プロフィール
HN:
赤澤 舞
性別:
女性
職業:
飲食店店員
趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。
レトロゲームや特撮も好物です。
ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
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2015/09/13 (Sun)
※この記事の内容は、キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
前回に引き続き、ノアの方舟のお話です。
※前回の章と若干被ってる内容の本文は割愛します。
○第七章
主はノアに言いました。
「あなたはすべてのきよい動物の中から7つがいずつ、きよくない動物の中から1つがいずつ、空の鳥からも7つがいずつ取りなさい。その種類が地上で生き残るために。
あと7日経ったら40日と40日夜雨を降らせて、地上の生き物を全部消し去るよ。
」
ノアは全部言われた通りにしました。
ノアはそのとき600歳でした。
ノアの生涯の600年目の第2の月の17日、巨大な大いなる水の源がことごとく張り裂け、天の水門が開かれました。
大雨は40日と40夜降りました。
ノアは三人の息子たちであるセム、ハム、ヤペテと妻、息子たちの妻とあらゆる獣、家畜、地を這うもの、鳥、翼のあるすべてのものと一緒に箱舟に入りました。
神は、彼の後ろの戸を閉じました。
水かさが増していき箱舟を押し上げたので、それは地から浮かび上がって水面を漂いました。
水は山々をすべて覆いつくし、その更に15キュビト(約7.5メートル)増しました。
こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も地に群生するすべてのものも、また人も死に絶えました。
箱舟に乗っていたものだけが残りました。
水は150日間、地の上に増え続けました。
~~~~~~~~~~~~~
神の命じられるまま50メートルプール22杯半分の大きさの舟を造るノアに、神様は何度か語りかけたのでしょう。
建設途中、何十年も何の音沙汰もなかったら、ノアも不安になっちゃいますもんね。
最初「すべての生き物のつがいを乗せよ」と言っておりましたが、さすがに全部乗り切るわけないと神も思ったんでしょうかね。
「きよい動物7つがい、きよくない動物1つがい、鳥7つがい」
という縛りをつけました。
この、「きよい」「きよくない」はユダヤ教の《カシュルート》と言われています。
このあとの『レビ記』とか、ユダヤ教の『タルムード』で詳しく説明してくれるのですが、食べて良い動物と食べちゃいけない動物の決まりごと…一般にユダヤ教の食物の清浄規定のことです。
カシェル(アシュケナジ系のユダヤ人の言語イディッシュ語ではコシェル)は「相応しい状態」を示す形容詞で、ユダヤ教戒律に適合したものであることを示します。食物に関してカシェルと言えば、食物の清浄規定(カシュルート)に適合した食べてよい食物のことを指します。
ただし、神様はこの時点では舟に乗せて生き残らせる動物として「きよい」「きよくない」という言葉を使っているだけなので、食用として書いているわけではありません。
この時代、勿論まだユダヤ教は確立されていませんけれども、ノアは「きよい動物」「きよくない動物」と言われただけでそれが分かったということは当時の常識だったのかもしれません。
どうせ残すならきよい動物だけにすりゃよかったのに、と思いますが、そこは恐らく現実との兼ね合いだろうと想像します。
だってそこで清くない動物が全部滅ぼされたことになっちゃったら、なんで今そうした動物が生きてるのか説明できなくなってしまいますからね。
恐竜だって、最初はヨーロッパで存在を確立させるためキリスト教の聖書を根底とする世界観と戦った挙げ句、『恐竜は古代に存在した巨大な草食のトカゲ』と定義することでやっと存在を認められたのですから。
今では肉食の恐竜は当たり前に認められ、毛の生えた《鳥に近い恐竜》もいますし、もう一息ですね!(笑)
ところがここで問題が起きてきます。
この章の前半では『きよい動物7つがい、きよくない動物1つがい、鳥7つがいを乗せる』ように神が命じていますのに、ノアはすべての動物を乗せてしまいました。
確かにこの前の章で神様は『すべての動物を乗せる』ように命じられましたが…ふつう新しい命令が来たら、そっちを優先しますよね。
どういうことなんでしょうか。
調べてみましたら、聖書に載っているノアの洪水の話は2つの民話を混ぜ合わせて作られているという説がありました。
実は、創世記でも同じようなことが起こっています。創世記はもっと複数の話を混ぜ合わせていて、話が前後したり同じ話を何度もしたり、ちょこちょこ矛盾が起こったりしています。
最初に女と男をペアで作ったのに、後からアダムの妻として新たにエバを作ったりとかね。最初の女はどこ行った??
(後世になって、最初に作られた女はアダムとの性行為を拒否して逃亡し、その後悪魔となった『リリス』であるとされた。完全に後付けの設定だと思うが)
元々この大洪水の神話は、シュメール王ギルガメシュを神格化した古代メソポタミアの大ベストセラー《ギルガメシュ叙事詩》から拝借したエピソードです。
多分、この話を元にした《ノアの洪水》の物語はいくつもあったのでしょう。それを無理矢理ひとつの話にしたから、こういうことが起こったというわけです。
とりあえず、最終的にはノアは全部の動物を舟にのせたということです。
自分が認めたものが全員乗ったあと、神様は戸を閉めてしまいました。これで神様が認めなかった者は絶対に入ってこられません。
洪水で水が増え始めて、かつてノアを白い目で見ていた人間たちが恐怖に駆られ血相を変えて助けを求めても、ノアが可哀想に思って彼らを助けてやりたいとどんなに望んでも、戸が開くことはなかったのです。
○第八章
神は、ノアと、箱舟の中に彼と一緒にいたすべての獣やすべての家畜のことを心に留めておられました。
それで、神が地の上に風を吹かせると水は引き始めました。
大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、大雨がとどめられました。
水は次第に引いていき、方舟は第7の月の17日にアララテ山の上にとどまりました。
水は第10の月までますます減り続け、第10の月の1日目に山々の頂が現れました。
40日の終わりになって、ノアは箱舟の窓を開き、烏を放ちました。烏は地面の水が乾ききるまでウロウロしていました。
ノアは水が引いたかどうか見るために鳩を放ちました。鳩は、休む場所が無かったので戻ってきました。
それから7日後に再び鳩を放つと、鳩は夕方にオリーブの若葉をくわえて戻ってきました。
それから更に7日後にもう一度鳩を放つと、そのまま戻ってきませんでした。
ノアが601歳になった年の第1の月の1日に水は地上から乾き始めて、第2の月の27日に乾ききりました。
神様はノアに言いました。
「みんな箱舟から出なさい。
そんで地に群がって、生み、増えなさい。」
それで、箱舟に乗っていたすべてのものが外に出ました。
ノアは主のために祭壇を築いて、すべてのきよい家畜とすべてのきよい鳥のうちから幾つかを選びとって《全焼のいけにえ》を捧げました。
主は、そのなだめのかおりをかがれ、心のなかでこう言いました。
「今後は絶対人のためにこの地を呪うのはやめるよ。人の心を思い計るのは悪いことだからね。もう全部の生き物を滅ぼしたりしない。種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜は終わることはない。」
~~~~~~~~~~~~~~~
神のさばきである洪水が、やっとこ終わりました。
ノアたちが何日間箱舟に缶詰めになったか書いてありますが、先程書きましたとおり、どうやら2種類の《ノアの方舟神話》を無理矢理混ぜたために数字の計算が厄介なことになっています。
その説の数え方で整理しますと
①
40日40夜降った雨の水が40日間地上にあり、40日間かけて引き、それから14日目に放った鳩は戻ってこなかった。
40+40+40+14=134日
②
ノアが600歳の年の2月17日に雨が降り始め、150日間その水が地にあった。ノア601歳の年の1月1日に乾きはじめ、2月27日に乾ききった。
雨が何日間降り続いたかは書いていないが、雨が降り始めてから乾ききるまで1年と10日間。メソポタミアで使われた太陰太陽暦では1年が354日となるので、合計して364日
ここで注目なのが、今まで「○日目、○日間、○年間」という表現しか使われていなかった聖書に「第○の月の△日目」という表し方が初めて出てきたのです。
①の方舟伝説が昔からあったやつで、②の方舟伝説はあとから暦の概念が出来たあとに書かれたものかもしれません。
とにかく、長い間舟に缶詰めだったノア一家と動物たちは、ようやっとお天道様を見ることが出来たわけです。
彼らの乗った方舟は《アララテの山》というところに流れ着きました。
現在のトルコに《アララト山》という山がありますが、これは12世紀以降にヨーロッパ人により命名されたものです。
現在のアララト山頂から見つかった古い時代の木の化石や、航空写真から見出だした方形の船の跡らしいものをノアの箱舟の痕跡だとし、ノアの箱舟伝説が実証されたと主張する説もあります。
実際のところ、ノアの伝説は本当にあったことなのか?
この洪水ですが、元ネタはギルガメシュ叙事詩と先程書きましたけれども、洪水の範囲はメソポタミア一帯だけとの説が有力です。今でこそ、イラクやイスラエルなどかつてメソポタミアと呼ばれていた地域は砂漠気候地帯ですけれど、昔は豊かな農地が広がっていたわけですので雨量も多かったでしょう。シュメール神話に水の神が多いことからも伺えます。実際しばしば洪水が起きる地域だったようで、暦も雨季と乾期を割り出すために発達したようです。一度水害や日照りが起これば、農業には大打撃ですからね。
(以下、妄想です)
そんな中で、通常よりもひときわ大きな洪水が起こったとき。ある男が前々から大きな木製シェルターを作って、自分の家族や家畜を救ったのです!他の村人たちの家族や家畜はみんな流されてしまったけど、彼の家だけは家族も財産も無事でした。
以前羊について語ったとき書きましたが、古代メソポタミアでは羊の数イコール経済力だったので、羊が水害でみんな死んでしまうことはすなわち家族の死を意味するわけです。
村人たちは
「なんて賢い男だ」
「いやいや、きっと水神さまにお告げをもらったんだべ」
「でっかい洪水が来るぞって、神さまに教えてもらったに違いねぇべ」
と噂し、伝説として語り継いだ。
メソポタミアの集落の伝説だったこの昔話がバビロニアの治世になってからギルガメシュ王を神格化するために書かれた《ギルガメシュ叙事詩》に取り込まれ、アッカド、カルデア(新バビロニア)と引き継がれ、そこから古代ギリシア、古代ローマなど、世界各地の神話として散らばった。
《創世記》も同じで、編纂していた人がこの昔話に目をつけて、シュメール神話とギルガメシュ叙事詩にある大洪水と絡めて聖書に載せた…と。
こんないきさつだったんじゃ無かろうか。
ノアに関してはそう考えてまぁ納得出来るんですが、問題はその元ネタのギルガメシュ叙事詩の洪水の方です。
神話の洪水は、本当にただのお伽噺なんでしょうか?
