので食パンで換算しましたが、実際この時出されたパンはどんなものだったんでしょう?
この時代の常食されている「パン」といいますと、石臼でひいた小麦粉を捏ね、パン種(前に作ったパン生地の一部)を加えて形を丸くし、熱した平石に置いて焼いたものです。裕福な人はパン焼き用の大きな壺を持っていて、その場合は壺を熱して内側に貼り付けて焼きます。
そうして出来たパンは「ふすま(穀物の外側の皮の部分)」を取り除かずにそのまま作るので、黒っぽいパンになります。
ふすまには食物繊維、鉄分・カルシウム・マグネシウム亜鉛・銅などのミネラルが豊富に含まれているため、近年では健康を気遣う人に向けて「全粒粉パン」やら「ふすまパン」やら「ブランパン」などと呼ばれてわりと高値で売られていますが、元々は庶民の食べ物だったのですな。
対して、ふすまを除いて精製した小麦粉で焼かれたパンは白い色になります。現代の日本で出回っているパンはほとんどコレですが、昔は大変贅沢なものだったそうです。
「上等な小麦粉」と言っているところを見ますと、恐らくは白に近い小麦粉を指しているのかな…?と最初は思いました。実際、聖書の解説サイトなんかでは「白いパンのことを指す」と書いてらっしゃる所もありました。
でもここでちょっと疑問。
本当に、この時代に白い小麦粉って出来るもんなの?
そこでパン作りの歴史を少々紐解いてみました。
今、発掘されている中で一番古いのは、約1万4400年前のメソポタミアで見つかった化石化したパン。ただしこの時代はまだ《お粥》のような括りで、もみがらを炒ったり石で挽いて粉にしたものに水を加えて煮て食べていたと考えられております。そのまま食べられる果実とかトウモロコシみたいな穀物と違って、そのまま食べても美味しくない麦類をなんとかして食べられるようにする手段だったわけですな。
それを焼くようになったのは、諸説ありますが紀元前6000~4000年頃。無発酵のパンは平たくて固いピザ生地みたいなやつで、アジムと呼ばれていたそうです。
そこから生地を発酵させたパンが現れたのが紀元前3500年頃。
……………と色々なサイトには書いてあったのですけども、一方でスイスのトゥワン遺跡下層(紀元前3830~3760年)から「人為的に発酵させた粥」が見つかっていて、中層(紀元前3700~3600年)からは「灰の下で焼いたパン」や「パン窯状設備で焼いたパン」が発見されているとWikipediaに書いてありました。
「人為的に発酵させた粥」は、サワードゥ(サワー種)というライ麦パンを膨らませるのに必要な酵母です。調理済みのお粥を数日間放置すると、自然の発芽酵母菌や乳酸菌で発酵します。当初は腐ったと思われて捨てられていたそうですが、それを焼いたものはどうやら食べてもお腹を壊したりしない上に、ただのお粥よりも美味しくなると分かったので敢えて発酵させるようになったということです。それが後のパン作りに発展していくというわけです。
今でも、北ヨーロッパでは一般的であるライ麦100%のライ麦パンは通常このサワードゥを使って膨らませているといいます。ライ麦はグルテンが少ないのでイースト菌だとうまく膨らみませんが、このサワードゥを使うとちゃんと膨らむのだそうです。
とりあえずそんな風に作られ始めたパンですが、一番記録が残っているのは何といってもエジプトです。
歴史家ヘロドトスに「パン食い人」と呼ばれるくらい、古代エジプト人はパンをたくさん作って食べていました。 (ちなみに当時のギリシャの主食は大麦のお粥。)給料や税金もパンによって支払われていたといいます。そんなエジプトですから、パン製造の資料はたんまりあります。壁画による図解付き。道具なんかも、お墓から発掘されたりしています。
この時代、小麦をひくのに使われていた道具は「サドルカーン」といいます。紀元前4000年頃から使われ始めたそうです。
ごくごく原始的な道具で、使い方は簡単です。石板みたいな平らな石皿の上で麺棒みたいな石の棒に体重をかけながらごろごろ転がして、 穀物を挽き潰します。要は《石臼》です。
ちなみに「サドル」が石皿で、「カーン」が棒の名前。新石器時代の中国からも見つかっているとても歴史の古い道具で、現在でも南米やインド、アフリカなどの一部地域で使われています。
《石臼》というと思い浮かぶ丸い回転式のやつは、紀元前600年頃の古代オリエント時代に発明されます。ロータリーカーンという名前で、上下2段の石を回転させて物をすりつぶします。それが後に風車や動物の力を使った脱穀に発展します。
すりつぶしただけではまだまだ籾殻やら細かいゴミやらが混ざった状態なので更に篩(ふるい)にかけたいところですが、馬の尾の毛などを使った初期の篩が登場するのはその更に後で紀元前100年くらいです。それまでは手作業で取ったり、息を吹き掛けて籾殻だけ飛ばしたり、そんな地道な方法で精製していたのでしょう。
ちなみに先程申し上げましたとおり毎日毎日パンを食べていた古代エジプト人たちは、お年寄りほど歯の病気が多かったのだそうです。身分の差などは関係なく、とにかくお年寄りだけ。とある個人ブログの方が記していたのですが、どうやらその原因は主食のパンにあったのではないかというお話です。
エジプトは言わずと知れた砂漠の国。時は建設技術もまだ発展途上。王廟などならいざ知らず、町の建設物全てが砂風を完全に防げるものでしょうか。しかも脱穀に使っているのは石製の道具。道具自体が磨耗して、少しずつ石の粉が混じってもおかしくありません。
すりつぶした砂や石でパンがジャリジャリしていても、そういうパンしか知らない方々は普通に食べてしまうでしょう。すると歯のエナメル質が時間をかけて傷つけられ剥がれ落ち、そこから虫歯になってしまうというわけです。
では、現代のような白い小麦粉が作れるようになったのはいつなのか?
砕いた小麦を篩で振るい、段階的に篩の網目を小さくしてより細かい小麦粉を作る「段階式製粉方法」は、16~17世紀頃にフランスで始まったそうです。
しかしながら篩の目は少しずつ細かくなっていっても、馬の尾や麻や、針金などを使った篩ではどうしてもふすまを全部取り除ききることは出来ません。
その鍵となったのが、絹糸です。
最初の方で服装の話を調べたときに、絹糸はこの頃無くはなかったと書きました。しかし物凄い貴重品であったために、王さまでもおいそれと身に付けられるものでは無かったと思われます。
紀元前3000年(紀元前6000年頃の説もあり)頃に中国で始まった絹糸生産は6世紀の半ばには既に確立しており、紀元1000年頃には税の支払いにも絹が使われるようになりました。しかし中国以外の地域では製法が分からなかったため、完全に中国からの輸入頼りでした。インドやペルシアへの輸入ルートが、今も残る『シルクロード』です。
古代ローマでも上流階級の衣服として絹が好まれましたが、金と同じ価値があるくらいの超高級品だったといいます。
ヨーロッパに絹製法が入ったのは6世紀になってから。1146年にシチリア王国で生産が始まり、ほどなくイタリア各地で絹が作られるようになります。
ちなみにイギリスはすごく絹生産に意欲的だったのに悉く失敗していてなんだか可哀想でした。
(宗教改革で母国を追われたプロテスタントの絹職人たちを受け入れて絹の国産化を目指すも本国ではうまく育たず→植民地先(アメリカ)で成功するも独立される→中国の絹への憧れが半端ないせいで貿易不均衡…これがアヘン戦争に繋がったのではという説も)
そんな超高級品を小麦粉の精製に使おうなどと、古代のひとが聞いたら気が触れたと思われそうですが、絹を使った篩が作られるようになったのは18世紀の産業革命からです。
蒸気機関の発明による工場の機械化と大量生産によって、絹は黄金よりは安価になったのでしょう。
小麦粉の世界も大きく変わりました。石臼はロール機に変わり、篩機は大きくなって、より大量の小麦粉を精製することができるようになりました。
更に絹を使った純化篩機が発明され、かくして真っ白な小麦粉が作れるようになりました。
「木下製粉株式会社」様のホームページでは、製粉の様子を丁寧に説明してくださっているのでとても分かりやすいです。
https://www.flour.co.jp/knowledge/flourmilling/
つまり「純化」ができるようにならなければ、真っ白な小麦粉にはお目にかかれないということです。
アブラハムが生きたとされる紀元前2000年頃には純化篩機はもちろん、そもそも篩自体がありません。
なので、ここで出てくる『上等な小麦粉』は白くなかったんではないかなーと私は思います。たぶん育ちの良い形の綺麗な麦を集めて作ったとか、通常より丁寧に挽いたとか、そんな感じではないでしょうか。
小麦粉の話がずいぶん長くなってしまいました。(いつものことですが)
さて、アブラハム家のおもてなしメニューはパンだけではありません。
○子牛の料理
○凝乳(カッテージチーズ)
○牛乳
これらをものすごく急いでアブラハム&家の若い衆が用意しました。彼らが可能な限りで用意できるごちそうです。三人の客人は、それらを木の下で食べます。
家の中に入れてあげないの?と思いますが、何か理由があるのでしょうか。
遊牧民のおもてなしの習慣的には、天幕内に招かれた訪問客は丁重な歓待を期待することができた、と以前ノアのところで調べました。尚且つ、「天幕」は保護や安全の象徴です。客人が神だと気付いているから保護は不要ということで、敢えて外で接待したのでしょうか…?ここらへんよく分かりません。
とりあえずお客さんたちはアブラハム家の前の木陰で食事をしました。
食事中、ふと彼らが「奥さんのサラはどこ?」と聞きます。天幕の中にいますよ、とアブラハムが答えますと、客人のひとりが「私は来年の今ごろにまたあなたの所に戻ってきます。その頃には貴方の奥さんには男の子が生まれていますよ。」と言いました。前回、神さまがアブラハムに言った契約と同じ台詞です。たぶん、ここでアブラハムにはピンと来たんではないでしょうか。「あ、この人神だわ。」と。
サラは、『その人のうしろの天幕の入り口』でそれを聞いていました。さっき頼まれたパン作りの真っ最中なのか、出来たパンを持っていこうとしたのか、はたまた立ち聞きしようとして聞いたのは分かりませんけども、とにかくサラは神さまが自分の話をしているのを家の中から聞いていました。神さまたちは家に背を向けていて、こちらを見ていないという構図になります。
家と言ってもテントですから、会話は駄々漏れです。客人たちが神だとはまったく知らないサラは、まあ普通の感想を抱きます。「こんな老人に子供なんて無理でしょ…」と心の中で笑っていますが、この笑いは自分の老いへの自嘲や諦めもあるでしょう。
既に生理も止まっていて、サラは自分自身をもう「女」と見れなくなっていたのかもしれません。
すると神さまはサラではなくてアブラハムに「なんでサラは笑ってるのか?主に不可能なことがあると思うのか?」と言いました。テントの布一枚隔てたすぐそばにサラ本人がいるのを知っていて、 且つサラの心の声を聞いているのに敢えてアブラハムに話しかけている体をとっているのがなんとも意地悪だなーと思うのは私だけでしょうか。しかも、ここで「主」という言葉を出しました。一応、主の信者ではあるサラは怖くなって『「私は笑いませんでした」と打ち消し』ました。自分のことを話していたとはいえ、いきなり自分が参加してなかった会話に飛び込む度胸と、敢えて空気を読まない強靭な精神はさすがだなと思います。
すると、天幕の外にいたお客さんが「いや、確かにあなたは笑った」と言いました。
神さまパワーのスゴさはさておき、一般の人間は何歳まで妊娠が可能なものなんでしょうか。
サイトで調べてみたところ、生物的に人間は月経が無くなりますと排卵も無くなるので妊娠は不可能になります。日本人の基準ですと、平均50歳頃で閉経が訪れるとのことです。
そして閉経前後の5年間は『更年期』と呼び、黄体期の短縮や無排卵が起こるので妊娠自体の確率が非常に低くなります。
つまりは一般的に妊娠できるのは45歳までということなのですが、かなり稀にホルモン状態が良くて妊娠することもあるそうです。
産婦人科医で、閉経したと思って来院した患者さんが妊娠だった、という例を診た方もいるそうです。
閉経と正しく診断された人が自然妊娠することはほぼ不可能とされていますが、
・実は更年期ではなくて他の原因で月経が止まっており、治療によって月経が再開した場合
・思い出したように卵巣が動き出した場合
など、完全に有り得ない話ではないようです。
サラは90歳ですが見た目は相当若かったようで、もしかしたら体内年齢もすごく若々しかったのかもしれません。
この90歳という年齢が、神代のアダムの子孫たち共々、象徴的なものなのかは分かりません。
暦の数え方が今とは違うために大きな数字になったのであって、ほんとはもっと若かったんではないかという方もいるそうですが、聖書を崇めている人々にとっては「聖書に書いてあることを疑うなんてとんでもないこと」らしいので、実際90歳だったとして話を進めます。
現実的な話として、体外受精の場合は閉経したあとの女性でも妊娠・出産は可能です。
昨年2019年9月、インドで74歳の女性が体外受精により双子の妊娠・出産に成功して世界記録を塗り替えたそうです。
なので神さまパワーで既に受精した卵を直接子宮にぶちこむことができれば、年齢は関係なく身体さえ丈夫で健康ならば子供はできる、ということになります。
「来年にはあなたに子供ができていますよ」と予告したということは、「あなたに受精卵をぶちこみますので宜しく」というわけですな。
さて、サラに「あなたは確かに笑った」と言い切った主は、呆然とするサラを特にフォローすることなくその場を後にしました。あわててお見送りするアブラハム。主を含む3人はソドムの町を見下ろす高台へ歩いていきました。
そこでいきなり主のモノローグが入ります。
「これからしようとしてること、アブラハムには内緒にしとく方がいいかなあ…。
アブラハムは絶対大物になると思うんだよね。この男の子孫まで私との約束を守らせるために選び出したんだし…」
主とふたりのお供は、別に下界に観光に来たわけではなくてちゃんと目的があったのですね。それは、アブラハムにあまり知られたくないことのようです。
その理由として、「アブラハムを選び出したのは『主の道』を守らせ正義と公正を行わせるためだ」と述べています。わかりにくいなー。
自分の信者にするために選んだアブラハムの信仰が離れたら困るなー、だから内緒にしといた方がいいかなー、と言ってるようにしか見えないんですけど如何なものでしょうか。
で、何をしようとしてるかは読者も含めて伏せて、
「ソドムとゴモラの町の人はすごく悪いことしてるって声がこっちに届いてるんだけど、実際に現地に行って何が起こってるか見てみようと思うんだよね。」
と言いました。
この時点で、アブラハムは主が何をしようとしてるのか悟ったようです。
主の言葉を額面通り受け取ったなら「あー、そうなんですかー。行ってらっしゃいませー。」とお見送りするところだと思うんですが、
「マジで全員滅ぼしちゃうんスか?」
と言いました。
主はソドムとゴモラを滅ぼすために、わざわざ天からやってきたようです。
これまでお世辞にも察しがいいとは言えなかったキャラのアブラハムでさえもピンときたということは、当時のソドムとゴモラの荒れ具合は相当なものだったんでしょう。「ありゃいつ神さまに滅ぼされてもおかしくないぞ」というくらいにはヤバかったんですね。
ソドムの方に向かう歩みを止めない主たちの前にアブラハムは立ちはだかって、必死に値下げ交渉を始めます。
ア「もしかして50人くらいは正しい人がいるかもしれませんよ。まとめて殺しちゃったら正しい人も悪い人も同じ扱いになっちゃうじゃないですか、それじゃ不公平でしょう。」
主「じゃあもしソドムの町で50人正しい人がいたら、許してあげることにするよ」
ア「(……………やべー、50人もいないかもしれん)
えーと、5人くらい足りないかもしれないですけど…」
主「じゃあ45人いたら滅ぼさないであげるよ」
~中略~
ア「ほんっっっとーに申し訳ないのですけども、怒らないでください。10人くらいは正しい人がいるかもしれないです………ほんとマジで……」
主「じゃあ10人いたら滅ぼさないであげるよ」
なんてまどろっこしいやり取りなんでしょうか。
でもアブラハムの葛藤は伝わってきます。ソドムの人口がどれくらいかはわかりませんけど、最初「50人」と口をついて出た数字で契約を結んだ直後『待てよ、あの町に50人も善人が居るとは思えない』と咄嗟に考えて少しずつ数字を小さくしていくところに、ソドムの町の信用の無さが伺えます。
相当酷い町なんでしょうね。
話が終わると主はとっとと去っていってしまいましたので、アブラハムは家に帰りました。
いくらヤバイ風紀の町の人でも、町ごと滅ぼされちゃうのをみすみす見逃せないあたり、アブラハムも人間です。主の思考を見てるとどうもフラスコを覗く科学者というか 、病巣を取り除くお医者さんというか、そういう思考回路で人間を見ているように見えます。
とりあえず、18章はここまでです。
さあ、ソドムの運命やいかに?!(今さらネタバレも何も無い気がしますが)
さて、今回の楽曲は
映画『ソドムとゴモラ』より
https://youtu.be/wwRAs_VdydE
1962年制作の、イタリアとアメリカで合作した映画です。
ロージャ・ミクローシュさんというハンガリー出身の作曲家が音楽を担当していらっしゃいます。
だいぶお久しぶりな更新ですが、こっちの研究も懲りずに続けております。
※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人(無宗教者)が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
○第十八章
主はマムレの樫の木のそばでアブラハムに現れました。彼は日の暑い頃、天幕の入り口に座っていました。
彼が目を上げてみると、三人の人が彼に向かって立っていました。彼は見るなり、彼らを迎えるために天幕の入り口から走っていき、地にひれ伏してお辞儀して言いました。
「ご主人。お気に召すならどうかあなたのしもべの所を素通りなさらないでください。少しばかり水を持って参りますので足を洗い、この木の下でお休みください。少し食べ物も持って参りますので、それで元気を取り戻してください。それから旅を続けられるように。せっかくあなたがたのしもべの所をお通りになるのですから。」
彼らは「あなたの言った通りにしてください。」と言いました。
そこでアブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って言いました。
「早く、3セアの上等な小麦粉を練ってパン菓子を作っておくれ。」
そして、牛のところに走って行って、柔らかくて美味しそうな子牛を取って、若い者に渡しました。若い者は手早くそれを料理しました。
アブラハムは凝乳と牛乳と、料理した子牛を持って彼らの前に供えました。木の下で、彼らはそれを食べました。
彼らはアブラハムに「あなたの妻サラはどこにいますか」とたずねました。アブラハムは「天幕の中に居ます。」と答えました。
そのうちの一人が言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻ってきます。そのとき、あなたの妻サラには男の子ができています。」サラはその人のうしろの天幕の入り口でそれを聞いていました。
アブラハムとサラは老人になっていて、サラは普通の女にあることが既に止まっていました。
サラは心の中で笑って言いました。「老いぼれてしまった私に何の楽しみがあるというんでしょう。主人も年寄だし。」
