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音楽とお酒と歴史探索が趣味です。色々書きなぐってます。
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  プロフィール
HN:
赤澤 舞
性別:
女性
職業:
飲食店店員
趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。

一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿

音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。

レトロゲームや特撮も好物です。

ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
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2025/05/14 (Wed)
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2017/11/02 (Thu)
こんにちは!
さて、まだまだ続くこのシリーズ。果たして生きてる間に終わるのか?


※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。



○第十二章

主はアブラムに言いました。
「あなたは生まれ故郷を出て、お父さんの家も離れて、わたしが示す土地に行きなさい。
そうすればわたしはあなたを大いなる国民にして、祝福して、あなたの名を大いなるものにするよ。あなたの名は祝福になるよ。
あなたを祝福する者はわたしを祝福し、あなたをのろうものはわたしをのろっちゃうよ。地の全ての民族は、あなたによって祝福されるよ。」
そこでアブラムは言われたとおりに出発しました。ロトも彼と一緒に行きました。アブラムはハランを出たとき、75歳でした。
アブラムは妻のサライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々を携えてカナンに向かって出発し、カナンの地に入りました。
アブラムはその地を通ってシェケムの場、モレのテレビン(樫)の木のもとに着きました。当時、カナン人がその地にいました。
その時に主はアブラムのところに現れてこう言いました。
「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます。」
アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築きました。
彼はそこからベテルの東の方にある山に移って天幕を張りました。
西にはベテル、東にはアイがありました。彼は主のためにそこに祭壇を築いて、主の名によって祈りました。
アブラムはそこからさらに進んでネゲブに行きました。
さて、その地に激しいききんがあったのでアブラムはエジプトに滞在しようと下っていきました。
エジプトに近づいたとき、彼は妻サライに言いました。「君はめっちゃ美人だから、エジプト人が君を見たら、この女は彼の妻だと言ってわたしを殺して、君を生かしておくと思うんだよね。
だから、君はわたしの妹だと言って欲しいんだ。そうすれば彼らはあなたのおかげでわたしにも良くしてくれるし、わたしの命はあなたによって助かるだろうから。」
アブラムがエジプトにはいった時、エジプト人はこの女を見て、たいそう美しい人であるとし、
またパロの高官たちも彼女を見てパロの前でほめたので、女はパロの家に召し入れられました。
パロは彼女のためにアブラムにも良くしてやり、アブラムは多くの羊、牛、雌雄のろば、男女の奴隷および、らくだを貰いました。
けれども主はアブラムの妻サライのことで、激しい災害でパロとその家を痛めつけました。
パロはアブラムを呼んで言いました。「ちょっと何してくれるんですか。どうして彼女が妻であるのをわたしに言わずに、妹だなんて言ったのですか。わたしは彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻を連れて行ってください。」
パロは彼の事について部下に命じ、彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~


この章以降は、しばらくアブラムの旅を追うお話になります。《ノアの方舟》以来、久々の特定の人物が動く物語です。(まあページにしたらたった1ページぶりなんですけど)


前回の最後から少し時はさかのぼって、ウルの町にテラ一家が住んでいた頃。あるときアブラムの耳に不思議な声が聞こえてきました。
「故郷も家族も捨てて、わたしが示す土地に行きなさい。」
《生まれ故郷を出て》と書いてあるので、このときの時系列がウルにいた時だとここで分かりました。つまりテラが息子たちを引き連れて故郷を出たのではなくて、息子のひとりアブラムが
「やっべーよ、神さまのお告げがあったよ!!今すぐあっち(神さまが指してる方角)に行かないと!」
と言い出したのにお父さんと嫁と甥っ子がついていった形になるわけですね。弟のナホルとその妻ミルカは、ウルの町に残ったことになります。

ちなみに前回、アブラムの生まれ故郷であるウルという町は現在のイラク首都バグダードから約300km南東のところにあると書きましたけれども、どうやら違う説が近年有力視されているという記事を見つけました。

前回書いたメソポタミア南部のウルは、紀元前4000年紀あたりから都市として拡張をはじめ、ウル第一王朝(紀元前2650~紀元前2400年)とウル第三王朝(紀元前2130~紀元前2021年)の時期はメソポタミア南部一帯の首都となった町です。
しかしながら、アブラムの故郷は「カルデヤの」ウルであると書いてあります。確かに南メソポタミアはカルデヤと呼ばれた時期がありました。ただしカルデヤ人の勢力がメソポタミアの南にまで及ぶのは紀元前10世紀頃です。
だから、アブラムたちの時代には「カルデヤの」ウルは南メソポタミアには無かったことになります。
そこで、当時からカルデヤ人の影響を受けていたメソポタミアの北部にはウルという町はあったのか?というと…………
あったらしいんですよこれが。
近年ウガリットとかアララハとかエブラとかで発掘されてる文献に、シュメールの首都ではない「ウル」の記述があるそうなのです。
エブラ文書には「ハラン近郊のウル」という表現があるそうです。実際に町の遺跡が見つかってるわけではないのですが、ハランの近郊にウルという町はあったみたいです。
更に、ハラン近郊にアブラムの祖先たちの名前が多く見られることから、 アブラムの先祖はどうやらメソポタミア南部ではなく、元々北部のハラン近郊で生活していたと考えられています。

その説で考えますと、最初の移動であるウルからハランの旅路は、旅路というほど大袈裟ではなくて隣の町に行った、くらいの距離になります。
メソポタミア北部のウルは宗教的にも商業的にもハランと結びついていたそうで、月神の信仰中心地だったようです。月神信者だったテラはこれまでの自分の生活や信仰を捨てられずに、同じ文化を持つ近くの町までしか移動できなかった、ということになります。

アブラムはそんなお父さんをハランに置き去りにしてまで、姿も見えない主の声だけを頼りに長い旅に出る契約に応じたわけです。


神さまはアブラムに、《わたしの示す土地にいく》ことを条件に《アブラムを大いなる国民にし、祝福し、名を大いなるものにする》ことを告げました。ノアから11代目、2人目の【神と契約した人間】の誕生です。
「あなたの名は祝福になる」というのは、「あなたの名前が祝福の基(物事の根本)になる」ということです。
あなたを祝福する者はわたしを祝福し、あなたをのろうものはわたしをのろう…つまり、アブラムへの人々の態度がそのまま主への態度になりますよ、だからその態度によって主が対応しますよ、という意味になるんでないかと思います。
地上の全ての民族はあなたのおかげで主の祝福を受けることができるようになりますよ、というのは、まあ上記のアブラムへの態度次第ということですね。アブラムに友好的だったら誰でも祝福がもらえるよ、ということだと思います。

その人への態度がそのまま神さまへの態度になる、というのを見ると、ノアに対する3人の息子の対応を思い出します。

ちなみに、「祝福」ってどういうことなんだろうと思ってググってみましたら

『旧約聖書において「祝福」と訳されているヘブライ語の בְּרָכָח /berakah/ は「救済に満ちた力を付与する」を原意とする。贈物や和解の意味も持ち、動詞 בָּרַךְ /barak/ としては「祝福する」以外にも感謝する、などの意であり、物質的なものが祝福の中心だった。代表的なものでは「子が生まれる」ということの中に見られた。創世1:28では神が人間を祝福した(生めよ。ふえよ。地を満たせ)。この祝福はノアと彼の子孫に(創世9:1)に引き継がれ、ユダヤ人は、子供の誕生は神の祝福を受けることと考えた。』

…だそうです。要するに、子孫繁栄を約束するよ、ということですね。
逆に「呪い(のろい)」は

『祝福の対立概念。災いがあること。相手に災いがあるように願うこと。』

第9章で息子ハムに裸で酔いつぶれたことを言いふらされたノアは孫カナンを呪いましたけど、身内とは思えない厳罰だったんですね。
更に、主のことを「セムの神」と呼んでいましたから、「おまえの一族はうちの子じゃありません。」にプラスして「おまえの一族が死に絶えればいいのに。」「主はセム一族の神であって、おまえの一族の神じゃねーから。主のご加護はもらえねーから。」と言ったことになります。きびしー。

今回主がアブラムにもちかけた契約は、

・主が指し示す土地に向かうこと

の代価として

・アブラムの血筋が繁栄すること
・第三者のアブラムに対する態度により、主が処置を第三者に行う

すごーくざっくりまとめたら以上の2つをアブラムにしてあげるよ、という内容になります。
上記にも書いたとおり、9章で主はセムの神だと宣言されていますので、この時点ではハムの子孫は主の加護はもらえません。
でも、この契約が施行されれば、アブラムへの態度如何でハムの子孫でも主の祝福をもらえる可能性があります。ちなみにノアは「神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように」と9章で言ってますので、ヤペテもセムと同じく主の加護の傘下にあったと思われます。
天幕は遊牧民たちの住居となるテントのことですが、
保護する世話や安全を暗示しているそうです。
個人の天幕は、雨風をよける安らぎの場所でした。なのでもてなしの習慣的には、そこに招かれた訪問客は丁重な歓待を期待することができたといいます。

アブラムは神さまに持ちかけられた契約を早速承認しました。
甥っ子のロトはお祖父ちゃんより叔父さんになついていたようで、アブラムについていくことにしたようです。
早速旅に出たアブラム一行ですが、主の道案内はひどくざっくりしたもので「指し示す方向」しか手掛かりがありません。
父テラの意見かはわかりませんけども、一行は大都市ハランにたどり着いて、数年間か数十年か暮らしました。その間、きっと商売がうまくいったかなにかしたんでしょう。財産と人…すなわち奴隷だか使用人を得たとあります。今も昔も、人を雇えるお家はかなりの金持ちと決まってます。

富と地位と安全な生活を新たな都市で手に入れたにもかかわらず、神さまに忠実なアブラムは契約のことを忘れずにおりました。
75歳になっていたアブラムは、妻と甥と奴隷たちを連れて再び旅に出ます。アブラムたちが生まれたとき70歳だったテラは、145歳になっていたことになります。老年のテラは205歳で亡くなるまでの60年間、ハランの町でひとりぼっちで暮らしました。なんか可哀想(´・ω・`)

一方のアブラムは、なんやかんやで無事に主が指し示す土地に到着しました。
一行はシェケム(パレスチナ中央、現在のヨルダン川西岸地区ナーブルス附近のテル・エル・バラータであるとされている地域)の、モレというイスラエル北部地区エズレル平野の北東にある山地にやってきました。彼らが住んでいたハラン(現トルコ・シャンルウルファ県)からエズレル平野までは、徒歩で休みなく向かったら最短で6日と18時間(800km)の旅です。
たぶん実際は数ヵ月かかったんじゃないかと思われます。

彼らがたどり着いたという木ですが、私の持ってる聖書( 日本聖書刊行会出版 新改訳 中型聖書 第3版) では『樫の木』と書いてありました。でも日本聖書協会訳だと『テレビンの木』になってるらしいんですね。
どっちやねーん。

カシはブナ科の常緑高木の一群の総称で、葉っぱは表面につやがあって縁がギザギザなのが特徴です。日本を含む温帯南部の湿潤地域に多く生息するのはアカガシ亜属。一方、東南アジア、南ヨーロッパやアメリカ大陸など温暖でやや乾燥した地域に多いのはコナラ亜属のカシです。コナラ亜属のウバメガシは低木ないし小高木ですが、アカガシ亜属は大きな木になります。
一般には晩春から初夏に花を咲かせ、団栗と呼ばれる実をつけます。
ここに出てきた木が樫の木だった場合、地域的にみてコナラ亜属のカシだと思われます。

一方テレビンノキはウルシ科の落葉小高木で、地中海地方の原産です。高さは5mくらい、葉っぱは卵状披針形(先がとがった、ちょっと細長い卵形)。6~7月に花をつけ(ただし花弁は無い)、暗紫色の実をつけます。実の皮は芳香があり食用になります。
樹液(テレビン油)は薬用になる他、花や葉に生じる虫こぶ(虫などの寄生によって植物組織が異常な発達を起こしてできるこぶ状の突起)から色素をとり布の染色に用いたりもします。テレビンノキと同属の木には、ピスタチオがあります。おいしいよねピスタチオ。
テレビンノキのヘブル語名はエラー(elah)で、エルシャダイ、エロヒムなど神を現す言葉エル(el:力強き方)がついているそうです。

この木が樫なのか、テレビンなのかは諸説あります。
ユダヤ人の史家ヨセフスは、創世記の時代にはテレビンの木だったけどもその木は紀元330年頃に枯れちゃって、そのあとその場所に樫の木が植えられた、としているそうです。
ま、どっちでもいいですけどね。

とにかく、ある日アブラムは木の根元で旅の休息をとっておりました。そしたら、主がいきなりペカーッと現れて(!)

「この土地を君たち一族にあげるよ。」

と仰ったわけです。たぶんアブラムはそこで初めて

「え?あ、ここがゴールなん?まじかー!やったー!」

と思ったことでしょう。だって神様ゴールの地名教えてくれないんだもん。
そんでもって、ゴールに着いたは良いけど既にそこには先に住んでる人がおりました。
カナン人たちです。
カナン人については10章で調べました。のちのフェニキア人で、当時かなり力を持っていた民族です。

そんな厄介な先客はおりましたけれども、他ならぬこの世界を作った神さまが直々に「ここ、おまえの領地~」と言ってくださったんですから、アブラムは大喜びです。早速その場で祭壇を作って、お祈りをしました。

とはいえ、もう既に他の民の町があるところに新たに住み着くのは大変です。そうかといって、一から町を作るのもえらい大変です。
しばらくアブラム一行は、カナンにある町の近くに野営を転々として過ごします。

モレ山地を出たあと、一行はベテルという町の東にある山に移動しました。クシュの子孫、アルキ人について調べたときに出てきましたね。
ベテルは現在のテル・ベイティンではないかと言われています。エルサレムの北19キロにあった町で、昔はルズという名前だったそうです。ちなみにベテルとは「神の家」という意味だそうな。

エズレル平野からベイティンまでは、徒歩で丸1日と2時間(124km)かかります。
そこに天幕、つまりテントを張って一夜を明かしました。そこは西にベテルの町、東にアイという町がある位置で、彼はここにも祭壇を作って神さまにお祈りしたとのことです。
アイはベイティン遺跡から3キロ東にあるカナン人の町で、現在のエト・テルだと言われているらしいです。

アブラムはそこからまた出発して、ネゲブに行ったとあります。ネゲブはイスラエル南部の砂漠地方です。東はヨルダン地溝帯、西はシナイ半島に挟まれています。つまりどんどん地図を南下しているわけです。
ネゲブはヘブライ語で「南」という意味だそうです。
その名のとおり、ネゲブ砂漠はベイティンから南に192km、徒歩で1日と16時間のところにあります。

しかし、やっとこ辿り着いたネゲブの地はひどい飢饉の真っ只中でした。ただでさえ地元の人が餓死でバタバタ亡くなってるのですから、旅人に分け与える余裕なんか人々にはありません。
ゲネブで休むことができなかったアブラムたちは、更に南、エジプトへ向かいました。

前回バベルの塔のお話が紀元前3000年と仮定しましたので、そのあたりの時代だったとすると、エジプトはちょうど第一王朝時代です。
紀元前3150年頃に上下エジプトの統一がなされてから150年あまり。大国を形成しつつあったエジプトは、他の小さな町のように旅人に寛容ではなかったのかもしれません。

エジプトについてはハムの子孫ミツライムのところで調べましたが、すごーくざっくりしか書かなかったので今回エジプト王朝の成立についても少し調べてみたいと思います。

上エジプトと下エジプト、ふたつの国が出来たのは紀元前3500年くらいだそうな。たくさんの部族国家が統一されて構成されたものです。(統一後も行政地区としてこの名残がある)
紀元前3300年頃にはヒエログリフの文字体系が確立、太陽暦(シリウス・ナイル暦)が普及しました。

現在わかっている中で、王朝誕生前の一番古い王さまは紀元前32世紀頃に上エジプトのティニスという町に住んでいたスコルピオン一世です。『スコーピオンキング』って映画のモデルの人物だそうですよ。

彼の先代の名前はブルというそうですが(by Wikipedia)、王には数えられてません。というか、ネットに記述が全然ありません(爆)
近年見つかった5000年前の落書きにスコルピオン一世にやっつけられる他の王朝の王さまの様子が描かれていたそうですが。やっつけられてる王さまの名前だか、場所の名前だかが“Bull's Head”と書かれてて、スコルピオン一世のお墓にもこの名前が見られるそうです。先代と関係あるのかな?
サソリの女神セルケトに因んで「サソリ」の意味の名を持つ彼は、上エジプトの他の王朝を倒して国を統一していきました。彼のお墓の中からは遠征の記録のために作られたとみられる、町の名前の象形文字が描かれた小さな象牙の飾り板が見つかっているそうです。この記録のために、象形文字が生み出されたという説もあります。
また彼のお墓からはワインの入ってた壺がたくさん発見されてて、古代にワインが飲まれてた証拠となっています。自分の墓に酒瓶を持ち込むとは、この王さまとは気が合いそうです(爆)

その次に王さまになった人物は、実はよくわかりませんでした。英語版のWikipedia見てもよくわかりませんでした。
一応、スコルピオン一世の後継ぎにはイリ・ホル(Iry-Hor)という人物が挙がっていますが、その前にクロコダイルとダブルファルコンという人物が支配者を勤めた説もあるみたいなのです。しかしまあ古代エジプトは謎だらけで素人にはさっぱりわかりません。(爆)
とりあえずイリ・ホルのことを書きます。

イリ・ホルはアビドゥスという町に住んでいたという王さまです。やはり紀元前32世紀頃、メンフィス及びナイルデルタの一部を支配していたと考えられています。

で、その後を継いだのが、カ(Ka)という名前の王さまです。日本のWikipediaでは紀元前32世紀の終わり頃から紀元前31世紀はじめの人だと書いてありましたが、英語版では紀元前32世紀はじめに支配していたと書いてありました。亡くなったのは紀元前31世紀頃らしい。

その次に王さまになった、カの後継者ナルメルこそ、上下エジプトの王を最初に名乗った人物です。
彼の姿が描かれたパレット(化粧板)に、上下エジプト両方の冠を被った様子で描かれています。
彼の前にファラオになった人物に、スコルピオン二世という人物がいますが、ナルメルと同一人物という説が有力だそうです。
(Wikipediaには、ナルメルの前王はスコルピオン二世と書いてある。統一したのはスコルピオン二世で、ナルメルがそれを引き継いだ説もある。)

まあいずれにしても、 「荒れ狂うナマズ」という意味の名前のナルメル王がエジプト第一王朝のいちばん最初の王さまです。
彼の統治期間は紀元前3100年頃とみられているようです。日本版のWikipediaと英語版のWikipediaでも書いてあることが違ったし、まあなんとなくこの辺りの時代ってのがわかればいいので、ここでは追究は割愛します。エジプト研究者さんたちに頑張っていただきましょう。

ちなみに、第一王朝の最初の王さまと言われる人物はもう一人います。
マネト(紀元前300年前後の歴史家)の記述に出てくる、メネスという名前のファラオです。
伝承では紀元前3000年くらいにエジプトを統一した…とのことですが、彼の名前は現存の遺物や王名表には残っておりません。
おそらく、ニムロデのように複数の王を合わせて作られた人物なのではないかと言われています。あるいは、ナルメルの次代のファラオであるホル・アハの本名なのではないかという意見もあります。
死因も、ホル・アハと同じですし。(死因:セト神の化身であるカバに殺された)

まあとにかく、10章でノアの息子の子孫たちを調べたときに出てきた《ミツライム》…すなわち、《二つの要塞》は、紀元前3000年前後には統一されて、周囲の国とは一線を画する存在感を放っていました。
おなじころの、エジプトと同等の文明はシュメールの都市国家くらいしかなかったんじゃないでしょうか?

昔教科書で見た世界四大文明の黄河・長江文明の中国は紀元前2000年前後、インダス文明は紀元前2600年くらいにならないと王朝は出来てきません。
この頃のヨーロッパはまだ新石器時代で、日本も縄文時代でした。
国家の体勢をつくり、王権を成立させていた土地は、他にどこにもなかったんではないでしょうか。

そんな超先進国に、身を寄せようとやってきたアブラム一行です。たぶん、同じようにゲネブの地の飢饉から逃れてきた人々が他にもいたんじゃないでしょうか。その道中、どうやらエジプトに入国するのは容易ではないぞ、先に入国を試みた人々が殺されたらしい、と他の旅人から聞いたかもしれません。

もうすぐエジプトに着くとなったとき、アブラムは妻のサライに言いました。

「おまえ、俺の妹って名乗れ。」

曰く、そのままエジプトに入国したら俺は殺されてしまうけど、お前は美人だからエジプト人はたぶん生かしておくと思う。そこで俺が兄ってことにしとけば、俺助かるんじゃね!?
とのこと。
まあ平たく言えば、色仕掛けで俺を助けてくれ!というわけです。

……えーとすみません、仮にもこの話の主人公にこんなこと言うの申し訳ないんですが、すごくカッコ悪い……。
まあ、アブラムも神さまに忠実で、声を聞くことが出来るということ以外はただの人間ですのでね。やっぱり殺されるのは怖いですよね。

アブラムの思惑は当たり、エジプトに着くとエジプト人はまずサライの美しさに惹かれました。
そして殺されることなく無事に入国したアブラムたちは、パロ……つまりファラオの宮殿に連れてこられました。いきなり王にお目通りとはスゴいな。
今のアブラムは一介の旅人ですけれど、たくさんの使用人も一緒に引き連れていましたんで結構なお金持ちなんだな、というのはエジプト人も解ったと思うんですね。それで更にすんごい美人を連れていて、
「こいつ俺の妹」
っていうもんですから、こんな美人でお金持ちな女は是非ともファラオに捧げるべきだ!と考えたのかもしれません。
高官たちもサライの美しさを讃えるものですから、ファラオはサライをすっかり気に入りまして宮殿に呼び寄せました。サライ相当な美人だったんですねえ。

奴隷になるというわけでもなく宮殿に暮らすということは、まあ普通に考えてファラオの側室になるということですよね。正妻じゃなかったとしても、ファラオの奥さんになるってすごいことです。
このファラオは気前が良くて、お気に入りのサライのためにサライのお兄さん(だと思い込んでる)アブラムにも破格の対応をしてくれました。
たくさんの羊や牛やロバ(つがい)、更に奴隷にラクダをくれたのです。どこの馬の骨とも分からない旅人の妹をいくら綺麗だからって王家に入れただけでなくて、兄貴にまで良くしてくれるなんて、なんていい人なんだ!