もし大洪水が地球規模のものだったら、地球上の山々すべて…エベレスト山さえもおおうほどの水が人間たちを襲ったとしたら、現在地球上にある水の量では到底足りない計算になります。
洪水以前の地球は今よりも平坦で大洪水の結果山々や深海が出来たという説もありますが、それでいくと1年間で8000メートル級の山々と10000メートルの深さの海溝ができたことになり、そのような変動は地球そのものを大激変させ箱舟も破壊されてしまいます。
有力な説では、当時の人間の居住はメソポタミア地方に限られていて地球規模には広がっていなかったので、ここに書かれた「地上全て」とは「当時の人間視点から見える範囲での地上全て」というわけです。
でも『洪水は世界規模で実際あったことだ
』と主張する説も興味深いもので、私としては絶対無視できません。
確かにたった1年で全部のことが起こったというのは非現実的ですけれども、一つ一つの事柄を整理してみますと決して有り得ない話ではないので。
現在地球にある山々と海溝を全部ならすと、地球全体が2400~2700メートルの海底に沈んでしまうと算出されているそうです。
水が無い訳じゃないんです。「エベレストとかヒマラヤとかを覆えるだけの水」が無いから無理だろ、って話なんですわ。
その時代にいきなり起こったとするのが無理だとするなら、紀元前4000年よりももっともっと大昔に起きた出来事だったとしたらどうでしょう?そしてその頃にはもう巨人、ないし人間を作った存在が地球にいて、その様子を後世に伝えるために語り継いだ話だったとしたら。ロマンですねぇ!
『「巨大な大いなる水の源」が、ことごとく張り裂け』は、当時、地殻のさらに下には大量に水(初生水…一度も外へ出ていない水)を溜めた層、あるいは水がめのような窟があって、それが地震や噴火を伴う大地殻変動によって地割れと共に噴き出してきた、と考えられます。
『「天の水門」が開かれた』は、大気の変動、火山噴火などに伴う大量の水蒸気などで大雨が降ったのではないでしょうか。
この話を考えるとき思い出すのが、とある説で《地球を覆う大気の層は今よりずっとずっと厚かった》というものです。
ヘンリー・モーリス博士という人が言うには、太古の地球の様子と大洪水以前の環境は科学的に一致する、というのです。
『創造科学』と呼ばれるこの考え方は神学で科学を判断しようとするもので、まず信仰ありきで科学をその道具とする…というものです。
その説ですと、ノアの大洪水以前の地球の上空には、膨大な量の水蒸気からなる「水蒸気層」が存在していたといいます。
そのために、昔の地上は気圧が高くて温暖だったらしいのです。
その証拠として挙げられているのが、プテラノドンの化石。
プテラノドン(学名:Pteranodon)は、中生代白亜紀後期の約8,930万- 約7,400万年前に生息していた翼竜の一種。
ギリシア語で pteron; “翼”と、an-; 否定辞 とodous; “歯”を合わせたもので、「翼があり歯がない(もの)」という意味です。
翼を広げると10メートル以上にもなり、現在の研究では「飛ぶことは不可能」とされています。
今の気圧でそれだけの翼を動かそうと思ったら筋力が滅茶苦茶必要になるわけですけども、そうなると筋肉が増えて体重も重くなる。じゃあ翼を軽くすればいいじゃない、と骨を軽くした場合、台風に挑むビニ傘の如く、風圧に耐えきれず翼はバッキバキに折れます。
ですので、プテラノドンは「羽ばたいて飛ぶのは無理だけど、滑空していた」というのが現在の定説です。
現在の大気圧のもとでは、翼の幅が五メートル前後が飛べる限度と言われています。
でも、創造論の学者たちは
「大洪水以前の地球は、上空にあった水蒸気層のために現在より2倍気圧が高かった」
と考えていて、古代の空では巨大で重たい生物でも飛べたとしています。
プテラノドンの胃からは魚が見つかっているため、彼らは海上を飛んで魚を捕まえて食べていたとされるのですが
海の上に着水した場合、滑空しか出来なかったらどうすんの?と思うので、この《重たいものでも飛べた説》は個人的にいいなぁと思うのでした。
過去の地球は温暖だった、という説ですが、
・今は氷に閉ざされている南極大陸と北極圏に石炭層や珊瑚の化石が発見されていること
(石灰=植物の死骸=南北両極でかつて植物の育つ温暖な環境があった)
・「古生代」とされている木には、ほとんど年輪がないこと(四季がなく一年中温暖な気候だと年輪はできない)
・現在は暖かい地方にしか住まない動物の遺骸が、実際には地球上いたるところで見つかる
などが根拠だと考えられています。
さらに当時は全世界に植物が生えていたので、大気中の酸素濃度が今よりも高かったことがわかっています。
琥珀(木のヤニの化石)の中に閉じこめられた気泡の空気を調べると、太古の大気中の酸素濃度は約30%あったらしいです。
(現在の酸素濃度は21%)
まとめると、
地球にはかつて『水蒸気層』なる現在には存在しない分厚い水蒸気の層があって、その温室効果により地球は《温暖》《高気圧》《高酸素濃度》な環境だったということです。
なんだってそんな話をしだしたかというと、この『水蒸気層』こそが『大いなる水門』だとしているのが創造論者の言い分だからです。
分厚い水蒸気の層…地球を丸々包む水風船のような壁に、彗星や小惑星が地球に衝突したら。
たとえばそれが恐竜たちを絶滅に追いやったとされる、約6550万年前メキシコのユカタン半島に落ちたとされる隕石だったら。
直径10-15kmの大きさの隕石が、約20km/sで突っ込んでくるわけです。
猛烈なスピードで大気を切り裂かれ大穴を開けられた水蒸気層は、非常に不安定な状態になります。
更にそれが地球に衝突すると、広島型原爆の約10億倍、マグニチュード11以上の衝撃が地上を襲います。6550万年経った今でも衝突痕跡である約160Kmの円形クレーターが残る程の衝撃です。
海に落下した場合は約5000メートルの高さの大津波が発生し、大陸に落ちた場合は、発生する衝撃波によって、半径240キロ以内のすべてのものがなぎ倒されます。
衝突地点付近からは膨大な量のチリが一気に空高く吹き上げられて上空の水蒸気層にまで達し、太陽光線をさえぎって水蒸気層を冷やします。
冷やされた水蒸気は水に変わり(鍋のフタに水滴がいっぱい溜まるのを想像すると分かりやすい)、吹き上げられたチリを中心核として雨粒を形成します。
雨が降るためには、雨滴を形成する心核となる微少物質(チリなど)が必要なのです。
そうして降る雨は、局地的な雨雲で降る雨とは根本的に違います。
なにしろ地球の周りを取り囲んでいた分厚い水蒸気層が全て雨になって落ちてくるのですから、本当に天地をひっくり返したような雨だったことでしょう。
更に、隕石の衝撃で起こった地震で、初生水をたっぷり溜め込んだ岩盤にバリバリ地割れが走ります。
上からは天が海になったような雨、下からは地下水の洪水。まさに水攻め。
ちなみに創造論者の方は、「先カンブリア時代」と呼ばれている最下層の地層の上にある地層はすべて、ノアの大洪水の時に一挙に形成されたと考えています。
『地層は長い年月をかけて徐々に形成されたのではなく、大洪水のときに一挙に形成された』としていて、どういうことかっていうと『6500万年前のことだと思われてる出来事は実は5000年前の出来事で、聖書のノアのお話こそが真実だ』と考えているんですね。
私は逆に、6500万年前に起こったことを客観的に観ることのできた存在がいて、彼らの記録を受け継いだのがシュメールの民で、聖書はそのお話を更に受け継いだものなんじゃないかと考えているのですが。
とりあえず、続きは次回ということで。
今回の曲は、バロック時代のシチリアの作曲家ミケランジェロ・ファルヴェッティ作曲「大洪水」
この時代のシチリア島にはまだイスラム文化が残っていたらしく、アラブの楽器が使われているところに注目です。
https://youtu.be/ZOE2A-A6yfs
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
前回に引き続き、ノアの方舟のお話です。
※前回の章と若干被ってる内容の本文は割愛します。
○第七章
主はノアに言いました。
「あなたはすべてのきよい動物の中から7つがいずつ、きよくない動物の中から1つがいずつ、空の鳥からも7つがいずつ取りなさい。その種類が地上で生き残るために。
あと7日経ったら40日と40日夜雨を降らせて、地上の生き物を全部消し去るよ。
」
ノアは全部言われた通りにしました。
ノアはそのとき600歳でした。
ノアの生涯の600年目の第2の月の17日、巨大な大いなる水の源がことごとく張り裂け、天の水門が開かれました。
大雨は40日と40夜降りました。
ノアは三人の息子たちであるセム、ハム、ヤペテと妻、息子たちの妻とあらゆる獣、家畜、地を這うもの、鳥、翼のあるすべてのものと一緒に箱舟に入りました。
神は、彼の後ろの戸を閉じました。
水かさが増していき箱舟を押し上げたので、それは地から浮かび上がって水面を漂いました。
水は山々をすべて覆いつくし、その更に15キュビト(約7.5メートル)増しました。
こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も地に群生するすべてのものも、また人も死に絶えました。
箱舟に乗っていたものだけが残りました。
水は150日間、地の上に増え続けました。
~~~~~~~~~~~~~
神の命じられるまま50メートルプール22杯半分の大きさの舟を造るノアに、神様は何度か語りかけたのでしょう。
建設途中、何十年も何の音沙汰もなかったら、ノアも不安になっちゃいますもんね。
最初「すべての生き物のつがいを乗せよ」と言っておりましたが、さすがに全部乗り切るわけないと神も思ったんでしょうかね。
「きよい動物7つがい、きよくない動物1つがい、鳥7つがい」
という縛りをつけました。
この、「きよい」「きよくない」はユダヤ教の《カシュルート》と言われています。
このあとの『レビ記』とか、ユダヤ教の『タルムード』で詳しく説明してくれるのですが、食べて良い動物と食べちゃいけない動物の決まりごと…一般にユダヤ教の食物の清浄規定のことです。
カシェル(アシュケナジ系のユダヤ人の言語イディッシュ語ではコシェル)は「相応しい状態」を示す形容詞で、ユダヤ教戒律に適合したものであることを示します。食物に関してカシェルと言えば、食物の清浄規定(カシュルート)に適合した食べてよい食物のことを指します。
ただし、神様はこの時点では舟に乗せて生き残らせる動物として「きよい」「きよくない」という言葉を使っているだけなので、食用として書いているわけではありません。
この時代、勿論まだユダヤ教は確立されていませんけれども、ノアは「きよい動物」「きよくない動物」と言われただけでそれが分かったということは当時の常識だったのかもしれません。
どうせ残すならきよい動物だけにすりゃよかったのに、と思いますが、そこは恐らく現実との兼ね合いだろうと想像します。
だってそこで清くない動物が全部滅ぼされたことになっちゃったら、なんで今そうした動物が生きてるのか説明できなくなってしまいますからね。
恐竜だって、最初はヨーロッパで存在を確立させるためキリスト教の聖書を根底とする世界観と戦った挙げ句、『恐竜は古代に存在した巨大な草食のトカゲ』と定義することでやっと存在を認められたのですから。
今では肉食の恐竜は当たり前に認められ、毛の生えた《鳥に近い恐竜》もいますし、もう一息ですね!(笑)
ところがここで問題が起きてきます。
この章の前半では『きよい動物7つがい、きよくない動物1つがい、鳥7つがいを乗せる』ように神が命じていますのに、ノアはすべての動物を乗せてしまいました。
確かにこの前の章で神様は『すべての動物を乗せる』ように命じられましたが…ふつう新しい命令が来たら、そっちを優先しますよね。
どういうことなんでしょうか。
調べてみましたら、聖書に載っているノアの洪水の話は2つの民話を混ぜ合わせて作られているという説がありました。
実は、創世記でも同じようなことが起こっています。創世記はもっと複数の話を混ぜ合わせていて、話が前後したり同じ話を何度もしたり、ちょこちょこ矛盾が起こったりしています。
最初に女と男をペアで作ったのに、後からアダムの妻として新たにエバを作ったりとかね。最初の女はどこ行った??