そこで主がアブラハムに言いました。「なぜサラは「私が本当に子を産めるのだろうか。こんなに年を取っているのに。」と笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今頃、定めた時にあなたのところに戻ってくる。そのとき、サラには男の子ができている。」
サラ「私は笑いませんでした。」と打ち消しました。恐ろしかったからです。
しかし主は言いました。「いや、確かにあなたは笑った。」
その人たちは立って、ソドムを見下ろす方へ上っていきました。アブラハムも彼らを見送るために
彼らと一緒に歩いていました。
主は考えました。「わたしがしようとしていることをアブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は彼によって祝福される。
わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと彼の後の家族に命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就させるためである。」
そこで主は言いました。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪は極めて重い。わたしは下っていって、わたしに届いた叫びの通りに彼らが実際に行っているかどうか見よう。わたしは知りたいのだ。」
その人たちはソドムの方へ進んでいきました。アブラハムはまだ主の前に立っていました。
アブラハムは近付いて申し上げました。
「あなたは本当に、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか。もしかしたらその町に50人の正しい人がいるかもしれません。本当に滅ぼしてしまうのですか。その人たちのために、その町をお赦しにはならないのですか。
正しい者を悪い者と一緒に殺し、そのため正しい者と悪い者が同じになるなんてことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界を裁くお方は、公義を行うべきではありませんか。」
主は答えました。
「もしソドムの中で50人の正しい者を見つけられたら、その町全部を赦そう。」
アブラハムは言いました。「わたしは塵や灰に過ぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。もしかしたらその50人が、5人足りないかもしれません。その5人のために、あなたは町全部を滅ぼされるでしょうか。」主は答えました。「滅ぼすまい、45人の正しい者を見つけたら。」
アブラハムは言いました。「もしかしたら40人かもしれません。」主は答えました。「滅ぼすまい、その40人のために。」
更にアブラハムは言いました。「主よ、どうかお怒りにならないで私に言わせてください。そこに30人いるかもしれません。」主は答えました。「滅ぼすまい、30人を見つけたら。」
彼は言いました。「私があえて主に申し上げるのをお許しください。もしかしたらそこに20人見つかるかもしれません。」すると仰せられました。「滅ぼすまい、その20人のために。」
彼はまた言いました。「主よ、どうかお怒りにならないで今一度私に言わせてください。もしやそこに10人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられました。「滅ぼすまい、その10人のために。」
主はアブラハムと語り終えると去って行かれました。アブラハムは自分の家に帰っていきました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
恐らく時間的には前回のお告げからそんなに経っていないであろう、ある日のお話になります。
アブラハムは甥っ子のロトと別行動を取って以降20数年間、ずっと住居を変えずにヘブロンのマムレ( 現パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区南端の町)にある樫の木のそばに住んでいました。
今回は、このアブラハムの住居に主が訪ねてきましたよ、というお話ですと一番はじめにネタバレがされています。
ある暑い日にアブラハムが自宅である天幕の入り口で座っていると、三人の人がアブラハムに向かって立っていた、とあります。
どんな人なのか描写が一切無いので性別も年齢も不明です。そういえば神が人の形を取って書かれているのは初めてですね。
自宅の前でボーッとしてたらいきなり知らない人がいてじっとこっちを見ているという状況は現代からするとなかなか怖いですが、アブラハムは彼らに気付いたとたん「走って近付いて地面にひれ伏し」ました。
でも別にアブラハムがこの人たちを神だと気付いたからではなくて、この時代、この地域の“旅人が来たら丁重に迎えてもてなす”という風習のためだそうです。だからアブラハムも彼らを「神」とか「主」とは呼ばずに「ご主人」と呼んでいます。
ホテル業などを営んでいなくても、一般家庭に旅人を泊めることは珍しいことではなかったようです。 それだけ旅人がいっぱいいたんでしょう。 行商人のキャラバンはもちろん、貧しさから故郷を捨てる人、ハガルのように労働環境に耐えかねて他国へ逃げようとする人もいたかもしれません。
そもそもアブラハム自身、旅人の身の上です。きっとカナンに着くまでに、色んな人にお世話になったでしょう。途中、エジプトではファラオの厄介にもなりましたしね。
その恩を返すためなのか、アブラハムの接客はとても丁寧です。人によっては、アブラハムの接待は単に遊牧民の習慣で迎え入れただけではなくて、王さまに対する奉仕にも見えるという人もいるようです。その解釈ですと、アブラハムは確信は無いにしてもこの客人たちは神さまに近い何かだと感じ取っていることになります。ほんとに神と思ってるのか、それとも「お客さまは神さまです」精神なのかは判断が分かれるところです。
まず、アブラハムは「水を持ってきますので足を洗って、木陰で休んでください」と言いました。真っ先にアブラハムがそう言ったということは、その人たちがめっちゃ足が汚れていて、疲れていそうに見えたんでしょう。たぶん。
その人たちは別に旅人であると記載されてはいませんが、旅人なんだろうなと思われる格好をしてたというわけです。
旧約聖書時代の人々の服装について書かれていたサイトを覗いてみますと、
①一枚布の腰巻き or 半ズボン風の下着
②その上に膝丈の肌着
③半分に折った一枚布の折り目部分に穴を開けて首を通す上着
④長い布を折り畳んだ帯で上着を締める
という出で立ちです。女性もほぼ同じ格好ですが、少々丈は長め。
これに、砂や陽射しがキツいので被り物をします。男性は布を被ってバンドで固定したり帽子を被ったりして、女性は長めのベールを被ります。
宗教画によく見られる格好ですね。
素材は麻や羊毛、山羊毛、皮革など。絹も無くはなかったようですが、王さまレベルのお金持ちで無ければ手には出来なかったようです。
履き物は革のサンダルが中心ですが、貧しい人や祭司は裸足だったとのこと。
『聖書の時代』といっても旧約の初期と新訳ではだいぶ年代の開きがあるかと思いますので、本当にアブラハムたちがこんな服装だったかは分かりませんけれども…。
ただでさえ砂の多い地域を当時の簡素な靴で徒歩移動するのですから、足は相当汚れます。
主人の足を洗うのはしもべの仕事の一つだったそうで、旅人のおもてなしの際もしもべが洗っていたそうな。
アブラハムが自ら「足を洗いましょう」と進言したということは、最初の言葉通りしもべのようにお仕えしますよ、という意味になるわけです。
もてなしの提案を受けた彼らは、「あなたの言った通りにしてください。」と答えます。
たぶん、ここでアブラハムが家にいるしもべたちに「あの旅人さんたちをもてなして差し上げなさい」と一言命令すれば、数百人のしもべたちによる盛大な宴会で接待が出来たはずです。なにせ第14章のメソポタミア VS カナンの戦のとき、しもべ318人を引き連れて両軍を相手どって戦えるくらい、アブラハム家には使用人がたくさんいるんですから。
でもアブラハムは自らの手によるもてなしを提案しました。旅人をもてなすご馳走の準備も、自分で走り回って行います。
100歳近い老人のおもてなしとか、受ける側は逆に申し訳なくなりそうですけども、まあ走れるくらい元気なら大丈夫でしょうか。
とりあえず、走って家の中にいるサラのところに行って「急いでパン菓子を作れ」と言いました。
しかも「3セアの上等な小麦粉」という指定つき。
「セア」は、サトゥムとも言うそうですが、ヘブライの乾物・液体の容量単位です。今の単位に換算すると、1セアは7~13リットルだそうです。つまり3セアは、21リットルから最大で39リットル…
計量サイトで調べましたところ小麦粉(強力粉)は1リットル550グラムとのことですので、12,100~21,
450グラム。つまり約12~21キログラム。
日本ではよくスーパーで売ってる食パン、1斤の重さは約370グラムで、小麦粉換算すると約240グラムだそうですので、約50~89斤分になります。一本の食パン型からは3斤の食パンができますので、食パン型で約17~30本のパンを作れと言ったわけですね。
まあ、食パンの場合は膨らませてフワフワの状態になりますから、この地域の主食になっているモチモチなパンに換算したらもっと少なくなるかもしれません。
私は2年ほどパン屋さんでアルバイトをしていたのでよくパン作りのシーンは見ていたのですが、小売りの個人店でもほとんどのお店は機械で生地を捏ねているはずです。 御歳90の族長の奥方自ら、この量のパンを作るのはなかなかの重労働です。
ちなみに日本人には量が分かりやすいので食パンで換算しましたが、実際この時出されたパンはどんなものだったんでしょう?
この時代の常食されている「パン」といいますと、石臼でひいた小麦粉を捏ね、パン種(前に作ったパン生地の一部)を加えて形を丸くし、熱した平石に置いて焼いたものです。裕福な人はパン焼き用の大きな壺を持っていて、その場合は壺を熱して内側に貼り付けて焼きます。
そうして出来たパンは「ふすま(穀物の外側の皮の部分)」を取り除かずにそのまま作るので、黒っぽいパンになります。
ふすまには食物繊維、鉄分・カルシウム・マグネシウム亜鉛・銅などのミネラルが豊富に含まれているため、近年では健康を気遣う人に向けて「全粒粉パン」やら「ふすまパン」やら「ブランパン」などと呼ばれてわりと高値で売られていますが、元々は庶民の食べ物だったのですな。
対して、ふすまを除いて精製した小麦粉で焼かれたパンは白い色になります。現代の日本で出回っているパンはほとんどコレですが、昔は大変贅沢なものだったそうです。
「上等な小麦粉」と言っているところを見ますと、恐らくは白に近い小麦粉を指しているのかな…?と最初は思いました。実際、聖書の解説サイトなんかでは「白いパンのことを指す」と書いてらっしゃる所もありました。
でもここでちょっと疑問。
本当に、この時代に白い小麦粉って出来るもんなの?
そこでパン作りの歴史を少々紐解いてみました。
今、発掘されている中で一番古いのは、約1万4400年前のメソポタミアで見つかった化石化したパン。ただしこの時代はまだ《お粥》のような括りで、もみがらを炒ったり石で挽いて粉にしたものに水を加えて煮て食べていたと考えられております。そのまま食べられる果実とかトウモロコシみたいな穀物と違って、そのまま食べても美味しくない麦類をなんとかして食べられるようにする手段だったわけですな。
それを焼くようになったのは、諸説ありますが紀元前6000~4000年頃。無発酵のパンは平たくて固いピザ生地みたいなやつで、アジムと呼ばれていたそうです。
そこから生地を発酵させたパンが現れたのが紀元前3500年頃。
……………と色々なサイトには書いてあったのですけども、一方でスイスのトゥワン遺跡下層(紀元前3830~3760年)から「人為的に発酵させた粥」が見つかっていて、中層(紀元前3700~3600年)からは「灰の下で焼いたパン」や「パン窯状設備で焼いたパン」が発見されているとWikipediaに書いてありました。
「人為的に発酵させた粥」は、サワードゥ(サワー種)というライ麦パンを膨らませるのに必要な酵母です。調理済みのお粥を数日間放置すると、自然の発芽酵母菌や乳酸菌で発酵します。当初は腐ったと思われて捨てられていたそうですが、それを焼いたものはどうやら食べてもお腹を壊したりしない上に、ただのお粥よりも美味しくなると分かったので敢えて発酵させるようになったということです。それが後のパン作りに発展していくというわけです。
今でも、北ヨーロッパでは一般的であるライ麦100%のライ麦パンは通常このサワードゥを使って膨らませているといいます。ライ麦はグルテンが少ないのでイースト菌だとうまく膨らみませんが、このサワードゥを使うとちゃんと膨らむのだそうです。
とりあえずそんな風に作られ始めたパンですが、一番記録が残っているのは何といってもエジプトです。
歴史家ヘロドトスに「パン食い人」と呼ばれるくらい、古代エジプト人はパンをたくさん作って食べていました。 (ちなみに当時のギリシャの主食は大麦のお粥。)給料や税金もパンによって支払われていたといいます。そんなエジプトですから、パン製造の資料はたんまりあります。壁画による図解付き。道具なんかも、お墓から発掘されたりしています。
この時代、小麦をひくのに使われていた道具は「サドルカーン」といいます。紀元前4000年頃から使われ始めたそうです。
ごくごく原始的な道具で、使い方は簡単です。石板みたいな平らな石皿の上で麺棒みたいな石の棒に体重をかけながらごろごろ転がして、 穀物を挽き潰します。要は《石臼》です。
ちなみに「サドル」が石皿で、「カーン」が棒の名前。新石器時代の中国からも見つかっているとても歴史の古い道具で、現在でも南米やインド、アフリカなどの一部地域で使われています。
《石臼》というと思い浮かぶ丸い回転式のやつは、紀元前600年頃の古代オリエント時代に発明されます。ロータリーカーンという名前で、上下2段の石を回転させて物をすりつぶします。それが後に風車や動物の力を使った脱穀に発展します。
すりつぶしただけではまだまだ籾殻やら細かいゴミやらが混ざった状態なので更に篩(ふるい)にかけたいところですが、馬の尾の毛などを使った初期の篩が登場するのはその更に後で紀元前100年くらいです。それまでは手作業で取ったり、息を吹き掛けて籾殻だけ飛ばしたり、そんな地道な方法で精製していたのでしょう。
ちなみに先程申し上げましたとおり毎日毎日パンを食べていた古代エジプト人たちは、お年寄りほど歯の病気が多かったのだそうです。身分の差などは関係なく、とにかくお年寄りだけ。とある個人ブログの方が記していたのですが、どうやらその原因は主食のパンにあったのではないかというお話です。
エジプトは言わずと知れた砂漠の国。時は建設技術もまだ発展途上。王廟などならいざ知らず、町の建設物全てが砂風を完全に防げるものでしょうか。しかも脱穀に使っているのは石製の道具。道具自体が磨耗して、少しずつ石の粉が混じってもおかしくありません。
すりつぶした砂や石でパンがジャリジャリしていても、そういうパンしか知らない方々は普通に食べてしまうでしょう。すると歯のエナメル質が時間をかけて傷つけられ剥がれ落ち、そこから虫歯になってしまうというわけです。
では、現代のような白い小麦粉が作れるようになったのはいつなのか?
砕いた小麦を篩で振るい、段階的に篩の網目を小さくしてより細かい小麦粉を作る「段階式製粉方法」は、16~17世紀頃にフランスで始まったそうです。
しかしながら篩の目は少しずつ細かくなっていっても、馬の尾や麻や、針金などを使った篩ではどうしてもふすまを全部取り除ききることは出来ません。
その鍵となったのが、絹糸です。
最初の方で服装の話を調べたときに、絹糸はこの頃無くはなかったと書きました。しかし物凄い貴重品であったために、王さまでもおいそれと身に付けられるものでは無かったと思われます。
紀元前3000年(紀元前6000年頃の説もあり)頃に中国で始まった絹糸生産は6世紀の半ばには既に確立しており、紀元1000年頃には税の支払いにも絹が使われるようになりました。しかし中国以外の地域では製法が分からなかったため、完全に中国からの輸入頼りでした。インドやペルシアへの輸入ルートが、今も残る『シルクロード』です。
古代ローマでも上流階級の衣服として絹が好まれましたが、金と同じ価値があるくらいの超高級品だったといいます。
ヨーロッパに絹製法が入ったのは6世紀になってから。1146年にシチリア王国で生産が始まり、ほどなくイタリア各地で絹が作られるようになります。
ちなみにイギリスはすごく絹生産に意欲的だったのに悉く失敗していてなんだか可哀想でした。
(宗教改革で母国を追われたプロテスタントの絹職人たちを受け入れて絹の国産化を目指すも本国ではうまく育たず→植民地先(アメリカ)で成功するも独立される→中国の絹への憧れが半端ないせいで貿易不均衡…これがアヘン戦争に繋がったのではという説も)
そんな超高級品を小麦粉の精製に使おうなどと、古代のひとが聞いたら気が触れたと思われそうですが、絹を使った篩が作られるようになったのは18世紀の産業革命からです。
蒸気機関の発明による工場の機械化と大量生産によって、絹は黄金よりは安価になったのでしょう。
小麦粉の世界も大きく変わりました。石臼はロール機に変わり、篩機は大きくなって、より大量の小麦粉を精製することができるようになりました。
更に絹を使った純化篩機が発明され、かくして真っ白な小麦粉が作れるようになりました。
「木下製粉株式会社」様のホームページでは、製粉の様子を丁寧に説明してくださっているのでとても分かりやすいです。
https://www.flour.co.jp/knowledge/flourmilling/
つまり「純化」ができるようにならなければ、真っ白な小麦粉にはお目にかかれないということです。
アブラハムが生きたとされる紀元前2000年頃には純化篩機はもちろん、そもそも篩自体がありません。
なので、ここで出てくる『上等な小麦粉』は白くなかったんではないかなーと私は思います。たぶん育ちの良い形の綺麗な麦を集めて作ったとか、通常より丁寧に挽いたとか、そんな感じではないでしょうか。
小麦粉の話がずいぶん長くなってしまいました。(いつものことですが)
さて、アブラハム家のおもてなしメニューはパンだけではありません。
○子牛の料理
○凝乳(カッテージチーズ)
○牛乳
これらをものすごく急いでアブラハム&家の若い衆が用意しました。彼らが可能な限りで用意できるごちそうです。三人の客人は、それらを木の下で食べます。
家の中に入れてあげないの?と思いますが、何か理由があるのでしょうか。
遊牧民のおもてなしの習慣的には、天幕内に招かれた訪問客は丁重な歓待を期待することができた、と以前ノアのところで調べました。尚且つ、「天幕」は保護や安全の象徴です。客人が神だと気付いているから保護は不要ということで、敢えて外で接待したのでしょうか…?ここらへんよく分かりません。
とりあえずお客さんたちはアブラハム家の前の木陰で食事をしました。
食事中、ふと彼らが「奥さんのサラはどこ?」と聞きます。天幕の中にいますよ、とアブラハムが答えますと、客人のひとりが「私は来年の今ごろにまたあなたの所に戻ってきます。その頃には貴方の奥さんには男の子が生まれていますよ。」と言いました。前回、神さまがアブラハムに言った契約と同じ台詞です。たぶん、ここでアブラハムにはピンと来たんではないでしょうか。「あ、この人神だわ。」と。