けれどもそんなこと神さまには知ったこっちゃありません。主にしてみれば、呼び寄せたアブラムはいつまでたってもカナンに戻ってこないし、しかもアブラムの妻はなんか他の男のものになってるし、なんだこの状況!!?ってわけです。
ことの成り行きをちゃんと見ていれば、別にファラオが悪くないことはすぐ解るはずですが、主がどうしたかっていうと
「わたしの選んだ男の妻に手を出すとは、不遜な輩だ!」
と怒って、すんごい災害を起こしてファラオと家を痛めけたのです!ファラオすごい可哀想。
ファラオは、この災害の原因がサライをめとったことにあると何らかの方法で知ります。もしかしたら主が直々に知らせたのかもしれないし、部下の調査の結果かもしれません。
さっそくアブラムを呼びつけて、
「ちょっとー、妹なんて嘘つくから嫁にしようとしちゃったじゃんー。もういいよ、奥さんと一緒に出てって。」
と『すべての持ち物と』共に追い出しました。
つまり、彼がハランから持ってきた財産と奴隷に加えて、たくさんの羊や牛やロバ(つがい)、更に奴隷にラクダも持たせたまま、というわけです。

…ファラオ良い人すぎない?

そんなわけでファラオの王家に入ることはできませんでしたが、アブラムは奥さんサライのおかげでめっちゃ得をしましたとさ。

…なんか釈然としない話だなあ(・ε・` )

ところで、ファラオという言葉は元来「大いなる家」つまり王の宮殿を意味していたそうで、王の称号として使われ出したのは第18王朝 (紀元前1567~紀元前1320年、或いは紀元前1552~紀元前1306年)からだそうです。だから、このアブラムの話もこの時代以降の話だ、とする説もあるようです。
しかしながら、今Wikipediaとかを見ても、第18王朝より前の王さまの説明に「ファラオ」という呼び名は結構普通に使われてます。だから、慣例的にエジプトの王さまだからファラオ、と書いた可能性もあります。
このお話がほんとにあったことかどうかは置いといて、とりあえず書かれたのは紀元前1500年よりは後なんだな。ということはわかりますね。


さて、続きは次回。
今回の楽曲はアレッサンドロ・スカルラッティ作曲、クリスマスカンタータ《アブラハムよ、あなたの顔は》より 、アブラハムのアリア「船頭は激しい波を渡って」
https://youtu.be/GMWgZms40xc

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2017/08/16 (Wed)
こんにちは!

ちょっとスマホの故障やら何やらでデータがふっとんでしまい、だいぶ間が開いてしまいました。
しかしまだまだ地道に読み続けてはおります。どうぞご興味おありの方はお付き合いください。


※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。



○第十一章

このころ全ての地は同じ言葉を話していました。
この時に人々は東の方に移動してきて、シヌアルの地に平野を見つけて、そこに定住しました。
彼らは互いに言いました。「さあ、れんがを造ってよく焼こう。」こうして彼らは石のかわりに、れんがを、粘土のかわりに、瀝青を使うようになりました。
そのうちに彼らはこう言うようになりました。「さあ、我々は町を建て、頂が天に届く塔を建てて名を上げよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
そのとき主は人間の建てた町と塔を見るために下りてこられました。
主はこう言いました。「彼らがひとつの民で、ひとつの言葉だからこういうことをしたのなら、彼らがしようとする事はもはや何事もとどめ得ないだろう。
さあ、(われわれは)下りて行って、そこで彼らの言葉を混乱させ、互いに言葉が通じないようにしよう。」
こうして主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らは町を建てるのをやめました。
このため、その町はバベルと呼ばれました。主がそこで全地の言葉を混乱させ、彼らを全地に散らされたからです。

セムの系図は次のとおりです。セムは百歳になって洪水の二年の後にアルパクシャデを生みました。
セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生きて、息子と娘たちを生みました。
アルパクシャデは三十五歳になってシェラフを生みました。
アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生きて、息子と娘たちを生みました。
シェラフは三十歳になってエベルを生みました。
シェラフはエベルを生んで後、四百三年生きて、息子と娘たちを生みました。
エベルは三十四歳になってペレグを生みました。
エベルはペレグを生んで後、四百三十年生きて、息子と娘たちを生みました。
ペレグは三十歳になってレウを生みました。
ペレグはレウを生んで後、二百九年生きて、息子と娘たちを生みました。
レウは三十二歳になってセルグを生みました。
レウはセルグを生んで後、二百七年生きて、息子と娘たちを生みました。
セルグは三十歳になってナホルを生みました。
セルグはナホルを生んで後、二百年生きて、息子と娘たちを生みました。
ナホルは二十九歳になってテラを生みました。
ナホルはテラを生んで後、百十九年生きて、息子と娘たちを生みました。
テラは七十歳になってアブラムとナホルとハランを生みました。

 テラの系図は次のとおりです。
テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生みました。
ハランは父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤのウルで死にました。
アブラムとナホルは妻をめとりました。アブラムの妻の名はサライといいます。ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘です。ハランはミルカの父、またイスカの父でした。
サライは不妊の女で、子がいませんでした。
テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤ人のウルを出ましたが、ハランに着いてそこに住みつきました。
テラの年は二百五歳でした。テラはハランで死にました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

やっとこ話が先に進みまして、有名な《バベルの塔》のお話です。前回まで半年かけて読んだ十章の情報が、ここで役に立つわけですな。

この章によりますと、世界中全ての人々が同じ言葉をしゃべっていたという時代に(ほんとにそんな時代があったかは置いといて)ひとつところにかたまって住んでいた人々の中から
「引っ越ししよう!!」
という一団が現れたようです。
彼らが住み着いたのは、ノアが大洪水から逃れてから代々住んでいた土地から東にある《シヌアル》というところ。十章の、クシュの息子ニムロデについて記述があった土地で、今のイラクあたりです。
そのあたりの平地というと、チグリス川とユーフラテス川のまわりに広がるメソポタミア平原のことだと思われます。豊かな土と水に恵まれたこの土地は、農耕に最適でした。

さて、山暮らしが長らく続いたノアの一族の人々(方舟が流れ着いたのがアララテ山なので、そこからさほど移動はしなかったと仮定)が、さぁ平地に住もうとなったとき、困ったことがありました。
山には石やら粘土やらがたんまりあったもので家を作る材料には困らなかったのですが、平原には草と土しかありません。
そこで、彼らは考えました。

「無いならば 作ってしまおう 建築材」

彼らは土を型に入れ、固めて作る建材を発明しました。煉瓦(れんが)です。歴史的にも、煉瓦が使われるようになったのはメソポタミア文明からだとウィキペディア先生に書いてありました。
紀元前4000年からの約1000年間は、乾燥させただけの日干し煉瓦が使用されていたそうです。焼いて作る焼成煉瓦が使われるようになったのは紀元前3000年から。つまりこの物語の舞台は紀元前3000年あたりというわけですな。

レンガ造りの建物は、日本(北の地方を除く)の気候では暑くて仕方ない上に地震に弱いという弱点がありますけれども、 昼間は灼熱、夜は氷点下という砂漠気候の土地には最適です。

煉瓦は内部に無数の気泡があるためそれ自体に断熱効果があり、耐熱性能と蓄熱性を持っています。外気の熱や寒さを一旦取り込み、約10時間後に放出するという特性があるので、昼間は涼しくて夜はあったかい、というわけです。しかも丈夫なのでメンテナンスもいりません。

ちなみに粘土のかわりに使われるようになったという瀝青とは、アスファルトのことです。石油を精製したものに、骨材や砂などを混ぜて使います。
天然アスファルトも紀元前3000年前には使われていて、エジプトではミイラの防腐剤としても使用されたそうな。

こうして人間は、《材質》を発明して作り始めました。つまり建築に使える硬さの石や最適な粘土を探して歩き回ったり、また長い距離を運んだりする必要がなくなります。建物を建てる時間がかなりショートカットされ、たくさん作れるようになりました。
この一文だけで、かなりの技術革新が伺えます。

人間的には万々歳ですけれど、思い出してください。《主》が与えた万物のものを人間が勝手に加工するのは、《主》にとってかなり不愉快なことだという前提がありました。
エノクの町の繁栄やら何やらが積もり積もって、あの大洪水が起きたわけです。

そんなわけですから、新素材を使うようになった人間たちを主はきっとイライラしながら見下ろしていたことでしょう。
その上、人間たちは
「町を作って、天まで届くでっかい塔を作ろう!」
と言い始めました。主は作業中の彼らをわざわざ見に下界へ「降りて」きました。
たぶん、主が自ら人間の方にわざわざ来たのってこの時が初めてだと思います。しかも「降りてきた」ってことは上の方にお住まいだったんですね。
とにかく、その目で実態を見た主は
「えー、もうこうなっちゃったら止められないじゃん。しょうがない、言葉を通じなくさせちゃえ。」
と人間たちの言葉をバラバラにしてしまいました。

このお話には、色々な解釈があるみたいです。
もちろんキリスト教的な解釈は読んだんですが、なんかよく理解できなかったです(汗)いや、意味はわかるんですけども。
曰く、「産めよ増やせよ地に満ちよ」という神さまの命令に反してひとつところに留まろうとしたこと、更には神さまのところくらい高い建物を建てることで神さまと同等の力(すなわち科学力?技術力?)を手に入れようとした…とのことです。神さまと同じ存在になれれば、言いなりになって流浪しなくてよくなる、と考えた人間たちの驕りと神への不信に主は怒ったと。
まあ理由のひとつの可能性ではあるかもしれません。

そもそも人間たちは「なぜ」塔を作ろうと思ったのでしょうか?

《自分たちが散らされないように、名を上げるため》だと、人間たちは自分たちが塔を建てようとした理由として話しています。
ここで「誰に」散らされることを恐れていたのか?という疑問が出てきます。
キリスト教の解釈ですと、その対象は神さまだったわけなのですが…「名を上げる」ということが有効な対策になると思われる相手だったということですので、なんか違和感。

人は何故塔を作るのでしょうか?
ただ有名になりたいだけなら、別に作るものは塔じゃなくても良いと思うのですが…。
そもそも、塔とは何なのか。

たすけてー、Wikipedia先生ー。

というわけで、以下Wikipedia先生による『塔』の情報(※仏教的なものは除く)

『塔(とう)とは、接地面積に比較して著しく高い構造物のことである。

西洋建築の世界では、見張り台というような軍事的目的とともに、宗教的な意味を持つ建造物を指す。

(中略)

tower の語源は、ドイツ語の Turm (トゥルム)やフランス語の tour (トゥール)、イタリア語 torre (トッレ)などと同様、ラテン語 turrem (トゥルレム)< turris (トゥルリス、意味: high structure、palatium、arx、高層建造物、(古代ローマの七つの丘の)大宮殿、城塞)に由来する。それはさらに古く、古代ギリシア人がエトルリア人を指して呼ぶところの Τυρρήνιοι (Turrēnoi、英: Tyrrhenians、テュレニア人)という言葉に起源を見ることができる。また、漢字の「塔」と同様にサンスクリット語の stūpa との関連性が指摘されることもあるが、定かではない。

(中略)

仏教文化圏以外の地域、すなわち、中近東や欧米、古代アメリカなどでは、見張り台というような軍事的目的とともに宗教的な意味を持つ建造物である。 つまり、地上と天上を結ぶ象徴としてのモニュメントの側面を持つ。 したがって、単なる高い建物というわけではなく、人を天上へと運ぶというような意味もある。 このため、人が立ち入ることを前提とし、単に構造物の目的機能を満たすために高くなった構造物、例えば「煙突」は塔と呼ばない。

(中略)

塔の定義は不明確であり、よって、ここでの分類は一つの目安でしかない事に留意。

1. モニュメントとしての塔
西洋の塔は地上と天上とをつなぐ建造物という意味が色濃く、人間が中に立ち入ることができることも求められる。
宗教の目的が薄れ、戦勝や建国など世俗的な記念のモニュメントとしての塔が造られることもあった。さらには、都市のランドマークとしての塔も近代以降は顕著である。

2. 信仰の家としての塔
東南アジア文化圏における「塔」は、モニュメントの性格を持ちつつも、人々が訪れる事のできる釈迦の住居であり、聖域である。

3. 情報伝達としての塔
キリスト教会に見られる「鐘塔」や、イスラム教のモスクの「ミナレット」は宗教上のモニュメントの性格を持つ一方で、信者に対して祈りの時間を知らせるための機能を併せ持っていた。このため、できる限り広範囲に届くように高さが求められた。近代においては、時計塔が登場した。現代においては、テレビ放送などの情報送信を目的とした電波塔もこれにあたる。

4. 搬送手段としての塔
送電線や通信線を地上から分離するために、電線を支えるための鉄塔がある。給水塔は塔の頂にタンクを置き、塔の高さから得られる位置エネルギーを送水圧に変換して広範囲に水を供給する目的で設置される。蒸留塔は混合物を塔のなかで移動させ、加熱蒸発・冷却凝縮することで各成分を分離する目的を持つ。

5. 監視としての塔
軍事目的として西欧その他の城壁に設けられた監視および防御のための構造物はしばしば「塔(turris、torre、tower、など)」と呼ばれた。空港における管制塔などもここに分類できる。

6. 展望、観光用の塔
他目的の塔も展望用に開放されていることがあるが、もっぱら展望用に設置された塔もある。展望塔参照。
※なお、高層ビルの名称・愛称に「タワー」という語が付されることもある(横浜ランドマークタワー、JRタワーなど)が、建物の構造からすると普通は本稿で述べられるようなタワー・塔とは区別される。


(中略)


旧約聖書の『創世記』には、バベルの塔が登場する。 バベルの塔は、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせようとする野望の実現と、それに対して主の与えた罰の寓話である。

そのモデルになったのは、メソポタミアの新アッシリア王国の首都ドゥール・シャルキン(現・コルサバード Khorsabad 村近郊)に建築されたジッグラトであるとも言われている。 ジッグラトは、メソポタミア文明も最初期にあたるウル王朝時代に成立した、日干し煉瓦で造られる伝統的な立方体の大規模な塔であった。 多層のテラスを階段や斜路で結び、最上段に神殿や祭壇を設置してあった。 ドゥール・シャルキンのジッグラト(コルサバードのジッグラト)は高さ約42mの、しかし、高層と言うよりむしろ巨大との形容に相応しい一大建築物であった。

古代エジプトのパイロン
古代エジプトでは、神殿の門が2つの塔に挟まれたかたちをとっていた。 この形式をパイロン(塔門)と呼ぶが、現在でもルクソール神殿やエドフ神殿など主な神殿遺跡でそれらを確認することができる。

また、古代ギリシア人が「オベリスク」と呼び、後世、ヨーロッパ社会でモニュメントとして転用されることともなる、四角錘の記念塔が神殿の入り口などに設置された。 これは太陽神信仰と関係し、聖なる石「ベンベン」が発展したものとも考えられている。

(以下省略)』


……………………

Towerの語源であるエトルリア人は、イタリア半島中部の先住民族です。ヤペテの子孫のひとり、ティラスについて調べたとき出てきましたね。
まあそれは置いといて。


えー、つまり

まず西洋においての『塔』(とう)の定義をまとめますと、

・縦に長い建物
・中に人が入れる

ことが条件で、目的としては

・地上と天上とをつなぐ建造物という宗教的な意味プラス、祈りの時間を知らせる機能
・戦勝や建国など世俗的な記念のモニュメント
・見張り台など軍事的目的
・展望、観光用

などで作られたもの、ということです。

バベルの塔がなんの目的の塔なのかは具体的に明記されていませんので、妄想し放題ですね!(爆)
もちろん聖書の性質上、宗教的な意味をもって建てられたことに一般的にはなっていますけど。

たとえば。

妄想①
シヌアルに住み着いた人々はレンガを使って町と、その町ができた記念の塔を建てました。とても高い塔を作れば、町の豊かさのアピールになります。食べていくのがやっとの町には、でっかい建物なんて作ってる余裕は無いはずですからね。
高い塔は遠くからでも目立つし、キャラバンの旅人たちの目に留まれば彼らも住みはじめるかもしれません。町が豊かなら、人が集まってきます。物流が生まれ、交易も行われ、物も集まってきます。つまりこの町に居れば大抵のものは手にはいるようになり、わざわざ他の地方まで出かけなくても良くなるわけです。
町の中だけで経済が回るから、バラバラになる必要がありません。というわけで、《全地に散らされ》ずに自分達の民族を繁栄させることができる!と彼らは考えたのでした。

妄想②
シヌアルに住み着いた人々はレンガを使って町と、その町を守るために見張りの塔を建てました。肥沃なこの土地で築いたたくさんの富を、他の町の人々や盗賊たちに横取りされるわけにはいかないからです。
平地の中の町なので、高い塔の上から見れば攻めてくる敵はすぐにわかります。天まで届く塔ならば、もっともっと早く気付けます。それから戦いの準備をし始めても十分間に合うというわけです。いつでも戦いの準備があれば、よその町と戦いになっても絶対に負けません。町の民が奴隷になって、あちこちに連れていかれることもなくなります。つまり《全地に散らされ》ないために、必要なものだ!と彼らは考えたのでした。

妄想③
シヌアルに住み着いた人々はレンガを使って町と、町の名物になるような観光用の塔を建てました。町の繁栄のためには、他の土地からたくさんお客さんが来てくれる必要があるからです。
この町は平地のど真ん中にあるので、高い塔は遠くからでも目立ちます。旅人たちは物珍しい塔に惹かれてやって来て、この町で飲み食いなどして町の豊かさを体感するでしょう。そしてまた旅立って、他の町を立ち寄ったときや、他の旅人に会ったときに言うのです。「この前シヌアルという平地でたまたま立ち寄った町は、天国のようなところだったよ。水も食べ物もたっぷりあって、人はみんな親切だ。とても高い塔が建っていて遠くからでもわかるから、君も行ってみるといい。」そして旅人の間で評判になった町は、毎年大量の観光客を迎える観光地として《名をあげる》ことになるだろう!と彼らは考えたのでした。



………………ちょっと世俗的すぎかもしれませんが。
でも、私の妄想ですと《自分たちが散らされないように、名を上げるため》に塔を建てようとしていた人間たちの心理が納得いくんですなー。まあ自己満足なんで聞き流して頂いて構わないのですが。

要は、私はこの塔は【人のため】に建てられたものだと思うわけです。巨大な建造物を作るために協力するのも、塔によって威嚇したりアピールする相手も、同じ【人間】だからこそ、神さまは人間たちの団結と町の発展に危機感を覚えたのかもしれません。人間の中でことがおさまってしまうと、神さま必要なくなっちゃいますからね。どっちかというとこれが《不信》や《驕り》のような気もします。
一度このような事態に陥ってしまったら、もう止められないと神さまも悟ったみたいです。
言葉を通じなくするっていうのも、そりゃ最初は混乱するでしょうけども根本的な解決にはなってないので、ただの延命措置に思えます。人間はあたらしい技術や富を手に入れたり、国を作って地位を得るたびに、神さまから離れていくというジレンマにこの先ずっと捕らわれることになります。


さて、町と塔の建設という共通目的のもと団結していた人々は、言葉がいきなり通じなくなってしまったために工事を断念せざるを得なくなりました。工事現場で意志疎通が困難だったら、作業にならないですからね。
やがて経済も回らなくなっていったのでしょう、作りかけの町を放置して、みんな出ていってしまいました。作りかけで放置された町は《バベル》と呼ばれるようになりました。
アッカド語ではバベルは《神の門》という意味ですが、ヘブライ語では《混乱、ごちゃまぜ》という意味になります。言葉が通じなくなってしまった人々の混乱ぶりが伺えます。
《散らされないように》対策で作った塔のために散らされることになってしまうとは、なんというか皮肉なものですね。


さて、先程塔についての情報を調べたとき、Wikipedia先生はこのバベルの塔のモデルも教えてくれましたね。
新アッシリア王国(紀元前934~紀元前609年)の首都、ドゥール・シャルキン(現・コルサバード村近郊)のジッグラトだと書いてありました。