(後世になって、最初に作られた女はアダムとの性行為を拒否して逃亡し、その後悪魔となった『リリス』であるとされた。完全に後付けの設定だと思うが)
元々この大洪水の神話は、シュメール王ギルガメシュを神格化した古代メソポタミアの大ベストセラー《ギルガメシュ叙事詩》から拝借したエピソードです。
多分、この話を元にした《ノアの洪水》の物語はいくつもあったのでしょう。それを無理矢理ひとつの話にしたから、こういうことが起こったというわけです。
とりあえず、最終的にはノアは全部の動物を舟にのせたということです。
自分が認めたものが全員乗ったあと、神様は戸を閉めてしまいました。これで神様が認めなかった者は絶対に入ってこられません。
洪水で水が増え始めて、かつてノアを白い目で見ていた人間たちが恐怖に駆られ血相を変えて助けを求めても、ノアが可哀想に思って彼らを助けてやりたいとどんなに望んでも、戸が開くことはなかったのです。
○第八章
神は、ノアと、箱舟の中に彼と一緒にいたすべての獣やすべての家畜のことを心に留めておられました。
それで、神が地の上に風を吹かせると水は引き始めました。
大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、大雨がとどめられました。
水は次第に引いていき、方舟は第7の月の17日にアララテ山の上にとどまりました。
水は第10の月までますます減り続け、第10の月の1日目に山々の頂が現れました。
40日の終わりになって、ノアは箱舟の窓を開き、烏を放ちました。烏は地面の水が乾ききるまでウロウロしていました。
ノアは水が引いたかどうか見るために鳩を放ちました。鳩は、休む場所が無かったので戻ってきました。
それから7日後に再び鳩を放つと、鳩は夕方にオリーブの若葉をくわえて戻ってきました。
それから更に7日後にもう一度鳩を放つと、そのまま戻ってきませんでした。
ノアが601歳になった年の第1の月の1日に水は地上から乾き始めて、第2の月の27日に乾ききりました。
神様はノアに言いました。
「みんな箱舟から出なさい。
そんで地に群がって、生み、増えなさい。」
それで、箱舟に乗っていたすべてのものが外に出ました。
ノアは主のために祭壇を築いて、すべてのきよい家畜とすべてのきよい鳥のうちから幾つかを選びとって《全焼のいけにえ》を捧げました。
主は、そのなだめのかおりをかがれ、心のなかでこう言いました。
「今後は絶対人のためにこの地を呪うのはやめるよ。人の心を思い計るのは悪いことだからね。もう全部の生き物を滅ぼしたりしない。種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜は終わることはない。」
~~~~~~~~~~~~~~~
神のさばきである洪水が、やっとこ終わりました。
ノアたちが何日間箱舟に缶詰めになったか書いてありますが、先程書きましたとおり、どうやら2種類の《ノアの方舟神話》を無理矢理混ぜたために数字の計算が厄介なことになっています。
その説の数え方で整理しますと
①
40日40夜降った雨の水が40日間地上にあり、40日間かけて引き、それから14日目に放った鳩は戻ってこなかった。
40+40+40+14=134日
②
ノアが600歳の年の2月17日に雨が降り始め、150日間その水が地にあった。ノア601歳の年の1月1日に乾きはじめ、2月27日に乾ききった。
雨が何日間降り続いたかは書いていないが、雨が降り始めてから乾ききるまで1年と10日間。メソポタミアで使われた太陰太陽暦では1年が354日となるので、合計して364日
ここで注目なのが、今まで「○日目、○日間、○年間」という表現しか使われていなかった聖書に「第○の月の△日目」という表し方が初めて出てきたのです。
①の方舟伝説が昔からあったやつで、②の方舟伝説はあとから暦の概念が出来たあとに書かれたものかもしれません。
とにかく、長い間舟に缶詰めだったノア一家と動物たちは、ようやっとお天道様を見ることが出来たわけです。
彼らの乗った方舟は《アララテの山》というところに流れ着きました。
現在のトルコに《アララト山》という山がありますが、これは12世紀以降にヨーロッパ人により命名されたものです。
現在のアララト山頂から見つかった古い時代の木の化石や、航空写真から見出だした方形の船の跡らしいものをノアの箱舟の痕跡だとし、ノアの箱舟伝説が実証されたと主張する説もあります。
実際のところ、ノアの伝説は本当にあったことなのか?
この洪水ですが、元ネタはギルガメシュ叙事詩と先程書きましたけれども、洪水の範囲はメソポタミア一帯だけとの説が有力です。今でこそ、イラクやイスラエルなどかつてメソポタミアと呼ばれていた地域は砂漠気候地帯ですけれど、昔は豊かな農地が広がっていたわけですので雨量も多かったでしょう。シュメール神話に水の神が多いことからも伺えます。実際しばしば洪水が起きる地域だったようで、暦も雨季と乾期を割り出すために発達したようです。一度水害や日照りが起これば、農業には大打撃ですからね。
(以下、妄想です)
そんな中で、通常よりもひときわ大きな洪水が起こったとき。ある男が前々から大きな木製シェルターを作って、自分の家族や家畜を救ったのです!他の村人たちの家族や家畜はみんな流されてしまったけど、彼の家だけは家族も財産も無事でした。
以前羊について語ったとき書きましたが、古代メソポタミアでは羊の数イコール経済力だったので、羊が水害でみんな死んでしまうことはすなわち家族の死を意味するわけです。
村人たちは
「なんて賢い男だ」
「いやいや、きっと水神さまにお告げをもらったんだべ」
「でっかい洪水が来るぞって、神さまに教えてもらったに違いねぇべ」
と噂し、伝説として語り継いだ。
メソポタミアの集落の伝説だったこの昔話がバビロニアの治世になってからギルガメシュ王を神格化するために書かれた《ギルガメシュ叙事詩》に取り込まれ、アッカド、カルデア(新バビロニア)と引き継がれ、そこから古代ギリシア、古代ローマなど、世界各地の神話として散らばった。
《創世記》も同じで、編纂していた人がこの昔話に目をつけて、シュメール神話とギルガメシュ叙事詩にある大洪水と絡めて聖書に載せた…と。
こんないきさつだったんじゃ無かろうか。
ノアに関してはそう考えてまぁ納得出来るんですが、問題はその元ネタのギルガメシュ叙事詩の洪水の方です。
神話の洪水は、本当にただのお伽噺なんでしょうか?
もし大洪水が地球規模のものだったら、地球上の山々すべて…エベレスト山さえもおおうほどの水が人間たちを襲ったとしたら、現在地球上にある水の量では到底足りない計算になります。
洪水以前の地球は今よりも平坦で大洪水の結果山々や深海が出来たという説もありますが、それでいくと1年間で8000メートル級の山々と10000メートルの深さの海溝ができたことになり、そのような変動は地球そのものを大激変させ箱舟も破壊されてしまいます。
有力な説では、当時の人間の居住はメソポタミア地方に限られていて地球規模には広がっていなかったので、ここに書かれた「地上全て」とは「当時の人間視点から見える範囲での地上全て」というわけです。
でも『洪水は世界規模で実際あったことだ
』と主張する説も興味深いもので、私としては絶対無視できません。
確かにたった1年で全部のことが起こったというのは非現実的ですけれども、一つ一つの事柄を整理してみますと決して有り得ない話ではないので。
現在地球にある山々と海溝を全部ならすと、地球全体が2400~2700メートルの海底に沈んでしまうと算出されているそうです。
水が無い訳じゃないんです。「エベレストとかヒマラヤとかを覆えるだけの水」が無いから無理だろ、って話なんですわ。
その時代にいきなり起こったとするのが無理だとするなら、紀元前4000年よりももっともっと大昔に起きた出来事だったとしたらどうでしょう?そしてその頃にはもう巨人、ないし人間を作った存在が地球にいて、その様子を後世に伝えるために語り継いだ話だったとしたら。ロマンですねぇ!