サラは、『その人のうしろの天幕の入り口』でそれを聞いていました。さっき頼まれたパン作りの真っ最中なのか、出来たパンを持っていこうとしたのか、はたまた立ち聞きしようとして聞いたのは分かりませんけども、とにかくサラは神さまが自分の話をしているのを家の中から聞いていました。神さまたちは家に背を向けていて、こちらを見ていないという構図になります。
家と言ってもテントですから、会話は駄々漏れです。客人たちが神だとはまったく知らないサラは、まあ普通の感想を抱きます。「こんな老人に子供なんて無理でしょ…」と心の中で笑っていますが、この笑いは自分の老いへの自嘲や諦めもあるでしょう。
既に生理も止まっていて、サラは自分自身をもう「女」と見れなくなっていたのかもしれません。
すると神さまはサラではなくてアブラハムに「なんでサラは笑ってるのか?主に不可能なことがあると思うのか?」と言いました。テントの布一枚隔てたすぐそばにサラ本人がいるのを知っていて、 且つサラの心の声を聞いているのに敢えてアブラハムに話しかけている体をとっているのがなんとも意地悪だなーと思うのは私だけでしょうか。しかも、ここで「主」という言葉を出しました。一応、主の信者ではあるサラは怖くなって『「私は笑いませんでした」と打ち消し』ました。自分のことを話していたとはいえ、いきなり自分が参加してなかった会話に飛び込む度胸と、敢えて空気を読まない強靭な精神はさすがだなと思います。
すると、天幕の外にいたお客さんが「いや、確かにあなたは笑った」と言いました。
神さまパワーのスゴさはさておき、一般の人間は何歳まで妊娠が可能なものなんでしょうか。
サイトで調べてみたところ、生物的に人間は月経が無くなりますと排卵も無くなるので妊娠は不可能になります。日本人の基準ですと、平均50歳頃で閉経が訪れるとのことです。
そして閉経前後の5年間は『更年期』と呼び、黄体期の短縮や無排卵が起こるので妊娠自体の確率が非常に低くなります。
つまりは一般的に妊娠できるのは45歳までということなのですが、かなり稀にホルモン状態が良くて妊娠することもあるそうです。
産婦人科医で、閉経したと思って来院した患者さんが妊娠だった、という例を診た方もいるそうです。
閉経と正しく診断された人が自然妊娠することはほぼ不可能とされていますが、
・実は更年期ではなくて他の原因で月経が止まっており、治療によって月経が再開した場合
・思い出したように卵巣が動き出した場合
など、完全に有り得ない話ではないようです。
サラは90歳ですが見た目は相当若かったようで、もしかしたら体内年齢もすごく若々しかったのかもしれません。
この90歳という年齢が、神代のアダムの子孫たち共々、象徴的なものなのかは分かりません。
暦の数え方が今とは違うために大きな数字になったのであって、ほんとはもっと若かったんではないかという方もいるそうですが、聖書を崇めている人々にとっては「聖書に書いてあることを疑うなんてとんでもないこと」らしいので、実際90歳だったとして話を進めます。
現実的な話として、体外受精の場合は閉経したあとの女性でも妊娠・出産は可能です。
昨年2019年9月、インドで74歳の女性が体外受精により双子の妊娠・出産に成功して世界記録を塗り替えたそうです。
なので神さまパワーで既に受精した卵を直接子宮にぶちこむことができれば、年齢は関係なく身体さえ丈夫で健康ならば子供はできる、ということになります。
「来年にはあなたに子供ができていますよ」と予告したということは、「あなたに受精卵をぶちこみますので宜しく」というわけですな。
さて、サラに「あなたは確かに笑った」と言い切った主は、呆然とするサラを特にフォローすることなくその場を後にしました。あわててお見送りするアブラハム。主を含む3人はソドムの町を見下ろす高台へ歩いていきました。
そこでいきなり主のモノローグが入ります。
「これからしようとしてること、アブラハムには内緒にしとく方がいいかなあ…。
アブラハムは絶対大物になると思うんだよね。この男の子孫まで私との約束を守らせるために選び出したんだし…」
主とふたりのお供は、別に下界に観光に来たわけではなくてちゃんと目的があったのですね。それは、アブラハムにあまり知られたくないことのようです。
その理由として、「アブラハムを選び出したのは『主の道』を守らせ正義と公正を行わせるためだ」と述べています。わかりにくいなー。
自分の信者にするために選んだアブラハムの信仰が離れたら困るなー、だから内緒にしといた方がいいかなー、と言ってるようにしか見えないんですけど如何なものでしょうか。
で、何をしようとしてるかは読者も含めて伏せて、
「ソドムとゴモラの町の人はすごく悪いことしてるって声がこっちに届いてるんだけど、実際に現地に行って何が起こってるか見てみようと思うんだよね。」
と言いました。
この時点で、アブラハムは主が何をしようとしてるのか悟ったようです。
主の言葉を額面通り受け取ったなら「あー、そうなんですかー。行ってらっしゃいませー。」とお見送りするところだと思うんですが、
「マジで全員滅ぼしちゃうんスか?」
と言いました。
主はソドムとゴモラを滅ぼすために、わざわざ天からやってきたようです。
これまでお世辞にも察しがいいとは言えなかったキャラのアブラハムでさえもピンときたということは、当時のソドムとゴモラの荒れ具合は相当なものだったんでしょう。「ありゃいつ神さまに滅ぼされてもおかしくないぞ」というくらいにはヤバかったんですね。
ソドムの方に向かう歩みを止めない主たちの前にアブラハムは立ちはだかって、必死に値下げ交渉を始めます。
ア「もしかして50人くらいは正しい人がいるかもしれませんよ。まとめて殺しちゃったら正しい人も悪い人も同じ扱いになっちゃうじゃないですか、それじゃ不公平でしょう。」
主「じゃあもしソドムの町で50人正しい人がいたら、許してあげることにするよ」
ア「(……………やべー、50人もいないかもしれん)
えーと、5人くらい足りないかもしれないですけど…」
主「じゃあ45人いたら滅ぼさないであげるよ」
~中略~
ア「ほんっっっとーに申し訳ないのですけども、怒らないでください。10人くらいは正しい人がいるかもしれないです………ほんとマジで……」
主「じゃあ10人いたら滅ぼさないであげるよ」
なんてまどろっこしいやり取りなんでしょうか。
でもアブラハムの葛藤は伝わってきます。ソドムの人口がどれくらいかはわかりませんけど、最初「50人」と口をついて出た数字で契約を結んだ直後『待てよ、あの町に50人も善人が居るとは思えない』と咄嗟に考えて少しずつ数字を小さくしていくところに、ソドムの町の信用の無さが伺えます。
相当酷い町なんでしょうね。
話が終わると主はとっとと去っていってしまいましたので、アブラハムは家に帰りました。
いくらヤバイ風紀の町の人でも、町ごと滅ぼされちゃうのをみすみす見逃せないあたり、アブラハムも人間です。主の思考を見てるとどうもフラスコを覗く科学者というか 、病巣を取り除くお医者さんというか、そういう思考回路で人間を見ているように見えます。
とりあえず、18章はここまでです。
さあ、ソドムの運命やいかに?!(今さらネタバレも何も無い気がしますが)
さて、今回の楽曲は
映画『ソドムとゴモラ』より
https://youtu.be/wwRAs_VdydE
1962年制作の、イタリアとアメリカで合作した映画です。
ロージャ・ミクローシュさんというハンガリー出身の作曲家が音楽を担当していらっしゃいます。
2020/02/03 (Mon)
『椿姫』の話題も3回目になりました。
前回はクルチザンヌの成り立ちから、ドゥミ・モンドの終焉まで調べてみましたが、今回はキャラクターに関して突っ込んでみたいと思います。
自分が頂いた役がフローラなので、フローラに焦点を当てたものが多くなってしまいますがご了承ください。
※あくまで素人の調べた結果と妄想です!本気にしないでください。
さて、欲望渦巻くドュミ・モンドでヴィオレッタもフローラも生きているわけですが、クルチザンヌたちの一番の社会的なお役目はなんといっても『仲介』だと思われます。
豪奢なパーティーを開きますと、色々な筋の人がお客としてやってきます。ただパーティーを楽しむためだけではなくて、各々の目的を持ってやって来るわけです。
たとえば、そのクルチザンヌのパトロンとなっている富豪とお近づきになりたい。
たとえば、そのパーティーの常連さんである知人に、他の常連さんを紹介して欲しい。
政治的な意味かも知れませんし、商業的な意味かも知れませんし、肉欲的な意味かも知れません。
もちろんパーティーの主催のクルチザンヌと良い仲になりたい男性もいるでしょうし、新たなパトロンを探しに来た同業者もいるでしょう。
そういった人々の社交場を調え、コネを提供するからこそ、クルチザンヌは重宝されたのだろうと思われます。
それでは、この二人の関係性から考えてみます。恐らくこの二人はほぼ対等な友達関係だと思われます。
同じくらいの規模のパーティーが開ける(パトロンの)経済力があり、同じくらい教養があり、クルチザンヌ歴も同じくらい長い。だから二人の間には嫉妬とか、見栄の張り合いなどをする必要性が無いのです。
ヴィオレッタの方が美しい、ということはあるかもしれません。でも前前回の妄想で個人的に『フローラは元歌い手かもしれない』という勝手な仮説を立てていますので、その前提で考えますときっとフローラには容姿を補って余りあるユーモアとか演技力とか、音楽的素養があったのではないかと(勝手に)考えます。
では、原作を下敷きにしてフローラの人間性を考えてみたいと思います。
原作では、マルグリット以外に計4人の女性が登場します。一人ずつ確認してみましょう。
オペラではジェルモンの語りの中にしか登場しなかった、アルマン(アルフレード)の妹は除きます。
①プリュダンス・デュヴェルノワ
マルグリットの隣に住んでいる、40歳くらいの女性。元娼婦で、女優になろうとしたものの挫折。顔の広さを生かして女性用品店を開き、生活している。
プリュダンス(慎重)という名前とは裏腹に、おしゃべりで軽薄な性格。ただし玄人あがりだけあって社交界の人脈や娼婦の実情を知り尽くしており、アルマンやマルグリットに忠告や説教などをする。その上で、ふたりの仲を取り持つ役も果たす。ちゃっかりもので、しょっちゅうマルグリットからお金や小物をもらう。マルグリットと頻繁につるみ、食事や観劇などを共にする仲。しかし売れっ子だったマルグリットの収入を当てにして借金をしていた為、マルグリットが病気で動けなくなるとぱったり交流を断つ。
②ジュリー・デュプラ
マルグリットの友達のひとり。末期に動けなくなったヴィオレッタの看病から臨終、葬式まで全て見てきた人物。マルグリットに借金の取り立てがきて家中の物が差し押さえられたとき、役人と言い争ったり自分の僅かな貯金を使って差し押さえを止めようとした。
マルグリットの日記を託され、字を書けなくなってからは彼女が続きを記した。
アルマンはマルグリットが亡くなる直前に書いた手紙の指示でジュリーから日記を受けとり、自分たちが別れることになった経緯を知ることになる。
マルグリットが亡くなってからも彼女を慕っていた。
③ナニーヌ
マルグリットの元で働いている女中。マルグリットとアルマンが出会った当初から亡くなるまで、マルグリットの世話をし続けた。
④オランプ
アルマンとマルグリットが別れてから、パリでマルグリットと連れだって歩いていた若い娼婦。顔は美しいが意地悪。アルマンは一方的に別れを切りだして出ていったマルグリットへの当て付けのために彼女を手に入れ、彼女と共にマルグリットに精神的な嫌がらせの数々を行う。オランプも嬉々としてイジメに参加した。
ざっとこんな感じです。
この中で一番フローラに立場が近いのは、①のプリュダンスだと思います。でも、生活のために私物を売ることになったマルグリットに頼まれて、彼女に代わりパリで売買をする役はアンニーナになっています。
現役の娼婦であるところは、④オランプの要素をとったかもしれません。
言わずもがな、ヴィオレッタの召し使いアンニーナは③ナニーヌに②ジュリーの要素を足した役どころとなっています。
ジュリーは、こんなに重要な役どころなのにプリュダンスと違ってほとんど個人の描写がありません。
マルグリットにはたくさんの友達がいましたが、ジュリーはその中のひとりでしかありませんでした。
友達というからには、ジュリーもクルチザンヌ、あるいはそれに準じた職業のひとであろうと予想されます。男友達の奥さんという可能性も捨てきれませんが、小説後半のジュリーの独白を鑑みるに、その線は薄そうです。
抜粋↓
「こうした悲しい印象もわたくしのような生活を送っていては、長い間そのままに残るようなことはありますまい。マルグリット様が御自分の生活を思いのままにおできにならなかった以上に、わたくしなぞは自分の思いのままに暮らせない身の上でございますもの。」
どうして彼女がマルグリットを献身的に看病し、看取ることになったのか、その経緯や彼女の気持ちは描写されていません。
ここまで書き出して改めて、マルグリットの友達と呼べた人物は皆娼婦であったことがわかります。
オランプは友達と言える関係では無かったかもしれませんが、街を一緒に歩いていたのですから同業者としての付き合いくらいは少なくともあったでしょう。
そこで、フローラはどんな人物だったろうかと考えたときに
①プリュダンス
②ジュリーから、アンニーナに取られた要素を除く部分
④オランプ
の要素が材料になるのかな、と考えます。
フローラの人間性やシーンごとの感情は、また別に掘り下げて考えてみたいと思います。
次に、ヴィオレッタとフローラを取り巻く御貴族さまたちについて見てみます。
オペラの第一幕。冒頭のパーティーシーン。
このパーティーの主宰はヴィオレッタで、時刻は真夜中。
たくさんのお客さんがいますが、招待客の一部はフローラのパーティーからはしごしてやって来たために遅刻したようです。
フローラは自分の主催したパーティーをつつがなく終え、そのあとで自分が招待されたパーティーにやって来たわけです。
一幕おわりが夜明けですから、一晩中遊んでたことになります。財力もですが、体力がすごい。
とにかく、フローラと彼女の取り巻きがヴィオレッタのパーティーに到着したところからオペラスタートです。
リブレットのト書きには、こう書いてあります。
『ヴィオレッタは、ソファーに座って医者と幾人かの友人たちと話をしている。その間に、何人かの友人たちは遅れてやってくる人たちを出迎えているが、その〔遅刻組の〕中には、男爵と、侯爵と腕を組んだフローラがいる。』
パーティーに来ている人々は爵位ばかりでとかく覚えにくいですが、そうも言ってられません。
とりあえず登場人物が増えました。
まず、ヴィオレッタと話している医者。グランヴィル〔 Grenvil 〕という名前です。
原作では名前もなく、マルグリットが末期になってから現れますが、オペラではパーティーシーン全てに同席し、ヴィオレッタを看取るメンバーのひとりという、なかなか重要な役どころです。どうも、ただの主治医というには親しすぎるというか、彼もヴィオレッタの信者のひとりではなかろうかと思ったりします。
グランヴィルというお名前ですが、イギリスのグレンヴィル〔 Grenville 〕という姓を意識して付けられたのではないかと思われます。
グレンヴィル家は古い貴族の家系で、代々政治家を輩出しており、首相になった人物も何人かおりました。時代によってはグランヴィル〔 Granville 〕と呼ばれていたようです。
このお医者さんはもしかするとイギリスの古い名家の生まれで、家が没落し学を身に付けて医師になったのかもしれません。フランス、特にパリは18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパ医学の中心でした。留学のためにパリに来て医療を学び、そのままパリで診療所を開いたとしてもおかしくはありません。
元が貴族なら、パーティーに慣れているのも頷けます。
次に、フローラと共に遅刻してきた男爵と侯爵。
リブレットの設定によると、ドゥフォール〔 Douphol 〕男爵とドビニー〔 D'Obigny 〕侯爵というお名前です。
普通に調べても、おふたりのお名前はどこかの貴族とかで出ては来ませんでした。
そこで妄想を巡らせてみます。
このふたり、どちらも名前の頭文字はD。
そこで思い出すのは、マルグリット及びヴィオレッタのモデル、マリー・デュプレシです。彼女は本名をアルフォンシーヌ・プレシといいましたが、源氏名を母のマリーからとり、更に「貴族風に」Du を姓に付けてデュプレシとしました。
デュプレシ、という名前は実際の貴族にもおります。
有名なところですと、ルイ13世の宰相を務めた枢機卿及びリシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシー( Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu)です。
この貴族風の姓は元々「~の出身」という意味だそうです。「姓」という概念のなかった中世初頭頃のゲルマン人領主が、自分の領地名を名乗ったのがはじまりです。伯爵以上の貴族が王さまから与えられた土地を名乗ることが多く、古い家名ですと、家門の発祥地を示していたりします。領土の特権が廃止された19世紀以降に爵位を得た人は、基本的にはこの名字は持てません。新貴族が土地を自分で買ってもダメです。旧家の名前を名乗りたければ、旧貴族の娘と結婚して爵位を継ぐしかありません。
デュ・プレシという名前は「プレシ(出身)の」という意味なわけです。
ちなみにプレシ(Plessis) はパリから6kmほど離れたセーヌ県の町です。
15世紀にはル・プレシ=ピケ(Le Plessis-Piquet)、フランス革命期にはプレシ=リベルテ(Plessis-Liberté)と呼ばれたこの町は、現在はル・プレシ=ロバンソン (Le Plessis-Robinson)と呼ばれているそうです。1840年代に児童文学『スイスのロビンソン』に出てくるような樹の上に建てたレストランが流行し、同じような店があちこちにできた為に1909年改名されたとのことです。
国ごとに「~出身」の冠詞が異なるため、名前も変わります。
ドイツなら「von」(フォン)
イギリスなら「of」(オブ)
フランスだと「du」または「de」(デュ)
フランス語の場合、男性名詞にはdu、女性名詞にはde la がつきます。
騎士や領主など準貴族に後からなった人が元々の姓にこの冠詞をつけて名乗る場合もあります。この場
合、出身地を示す意味は消え、冠詞そのものが称号のような扱いになります。(ヨハン・ヴォルフガング・『フォン』・ゲーテとか)この称号は世襲することができます。
それを踏まえて、ドゥフォールさんとドビニーさんの名前について考えてみます。
まずは ドビニー〔 D'Obigny 〕さんから。
頭文字のDを先程の称号だと仮定して、「Obigny」という名前がどこから来たのでしょうか。
調べてみましたら、なんとなく似てる地名がふたつ出てきました。関係があるかは分かりませんが、とりあえず載せておきます。
①ボビニー/Bobigny
パリの市境から約3キロ離れた、フランス北部の街。
ボンディの森に館を築いた古代ローマの将軍、 バルビニウス(Balbinius)が地名の由来。
Wikipediaによると、1789年当時は人口200人余りの小さな村で、穀物生産が盛んだったそうです。1870年の普仏戦争で荒廃してしまいましたが、19世紀の終わりにパリから鉄道が通じると労働集約型企業の労働者の町へと変貌しました。
あんまり目立たない町なので、ここは関係ないかも?