でもこれにも諸説あって、都市バビロン(紀元前3000年紀末~紀元前130年代)にあったジッグラトが伝説化したものだ、という説もあります。

ジッグラトというのは古代メソポタミアで造られていた、日乾煉瓦を使って数階層に組み上げて建てられた巨大な聖塔のことで、「高い所」という意味があります。シュメール語では「エ・ウ・ニル(驚きの家)」と言いまして、一般に地上の神殿又は神殿群に付属しながらジッグラトの頂上にも神殿を備えているそうな。神の訪れる人工の山としてメソポタミアの諸都市に建造されたと考えられていますが、機能的には不明な点も多いらしいです。
一番最初に、メソポタミアで都市や神殿の建設が始まったと見られているのが紀元前5000年頃。メソポタミア南部の都市エリドゥができました。
その少しあと、シュメール・アッカド時代と呼ばれる紀元前3000年期に都市の重要な展開がみられ、ジッグラトもこの頃に現れます。
王さまがいる都市を中心とする専制体制の社会だった当時のメソポタミアでは《大規模な建造物》は王の力の象徴だったようです。エジプトのピラミッドと同じ理屈ですね。

ドゥール・シャルキンのジッグラトは、紀元前8世紀末にアッシリア帝国時代にサルゴン2世によって造営されたものです。ちょーっと時代が下りすぎてる気がするから、やっぱりバベルの塔はバビロンのジッグラトが元ネタなんじゃないの?と思います。
まあその年代でいきますと、塔が作られ始めたのは紀元前3000年くらいということになりますな。

第9章でノアが大洪水後にぶどう栽培を始めた時期を、メソポタミアでのぶどう栽培の歴史から紀元前4000年頃と仮定しましたが。
この流れでいきますと、シヌアルの地で塔の建設が試みられ始めたのが紀元前3000年頃なので、ノアから1000年後です。…うん、なんか辻褄が合ってる気がする。

ちなみに一般的には、クシュの息子ニムロデが塔の建設を指示したのではないかという説が唱えられています。
彼はシヌアルの地にあったバベル(バビロン)、エレク(ウルク)、アカデ(アッカド)の王だったと聖書に記載されていますので、バベルの王だった彼が建設を指示したとしても何ら不思議はありません。
ただそうなると、何人かのニムロデのモデル候補たちの年代とは合わないので、伝説として創作されたのかも。

一応メモ。

①アッシリアの都市ニネヴェを建設したとされるニムス… 実在した一人の人物を指しているのではなく、古代の複数の人物や架空の人物の集まりである可能性が高い。 ただし彼が寵愛したというセミラミス(ニムロデの妻としても伝わっている)のモデルが紀元前9世紀のアッシリア王シャムシ・アダド5世の王妃シャムラマット(在位:紀元前811年~紀元前808年、または紀元前809~紀元前792年)なので、ニムス王の伝説もこのあとにできた可能性あり

②アッカドの狩猟農耕の神ニヌルタ…元来はシュメール地方を中心としてまつられた大地の神で農業や狩猟などの豊穣をつかさどっていたが、都市国家間の争いが激しかった紀元前3000年紀頃から狩猟から戦闘の神として崇められるようになった。ニムロドの名前の元ネタ。

③中アッシリア王国時代アッシリア王 トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:紀元前1244年~紀元前1208年)

④バビロニア王国初代王 ハンムラビ(在位:紀元前1792年頃~紀元前1750年)

⑤ウルク第一王朝王 エンメルカル…ウルク第一王朝のひとつ前の、キシュ第一王朝が没落したのが紀元前2700年頃で、その次のウルク第一王朝の有名な王ギルガメシュが紀元前2600年頃の王と考えられているので、この間の期間で王さまだった人物と思われる。


ほかにも、バベルはエリドゥをモデルにした町なのではないかという説もあります。
現在のイラク南部の、テル・アブ・シャハライン遺跡がエリドゥとされています。
デイヴィッド・ロールさんというイギリスの考古学者さん(元ロックミュージシャン!)などが唱えている説だそうです。

エリドゥは、さっきジッグラトについて調べたとき出てきた、メソポタミアで最初に都市や神殿の建設が始まったと見られている土地です。メソポタミアの初期王朝時代の最初に王権があったのもこのエリドゥです。 紀元前5000年頃に形成され、紀元前2050年頃に衰退したとされているこの都市は、ウバイド文化からシュメール文化に渡って栄えました。エリドゥの都市神エンキ(アダムとイブのところで出てきた)を祀るための神殿が、1000年以上にわたって拡張されていた跡があるそうです。

バベルの塔がエリドゥのジッグラトだと思われる理由としては、

・エリドゥのジッグラトの遺跡が他の都市のものと比べてはるかに大きく、年代も古く、かつ聖書における未完成のバベルの塔の描写に適合していること

・エリドゥを表すシュメール語の文字のひとつである「ヌン・キ」(「強力な場所」の意)が後世ではバビロンを表すものとして理解されていた点

・ベロッソス(紀元前3世紀はじめに活躍したヘレニズム期バビロニアの著述家)によるギリシャ語の王名表の古い版において、「王権が天から下された」最古の町の名前として、「エリドゥ」の代わりに「バビロン」の名が記されている点

などが挙げられています。

とにもかくにも、人が初めて協力して造ろうとした町は打ち捨てられて、人々は散り散りになってしまいました。

さて、そのお話の次からは前回の10章の続きの家系図になっております。
ノアの息子のひとり、セムの子孫に焦点を絞って詳しく書いてあります。
まとめると、


セム(享年602歳)…洪水時100歳、102歳でアルパクシャデ誕生

アルパクシャデ(享年438年)…35歳でシェラフ誕生

シェラフ(享年433歳)…30歳でエベル誕生

エベル(享年464歳)…34歳でペレグ誕生

ペレグ(享年239歳)…30歳でレウ誕生

レウ(享年239歳)…32歳でセルグ誕生

セルグ(享年230歳)…30歳でナホル誕生

ナホル(享年148歳)…29歳でテラ誕生

テラ(享年205歳)…70歳でアブラムとナホルとハラン誕生


こうしてみますと、だんだん寿命が短くなってるのがわかります。第6章で神さまが「人の寿命は120年にしよう」と言ったのに近づいていますね。それも、洪水後に生まれた子たちからどんどん進んでいったような。
やっぱり遺伝子操作か…?洪水によって酸素濃度が薄くなったからか…?
あと、子供を作る年が現代の人間とほぼ同じになったことにも注目です。セムより前の人々は余裕で100歳越えで子供つくってました。

初登場のキャラが何人かおりますね。

レウ(「彼の友人・彼の羊飼い」の意)

セルグ(「低い枝・ねじれ」」の意)

ナホル(「鼻を鳴らす」の意)

テラ(「月」「口臭を爆破する(?)」の意)

「テラ」はラテン語では「陸地・地球・月や金星や火星の大陸」を指しますが、元々は「月」をあらわす言葉だそうです。
テラバイトとかの「テラ」は違う語源で、ギリシャ語で「怪物」です。
もうひとつの、口臭がうんちゃらいうのはよく解りません(^_^;)名前の意味サイトで調べたら出てきましたので、一応載せました。

次のお話の主人公はこのテラの家族のようです。

テラ一家は、カルデア(メソポタミア南東部)のウルという町に住んでいました。
ウルはシュメール人の主要都市で、現在のイラク首都バグダードから約300km南東のところにあります。紀元前4000年紀あたりから都市として拡張をはじめ、ウル第一王朝(紀元前2650~紀元前2400年)とウル第三王朝(紀元前2130~紀元前2021年)の時期はメソポタミア南部一帯の首都となった町です。
つまりは、とっても豊かな町だったわけですな。

ちなみにウルの都市神は月の神ナンナ(アッカド神話ではシン)です。アッカド時代には、メソポタミア緒王のお姫さまがナンナの神官となって月神に仕えるという習慣が生まれました。
またウルと並んで、メソポタミア北部のハランもシンの祭儀の中心だったそうな。
月を司るナンナは大地と大気の神として、また満ち欠けの性質から暦を司る神としてメソポタミアで大人気でした。
最高神エンリル(嵐の神)とニンリル(風の女神。ニンフルサグなどとも同一視される)の第一子で、ニンガル(葦の女神)との間に太陽神ウトゥ(シャマシュ)と金星神イナンナ(イシュタル)をもうけています。
子供たちも人気者な神さまですねー。

つまり何が言いたいって、メソポタミアでは月神信仰が盛んだったわけです。だから「月」という意味のテラは、この土地では結構いい名前だったんではないかなー。


そんなテラには息子が3人おりました。

アブラム (「群衆(多数のもの)の父」「父は高められる」の意)
ナホル(お祖父さんと同じ名前)
ハラン(「山国」の意)

三兄弟のうち、ハランはお父さんより先に亡くなってしまいます。でも、亡くなる前に子供を残していきました。


ロト(「覆い、ベール」「隠された」「自由人?」の意)
ミルカ(「女王」の意)←女の子です
イスカ(?)

残る兄弟、アブラムとナホルはそのあとで奥さんをもらいました。

アブラムの奥さんはサライといいます。

サライ(ヘブライ語で「私の女王」、ペルシャ語で「家、旅館、宮殿」「世間、世界」、ソース不明「女戦士」)

サライは所謂不妊症でしたので、アブラムとの間に子供はいませんでした。

ナホルの奥さんは、なんと亡くなった兄弟ハランの娘ミルカです。……姪と結婚か……なんか色々想像してしまいます(笑)


こんな感じで、テラの息子たちは各々幸せな家庭を築きました。
さて、テラはあるとき、孫のロト、息子アブラムとその妻サライを連れてお引っ越しをすることにします。
なんでいきなり住んでた町を出ることにしたのか、孫のロトは連れてくのにナホル夫妻は連れていかんのか、など色々謎ですが。

とりあえず結論からいうと、テラ一行はカルデアのウルを出てカナンという土地を目指したのですが、ハランという町にたどり着きそこに定住します。

カナンについては、10章でハムの息子カナンについて調べたときに書きましたけども、

http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/聖書を楽しむ【8】(1)

地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯のことです。ちょうど今のイスラエルの場所ですね。
一方ハラン(別名カルラエ)は古代シリア地方の北部にあった町で、現在のトルコ南東部のシャンルウルファ県です。

ウルの遺跡は現在のイラク・ナーシリーヤ市の近くにある、とWikipedia先生に書いてありましたんで、試しにGoogleマップで検索してみました。

イラク・ナーシリーヤ市からイスラエルまで→徒歩で13日と1時間(1543km)

イラク・ナーシリーヤ市からトルコ・シャンルウルファ県まで→徒歩で9日と8時間(1109km)

ナーシリーヤから北西に出発して途中までは同じルートなのですが、ラザーザ湖という湖を越えた辺りで西に曲がるとイスラエル、北西に行くとシャンルウルファに着きます。

もちろん、現在の道路設備がある前提での距離や到達予測時間です。
古代の何もない平原はもっと旅するのには過酷な環境でしたでしょうし、GPSはおろか精密な地図もコンパスもない時代です。
既に老人となっていたテラには殊更辛い旅だったでしょう。

カナンを目指して旅だったテラたちでしたが、迷子になったのかそれとも目標を変更したのか、ハランに到着します。途中までルートは同じですが、決してカナンとハランは距離的に近くはありません。(徒歩で8日と9時間、984km離れています。)
ハランがカナンに行く途中にあった町だった、というわけでもありません。

これまた妄想ですが…
老年のテラは、カナン行きの旅を断念してハランに進路を変更したのではないでしょうか。

ハランはユーフラテス川の上流にある平原にあって、豊かな土壌と十分な雨量があるため早くから農耕が行われた土地でした。
最盛期にはハランは南のダマスカスからの道とニネヴェ・カルケミシュを結ぶ道が交わる地点になり、重要な都市となります。
ちなみにハランの特産品だったStobrumという木は、香りの良い粘液が取れる植物だったそうです。(日本名は不明)古代ローマでも高値で取引されたというその木は、どうやら麻酔みたいなものだと思われます。
薫製してヤシのワインで浸して火をつけるといい匂いがして、その香りを嗅ぎ続けると痛みはないけど脳に作用するそうです。病気の人の睡眠促進剤に使われたりしたんだとか。

前回調べたヨクタンの子孫の繁栄でもわかるとおり、アラビア半島の国々は没薬と乳香の交易で莫大な富を得ていました。
没薬も乳香も、焚いて香として使う他、没薬には殺菌作用・鎮静・鎮痛の効果が、乳香には鎮痛・止血・筋肉の攣縮攣急の緩和といった効能があるとされています。
たぶんStobrumも没薬や乳香のような扱いをされていて、そうだとすると当時のハランはこの木の交易によって富を得、かなり豊かな町だった可能性があります。

旅に行き詰まったテラは、豊かな町であるハランに標準を変えて移住をしたのではないでしょうか。
更に妄想すると、ハランは先ほど言及した月神シンの信仰の中心地であったそうです。バビロニア時代のみならず、古代ローマ時代までその崇拝は続いたそうな。
【月】という名前を冠しているから…というのは少々短絡的ですが、もしもテラがシンの信者だったら信仰の本場に行ってみたいと思うのは納得できます。
とりあえず現時点では、テラはカナンの地を踏むことなくハランに移住し、そこで205年の生涯を終えたことしか聖書には情報がありません。

ちなみに、イスラム教のコーランに出てくるテラ(ターリフ)は偶像造りの名人だそうな。唯一神への信仰を持つことはなく、唯一神の信仰を説く息子アブラハム(イブラーヒーム)を家から追い出したという逸話もあるらしい。
案外、ほんとにテラはナンナ神の信者だったのかも。

さて、テラ亡きあとの息子たちはこのあとどうなるのでしょうか。
続きはまた次回。


今回の楽曲はイーゴリ・ストラヴィンスキー作曲
カンタータ《バベル》

https://youtu.be/tTPjc2Hjpqc

拍手[1回]

2017/01/11 (Wed)
第10章の最終回です。

※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。


前回、セムの五男アラムまで調べてみました。
本日はその子どもたちから見てみます。

・ウツ(「豊穣」の意?)

・フル(「高貴な」の意)

・ゲテル(?)

・マシュ(?)


まずウツは、元々はアラム人の一部族に与えられた名前だそうですが、のちに地名になったようです。
古代エドム王国と同一視される事があります。
エドムは現パレスチナの南南東、アカバ湾から死海にかけての地名です。
そこに住んだというエドム人は古代パレスチナに居住したセム系民族で、現在のエジプト人だそうな。(ほんとかどうかは知りませんが) 後にヘレニズム文化でギリシア語化し、イドマヤ人と呼ばれるようになるそうです。エドムについてはこの先でまた名前が出てきますので簡単に…。

エドムの地には紀元前4000年紀にはすでに半農半遊牧の人々が居住していたのですが、紀元前1900年以降の中期および後期青銅器時代にはほとんど居住の跡がないそうです。かわりに紀元前1200年頃からエジプトの記録に現れるようになり、この頃からセム系のエドム人が居住したと言われています。
紀元前6世紀頃まで、エドム人たちはペトラ(現ヨルダンの死海とアカバ湾の間にある渓谷にある遺跡。ギリシャ語で「崖」を意味する。)を拠点に生活していました。山から銅や鉄などを発掘して輸出したり、交易路を支配してそこを通る商人たちから利益を得たりしていたようです。
紀元前6世紀にエドムはバビロニアに滅ぼされ、その跡地には北アラビアを起源とする遊牧民族であったナバテア人たちが住み着きました。紀元前4世紀頃には1万人程だったナバテア人の人口は、紀元前2世紀頃には爆発的に増えて20万人になったといいます。
紀元前168年にはナバテア王国を建国し、ローマ帝国との衝突をうまく避けつつ領土を広げていきましたが、紀元前63年にローマの属国となり、106年にアラビア属州に併合という形で滅亡しました。


次男フルは、色々説があります。
フラティウス・ヨセフス曰くアルメニアの始祖だそうな。

アルメニア人はこれまた起源が不明の人種で、彼らが住んでいたチグリス川とユーフラテス川の源流近くにあるアルメニア高原はメソポタミアの一部として世界最古の文明発祥地の一つとされています。
しかし文明の成立以前の遺物も発掘されていて、この地にはかなり昔から人が暮らしていたと思われます。

・アラガツ山から前期旧石器時代アブヴィル期(50~60万年前?)の石器猿投
・アルティン山から中石器時代(紀元前20000~紀元前9000年頃)の遺構

その他、アルメニア各地で新石器時代の刀剣や陶器など

紀元前7000年紀には、色々な用途に加工された黒曜石の品がトロス山脈を越えたメソポタミア平野へと輸出されていたと推定されています。この時代から既に、アルメニアではチグリス・ユーフラテス川を利用した河川交易が行われていたんですね。紀元前2000年紀の遺構からは青銅の装飾品も出土しており、さらにはそれらに宝石で象嵌(ぞうがん)を施す技術も生み出されていたそうです。

この土地に王国ができたのは紀元前9世紀頃。何度か名前だけ登場しましたが、『ウラルトゥ』という国です。 ウラルトゥを作ったのはアルメニア人ではなくて、「ウルアトリ」または「ナイリ」と呼ばれていた民族でした。
紀元前1250年頃のアッシリアの文書に登場した彼らは、紀元前860年~紀元前830年に王国を形成しました。
ウラルトゥは、最盛期にはアルメニア高原の全域を含み、東は現在のタブリーズを越え、南はティグリス川、西はユーフラテス川の上流域にまで至る帝国になります。けれども紀元前714~紀元前585年の《ウラルトゥ・アッシリア戦争》やキンメリア人の攻撃で疲弊していた王国は、紀元前585年のスキタイ人の攻撃によって滅びました。このあと、アケメネス朝ペルシアが成立してから、やっとこの地にアルメニア人が定住したといいます。
ウラルトゥを作ったウルアトリ人が外来のインド・ヨーロッパ語族の勢力…西隣のヒッタイト人(マイコープ文化の系統の集団)南隣のフルリ人、アッシリア人、グティ人(アッカド王朝末期にメソポタミアに侵入した人々)…などと混ざり合ったことにより、現代に繋がるアルメニア人が誕生したと考えられています。
アルメニア人による独立国家が現れるのは、紀元前188年とずいぶん先です。「アルメニア王国」は一時は黒海からカスピ海までを統べる大国になりますが、紀元前66年に共和政ローマに敗れ衰退します。

別の人の説ですと、ヘロドトスは「アルメニア人=紀元前7世紀頃ヴァン湖周辺に移住したフリギア人の植民者」だとしています。ただし言語学的にはフリギア語とアルメニア語の関係ははっきりしていません。

また、フルという名前に似てるという理由でガリラヤの海の北方にある『メロムの水』に近いフーラ地方を支持する人もいます。
メロムの水とはメロム市の水源のことで、現在のフラ湖(イスラエル北部、ガリラヤ湖の北にある湖)です。

ちなみに、『歴代誌』ではフルはセムの子として挙げられているようです。


三男ゲテルについては、資料が出てこなくて分かりませんでした。


四男マシュは、モンス・マシウスという山に関係があると出てきました。
ドイツ語のWikipediaをえんやこらと読んだところ、どうやらマシウス山付近に住んでいた「ミュグドニア人」という民族が関係しているようです。ミュグドニア人はイラク北部あたりの地域に古代住んでいたという人々で、コンマゲネ地方(古代アルメニアの地名。 現トルコ共和国の南東部、シリアの国境沿い)に幾つも町を作っていたといいます。
そのうちの一つであるゼウグマはユーフラテスの川幅が狭くなった地点に造られた町で、古くから知られた軍事上の要衝だったそうな。アレクサンダー大王もここを通過して遠征し、紀元前4世紀には軍の駐屯地として栄えたそうです。

コンマゲネが最初に登場するのはアッシリアの文献で、「Kummuhu」と記されています。
紀元前708年、コンマゲネはアッシリアのサルゴン2世の勢力下に置かれ、以降はアッシリアの同盟国の地位を保っていました。紀元前6世紀にアッシリアが滅亡するとメディア、そしてメディアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアの支配下に入ります。紀元前4世紀後半にアレクサンドロス3世によってアケメネス朝が倒され、帝国がディアドコイ戦争によってヘレニズム諸国へ分裂すると、コンマゲネはヘレニズム諸国の一つであるセレウコス朝の州へと移行しました。コンマゲネは北をカッパドキア、西をキリキアに面しており、セレウコス朝にとっても重要な地位を占める州だったようです。

そのセレウコス朝(紀元前312~紀元前63年)というのは、マケドニア王国アレクサンドロス大王の後継者のひとりであったセレウコス1世がオリエントに作った王国なのですが、『征服した領土内で活発な都市建設を行った』のが特徴です。
セレウコス朝だけじゃなくてヘレニズム時代の大きな国にはみんな言えることなのですけれども、セレウコス1世と二代目王のとアンティオコス1世は特に熱心に都市を作ってたみたいです。なんでかっていうと、まずひとつに軍の主力が歩兵のため、連続した都市網の整備が重要だったから。ひとつ町を過ぎたら次の町までしばらく平野、となると進軍も大変ですからね。(RPGではよくあるけど)
もうひとつは、新しく占領した地域の支配を確立するために領内にギリシア人やマケドニア人を定着させる必要があったから。住んでしまったもん勝ち、というわけですね。
でも、たくさん都市を作るにあたって、一から建設していたんじゃお金も時間もすごくかかります。そこで、多くの場合既存の都市を拡張したり、再整備したりしたわけです。
たとえば北メソポタミアに建設されたアンティオキア(ミュグドニアのアンティオキア)は旧ニシビスを基盤として拡張された計画都市でした。
ちなみにアンティオキアというのは、セレウコス1世が父アンティオコスを記念して各地に建てた都市です。だから、アンティオキアという名前の都市はたくさんあります。
小アジア南東部、モンス・マシウスの麓にあった町ニシビスは、古代の城市で現トルコのヌサイビンです。ここは小アジアの山岳道から北部シリアに入る地点に位置していたので、古くから戦略上とか商業の東西交通の要衝でした。そしてこの町も、元々はミュグドニア人たちが造った町のひとつであろう、ということです。