『「巨大な大いなる水の源」が、ことごとく張り裂け』は、当時、地殻のさらに下には大量に水(初生水…一度も外へ出ていない水)を溜めた層、あるいは水がめのような窟があって、それが地震や噴火を伴う大地殻変動によって地割れと共に噴き出してきた、と考えられます。
『「天の水門」が開かれた』は、大気の変動、火山噴火などに伴う大量の水蒸気などで大雨が降ったのではないでしょうか。
この話を考えるとき思い出すのが、とある説で《地球を覆う大気の層は今よりずっとずっと厚かった》というものです。
ヘンリー・モーリス博士という人が言うには、太古の地球の様子と大洪水以前の環境は科学的に一致する、というのです。
『創造科学』と呼ばれるこの考え方は神学で科学を判断しようとするもので、まず信仰ありきで科学をその道具とする…というものです。
その説ですと、ノアの大洪水以前の地球の上空には、膨大な量の水蒸気からなる「水蒸気層」が存在していたといいます。
そのために、昔の地上は気圧が高くて温暖だったらしいのです。
その証拠として挙げられているのが、プテラノドンの化石。
プテラノドン(学名:Pteranodon)は、中生代白亜紀後期の約8,930万- 約7,400万年前に生息していた翼竜の一種。
ギリシア語で pteron; “翼”と、an-; 否定辞 とodous; “歯”を合わせたもので、「翼があり歯がない(もの)」という意味です。
翼を広げると10メートル以上にもなり、現在の研究では「飛ぶことは不可能」とされています。
今の気圧でそれだけの翼を動かそうと思ったら筋力が滅茶苦茶必要になるわけですけども、そうなると筋肉が増えて体重も重くなる。じゃあ翼を軽くすればいいじゃない、と骨を軽くした場合、台風に挑むビニ傘の如く、風圧に耐えきれず翼はバッキバキに折れます。
ですので、プテラノドンは「羽ばたいて飛ぶのは無理だけど、滑空していた」というのが現在の定説です。
現在の大気圧のもとでは、翼の幅が五メートル前後が飛べる限度と言われています。
でも、創造論の学者たちは
「大洪水以前の地球は、上空にあった水蒸気層のために現在より2倍気圧が高かった」
と考えていて、古代の空では巨大で重たい生物でも飛べたとしています。
プテラノドンの胃からは魚が見つかっているため、彼らは海上を飛んで魚を捕まえて食べていたとされるのですが
海の上に着水した場合、滑空しか出来なかったらどうすんの?と思うので、この《重たいものでも飛べた説》は個人的にいいなぁと思うのでした。
過去の地球は温暖だった、という説ですが、
・今は氷に閉ざされている南極大陸と北極圏に石炭層や珊瑚の化石が発見されていること
(石灰=植物の死骸=南北両極でかつて植物の育つ温暖な環境があった)
・「古生代」とされている木には、ほとんど年輪がないこと(四季がなく一年中温暖な気候だと年輪はできない)
・現在は暖かい地方にしか住まない動物の遺骸が、実際には地球上いたるところで見つかる
などが根拠だと考えられています。
さらに当時は全世界に植物が生えていたので、大気中の酸素濃度が今よりも高かったことがわかっています。
琥珀(木のヤニの化石)の中に閉じこめられた気泡の空気を調べると、太古の大気中の酸素濃度は約30%あったらしいです。
(現在の酸素濃度は21%)
まとめると、
地球にはかつて『水蒸気層』なる現在には存在しない分厚い水蒸気の層があって、その温室効果により地球は《温暖》《高気圧》《高酸素濃度》な環境だったということです。
なんだってそんな話をしだしたかというと、この『水蒸気層』こそが『大いなる水門』だとしているのが創造論者の言い分だからです。
分厚い水蒸気の層…地球を丸々包む水風船のような壁に、彗星や小惑星が地球に衝突したら。
たとえばそれが恐竜たちを絶滅に追いやったとされる、約6550万年前メキシコのユカタン半島に落ちたとされる隕石だったら。
直径10-15kmの大きさの隕石が、約20km/sで突っ込んでくるわけです。
猛烈なスピードで大気を切り裂かれ大穴を開けられた水蒸気層は、非常に不安定な状態になります。
更にそれが地球に衝突すると、広島型原爆の約10億倍、マグニチュード11以上の衝撃が地上を襲います。6550万年経った今でも衝突痕跡である約160Kmの円形クレーターが残る程の衝撃です。
海に落下した場合は約5000メートルの高さの大津波が発生し、大陸に落ちた場合は、発生する衝撃波によって、半径240キロ以内のすべてのものがなぎ倒されます。
衝突地点付近からは膨大な量のチリが一気に空高く吹き上げられて上空の水蒸気層にまで達し、太陽光線をさえぎって水蒸気層を冷やします。
冷やされた水蒸気は水に変わり(鍋のフタに水滴がいっぱい溜まるのを想像すると分かりやすい)、吹き上げられたチリを中心核として雨粒を形成します。
雨が降るためには、雨滴を形成する心核となる微少物質(チリなど)が必要なのです。
そうして降る雨は、局地的な雨雲で降る雨とは根本的に違います。
なにしろ地球の周りを取り囲んでいた分厚い水蒸気層が全て雨になって落ちてくるのですから、本当に天地をひっくり返したような雨だったことでしょう。
更に、隕石の衝撃で起こった地震で、初生水をたっぷり溜め込んだ岩盤にバリバリ地割れが走ります。
上からは天が海になったような雨、下からは地下水の洪水。まさに水攻め。
ちなみに創造論者の方は、「先カンブリア時代」と呼ばれている最下層の地層の上にある地層はすべて、ノアの大洪水の時に一挙に形成されたと考えています。
『地層は長い年月をかけて徐々に形成されたのではなく、大洪水のときに一挙に形成された』としていて、どういうことかっていうと『6500万年前のことだと思われてる出来事は実は5000年前の出来事で、聖書のノアのお話こそが真実だ』と考えているんですね。
私は逆に、6500万年前に起こったことを客観的に観ることのできた存在がいて、彼らの記録を受け継いだのがシュメールの民で、聖書はそのお話を更に受け継いだものなんじゃないかと考えているのですが。
とりあえず、続きは次回ということで。
今回の曲は、バロック時代のシチリアの作曲家ミケランジェロ・ファルヴェッティ作曲「大洪水」
この時代のシチリア島にはまだイスラム文化が残っていたらしく、アラブの楽器が使われているところに注目です。
https://youtu.be/ZOE2A-A6yfs
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2015/07/23 (Thu)
懲りずに続きました。
※この記事の内容は、キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
そんなわけで前回の続きからいきます。
○第五章
これはアダムの歴史の記録です。
アダム(享年930歳)
↓
セツ(享年912歳)
↓
エノシュ(享年905歳)
↓
ケナン(享年910歳)
↓
マハラエル(享年895歳)
↓
エレデ(享年962歳)
↓
エノク(行方不明/当時365歳)
↓
メトシェラ(享年969歳)
↓
レメク(享年777年)
↓
ノア
レメクは息子にノアと名付けて、
「主がこの地を呪われたので私たちは苦労しているが、この子は私たちに慰めを与えてくれるだろう。」
と言いました。
ノアはセム、ハム、ヤペテという3人の子供を生みました。
~~~~~~~~~~~~~~~
この章は、ほとんどセツの子孫の説明です。セツ以降のアダムの血筋がどうなったのか、教えてくれてます。
ケナン(悲哀)
マハラエル(聖なる神)
エレデ(下りて来る)
エノク(捧げる、始まる)
メトシェラ(死をもたらす)
レメク(悲しみ、絶望、王、征服者)
ノア(平安をもたらす、安らぎ)
どうやら、今度はうまく神様に忠実な子孫たちが育っていったようです。
けれども、ここに挙げられた人々の他にも人間はガンガン生まれまして、その人たちはあんまり良い人間ではなかったようです。
エノクの町も変わらず繁栄してたでしょう。
セツの子孫であるアダムの子供たちは、神様に祈りながらも過酷な時代を生きていったことが想像できます。
セツの7代目の子孫であるエノクは、カインの息子のエノクとは別人です。神と共に歩み、《捧げる》の名前通り、神に取られたために地上から居なくなりました。
彼は後に『エノク書』の主人公になり、最終的には天使メタトロンになりますが、ここでは割愛します。またの機会のときにがっつり掘り下げたいものです。
(ちなみにPS3のゲーム『エルシャダイ』の主人公イーノックはこのエノクがモチーフになっています。「そんな装備で大丈夫か?」)
エノクの息子メトシェラという名前の「メト」は「死、死者」を意味します。「シェラ」は「シャーラハ」で「送る」という意味です。つまり「メトシェラ」とは「彼の死後に送られる」という意味です。
なんでこんな名前なのか。
一説では、《メトシェラが死んだあとに何かがやってくる》という意味が込められていたといいます。何が来るかは、次の章に書いてあります。
エノクは神に忠実な人でした。
息子が死んだ後に起こることを、あらかじめ啓示されていたと思われます。
メトシェラは187歳のときに子供を作ります。その子供はレメク。…また出ました、この名前。もちろんエノクの町の長レメクとは別人ですが、ちょっと不吉ですね。メトシェラは力に固執して征服者になってしまったのか、あるいは現世に絶望してしまったのか。
大きくなったレメクは自分の子供に《ノア》と名付けます。平安をもたらす者、安らぎを与える者であれ、という意味です。
この名前を付けるに当たり、レメクは
「主が土の呪いをかけたせいで私らは苦労してるけど、この子が安らぎを与えてくれるだろう」
と言っております。
うーん、神に怨み言を言うあたり、どうやらこのレメクもカインの子孫のレメクと大差なさそうです。これも因縁か、死んだのは777歳…。かつてカインの血筋のレメクが「カインを殺せば7倍の報復、レメクなら77倍」と言っていた高慢のしっぺ返しが来たようで、他の子孫に比べてだいぶ早逝です。(それでもすごく長寿ですが)
さて、アダムから数えて10代目の子孫であるノアが、次の章からの主人公になります。
○第六章
人が地上に増えると、神の子たちは人の娘が美しいのを見て、自分たちの妻にしました。
主は「私の霊は永久には人の中に留まらない。人は肉に過ぎないから。だから人の年齢は120歳までにしよう。」と言いました。
神の子たちと人の娘の間に子供ができた頃から、その後にも《ネフィリム》が地上にいました。これらは昔の勇士で、名のある者たちでした。
主は、地上に人の悪が増えるのを見て人を作ったことを悔やみました。
「わたしが創造した人を地上から消し去ろう。人も家畜も這うもの(虫とか)も鳥も一緒に消しちゃおう。こんなん作らなきゃよかった。」
でも、ノアだけは主のお気に入りでした。
ノアは正しい人で、こんな時代でも神と共にありました。
神はノアに言いました。
「今から地上ごとすべての生き物を滅ぼすよ。だからゴフェルの木で箱船作って、外側と内側に木のヤニを塗りなさいね。
大きさは長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビトで、天井から1キュビト以内に天窓付けて、3階建てで3つのデッキを付けてね。
これから大洪水を起こすけど、あなたとは契約を結んであげるよ。
その船に、家族全員と全ての生き物のつがいを乗せて、食糧も積んでおいてね。」
ノアは言われたとおりにしました。
~~~~~~~~~~~~~
はい、これまた有名な《ノアの方舟》の物語です。
メトシェラが死んだあとに来るものとは、神の裁き…大洪水だというわけでした。
つまり彼が生きてる間は、大洪水の執行猶予期間だよ、という意味が込められていたといいます。
メトシェラが生きている間に、息子のレメクは182歳のときに息子のノアを生みます。そのノアが500歳になったときセム、ハム、ヤペテという名前の息子たちを生みます。
そしてノアが600歳の時に、大洪水による神の裁きが起こります。
メトシェラの生涯は969年…
187(レメクが生まれたメトシェラの歳)
+
182(ノアが生まれた時のレメクの歳)
+
600(大洪水が起こったときのノアの歳)
=
969
メトシェラの死と大洪水による神のさばきは同じ年に起こっています。
アダム夫妻とカインに続き、人間に裏切られ続けた神様はついにここに来てぶちギレました。
執行猶予を969年も与えたのに、人間たちはどんどん自分の理想とかけ離れていく。
慈悲深く我慢強いといっても限度があります。
更に、神が頭の悩ましていたもうひとつの要因が《ネフィリム》の存在でした。
ネフィリム…《落ちてきた者たち、打ち倒す者たち》は、後に語られますが巨人の種と言われています。かつては名のある勇士たちだったそうな。
…ところで、この《神の子》とは誰のことでしょう?