②オービニー=シュル=ネール /Aubigny-sur-Nère
フランスのど真ん中くらい、ロワール地方シェール県のコミューン。6世紀には既に存在していた古い街です。
1423年、シャルル7世は百年戦争で同盟関係だったスコットランド軍の最高指導者、ジョン・ステュワート・オブ・ダーンリーの功績を称えてこの街を授けます。1429年にジョンが亡くなると、彼の長男アラン・ステュワートが土地と称号を受け継ぎました。しかしアランは1437年、シャルル7世の了承を得てスコットランドに帰国、オービニー領主の称号も辞退します。そこでお父さんと同じ名前の次男、ジョン・ステュワートが後を引き継いだわけです。
それ以降、オービニーはフランスにありながらイギリスのステュワート家が街の当主となります。
1512年、大火事で一度街は焼け落ちてしまいましたが、ジョン(息子)から二代後の当主(孫娘の旦那)ロベール・ステュワート・ドービニー (Robert Stuart d'Aubigny)が大補修して現在も見られる木組の街並みを作ったそうです。
他にも Aubigny という名前の街はあったのですけれども、新しかったり大した情報がなかったりだったので、一番有名なのはこの街だと 思われます。
ステュワート家といえばスコットランド女王メアリー1世を輩出した名門です。エリザベス1世を最期に断絶したイングランドのテューダー朝に対してステュワートの血筋はその後も続き、ウェールズを含むイングランドとスコットランドが合同して成立したグレートブリテン王国の王家になります。
ステュワート・オブ・ダーンリーは正確には分家ですが、由緒ある貴族であることは間違いありません。
…完全に妄想ですが、D'Obigny が D'Aubigny のパロディー的なお名前だとしたら、面白いなと思いました。もしそうならドビニーさんは、ステュワート家の血筋を引く貴族ということになります。
ちなみに D'Aubigny という名前を追いかけていましたら、このお名前をお持ちのオペラ歌手を見つけました。どうやらバイセクシャルの方だったようで興味深かったので、話が脱線しますが載せておきます。
ジュリー・ドービニー(Julie d'Aubigny)
(1670 / 1673~1707)
父親はガストン・ドービニーという人で、ブルボン王室の厩舎長アルマニャック伯ルイ・ド・ロレーヌの秘書でした。ということは血筋的にはやはり貴族になるのでしょう。
見習い裁判官の少年たちと共にダンスや読書、絵画にフェンシングなど貴族の教育を施されたジュリーは、幼い頃から男装を好んでいたそうです。フェンシングの腕前はかなりのもので、男相手にもひけをとらなかったといいます。ベルバラのオスカルみたいですな。
14歳で父親を亡くしたジュリーは父親の上司であるルイ・ド・ロレーヌ伯爵の愛人になったのですが、奔放なジュリーをもて余した伯爵はシウ・ド・モーピンという男とジュリーを結婚させます。それでジュリーは「ラ・モーピン」と名乗るようになりました。
結婚後、シウ・ド・モーピンはフランス南部の行政職に就いたため引っ越ししなくてはならなくなったのですが、ジュリーはパリに残る選択をします。
ひとりになったラ・モーピンは、セランヌというフェンシング教師と関係を持ちました。しかし、あるときセランヌが非公式の決闘で相手を殺害した罪で逮捕されそうになります。ラ・モーピンはセランヌと一緒に、パリを逃亡しました。
二人はフェンシングの観戦試合を行ったり、居酒屋や見本市で歌ったりして生計を立てつつ、旅を続けました。ラ・モーピンはあいかわらず男性の服を着ていましたが、別に女性であることを隠したりはしませんでした。
マルセイユに辿り着いたジュリーはオペラ団体に入団して、この頃フェンシングのインストラクターも辞めました。(たぶんセランヌとも別れた)
旧姓でオペラの舞台に立つようになったジュリーは、今度は女性と関係を持つようになります。しかし相手の女性の両親がそれを良く思わず、彼女を修道院に入れてしまいました。諦められないジュリーは恋人のベッドに修道女の遺体を置いて部屋に火をつけ、恋人を連れて逃亡します。
このまま、セランヌの時のような逃亡劇となるか?…と思いきや、3ヶ月後に女性は家族の元に帰ってきました。ジュリーは結局捕まりませんでしたが、誘拐と放火と法廷に現れなかった罪で火刑の判決を下されます。マルセイユに居られなくなったジュリーはパリに戻りました。パリに戻るまでにも様々な色恋沙汰があったようですが、ともかくパリに着いたジュリーはパリ・オペラ座への入団を望みます。最初は断られましたが、1690年に無事入団が叶い、当初はソプラノ、しばらく後からコントラルト歌手として「マドモアゼル・ド・モーピン」の名前で演奏を始めました。
相変わらず男性の服を日常的に身に付けていたモーピンはオペラ座でも男女さまざまな相手と恋をし、男勝りな喧嘩や決闘をしていましたが、パリ市内の決闘に対する法律が男性のみに適応されていたために罷免されました。
1697年から1698年までブリュッセルでオペラ公演をした後、1705年に引退するまでパリで演奏活動をしていたモーピンは、何度もヴェルサイユ宮殿で歌っていたそうです。彼女の演奏を聴いたダンジョー侯爵は1701年、自身の日記に『世界で最も美しい声』と書いていたといいます。
引退後の彼女の晩年は複数説あり、長らく離れていた夫と暮らしたとか、プロヴァンスで修道女になったとか言われているようですが、正確なところは分かっておりません。1707年に33歳で亡くなったとされていますが、お墓も無いとのことです。
脱線が長くなりました。
次にドゥフォール[Douphol]さんを見てみます。
ネットのサイトで、古フランス語の冠詞に
de + le = del, deu, dou, du
などのバリエーションがあると見ました。なので、Dou も貴族の称号なのでは?と勝手に妄想してみます。
Dou は称号だとして、phol はどこから来たのでしょう。phol という言葉を単体で調べたら、なんか遺伝子の名前とかタイのお砂糖を作る会社が出てきました(汗)
それでも諦めずに探したところ、なんと見つけたのは日本警察犬協会のホームページで、警察犬の名前一覧の中でした。
【Phol(ポール) Balderの方言 】
とのことです。
Balder(バルドル)は北欧神話の光の神。彼の死がきっかけとなってラグナロクは起こり、神々の時代が黄昏を迎えることになるのです。
アルフレードに手袋を投げるドゥフォール氏の、名前の元がバルドルだとしたらすごい皮肉ですな。
「Phol」という名前を追いかけてみましたら、9~10世紀に書かれた【メルゼブルクの呪文】という書物の中に出てきました。古高ドイツ語で書かれたその書物には、文字を持つ以前のゲルマン民族に伝わっていた魔法や呪文が書かれています。
ドイツ・ヘッセン州にあるフルダの修道院で典礼書の空白ページに書き留められた呪文は、メルゼブルクの図書館に渡り、その後グリム兄弟によって書籍化されました。キリスト教の影響を受けていない資料としては、非常に珍しいものだそうです。
その中の、【馬の呪文】という一節に「Phol」は出てきます。ご興味ありましたら「メルゼブルクの呪文」と検索しますとWikipediaで見られます。
【ポール】という名前はヨーロッパではよくあるお名前ですけれども、Phol という綴りのポールさんはあんまりいらっしゃらないようです。
もしかしたら、ドゥフォールさん本人ないしご先祖は北欧の流れを汲むドイツの人なのかもしれません。
似た名前で「Pohl」という綴りのポールさんは、キリスト教由来の「Paul」 よりは少ないものの、ドイツ系の方でいらっしゃいました。
Pohl という地名も、ドイツにあります。ラインラント=プファルツ州ライン=ラーン郡にあるナッサウ連合自治体のひとつ、Pohl 市です。
偶然かもしれませんが、ドイツの産業革命はこのポール市があるラインラントから始まったといえます。
1815年、ウィーン議定書(ナポレオン戦争の戦勝国の領土変更をしましたよという議定書)によって、プロイセン王国はラインラントを獲得します。ラインラントはライン川を利用した物流の要の土地でもあり、豊富な地下資源を持つ、すごく良い土地でした。ただし首都のベルリンからは結構離れていたので、ラインラントのまわりの諸国と関税同盟を結ばないといけなくなりました。でないと自分の国の領地から物資を運びたいのに、いちいち税金がかかってしまいますからね。
なんやかんや揉めたりしましたがなんとか1834年に成立したドイツ関税同盟によって、ドイツ諸邦国は大きな共通市場を手に入れました。これが足掛かりになって、1840年代からドイツは産業革命に入っていくわけです。
どちらにしてもたぶん貴族のお名前ではなさそうなので、マリー・デュプレシと同じように自分で本名を加工して貴族風に変えたと仮定してみましょう。
根っからの貴族ではない、というところから、色々想像ができて面白いですな。
さて、こうしてヴィオレッタ邸のパーティーにやってきたフローラ、ドビニー侯爵、ドゥフォール男爵。
フローラと腕を組んで登場と書いてありますので、フローラのパトロンはドビニー侯爵なんだなと分かります。
現代に生きていますとあんまり貴族の位とか重要でないので、どっちが偉いとかどーでもいいとか思ってしまいそうですが、この頃ですとそうもいかないでしょう。
Wikipediaによりますと、フランスの爵位は13世紀に国王フィリップ3世が制定したのが始まりで、18世紀に
大公(王族)
公爵
侯爵
伯爵
子爵
男爵
騎士
エキュイエ(平貴族)
までの階級ができたそうです。
フランス革命で一度廃絶されたあと1814年の王政復古で復活しましたが、貴族の特権は伴わない『名誉称号』となります。更に第三共和政以降は、私的に使う以外の効果は無くなってしまいました。
物語の舞台は1850~51年ですので、まだ第三共和政は樹立してません。(第三共和政は1870年樹立~1940年のナチス・ドイツによるフランス侵攻まで)
ドビニーさんは王様を除く上から2番目の侯爵、ドゥフォールさんは5番目の男爵。
結構開きがありますね。
前回の記事で時代背景を調べていて、当時は「地代収入が一万フランあれば男爵の爵位がもらえる」ということが分かっています。つまり、男爵さんはそんなに先祖代々からの貴族というわけではなかった可能性があるということです。
前回記事のおさらい、産業革命時のお金持ちの方々↓
①産業革命にうまく乗って商工業で成功した人
②貴族の称号をお金で買った新興貴族
③復古王政時代に財産を取り戻して、それを元手に産業資本家になった旧貴族
このうち、ドビニーさんは③でドゥフォールさんは①か②なのかもしれません。
ひとまず先のシーンへ進みます。
遅刻してきたフローラ、ドビニー、ドゥフォールを主催者として迎えるヴィオレッタ。そこにガストーネ・ディ・レトリエール子爵が、アルフレード・ジェルモンを連れて入ってきます。
ガストーネはヴィオレッタたちと既に知り合いで、自分の友達であるアルフレードをヴィオレッタに紹介します。
ガストーネは、小説でもガストン・Rという名前で、アルフレードの友人として出てきました。オペラと同じくマルグリットとアルマンを引き合わせる役になります。ただし小説では別に貴族であるという記述はなく、あくまでアルマンとマルグリットの共通の友達という立ち位置です。マルグリットを口説くも断られ、マルグリットと一緒にいたプリュダンスと良さげな雰囲気になります。(プリュダンスはあまり本気ではなかったですが)
『ヴィオレッタとアルフレードを引き合わせる』という目的しか与えられていなかったガストンという男は、オペラではなかなかの存在意義を放っています。
2幕ではフローラのパーティーの興行を取り仕切るなど、人脈と財力を巧みに使える男であることが伺えます。
ひとまずここでは彼の身分『子爵』について少し。
子爵は上から4番目、ドゥフォールさんの男爵よりひとつ上の爵位です。
中世以降のヨーロッパで使われるようになった爵位で、元々は中世ラテン語の vicecomes(後期ローマ帝国の廷臣から来る伯爵)から来ている古フランス語のvis(副)conte(伯)が由来だそうです。
伯爵の補佐役に与えられる一代限りの爵位だったものが後に世襲されるようになったものらしく、日本で言うと地頭さんに近いそうな。
また、儀礼称号として侯爵や伯爵の嗣子(跡取り)や、子爵家当主の法定推定相続人に使われることもあるそうです。法定推定相続人の場合、必ずしも子息とは限りません。
なので子爵さんについては更に色んな想像ができますね。
とりあえず、パーティーで出てくる主要な人物はこれで出揃ったことになります。
身分順にまとめると
ドビニー侯爵
ガストーネ子爵
ドゥフォール男爵
グランヴィル医師
ちなみに原作で出てくる貴族たちは
老公爵
70歳ほどの老公爵。マルグリットがバニェールに湯治に来たときに知り合う。マルグリットに瓜二つの娘を同じ肺結核で亡くしていて、その面影をマルグリットに見ている。マルグリットの放蕩ぶりを心苦しく思いながらも彼女を庇護し、年間七万フランほど貢いでいる。
M・ド・N伯爵
若いお坊ちゃん伯爵。相当な金持ちで、マルグリットの金銭的なパトロン。ただしマルグリットには物凄く嫌われている。
G男爵
マルグリットのために身代を棒に振ったらしい、と噂になっていた。
G伯爵
マルグリットをクルチザンヌに引き立てた人物。古い馴染みで、一緒に芝居を観に行ったりする。年間一万フランほどマルグリットに貢いでいる。マルグリットの死の間際、借金に追われてロンドンに出立。
L若子爵
マルグリットに貢ぎ過ぎて一文無し寸前になり、都落ちした。肖像画でのみ登場。
の4人ですが、オペラで台詞が使われているのはM・ド・N伯爵のみです。まだ知り合っていない頃にマルグリットの容態をアルマンが毎日訪ねに来ていた、とマルグリットが知ったときの伯爵とのやり取りです。
「あなただったら、ねえ伯爵、そうはなさらないわね。」
「僕は君と知り合いになってまだやっと二月なんだからね。」
「でも、あたし、こちら様とおちかづきになってまだ5分しかたたないことよ。あなたって方はいつもとんちんかんな返事ばかりなさるのね。」
このやりとりは1幕のパーティーシーン、男爵とヴィオレッタの会話に引き継がれています。
もしも男爵がドイツ人だったら。
国民性を紹介する本で以前読んだのですが、ドイツの方は一般的に「信頼度=付き合った期間の長さ」という考え方をする傾向があるそうです。そして形式も大切にするので、きちんと紹介されて友人になるということも重要です。なので本人が親しくなりたいと思ってはいても、実際に親しくなるには時間がかかります。
実際に親しくならなければ、気軽に家を訪ねたりも出来ないし二人きりで会うのも憚られる、と考えていたかもしれません。
そう思うと、男爵は真面目過ぎてヴィオレッタに手が出せなかったと見ることも出来ます。
各貴族たちの懐事情や感情、お家の事情なんかを考えていくと、より一層楽しめますね。
前回はクルチザンヌの成り立ちから、ドゥミ・モンドの終焉まで調べてみましたが、今回はキャラクターに関して突っ込んでみたいと思います。
自分が頂いた役がフローラなので、フローラに焦点を当てたものが多くなってしまいますがご了承ください。
※あくまで素人の調べた結果と妄想です!本気にしないでください。
さて、欲望渦巻くドュミ・モンドでヴィオレッタもフローラも生きているわけですが、クルチザンヌたちの一番の社会的なお役目はなんといっても『仲介』だと思われます。
豪奢なパーティーを開きますと、色々な筋の人がお客としてやってきます。ただパーティーを楽しむためだけではなくて、各々の目的を持ってやって来るわけです。
たとえば、そのクルチザンヌのパトロンとなっている富豪とお近づきになりたい。
たとえば、そのパーティーの常連さんである知人に、他の常連さんを紹介して欲しい。
政治的な意味かも知れませんし、商業的な意味かも知れませんし、肉欲的な意味かも知れません。
もちろんパーティーの主催のクルチザンヌと良い仲になりたい男性もいるでしょうし、新たなパトロンを探しに来た同業者もいるでしょう。
そういった人々の社交場を調え、コネを提供するからこそ、クルチザンヌは重宝されたのだろうと思われます。
それでは、この二人の関係性から考えてみます。恐らくこの二人はほぼ対等な友達関係だと思われます。
同じくらいの規模のパーティーが開ける(パトロンの)経済力があり、同じくらい教養があり、クルチザンヌ歴も同じくらい長い。だから二人の間には嫉妬とか、見栄の張り合いなどをする必要性が無いのです。
ヴィオレッタの方が美しい、ということはあるかもしれません。でも前前回の妄想で個人的に『フローラは元歌い手かもしれない』という勝手な仮説を立てていますので、その前提で考えますときっとフローラには容姿を補って余りあるユーモアとか演技力とか、音楽的素養があったのではないかと(勝手に)考えます。
では、原作を下敷きにしてフローラの人間性を考えてみたいと思います。
原作では、マルグリット以外に計4人の女性が登場します。一人ずつ確認してみましょう。
オペラではジェルモンの語りの中にしか登場しなかった、アルマン(アルフレード)の妹は除きます。
①プリュダンス・デュヴェルノワ
マルグリットの隣に住んでいる、40歳くらいの女性。元娼婦で、女優になろうとしたものの挫折。顔の広さを生かして女性用品店を開き、生活している。
プリュダンス(慎重)という名前とは裏腹に、おしゃべりで軽薄な性格。ただし玄人あがりだけあって社交界の人脈や娼婦の実情を知り尽くしており、アルマンやマルグリットに忠告や説教などをする。その上で、ふたりの仲を取り持つ役も果たす。ちゃっかりもので、しょっちゅうマルグリットからお金や小物をもらう。マルグリットと頻繁につるみ、食事や観劇などを共にする仲。しかし売れっ子だったマルグリットの収入を当てにして借金をしていた為、マルグリットが病気で動けなくなるとぱったり交流を断つ。
②ジュリー・デュプラ
マルグリットの友達のひとり。末期に動けなくなったヴィオレッタの看病から臨終、葬式まで全て見てきた人物。マルグリットに借金の取り立てがきて家中の物が差し押さえられたとき、役人と言い争ったり自分の僅かな貯金を使って差し押さえを止めようとした。
マルグリットの日記を託され、字を書けなくなってからは彼女が続きを記した。
アルマンはマルグリットが亡くなる直前に書いた手紙の指示でジュリーから日記を受けとり、自分たちが別れることになった経緯を知ることになる。
マルグリットが亡くなってからも彼女を慕っていた。
③ナニーヌ
マルグリットの元で働いている女中。マルグリットとアルマンが出会った当初から亡くなるまで、マルグリットの世話をし続けた。
④オランプ
アルマンとマルグリットが別れてから、パリでマルグリットと連れだって歩いていた若い娼婦。顔は美しいが意地悪。アルマンは一方的に別れを切りだして出ていったマルグリットへの当て付けのために彼女を手に入れ、彼女と共にマルグリットに精神的な嫌がらせの数々を行う。オランプも嬉々としてイジメに参加した。
ざっとこんな感じです。
この中で一番フローラに立場が近いのは、①のプリュダンスだと思います。でも、生活のために私物を売ることになったマルグリットに頼まれて、彼女に代わりパリで売買をする役はアンニーナになっています。
現役の娼婦であるところは、④オランプの要素をとったかもしれません。
言わずもがな、ヴィオレッタの召し使いアンニーナは③ナニーヌに②ジュリーの要素を足した役どころとなっています。
ジュリーは、こんなに重要な役どころなのにプリュダンスと違ってほとんど個人の描写がありません。
マルグリットにはたくさんの友達がいましたが、ジュリーはその中のひとりでしかありませんでした。
友達というからには、ジュリーもクルチザンヌ、あるいはそれに準じた職業のひとであろうと予想されます。男友達の奥さんという可能性も捨てきれませんが、小説後半のジュリーの独白を鑑みるに、その線は薄そうです。
抜粋↓
「こうした悲しい印象もわたくしのような生活を送っていては、長い間そのままに残るようなことはありますまい。マルグリット様が御自分の生活を思いのままにおできにならなかった以上に、わたくしなぞは自分の思いのままに暮らせない身の上でございますもの。」
どうして彼女がマルグリットを献身的に看病し、看取ることになったのか、その経緯や彼女の気持ちは描写されていません。
ここまで書き出して改めて、マルグリットの友達と呼べた人物は皆娼婦であったことがわかります。
オランプは友達と言える関係では無かったかもしれませんが、街を一緒に歩いていたのですから同業者としての付き合いくらいは少なくともあったでしょう。
そこで、フローラはどんな人物だったろうかと考えたときに
①プリュダンス
②ジュリーから、アンニーナに取られた要素を除く部分
④オランプ
の要素が材料になるのかな、と考えます。
フローラの人間性やシーンごとの感情は、また別に掘り下げて考えてみたいと思います。
次に、ヴィオレッタとフローラを取り巻く御貴族さまたちについて見てみます。
オペラの第一幕。冒頭のパーティーシーン。
このパーティーの主宰はヴィオレッタで、時刻は真夜中。
たくさんのお客さんがいますが、招待客の一部はフローラのパーティーからはしごしてやって来たために遅刻したようです。
フローラは自分の主催したパーティーをつつがなく終え、そのあとで自分が招待されたパーティーにやって来たわけです。
一幕おわりが夜明けですから、一晩中遊んでたことになります。財力もですが、体力がすごい。
とにかく、フローラと彼女の取り巻きがヴィオレッタのパーティーに到着したところからオペラスタートです。
リブレットのト書きには、こう書いてあります。
『ヴィオレッタは、ソファーに座って医者と幾人かの友人たちと話をしている。その間に、何人かの友人たちは遅れてやってくる人たちを出迎えているが、その〔遅刻組の〕中には、男爵と、侯爵と腕を組んだフローラがいる。』
パーティーに来ている人々は爵位ばかりでとかく覚えにくいですが、そうも言ってられません。
とりあえず登場人物が増えました。
まず、ヴィオレッタと話している医者。グランヴィル〔 Grenvil 〕という名前です。
原作では名前もなく、マルグリットが末期になってから現れますが、オペラではパーティーシーン全てに同席し、ヴィオレッタを看取るメンバーのひとりという、なかなか重要な役どころです。どうも、ただの主治医というには親しすぎるというか、彼もヴィオレッタの信者のひとりではなかろうかと思ったりします。
グランヴィルというお名前ですが、イギリスのグレンヴィル〔 Grenville 〕という姓を意識して付けられたのではないかと思われます。
グレンヴィル家は古い貴族の家系で、代々政治家を輩出しており、首相になった人物も何人かおりました。時代によってはグランヴィル〔 Granville 〕と呼ばれていたようです。
このお医者さんはもしかするとイギリスの古い名家の生まれで、家が没落し学を身に付けて医師になったのかもしれません。フランス、特にパリは18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパ医学の中心でした。留学のためにパリに来て医療を学び、そのままパリで診療所を開いたとしてもおかしくはありません。
元が貴族なら、パーティーに慣れているのも頷けます。
次に、フローラと共に遅刻してきた男爵と侯爵。
リブレットの設定によると、ドゥフォール〔 Douphol 〕男爵とドビニー〔 D'Obigny 〕侯爵というお名前です。
普通に調べても、おふたりのお名前はどこかの貴族とかで出ては来ませんでした。
そこで妄想を巡らせてみます。
このふたり、どちらも名前の頭文字はD。
そこで思い出すのは、マルグリット及びヴィオレッタのモデル、マリー・デュプレシです。彼女は本名をアルフォンシーヌ・プレシといいましたが、源氏名を母のマリーからとり、更に「貴族風に」Du を姓に付けてデュプレシとしました。
デュプレシ、という名前は実際の貴族にもおります。
有名なところですと、ルイ13世の宰相を務めた枢機卿及びリシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシー( Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu)です。
この貴族風の姓は元々「~の出身」という意味だそうです。「姓」という概念のなかった中世初頭頃のゲルマン人領主が、自分の領地名を名乗ったのがはじまりです。伯爵以上の貴族が王さまから与えられた土地を名乗ることが多く、古い家名ですと、家門の発祥地を示していたりします。領土の特権が廃止された19世紀以降に爵位を得た人は、基本的にはこの名字は持てません。新貴族が土地を自分で買ってもダメです。旧家の名前を名乗りたければ、旧貴族の娘と結婚して爵位を継ぐしかありません。
デュ・プレシという名前は「プレシ(出身)の」という意味なわけです。
ちなみにプレシ(Plessis) はパリから6kmほど離れたセーヌ県の町です。
15世紀にはル・プレシ=ピケ(Le Plessis-Piquet)、フランス革命期にはプレシ=リベルテ(Plessis-Liberté)と呼ばれたこの町は、現在はル・プレシ=ロバンソン (Le Plessis-Robinson)と呼ばれているそうです。1840年代に児童文学『スイスのロビンソン』に出てくるような樹の上に建てたレストランが流行し、同じような店があちこちにできた為に1909年改名されたとのことです。
国ごとに「~出身」の冠詞が異なるため、名前も変わります。
ドイツなら「von」(フォン)
イギリスなら「of」(オブ)
フランスだと「du」または「de」(デュ)
フランス語の場合、男性名詞にはdu、女性名詞にはde la がつきます。
騎士や領主など準貴族に後からなった人が元々の姓にこの冠詞をつけて名乗る場合もあります。この場
合、出身地を示す意味は消え、冠詞そのものが称号のような扱いになります。(ヨハン・ヴォルフガング・『フォン』・ゲーテとか)この称号は世襲することができます。
それを踏まえて、ドゥフォールさんとドビニーさんの名前について考えてみます。
まずは ドビニー〔 D'Obigny 〕さんから。
頭文字のDを先程の称号だと仮定して、「Obigny」という名前がどこから来たのでしょうか。
調べてみましたら、なんとなく似てる地名がふたつ出てきました。関係があるかは分かりませんが、とりあえず載せておきます。
①ボビニー/Bobigny
パリの市境から約3キロ離れた、フランス北部の街。
ボンディの森に館を築いた古代ローマの将軍、 バルビニウス(Balbinius)が地名の由来。
Wikipediaによると、1789年当時は人口200人余りの小さな村で、穀物生産が盛んだったそうです。1870年の普仏戦争で荒廃してしまいましたが、19世紀の終わりにパリから鉄道が通じると労働集約型企業の労働者の町へと変貌しました。
あんまり目立たない町なので、ここは関係ないかも?