セレウコス1世の在位が紀元前305年~紀元前281年ですので、この期間中にニシビスはアンティオキアに造り直されたというわけですね。
残念ながら元々のニシビスがいつ頃造られた町なのかは、分かりません。そしてミュグドニア人たちがどうなったかも不明です。様々な民族の支配を受けるうちに、混血が進んで同化してしまったのかもしれません。
その後、紀元前162年にコンマゲネ地方は「コンマゲネ王国」として独立しますが、国民の人種的にはマケドニア人の国でした。
その独立は72年、最後の国王アンティオコス4世の死をもって終わりを告げ、以降はローマ帝国のシリア属州に編入されます。

色々書きましたが、つまりマシュは最初にアッシリアに支配される紀元前708年よりも前にコンマゲネ地方に住んでいたミュグドニア人を指すのではないか?というわけです。


さて、次はちょっと戻ってセムの三番目の子アルパクシャデです。
彼についてはあまり記述がなかったのですが、アルバニア人の祖先ではないかという記述がネットにありました。ほかに手がかりもありませんでしたので、とりあえずアルバニア人について調べます。
アルバニア人といえば、私がとっさに思い浮かぶのはモーツァルトのオペラ『Cosi fan tutte』でフェランドとグリエルモが恋人を欺くために変装していた「変な髭の異国人」でした。しかしそれは台本作者であるイタリア人及び、作曲家であるオーストリア人から見て「変」なのであって、アルバニア人にはアルバニア人の歴史と文化があるわけなんですね。

さて、アルバニア人とはどんな民族かというと、東ヨーロッパのバルカン半島南西部に住んでいる人々です。現在のアルバニア共和国は西はアドリア海に面し、北はモンテネグロ、東はマケドニア共和国とコソボ、南にはギリシャと国境を接しています。
アルバニア人は、古代はイリュリア人と呼ばれていた民族でした。紀元前1000年頃から、イリュリア語(インド・ヨーロッパ語族に属する言葉)を話す人々が住むようになったようです。文化的には、南隣のギリシャの影響を受けていました。

考古学の一説によれば、イリュリア人の祖先は青銅器時代の初期にはイリュリア地方に定着し、非インド・ヨーロッパ語族の祖先と混合したと考えられています。ポーキス(コリンティアコス湾の北部にあった、古代ギリシアの一地方)から移住してきた人たちじゃね?という意見の方もお見かけしました。
こうしてイリュリア人が誕生し、

アウタリティア
ダッサレティア
セリドネス
タウランティ

など、古代イリュリア人の部族が形成されました。 さらにもうちょい北に住んでいた

ダルマティア(のちのクロアチア人)
パンノニ

などの部族も、イリュリア部族として分類されたりします。ただしダルマティア人は、言語的にはイリュリア人ですがイリュリア王国には短期間しか所属しませんでした。(紀元前180年にイリュリアから独立)
古代イリュリア人は牛や馬や農産物、銅や鉄製の道具などを作り、それを交易して生活していたようです。
宗教の面では、古墳葬や生け贄の儀式などが行われていたといいます。古代イリュリアにも独自の神様の信仰がありまして、イリュリアの都市リゾン(現モンテネグロのリサン)の守護神はメダウラスという、槍を持って馬の背に乗った姿の神様だったそうです。

そんなイリュリア人たちですが、部族同士は仲が悪くていつもドンパチ喧嘩しておりました。たまにある部族が他の部族を支配したりして、そうして生まれた小さな国が生まれたり滅んだりを繰り返していたようです。
状況が大きく変わったのが紀元前4世紀で、バルデュリスという王さまがイリュリアを強力な国に変えたといいます。紀元前359年、イリュリア王国はマケドニア王国に侵攻して勝利し、マケドニアの一部を支配下に置くことに成功しました。けれども翌年あっさり取り返されてしまいます。マケドニアがアレクサンドロス大王の時代になってから、イリュリアは再び戦いを挑みますがやっぱり負けてしまいました。それから36年間、イリュリアはマケドニアの支配下に置かれた時代がアレクサンドロス大王の死まで続きます。
ちなみにアレクサンドロス大王のペルシア遠征にはイリュリア部族の指導者と兵士が同行したそうです。

再びイリュリアに独立王国ができたのは、紀元前323年にアレクサンドロス大王が亡くなったあとです。
紀元前312年にエピダムノス(現ドゥラス。アルバニア第二の都市)からギリシア人を追放したイリュリアは、紀元前3世紀の終わりには現アルバニアの都市シュコドラ近くに首都をおき、アルバニア北部、モンテネグロ、ヘルツェゴビナを支配するようになります。
新王国を築いたアグロン王は、ローマ帝国にも喧嘩を売るほどのたいそう気の強いお人でしたが、ローマとの戦がこれからというときに死んでしまいました。残されたアグロンの息子ピネスは彼のあとをついでイリュリア王になりましたが、幼すぎて政務ができません。そこでピネスの後見人および摂政になったのが、ピネスのお母さんであるお妃トリテウタ…ではなく、後妻のテウタでした。
このテウタこそ、「イリュリアの女王」と呼ばれた人物です。謎の多い人物で、イッサ(現:ヴィス島)出身のイリュリア人だとか、現在のヴェネツィア近郊に住んでいたリブリニア人の可能性もあるとか、 色々言われています。
彼女は紀元前231年から紀元前228年にかけて、イリュリア(バルカン半島西部)及びその周辺を支配しました。
彼女の政策でおそらく一番有名なのは「海賊の保護」です。国の財政を補うためにローマ商船を襲う海賊たちを保護し、自らもそこから利益を得ていたといいます。イギリスのエリザベス1世よりも1780年以上も前に、「海賊女王」が居たんですね。びっくり。
この行為はもちろんローマを怒らせました。地中海を「我らの海」(マーレ・ノストルム)と呼んでいたローマ人にとって、テウタの海賊たちは非常に不愉快な存在でした。ローマの元老院はテウタに二人の使者を送り、海賊を取り締まるよう要求します。しかし、それに対するテウタの返答は『海賊行為はイリュリアでは合法であり、王であっても止めさせる力はない』というものでした。この時、使者のひとりがテウタに不敬な発言をしたらしく、 ローマに帰る途中でテウタの手の者に殺されてしまいます。この事件にローマの世論は沸騰し、紀元前229年、ローマはイリュリアへ宣戦布告します。所謂《第一次イリュリア戦争》のはじまりです。

ローマは200隻の軍船をコルキラ島(現:ケルキラ)に送り、更に陸軍をアポロニアの遥か北へ上陸させ、海軍と協力してイリュリア各地を平定させつつ首都シュコドラを包囲しました。帝国の本気におののいたのか、テウタの代理で司令官を務めていたデミトリウスは戦うことなくあっさり降伏してしまいます。
テウタは籠城して抵抗しましたが大軍に敵うわけもなく、紀元前227年にローマへ降伏します。ローマはシュコドラ周辺の僅かな領地を除くテウタの旧領を没収、テウタ配下の海賊船がリスッス(現:レジャ)より下ることを禁じ、テウタにローマの命令には従うことと貢ぎ物を収めることを命じました。

これ以降のテウタの消息は不明です。謎に満ちた彼女の人生は、地元の人に伝説として語り継がれているそうです。言い伝えでは、どうやら彼女が宝飾品を隠した秘密の場所がどこかにあるとか。ロマンですねぇ。

ちなみにそのあとのイリュリアですが、先ほど登場しましたテウタの部下でローマに屈したデミトリウスが首謀者の《第二次イリュリア戦争》(紀元前220〜紀元前219年)、そしてイリュリア最後の王ゲンティウスの時代、ローマに侵攻され首都スコドラ(現アルバニアのシュコドラ)が陥落した《第三次イリュリア戦争》(紀元前168年)を経て、ローマの支配に下ります。後に、この地域は、ローマに直接支配される属州イリュリクムとなりました。


さて、最後にアルパクシャデの子孫の紹介です。

シェラフ(?)

エベル(「渡る、横断する」「向こう側、反対側」の意)

ペレグ(「分ける」「分割する」)
ヨクタン(?)


アルパクシャデの子として挙げられているシェラフは、詳細は分かりませんでした。
名前の意味も出てこなかったのですが、版によっては「シェラ」と表記されていて、もしかしたらずいぶん前に出てきたメトシェラの「シェラ(送る)」と同じ意味かもしれません。


その子孫のエベルは、どうやらヘブライ人の始祖となる人物のようです。
エベルという言葉自体は「渡る」「向こう側」の意味で、慣例的にユーフラテス川の向こう側、ユーフラテス川の西の地域、シリアやパレスチナを指したりもするそうです。
彼から発生したヘブライ人は、「過ぎ行く人、渡る人」の意味を持ちます。ヘブライ人は、今後の聖書の主役となる人々ですので後々ゆっくり調べることにしましょう。

エベルは二人の息子たち、ペレグとヨクタンの兄弟をもうけます。
ヨクタンはちょっと名前の意味は出てこなかったのですが、ペレグは「分岐(パーラグ)」から付けられた名前です。「ペレグの時代に地が分けられた」という文がわざわざ書かれていますので、エベルはその意味の名前を子供にそのまんま付けたわけですね。

ペレグの子孫はひとまず置いておいて、この章ではヨクタンの子孫を紹介しています。


・アルモダデ( 「計り知れないもの」「計られない者」「愛される者」「神は愛される」の意)=サヌア王国?

・シェレフ(トルコ語で「名誉」「尊厳」の意?)=アラビア南部のどこか

・ハツァルマベテ(「死の住まい」「死の法廷」の意)=ハドラマウト王国

・エラフ(「神は見ている」の意)=?

・ハドラム(ペルシャ語で「征服されない」の意)=サヌアの南らへん?

・ウザル(「放浪」の意)=サヌア王国

・ディクラ(?)=?

・オバル(「古い時代の不便」の意)=ソマリランドのゼイラorエリトリアのアッサブ


・アビマエル(「マエルの父」の意)=メッカ

・シェバ(「宣誓」「7」の意)=イエメン付近(サバア王国?)

・オフィル(「豊作な土地」の意)=エチオピアorスーダン?

・ハビラ(「砂地」の意)=バーレーンorハウラン(アラビア南西海岸から現イエメン北方の地域)

・ヨバブ(?)=オマーン湾の都市

ヨクタンの13人の子どもたちは、「メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯」に住んだということです。
メシャは、この先で出てくる《イシュマエル人》の「マサ」という人物の名前のつづりの変形だという説がありまして、つまりマサが定住した北アラビアを指すと言われております。
セファルは、正確な場所は定かではありませんが、イエメンのツァファル(紅海の南端から北東へ約160kmの地点、ヒムヤル王国の首都ザファール)か、アラビア海に面したイエメンのマハラ(マフラ)県にある都市という説があります。
つまり、アラビア半島ほぼ全域というわけですね。

13人の子どものうち、アルモダデ、ハドラム、ウザルの3人が『サヌア王国』に関係があります。
人類最古の町のひとつでアラビア半島南西にあり、サバア王国の首都マアリブ(今日のマアリブ県)と紅海を結ぶ十字路に位置していたサヌアは、10世紀頃にはサバア王国の都市として栄えていたそうな。(つまりそれより前の、独立していた時代を指しているのか…?)
古くはウザルの名にちなんで、「アザル」という名前で呼ばれていました。

ハツァルマベテは『ハドラマウト王国』を指すとありましたが、ハドラマウトは以前も出てきましたね。
クシュの子孫サブタがハドラマウト王国の首都サボタ、そして同じくクシュの子孫ラマがハドラマウト北方に住んだランマニテ人のことだと前に出てきました。
更に言うと、シェバとハビラは出てくるのこれで3回目です。

あれ、この13人クシュの一族と居住区域かぶってる?
どうやらヨクタンの子孫であるこの13人の名前は、アラビア半島の交易ルート中継地点のリストからの引用という説があります。
つまり創世記の10章を書いた人は、商人の交易ルートの町の名前リストをまるっと拝借してヨクタンの子孫に当てたというわけですね。
引用元が違うわけなので、クシュの子孫たちと居住区域はかぶっていますが同じ人種ではない可能性もあります。
クシュの子であるハビラは一般的に、古代シバ人の碑文の中で『ハウラン』と呼ばれている地域と結びつけられているそうです。
ハウランはアラビアの南西海岸から現代のイエメンの北方までの地域で、この部族の人々がやがて紅海を渡ってアフリカのジブチやソマリアとして現在知られる地域に移動したのではないか、或いはその逆でアフリカからアラビアに渡ったのではないか、と考えられています。
一方ヨクタンの子のハビラは、同じ南アラビアに関係があるとはされますが、クシュ(エチオピア)との血縁を考えるとハウラン人とは別の地域(おそらくアラビアのもっと北寄りの地域)を支配した人々と考えられています。
こちらのハビラの方が、聖書の第二章で「エデンから流れる川の支流があり、良質な金や松ヤニや、縞瑪瑙が取れる土地」と紹介されていたハビラの名称の起源になったのではと考える人もいるようです。


オバルは、紀元後40年から70年ごろに成立したと推定される『エリュトゥラー海案内記』に記載されていた、エチオピア沿岸のアヴァリタエという町だという説があるそうです。そのアヴァリタエがどこかというのにも諸説ありまして、ソマリランドのゼイラとエリトリアのアッサブが候補に挙がっています。
ソマリランドもエリトリアも、どちらも現在『アフリカの角』と呼ばれているアフリカ大陸東端のソマリア全域とエチオピアの一部などを占める半島にある国です。
『アフリカの角』はとても古い土地で、現人類が進化した場所と言われています。氷河期終わりにはすでに現生人類がエリトリアを占領していたそうです。
エリトリアの最も古い人類の痕跡は200万年前に遡り、アブドゥールの石器(12.5万年前のもの)は海岸の海洋環境にヒトが住んでいたことの最も古い証明になっています。また、岩絵に描かれているのがほとんど家畜化された動物の絵であるため、ここに住んでいた人々は主に牧畜を営んで生活していたと考えられています。

そんな『アフリカの角』に王国が現れたのは紀元前25世紀のことです。「プント国」という国が、現在のジブチ、エチオピア、エリトリア、北部ソマリア、スーダン紅海沿岸の地域にあった………とみられています。というのは、プント国の正確な位置はいまだ不明なのです。とりあえずエジプトの南東にあったとする学者さんが大勢で、ソマリア、ジブチ、エリトリア、スーダンなどに比定されていますが、アラビアにあったと主張する学者さんもいらっしゃいます。
プント国の記録などは、本国ではなくて交易相手のエジプトに残っております。
いちばん古いもので紀元前26世紀、エジプト第4王朝のクフ王の時代にプント国から黄金がもたらされたという記録がある他、その後の王たちもプント国から色々なものを輸入していたそうです。
ハトシェプスト女王(在位:紀元前1479年頃~紀元前1458年頃)はプント国との交易に殊更熱心で、レリーフなどの資料が残っているのも彼女の葬祭殿からでした。当時、プントは「神の国 (Ta netjer)」と呼ばれていたそうです。
エジプトとプントの交易はエジプト第20王朝のおわりまで続きましたが、紀元前1070年頃にエジプト新王国時代が終わると以降交易は断絶してしまい、いつしかプントはおとぎ話に出てくる国のように語られるようになったといいます。

その次に王国の記録が残っているのが、紀元前10~紀元前5世紀にエリトリアと北部エチオピアにあった「ダモト王国」です。かつてダモト王国の都市だったエリトリア南部のタマラには大規模な寺院の遺跡があり、かなり栄えていた国だったようです。
ダモト王国が崩壊したあと、後継の小国による支配の時代がしばらく続きます。

その次に現れた大きな王国は、1世紀~940年頃にエリトリアとエチオピア北部、そしてアラビア半島の紅海沿岸部に栄えた貿易国である「アスクム王国」です。アフリカで初めて独自の硬貨を持った国でもあります。
王国の成り立ちとしては、一般的には現在のイエメンに当たる南アラビアから紅海を越えてきたセム語系のサバ(シェバ)人が中心になって建国されたと考えられています。その一方で、土着の王国である前述のダモト王国を継承した国である説もあります。
王たちは、ソロモン王とシバの女王の子であるメネリク1世の血筋を引いているとして自分たちの正当性を主張し、"negusa nagast"(「王の中の王」)と公称していたそうです。
350年頃にはヌビアのクシュ王国を征服し、最盛期には現在のエリトリア、北部エチオピア、イエメン(ヒムヤル王国)、北部ソマリア、ジブチ、北部スーダンに広がる大国になりました。 この頃のアクスムの住民は、エチオピアと南アラビアにいるセム系民族とハム系民族が混ざり合って構成されていたそうです。
しかし7世紀にイスラム教が成立すると、次第に新興のイスラム帝国に圧迫されていきました。経済的に孤立し弱体化した王国は、950年または1137年に滅亡しました。

長々書きましたが、つまりエチオピア沿岸のアヴァリタエは「プント王国(紀元前25世紀~紀元前10世紀頃)」か「ダモト王国(紀元前10~紀元前5世紀)」か「アスクム王国(1世紀~940年頃)」の港町だったんだろう、ということです。他の国の年代から考えて、たぶんプント王国かダモト王国だろうな、と思います。


その次に名前の挙がっているアビマエルは、現在のメッカのことらしい、とありました。
如何せんごく普通の日本人である私はキリスト教以上にイスラム教のことに関して無知なので、メッカというとイスラム教最大の聖地であるらしい、というくらいしか知りません。

ですのでちょっと調べてみました!!

メッカは、現サウジアラビアのマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域 (アラビア半島の紅海沿岸の地方 ))の州都で正式名は《マッカ・アル=ムカッラマ》、別名《ウンム・アル=クラー「町々の母」)》といいます。雨のほとんど降らない砂漠地帯で、山々にはさまれた狭い谷の中に街があります。
ここに住む人々は古くから湧き水を頼りに生活していたそうですが、メッカの街がいつ出来たかはよく分かりません。2世紀に書かれたクラウディオス・プトレマイオスの「地理学」にはマコラバという名前で記載があるそうなので、少なくともこれより前に街は出来ていたことになります。
この《マコラバ》という名称の由来は「神殿」を意味するミクラーブという言葉であることから、2世紀には既に聖地として認識されていたと考えられます。

何故イスラム教にとってメッカは聖地なのかというと、ズバリ!イスラム教を作ったムハンマドがメッカの生まれだから。でもまあ、これはムハンマドが生まれた570年より後の話です。
ではメッカには何があるのか、といいますと。
街のいちばん低地の中心部に『マスジド・ハラーム』というモスク(イスラム教の礼拝堂)があります。
イスラム教徒の人々はマスジド・ハラームを地上で最も神聖な場所と考えていて、そこにはイスラム教徒しか入ることはできません。ムスリムに変装してメッカを訪れた異教徒が、検問で引っ掛かって処刑されたこともあるそうです。
このモスクは『カアバ神殿』を守るために638年に建てられたものです。イスラム教徒の人々はみんな、この『カアバ神殿』に礼拝するために一日何度もメッカの方向に向かってお祈りしたり、一生に一度はメッカに行ったりするわけです。最近は携帯のGPS機能で方向が分かるようになって、ムスリムさんたちも喜んでいるとか。
そこまでイスラム教徒の皆さんが拝みたがる『カアバ神殿』とは一体なんぞや?と思って調べたところ。
なんとこれまた、元々はイスラム教のものじゃなかったんですよね。尚且つ、キリスト教にもとても関わりのあるものでした。

昔々、イスラム教ができるよりもキリスト教ができるよりも前の時代。
当時のアラビア人は多神教を信仰しておりまして、カアバ神殿もその多神教の神殿でありました。神殿には360体もの神々の像が置かれていたそうです。その中でもいちばん偉い最高神は緊急時の救済を司る『アッラーフ』で、二番目に偉いのが月の女神『アッラート』でした。アッラートはアッラーフの娘で、彼女の「御神体」は、天然ガラスである黒曜石(もしくは隕石由来のテクタイト)でできていると言われている『黒石』でした。アニミズム時代は「月からの隕石」と信じられていたそうです。

イスラム教の伝承によりますと、黒石は神が人類の祖であるアーダム(アダム)とその妻ハウワー(イヴ)に与えたもので、どこに祭壇を築いて神に生け贄を捧げれば良いのかを指し示すものだったそうです。その石を祀るために、神さまは二人に命じて『カアバ神殿』を建設させました。これが地上で最初の寺院となったということです。
天国から降って来たこの石は最初は目映く輝く純粋な白だったのですが、長年に亘り人々の罪業を吸収し続けたために黒くなってしまったのだそうな。
アーダムの祭壇と石は大洪水で失われ一度忘れ去られてしまいますが、大天使ジブリール(ガブリエル)がその在処をイブラーヒーム(アブラハム)に示し再発見されます。イブラーヒームは息子のイスマーイール(イシュマエル)と共に、石を埋め込むための新しい寺院を建設しました。この新しい寺院がメッカのカアバ神殿で、イスマーイールはムハンマドの祖先である、というわけです。
その後、カアバはイスマーイールの子孫であるアラビア人が信仰の中心とする神殿となったのですが、やがてイブラーヒーム親子の真正な一神教は忘れ去られて多神教の神殿となったとされています。
つまり、黒石がアッラートの御神体になったのは後からで、元々は一神教のものだったんですよ、と言ってるわけですね。