これについてはいまだに様々な説がありまして、答えがありません。
エノク書では、《神の子》は堕天した天使であるとしています。天使と人間のハーフが、ネフィリムだということですね。
ただ、この時点では天使という言葉はまだ一度も本書に出てきてません。エノク書は紀元前1、2世紀頃に書かれたといいます。考えてみたら後世に書かれたそういう偽典も言ってしまえば二次創作なんですよねえ。
説によっては、ここでの《神の子》はセツなどを筆頭にした《神と共に歩む人間たち》だとする人もいます。
ただしそれだと、普通に人と人の子供なので巨人になるとは考えにくい。
…ちょっとこんがらがってきたので、ここでネフィリムについて本書に書いてあることだけまとめてみましょう。
○《神の子》は人間の女の美しさに惹かれ、自分たちの妻にした
○この頃に神は人の寿命を120年にした
○彼らに子供ができた頃、地上にはネフィリムがいた。その後にも存在する
○《ネフィリム》という名の意味は打ち倒す者、天から落ちてきた者、堕落した者
○ネフィリムは、かつては名のある勇士だった
登場人物は
・神
・神の子
・ネフィリム
・人間
本文をそのまま読むと、神の子と人間の女の子供たち=ネフィリムと明記されているわけではありません。
●神の子×人間の女≠ネフィリム
そして今のところ、実は神には子供がいました、という展開もありません。
ただし、神サイドには主以外にも主と同族の存在があったんじゃないかなーと私は思いました。神はひとりじゃない?
「さあ人を造ろう。《われわれ》のかたちとして、《われわれ》に似せて。」(第1章より)
「見よ。人は《われわれのひとり》のようになり、善悪を知るようになった」(第3章より)
神は一度も人間に対して「我が子」とは呼んでいません。
ただ、いつも人間に対しては「あなた」と呼んでいて、丁寧に扱っているのがわかります。
でもそのわりには、「人は肉にすぎない」と言ってます。人はあくまで神のかたちの人形ということでしょうか。
「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は120年にしよう」(第6章より)
《霊》という言葉は、第1章の一番最初の方にも出てきてました。まだ地上になんにも無いときに、水の上を神の霊が動いていたといいます。人間は、塵で作った身体に神の息と一緒にこの《霊》を吹き込まれて生まれた、とされているわけです。
つまり、
●アダムの血筋の人たちも人間である
●ただし、聖書に名前が上がっている人物以外は《その他大勢の人》として扱っていて、アダムの息子セツの血筋は特別視されている
このお話を語り継いでいた人たちは、当然「自分達は神様から選ばれた特別な人間なんだよ」ということを言いたいわけですから、神に作られたアダムの血筋の人間を《神の子》と呼んでもおかしくないですね。
エバがカインを産んだとき、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言いました。
実際はアダムとの間にできた子ですが、《子は天からの授かり物》といいますから、まあ不自然じゃないでしょう。
●神の子=アダムの直系
だとして、では《人の娘》とは誰か。
色々な説を見た中で一番納得いったのは、
●人の娘=カインの血筋の人間の女
カインが作ったエノクの町がどれほど繁栄したかは書かれていませんが、相当力を持った国になっていたでしょう。
既にアダムが生まれてから1656年経っています。カインのアベル殺しに失望してセツを生んだのがアダム130歳の時ですので、それを差し引いて1526年…。文明がひとつ生まれるには十分な時間です。
ちなみに前回、シュメール文明のウバイド期(紀元前5500~3500年)からウルク期(紀元前4000年)の話を書きましたが
この《シュメール人》も巨人という説があるんですよねえ。
まあ、この時点では聖書本文に「ネフィリムが巨人だ」とは書いていないので、巨人の概念は抜きにして考えてみます。
シュメール人は、最古の《文明》を築いた民として痕跡は残っておりますが、シュメール人の地理的な起源がどこなのかを正確に決定することは難しいと言われています。
●シュメール人=ネフィリム
としたらどうか?
アダムとイブの話もそうですけれども、聖書はお話の逸話をシュメール神話から取ってきていることがとても多いのです。これから起こる大洪水も、元はシュメール神話から取られた話と思われます。
私はむしろ、新しい宗教を樹立するにあたり昔から語り継がれてきた民話をパロディ化して作った話だと思っていますが。
一部のオカルトファンの間では、
ネフィリム=アヌンナキ(シュメール神話の神々)=シュメール人
という《古代宇宙飛行士説》が囁かれていますが
私はこれもアリだと思っているんですね(笑)
となると、ネフィリムがかつて人間を作った神々か、あるいはその末裔か…ということになるんですけど
そうなるとアヌンナキたちは奴隷として作った人類と一緒に、自分の同族まで滅ぼすことになってしまいます。
それはどうにもあんまりだと思いまして、
①神の子=セツの子孫たち
②人の娘=カインの子孫の女たち
とした場合
③ネフィリム=シュメールより前に住んでいたウバイド人をはじめとする先住民←NEW!
ではいかがでしょう?
《ネフィリム》という名前の、『落ちてくる者』でなくて『打ち倒す者』の方の意味を取ってみました。
シュメールが「現代の形の人間」を遺伝子操作で作った人たちの末裔か、作られた人間たちだったら、元から地球に住んでた先住民は『倒すべき者』ですものね。
ウバイド人だって、泥で大きな建物を作ったり神殿を建てて神を崇めたり、当時としてはなかなか高度な文化を持っていたのですよ。紀元前5500年から3500年までの約2000年間、文明を築いてきた《昔の勇士、名のある者たち》だったと言えましょう。
恐竜が生きていた時代を共に生き、重力の変化に対応すべく小型化の道を選んだ『地球古来の人間』はウバイド人たち及びその祖先の巨人たちだったんではないかとひそかに考えたりしている今日この頃です。
でもシュメールの高度な文化には敵わなかった。
シュメール人は自らを「ウンサンギガ」(「混ぜ合わされた者」の意)と呼び、自分達の住む土地を「キエンギ」(「君主たちの地」の意)と呼んでいたそうです。
人工的に生み出され、この星を牛耳るよう、何者かから定められて生まれた存在…。
…だとすると、『神の子』はむしろシュメール人を作った側の人々とも考えられますね!