②オービニー=シュル=ネール /Aubigny-sur-Nère
フランスのど真ん中くらい、ロワール地方シェール県のコミューン。6世紀には既に存在していた古い街です。
1423年、シャルル7世は百年戦争で同盟関係だったスコットランド軍の最高指導者、ジョン・ステュワート・オブ・ダーンリーの功績を称えてこの街を授けます。1429年にジョンが亡くなると、彼の長男アラン・ステュワートが土地と称号を受け継ぎました。しかしアランは1437年、シャルル7世の了承を得てスコットランドに帰国、オービニー領主の称号も辞退します。そこでお父さんと同じ名前の次男、ジョン・ステュワートが後を引き継いだわけです。
それ以降、オービニーはフランスにありながらイギリスのステュワート家が街の当主となります。
1512年、大火事で一度街は焼け落ちてしまいましたが、ジョン(息子)から二代後の当主(孫娘の旦那)ロベール・ステュワート・ドービニー (Robert Stuart d'Aubigny)が大補修して現在も見られる木組の街並みを作ったそうです。
他にも Aubigny という名前の街はあったのですけれども、新しかったり大した情報がなかったりだったので、一番有名なのはこの街だと 思われます。
ステュワート家といえばスコットランド女王メアリー1世を輩出した名門です。エリザベス1世を最期に断絶したイングランドのテューダー朝に対してステュワートの血筋はその後も続き、ウェールズを含むイングランドとスコットランドが合同して成立したグレートブリテン王国の王家になります。
ステュワート・オブ・ダーンリーは正確には分家ですが、由緒ある貴族であることは間違いありません。
…完全に妄想ですが、D'Obigny が D'Aubigny のパロディー的なお名前だとしたら、面白いなと思いました。もしそうならドビニーさんは、ステュワート家の血筋を引く貴族ということになります。
ちなみに D'Aubigny という名前を追いかけていましたら、このお名前をお持ちのオペラ歌手を見つけました。どうやらバイセクシャルの方だったようで興味深かったので、話が脱線しますが載せておきます。
ジュリー・ドービニー(Julie d'Aubigny)
(1670 / 1673~1707)
父親はガストン・ドービニーという人で、ブルボン王室の厩舎長アルマニャック伯ルイ・ド・ロレーヌの秘書でした。ということは血筋的にはやはり貴族になるのでしょう。
見習い裁判官の少年たちと共にダンスや読書、絵画にフェンシングなど貴族の教育を施されたジュリーは、幼い頃から男装を好んでいたそうです。フェンシングの腕前はかなりのもので、男相手にもひけをとらなかったといいます。ベルバラのオスカルみたいですな。
14歳で父親を亡くしたジュリーは父親の上司であるルイ・ド・ロレーヌ伯爵の愛人になったのですが、奔放なジュリーをもて余した伯爵はシウ・ド・モーピンという男とジュリーを結婚させます。それでジュリーは「ラ・モーピン」と名乗るようになりました。
結婚後、シウ・ド・モーピンはフランス南部の行政職に就いたため引っ越ししなくてはならなくなったのですが、ジュリーはパリに残る選択をします。
ひとりになったラ・モーピンは、セランヌというフェンシング教師と関係を持ちました。しかし、あるときセランヌが非公式の決闘で相手を殺害した罪で逮捕されそうになります。ラ・モーピンはセランヌと一緒に、パリを逃亡しました。
二人はフェンシングの観戦試合を行ったり、居酒屋や見本市で歌ったりして生計を立てつつ、旅を続けました。ラ・モーピンはあいかわらず男性の服を着ていましたが、別に女性であることを隠したりはしませんでした。
マルセイユに辿り着いたジュリーはオペラ団体に入団して、この頃フェンシングのインストラクターも辞めました。(たぶんセランヌとも別れた)
旧姓でオペラの舞台に立つようになったジュリーは、今度は女性と関係を持つようになります。しかし相手の女性の両親がそれを良く思わず、彼女を修道院に入れてしまいました。諦められないジュリーは恋人のベッドに修道女の遺体を置いて部屋に火をつけ、恋人を連れて逃亡します。
このまま、セランヌの時のような逃亡劇となるか?…と思いきや、3ヶ月後に女性は家族の元に帰ってきました。ジュリーは結局捕まりませんでしたが、誘拐と放火と法廷に現れなかった罪で火刑の判決を下されます。マルセイユに居られなくなったジュリーはパリに戻りました。パリに戻るまでにも様々な色恋沙汰があったようですが、ともかくパリに着いたジュリーはパリ・オペラ座への入団を望みます。最初は断られましたが、1690年に無事入団が叶い、当初はソプラノ、しばらく後からコントラルト歌手として「マドモアゼル・ド・モーピン」の名前で演奏を始めました。
相変わらず男性の服を日常的に身に付けていたモーピンはオペラ座でも男女さまざまな相手と恋をし、男勝りな喧嘩や決闘をしていましたが、パリ市内の決闘に対する法律が男性のみに適応されていたために罷免されました。
1697年から1698年までブリュッセルでオペラ公演をした後、1705年に引退するまでパリで演奏活動をしていたモーピンは、何度もヴェルサイユ宮殿で歌っていたそうです。彼女の演奏を聴いたダンジョー侯爵は1701年、自身の日記に『世界で最も美しい声』と書いていたといいます。
引退後の彼女の晩年は複数説あり、長らく離れていた夫と暮らしたとか、プロヴァンスで修道女になったとか言われているようですが、正確なところは分かっておりません。1707年に33歳で亡くなったとされていますが、お墓も無いとのことです。
脱線が長くなりました。
次にドゥフォール[Douphol]さんを見てみます。
ネットのサイトで、古フランス語の冠詞に
de + le = del, deu, dou, du
などのバリエーションがあると見ました。なので、Dou も貴族の称号なのでは?と勝手に妄想してみます。
Dou は称号だとして、phol はどこから来たのでしょう。phol という言葉を単体で調べたら、なんか遺伝子の名前とかタイのお砂糖を作る会社が出てきました(汗)
それでも諦めずに探したところ、なんと見つけたのは日本警察犬協会のホームページで、警察犬の名前一覧の中でした。
【Phol(ポール) Balderの方言 】
とのことです。
Balder(バルドル)は北欧神話の光の神。彼の死がきっかけとなってラグナロクは起こり、神々の時代が黄昏を迎えることになるのです。
アルフレードに手袋を投げるドゥフォール氏の、名前の元がバルドルだとしたらすごい皮肉ですな。
「Phol」という名前を追いかけてみましたら、9~10世紀に書かれた【メルゼブルクの呪文】という書物の中に出てきました。古高ドイツ語で書かれたその書物には、文字を持つ以前のゲルマン民族に伝わっていた魔法や呪文が書かれています。
ドイツ・ヘッセン州にあるフルダの修道院で典礼書の空白ページに書き留められた呪文は、メルゼブルクの図書館に渡り、その後グリム兄弟によって書籍化されました。キリスト教の影響を受けていない資料としては、非常に珍しいものだそうです。
その中の、【馬の呪文】という一節に「Phol」は出てきます。ご興味ありましたら「メルゼブルクの呪文」と検索しますとWikipediaで見られます。
【ポール】という名前はヨーロッパではよくあるお名前ですけれども、Phol という綴りのポールさんはあんまりいらっしゃらないようです。
もしかしたら、ドゥフォールさん本人ないしご先祖は北欧の流れを汲むドイツの人なのかもしれません。
似た名前で「Pohl」という綴りのポールさんは、キリスト教由来の「Paul」 よりは少ないものの、ドイツ系の方でいらっしゃいました。
Pohl という地名も、ドイツにあります。ラインラント=プファルツ州ライン=ラーン郡にあるナッサウ連合自治体のひとつ、Pohl 市です。
偶然かもしれませんが、ドイツの産業革命はこのポール市があるラインラントから始まったといえます。
1815年、ウィーン議定書(ナポレオン戦争の戦勝国の領土変更をしましたよという議定書)によって、プロイセン王国はラインラントを獲得します。ラインラントはライン川を利用した物流の要の土地でもあり、豊富な地下資源を持つ、すごく良い土地でした。ただし首都のベルリンからは結構離れていたので、ラインラントのまわりの諸国と関税同盟を結ばないといけなくなりました。でないと自分の国の領地から物資を運びたいのに、いちいち税金がかかってしまいますからね。
なんやかんや揉めたりしましたがなんとか1834年に成立したドイツ関税同盟によって、ドイツ諸邦国は大きな共通市場を手に入れました。これが足掛かりになって、1840年代からドイツは産業革命に入っていくわけです。
どちらにしてもたぶん貴族のお名前ではなさそうなので、マリー・デュプレシと同じように自分で本名を加工して貴族風に変えたと仮定してみましょう。
根っからの貴族ではない、というところから、色々想像ができて面白いですな。
さて、こうしてヴィオレッタ邸のパーティーにやってきたフローラ、ドビニー侯爵、ドゥフォール男爵。
フローラと腕を組んで登場と書いてありますので、フローラのパトロンはドビニー侯爵なんだなと分かります。
現代に生きていますとあんまり貴族の位とか重要でないので、どっちが偉いとかどーでもいいとか思ってしまいそうですが、この頃ですとそうもいかないでしょう。
Wikipediaによりますと、フランスの爵位は13世紀に国王フィリップ3世が制定したのが始まりで、18世紀に
大公(王族)
公爵
侯爵
伯爵
子爵
男爵
騎士
エキュイエ(平貴族)
までの階級ができたそうです。
フランス革命で一度廃絶されたあと1814年の王政復古で復活しましたが、貴族の特権は伴わない『名誉称号』となります。更に第三共和政以降は、私的に使う以外の効果は無くなってしまいました。
物語の舞台は1850~51年ですので、まだ第三共和政は樹立してません。(第三共和政は1870年樹立~1940年のナチス・ドイツによるフランス侵攻まで)
ドビニーさんは王様を除く上から2番目の侯爵、ドゥフォールさんは5番目の男爵。
結構開きがありますね。
前回の記事で時代背景を調べていて、当時は「地代収入が一万フランあれば男爵の爵位がもらえる」ということが分かっています。つまり、男爵さんはそんなに先祖代々からの貴族というわけではなかった可能性があるということです。
前回記事のおさらい、産業革命時のお金持ちの方々↓
①産業革命にうまく乗って商工業で成功した人
②貴族の称号をお金で買った新興貴族
③復古王政時代に財産を取り戻して、それを元手に産業資本家になった旧貴族
このうち、ドビニーさんは③でドゥフォールさんは①か②なのかもしれません。
ひとまず先のシーンへ進みます。
遅刻してきたフローラ、ドビニー、ドゥフォールを主催者として迎えるヴィオレッタ。そこにガストーネ・ディ・レトリエール子爵が、アルフレード・ジェルモンを連れて入ってきます。
ガストーネはヴィオレッタたちと既に知り合いで、自分の友達であるアルフレードをヴィオレッタに紹介します。
ガストーネは、小説でもガストン・Rという名前で、アルフレードの友人として出てきました。オペラと同じくマルグリットとアルマンを引き合わせる役になります。ただし小説では別に貴族であるという記述はなく、あくまでアルマンとマルグリットの共通の友達という立ち位置です。マルグリットを口説くも断られ、マルグリットと一緒にいたプリュダンスと良さげな雰囲気になります。(プリュダンスはあまり本気ではなかったですが)
『ヴィオレッタとアルフレードを引き合わせる』という目的しか与えられていなかったガストンという男は、オペラではなかなかの存在意義を放っています。
2幕ではフローラのパーティーの興行を取り仕切るなど、人脈と財力を巧みに使える男であることが伺えます。
ひとまずここでは彼の身分『子爵』について少し。
子爵は上から4番目、ドゥフォールさんの男爵よりひとつ上の爵位です。
中世以降のヨーロッパで使われるようになった爵位で、元々は中世ラテン語の vicecomes(後期ローマ帝国の廷臣から来る伯爵)から来ている古フランス語のvis(副)conte(伯)が由来だそうです。
伯爵の補佐役に与えられる一代限りの爵位だったものが後に世襲されるようになったものらしく、日本で言うと地頭さんに近いそうな。
また、儀礼称号として侯爵や伯爵の嗣子(跡取り)や、子爵家当主の法定推定相続人に使われることもあるそうです。法定推定相続人の場合、必ずしも子息とは限りません。
なので子爵さんについては更に色んな想像ができますね。
とりあえず、パーティーで出てくる主要な人物はこれで出揃ったことになります。
身分順にまとめると
ドビニー侯爵
ガストーネ子爵
ドゥフォール男爵
グランヴィル医師
ちなみに原作で出てくる貴族たちは
老公爵
70歳ほどの老公爵。マルグリットがバニェールに湯治に来たときに知り合う。マルグリットに瓜二つの娘を同じ肺結核で亡くしていて、その面影をマルグリットに見ている。マルグリットの放蕩ぶりを心苦しく思いながらも彼女を庇護し、年間七万フランほど貢いでいる。
M・ド・N伯爵
若いお坊ちゃん伯爵。相当な金持ちで、マルグリットの金銭的なパトロン。ただしマルグリットには物凄く嫌われている。
G男爵
マルグリットのために身代を棒に振ったらしい、と噂になっていた。
G伯爵
マルグリットをクルチザンヌに引き立てた人物。古い馴染みで、一緒に芝居を観に行ったりする。年間一万フランほどマルグリットに貢いでいる。マルグリットの死の間際、借金に追われてロンドンに出立。
L若子爵
マルグリットに貢ぎ過ぎて一文無し寸前になり、都落ちした。肖像画でのみ登場。
の4人ですが、オペラで台詞が使われているのはM・ド・N伯爵のみです。まだ知り合っていない頃にマルグリットの容態をアルマンが毎日訪ねに来ていた、とマルグリットが知ったときの伯爵とのやり取りです。
「あなただったら、ねえ伯爵、そうはなさらないわね。」
「僕は君と知り合いになってまだやっと二月なんだからね。」
「でも、あたし、こちら様とおちかづきになってまだ5分しかたたないことよ。あなたって方はいつもとんちんかんな返事ばかりなさるのね。」
このやりとりは1幕のパーティーシーン、男爵とヴィオレッタの会話に引き継がれています。
もしも男爵がドイツ人だったら。
国民性を紹介する本で以前読んだのですが、ドイツの方は一般的に「信頼度=付き合った期間の長さ」という考え方をする傾向があるそうです。そして形式も大切にするので、きちんと紹介されて友人になるということも重要です。なので本人が親しくなりたいと思ってはいても、実際に親しくなるには時間がかかります。
実際に親しくならなければ、気軽に家を訪ねたりも出来ないし二人きりで会うのも憚られる、と考えていたかもしれません。
そう思うと、男爵は真面目過ぎてヴィオレッタに手が出せなかったと見ることも出来ます。
各貴族たちの懐事情や感情、お家の事情なんかを考えていくと、より一層楽しめますね。
2019/11/01 (Fri)
はい、『椿姫』の記事2回目です。
前回は名前の考察だけで終わってしまいました。
以降は時代背景や登場人物の人間関係まで突っ込んでみたいなと思います。
※あくまで素人の調べた結果と妄想です!本気にしないでください。
今回は、この物語の時代背景を見てみます。『高級娼婦』という職業が、時代特有のものだからです。
そもそも高級娼婦とはなんぞや?