イスラム教の創始者で預言者とされているムハンマドが生まれた時代、カアバ神殿はこの地の豪族であるクライシュ族が管理していました。クライシュ族は、遡るとアドナーン族というアラム人がアラブ化した民族だと言われているそうです。メッカの東方で遊牧生活を営んでいたクライシュ族は、5世紀末頃にメッカを征服しカアバ神殿の守護権を手に入れました。

当時メッカはアラビア半島の交易路の十字路だったためにキャラバンの避難所としても使われていて、キャラバンの人々は自分達が信じる多神教の偶像を奉納していました。
クライシュ族出身のムハンマドが興したイスラム教は多神教と偶像を否定していましたが、クルアーンに記されていた上記の伝承からカアバ神殿と黒石は大事なものだと思っていました。
ですんで、630年にムハンマド率いるムスリム軍がメッカを征服して偶像をぜんぶ破壊したときも、カアバ神殿と黒石だけは残しました。(当時のカアバ神殿は、ムハンマドが602年に建て直したもの)
偶像崇拝の禁じられているイスラム教において黒石は唯一拝むことが許されているもので、ムスリムたちは黒石を通して神さまを拝んでいるんだそうです。
特別な事情がない限り、一日に5回(シーア派は3回)メッカのカアバの方角(キブラ)を向いて祈りを捧げることが義務付けられているため、カアバを守護するマスジド・ハラームを除く世界中のすべてのモスクには、必ずキブラを示す壁のくぼみ(ミフラーブ)があります。
イスラム教の根底にはキリスト教と同じ神さまがいるわけですね。今あんなにいがみ合ってるのに。

さて、カアバの話が長くなりました(汗)
とりあえず、2世紀に聖地として認識されていたということはそれよりもかなり昔から街があったことになります。
アラブ地域のイスラム教以前の時代を「ジャーヒリーヤ(無明時代)」と呼びます。とにかく資料が少なくて、あんまり知られていない時代なんですね。

詳しくはよくわからなかったので、とりあえず昔アラビア半島にあった文明や国をざっと書き出しますと

・紀元前2450年~1700年以降 ディルムーン文明
バハレイン島を主な中心地として栄えた文明。メソポタミアとインダス両文明の交差点であり、重要な交易中継地でした。

・紀元前1700年~紀元前400年 リフヤーン王国(ディーダーン王国)
アラビア半島北西部の現在のウラーからヒジュルへの谷間にあった古代アラビアの王国。首都はアルウラ。古代文明を結び付ける主要交易路に沿った戦略的な存在だったようです。

・紀元前8~紀元前7世紀 アラビア半島北西部のアドゥーマートゥー王国
北アラビア北部にあるアラブ居住区ドゥーマ・ジャンダルというところで興った王国。アドゥーマートゥーとは『荒れ地の中心にあるアラブの砦』という意味だそうで、アッシリアの年代記に記載されていました。中心になっていたのはケダールというアラブ部族で、領地の中にあったオアシスを利用してケダールの各支族や他部族を従属させていたようです。女王の国で、歴代5人の女王が国を支配していたと記録に残っています。

・紀元前8~3世紀 ハドラマウト王国
過去の記事参照。首都は涸れ谷イルマにあった街シャブワ。

・紀元前8世紀頃~280年 サバア王国
過去の記事参照。首都マリブはダーナという涸れ谷の中にあった街。

・紀元前800年~紀元前500年 アウサーン王国
現イエメンの古代王国。首都だったハガール・ヤッヒルはマールハという涸れ谷の中にありました。ヘレニズム文明の影響を受けた街には日干し煉瓦で出来た家々が建ち並び、寺院や宮殿がそびえ、隊商用の市場や宿が栄えていたそうです。
シバの碑文によると、この都市はシバの王兼ムカリブ(司祭)のカラビール・ワタールによって紀元前7世紀に破壊されてしまいましたが、紀元前2世紀末に復活して1世紀の初めまで続いていたと考えられています。

・紀元前4世紀~200年 カタバーン王国
バイハーン渓谷に栄えたイエメンの古代王国。首都はティムナ。紀元前1000年期後半で最も代表的な南アラビア古代王国でした。他の王国と同じく、乳香と没薬の交易で莫大な富を得ていましたが、2世紀後半にハドラマウト王国によって属領化されました。

・紀元前8世紀~紀元前1世紀 マイーン王国
シバ族、ハドラマウト族、カタバーン族と並ぶ、セム系古代イエメン4部族のひとつである「マイーン族」の国。首都は涸れ谷ジョウフにあった街カルナーウ。やはり乳香と没薬の交易で栄えました。最盛期は紀元前4~紀元前1世紀で、紀元前2世紀後半にシバ王国に敗れ、紀元前1世紀に滅びます。ちょうどこの時期が
第一次南アラビア王国郡の最初の終焉でした。マイーン語は紀元後100年くらいに途絶えたと言われています。

・紀元前2世紀~2世紀 ナバテア王国
ウツのところで少し出てきた国。エドム人が居なくなったあとに住み着いた遊牧民たちが築いた王国。

・紀元前110~525年 ヒムヤル王国
アラビア半島南部に住んでいたヒムヤル族がイエメンに築いた王国。 ヒムヤル族はサバア人、ミナエア人の文化と商業を継承し、同じ言語を話していたと考えられています。ザファール(現:イッブ)を占領し、首都としました。そして紀元前25年からサバア王国と抗争を続け最終的に280年に征服、その他カタバーン王国を200年頃、ハドラマウト王国を300年頃に征服して併呑し、国土を広げます。しかし南アラビアの王国同士の争いは続き、これがエチオピアのアクスム王国の介入を招き、首都ザファールは3世紀の初めに陥落させられてしまいます。のちにザファールは奪還したのですが、その後ヒムヤル王国の支配はあまり安定しませんでした。陸上交易はヒジャーズの北にあるナバテア人の領土で遮られ、海上交易はローマ帝国がはるかに卓越して居たためです。民族間の争いも不安の種でした。そのなかでも恐らく王国没落の決定打となったのは、6世紀にデュヌワス王が国教をユダヤ教に変えたことです。当時ヒムヤル王国に介入していたアスクム王国はキリスト教でしたので、これに大激怒。アスクム王国はビザンチン帝国の奨励を得てヒムヤル王国を侵略し属領化しました。そしてその50年後、イエメンはサーサーン朝ペルシアに支配されることになり、628年に総督がイスラム教に改宗するとヒムヤル族の多くもイスラム教を受け入れました。

・紀元前6~紀元後数世紀 都市国家ジャルハー
アラビア半島東部にあったらしいけど正確な位置は不明。ナバテア人が支配していた隊商路とはまた別のルートの隊商路の、終点にあたる町だったそうです。イラクへの陸路と海路両方を支配していた大貿易センターで、アラビア湾からアラビア半島北西部、そして地中海へと陸路で運ばれる全ての交易を支配していたそうです。


他にも小さな国はたくさんあったっぽいけど、とりあえずこんなかんじです。


ヨバブはオマーン湾の都市らしい、とのことです。インド洋の一部で、アラビア湾とペルシア湾をつなぐ部分を差します。現在のオマーンはアラビア半島の東端にありますので、たぶんそのあたりなんじゃないでしょうか?
オマーンには紀元前3000年紀に既に町があり、銅を作ってシュメールに輸出していたそうな。(アフダル山脈のバット遺跡)この遺跡が残る地域こそ、紀元前2300年前後から紀元前550年頃までシュメール人の楔形文字文書に登場するマガン(マカン)地方であるというのが多くの学者さんのご意見です。ただしイエメン、上エジプト、ヌビア、スーダン、イラン、パキスタンのあたりとする説なども存在します。
ここにアラブ人がやって来て、住み始めたのは紀元前2世紀頃だそうです。


さて、ひとまずこれで第十章に書かれたノアの子孫たち全部触れたと思います。
改めて十章に出てきた人々を全員まとめてみましょう!


《ヤペテの子孫》
○ゴメル =キンメリア人(南ウクライナ/紀元前15~7世紀)
↓↓↓
・アシュケナズ=小アジア~ヨーロッパ人※マゴグの欄参照

・リファテ=パフレゴニア人(現トルコ黒海沿岸/?~紀元前12)

・トガルマ=フルギア人(現トルコ中西部/紀元前12~7世紀頃)=※メシェク(?)→アルメニア人

○マゴグ=スキタイ人(南ロシア、ウクライナ/?~紀元後3世紀)=※アシュケナズ(?)

○マダイ=メディア人(現在イラン・アフガニスタン・パキスタン西部・トルコ東部/紀元前20~5世紀)→ペルシャ人→アーリア人

○ヤワン =イオニア人(ギリシャ中部、小アジア北西部/紀元前20世紀~)
↓↓↓
・エリシャ=キプロス島民※キティム人の欄参照

・タルシシュ=(トルコorスペイン/?)

・キティム人=キプロス島民(アカイア人?)(キプロス島/紀元前70世紀~)=エリシャ(ヒッタイト人?)

・ドダニム人=ロードス島民(ロドス島/紀元前16世紀~)

○トバル=グルジア人(グルジア共和国付近/?)orティバレニ人(小アジア東部のキリキア/?)

メシェク=モスコイ人(現ロシア共和国付近/?)orフルギア人※トガルマの欄参照

ティラス=エトルリア人(イタリア半島中部・ローマ/?)orエトラシヤ人(エーゲ海周辺/?~紀元前12世紀)

《ハムの子孫》
○ クシュ=クシュ王国(北アフリカのヌビア地方/紀元前3100年頃から紀元前2890年頃)、あるいはキシュ(イラク共和国バービル/紀元前3000年くらい)
↓↓↓
・セバ=メロエ王国(クシュ王国の遷都後 /紀元前591年~350年頃)、あるいは サバア王国(アラビア半島南西部/紀元前8~紀元前2世紀頃)=※シェバ(?)

・ハビラ=アラビア半島の北部か、エジプトの近く(詳細不明)

・サブタ=ハドラマウト王国の首都サボタ(現イエメン共和国領東部/紀元前8~3世紀)

・ラマ=ランマニテ人(ハドラマウト北方/?)
↓↓↓
・・シェバ=サバア王国(※セバの欄参照)
・・デダン =北方アラビア人(アラビアの一部/?)

・サブテカ=?(アラビア南部かエチオピア/?)


★クシュの息子ニムロデとみられる人物・神
①アッシリアの都市ニネヴェを建設したとされるニムス

②アッカドの狩猟農耕の神ニヌルタ

③中アッシリア王国時代アッシリア王 トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:紀元前1244年~紀元前1208年)

④バビロニア王国初代王 ハンムラビ(在位 紀元前1792年頃~紀元前1750年)

⑤ウルク第一王朝王 エンメルカル


彼はシヌアル(今のイラクあたり)にあったという、バベル(バビロン)、エレク(ウルク)、
アカデ(アッカド)の王で、
ここからアシュル(アッシリア)に進出し、ニネベ(アッシリアの都市)、レホボテ・イル(場所不明)、ケラフ(現イラク北部ニーナワー県あたり)、レセン(場所不明)を建てた。

○ミツライム=エジプト王国(紀元前3150年以降)
↓↓↓
・ルデ人=リビア東部の部族←ベルベル人?

・アナミム人=アナミ族(リビア北岸キュレネ)←ベルベル人?

・レハビム人=レハビ族(リビアのどこか)←ベルベル人?

・ナフトヒム人=ナフト族(現エジプト カイロの近く)←ベルベル人?

・パテロス人=エジプト テーベ周辺の部族←ベルベル人?

・カスルヒム人=フィリスティア人(ペリシテ人) ※カフトル人と同一かも

・カフトル人 =フィリスティア人(ペリシテ人)(古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺にミノア島などから移住/紀元前12、13世紀以降)《前1200のカタストロフ》の影響


○プテ=ベルベル人(リビアの先住民/12000年前~)

○カナン=フェニキア人(現レバノン/ 紀元前15世紀頃~)
↓↓↓
・シドン(長子)=フェニキア人(現レバノン サイダ/ 紀元前3000年以降)

・ヘテ=ヒッタイト人(アナトリア半島/紀元前1680年頃~紀元前1190年頃)《前1200のカタストロフ》により滅亡=フルリ人?

・エブス人=エルサレムの先住民(エルサレム/紀元前1900年より前~)

・エモリ人=アムル人(シリア地方ビシュリ山周辺~メソポタミア各地/紀元前20世紀~紀元前13世紀末)バビロン王国などが有名、純血のアムル人は《前1200のカタストロフ》で滅亡

・ギルガシ人=エリコ付近の住人(現ヨルダン川西岸地区の町/紀元前8000年紀~)現パレスチナ自治区

・ヒビ人=フルリ人(オリエント全域/紀元前3000年紀の終わり頃~紀元前13世紀)ミタンニ王国が有名、 青銅器時代の終わり頃《前1200年のカタストロフ》をきっかけに衰退?

・アルキ人=フェニキア人(ベテル(現ベイティン遺跡)の西にあるエイン・アリク/紀元前3500年頃~1900年 or レバノン北部アルカ)

・シニ人=フェニキア人(レバノンのどこか)

・アルワデ人=フェニキア人(現シリア アルワード島/紀元前2000年紀の初期以降)

・ツェマリ人=フェニキア人(現レバノン タラーブルスと現シリア アルワード島の間/?)

・ハマテ人=アラム人(シリア西部オロンテス川中流の都市ハマー/紀元前5、6000年以降)


カナン人の領土は、シドン(現レバノン・サイダ)からゲラル(現イスラエルのテル・アブ・フレイラ遺跡)に向かってガザ(シナイ半島北東部、東地中海に面するパレスチナの一角)に至り、ソドムとゴモラ( 死海東南部に存在する前期青銅器時代の都市遺跡バブ・エ・ドゥラーとヌメイラ)、アデマ(ソドムとゴモラの姉妹都市。場所不明)とツェボイム( エルサレムの東北東約13kmの所にあるワディ・アブー・ダバー(「ハイエナの父の谷」の意)の可能性あり)に向かってレシャ(場所不明)にまで広がった。


《セムの子孫》
○エラム=エラム人(イラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域、エラム王国/ 紀元前3200年頃~紀元前539年以降アケメネス朝ペルシアの支配下)

○アシュル=アッシリア(バビロニア北西に位置するチグリス川沿いの高原地帯/紀元前6000年紀~紀元前609年)混血が進み他の民族と同化

○アルパクシャデ=アルバニア(イリュリア)人?(バルカン半島南西部/紀元前1000年頃~)
↓↓↓
・シェラフ=?
↓↓↓
・・エベル=ヘブライ人の始祖
↓↓↓
・・・ペレグ=?
・・・ヨクタン=?
↓↓↓

・・・・アルモダデ=サヌア王国?( アラビア半島南西/10世紀以前~)

・・・・シェレフ=アラビア南部のどこか

・・・・ハツァルマベテ=ハドラマウト王国( 現イエメン共和国領東部/紀元前8~3世紀) 

・・・・エラフ=?

・・・・ハドラム= サヌア王国( アラビア半島南西/10世紀以前~)


・・・・ウザル=サヌア王国( アラビア半島南西/10世紀以前~)


・・・・ディクラ=?

・・・・オバル=プント王国またはダモト王国のアヴァリタエ(エチオピア沿岸・現ソマリランドのゼイラorエリトリアのアッサブ/ 紀元前25世紀~紀元前10世紀頃 or 紀元前10~紀元前5世紀)

・・・・アビマエル=メッカ(2世紀より前~)

・・・・シェバ=イエメン付近(サバア王国?)
(アラビア半島南西部/紀元前8~紀元前2世紀頃)

・・・・オフィル=エチオピアorスーダン?

・・・・ハビラ=バーレーンorハウラン(アラビア南西海岸から現イエメン北方の地域)(詳細不明)

・・・・ヨバブ(?)=バット遺跡のマガン人(現オマーン/紀元前3000年頃~)or移住してきたアラブ人(紀元前2世紀~)

彼らの定住地はメシャ(北アラビア)からセファル(イエメンのツァファルorマハラ)に及ぶ東の高原地帯だった。


○ルデ =リュディア王国(現トルコ/紀元前7世紀~紀元前547年)

○アラム=アラム人(シリア/紀元前11世紀頃までに移住)
↓↓↓
・ウツ=アラム人の一部・古代エドム王国(現パレスチナ/紀元前1200年頃~紀元前6世紀)

・フル=ウラルトゥ王国(アルメニア/紀元前9世紀頃~紀元前585年)orフリギア人植民者(ヴァン湖周辺/紀元前7世紀頃)or フーラ地方(イスラエル北部/?)

・ゲテル=?

・マシュ=ミュグドニア人(現トルコ共和国の南東部、シリアの国境沿い/?~紀元前708年)



こうしてみるとノアは超大家族ですね!!
無事に大洪水を切り抜けて、家族もたくさん増えて、とりあえずめでたしめでたしです。

人間は果たしてこれからどうなっていくのでしょう?
楽しみですね!(笑)

では本日はここまで。
楽曲紹介は今回おやすみさせていただきますm(__)m

拍手[1回]

2016/07/20 (Wed)
まだまだ続いています。早く先のお話に進みたいなー…。


※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。



前回↓↓↓

聖書を楽しむ【8】(1)
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%908%E3%80%91%EF%BC%881%EF%BC%89

聖書を楽しむ【8】(2)
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%908%E3%80%91%EF%BC%882%EF%BC%89




ヤペテ、ハムときて最後に長男セムの子孫の紹介です。
子孫の説明の前に、セムについて説明が少しあります。
「セムはエベルのすべての子孫の先祖で、ヤペテの兄です。」
エベルはセムの三男アルパクシャデの孫ですので、セムにとってはひ孫になりますね。
なんでわざわざエベルの名前を出したのか?きっと詳しく読んでみたらわかることでしょう。
ヤペテの兄、と改めて言っているのも気になります。ハムの兄ではない、つまりセムが長男ですよ、ということなのでしょうか?それとも「呪われてるハムなんて兄弟なんかじゃねーよ」ってことでしょうか?
ともかく一人ずつ子孫を調べていきます。

今回、ヤペテの子孫が結構たくさん登場します。
ですので、わからなくなったら以下もご参照ください。
↓↓↓
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/聖書を楽しむ【6】


セムの子供たちとして挙げられているのが

・エラム(エラム人のこと)

・アシュル(「支持」「城壁」の意?)