《古代宇宙飛行士説》では、人間を作ったのは惑星ニビルの民と言われています。
①神の子=人間を作った何者かα(一部)
②人の娘=シュメールの女
③ネフィリム=先住民ウバイド
④神=人間を作った何者か(多数)
と考えたら。面白いんでないかなー。あくまで妄想ですよ。
私自身は惑星ニビルの存在を信じてるわけじゃありませんが、人間は何かに作られたのだろうな、とは思っていますので…。コレに関しては未来人説やら宇宙人説やら色々あって本当に面白い。
ちなみにウルトラマンでもこういう表現が時々使われてて、ウルトラマン奥が深いなあと思うのでした。
あと、神様が今更人間の歳を120年に決めたことについてですが
このあとに出てくるアダムの直系の子孫たちは、この120年という縛りをガン無視して、まだまだ長寿の人々が続きます。(少しずつ寿命短くなってはきますが)
可能性としては
●年齢操作のための遺伝子改造を始めたのがこの頃からで、寿命短縮効果が出るのがだいぶ後である(段々効果が出てくる)
●このあとの洪水による紫外線照射量の変化などにより少しずつ寿命が短くなることを示唆
など、色々考えられます。シュメール王名表では古い王ほど長寿で、大洪水以前の人類最初の王アルリムは28800年間在位したとありますので、昔は人間も本当に長生きだったのではあるまいか。流石にこれは長すぎなので、別の数えかたがあるのかもしれませんが。
ある説では、これは3600を1とするシュメールの数えかたの値であって、現代の年数に直すと28800=8年になるのではないかと言われております。
…さて、ネフィリムの話がずいぶん長くなってしまいました。続きいきましょう。
ネフィリムが何であれ、悪行をなす人間たちと同じくらい神にとって厄介な存在だったことに変わりはありますまい。
とにもかくにも神は全てを滅ぼすことに決めてしまいました。
人間アダムを作ってから1656年目の、一大決心でした。
ただし、アダムの血族のひとりであったノアだけは神が望んだ通りの人間で「その時代にあっても全き人」でした。
「世紀末ヒャッハーーーー!!」な時代でも、心清く正しい男だったわけです。
神様は
「長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビトの三階建て・天窓&テラス付きのゴフェルの木製の舟」
を作るようにノアに命じました。「ゴフェルの木」は、聖書の中でもここでしか使われていない名前で、何の木なのかは未だに分かっておりません。
キュビトというのは「肘」という意味で、肘から中指の先までの間の長さに由来する身体尺です。
43~53センチと言われておりますが、その時代の王の腕の長さがすなわち1キュビトになったということです。
仮に1キュビト=50センチだとして
長さ150メートル×幅25メートル×高さ15メートル=56250立方メートル
大体50メートルプール22.5杯分の広さです。
その舟に、ノア&ノアの妻&ノアの息子&息子の妻&全ての生き物のつがいを乗せなさい、と言ったわけです。
ここで初めて、『契約』という言葉が出てきます。
契約ということは、
「○○をしてもらうかわりに△△ をします」
「○○をしてもらう報酬として△△をあげます」
など、等価交換でのやりとりがなされているということです。
親と子のようだったアダムと神の関係から、だいぶ人間と神の関係性が変わったことが伺えます。
ヨーロッパが契約社会なのは勿論キリスト教の発展によってヨーロッパの国々が成り立ったからに他なりませんが、そういう意味でいくとこの一文から全てが始まったと言っても良いでしょう。
このあとも『契約』という言葉は何回も聖書に登場することになります。そもそも聖書の内容を簡潔に表すなら「神と人間の契約について記した本」ですので、この『契約』というのが色々鍵になってくるわけです。
ここで神様がノアに持ちかけた契約は
「私に忠実であるならば、君と君の家族は助けてあげるよ」
という内容です。ノアは言われた通りにしました。
もしも神に不信の念を抱いていたら、いきなり「50メートルプール22杯分の大きさの舟を作れ」と言われて「はい、作ります」と即答出来ないですね。
そんなデカイものを作るには、お金も人手もかかったでしょう。全財産投げ打ったかもしれません。
時代は「世紀末ヒャッハーーーー!!」状態ですから、きっと協力してくれる人も少なかったでしょう。手伝ってくれたのは家族だけだった可能性もあります。
姿の見えない神の声に従って、身銭を切ってひとり巨大な舟を黙々と作る男…悪意ある人間ばかりいたという当時、ノアは彼らからどんな目で見られていたでしょう。
気が触れたと思われても不思議はありません。社会的に爪弾きにされて孤立して、経済的にも相当厳しくなったはずです。
それでもノアは神を疑いませんでした。
それこそ神様が望んだ人間の姿なのでしょう。愚直に神を信じて、言われた通りに行動する。
ニビルの民がシュメール(混ぜ合わされたもの)を『労働力』として作ったという説を思うと、それも納得がいきます。
裏を返せば「自分で考えるな」ということにもなりますが。
とにもかくにも、人間のノアと神様の間で契約が成立しました。
このあと起こる洪水については、次の章から詳しく説明されています。
ひとまず今回はここで区切ることに致しましょう。
今回の楽曲は、ベンジャミン・ブリテン作曲のオペラ《ノアの洪水》
https://youtu.be/ughJeJ4LJD0
※この記事の内容は、キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
そんなわけで前回の続きからいきます。
○第五章
これはアダムの歴史の記録です。
アダム(享年930歳)
↓
セツ(享年912歳)
↓
エノシュ(享年905歳)
↓
ケナン(享年910歳)
↓
マハラエル(享年895歳)
↓
エレデ(享年962歳)
↓
エノク(行方不明/当時365歳)
↓
メトシェラ(享年969歳)
↓
レメク(享年777年)
↓
ノア
レメクは息子にノアと名付けて、
「主がこの地を呪われたので私たちは苦労しているが、この子は私たちに慰めを与えてくれるだろう。」
と言いました。
ノアはセム、ハム、ヤペテという3人の子供を生みました。
~~~~~~~~~~~~~~~
この章は、ほとんどセツの子孫の説明です。セツ以降のアダムの血筋がどうなったのか、教えてくれてます。
ケナン(悲哀)
マハラエル(聖なる神)
エレデ(下りて来る)
エノク(捧げる、始まる)
メトシェラ(死をもたらす)
レメク(悲しみ、絶望、王、征服者)
ノア(平安をもたらす、安らぎ)
どうやら、今度はうまく神様に忠実な子孫たちが育っていったようです。
けれども、ここに挙げられた人々の他にも人間はガンガン生まれまして、その人たちはあんまり良い人間ではなかったようです。
エノクの町も変わらず繁栄してたでしょう。
セツの子孫であるアダムの子供たちは、神様に祈りながらも過酷な時代を生きていったことが想像できます。
セツの7代目の子孫であるエノクは、カインの息子のエノクとは別人です。神と共に歩み、《捧げる》の名前通り、神に取られたために地上から居なくなりました。
彼は後に『エノク書』の主人公になり、最終的には天使メタトロンになりますが、ここでは割愛します。またの機会のときにがっつり掘り下げたいものです。
(ちなみにPS3のゲーム『エルシャダイ』の主人公イーノックはこのエノクがモチーフになっています。「そんな装備で大丈夫か?」)
エノクの息子メトシェラという名前の「メト」は「死、死者」を意味します。「シェラ」は「シャーラハ」で「送る」という意味です。つまり「メトシェラ」とは「彼の死後に送られる」という意味です。
なんでこんな名前なのか。
一説では、《メトシェラが死んだあとに何かがやってくる》という意味が込められていたといいます。何が来るかは、次の章に書いてあります。
エノクは神に忠実な人でした。
息子が死んだ後に起こることを、あらかじめ啓示されていたと思われます。
メトシェラは187歳のときに子供を作ります。その子供はレメク。…また出ました、この名前。もちろんエノクの町の長レメクとは別人ですが、ちょっと不吉ですね。メトシェラは力に固執して征服者になってしまったのか、あるいは現世に絶望してしまったのか。
大きくなったレメクは自分の子供に《ノア》と名付けます。平安をもたらす者、安らぎを与える者であれ、という意味です。
この名前を付けるに当たり、レメクは
「主が土の呪いをかけたせいで私らは苦労してるけど、この子が安らぎを与えてくれるだろう」
と言っております。
うーん、神に怨み言を言うあたり、どうやらこのレメクもカインの子孫のレメクと大差なさそうです。これも因縁か、死んだのは777歳…。かつてカインの血筋のレメクが「カインを殺せば7倍の報復、レメクなら77倍」と言っていた高慢のしっぺ返しが来たようで、他の子孫に比べてだいぶ早逝です。(それでもすごく長寿ですが)
さて、アダムから数えて10代目の子孫であるノアが、次の章からの主人公になります。
○第六章
人が地上に増えると、神の子たちは人の娘が美しいのを見て、自分たちの妻にしました。
主は「私の霊は永久には人の中に留まらない。人は肉に過ぎないから。だから人の年齢は120歳までにしよう。」と言いました。
神の子たちと人の娘の間に子供ができた頃から、その後にも《ネフィリム》が地上にいました。これらは昔の勇士で、名のある者たちでした。
主は、地上に人の悪が増えるのを見て人を作ったことを悔やみました。
「わたしが創造した人を地上から消し去ろう。人も家畜も這うもの(虫とか)も鳥も一緒に消しちゃおう。こんなん作らなきゃよかった。」
でも、ノアだけは主のお気に入りでした。
ノアは正しい人で、こんな時代でも神と共にありました。
神はノアに言いました。
「今から地上ごとすべての生き物を滅ぼすよ。だからゴフェルの木で箱船作って、外側と内側に木のヤニを塗りなさいね。
大きさは長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビトで、天井から1キュビト以内に天窓付けて、3階建てで3つのデッキを付けてね。
これから大洪水を起こすけど、あなたとは契約を結んであげるよ。
その船に、家族全員と全ての生き物のつがいを乗せて、食糧も積んでおいてね。」
ノアは言われたとおりにしました。
~~~~~~~~~~~~~
はい、これまた有名な《ノアの方舟》の物語です。
メトシェラが死んだあとに来るものとは、神の裁き…大洪水だというわけでした。
つまり彼が生きてる間は、大洪水の執行猶予期間だよ、という意味が込められていたといいます。
メトシェラが生きている間に、息子のレメクは182歳のときに息子のノアを生みます。そのノアが500歳になったときセム、ハム、ヤペテという名前の息子たちを生みます。
そしてノアが600歳の時に、大洪水による神の裁きが起こります。
メトシェラの生涯は969年…
187(レメクが生まれたメトシェラの歳)
+
182(ノアが生まれた時のレメクの歳)
+
600(大洪水が起こったときのノアの歳)
=
969
メトシェラの死と大洪水による神のさばきは同じ年に起こっています。
アダム夫妻とカインに続き、人間に裏切られ続けた神様はついにここに来てぶちギレました。
執行猶予を969年も与えたのに、人間たちはどんどん自分の理想とかけ離れていく。
慈悲深く我慢強いといっても限度があります。
更に、神が頭の悩ましていたもうひとつの要因が《ネフィリム》の存在でした。
ネフィリム…《落ちてきた者たち、打ち倒す者たち》は、後に語られますが巨人の種と言われています。かつては名のある勇士たちだったそうな。
…ところで、この《神の子》とは誰のことでしょう?
これについてはいまだに様々な説がありまして、答えがありません。
エノク書では、《神の子》は堕天した天使であるとしています。天使と人間のハーフが、ネフィリムだということですね。
ただ、この時点では天使という言葉はまだ一度も本書に出てきてません。エノク書は紀元前1、2世紀頃に書かれたといいます。考えてみたら後世に書かれたそういう偽典も言ってしまえば二次創作なんですよねえ。
説によっては、ここでの《神の子》はセツなどを筆頭にした《神と共に歩む人間たち》だとする人もいます。
ただしそれだと、普通に人と人の子供なので巨人になるとは考えにくい。
…ちょっとこんがらがってきたので、ここでネフィリムについて本書に書いてあることだけまとめてみましょう。
○《神の子》は人間の女の美しさに惹かれ、自分たちの妻にした
○この頃に神は人の寿命を120年にした
○彼らに子供ができた頃、地上にはネフィリムがいた。その後にも存在する
○《ネフィリム》という名の意味は打ち倒す者、天から落ちてきた者、堕落した者
○ネフィリムは、かつては名のある勇士だった
登場人物は
・神
・神の子
・ネフィリム
・人間
本文をそのまま読むと、神の子と人間の女の子供たち=ネフィリムと明記されているわけではありません。
●神の子×人間の女≠ネフィリム
そして今のところ、実は神には子供がいました、という展開もありません。
ただし、神サイドには主以外にも主と同族の存在があったんじゃないかなーと私は思いました。神はひとりじゃない?