一応音大とかでサラッとやったけど、「こんな職業があった」くらいの知識しか持ち合わせていない私です(汗)せっかくの機会なんで、ちと改めてお勉強してみました。
元々の高級娼婦の起源は、ずいぶん古いものです。古代ギリシャの時代に、生まれたとされています。Wikipediaによると、紀元前7世紀くらいだそうな。
背景には、徹底した男尊女卑の社会があります。民主主義がはじまったとはいえ、女性や奴隷には参政権はない時代です。
男性たちはまず、自分のお家を存続させるために正統な血筋の女性と結婚しようとします。ギリシャでは家を存続させることは市民の義務とされていたためです。このとき、妻となる女性の美醜とか教養とかは関係ありません。「子供を産む」のが妻のお仕事なので、血統だけがしっかりしてれば良いのです。むしろ変に知識をつけてしまうと、一般的な妻としては嫌がられたでしょう。(あれ?現代も女性の見られ方あんまり変わってないような気がする……)
良い家の女性は箱入り娘として育てられて、14~15歳で結婚させられていたようです。相手の男性は30歳前後で、父親同士の交渉によって家の釣り合いや持参金額などを決めます。箱入りで育てられた娘は、結婚後も家から出られません。ガッデム。
妻だって退屈でしょうが、一方で旦那の方も退屈だったようです。せっかく嫁さんをもらっても、親が勝手に決めた、それも人形みたいな幼妻では面白くありません。それで、家庭の外に愛人を作る男性が多かったのだそうです。
同性に走る人も一定数いた辺りはさすが神話がアレなギリシャといったところですが、大体の男性はお相手に女性を求めました。そこで商売としての「娼婦」の人気が出てきたというわけです。
娼婦にもランクがあって、ただ性欲の捌け口にされるお安い娼婦と、金持ちが一緒に連れて歩いても遜色のないお高い娼婦がいました。
このお高い娼婦はだれでもなれるもんではなくて、美しいのは勿論のこと踊りや音楽も出来て、礼儀正しくて、賢く教養豊かでなくてはいけません。要は奥さんに無いものをすべて持っている女性というわけです。
金持ちの男性はすばらしい高級娼婦を連れて歩くことで見栄を競っていたそうで、そこから高級娼婦は「ヘタイラ(ギリシャ語で「連れ」の意)」と呼ばれるようになったとのことです。
そこから、高級娼婦の歴史はしばらく途切れます。
この間、キリスト教の影響で性的なもの全般がタブー扱いになったため、娼婦は黙認はされていたものの高級娼婦のように華々しく活躍は出来ない時代が長く続きました。
さて、時は流れて15世紀ローマ。ルネサンス時代の到来により、古代ギリシャの文化がヨーロッパで復興します。
ルネサンス期の華やかな宮廷が栄えているかと思いきや、ローマ法皇庁の宮廷に居るのは文学マニアの男性ばかり。むさい。
聖職者には配偶者が居ないので、パーティーなんかが開かれても奥さんや娘さんを連れてくることは出来ないわけです。
そうかといって、上流階級の女性を独身男性だらけの巣窟に連れてくるのは危険極まりない。男は狼ナノヨ。
そこで再び、古代ギリシャのヘタイラの登場です。ローマでは「宮廷に仕える女性」という意味の「コルティジャーナ(Cortigiana)」と呼ばれました。
ヘタイラと同じで血筋は関係なく、庶民の中から美しさで選ばれて、上流階級の男性と釣り合うように教育された女性たちです。
彼女たちはむさい宮廷に花を添えるべく、公然と聖職者たちと関係を持ちました。聖職者の大半は貴族階級出身の男性だった為、彼女たちは裕福な暮らしが出来たというわけです。
言わずもがな、ヴィオレッタたち「クルチザンヌ」は彼女ら「コルティジャーナ」が語源となっています。
時代は同じくらいで、所変わってフランス。
フランスにはコルティジャーナとはまた別に、「公式寵姫」という女性たちがおりました。「公式寵姫」は、国王の愛妾(あいしょう)の証明である「メトレス・アン・ティトゥル」の称号を与えられた女性を指すそうです。初めてこの称号を貰ったのはシャルル7世(在位1422~1461年 ジャンヌ=ダルクとの絡みで有名な王さま)の愛妾アニェス・ソレルでした。
目的はやっぱりこれまでと同じで、政略結婚しか出来ない王さまを慰めるために生まれたものです。ただし仕える相手は王さまですから、これまでの娼婦たちとは一味違います。政治的な力を持つ寵姫も居ました。
ディアヌ・ド・ポワティエ(アンリ2世(在位1547~1559年) の愛妾)
ポンパドゥール侯爵夫人&デュ・バリー伯爵夫人(ルイ15世(在位:1715~1774年)の愛妾)
など
王妃さま並の暮らしが出来て、場合によっては国を動かすことも出来る。言うこと無しな気もいたしますが良いことばかりではなく、囲ってくれている国王が亡くなればすぐさま追い出されてしまいます。その上、なにか政治で失敗があったときに責任を負わされることもありました。
ポンパドゥール夫人は『ペチコート同盟』のこともあって七年戦争に負けたとき誹謗中傷を浴びせられたし、デュ・バリー夫人はフランス革命の後でギロチンにかけられ処刑されます。
彼女だけでなく国王やマリー・アントワネット王妃も処刑したアンリ・サンソン氏は、デュ・バリー夫人とも旧知の仲だったそうです。
そんなこんなで、フランス革命による王政の崩壊によって、公式寵姫の制度も消えていきました。フランスの経済状況も、長らくの財政難でボロボロでしたのでね。
ちょっと脱線しますが、ついでに具体的にどんなことが起きたかを調べてみました。
それまで金銀銅貨を使っていたヨーロッパに、『紙幣』という概念が生まれたのは17世紀のイギリスが最初でした。元々は銀行がお客さんから金貨や銀貨を預かって、その預かり票として発行したものでした。金貨とかじゃらじゃらたくさん持ってるのは危ないし、重たいですからね。
そんなとき、財政難で困ったイギリス政府が『財源調達法』なるものを作ります。
どんな法律かというと、120万ポンドを8%の利子で政府に融資してくれたら、紙幣の発行権を持った株式会社銀行の設立を認めてあげますよー。というもの。
日本では、その権利を持った銀行は日本銀行だけですね。
その法律で投資をした投資家たちが発行した紙幣で、国は彼らに更に融資をします。すると株価がとても上がったように見えるので、他の人たちも投資しちゃったりする。そんなかんじで株式ブームになったイギリスでしたが、結局元々の国の財政がうまくいってないんで、いざ投資家が「金貨に換金したい」と言いだしたら対応できなくなりました。
そこでイギリス政府は「貨幣改鋳」をおこないます。つまり金貨や銀貨に違う金属を混ぜたり、小さくしたりして金銀の密度を減らしたわけです。
すると皆さん「えっ、損じゃん!」と持ってた株を売って、質の良い金貨とか金塊とかを買って、タンス貯金します。そしたらもう、お金の流れは止まってしまいますのでバブル崩壊、ということです。あーあ。
それを見ていたのが、スコットランド人の経済学者ジョン・ローというひとでした。
この男は金細工師・銀行家の家に生まれた五男坊でした。12歳で父親を亡くし14歳で銀行業を学んだものの、ロンドンに上京すると本業そっちのけで賭博に手を出し「イカサマ師」と評判になりつつ財を築きました。23歳の時、色恋沙汰の末の決闘で相手を殺してしまった罪で絞首刑の判決を受けますが、友人の手引きで脱獄して指名手配されます。逃げた先がオランダのアムステルダムで、そこで銀行業をはじめたというわけです。
彼は「貨幣に大事なのは金銀の価値ではなくて信用だ!紙幣をたくさん刷ることができれば景気は良くなる!」と考え、そのビジネスプランをスコットランドやイタリアに売り込みました。が、断られます。
まあイカサマ師で脱獄犯の男が提唱する怪しげな話に、そうそう国が乗るわけない…………と思ったらひとつだけ、食い付いた国があったんです。
それがルイ15世治世のフランス。
曾祖父である前王ルイ14世が度重なる戦争やら文化事業で大量にお金を使ってしまったために、財政難で藁にもすがりたい思いだったのでしょう。
更にめっちゃ脱線しますけども、ルイ14世は現代日本における「The☆貴族」のイメージを築いたひとである!…と言ったら言い過ぎでしょうか。でも所謂「貴族」のイメージといったら、優雅な芸術鑑賞に独特なお召し物にカツラと香水でしょ。(単純)
まず、彼はバレエを広めました。バレエにどハマリしたルイ14世自身は自らも踊り手で、王立舞踊アカデミーを作ったり、バレエシューズの似合う小さな足を推奨したり、脚線美のためにヒールの高い靴を流行らせたりして、宮廷のトレンドにまでその地位を押し上げました。
二つめ、カツラをつける習慣。まあ元々バロック時代のヨーロッパ貴族たちには既にカツラを着ける習慣はあったようですけれども、20歳の若さで病気になり髪の毛をごっそり失ってしまったルイ14世もカツラを着けておりました。どうやら、160センチしかない身長を嵩増しして王の威厳を醸し出すために、ハイヒール共々愛用していたようです。
三つめ、これは王さま自身というよりまわりの家臣たちですけど、香水を使う習慣。よく、パリの街の下水処理がなってなくてエライ悪臭が漂ってたために香水が使われるようになったとか聞きましたけれども、その粗悪な治水事業のせいか、どうやら19世紀頃まで「風呂に入ると梅毒になりやすい」と信じられていたらしくコレも悪臭の原因であったと思われます。国王でさえ、一生のうち3回しか風呂に入らなかったとか。
そんな中で、ルイ14世の話です。彼は侍医の「歯は全ての病気の温床」説を鵜呑みにして、全部の歯を引っこ抜いてしまいました。まあ確かに磨かない歯は病気の元になりますからあながち間違ってはいませんけど、さすがに全部引っこ抜くのはやりすぎです。その上、侍医は下の歯と一緒に下顎の骨まで砕いて取り除いてしまったそうです。
しかも麻酔の無い時代なので勿論麻酔ナシ、縫合などの技術や消毒液もないので焼けた鉄棒で傷跡を焼いて塞ぐという、拷問かのごとき所業…。
これによって以後の人生の数十年間、ルイ14世は噛まずに丸飲みできる柔らかいものしか食べられなくなりました。入れ歯とかも無い時代なので仕方ありませんね。でも現代の入院食みたいに消化吸収栄養バランスに優れたものはありません。柔らかく煮込んだ鳥とかパンとか、せいぜいそんなもんです。消化不良に悩まされるようになったルイ14世に、医者は下剤を飲ませます。食事を丸飲みしては下剤で下し、を毎日毎日繰り返したわけです。そうしたらもう、悪循環です。王は慢性的に胃腸炎に悩まされるようになり、一日に何度もトイレに駆け込みます。たぶん、のちに彼を悩ませた「いぼ痔」もそのせいです。痔の手術も無麻酔だったとか…。とにかく彼はトイレの中で公務をすることもあったし、トイレに間に合わないこともしょっちゅうだったといいます。そんなわけで、王さまの衣服にも悪臭が染み付いてしまいました。先程のお風呂のお話を踏まえてみますと、ゾッと致しますね。
ずっと側にいる臣下は、それでも顔色ひとつ変えずにお仕事しないといけません。そこで、多いに役立ったのが香水というわけです。
えーと。お貴族さまって大変だったんですね。
とりあえずお話を戻します。
1715年、即位したてのルイ15世はまだ5歳。ルイ14世の弟の息子…つまり甥のオルレアン公フィリップ2世が、摂政になります。このフィリップさんと、ジョン・ローは、実はお知り合いでした。1705年にスコットランドに戻ったあと更にフランスに渡ったローは、お友達になったフィリップに自分の経済論を売り込み、お国の財政難に困りきっていたフィリップは「よし、じゃあやってみてくれ!」とGoサインを出したというわけです。
摂政さまからのGoを貰ったローは、まず王立銀行を作って「金に換えられるのはうちで作った紙幣だけです」ということにしました。そして政府は「納税は全て紙幣によって行うこと」という決まりを作ります。
そうすると税金を払うために紙幣に換金しないといけませんから、人々はタンスに貯めてた金貨や銀貨をこぞって交換します。お金が市場に出回ると、止まってた経済が動き出します。
次に、国の借金を減らすために株を始めました。
まず、王立銀行で会社に投資をします。投資先に選ばれたのは北アメリカの開発会社「ミシシッピ社」という、ミシシッピ川河口にニューオーリンズを建設していた会社でした。別段業績の良い会社というわけではなく、むしろ開発が上手くいっていなくて業績は悪い方でしたが、ネットの無い時代に海の向こうにある会社の実績など一般市民はなかなか知ることは出来ません。まあ市民に知られさえしなければ、投資先はどこでも良かったんですな。
その投資で得た株券を、国債の保有者に『国債と交換で』渡します。当時、フランス国債は既に信頼を失っておりました。配当金を高めに設定しましたので、国債をもっている人は喜んで交換に応じるという算段です。
それだけに止まらず、ローはタンス貯金から流れたお金を株の販売によって回収し、それをまた投資して更に儲けようと考えました。一般市民にもたくさん売るために、ローは色々と工夫をしました。
〇「めっちゃ儲かる!」と大アピール
〇既に株主である人には割安で売る
〇分割払いOK
〇配当金を高く設定する など
おかげで、ミシシッピ社株はとてもよく売れました。
ローのアピールのおかげで株の期待値も膨らみ、株価もどんどん上昇していきます。(半年で約20倍の値段!)売れに売れたローの株はフランスだけでなくヨーロッパ中で人気になりました。
これによってフランスの大赤字は改善の兆しをみせます。1719年、ローは12億ルーブルを王室に貸した見返りとして、徴税権を請け負うことになりました。
王立銀行が税収も投資も全部やりますよ、ということです。更に1720年、ローはフランス財務総監に任命されました。金だけでなく、権力も手に入れたローはウハウハです。
ところがその年の5月、取り付け騒ぎが起こりました。具体的には、オイルショックや震災前後の爆買い溜めなどと同じ現象です。
ある日、ある株主が
「ミシシッピ社株、最近人気すぎて手に入りにくい……なんかもう別の株に乗り換えちゃおっかなー」
と売りに出しました。それを見ていた別の株主が
「あー、確かに手に入りにくいよねー。じゃあ私も売っちゃおう。」
と真似して売りに出します。
更にそれを見ていた、株にあんまり詳しくない別の株主たちが
「あの人たち、今大人気のミシシッピ社株売っちゃったけど、もしかしてこの株危ないのかな?もうすぐ暴落するとか、そういうやつ?」
と疑心暗鬼になって、こぞって売りに出しました。そうすると、もう株価は上がったときの逆現象で下がる一方になります。
元々この景気の良さは、ミシシッピ社には実力は無いのに株価だけが上がり続けていたバブル経済が招いたものです。
ローの提唱する「貨幣に最も大事なのは信用」という考えは図らずも逆の結果で証明されてしまいました。投資家たちは株価が下がり続ける株をいつまでも持っていたくないので次々ミシシッピ社株を売って、より安全な国外の株を買うようになりました。
支払い能力を超えた現金を引き出されて資金が底をついたミシシッピ社は、その年の夏に倒産してしまいます。ローは5月の終わりには財務総監を辞任し、 12月にイギリスへ亡命して、最期はヴェネツィアで亡くなりました。
このあとイギリスも似たような株暴落を起こしてバブル崩壊を味わいますが、信用を失ったのは株式だけで銀行は無事でした。産業革命でイギリスが大きく発展し、『資本主義国家』になることができたのも銀行に資本があったからです。
フランスは銀行も株式も同時に大ダメージをくらってしまって、しかもそれが国のお財布だったのでエライことになってしまったのですね。フランス革命の一因にもなったし、のちの産業革命にも乗り遅れてしまったというわけです。
そんなこんなでフランス革命でブルボン王朝が滅び、フランス第一共和政と第一帝政を経て、復古王政になった時代(1815~1830年)。政治はまたしても貴族・聖職者階級中心なものになっていました。市民の中でもブルジョワにあたる人々は不満を募らせ、1830年7月に『7月革命』を起こします。ちょうど「レ・ミゼラブル」や「ラ・ボエーム」の時代のお話ですね。
シャルル10世に代わり国王に即位したのはオルレアン家のルイ・フィリップでした。彼は自身も資本家で、資本家や銀行家の支持を得ていました。
新王は自由主義と立憲王制を採用したものの、その実体は典型的なブルジョワ支配制でした。学会の会員でなくては選挙権も貰えず、国民の0.6%しか該当しませんでした。
ことあと起こる革命の主体勢力であるプロレタリアート(賃金労働者階級)は何の権利も持てず不満を募らせていき、それが18年後の二月革命に繋がっていくのですが、そのお話はとりあえず置いときます。
賃金労働者階級の不満はあれど、国としてみるとこの時代のフランスは高度成長期でした。
先のミシシッピ計画破綻の痛手のせいでイギリスほど爆発的ではなかったものの、産業革命のおかげで経済が発展しフランスは再びバブル時代に突入しました。
この時代の富裕層を大きく分けると
①産業革命にうまく乗って商工業で成功した人
②貴族の称号をお金で買った新興貴族
③復古王政時代に財産を取り戻して、それを元手に産業資本家になった旧貴族
に分類できるそうな。
新王のルイ・フィリップは③にあたります。
①は、第一帝政期に地代収入が一万フランあれば男爵の爵位が貰えたため、大抵のお金持ちは貴族の称号を得られたそうです。
ということで③はともかく、①と②は元々平民です。今まで見上げてきた王侯貴族の生活を、実現できる財力を手に入れたら、まあするよね!かくしてブルジョワジーたちは庶民の憧れだった「宮廷の暮らし」の真似事をし始めます。豪華な住居に服、食べ物、使用人と一通り揃いましたら、次に求めるのは遊びです。フランス革命前の時代に王さまが連れていた寵姫、あれを自分たちも欲しいなぁと考えました。
それで生まれたのが、ルネサンス時代のコルティジャーナを再現したクルチザンヌたちです。
ではその娘たちをどこから調達してくるか?となりますと、もちろん貧困層からです。いつの時代もおんなじです。
富裕層は増えたとは言っても、相変わらず国民の一握りでした。富裕層の人数層が厚くなって個々の資産が増えた分、ブルジョワジーとプロレタリアートの貧富の差は大きくなるのは当然ですな。
女性は男性より更に人権はなく、賃金なしで稼業を手伝わされたり、客、同僚、親兄弟にまで性の慰みものにされることも珍しくなかったといいます。(まあこれも、どの時代も似たようなものですが…)
男性ですら身分によって制約のあるこの時代、貧困家庭に生まれた女性がこの生活から抜け出すためには富裕層のパトロンを見つけるほかありません。偶然出会ってうまく結婚できたら最高ですけども、星の数ほどいる貧困層女子に「待っていればいつか王子さまが」なんておとぎ話的展開はまずありません。そこで彼女たちは大都会パリへチャンスを探しに来るわけです。
ダンサーや女優、お針子などで日銭を稼ぎつつ、夜は娼婦として活動し、パトロンを探すのです。いわゆるグリゼット(女性労働者)です。語源はお針子さんなどが着ていた安価なドレスの、灰色の生地からきているそうです。
まあ今さらネタバレも何もないですが、ボエームのミミもメリー・ウィドウのマキシムの踊り子たちもみんな娼婦ということです。
某ダンスの先生にお聞きしたんですが、フレンチカンカンの踊り子たちが着ているあの特徴的なスカート、よく踊りながら捲ってますけども、本物のキャバレーでは下着を何も付けないのが普通だったそうです。ショー自体が、今夜のお相手を男性客が品定めするためのイベントだったんですね。
お金持ちの男性はお気に入りの娼婦が見つかると、有り余る財力を使って自分と同伴させても遜色ない淑女に仕立てます。豪奢なドレスに装飾品に住居、場合によっては教育を施します。
「〇〇伯爵が連れている娼婦メチャメチャ美人で頭いい」となったら、連れている男性にも箔が付くというものです。そうなったらしめたもので、彼女は高級娼婦(クルチザンヌ)として名を馳せることになります。つく客の層も変わって、場末のキャバレーとは比べ物にならない程金払いのよい相手になります。
クルチザンヌとなった娼婦は相手を探して副業をしなくてよくなったので、自費でパーティーを開いて、お客になりそうな人や売り出し中のグリゼットを招いたりするというわけです。
このような、貴族とクルチザンヌたちのための社交場は「ドゥミ・モンド」と呼ばれますが、この名前を付けたのは小説『椿姫』の著者デュマ・フィスです。『椿姫』が流行ったから、この呼び名も流行したんですね。
半分(ドゥミ)の社交界(モンド)という意味で、公の社交界では夫婦そろって出席するのが当たり前ですけれども、この社交界では男性側しか出席しないところから名付けられたそうです。
『クルチザンヌ』という名称は、1830~1848年の七月王政までと、それ以前の公式寵姫もまとめて呼ぶ傾向にあるようです。この時代のクルチザンヌたちは、デュミ・モンドで活躍した女性たちということで『デュミモンディーヌ』とも呼ばれます。
一般大衆からしますと自分達と同じ身分から富裕層へのしあがったわけですから、そりゃもう憧れの的でした。今でいうアイドルやモデルのような存在で、ブロマイドなどもたくさん売られていたようです。
1852~1870年の第二帝政時代にデュミ・モンドは最盛期を迎え、皇帝ナポレオン3世が失脚してパリ・コミューン、そして第三共和制の時代になると、バブルの終焉と共に消えていきました。
19世紀末、クルチザンヌの意思を継いだグリゼットたちはココットと呼ばれるようになります。ココットという名前は、彼女たちが付けていそうな質の悪い香水から付けられたそうです。
彼女たちは現代の『働く女性』の雛形とも言えるかもしれません。
1880年代、女性の賃金労働者が増えると共に、婦人服に紳士服の影響がみられるようになりました。クルチザンヌのときと同じくアイドル、ファッションリーダーだった彼女たちは、女性用スーツを着て闊歩するようになります。
そして時代が下るにつれ、身体を売らなくても労働賃金だけで食べていける、男性と同じように社会で暮らしていけるように、ようやくなっていったのです。(それでも、現代ですら女性蔑視が問題になってますが…。)
現在、女性も働くのが当たり前な時代になっておりますが、それまでにはこんな歴史があったんですなあ。
『椿姫』もキャリアウーマンの元祖のひとりと考えますと、演じる際に身が入りますね。
前回は名前の考察だけで終わってしまいました。
以降は時代背景や登場人物の人間関係まで突っ込んでみたいなと思います。
※あくまで素人の調べた結果と妄想です!本気にしないでください。
今回は、この物語の時代背景を見てみます。『高級娼婦』という職業が、時代特有のものだからです。
そもそも高級娼婦とはなんぞや?