・アルパクシャデ

・ルデ(「闘争」の意)

・アラム(古代シリアの別名)

の5人です。


まずエラムは、メソポタミアの東、現代のフーゼスターンなどを含むイラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域を指します。エラム人自身は自らをハタミ、又はハルタミと呼び、土地を指す際にはハルタムティ(Haltamti、後に訛ってアタムティAtamti)と呼んでいました。シュメール語のエラムはこれの転訛したものだそうな。
関係ないかもしれないけど、ペルシア語でエラムは「楽園」という意味です。聖書のエラムからきている言葉だったら面白いな。

エラム人の話していたエラム語は系統不明の言語で、謎の多い民族です。原エラム文字と呼ばれる絵文字が現在のアフガニスタン近くでも見つかっていて、エラム文化はイラン高原各地に影響を与えていたと考えられています。

主に紀元前3200年頃からエラム語の記録が存在し既にスーサ(現イラン西南部)に都市を築いていたエラム人は、紀元前2700年頃に最初の王朝・アワン王朝を作ります。
この時代エラム地方はアッカド帝国やウル第3王朝の支配下にあったのですが、やられっぱなしではなくてちょこちょこやり返していました。
アワン朝の王はシュメールを3代に渡って支配したと伝えられておりますが、これらの説話にどの程度史実が含まれているのかは分かりません。
アワン朝の後にはハマズィ朝(紀元前2500~紀元前2400年)が再びシュメールを支配したといいます。
シュメールの都市国家の中にはその初期にエラムの支配を受けたという伝説を持ったものが結構あるそうです。

その次のシュマシュキ朝(紀元前2030~紀元前1850年)のときに、エラム人たちは逆にウルに侵攻して、遂にウル第3王朝を滅亡させます。紀元前2004年(または紀元前1940年)のことです。エラム人たちは、ウルの王さまを遥か東方へ連行してしまったと伝えられています。
けれども、それより前に王都から離脱していた王の後継者イシュビ・エッラ( アムル系の王。アッカド人とする説もある)のイシン第1王朝(南部メソポタミアのアムル人国家)にウルを奪回されてしまいました。栄華は長くは続かなかったですねー…。
その後シュマシュキ朝はメソポタミア各地に成立したアムル系王朝と対立し、戦闘を繰り返します。
(アムル人は、聖書ではカナンの子孫エモリ人です)

紀元前19世紀頃になると、エパルティ朝がエラムの支配権を握ります。この王朝はエラムの主要部分を含んでいたと考えられていますが、相変わらず主導権は取ったり取られたりの不安定な状態だったみたいです。
3代目の王以降、エパルティの王さまはスッカル・マフ(シュメール語で大総督の意)という称号を用いていて、メソポタミアの王朝と何らかの宗属関係があったとみられています。
また、古代バビロニアの都市ラルサではスサ(エラム王国の王都)北部の別のエラム人国家の王であるクドゥル・マブクが、ラルサ王ツィリ・アダドを追放して支配権を奪い取ったりしてました。彼は「アムルの父」と名乗ったそうです。エラム人なのに。
クドゥル・マブクとその後継者はバビロン第1王朝のハンムラビ王の時代まで、たびたびバビロンとドンパチやってたみたいです。

そうこうしてるうちに、インド・ヨーロッパ系集団やカッシート人、フルリ人の移動などによりエラムは混乱に陥ります。この時代のエラム各地にはフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出たようです。(フルリ人は聖書ではこれまたカナンの子孫ヒビ人)
エパルティ王朝は混乱の中、紀元前1600年に滅亡します。
アワン王朝成立からエパルティ王朝滅亡まで(紀元前2700~紀元前1600年)を『古エラム時代(古王国時代)』といいます。

エパルティ王朝の次に生まれた強力なエラムの国はイゲ・ハルキ王朝です。
キディヌ朝を経て紀元前1600年頃に成立したイゲ・ハルキ朝は、古エラム時代に侵入したフルリ人と何らかの関係があると考えられております。
やっぱりバビロニアとドンパチやったり交渉したり、濃ゆいお付き合いをしていたみたいです。
紀元前1320年には一時カッシート朝(バビロン第3王朝)に服属したのですが、紀元前1230年頃にはやり返して同王朝を破り、更にアッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世(ニムロデのモデル説のうちの一つだった王さま)の圧迫によって弱体化したカッシート朝へ、二度にわたって侵攻し滅亡させます。漁夫の利ですね。
しかし間もなく、今度はトゥクルティ・ニヌルタ1世率いるアッシリアと戦って破れ、イゲ・ハルキ朝はバビロニアから駆逐されてしまいます。

次に紀元前13世紀末から紀元前12世紀にかけてシュトルク朝が成立して、バビロニアに再び進出を図ります。2代目の王さまシュトルク・ナフンテ1世は、バビロンを陥落させてバビロニアを支配下におくことに成功し、マルドゥク神像やらハンムラビ法典の石碑やらのお宝を強奪してスサへ持ち帰りました。
(ハンムラビ法典は後に現代の考古学者によってスサで発見される。つまりここでエラムに強奪されなければ、貴重な資料が失われてた可能性も!)
アッシリアの政治混乱もあいまって、エラムはこの時期オリエントで最も強大な国家となります。
けれども間もなくバビロニアに新たに勃興したイシン第2王朝(バビロン第4王朝)の英王ネブカドネザル1世によってエラム軍は打ち破られ、スサを占領されるとともにマルドゥク神像を奪還されてしまいました。

それ以降、エラム人は300年にわたる弱体化と混乱の時代を迎えることになります。紀元前1600年頃のイゲ・ハルキ朝の成立~紀元前1100年頃のイシン第2王朝のネブカドネザル1世によるエラム侵攻までの時代を、中エラム時代といいます。そしてこれ以降の時代を新エラム時代と呼びます。

そこからしばらく時間が経ちまして、紀元前8世紀。また新たにフンバンタラ朝という王朝ができました。
今度の王朝は、戦って政略するだけではありません。当時急激に拡大していたアッシリアに対抗するために、エラムはバビロニアを熱心に支援します。今までバビロニアには散々辛酸を舐めさせられてきましたけれども、敵の敵は味方ってことですね。
バビロニアは紀元前729年にアッシリアのティグラト・ピレセル3世に征服されていたのですが、エラムの支援の元でメロダク・バルアダン2世がアッシリアに反乱を起こし、自立しました。アッシリア王サルゴン2世はメロダク・バルアダン2世を攻撃して再びバビロニアを征服しましたが、この時敗走したメロダク・バルアダン2世が助けを求めたのもこれまたエラムでした。エラム人は彼を匿って、紀元前703年頃に再び彼をバビロニア王に返り咲かせました。
しかし今度はサルゴン2世の息子センナケリブ王の遠征によって、バビロニアは再びアッシリアに併合さ れてしまいました。
その後もエラムはたびたびバビロニアを支援して、アッシリアと敵対します。アッシリアはそのたびにバビロニアを取り返してたんですけども、いい加減うざかったんでしょうね。アッシュールバニパルという王さまのときに、アッシリアはエラムに対して本格的な攻撃に乗り出しました。
紀元前647年、アッシリアVSエラムの『スサの戦い』で多大な被害を受けたエラムは、その後紀元前640年にスサを占領され、大国としての歴史に幕を閉じます。
まあアッシリアも国内ごたごたでエラムにばっかりかまけてる暇がなかったものですから、しばらくするとエラム王国は復活しちゃうんですけど。もう最盛期ほどの勢いがないエラムの王国は、スサを中心とするスシアナ地方だけに縮小されました。
少し時代が下ってアッシリア帝国が没落したあとの 紀元前539年、スサはアケメネス朝ペルシアの支配下に置かれ、これ以降エラム王国は歴史から姿を消します。ただ、イラン高原において最も高い文化を誇った集団の一つであったエラムの文化、兄弟が王位を継ぐ相続制度、独特の政治制度などはその後アケメネス朝時代でも受け継がれ、メディアやペルシアに大きな影響を及ぼしていくことになります。


さて次ですが、次男のアシュルは上記のエラムの項でも大活躍で、これまで何度も話に出てきたアッシリアのことです。ようやく登場といったところですね。

ハムの子孫の説明のとき、クシュの子ニムロデがアシュルに進出したとありまして、その際に軽くアッシリアの説明はいたしましたけれども、

聖書を楽しむ【7】ニムロデ登場の回
↓↓↓
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%907%E3%80%91

このときは初期の歴史だけピックアップしていましたので、今回それ以降も少し触れてみたいと思います。

そもそもアシュルの地とは、バビロニアの北西に位置するチグリス川沿いの高原地帯のことです。
ここはバビロニアのようなメソポタミア低地域と違って雨がたくさん降るため、畑を作るのにわざわざ川の水を汲み上げなくてもよい土地です。
つまりバビロニアが常に悩まされてきた農地の塩類集積とは無縁で、塩分に弱い小麦を豊富に生産できました。更に肥沃な三日月地帯の中央部でもあるため、メソポタミアとアナトリア半島、シリア、イラン高原といったオリエント各地を結ぶ交易の中継地でもあったのです。

アッシリアの歴史は、主に言語の変化、即ちアッカド語北方方言であるアッシリア語の時代変化に基づいて4つに時期区分される…とウィキペディアに書いてありました。 つまり、アッシリア自体はアッカドの流れを汲んでるということですね。アッカド語は現在知られているセム語派(西アジア、北アフリカ地域)
の最も古い言語とされております。
ただし、歴史学の上で言ういわゆる「アッシリア帝国」がセム系だったかというとそうでもないようです。アッシリア帝国の支配階級となった人々は、ハムの子カナンの子孫であるエモリ人…つまりアムル人でしたので、そこら辺は複雑です。たぶん、アシュル族としてのアッシリア人は生き残れなかったと思われます。生き残りも、混血が進んで他の民族と同化してしまったのでしょう。

とりあえず、アシュルの地に興った王国と、そこから広がったアッシリア帝国の流れをざっと見てみます。

①初期アッシリア時代…基本的に文字史料の無い時代。ニムロド紹介のときにちょこっと調べたあたり。アッカド帝国(紀元前2334年頃~)の時代には都市国家の形になっていたらしいです。

②古アッシリア時代…アッシリア語が古アッシリア語と呼ばれる形であった時代。(紀元前1950年頃~紀元前15世紀頃)
紀元前1813年にアッシリアを征服して王となったアムル人(聖書でいうとエモリ人)のシャムシ・アダド1世が、アッシリアをオリエント最大の王国にします。ただし後継者が巨大な王国を維持できず崩壊、 小規模勢力に戻ってしまいました。
ちなみにアムル人の王国バビロンがアッシリアを征服したのが紀元前1757年頃。シュメールとアッカドも制圧してメソポタミア地方を統一、 南半分のシュメールと北半分のアッカドをあわせた領域をバビロニアと呼ぶようになり、アッカド語がバビロニアの言語となります。

③中アッシリア時代…アッシリア語が中アッシリア語と呼ばれる形に変化した時代。(紀元前14世紀初頭~紀元前10世紀の末頃)
初期はミタンニ(フルリ人)王国の支配下にありましたが、アッシュール・ウバリト1世の時代に独立。
当時オリエント世界に君臨していたヒッタイト、ミタンニ、バビロニア、エジプト等の列強諸国に食い込み、大国として台頭します。
トゥクルティ・ニヌルタ1世(ニムロド候補のひとり)の時代にはバビロニアを征服。が、彼の死後に《前1200年のカタストロフ》が起こり、政治混乱によって勢力が減衰しました。
この時代から始まったバビロニアへの政治介入と征服によって、バビロニア文化が取り入れられるようになります。またアッシュール神(アッシリアの首都を神格化した神)をシュメールのエンリル神と習合させたり、共通の宗教儀礼を決めたりするなど宗教面の整備が進みました。

④新アッシリア時代…アッシリア語が新アッシリア語と呼ばれた形であった紀元前10世紀の末頃から滅亡までの時代。
この時代に、アッシリアは全オリエント世界を支配する初の帝国になります。その礎を築いたのは、ティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744年~紀元前727年)という王さまです。アッカド語ではトゥクルティ・アピル・エシャラという名前で、「我が頼りとするはエシャラの息子」と言う意味です。弱体化していたアッシリアの王権を強化し、アッシリアの最盛期と言われる時代の端緒を開きました。彼はバビロニアやヘブライ人の記録では「プル」という蔑称で呼ばれていて、被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から相当嫌われていたようです。ちなみにプルは「区分」という意味です。…いまいちどんな嫌味なのか、わからないですが。

アッシリアは帝国を維持するために色々な策を講じましたが、最も有名なものの一つが大量捕囚政策です。つまり被征服民の強制移住ですね。それ自体は他の国もやってましたが、アッシリアはとにかく規模がデカかったのです。アッシリア王たちは盛んに遠征を行って次々領地を拡大していったのですが、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的として捕囚政策はたびたび行われたようです。

さて、この時代のアッシリアの悩みの種はバビロニアでした。上記のエラムのところでも説明しましたけれども、征服したバビロニアがことあるごとにエラムを味方につけて反乱を起こしてきたんですね。
アッシリアはアッシュールバニパル王の時《スサの戦い》でエラムを滅亡させたのですが、彼の治世の後半からアッシリアは急激に衰退していき、彼の死後20年あまりでアッシリアは滅亡してしまいます。

衰退の原因が何であるのかは分かっていませんが、王家の身内の中でのいざこざとか、広すぎる領地や多様な征服民族を支配しきれなくなったとか、色々な問題が噴出したものとも考えられています。
更に北方からスキタイ等の外敵に圧迫されたのも原因の一端と言われています。スキタイ人、だいぶ前に出てきましたね。ヤペテの長子ゴメルの息子アシュケナズ、あるいはヤペテの次男マゴグを指します。
紀元前625年に新バビロニアが独立すると衰退の勢いはさらに増し、紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落しました。(ニネヴェの戦い)
そのあと亡命政権がハランに誕生してアッシュール・ウバリト2世が即位し、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦しましたが、紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡しました。


さて、次は順番どおりにいくと三男のアルパクシャデなんですけども、彼の系譜からお話が先に進みますので先に四男のルデから紹介します。

ルデは、ハムの子孫ミツライム(エジプト人)の子孫のルデ人とは別人です。
こちらのルデはリュディア人を指します。

リュディア地方はアナトリア(現トルコ)の、北はミュシア、南はカリア、東はフリギアに接する範囲です。そこを中心としたリュディア王国は紀元前7世紀~紀元前547年に栄え、世界で初めて硬貨(コイン)を導入した国として知られています。
《前1200年のカタストロフ》によってヒッタイトが滅亡し、南東アナトリアにシリア・ヒッタイト(紀元前1180年~紀元前700年頃)と呼ばれる国家群を形成したのですけれども、これらの国家群の中からリュディアなどが台頭してきました。

リュディアは東側の大国フリギアと西側のギリシャの間に挟まれていたので交易するのに優位でした。あと領内で金が採れたのでお金持ちになれたんですね。
あ、フリギアとギリシャも以前紹介しましたね。フリギアはヤペテの長子ゴメルの三男トガルマ、ギリシャはヤペテの四男ヤワンです。
インド・ヨーロッパ語族であるフリギア人とギリシャ人がお隣さんなので、リュディアもギリシャの文化に近かったんじゃないかと思われます。
ヘロドトスの記録によれば、ここに住んでた人々は元は「マイオニア人」と呼ばれていたそうです。
マイオニア人の最初の王さまであるマーネスに由来してるのでしょうか?ちなみにマーネス王はゼウスとガイアの息子であると信じられていたようです。(死者の魂を神格化した「マネス」という神さまがギリシャ神話にいますが、たぶん関係ない)
ギリシャ人の自称である「イオニア」と、なにか関係あるのでしょうか。興味深いところです。

「マイオニア人」が「リュディア人」と呼ばれるようになったのには逸話がありまして、それに関して少し気になる点があります。話せば長いんですけれども、まあ今さらなので記載しておきます(爆)

ヘロドトスによりますとリュディア人という名前は「アティス朝」を開いたリュドスという王さまに由来しているそうなのですが、このリュドスの父親で王朝の名前にもなっているアティスはギリシャ神話のアッティス(フリギアを起源とする死と再生の神。一部の像などでは有翼の男性として表される。)だという話です。 …英語のウィキペディアをエキサイト翻訳で無理矢理読んだので、ちょっと違うところもあるかもしれません。
アッティスの名前の意味はリュディア語で「美少年」のことをいう言葉であるとも、フリギア語で「山羊」を意味するアッタグスに由来するとも言われます。
神さまの子孫が国の王になるという話自体は、神話ではよくある話ですね。問題はその中身です。

アッティスはフリギア出身という身の上のせいか、ギリシャの中ではちと異彩を放つ神さまです。
アッティスの母親コテュトーはローマ神話に出てくるトラキア(バルカン半島南東部、現ブルガリアの一部)の大地・豊饒・多産・病気治療の女神で、治癒・預言・戦いを司り、アナトリア半島のフリギアで崇拝されていた大地母神・キュベレに関連づけられています。トラキアが紀元前6世紀頃からギリシャの植民地支配を受けてて、そのあとアケネメス朝ペルシアに支配されたからですかね。
キュベレ自体はとても古い神で、様々な地域で色々な女神と同一視されました。( ギリシャ神話のレア、メソポタミア神話のイシュタル、ギリシャ神話のアグディスティス、ローマ神話のゲネトリクスなど)
ローマでは「マグナ・マーテル(大いなる母)」と呼ばれていたそうです。

とりあえず、そんなコテュトーの息子がアッティスという、フリギアの神さまでした。
アッティスをキュベレの息子ではなく恋人とする説もあり、両方だとも言われています。

アッティスは、元は両性有具だったアグディスティス(キュベレ)から切除された男性器から生まれました。正確に言うと、切除された性器からアーモンド、またはザクロの木が生え、その実をサンガリオ河神の娘ナーナが取り込んで身籠り生まれたのですけども、いずれにしても丸々神の力を引き継げたわけではないので『半神』の扱いです。
牡の山羊に世話され生き延びた赤子は、人間の里親に育てられ美しい青年に成長します。
キュベレ(紛らわしいので、以下キュベレに統一します)は、成長したアッティスを一目見て恋に落ちてしまいました。実の息子だとか、そんなの神さまの世界ではお構い無しです。
けれどもこのときアッティスは人間として育てられていたので、ちゃんと人間の里親がおりました。
里親はペシヌス(フリギアの大商業都市)の王女さまと彼を結婚させようとします。一説ではこのときのペシヌス王は、ギリシャ神話の逸話で有名なミダス王だとも言われております。
そこで怒ったのがキュベレです。
息子であり想い人であるアッティスを渡したくない大地母神は、結婚式の真っ最中だったアッティスに強力なエクスタシーを与えました。性的絶頂と宗教的体験における脱魂、両方だと思われます。いきなり人間の精神では処理出来ないほどのエクスタシーに襲われたアッティスは正気を失い、自分の男性器を切り取って絶命します。後悔したキュベレはアッティスを復活させ、更に不老不死にしたということです。
神として復活したアッティスはキュベレの付き人兼恋人になりました。

……というのがリュドス王の父親という設定になっている神さまのお話なのですけれども。
これまた「処女懐妊」やら「半神」やら「復活」やら、新訳のモチーフがたくさん出てきますね。
彼女の熱狂的信者はコリュパンテスという、自ら完全に去勢した男性でした。コリュパンテスは女性の服を着て、社会的にも女性とみなされたそうな。

キュベレ信仰は、その祭りの熱狂性から、デュオニュソス崇拝と密接に関連づけられました。
以前調べましたが、《神の息子》の意味の名を持ち毎年冬に死んで春に生まれかわる葡萄の神は、分かりやすくイエスの神性のモデルでした。植物神という意味では、ニムロデの息子タンムズも同じでしょう。タンムズ、すなわちシュメールの牧神ドゥムジは、フェニキアに渡り植物神アドニスになります。地母神アフロディテの愛人で、名は「主」を意味し、木々と共に毎年死んでまた春に復活します。

………つまり何が言いたいかって、このリュディアという国が根本に持っていた宗教はそういう宗教なんですよ。他の国にも言えますけどもキリスト教が受け入れられやすかったのはこういう宗教を昔から持ってた所で、きっと多くの国の人間にとって「どこか懐かしい」感があったからだと思うんですよ。
日本に神道や仏教が浸透しやすかったのも、日本に元々いた神さまに近いものがあったからなんじゃないかなあ。

さて、だいぶ話が横道に逸れてしまいました。
とにかくそういう血筋だと信じられていたリュドスという王さまが、リュディアの根底を築いたんですね。

けれどもアティス朝については全然資料が残ってなくて、詳細はさっぱり不明です。
その後、これまた伝説的ですけれども、ヘラクレスと奴隷女を祖とするというヘラクレス家という一族が『ヘラクレス朝』を開いて505年間にわたりリュディアを統治したそうです。
そのまたあとに、ヘラクレス朝最後の王さまカンダウレス(在位:紀元前733~716年、または紀元前728~711年、または紀元前680年頃没)を殺害して王になったギュゲス(在位:紀元前680年~640年、または紀元前716~678年)が開いた『メルムナデス朝』が始まります。
リュディアが栄えだして記録に残るようになった紀元前7世紀からをリュディア王国の始まりとするなら、このメルムナデス朝がスタート地点と言えましょう。

ギュゲス王は、アケメネス朝の王キュロス2世が書いた『キュロスの円筒印章』に登場しております。
それによりますと、紀元前666年頃アッシリア王アッシュールバニパルの元にリュディア王ギュゲスから使者があり、彼の王国にキンメリア人が侵入してくるので助けてくれ、と言ってきそうです。
キンメリア人は聖書だとヤペテの長男ゴメルのことでしたね。
キンメリア人のリュディア侵入にも理由があって、紀元前7世紀の後半にリュディアのお隣さんだったフリギアがキンメリア人の支配に屈してしまったんです。
フリギアを手に入れたキンメリア人たちの、次の標的がお隣のリュディアだったわけですね。
助けを乞われたアッシリアはリュディアを支援し、それによってギュゲスはキンメリア人に勝つことができたので、捕らえたキンメリア人の族長2名を貢物と共にアッシリアに送りました。
しかし勝利によって自信を持ったギュゲスはアッシリアへの貢納を打ち切ってしまい、更にアッシリアと敵対していたエジプトと同盟を結びます。なんとも恩知らずな話です。
当然アッシリアは怒りますね。アッシュールバニパル王は今度はキンメリア人と同盟を結んで支援し、リュディアを征服させました。ギュゲス王は戦いで戦死してしまい、彼の息子アルデュスが王になると、アルデュスはアッシリアに謝罪して服従を誓ったといいます。

アルデュスの後、その息子サデュアッテスが王位を継いだのですが、彼はその治世の間にキンメリア人を駆逐しスミルナ(現・イズミル。エーゲ海に面するトルコの都市)を占領するなどして勢力を拡張しました。

そのまた後、アルデュスの息子アリュアッテスが王位を継ぎます。世界初のリュディア貨幣ができたのはこの時代です。一番古いエレクトロン(琥珀)貨と呼ばれる貨幣は、川から採集される砂金の粒に刻印を打ったものだったそうです。記録だけで実物はないですけれども。現存する最古のリュディア貨幣は、金銀の合金で作られたギリシャ様式のものだそうな。