「さあ人を造ろう。《われわれ》のかたちとして、《われわれ》に似せて。」(第1章より)
「見よ。人は《われわれのひとり》のようになり、善悪を知るようになった」(第3章より)
神は一度も人間に対して「我が子」とは呼んでいません。
ただ、いつも人間に対しては「あなた」と呼んでいて、丁寧に扱っているのがわかります。
でもそのわりには、「人は肉にすぎない」と言ってます。人はあくまで神のかたちの人形ということでしょうか。
「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は120年にしよう」(第6章より)
《霊》という言葉は、第1章の一番最初の方にも出てきてました。まだ地上になんにも無いときに、水の上を神の霊が動いていたといいます。人間は、塵で作った身体に神の息と一緒にこの《霊》を吹き込まれて生まれた、とされているわけです。
つまり、
●アダムの血筋の人たちも人間である
●ただし、聖書に名前が上がっている人物以外は《その他大勢の人》として扱っていて、アダムの息子セツの血筋は特別視されている
このお話を語り継いでいた人たちは、当然「自分達は神様から選ばれた特別な人間なんだよ」ということを言いたいわけですから、神に作られたアダムの血筋の人間を《神の子》と呼んでもおかしくないですね。
エバがカインを産んだとき、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言いました。
実際はアダムとの間にできた子ですが、《子は天からの授かり物》といいますから、まあ不自然じゃないでしょう。
●神の子=アダムの直系
だとして、では《人の娘》とは誰か。
色々な説を見た中で一番納得いったのは、
●人の娘=カインの血筋の人間の女
カインが作ったエノクの町がどれほど繁栄したかは書かれていませんが、相当力を持った国になっていたでしょう。
既にアダムが生まれてから1656年経っています。カインのアベル殺しに失望してセツを生んだのがアダム130歳の時ですので、それを差し引いて1526年…。文明がひとつ生まれるには十分な時間です。
ちなみに前回、シュメール文明のウバイド期(紀元前5500~3500年)からウルク期(紀元前4000年)の話を書きましたが
この《シュメール人》も巨人という説があるんですよねえ。
まあ、この時点では聖書本文に「ネフィリムが巨人だ」とは書いていないので、巨人の概念は抜きにして考えてみます。
シュメール人は、最古の《文明》を築いた民として痕跡は残っておりますが、シュメール人の地理的な起源がどこなのかを正確に決定することは難しいと言われています。
●シュメール人=ネフィリム
としたらどうか?
アダムとイブの話もそうですけれども、聖書はお話の逸話をシュメール神話から取ってきていることがとても多いのです。これから起こる大洪水も、元はシュメール神話から取られた話と思われます。
私はむしろ、新しい宗教を樹立するにあたり昔から語り継がれてきた民話をパロディ化して作った話だと思っていますが。
一部のオカルトファンの間では、
ネフィリム=アヌンナキ(シュメール神話の神々)=シュメール人
という《古代宇宙飛行士説》が囁かれていますが
私はこれもアリだと思っているんですね(笑)
となると、ネフィリムがかつて人間を作った神々か、あるいはその末裔か…ということになるんですけど
そうなるとアヌンナキたちは奴隷として作った人類と一緒に、自分の同族まで滅ぼすことになってしまいます。
それはどうにもあんまりだと思いまして、
①神の子=セツの子孫たち
②人の娘=カインの子孫の女たち
とした場合
③ネフィリム=シュメールより前に住んでいたウバイド人をはじめとする先住民←NEW!
ではいかがでしょう?
《ネフィリム》という名前の、『落ちてくる者』でなくて『打ち倒す者』の方の意味を取ってみました。
シュメールが「現代の形の人間」を遺伝子操作で作った人たちの末裔か、作られた人間たちだったら、元から地球に住んでた先住民は『倒すべき者』ですものね。
ウバイド人だって、泥で大きな建物を作ったり神殿を建てて神を崇めたり、当時としてはなかなか高度な文化を持っていたのですよ。紀元前5500年から3500年までの約2000年間、文明を築いてきた《昔の勇士、名のある者たち》だったと言えましょう。
恐竜が生きていた時代を共に生き、重力の変化に対応すべく小型化の道を選んだ『地球古来の人間』はウバイド人たち及びその祖先の巨人たちだったんではないかとひそかに考えたりしている今日この頃です。
でもシュメールの高度な文化には敵わなかった。
シュメール人は自らを「ウンサンギガ」(「混ぜ合わされた者」の意)と呼び、自分達の住む土地を「キエンギ」(「君主たちの地」の意)と呼んでいたそうです。
人工的に生み出され、この星を牛耳るよう、何者かから定められて生まれた存在…。
…だとすると、『神の子』はむしろシュメール人を作った側の人々とも考えられますね!
《古代宇宙飛行士説》では、人間を作ったのは惑星ニビルの民と言われています。
①神の子=人間を作った何者かα(一部)
②人の娘=シュメールの女
③ネフィリム=先住民ウバイド
④神=人間を作った何者か(多数)
と考えたら。面白いんでないかなー。あくまで妄想ですよ。
私自身は惑星ニビルの存在を信じてるわけじゃありませんが、人間は何かに作られたのだろうな、とは思っていますので…。コレに関しては未来人説やら宇宙人説やら色々あって本当に面白い。
ちなみにウルトラマンでもこういう表現が時々使われてて、ウルトラマン奥が深いなあと思うのでした。
あと、神様が今更人間の歳を120年に決めたことについてですが
このあとに出てくるアダムの直系の子孫たちは、この120年という縛りをガン無視して、まだまだ長寿の人々が続きます。(少しずつ寿命短くなってはきますが)
可能性としては
●年齢操作のための遺伝子改造を始めたのがこの頃からで、寿命短縮効果が出るのがだいぶ後である(段々効果が出てくる)
●このあとの洪水による紫外線照射量の変化などにより少しずつ寿命が短くなることを示唆
など、色々考えられます。シュメール王名表では古い王ほど長寿で、大洪水以前の人類最初の王アルリムは28800年間在位したとありますので、昔は人間も本当に長生きだったのではあるまいか。流石にこれは長すぎなので、別の数えかたがあるのかもしれませんが。
ある説では、これは3600を1とするシュメールの数えかたの値であって、現代の年数に直すと28800=8年になるのではないかと言われております。
…さて、ネフィリムの話がずいぶん長くなってしまいました。続きいきましょう。
ネフィリムが何であれ、悪行をなす人間たちと同じくらい神にとって厄介な存在だったことに変わりはありますまい。
とにもかくにも神は全てを滅ぼすことに決めてしまいました。
人間アダムを作ってから1656年目の、一大決心でした。
ただし、アダムの血族のひとりであったノアだけは神が望んだ通りの人間で「その時代にあっても全き人」でした。
「世紀末ヒャッハーーーー!!」な時代でも、心清く正しい男だったわけです。
神様は
「長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビトの三階建て・天窓&テラス付きのゴフェルの木製の舟」
を作るようにノアに命じました。「ゴフェルの木」は、聖書の中でもここでしか使われていない名前で、何の木なのかは未だに分かっておりません。
キュビトというのは「肘」という意味で、肘から中指の先までの間の長さに由来する身体尺です。
43~53センチと言われておりますが、その時代の王の腕の長さがすなわち1キュビトになったということです。
仮に1キュビト=50センチだとして
長さ150メートル×幅25メートル×高さ15メートル=56250立方メートル
大体50メートルプール22.5杯分の広さです。
その舟に、ノア&ノアの妻&ノアの息子&息子の妻&全ての生き物のつがいを乗せなさい、と言ったわけです。
ここで初めて、『契約』という言葉が出てきます。
契約ということは、
「○○をしてもらうかわりに△△ をします」
「○○をしてもらう報酬として△△をあげます」
など、等価交換でのやりとりがなされているということです。
親と子のようだったアダムと神の関係から、だいぶ人間と神の関係性が変わったことが伺えます。
ヨーロッパが契約社会なのは勿論キリスト教の発展によってヨーロッパの国々が成り立ったからに他なりませんが、そういう意味でいくとこの一文から全てが始まったと言っても良いでしょう。
このあとも『契約』という言葉は何回も聖書に登場することになります。そもそも聖書の内容を簡潔に表すなら「神と人間の契約について記した本」ですので、この『契約』というのが色々鍵になってくるわけです。
ここで神様がノアに持ちかけた契約は
「私に忠実であるならば、君と君の家族は助けてあげるよ」
という内容です。ノアは言われた通りにしました。
もしも神に不信の念を抱いていたら、いきなり「50メートルプール22杯分の大きさの舟を作れ」と言われて「はい、作ります」と即答出来ないですね。
そんなデカイものを作るには、お金も人手もかかったでしょう。全財産投げ打ったかもしれません。
時代は「世紀末ヒャッハーーーー!!」状態ですから、きっと協力してくれる人も少なかったでしょう。手伝ってくれたのは家族だけだった可能性もあります。
姿の見えない神の声に従って、身銭を切ってひとり巨大な舟を黙々と作る男…悪意ある人間ばかりいたという当時、ノアは彼らからどんな目で見られていたでしょう。
気が触れたと思われても不思議はありません。社会的に爪弾きにされて孤立して、経済的にも相当厳しくなったはずです。
それでもノアは神を疑いませんでした。
それこそ神様が望んだ人間の姿なのでしょう。愚直に神を信じて、言われた通りに行動する。
ニビルの民がシュメール(混ぜ合わされたもの)を『労働力』として作ったという説を思うと、それも納得がいきます。
裏を返せば「自分で考えるな」ということにもなりますが。
とにもかくにも、人間のノアと神様の間で契約が成立しました。
このあと起こる洪水については、次の章から詳しく説明されています。
ひとまず今回はここで区切ることに致しましょう。
今回の楽曲は、ベンジャミン・ブリテン作曲のオペラ《ノアの洪水》
https://youtu.be/ughJeJ4LJD0
2015/07/08 (Wed)