一応音大とかでサラッとやったけど、「こんな職業があった」くらいの知識しか持ち合わせていない私です(汗)せっかくの機会なんで、ちと改めてお勉強してみました。
元々の高級娼婦の起源は、ずいぶん古いものです。古代ギリシャの時代に、生まれたとされています。Wikipediaによると、紀元前7世紀くらいだそうな。
背景には、徹底した男尊女卑の社会があります。民主主義がはじまったとはいえ、女性や奴隷には参政権はない時代です。
男性たちはまず、自分のお家を存続させるために正統な血筋の女性と結婚しようとします。ギリシャでは家を存続させることは市民の義務とされていたためです。このとき、妻となる女性の美醜とか教養とかは関係ありません。「子供を産む」のが妻のお仕事なので、血統だけがしっかりしてれば良いのです。むしろ変に知識をつけてしまうと、一般的な妻としては嫌がられたでしょう。(あれ?現代も女性の見られ方あんまり変わってないような気がする……)
良い家の女性は箱入り娘として育てられて、14~15歳で結婚させられていたようです。相手の男性は30歳前後で、父親同士の交渉によって家の釣り合いや持参金額などを決めます。箱入りで育てられた娘は、結婚後も家から出られません。ガッデム。
妻だって退屈でしょうが、一方で旦那の方も退屈だったようです。せっかく嫁さんをもらっても、親が勝手に決めた、それも人形みたいな幼妻では面白くありません。それで、家庭の外に愛人を作る男性が多かったのだそうです。
同性に走る人も一定数いた辺りはさすが神話がアレなギリシャといったところですが、大体の男性はお相手に女性を求めました。そこで商売としての「娼婦」の人気が出てきたというわけです。
娼婦にもランクがあって、ただ性欲の捌け口にされるお安い娼婦と、金持ちが一緒に連れて歩いても遜色のないお高い娼婦がいました。
このお高い娼婦はだれでもなれるもんではなくて、美しいのは勿論のこと踊りや音楽も出来て、礼儀正しくて、賢く教養豊かでなくてはいけません。要は奥さんに無いものをすべて持っている女性というわけです。
金持ちの男性はすばらしい高級娼婦を連れて歩くことで見栄を競っていたそうで、そこから高級娼婦は「ヘタイラ(ギリシャ語で「連れ」の意)」と呼ばれるようになったとのことです。
そこから、高級娼婦の歴史はしばらく途切れます。
この間、キリスト教の影響で性的なもの全般がタブー扱いになったため、娼婦は黙認はされていたものの高級娼婦のように華々しく活躍は出来ない時代が長く続きました。
さて、時は流れて15世紀ローマ。ルネサンス時代の到来により、古代ギリシャの文化がヨーロッパで復興します。
ルネサンス期の華やかな宮廷が栄えているかと思いきや、ローマ法皇庁の宮廷に居るのは文学マニアの男性ばかり。むさい。
聖職者には配偶者が居ないので、パーティーなんかが開かれても奥さんや娘さんを連れてくることは出来ないわけです。
そうかといって、上流階級の女性を独身男性だらけの巣窟に連れてくるのは危険極まりない。男は狼ナノヨ。
そこで再び、古代ギリシャのヘタイラの登場です。ローマでは「宮廷に仕える女性」という意味の「コルティジャーナ(Cortigiana)」と呼ばれました。
ヘタイラと同じで血筋は関係なく、庶民の中から美しさで選ばれて、上流階級の男性と釣り合うように教育された女性たちです。
彼女たちはむさい宮廷に花を添えるべく、公然と聖職者たちと関係を持ちました。聖職者の大半は貴族階級出身の男性だった為、彼女たちは裕福な暮らしが出来たというわけです。
言わずもがな、ヴィオレッタたち「クルチザンヌ」は彼女ら「コルティジャーナ」が語源となっています。
時代は同じくらいで、所変わってフランス。
フランスにはコルティジャーナとはまた別に、「公式寵姫」という女性たちがおりました。「公式寵姫」は、国王の愛妾(あいしょう)の証明である「メトレス・アン・ティトゥル」の称号を与えられた女性を指すそうです。初めてこの称号を貰ったのはシャルル7世(在位1422~1461年 ジャンヌ=ダルクとの絡みで有名な王さま)の愛妾アニェス・ソレルでした。
目的はやっぱりこれまでと同じで、政略結婚しか出来ない王さまを慰めるために生まれたものです。ただし仕える相手は王さまですから、これまでの娼婦たちとは一味違います。政治的な力を持つ寵姫も居ました。
ディアヌ・ド・ポワティエ(アンリ2世(在位1547~1559年) の愛妾)
ポンパドゥール侯爵夫人&デュ・バリー伯爵夫人(ルイ15世(在位:1715~1774年)の愛妾)
など
王妃さま並の暮らしが出来て、場合によっては国を動かすことも出来る。言うこと無しな気もいたしますが良いことばかりではなく、囲ってくれている国王が亡くなればすぐさま追い出されてしまいます。その上、なにか政治で失敗があったときに責任を負わされることもありました。
ポンパドゥール夫人は『ペチコート同盟』のこともあって七年戦争に負けたとき誹謗中傷を浴びせられたし、デュ・バリー夫人はフランス革命の後でギロチンにかけられ処刑されます。
彼女だけでなく国王やマリー・アントワネット王妃も処刑したアンリ・サンソン氏は、デュ・バリー夫人とも旧知の仲だったそうです。
そんなこんなで、フランス革命による王政の崩壊によって、公式寵姫の制度も消えていきました。フランスの経済状況も、長らくの財政難でボロボロでしたのでね。
ちょっと脱線しますが、ついでに具体的にどんなことが起きたかを調べてみました。
それまで金銀銅貨を使っていたヨーロッパに、『紙幣』という概念が生まれたのは17世紀のイギリスが最初でした。元々は銀行がお客さんから金貨や銀貨を預かって、その預かり票として発行したものでした。金貨とかじゃらじゃらたくさん持ってるのは危ないし、重たいですからね。
そんなとき、財政難で困ったイギリス政府が『財源調達法』なるものを作ります。
どんな法律かというと、120万ポンドを8%の利子で政府に融資してくれたら、紙幣の発行権を持った株式会社銀行の設立を認めてあげますよー。というもの。
日本では、その権利を持った銀行は日本銀行だけですね。
その法律で投資をした投資家たちが発行した紙幣で、国は彼らに更に融資をします。すると株価がとても上がったように見えるので、他の人たちも投資しちゃったりする。そんなかんじで株式ブームになったイギリスでしたが、結局元々の国の財政がうまくいってないんで、いざ投資家が「金貨に換金したい」と言いだしたら対応できなくなりました。
そこでイギリス政府は「貨幣改鋳」をおこないます。つまり金貨や銀貨に違う金属を混ぜたり、小さくしたりして金銀の密度を減らしたわけです。
すると皆さん「えっ、損じゃん!」と持ってた株を売って、質の良い金貨とか金塊とかを買って、タンス貯金します。そしたらもう、お金の流れは止まってしまいますのでバブル崩壊、ということです。あーあ。
それを見ていたのが、スコットランド人の経済学者ジョン・ローというひとでした。
この男は金細工師・銀行家の家に生まれた五男坊でした。12歳で父親を亡くし14歳で銀行業を学んだものの、ロンドンに上京すると本業そっちのけで賭博に手を出し「イカサマ師」と評判になりつつ財を築きました。23歳の時、色恋沙汰の末の決闘で相手を殺してしまった罪で絞首刑の判決を受けますが、友人の手引きで脱獄して指名手配されます。逃げた先がオランダのアムステルダムで、そこで銀行業をはじめたというわけです。
彼は「貨幣に大事なのは金銀の価値ではなくて信用だ!紙幣をたくさん刷ることができれば景気は良くなる!」と考え、そのビジネスプランをスコットランドやイタリアに売り込みました。が、断られます。
まあイカサマ師で脱獄犯の男が提唱する怪しげな話に、そうそう国が乗るわけない…………と思ったらひとつだけ、食い付いた国があったんです。
それがルイ15世治世のフランス。
曾祖父である前王ルイ14世が度重なる戦争やら文化事業で大量にお金を使ってしまったために、財政難で藁にもすがりたい思いだったのでしょう。
更にめっちゃ脱線しますけども、ルイ14世は現代日本における「The☆貴族」のイメージを築いたひとである!…と言ったら言い過ぎでしょうか。でも所謂「貴族」のイメージといったら、優雅な芸術鑑賞に独特なお召し物にカツラと香水でしょ。(単純)
まず、彼はバレエを広めました。バレエにどハマリしたルイ14世自身は自らも踊り手で、王立舞踊アカデミーを作ったり、バレエシューズの似合う小さな足を推奨したり、脚線美のためにヒールの高い靴を流行らせたりして、宮廷のトレンドにまでその地位を押し上げました。
二つめ、カツラをつける習慣。まあ元々バロック時代のヨーロッパ貴族たちには既にカツラを着ける習慣はあったようですけれども、20歳の若さで病気になり髪の毛をごっそり失ってしまったルイ14世もカツラを着けておりました。どうやら、160センチしかない身長を嵩増しして王の威厳を醸し出すために、ハイヒール共々愛用していたようです。
三つめ、これは王さま自身というよりまわりの家臣たちですけど、香水を使う習慣。よく、パリの街の下水処理がなってなくてエライ悪臭が漂ってたために香水が使われるようになったとか聞きましたけれども、その粗悪な治水事業のせいか、どうやら19世紀頃まで「風呂に入ると梅毒になりやすい」と信じられていたらしくコレも悪臭の原因であったと思われます。国王でさえ、一生のうち3回しか風呂に入らなかったとか。
そんな中で、ルイ14世の話です。彼は侍医の「歯は全ての病気の温床」説を鵜呑みにして、全部の歯を引っこ抜いてしまいました。まあ確かに磨かない歯は病気の元になりますからあながち間違ってはいませんけど、さすがに全部引っこ抜くのはやりすぎです。その上、侍医は下の歯と一緒に下顎の骨まで砕いて取り除いてしまったそうです。
しかも麻酔の無い時代なので勿論麻酔ナシ、縫合などの技術や消毒液もないので焼けた鉄棒で傷跡を焼いて塞ぐという、拷問かのごとき所業…。
これによって以後の人生の数十年間、ルイ14世は噛まずに丸飲みできる柔らかいものしか食べられなくなりました。入れ歯とかも無い時代なので仕方ありませんね。でも現代の入院食みたいに消化吸収栄養バランスに優れたものはありません。柔らかく煮込んだ鳥とかパンとか、せいぜいそんなもんです。消化不良に悩まされるようになったルイ14世に、医者は下剤を飲ませます。食事を丸飲みしては下剤で下し、を毎日毎日繰り返したわけです。そうしたらもう、悪循環です。王は慢性的に胃腸炎に悩まされるようになり、一日に何度もトイレに駆け込みます。たぶん、のちに彼を悩ませた「いぼ痔」もそのせいです。痔の手術も無麻酔だったとか…。とにかく彼はトイレの中で公務をすることもあったし、トイレに間に合わないこともしょっちゅうだったといいます。そんなわけで、王さまの衣服にも悪臭が染み付いてしまいました。先程のお風呂のお話を踏まえてみますと、ゾッと致しますね。
ずっと側にいる臣下は、それでも顔色ひとつ変えずにお仕事しないといけません。そこで、多いに役立ったのが香水というわけです。
えーと。お貴族さまって大変だったんですね。
とりあえずお話を戻します。
1715年、即位したてのルイ15世はまだ5歳。ルイ14世の弟の息子…つまり甥のオルレアン公フィリップ2世が、摂政になります。このフィリップさんと、ジョン・ローは、実はお知り合いでした。1705年にスコットランドに戻ったあと更にフランスに渡ったローは、お友達になったフィリップに自分の経済論を売り込み、お国の財政難に困りきっていたフィリップは「よし、じゃあやってみてくれ!」とGoサインを出したというわけです。
摂政さまからのGoを貰ったローは、まず王立銀行を作って「金に換えられるのはうちで作った紙幣だけです」ということにしました。そして政府は「納税は全て紙幣によって行うこと」という決まりを作ります。
そうすると税金を払うために紙幣に換金しないといけませんから、人々はタンスに貯めてた金貨や銀貨をこぞって交換します。お金が市場に出回ると、止まってた経済が動き出します。
次に、国の借金を減らすために株を始めました。
まず、王立銀行で会社に投資をします。投資先に選ばれたのは北アメリカの開発会社「ミシシッピ社」という、ミシシッピ川河口にニューオーリンズを建設していた会社でした。別段業績の良い会社というわけではなく、むしろ開発が上手くいっていなくて業績は悪い方でしたが、ネットの無い時代に海の向こうにある会社の実績など一般市民はなかなか知ることは出来ません。まあ市民に知られさえしなければ、投資先はどこでも良かったんですな。
その投資で得た株券を、国債の保有者に『国債と交換で』渡します。当時、フランス国債は既に信頼を失っておりました。配当金を高めに設定しましたので、国債をもっている人は喜んで交換に応じるという算段です。
それだけに止まらず、ローはタンス貯金から流れたお金を株の販売によって回収し、それをまた投資して更に儲けようと考えました。一般市民にもたくさん売るために、ローは色々と工夫をしました。
〇「めっちゃ儲かる!」と大アピール
〇既に株主である人には割安で売る
〇分割払いOK
〇配当金を高く設定する など
おかげで、ミシシッピ社株はとてもよく売れました。
ローのアピールのおかげで株の期待値も膨らみ、株価もどんどん上昇していきます。(半年で約20倍の値段!)売れに売れたローの株はフランスだけでなくヨーロッパ中で人気になりました。
これによってフランスの大赤字は改善の兆しをみせます。1719年、ローは12億ルーブルを王室に貸した見返りとして、徴税権を請け負うことになりました。
王立銀行が税収も投資も全部やりますよ、ということです。更に1720年、ローはフランス財務総監に任命されました。金だけでなく、権力も手に入れたローはウハウハです。
ところがその年の5月、取り付け騒ぎが起こりました。具体的には、オイルショックや震災前後の爆買い溜めなどと同じ現象です。
ある日、ある株主が
「ミシシッピ社株、最近人気すぎて手に入りにくい……なんかもう別の株に乗り換えちゃおっかなー」
と売りに出しました。それを見ていた別の株主が
「あー、確かに手に入りにくいよねー。じゃあ私も売っちゃおう。」
と真似して売りに出します。
更にそれを見ていた、株にあんまり詳しくない別の株主たちが
「あの人たち、今大人気のミシシッピ社株売っちゃったけど、もしかしてこの株危ないのかな?もうすぐ暴落するとか、そういうやつ?」
と疑心暗鬼になって、こぞって売りに出しました。そうすると、もう株価は上がったときの逆現象で下がる一方になります。
元々この景気の良さは、ミシシッピ社には実力は無いのに株価だけが上がり続けていたバブル経済が招いたものです。
ローの提唱する「貨幣に最も大事なのは信用」という考えは図らずも逆の結果で証明されてしまいました。投資家たちは株価が下がり続ける株をいつまでも持っていたくないので次々ミシシッピ社株を売って、より安全な国外の株を買うようになりました。
支払い能力を超えた現金を引き出されて資金が底をついたミシシッピ社は、その年の夏に倒産してしまいます。ローは5月の終わりには財務総監を辞任し、 12月にイギリスへ亡命して、最期はヴェネツィアで亡くなりました。
このあとイギリスも似たような株暴落を起こしてバブル崩壊を味わいますが、信用を失ったのは株式だけで銀行は無事でした。産業革命でイギリスが大きく発展し、『資本主義国家』になることができたのも銀行に資本があったからです。
フランスは銀行も株式も同時に大ダメージをくらってしまって、しかもそれが国のお財布だったのでエライことになってしまったのですね。フランス革命の一因にもなったし、のちの産業革命にも乗り遅れてしまったというわけです。
そんなこんなでフランス革命でブルボン王朝が滅び、フランス第一共和政と第一帝政を経て、復古王政になった時代(1815~1830年)。政治はまたしても貴族・聖職者階級中心なものになっていました。市民の中でもブルジョワにあたる人々は不満を募らせ、1830年7月に『7月革命』を起こします。ちょうど「レ・ミゼラブル」や「ラ・ボエーム」の時代のお話ですね。
シャルル10世に代わり国王に即位したのはオルレアン家のルイ・フィリップでした。彼は自身も資本家で、資本家や銀行家の支持を得ていました。
新王は自由主義と立憲王制を採用したものの、その実体は典型的なブルジョワ支配制でした。学会の会員でなくては選挙権も貰えず、国民の0.6%しか該当しませんでした。
ことあと起こる革命の主体勢力であるプロレタリアート(賃金労働者階級)は何の権利も持てず不満を募らせていき、それが18年後の二月革命に繋がっていくのですが、そのお話はとりあえず置いときます。
賃金労働者階級の不満はあれど、国としてみるとこの時代のフランスは高度成長期でした。
先のミシシッピ計画破綻の痛手のせいでイギリスほど爆発的ではなかったものの、産業革命のおかげで経済が発展しフランスは再びバブル時代に突入しました。
この時代の富裕層を大きく分けると
①産業革命にうまく乗って商工業で成功した人
②貴族の称号をお金で買った新興貴族
③復古王政時代に財産を取り戻して、それを元手に産業資本家になった旧貴族
に分類できるそうな。
新王のルイ・フィリップは③にあたります。
①は、第一帝政期に地代収入が一万フランあれば男爵の爵位が貰えたため、大抵のお金持ちは貴族の称号を得られたそうです。
ということで③はともかく、①と②は元々平民です。今まで見上げてきた王侯貴族の生活を、実現できる財力を手に入れたら、まあするよね!かくしてブルジョワジーたちは庶民の憧れだった「宮廷の暮らし」の真似事をし始めます。豪華な住居に服、食べ物、使用人と一通り揃いましたら、次に求めるのは遊びです。フランス革命前の時代に王さまが連れていた寵姫、あれを自分たちも欲しいなぁと考えました。
それで生まれたのが、ルネサンス時代のコルティジャーナを再現したクルチザンヌたちです。
ではその娘たちをどこから調達してくるか?となりますと、もちろん貧困層からです。いつの時代もおんなじです。
富裕層は増えたとは言っても、相変わらず国民の一握りでした。富裕層の人数層が厚くなって個々の資産が増えた分、ブルジョワジーとプロレタリアートの貧富の差は大きくなるのは当然ですな。
女性は男性より更に人権はなく、賃金なしで稼業を手伝わされたり、客、同僚、親兄弟にまで性の慰みものにされることも珍しくなかったといいます。(まあこれも、どの時代も似たようなものですが…)
男性ですら身分によって制約のあるこの時代、貧困家庭に生まれた女性がこの生活から抜け出すためには富裕層のパトロンを見つけるほかありません。偶然出会ってうまく結婚できたら最高ですけども、星の数ほどいる貧困層女子に「待っていればいつか王子さまが」なんておとぎ話的展開はまずありません。そこで彼女たちは大都会パリへチャンスを探しに来るわけです。
ダンサーや女優、お針子などで日銭を稼ぎつつ、夜は娼婦として活動し、パトロンを探すのです。いわゆるグリゼット(女性労働者)です。語源はお針子さんなどが着ていた安価なドレスの、灰色の生地からきているそうです。
まあ今さらネタバレも何もないですが、ボエームのミミもメリー・ウィドウのマキシムの踊り子たちもみんな娼婦ということです。
某ダンスの先生にお聞きしたんですが、フレンチカンカンの踊り子たちが着ているあの特徴的なスカート、よく踊りながら捲ってますけども、本物のキャバレーでは下着を何も付けないのが普通だったそうです。ショー自体が、今夜のお相手を男性客が品定めするためのイベントだったんですね。
お金持ちの男性はお気に入りの娼婦が見つかると、有り余る財力を使って自分と同伴させても遜色ない淑女に仕立てます。豪奢なドレスに装飾品に住居、場合によっては教育を施します。
「〇〇伯爵が連れている娼婦メチャメチャ美人で頭いい」となったら、連れている男性にも箔が付くというものです。そうなったらしめたもので、彼女は高級娼婦(クルチザンヌ)として名を馳せることになります。つく客の層も変わって、場末のキャバレーとは比べ物にならない程金払いのよい相手になります。
クルチザンヌとなった娼婦は相手を探して副業をしなくてよくなったので、自費でパーティーを開いて、お客になりそうな人や売り出し中のグリゼットを招いたりするというわけです。
このような、貴族とクルチザンヌたちのための社交場は「ドゥミ・モンド」と呼ばれますが、この名前を付けたのは小説『椿姫』の著者デュマ・フィスです。『椿姫』が流行ったから、この呼び名も流行したんですね。
半分(ドゥミ)の社交界(モンド)という意味で、公の社交界では夫婦そろって出席するのが当たり前ですけれども、この社交界では男性側しか出席しないところから名付けられたそうです。
『クルチザンヌ』という名称は、1830~1848年の七月王政までと、それ以前の公式寵姫もまとめて呼ぶ傾向にあるようです。この時代のクルチザンヌたちは、デュミ・モンドで活躍した女性たちということで『デュミモンディーヌ』とも呼ばれます。
一般大衆からしますと自分達と同じ身分から富裕層へのしあがったわけですから、そりゃもう憧れの的でした。今でいうアイドルやモデルのような存在で、ブロマイドなどもたくさん売られていたようです。