この頃にはアッシリアは新バビロニアとメディア王国に滅ぼされていました。(メディアはヤペテの三男マダイです。)
アッシリア帝国を滅ぼしたメディア王国は、リュディアにも侵入してきました。しかしその戦争中に突然日食が発生し、両軍がびっくりして怯えてしまったので、ハリュス川(現在のクズルウルマク川)を国境とする合意を結んで休戦したと伝えられています。(ハリュス川の戦い /紀元前585年5月28日)
長らくアッシリアの支配下にあったリュディアはアッシリアが滅亡したことで更に勢力を増し、アナトリア半島の西半分を領有する大国となりました。この頃のリュディアは、イオニア同盟の諸都市と密接な関係を持っていたようです。
イオニア同盟、またはパンイオニア同盟は、紀元前800年頃アナトリア半島のイオニア地方(現トルコ)の諸都市を中心に結成された同盟です。基本的に宗教的・文化的同盟で、その象徴だったのがパンイオニアという、ポセイドンを祀っているミュカレ山にある《パンイオニウム》と呼ばれる聖域で開催されていたお祭りでした。ちなみにこの祭はアジアのイオニア人が行っていただけで、他のイオニア人たちは毎夏デロス島のアポロン神殿に詣でていたようです。
イオニア同盟はがっちり同盟を組んでいたわけでなくて、「同じ宗教の仲間だよ!」くらいのニュアンスでした。リュディアはイオニア同盟には入ってませんでしたが、イオニア同盟の国とリュディアは縁が深かったわけです。

さて、アリュアッテスの次に王位を継いだのは息子のクロイソスでした。彼は様々な理由をつけてエーゲ海東岸のギリシア人都市を攻撃し、ほぼ全域を征服します。これによってリュキア(現トルコ南沿岸のアンタルヤ県とムーラ県の地域)を除くアナトリア半島西部の殆どの地域がリュディアの支配下に入りました。
クロイソスはイオニア人をはじめ各地のギリシア都市国家と密接に関わったらしく、エーゲ海島嶼部のギリシア人都市との艦隊建造に関わる交渉やアテナイ人ソロンとの対話、フリギア王家の末裔アドラストスとの交流、デルフォイへの奉納など多岐にわたる説話がヘロドトスによって伝えられております。父の代から続く、上記のイオニア同盟とも関わりがあったかもしれませんね。
さて、クロイソスの時代にリュディアはアッシリア亡きあとのオリエントを構成する四大王国のひとつとなったのですが(残りはカルデア(新バビロニア)、メディア 、エジプト)、この均衡があるとき崩れます。
アケメネス朝ペルシアの王キュロス2世が、メディア王国を滅ぼしたのです。怒ったクロイソスは新バビロニアやエジプト、それにギリシャのスパルタと同盟を結び、アケメネス朝に侵攻しました。
しかし戦いの末、結局リュディアは負けてしまって、帝国としての滅びを迎えます。リュディアの首都サルディスはアケメネス朝の拠点となり、クロイソスはキュロス2世の参謀となったそうな。(ヘロドトス談)

余談ですけど、リュディアとの戦いの中でペルシア軍は馬のかわりにラクダを使ったらしいです。リュディア軍の馬はラクダの強烈な体臭に怯んで逃走してしまい、そのおかげでリュディアは追い詰められたということです。
……ちなみに対エジプトのときは、盾に生きたネコをくくりつけたそうですよ!(怒)ネコを一番早く家畜化したエジプト人はネコを非常に可愛がっていて、一部の地域では猫神バステトは最高神として崇められていました。なのでネコを人質にされたエジプト人は攻撃を躊躇ってしまったそうな。ネコ好きの敵ですな!許すまじ。とりあえず、ペルシアは戦に動物をよく取り入れてたんですな。


さて、先に進みます。
五男のアラムは、そのままアラム人を指します。地名としては古代シリアの別名になります。
アラム人はアラビア半島からやってきたセム系の遊牧民で、紀元前11世紀頃までにティル・バルシップ、サマル(現在のジンジルリ)、アルパド、ビト・アディニなどを拠点とするユーフラテス川上流に定住しました。
その後シリアに進出して新たな都市国家を形成したのですが、当初はハマー、その後はダマスカスがアラム人勢力の中心となりました。
ハマーという地名は実は前回紹介済みです。カナンの一番末の息子ハマテは、ここの住人を指していたのではないかという話でした。つまりアラム人というわけですね。ということはハマテはアラム人の中でもハマーの住人で、アラムはダマスカスを拠点にした人々のことですかね?
アッシリアの碑文ではハマーとダマスカスが分けて記載されていたので、恐らく民族的には同じでも、別の国として認識されていたようです。

さて、遊牧しながらユーフラテス川上流に移住してきた古代アラム語をしゃべっていた人々は、ラクダに乗ってシリア砂漠を旅してまわる隊商貿易を生業としていました。
その後交通網を拡大して古代オリエント世界に商業語としての古代アラム語を定着させ、更にシリア沿岸部のフェニキア人が用いていたフェニキア文字からアラム文字を作ります。彼らの言語はその後の西アジア・南アジア・中央アジアの様々な文字に影響を与えました。

キャラバンで生活の糧を得ていたアラム人たちは、やがてシリアに町をいくつも築きます。その中心になったのが、紀元前1100年頃はハマーでした。
ハマーの町については前回ハマテを紹介した際に触れましたが、農業の盛んな川沿いの豊かな町でした。

一方ダマスカスはハマーよりもさらに古く、紀元前8000年から人が定住していました。そのため世界で最も古い都市であると言われたりしています。
地中海から約80km内陸にあるアンチレバノン山脈の麓、海抜680mの高原の上に、ダマスカスの街があります。
現在は急速な住宅や産業の拡大により面積が減り汚染されてきてしまっていますが、豊かなオアシスに囲まれた土地でした。古代都市はバラダ川のすぐ南岸にあって、その近郊には『エデンの園』のモデルなんじゃないか?と言われている大きなオアシスがあります。

しかし元々ダマスカスに住んでいた人たちは特に記録に残ることもなく、静かに暮らしていたようです。
ダマスカスが重要視されだすのは、やっぱりアラム人が移住してきてからです。
勢力の中心をハマーからダマスカスに移したアラム人たちは、紀元前10世紀にはこの地をアラム王国の首都にしました。アラム・ダマスカスと呼ばれる強力なアラム人国家の中心となったこの土地は、たびたびアッシリア人とイスラエル人との戦争に巻き込まれます。

一番有名なのが『カルカルの戦い』というやつです。
紀元前853年にシャルマネセル3世率いるアッシリア軍とシリア諸国の同盟軍との間で行われました。
急激な領土拡大を続けるアッシリアがシリアのすぐそばまで領土を広げてきたのに対し、それまでごたごたと争っていたシリア地方の緒王国は同盟を結んで抵抗したのです。
アッシリア側の史料には「ハッティ(シリア)と海岸の12人の王」としてその同盟参加者が記録されております。
以前の紹介で ハッティはカナンの次男ヘテ…つまりヒッタイトを指していましたが、この場合のハッティはヒッタイト人でなく、王国が滅びたあと南東アナトリアに移動して都市国家群(シリア・ヒッタイト)を形成した人々のことを言います。この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられています。

同盟の参加者は以下の通りです。
↓↓↓↓
ダマスカス王ハダドエゼルが率いる戦車1,200両、騎兵1,200騎、歩兵20,000人。

ハマテ王イルフレニが率いる戦車700両、騎兵700騎、歩兵10,000人。

イスラエル王アハブが送った戦車2,000両、歩兵10,000人。

キズワトナ軍、歩兵500人。

ムスリ軍、歩兵1,000人。

アルキ軍、戦車10両、歩兵10,000人。

アルヴァド王マタンバールが送った歩兵200人。

ウスヌ軍、歩兵200人。

シアヌ王アドニバールが送った戦車30両、歩兵数千人。

アラビア王ギンディブが送った駱駝騎兵1,000騎。

ベトルホブ王バアシャーが送った戦車30両、歩兵数百人。


ダマスカスはアラム人王国。ハマテもアラム人だけどハマテ王国として別扱いされてますね。
イスラエル王国はまだ出てきていませんので詳しくは飛ばしますが、紀元前1020年には統一国家ができていました。そして紀元前928年に南北に分裂します。アハブという名前は、北イスラエル王国の7代目の王さまとして記録に残っています。
キズワトナは現キリキアの古代名で、紀元前18世紀頃、アッシリアに居住地を追われたフルリ人たちが西へ移動して作った国です。
ムスリは、現在のムスリムとは無関係です。アッカド語のムスリ(Musri)は通常エジプトと翻訳されますが、この戦いでのムスリは北シリア地方の王国であると考える人もいます。
アルキ人はエイン・アリクかレバノン北部アルカに住んだフェニキア人。アルヴァドはたぶんアルワード島のことだと思うので、聖書でいうとアルワデ人、民族的にはフェニキア人。
ウスヌはウガリット南方の都市です。ウガリットの
属国でしたが、ヒッタイトのムルシリ2世によって重要都市カルケミシュの支配下に編入されました。
シアヌについては不明。
アラビアは、たぶんサバア王国のことかな?
ベトルホブも詳細は不明ですが、バアシャーという名前の王は北イスラエル王国の3代目国王にいます。なにか関係あるのでしょうか?うむむ。

とりあえず上記の11カ国が、同盟を結んでアッシリアとドンパチやったわけです。12人の王、と銘打ってますが、実際の参加国は11個なんですね。
アレッポ(ヤムハド王国)を経由してカルカル市を略奪したアッシリアは、オロンテス川のそばで同盟軍と対決します。(オロンテス川については、前回のハマテの欄参照)
この戦いの結果ですが、アッシリア側の記録ではアッシリアの勝利とされているんですけども、実際のところその後アッシリアがシリアを征服できていないのでどうやら同盟軍側が勝ったようです。

強敵アッシリアを力を合わせて撃退し、これでシリアのみんなは幸せに暮らしました。めでたしめでたし…………とはならないのが人間です。
アッシリアの脅威が去ったシリア諸国は、また前のギスギスした関係に戻ってしまいました。同盟は白紙になり、紀元前853年以降にはダマスカスとイスラエルの間で争いが生じます。この戦いについては『列王記』にも記載があります。

紀元前732年、アッシリアのティグラト・ピレセル3世(アシュルの欄の④新アッシリア時代を参照)の占領・破壊を受けたダマスカスはアッシリアの支配下に入り、以後数百年の間、独立国家としての立場を失うことになります。紀元前572年ネブカドネザル2世による新バビロニア王国の支配下に入り、紀元前539年にはキュロス率いるペルシアに支配され、更にそのあとマケドニア王国アレクサンドリア大王の支配を受けました。
どうやら、ハマーも大体同じような道を辿っていったようです。どちらも、マケドニア王国の次にはローマ帝国の支配下に入ります。

さて、ここまででまた長くなってしまいましたので、とりあえずここで一度区切らせて頂きます。



本日の楽曲は、リュディア王国最後の王・クロイソスが主人公のオペラ『クロイソス』、原題『うぬぼれ男、転落し再び高貴になったクロイソス(Der hochmütige, gestürzte und wieder erhabene Croesus)』(1711年、ハンブルク、ゲンゼマルクト劇場初演) です。

作曲者はラインハルト・カイザー(Reinhard Keiser, 1674年1月9日~1739年9月12日)。
ドイツ盛期バロック音楽の作曲家で、ハンブルクを拠点に活躍しました。かつてはハンブルクゆかりのヘンデルやテレマンと並ぶ巨匠に数えられたそうですが、大方その作品は長年にわたって忘れられています。
私もこれ調べるまで知らなかったです。(爆)

《登場人物》
クロイソス…リュディア王(バリトン)
アティス…クロイソスの息子(ソプラノ)
ハリマクス…アティスの腹心(カウンターテナーorメゾソプラノ)
オルサネス…リュディアの領主(バリトン)
エリアテス…リュディアの領主(テノール)
クレリーダ…リュディアの姫(ソプラノ)
エルミーラ…メディア王国の姫(ソプラノ)
キュロス大王…ペルシャ王(バス)
ソロン…哲学者(バリトン)
エルキウス…アティスの召使い(テノール)
トリゲスタ…エルミーラの召使い(ソプラノ)
ペルシャ人船長…(バリトン)

初演は1711年ですが、その19年後の1730年に改訂版が書かれました。カイザーは37個のアリアを書き換えオーケストレーションを豊かにした他、3ヵ所声域を変更したそうです。というのも、アティスは元々はバリトンの役だったのですがソプラノ役に変わったため、ハリマクスもメゾソプラノやカウンターテナーになったのです。
新しいアリアを挿入するときにいくつかの部分をカットしてしまったようで、元の版のスコアは完全には残っていません。

お話のあらすじはヘロドトスの『歴史』を元にしつつ、原作ではちょろっと出てきてすぐに戦死してしまう息子のアティスに《生まれつき話すことが出来ない》というキャラクターや、メディア王国の王女エルミーラとの恋などのドラマを与えています。
原作ですとクロイソスにはアティスとは別に、話すことが出来ない息子がもうひとり居るんですが、ふたりの兄弟のキャラクターを混ぜ合わせたんですね。
まあオペラですと実はアティスは喋れるようになってて、それがまたドラマの鍵になるんですが。
更にアティスはクロイソスの部下オルサネスの謀反を暴くために農夫に変装したり、父が火あぶりにされそうになったら共に死のうと火に飛び込んだり、もうこれクロイソスじゃなくてアティスが主人公なんじゃね?
最後はキュロス大王に捕まったクロイソスも許されて、エルミーラとアティスは結ばれて、謀反をたくらんでいたオルサネスも許されて、めでたしめでたしです。

YouTubeには全曲はありませんでしたが、いくつかの録音がUPされていました。

○シンフォニア
https://youtu.be/_65iWD47i5s

○一幕・キュロス(2世)のアリア
https://youtu.be/OPQqvGURzsI

○エルミーラのアリア
https://youtu.be/Hbrrc3tu29g


個人的な妄想なのですが、事実上の主役であるアティスがバリトンからソプラノになったのは《カストラート》が関係してるのではないかなぁ、と思います。

カストラートとは、かつてヨーロッパで大流行した《去勢歌手》のことです。男の子が子どものときにイチモツを取ってしまうと男性ホルモンの関係で声変わりが起こらず、尚且つ身長や肺活量は普通に育つので、女性では成し得ない音色と持続力の声を持つことができます。
元々は、教会で沈黙していなくてはならなかった女性のかわりに教会音楽の高声を担当していたのですが、オペラが大流行するとそちらでも大活躍するようになりました。

1650年ごろから1750年ごろにかけてヨーロッパ各地でそのピークを迎え、毎年4000人もの子どもが去勢されたそうです。
カストラートブームの中心はイタリアでしたが、ドイツにも流行りの波は来ていたようで、バロックオペラで一番有名と思われるヘンデルが最初のオペラ『アルミーラ』(HWV1)の初演を行ったのが1705年、場所は『クロイソス』と同じハンブルクのゲンゼマルクト劇場でした。
『クロイソス』はその6年後に初演されますが、もしかしたら当時はあんまりうけなかったのかなあと思います。改訂前だと主要の男性陣は全員バリトンですから、カストラート全盛期にバリトン祭のようなオペラをやってもお客さんの反応は微妙だったでしょうね………

熱狂的な人気を集めていたカストラートは曲の追加や登場のシュチュエーションを要求したりすることもあったそうで、人気歌手や興行主に要請されてやむなく改訂した可能性もあるかと思います。あるいは、作曲者自身が納得いかなくて書き直した可能性もあります。

余談ですが、ちなみにあのベートーヴェンも、子どものとき素晴らしいボーイソプラノだったそうで周辺の人々からカストラートにされることを望まれたようです。
結局お父さんが反対したのでルートヴィッヒは去勢しないで済みました。もし彼が作曲家にならず歌い手になってたら多くの名曲は生まれなかったので、ヨハン父さんに大感謝です。

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2016/05/21 (Sat)
まだまだ懲りずに続きます。

※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。


前回ですが、
↓↓↓
聖書を楽しむ【7】 http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/33/

ハムの一族の説明の途中で終わってしまいました。前回のおさらいですが、ハムの4人の子孫のうち、クシュとその子孫たちのお話をしました。 

今回は残りの兄弟のお話です。

・ミツライム(単数形「ミスル(国、都市、土地、要塞)」の複数形で「2つの要塞」「2つの街」、別説では「鉄の溶鉱炉」の意。エジプトを指す)

・プテ(「弓」の意)

・カナン(「商人」あるいは「赤紫の染料」の意 /前々回の記事参照)

まずミツライムですが、エジプト人の諸部族(および非エジプト人の一部の部族)の祖先と言われており、その名前はエジプトの同義語になりました。
古代エジプト人は自国のことを『ケメト』(Kemet …「赤い砂漠」に対する『黒い土の国』の意) や『タ・ウイ』(Ta‐wi…上エジプトと下エジプトの『二つの国』の意)などと呼んでいたそうです。
ミツライムという名前は、タ・ウイの方をヘブライ語に訳したものということになります。

大勢の考古学ファンが古代エジプトに現代でもロマンを抱いていることからも分かるように、古代エジプトは他の文明とは一線を画する存在です。
人が住み始めたのは紀元前30500年頃(エチオピア・スーダン方面からの古代エジプト人の祖先の移住)と、古さも断トツの土地です。

古代エジプトの歴史についてはウィキペディアなどに載ってますのでご興味ありましたら見てみてください。面白いです。

とりあえずミツライムを指すエジプトがいつの時代なのか、探ってみることにします。
『二つの国』という名でヘブライ人が呼んでいたということは、この時点でエジプトは二つに分裂していたことになります。

上エジプトで興った文明のエジプト人たちが、下エジプト下流域の開拓に乗り出したのが紀元前5000年頃。

紀元前3500年頃に、まず上エジプト、そして下エジプトと二つの統一国家ができます。


ちなみに紀元前3800年頃にはビールが、紀元前3500年頃にはワインが生産されています。
関係ないですね。そうですね。


紀元前3150年頃、上下エジプトの統一がなされます。エジプト初期王朝時代(第1ー2王朝)のはじまりです。

紀元前2686年~紀元前2181年の
エジプト古王国時代(第3ー6王朝)では中央政権が安定します。
ただし後期につれて政治体制や経済など上エジプトが先行し、下エジプトでの体制整備は遅れていきます。二国の間で格差が生まれてしまったんですね。

エジプト第1中間期(第7ー10王朝)に入り、紀元前2200年頃に内乱が起きます。
これがどうにか収まって、再統一がされるのが紀元前2040年頃です。エジプト中王国時代(第11ー12王朝)に入ります。

エジプト第2中間期(第13ー17王朝)になるとまたまたちょっと不安定になって、紀元前1785年頃に内乱勃発。
紀元前1650年頃(第15ー16王朝)に、「ヒクソス」による下エジプト支配が始まります。

「ヒクソス」とは、古代エジプトに登場したエジプト人じゃない人々です。「異国の支配者達」を意味する古代エジプト語、「ヘカ・カスウト」のギリシア語形に由来して、ヒクソスと呼ばれました。
彼らがどんな起源を持つ人々だったのか、詳しくは分かっていません。
元々はシリア、パレスチナ、ヌビア地方にいた異国の首長や、エジプトに移住してきた外国人のリーダーを指したものであったと考えられますが、いつしか一種の尊称として使用されるようになりました。

一般的に彼らはシリア・パレスチナ地方に起源を持つ雑多な人々の集団であったと考えられています。その他、もうちょい先に出てくるヤコブの逸話や、「出エジプト記」と関連づけてアジア人とする説(支配者であるヒクソスとの直接的な関係ではなくても、第2中間期に下エジプトで活動したヒクソスを含むセム系アジア人の中にヘブライ人が含まれていたという説は一定の支持者を持つそうな)、ヒクソスに先行して紀元前3000年の最末期~紀元前2000年前半にメソポタミア各地に移住して王朝を次々と打ち立てた「アムル人」と関連づける説、壁画の酷似からクレタ島と関係づける説…などなど、色々言われております。まあ詳細は謎なんですけど。

トリノ王名表によれば6人のヒクソス人の王が108年間在位したと伝えられ、マネトの記録によれば第15王朝の王も6人といたとされております。第15王朝を「ヒクソス政権」と呼ぶこともあります。

その次のエジプト新王国時代(第18ー20王朝)はエジプトが一番栄えた時代です。
紀元前1540年頃にイアフメス1世がヒクソス放逐と再統一を果たします。やっぱ外国人が自国の政権取るのは気にくわないですよねえ。

紀元前1500年頃、トトメス1世がユーフラテス河畔まで侵攻、オリエント一円を属州とします。トトメス1世、覚えていらっしゃいますでしょうか。
前回ハムの長男クシュの国であるエチオピアをご紹介したときに、クシュを支配下に置き植民地化した王さまです。

紀元前1470年頃、トトメス3世によりアナトリア、アジア遠征と、ヒッタイト・バビロニア属国化が行われます。バビロニアは前回申し上げたとおり、クシュの息子ニムロデが征服した土地でした。

紀元前1360年頃、アメンホテプ4世(アクエンアテン)による『アマルナ宗教改革』が行われます。
これは、伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止して太陽神アテンの一神崇拝に改めさせた改革です。アテン神信仰は、世界最初の一神教といわれています。

アメン神は元はナイル川東岸のテーベ(現・ルクソール)地方の大気の守護神、豊饒神でした。アモンと表されることもあります。中王国時代第11王朝にテーベを首都としてエジプトを再統一して以来、エジプトの神々の主神として崇められてきた神さまです。ラー神と一体してエジプトの歴史・文明の中心に位置し、アメン神殿と祭司団は絶大な権力を奮っていました。歴代のファラオの名前にもアメンの名が入るようになります。だから“アメン”ホテプ4世は自分の名前をアクテン“アテン”に改名したんですね。
ちなみにアンモナイト、アンモニウム塩、アンモニアなどの語源にもなっています。

一方アテン神は夕日を神格化した神で、こちらもテーベで祀られておりましたが、マイナーな地方神の一つに過ぎずこれといった神像も神話もなく、どんな神なのかはっきりした性質も持ってなかった神です。
人間の形態を取っている他のエジプトの神々とは異なり、先端が手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤(←!)の形で表現されていす。
あまり信仰は盛り上がらず、後には神性が薄れて天体としての太陽を表すようになっていきました。
そんなアテン神を、アメンホテプ4世はいきなり国の最高神に仕立てて、それまで信じられていた他の神さまたちを全部淘汰してしまったんですね。

この宗教改革はあまりにも急激だったために、アメン神団の抵抗が激しく、最終的に失敗に終わります。アクエンアテンが亡くなった後、その息子である、あの有名なツタンカーメン王の時代に、エジプトはアメン信仰に戻り(紀元前1345年頃)、アテンはアマルナ革命以前の「天体としての太陽」に戻され、アテン信仰は消滅しました。ちなみにツタンカーメンも生まれたときはアテン神にちなんで『ツタンカーテン』と名付けられましたが、アメン神の名を入れたツタンカーメンに自分で改名しました。

ジークムント・フロイトは、アクエンアテンの治世年と出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤーウェの原形であるとする『唯一神起源説』を唱えました。
(コレ、後でもう一度出てくるので覚えておいてください。)


そうして栄華を誇ったエジプト帝国ですが、紀元前945年頃から、ヌビア、アッシリア、アケメネス朝などの他民族支配により衰退していきます。紀元前730年頃にはクシュ(ヌビア)に征服され、紀元前671年にはアッシリアに侵入され………かつての帝国は日陰の時代に入っていきます。

…えー、エジプトのお話はこれくらいにするとして、ミツライムは少なくとも上下エジプトの統一がなされた紀元前3150年以降ということになります。アクテンアテンによる『アマルナ宗教改革』も気になりますね。

そんなミツライムの子孫として紹介されているのが

・ルデ人…リビア東部の部族

・アナミム人…リビア北岸キュレネに住むアナミ族?

・レハビム人…リビアのどこかに住んでたレハビ族

・ナフトヒム人…現在のカイロの近くにいたナフト族

・パテロス人…「南部」の意。古代エジプトのテーベ周辺の部族

カスルヒム人…のちのフィリスティア人(ペリシア人)

カフトル人…カナンの南西部の土地に移住してきた人々。スエズ運河北端の街という説もあるが、定説はない。 エジプトのデルタ地帯、小アジアの南東沿岸(キリキアを含む)、カパドキア、クレタなど諸説あり。

です。
みんな民族名です。
詳しくはよく分からない民族ばっかりですが、上記のうち上から5つの民族はリビア(エジプトの東隣)とエジプトに住んだ人々のようです。

古代リビアは現在の北西アフリカのナイル川より西側の地区を指していて、現在のベルベル人と考えられる人々が住んでいました。
ベルベル人は何千年も前から古代エジプトにいた人々で、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来しています。彼ら自身は自分達のことをアマジグ人と呼んでいたようです。

後述しますが、ミツライムの弟・プテはベルベル人の祖先とされています。
ベルベル人のことはそっちでご説明致しましょう。
カスルヒム人とカフトル人ですが、私の持っている聖書では「カスルヒムからペリシテ人がでた」とあるのですが、別の版ではカフトル人がペリシテ人の祖先だとしているものもありました。

実際カスルヒムがどこなのかは、分かっていません。カスルヒムという名前が出てくるのは、聖書の中でもここだけだから手掛かりが無いんです(^_^;)

このあとに出てくるアモス書とかエレミア書のペリシテ人の紹介では「カフトルから来た人々」としているので、そっちに合わせたのかもしれません。
恐らく地理的なもので、彼らがカフトルの領地から移住したことを示していると考えられています。
ではカフトルってどこなのかというと、これも上記のように様々な説がありますけれども
今日ではギリシャのクレタ島である説が有力だそうです。
アッシリア・バビロニアの文書中に出て来るカプターラとか、およびエジプトの碑文のクフティに当たると理解されています。エジプトは初期の時代からクレタ人と商取り引きをしていたようです。

クレタ島はギリシャ南方の地中海に浮かぶ同国最大の島。ヨーロッパにおける最初の文明のひとつであるミノア文明が栄えた土地です。
文献がないため遺跡での想像がされていますが、ミノア文明は平和で開放的な文明だったと考えられています。壮麗な石の建築物や複数階の宮殿があり、排水設備、女王のための浴場、水洗式のトイレがあり、水力を動力とする仕組みに関する技術者の知識はとても高度なものだったようです。エジプトなどとの交易によってもたらされた遺物から、ミノア文明は、紀元前3000年頃からクノッソスが衰退した紀元前1400年頃ごろまで栄えたと考えられています。衰退の原因のひとつは、前々回にお話した《紀元前1200年のカタストロフ》とも言われていますね。

ということは、ペリシテ人(フィリスティア人)はクレタ島からの移民ということでしょう。「ペリシテ」という名前も「移民」という意味を持っています。

ペリシテ人は紀元前13世紀から紀元前12世紀にかけて地中海東部地域に来襲した「海の民」と呼ばれる諸集団を構成した人々の一部であり、エーゲ海域とギリシアのミケーネ文明を担った人々に起源を持つと考えられています。
「海の民」の出現は紀元前1400年頃のミノア文明の崩壊から紀元前1120年ごろのドーリス人のギリシア定着と先住ギリシア人の小アジアへの移住定着に至る、約300年間に及ぶ東地中海世界の混乱の過程のひとつとして引き起こされたものです。
つまり文明が崩壊して暮らしていけなくなった地中海の人々が海に出て、他の安住の地を探してさまよってた期間ってことですね。

彼らは現在のパレスチナに住みましたが、先にネタバレしてしまいますとこの土地は古代は「カナン」と呼ばれていました。彼らは古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺に入植したと言われています。
カナンといえばハムの末っ子で、ノアに呪われたあの子ですが、ペリシテ人はカナンに元から住んでいたカナン人とは別の、移民してきた人たちと思われてます。

ちなみに「パレスチナ」という土地名は言わずもがな「ペリシテ」から取られたもので「ペリシテ人の土地」という意味です。
(現在のパレスチナ人はアラブ民族であり、ペリシテ人とはまったく関係がないそうですが。)

ペリシテ人は古代イスラエルの主要な敵として、このあとも何度か登場します。



ミツライムの弟のプテは、先程も申しましたとおりベルベル人とされています。
今までも何度か出てきたフラティウス・ヨセフスが、プテをリビアだとしているのが所以です。

ベルベル人はとても古い民族で、先祖はカプサ文化と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられています。
カプサ文化は北アフリカ、チュニジア、アルジェリアに分布する旧石器時代後期から中石器時代にかけての文化です。

○タドラルト・アカクス(サハラの一部にあたるリビア西部の砂漠地帯で、先史時代(1万2000年前)の岩絵が多数現存している)

○タッシリ・ナジェール(アルジェリア南東部、サハラ砂漠にある台地状の山脈。一帯が砂漠でなくサバンナに恵まれ湿潤だった新石器時代に描かれた、先史的な岩絵群や他の考古学的景観で知られている。(1万年前~4000年前)牛の群れ、ワニなどの大型生物、狩猟や舞踏といった人々の活動などを活写している。)

などが有名です。


ベルベル人は大きく4つのグループに分かれていました。

カビール人…アルジェリアのカビリア(アルジェから100マイル東北)に住んでいたベルベル人。アルジェリアの中でベルベル語を話す人の中では最も人口が多く、アフリカでは2番目に多い。

シャウィーア人…古代にはヌミディア(アルジェリアの東側。オーレス山地の麓の、オーレス、Nememcha(読み方不明)、ベレーズマなどの地域)に住んでいたベルベル人。自身をシャウィーア人と呼び、シャウィーア語を話した。

ムザブ人…アルジェリアの北のサハラ砂漠に住んでいたベルベル人。ゼナティ語(北東のモロッコからアルジェ、および北のサハラ砂漠や北アフリカで話されたベルベル語方言)やアラビア語を話した。

トゥアレグ人…ベルベル人系の遊牧民。アフリカ大陸サハラ砂漠西部(アザワド)が活動の範囲で、自身では「ケル・タマシェク(Kel Tamasheq)」(タマシェク語を話す人々)と呼ぶ。ベルベル語のひとつであるトゥアレグ語を話す。

さらにそこから

リーフ人…モロッコの北に住むベルベル人の民族。

シェヌアス人…主にアルジェリアの西に住んだベルベル人。アルジェリアのベルベル語話している人口の多くを占めている。

シルハ人…シルハ語またはシュルー方言を話す、モロッコのベルベル人。主にモロッコのアトラス山脈とスース谷に住んでおり、モロッコの先住民と考えられている。

ザイエン族…モロッコ中央、アトラス山脈のヘニフラ地域に住んでいたベルベル人。

Zouaoua(ズアヴ?)族…ドジュショージュラ山脈の山で家に住んでいるベルベル人の種族。カビール人の一部らしい

グアンチェ族…スペインのカナリア諸島に住んでいた先住民。金髪碧眼長身の風貌で、ベルベル語の一種であるグアンチェ語を話していた。ヨーロッパ人が中世にカナリア諸島を初めて訪れたときには、まだ石器時代の生活を営んでいた。今では彼らの文化はほぼ消え果てしまっているが、その血統を受け継ぐ人たちは現在のカナリア諸島の住民、そしてさらには同諸島の住民の移住先であるキューバやプエルトリコに多数見受けられる。

Nafusis(ナフシ族?)…ナフサ山地、北西のリビアの広いエリアで話されていたナフシ語を話したベルベル人。

Siwis(シーワ族?)…エジプトのシーワ・オアシスで暮らし、シーワ語を話すベルベル人。またオアシスベルベル人として知られている。現存するベルベル人の中で最も古いとされている。

などのグループに分かれます。


ベルベル人は昔から様々な民族に侵略されてきたといいます。紀元前10世紀頃、フェニキアから北アフリカの沿岸に至って勢力範囲が広がったフェニキア人がカルタゴなどの交易都市を建設すると、ベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられたそうです。古代ギリシアではベルベル人のことをリビュア人と称していました。

ミツライムの子孫たちもリビアの住民でしたが、ベルベル人は元々はモロッコやアルジェリアに古くからいた民だったようです。ということは、プテ…つまりベルベル人が先住民で、ミツライムの子孫(エジプト人)があとから居住地を広げた…ということでしょうか。


さて次はこれまで何度も言及があった、末っ子カナンです。

カナンは地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯で、紀元前3000年くらいから文献に登場したとても古い土地です。シュメール人の都市マリの紀元前18世紀の残骸で発見された文書では、政治的な共同体として登場しました。
紀元前2000年代には古代エジプト王朝の州の名称として使われました。

この地域に住んでいた「カナン人」と記されている人々は、フェニキア人だと言われています。


フェニキアは古代の地中海東岸に位置した土地で、現在のシリアのタルトゥースのあたりからパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域で、およそ現在のレバノンの領域にあたります。ラテン語では「ポエニ」と呼びます。こっちの呼び方の方が有名ですね。世界史で『ポエニ戦争』とか聞いたことがおありかもしれません。

フェニキア人は、エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に住んでおりました。ですので彼らの文明は、それら古代国家の影響をとても受けています。
彼らは紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始め、紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出し、地中海全域を舞台に活躍し、紀元前8世紀頃に繁栄を極めました。
また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えたそうです。

フェニキア人の建設した主な主要都市には、ティルス(現在のスール)、シドン、ビュブロス、アラドゥスなどがあります。カナンの子孫たちも絡めて、紹介していきたいと思います。

さて、カナンの子孫として挙げられているのは

・シドン(長子)…「漁場」「漁師」の意。フェニキア人の自称
・ヘテ…ハッティ人(ヒッタイト人)のこと
・エブス人…「踏みにじる、踏みつける」の意に由来。エルサレムの先住民
・エモリ人…主に紀元前2000年期半に中東各地で権力を握った諸部族の名称、アムル人ともいう
・ギルガシ人…ヨルダン川の西に住んでいたとされる先住民
・ヒビ人…カナン人の部族のひとつ。フルリ人のことという説も
・アルキ人…レバノン山に住んだ人々
・シニ人…?(カナンのどこかの町とみられている)
・アルワデ人…「解き放つ」の意。フェニキア沿岸最北部の島民
・ツェマリ人…北シリアの町ゼメルの住人
・ハマテ人…「要塞」の意。北シリアのオロンテス川に沿う町

シドンはわざわざ「長子」とつけられておりますので、カナンの直系の息子として扱われてます。商人(カナン)の息子はどうやら漁師(シドン)になったようです。
海上交易で地中海を征したことが由来なのでしょうか?
上記のとおり、シドンはフェニキア人の自称です。カナンがフェニキア人のことですので、息子として描くのはまあ頷けます。

シドンはフェニキア人が造った主要都市のひとつの名前でもあります。レバノンの沿岸部に位置する古代都市で、現在もサイダという名前の都市で残っています。
紀元前3000年紀に創設され、紀元前2000年紀頃に裕福で栄えた街となり、ガラスの質の高さと紫の染料で有名になりました。
元々は漁業と交易の中心地でしたが、最近はサウジアラビアからのアラビア横断パイプラインの地中海側の終着地としての役割を果たしているようです。

紀元前2700年頃、シドンの入植者たちは40キロほど沿岸を下ったところにある町、ティールを発見し、以後長きにわたり両都市はフェニキアの富と権力のトップを巡って争います。これが、上記にも記したティルスのことです。ティルスは紀元前2500年、ビブロス(上記のビュブロス)やベイルートと共にフェニキア人の都市として成立し、 紀元前11世紀から紀元前9世紀に最盛期を迎えます。カルタゴは、ティルスの植民地として後々作られます。
現在のティルスは「スール」(アラビア語で「岩」)と呼ばれる小さな漁村になっているようですが、かつてはフェニキア人の造った都市国家の中で最大規模を誇り、紀元前1000年頃にはフェニキアの首都にもなりました。


次に言及のあるヘテは、ハッティ人…つまりヒッタイト人と考えられています。
ボアズキョイ出土の粘土板文書やバビロニア、アッシリアの史料では「ハッティ」エジプトの史料では「ケタ」と記されております。

ヒッタイトはインド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指します。
高度な製鉄技術によってメソポタミアを征服し、最初の鉄器文化を築いたとされます…が、最近実はそれより前から鉄が使われていたことがわかりました。(^_^;)
彼らの由来ですが、黒海を渡って来た北方系民族説(クルガン仮説)と、近年提唱されているアナトリア地域を故郷として広がって行ったという説(アナトリア仮説)が提唱されていて、まだ決着はついていません。
ちなみに、ヒッタイトの宗教はフルリ人の影響をとても受けておりました。ですので、ヒッタイトはフルリ人だとする学者さんもいます。

ヒッタイトの最初の王国ができたのは、紀元前1680年頃です。クズルウルマック(「赤い河」の意)周辺にできたヒッタイト古王国は、紀元前1595年頃ムルシリ1世の治世のときに、サムス・ディタナ(都市国家バビロニアの第11代目王)率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立します。

紀元前1500年頃成立したヒッタイト中王国を経て紀元前1430年頃成立したヒッタイト新王国は、他国を侵略し領土を広げていきます。紀元前1330年頃にミタンニを制圧、紀元前1285年頃に古代エジプトと衝突しラムセス2世のエジプトを撃退しシリアを支配します。(カデシュの戦い)この際に、世界最古の講和条約が結ばれました。
後世にエジプトで発見された「アマルナ文書」によると、ヒッタイト王スッピルリウマがエジプト王にあてた書簡やその他の外交文書から紀元前14世紀はヒッタイトが北シリア・アナトリア一帯を領有する一大勢力であったことがわかります。

ところが紀元前1190年頃、ヒッタイト王国は約500年の栄華に突如幕を閉じます。
通説では「海の民」によって滅ぼされたとされていましたが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになりました。カフトル人…クレタ島と同じく、《前1200年のカタストロフ》が滅亡の原因ということになります。

新王国が滅びたあと、ヒッタイトは南東アナトリアに移動し紀元前8世紀頃までシロ・ヒッタイト国家群(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動しました。(紀元前1180年~紀元前700年頃)ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられています。


次に言及されているエブス人は、現在のエルサレムに住んでいた原住民です。
いずれこの土地にイスラエル人の王国ができるのですけれども、この時点ではエブス人の街がありました。

実はこのエブス人、日本でいう弥生人なんじゃないかという説もあったりします。面白いんでちょっと調べてみました。《日ユ同祖論》という説です。

日本がまだ大陸と陸続きだった時代に半島に移住して、その後大陸から切り離された古来からの住人が「縄文人」。
大陸から移住してきて稲作やら鉄工やらを伝え、所謂《弥生文化》を花開かせた移民たちが「弥生人」です。

弥生時代の早期のはじまりが紀元前1000年頃、イスラエル王国が建国されたのが紀元前11世紀頃ですので時代的にもありえない話じゃないと思います。

彼らは古代中国の殷(いん)(紀元前1600年頃~紀元前12、11世紀頃)の時代から日本に渡っていて、「南倭人」だとか「夷人(いじん)」と呼ばれていたそうです。
「夷」という漢字は「大」な「弓」と書いて、「好戦的な民族」を表します。(蔑んだ意味合い)
元々は漢民族が古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対して使っていた呼び名でしたが、異民族全般を指す意味に変わっていきました。

日本では「夷」をえびす、えみし、ころす、たいらげる、と訓読します。
以下のような用法があります。

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)…大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)に住む人々を異端視・異族視した呼称。

東夷(あずまえびす)…京都人が、荒々しい武士、情を理解しない荒っぽい人、風情が無く、教養・文化に欠ける人、特に東国の武士を指して呼ぶ呼称。

夷曲(ひなぶり)…都から遠くはなれた未開の土地の風俗(田舎ふう)をさす上代の歌謡の一種。あるいは田舎風の詩歌、狂歌。

…などなど。ちょっと蔑んだ意味合いで使われることが多いですね。

エブス人と製鉄族のヒッタイト人を乗せたフェニキア(つまりシドン)のタルシシ船(大きな外洋航行船)隊は、はるばる海を越えて九州国東半島にたどり着きました。そこで製鉄基地を築き、「たたら」の技術を日本に伝えます。
エブスが訛って「エビス(エミシ)」になり、彼らは長い時間をかけて日本文化に馴染んでいったというわけです。

(ジブリの名作『もののけ姫』のアシタカはエミシの末裔でしたね。蝦夷の歴史を踏まえて観ると、一層面白い作品です。)

そして遂には神格化されました。それが現在は七福神の一員として親しまれている恵比寿さまです。
恵比寿は漁業・留守・商いを司る、日本古来の“唯一の”福の神です。他の福の神、たとえば福天(吉祥天)などはインドや中国から伝わってきた神様なんです。

「えびす」という名を持つ神さまは何人かおりまして、

○イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)

○事代主神(ことしろぬしかみ)…大黒の息子。恵比寿が釣竿と鯛を持っているのは、この神様が由来

○少彦名神(すくなびこな)…海の彼方から来たという国造り神。

○彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)…初代天皇である神武天皇の祖父。稲穂・穀物の神。

などなど。
えびすは記紀に出てこない神なので、古くから記紀の中に該当する神を探しだす説がいろいろ出てきたためにこんなことになったみたいです。

「夷」の名のとおり、えびすの本来の神格は《人々の前にときたま現れる外来物》に対する信仰で、海の向こうからやってくる海神・水の神さまでした。
最初に記録に登場したのは平安時代の末期です。『伊呂波字類抄』(三巻本)に「夷 毘沙門」と「三郎殿 不動明王」の二柱の神さまが登場します。この二柱の神さまが時代と共に混同され、「夷三郎」という神さまになりました。初期には毘沙門天や不動明王とされていて、「荒々しい神」として信仰されていたということです。

その後、室町時代に記紀のヒルコノミコトとエビスが同一視されます。
ヒルコはアマテラスやスサノオより前の、イザナギとイザナミの第一子でした。
しかし、3歳になっても足が立たなかったために流し捨てられてしまいます。その神話を受けて、流されたヒルコはどこかの地に漂着したという信仰が生まれました。そしてヒルコが海からやってくる姿が海の神であるエビスの姿と一致したため、二柱は同一視されるようになったというわけです。

蛭子命の漂着の伝承は各地にありますが、その中でも西宮神社はえびすという名の神を祀った神社としては現存する記録上で最古なので、全国のえびす神社の総本宮とされているそうです。江戸時代から明治にかけて「えびす=蛭子説」に基づいて祭神名を「えびす」から「蛭子」に改めた神社もあるとか。

古代エルサレム人の血脈がこんな極東の島国で神さまになっていたとしたらと思うと、人種や宗教の壁なんて実に小さなものだと思います。

…えー、話が大変長くなってしまいました。

諸事情のため、ここで一度区切らせていただきます。(ブログの文字数が限界になってしまったので(爆))

続きはこちらです↓↓↓↓
聖書を楽しむ【8】(2): http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/35/

後半もまだまだ聖書の裏側のあんなことこんなことがざくざく出てきます。

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* ILLUSTRATION BY nyao *