1852~1870年の第二帝政時代にデュミ・モンドは最盛期を迎え、皇帝ナポレオン3世が失脚してパリ・コミューン、そして第三共和制の時代になると、バブルの終焉と共に消えていきました。
19世紀末、クルチザンヌの意思を継いだグリゼットたちはココットと呼ばれるようになります。ココットという名前は、彼女たちが付けていそうな質の悪い香水から付けられたそうです。
彼女たちは現代の『働く女性』の雛形とも言えるかもしれません。
1880年代、女性の賃金労働者が増えると共に、婦人服に紳士服の影響がみられるようになりました。クルチザンヌのときと同じくアイドル、ファッションリーダーだった彼女たちは、女性用スーツを着て闊歩するようになります。
そして時代が下るにつれ、身体を売らなくても労働賃金だけで食べていける、男性と同じように社会で暮らしていけるように、ようやくなっていったのです。(それでも、現代ですら女性蔑視が問題になってますが…。)
現在、女性も働くのが当たり前な時代になっておりますが、それまでにはこんな歴史があったんですなあ。
『椿姫』もキャリアウーマンの元祖のひとりと考えますと、演じる際に身が入りますね。
2019/08/23 (Fri)
こんにちは。
最近このブログには聖書の研究ばっかり書いておりますので、たまには他の話題も書こうかなと思います。
実は来年の3月に、オペラ『椿姫』でフローラの役をやらせて頂けることになりました。
『椿姫』はオペラでも一番と言って良いほど有名な作品にもかかわらず、私は合唱はやったことがあるだけで実は深くまで調べたことがありませんでした。なので、せっかくですのでいつもの趣味研究のノリで色々調べてみようと思った次第です。
フローラは主人公ヴィオレッタとおなじ《高級娼婦》です。つまり、劇中でヴィオレッタと最も近い目線で物事を見ていることになります。
もうひとりのヴィオレッタ、あるいはヴィオレッタが選ばなかった道の先にいるヴィオレッタという見方も出来るのでは?どこかでそのような記事を書いていた方がいらっしゃったように思うのですが、この言葉がとても思い出されました。
そうなりますと、今まで記号のように覚えていた登場人物たちの人となりや状況をよく知らず「なんかパーティーによく来てる人たち」として認識している訳にはいかなくなりました。
合唱団演じる「パーティーの客」ならまだしも、パーティーの主催側であるフローラが招く人たちの人間関係や経済状況を知らない筈はないからです。
彼女たちはどんな思いで生き、死んでいくことを義務づけられて描かれたのでしょうか。
それを自分でも整理したくて、この記事を書くことにいたしました。
前置きが長くなりました。早速はじめたいと思います。
まずオペラと原作両方の観点から調べるにあたって、原作の作者について軽く触れます。
小説『椿姫』はアレクサンドル・デュマ・フィス(1824~95)が24歳の若さで書いたデビュー作です。
フィス(息子)と付けられているとおり、有名なお父さんがおります。アレクサンドル・デュマ・ペール(父)は『岩窟王』『三銃士』などを記した大作家です。お父さん自身もなかなかの苦労人でした。彼のお父さんのトマ=アレクサンドル・デュマ、つまりデュマ・フィスからするとお祖父ちゃんは、黒人と白人の混血だったので色々差別を受けたようです。お父さんは将軍だったのですが、ナポリで2年ほど捕虜になった際食事にヒ素を入れられた為に心身衰弱し、亡くなりました。遺族には終身年金が下りなかったので幼いデュマは貧しい生活を余儀なくされ、高等教育も受けられなかったそうです。劇作家として成功したデュマ・ペールの作品には、父親のデュマ将軍をモデルにしたものも多いといいます。自らが受けた人種差別に反発して、社会改革や革命にも参加しました。
デュマ・フィスは、そんな父とベルギー生まれの縫製工、カトリーヌとの間に私生児として生まれました。
のちに認知され高等教育を受けることはできましたが、暗い少年時代を送り、若い頃は父親の金で遊び歩いていたそうです。そんなときに出会ったのが、アルフォンジーヌ・プレシ…俗にマリー・デュプレシと呼ばれた娼婦でした。マリーはノルマンディーの行商人の娘として生まれ恵まれない少女時代を過ごしましたが、1845年頃のパリで裏社交界の花形にまで上り詰めた女性です。気品と教養と知性を兼ね備え、フランツ・リストなどを始めとする知識人や上流階級の男性と関係を持っていたといいます。出会った当時20歳だったデュマ・フィスはマリーと恋に落ち、彼女の情人のひとりになりました。しかしマリーは肺結核に侵され、23歳の若さでこの世を去ってしまいます。
彼女をモデルに書いたのが、小説『椿姫』というわけです。
詳しくは音楽之友社のリブレットに色々書いてあります。(爆)
今回主に調べたいのはこの小説を戯曲にして、更にオペラにした、ヴェルディ作曲の『椿姫』です。
ですので、原作小説はあくまで資料として使うに留めます。
原作者に関しては、『小説の主人公マルグリット・ゴーチェとアルマン・デュヴァールのモデルが、原作者本人と彼の亡くなった恋人マリー・デュプレシである』ということが分かれば十分です。
さて、原作とオペラリブレットを目の前に置きまして、とりあえずリブレットを開いてみましょう。
あらすじのあとに、便利な登場人物の一覧があります。
ヴィオレッタ・ヴァレリー、という名前が一番上に書いてあります。このひとがオペラのヒロイン。小説のマルグリットにあたる人物です。
ヴィオレッタはイタリア語で『すみれ』です。かわいい、素朴なお花ですね。
ヴァレリーという名前は、ヨーロッパ系の名前でローマのウァレリウス氏族(Valerius)に由来するお名前だそうです。wikiでこの名前の有名な人を見ますと、フランス人も居るんですけど、ロシア方面の方が多いような気がします。
すみれの花言葉は「謙虚」「誠実」です。
(紫のスミレの花言葉は「貞節」「愛」、白いスミレの花言葉は「あどけない恋」「無邪気な恋」。
黄色いスミレの花言葉は「田園の幸福」「つつましい喜び」。)
一方原作の「マルグリット」はマーガレットのことで、やはり素朴な花の代表格です。 花言葉は「真実の愛」「信頼」。
なのに、あだ名は椿姫。
これは原作を見れば分かりますけれども、彼女が公共の場に現れるときに必ず椿の花束を持っていたからです。一ヶ月のうち25日は白い椿で、5日は赤い椿と決まっておりました。なんで椿が赤かったり白かったりしたのかというと、月に5日だけの赤い椿の日は生理中だから娼婦のお仕事できません、という合図だそうです。
当時椿の花はヨーロッパに伝わったばかりでかなり高級なお花だったようです。そんな花を毎日買っていたのですから、彼女の散財ぶりが想像できるというものです。
素朴な花の名前を持ち元来はその名の如く素朴な少女だった彼女が、娼婦という商売のために本来の気質とかけ離れた生活を送っていたという表現でしょうか。
原作内で、田舎にてアルマンと暮らすマルグリットの様子にこんなシーンがあります。
「かつては花束に一家族が楽に暮らせる以上の金を使ったことのあるこの娼婦も、今では時々芝生にすわって、自分と同じ名のささやかな草花に一時間もじっと見とれているようなことがありました。」
モデルとなったマリーも、元々は田舎で生まれ育った娘です。元は無邪気で素朴な少女だったのでしょう。
では、フローラはどうでしょうか。
オペラリブレットの登場人物、ヴィオレッタの次の段にフローラ・ベルヴォアという名前があります。今回私がお勉強しようとしている役です。
フローラは明確なモデルがいません。原作にも、それっぽい立ち位置の人は何人かいますが、明らかに対応している役は無いです。
まずはお名前に関して少し。
『フローラ』は、ローマ神話に出てくる花の女神の名前です。元々はギリシャのニンフで、クロリスという名前でした。(ゼウスの血をひくアムピーオーンの娘という説もあり)
あるとき西風の神ゼピュロスがクロリスに惹かれ、彼女を拐ってイタリアへ連れてきます。そして主神にクロリスを神へ昇格するよう願い出てお許しを貰いました。こうしてクロリスは花と春と豊穣を司る女神フローラになったというわけです。
ローマ神話において、フローラは戦神マルスの誕生を助けた逸話で有名です。主神ユピテルが独力で戦女神ミネルヴァを産んだため正妻としての面目を失ったユーノーに請われ、フローラは女性が触れるだけで身籠れる花を授けます。それによって生まれたのが戦神マルスというわけです。
格上の身分の男性に魅入られて社交界に連れてこられ高級娼婦になったマリーと、境遇を重ねてしまいますな。
名字のベルヴォア【Bervoix】に関してですが、こちらはちょっと正解が分からなかったので、調べたものと妄想とメモっておきます(爆)
はじめ片仮名で検索したら Belvoir という綴りの地名が出てきたので、そちらで調べましたら、フランスのコミューンとイギリスの村でこの名前の地名が出てきました。この綴りですと意味は「綺麗に見える」になるので、自分の美しさを売る商売人にはピッタリの名前かと思ったのです。しかし実際の綴りは Bervoix ですので、意味はまるきり違います。
「voix」はフランス語で「声」です。一方「ber」は、フランス語どころか他の国の言葉でも明確な意味が出てきませんでした。出てきても電子用語とかベルリンの略称とか、あとはインドネシア語の節頭辞とか。
関連があるかは分かりませんが、よくヨーロッパの男性名や名字で見られる「ベルナルド」、フランスですと「ベルナール」の「ベル」は古語ドイツ語の「熊(berin)」に由来するそうです。
(ベルナールはber(n)-hard で「強い熊」。)
ドイツのベルリンとか、ベルンも『熊』が語源です。
熊は古代では「大きくて強い」ゆえに神聖なものと見られていました。エジプトでワニやライオンなどが崇拝されていたのと同じ理由ですね。
東ロシアのニヴフ族は熊を先祖と神両方の顕現と考えていて、大がかりな「熊祭り」を行うそうです。
どんな祭りかというと、まず子熊を捕まえて大切に育て、大きくなったら熊を喜ばせるための祝宴を催します。それから儀式の衣装を着せて、凍った川に立てた柱に鎖で繋いで若者たちが弓で射り、最後に権利のある人(司祭みたいな?)がとどめをさします。熊の亡骸は解体されて、何週間もかけて皆で食べます。すると熊の魂は神に戻り、自分達の繁栄が約束される…。こんなお祭りです。
非常に古代の色が濃い祭りですね。
またフィンランド神話には、オツォ(Otso)という 熊の精霊(多くの呼び名のうちの1つ)がいます。フィン族もロシアのように熊を屠るお祭りがあります。
アイヌにも似たお祭りがありますね。
熊の意味を持ったヨーロッパ人の名前には他にも、古代英語【beorn】の含まれた男性名 Osborn や、北欧の男子名 Björn(ビョルン)などがあります。
…盛大に話が逸れてしまいました。
ともかく、この意味で考えますと【bervoix】は「熊の声」?
もしかしたら、源氏名で後から付けた名前かも。
クルチザンヌたちの中には元女優や歌手、あるいは兼業していた人も多かったようですので、もしフローラが元歌手だったら………色々妄想が捗りますなあ!
とりあえず今回はここまで。
最近このブログには聖書の研究ばっかり書いておりますので、たまには他の話題も書こうかなと思います。
実は来年の3月に、オペラ『椿姫』でフローラの役をやらせて頂けることになりました。
『椿姫』はオペラでも一番と言って良いほど有名な作品にもかかわらず、私は合唱はやったことがあるだけで実は深くまで調べたことがありませんでした。なので、せっかくですのでいつもの趣味研究のノリで色々調べてみようと思った次第です。
フローラは主人公ヴィオレッタとおなじ《高級娼婦》です。つまり、劇中でヴィオレッタと最も近い目線で物事を見ていることになります。
もうひとりのヴィオレッタ、あるいはヴィオレッタが選ばなかった道の先にいるヴィオレッタという見方も出来るのでは?どこかでそのような記事を書いていた方がいらっしゃったように思うのですが、この言葉がとても思い出されました。
そうなりますと、今まで記号のように覚えていた登場人物たちの人となりや状況をよく知らず「なんかパーティーによく来てる人たち」として認識している訳にはいかなくなりました。
合唱団演じる「パーティーの客」ならまだしも、パーティーの主催側であるフローラが招く人たちの人間関係や経済状況を知らない筈はないからです。
彼女たちはどんな思いで生き、死んでいくことを義務づけられて描かれたのでしょうか。
それを自分でも整理したくて、この記事を書くことにいたしました。
前置きが長くなりました。早速はじめたいと思います。
まずオペラと原作両方の観点から調べるにあたって、原作の作者について軽く触れます。
小説『椿姫』はアレクサンドル・デュマ・フィス(1824~95)が24歳の若さで書いたデビュー作です。
フィス(息子)と付けられているとおり、有名なお父さんがおります。アレクサンドル・デュマ・ペール(父)は『岩窟王』『三銃士』などを記した大作家です。お父さん自身もなかなかの苦労人でした。彼のお父さんのトマ=アレクサンドル・デュマ、つまりデュマ・フィスからするとお祖父ちゃんは、黒人と白人の混血だったので色々差別を受けたようです。お父さんは将軍だったのですが、ナポリで2年ほど捕虜になった際食事にヒ素を入れられた為に心身衰弱し、亡くなりました。遺族には終身年金が下りなかったので幼いデュマは貧しい生活を余儀なくされ、高等教育も受けられなかったそうです。劇作家として成功したデュマ・ペールの作品には、父親のデュマ将軍をモデルにしたものも多いといいます。自らが受けた人種差別に反発して、社会改革や革命にも参加しました。
デュマ・フィスは、そんな父とベルギー生まれの縫製工、カトリーヌとの間に私生児として生まれました。
のちに認知され高等教育を受けることはできましたが、暗い少年時代を送り、若い頃は父親の金で遊び歩いていたそうです。そんなときに出会ったのが、アルフォンジーヌ・プレシ…俗にマリー・デュプレシと呼ばれた娼婦でした。マリーはノルマンディーの行商人の娘として生まれ恵まれない少女時代を過ごしましたが、1845年頃のパリで裏社交界の花形にまで上り詰めた女性です。気品と教養と知性を兼ね備え、フランツ・リストなどを始めとする知識人や上流階級の男性と関係を持っていたといいます。出会った当時20歳だったデュマ・フィスはマリーと恋に落ち、彼女の情人のひとりになりました。しかしマリーは肺結核に侵され、23歳の若さでこの世を去ってしまいます。
彼女をモデルに書いたのが、小説『椿姫』というわけです。
詳しくは音楽之友社のリブレットに色々書いてあります。(爆)
今回主に調べたいのはこの小説を戯曲にして、更にオペラにした、ヴェルディ作曲の『椿姫』です。
ですので、原作小説はあくまで資料として使うに留めます。
原作者に関しては、『小説の主人公マルグリット・ゴーチェとアルマン・デュヴァールのモデルが、原作者本人と彼の亡くなった恋人マリー・デュプレシである』ということが分かれば十分です。
さて、原作とオペラリブレットを目の前に置きまして、とりあえずリブレットを開いてみましょう。
あらすじのあとに、便利な登場人物の一覧があります。
ヴィオレッタ・ヴァレリー、という名前が一番上に書いてあります。このひとがオペラのヒロイン。小説のマルグリットにあたる人物です。
ヴィオレッタはイタリア語で『すみれ』です。かわいい、素朴なお花ですね。
ヴァレリーという名前は、ヨーロッパ系の名前でローマのウァレリウス氏族(Valerius)に由来するお名前だそうです。wikiでこの名前の有名な人を見ますと、フランス人も居るんですけど、ロシア方面の方が多いような気がします。
すみれの花言葉は「謙虚」「誠実」です。
(紫のスミレの花言葉は「貞節」「愛」、白いスミレの花言葉は「あどけない恋」「無邪気な恋」。
黄色いスミレの花言葉は「田園の幸福」「つつましい喜び」。)
一方原作の「マルグリット」はマーガレットのことで、やはり素朴な花の代表格です。 花言葉は「真実の愛」「信頼」。
なのに、あだ名は椿姫。
これは原作を見れば分かりますけれども、彼女が公共の場に現れるときに必ず椿の花束を持っていたからです。一ヶ月のうち25日は白い椿で、5日は赤い椿と決まっておりました。なんで椿が赤かったり白かったりしたのかというと、月に5日だけの赤い椿の日は生理中だから娼婦のお仕事できません、という合図だそうです。
当時椿の花はヨーロッパに伝わったばかりでかなり高級なお花だったようです。そんな花を毎日買っていたのですから、彼女の散財ぶりが想像できるというものです。
素朴な花の名前を持ち元来はその名の如く素朴な少女だった彼女が、娼婦という商売のために本来の気質とかけ離れた生活を送っていたという表現でしょうか。
原作内で、田舎にてアルマンと暮らすマルグリットの様子にこんなシーンがあります。
「かつては花束に一家族が楽に暮らせる以上の金を使ったことのあるこの娼婦も、今では時々芝生にすわって、自分と同じ名のささやかな草花に一時間もじっと見とれているようなことがありました。」
モデルとなったマリーも、元々は田舎で生まれ育った娘です。元は無邪気で素朴な少女だったのでしょう。
では、フローラはどうでしょうか。
オペラリブレットの登場人物、ヴィオレッタの次の段にフローラ・ベルヴォアという名前があります。今回私がお勉強しようとしている役です。
フローラは明確なモデルがいません。原作にも、それっぽい立ち位置の人は何人かいますが、明らかに対応している役は無いです。
まずはお名前に関して少し。
『フローラ』は、ローマ神話に出てくる花の女神の名前です。元々はギリシャのニンフで、クロリスという名前でした。(ゼウスの血をひくアムピーオーンの娘という説もあり)
あるとき西風の神ゼピュロスがクロリスに惹かれ、彼女を拐ってイタリアへ連れてきます。そして主神にクロリスを神へ昇格するよう願い出てお許しを貰いました。こうしてクロリスは花と春と豊穣を司る女神フローラになったというわけです。
ローマ神話において、フローラは戦神マルスの誕生を助けた逸話で有名です。主神ユピテルが独力で戦女神ミネルヴァを産んだため正妻としての面目を失ったユーノーに請われ、フローラは女性が触れるだけで身籠れる花を授けます。それによって生まれたのが戦神マルスというわけです。
格上の身分の男性に魅入られて社交界に連れてこられ高級娼婦になったマリーと、境遇を重ねてしまいますな。
名字のベルヴォア【Bervoix】に関してですが、こちらはちょっと正解が分からなかったので、調べたものと妄想とメモっておきます(爆)
はじめ片仮名で検索したら Belvoir という綴りの地名が出てきたので、そちらで調べましたら、フランスのコミューンとイギリスの村でこの名前の地名が出てきました。この綴りですと意味は「綺麗に見える」になるので、自分の美しさを売る商売人にはピッタリの名前かと思ったのです。しかし実際の綴りは Bervoix ですので、意味はまるきり違います。
「voix」はフランス語で「声」です。一方「ber」は、フランス語どころか他の国の言葉でも明確な意味が出てきませんでした。出てきても電子用語とかベルリンの略称とか、あとはインドネシア語の節頭辞とか。
関連があるかは分かりませんが、よくヨーロッパの男性名や名字で見られる「ベルナルド」、フランスですと「ベルナール」の「ベル」は古語ドイツ語の「熊(berin)」に由来するそうです。
(ベルナールはber(n)-hard で「強い熊」。)
ドイツのベルリンとか、ベルンも『熊』が語源です。
熊は古代では「大きくて強い」ゆえに神聖なものと見られていました。エジプトでワニやライオンなどが崇拝されていたのと同じ理由ですね。
東ロシアのニヴフ族は熊を先祖と神両方の顕現と考えていて、大がかりな「熊祭り」を行うそうです。
どんな祭りかというと、まず子熊を捕まえて大切に育て、大きくなったら熊を喜ばせるための祝宴を催します。それから儀式の衣装を着せて、凍った川に立てた柱に鎖で繋いで若者たちが弓で射り、最後に権利のある人(司祭みたいな?)がとどめをさします。熊の亡骸は解体されて、何週間もかけて皆で食べます。すると熊の魂は神に戻り、自分達の繁栄が約束される…。こんなお祭りです。
非常に古代の色が濃い祭りですね。
またフィンランド神話には、オツォ(Otso)という 熊の精霊(多くの呼び名のうちの1つ)がいます。フィン族もロシアのように熊を屠るお祭りがあります。
アイヌにも似たお祭りがありますね。
熊の意味を持ったヨーロッパ人の名前には他にも、古代英語【beorn】の含まれた男性名 Osborn や、北欧の男子名 Björn(ビョルン)などがあります。
…盛大に話が逸れてしまいました。
ともかく、この意味で考えますと【bervoix】は「熊の声」?
もしかしたら、源氏名で後から付けた名前かも。
クルチザンヌたちの中には元女優や歌手、あるいは兼業していた人も多かったようですので、もしフローラが元歌手だったら………色々妄想が捗りますなあ!
とりあえず今回はここまで。