はいこんにちは。
聖書を楽しむ企画、2回目です。
※この記事の内容は、キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
前回の続きから読んでいきたいと思います。
5ページ目、第四章から。(文章は相当崩して、解釈を加えています。悪しからず。)
○第四章
エバは人(アダム)の子カインを産みました。
それから、弟アベルを産みました。
成長したアベルは羊飼いに、カインは農夫になりました。
ある時、カインは主に作物の捧げ物を持ってきました。一方アベルは自分の羊の初子の中から最上のものを持ってきました。
主はアベルの持ってきた捧げ物に目を留めましたがカインの捧げ物には目を留めませんでした。
カインはひどく怒って、アベルを野原に連れていって、殺してしまいます。
主がカインに、アベルが何処に居るのか尋ねますと
「知りません。私は弟の番人なのですか。」
とカインはとぼけて答えました。
なんでもお見通しな主はカインに言いました。
「あなたはなんてことをしたんだ。あなたの弟の血が、その土地から私に叫んでいるぞ。
あなたは土地に呪われてしまったから、そこを耕してももう何にも生まないよ。これからあなたは地上をさすらわないといけない。」
カインは急に怖くなって
「私の咎は大きすぎて担いきれません。この土地から外に出てさすらい人になったら、きっと私は殺されてしまいます。」
と言いました。
そこで主は言いました。
「じゃ、カインを殺す者には7倍の復讐を受けるようにしよう。そしたら殺されることは無くなるよ。」
そしてカインにひとつのしるしを授けました。
カインは主の元を離れて、エデンの東にあるノデという土地に住みつきました。
そこで奥さんをもらって、授かった子供にエノクという名前をつけました。カインは自分の作った町にも、息子と同じエノクという名前をつけました。
エノクの子の名はイラデ
イラデの子の名はメフヤエル
メフヤエルの子の名はメトシャエル
メトシャエルの子の名はレメク
といいました。
レメクは奥さんをふたりもらいました。
ひとりはアダ
もうひとりはツィラ
という名前です。
アダはレメクとの間にヤバルとユバルという兄弟を生みました。
ヤバルは天幕に住んで、家畜を飼うものの先祖になりました。
ユバルは竪琴と笛を演奏するすべての音楽家の先祖になりました。
ツィラとレメクとの間には、トバル・カインという名前の男の子とナアマという名前の女の子が生まれました。
トバル・カインは鍛冶屋になりました。
レメクはあるときふたりの妻に言いました。
「私が傷つけられたら若者をひとり殺すからね。
カインに7倍の復讐があるなら、レメクには77倍あるからね。」
一方、アダムはもうひとり子供を作っておりました。
妻はその子にセツと名付け、「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに神はもうひとり子を授けてくださいました」
と喜びました。
セツは大きくなって、エノシュという息子をもうけました。
この頃くらいから、人々は主の御名によって祈ることを始めましたとさ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、お話は楽園を追われた人間夫妻のその後に続きます。
アダムの子供は
長男カイン(「鍛冶屋、鋳造者、私は得た、形作る」の意)
次男アベル(「息、儚さ、虚しさ、無価値」の意)
そして兄たちが居なくなってから生まれた
三男セツ(「立てられた者」の意)
の3人でした。
さて第4章は、3兄弟の中のカイン&アベル兄弟とカインの血筋の子供たちが主人公です。
長男は形作る者、次男は無価値な者、と名前をつけたアダム夫妻の心境やいかに。ちょっと酷くないですか、このネーミング。
キリスト教的な解釈では、
楽園を追われたアダムとイブが「蛇の頭を踏みつける者(第3章より)」を与えると主が言っていたのを自分たちの息子のことだと思っていたので、初めての息子が生まれたときに「私は得たり(カイン)」と名付けたけど、どうもそうではないらしいと気付いてガッカリして「空虚(アベル)」と次男坊に名付けた
…とありますが。(ちなみにキリスト教では、このとき主が言った「蛇の頭を踏みつける者」こそイエスだとしている。)
このお話が書かれたときにはもちろんイエスは居ませんので、もうちょい現実的に想像してみます。
勝手な妄想ですけれども、カインは夫妻の初めての子供ですし、生まれた時から相当可愛がられて甘やかされて育ったのではなかろうか。
夜泣きも少なくて物覚えも早く、小さい頃から器用な息子。両親ベタベタに可愛がります。
そしてその子の手が離れてきた辺りで、二番目の子が生まれるわけです。
性格の違いなのか、次男坊は勝ち気で手がかかる。根は真っ直ぐなんだけど、どうにもこうにも不器用で物覚えも悪い。更にちょっと大きくなったら、兄に反発してか不良になってしまった!(※妄想です)
「まったくカインお兄ちゃんはこんないい子なのに、弟は仕方ないねえ。これじゃあ穀潰しだよ。アベルって名前にしようかね。この子にはぴったりかもしれん。」
シンデレラ(灰かぶり姫)的なネーミングセンス。ちなみにディズニー映画のシンデレラの元ネタであるグリム童話のシンデレラは、苛められて育ったために性格も根暗だし、最後には自分を苛めた姉たちに復讐して彼女たちの眼球をえぐり出すという心まで灰色な女性。名は体を表すとはまさにこのこと。
大きくなったカインは、父アダムの仕事を継いだ形で農夫になります。
一方アベルは羊飼いになりました。兄への対抗心か、アベルは違う仕事を選んだのです。
(もっとも、この時代には牧畜or農耕しか職業はなかったでしょうけれども)
せっかく父親がいばらとかあざみとかトゲトゲの植物と戦って苦労して作り上げた畑があるんですから、アベルもお兄ちゃんを手伝って畑をやれば良かったのに、彼はそうしなかったんですよねえ。兄が優遇されているアダム家の傘下から出て、独立して対等になろうとしたのでしょうか。
あるいは、父の財産である畑を貰えたのは兄だけだったのでしょうか。
ともかく兄と弟は職業上ライバル関係にありました。古代メソポタミアでは、しばしば農耕と牧畜で土地の争いをしていたようです。
さて、神様に捧げ物をするときは、動物を捧げるものだ、ということをこの兄弟は知っておりました。お父さんに教えてもらったのかもしれないし、彼らもまだ神様と話が出来ていたので直接聞いたのかもしれません。
――自分たちは神様の信頼を裏切ってしまって、その罰を受けている最中であり、その罪をあがなうためには他の生き物の命でなくては相応しない。お父さんたちが楽園を出るときに、イチヂクの葉っぱで作った腰巻きじゃなくて毛皮の服を神様に頂いたのと同じことで、自分の身代わりには血と肉を捧げるものである。―――
それが分かってて、カインは自分の採れた畑で一番出来の良かったものを持ってきました。
(以下、想像)
「僕が誠心誠意込めて作った野菜は絶対に神様のお気に召すはず!父さんも母さんも誉めてくれたし、こんなに苦労して作ったんだから絶対喜んでくれるよね!!アベルのヤツは羊捧げるんだって?アイツはだめでしょー、あんな不良が僕なんかに勝てるわけないってwww何故なら僕はエリートだから!!」
…えー、なんというか、居ますわ。こういう人。誰かをおとしめることで、自分の威厳を保つ人。
とりあえずそんなわけで自信満々で捧げ物を持ってきたわけですが、まあ無視されました。だって「正しい捧げ物」は「動物の肉」って最初に決まってたんですから。
《肉牛コンテスト》に野菜持ってきたようなものですね。
「あなたが正しく行ったならば受け入れられる」と神様も言ってますよ。「ルールは守ってくださいよ。」ってわけです。
神が受け入れられる捧げ物とは、すなわち罪を贖うべきものであり、それには動物の血が流される必要があったのです。なぜなら、「罪の支払うべき報酬は死であり、命は血の中にある」からです。
自己流ルールで神様に拒まれてしまったお兄ちゃんは、ルールを守って認められた弟に嫉妬します。
「真面目にやってきて、父さん母さんの言うことをよく聞いて、こんなに我慢してきたこの僕が!あんなヤツに負ける…だと!?ありえない!」
現代、小学校や中学校まで成績優秀だった子が、高校や大学でつまづいて引きこもりになり、挙げ句大量殺人など犯罪に走ってしまうケースがとても多いです。
これと全く同じ心理状況ですよ。
アベルはアベルで家族から離れてから真面目に働いてきたのでしょう。
父母や兄から離れることができてようやく自分の価値を見出だし、神様にも真面目に向き合えるようになった。
その矢先のあの事件………そう考えるとアベルが可哀想すぎて涙を禁じ得ません。
カインはカインで、今までの人生を考えますとこりゃアダム夫妻の育て方の問題だったんじゃないかと。人類最初の子育ては、あまり良い例ではなかったようです。
というか、現代の社会問題である犯罪や引きこもりの原因例が聖書のこんな序盤に書いてあるとか。どんだけ人間進歩ないんだ。
カインは、弟が神様に誉められるのをすごく面白くなく思いました。そして「なんで僕のことも見てくれないんだ!」と神様にも怒ります。顔をまともに見れません。
神様は言いました。「どうして顔を伏せるのか?」
カインは何故自分の捧げ物が弟に負けたのか、本当は分かってました。
だって捧げ物の相場は肉だもん。僕野菜持ってきちゃったもん。
でもでも、僕は神様が一番可愛がってた人間アダムの一番の息子なんだから!弟より劣るなんて納得できない!!
不条理な怒りだと心の底では分かってたから、それを悟られたくなくてカインはじっと下を向いていたんですね。
でも神様にはバレてます。
「罪は戸口であなたを恋慕っている。あなたはそれを治めるべきである。」
犯罪の誘惑はあちこちにありますよ、怒りの感情に任せて行動すると大変なことになるよ。まるで学校の先生のようだ。
それでもカインは結局弟を殴り殺してしまうのです。その場でやったんでなくて、後から殺したのがミソです。
その場では表面上、神様の言ったことを受け入れて納得したフリをしてたってことですから。いじめっ子もよくやりますね。
心理学者カール・グスタフ・ユングは、彼にちなんで「カイン・コンプレックス」という概念を提唱しました。
兄弟間の心の葛藤、兄弟・姉妹間で抱く競争心や嫉妬心のことを言います。
人間は誰しも自分が「親の」一番になりたいのです。
自分たち人間を作った神様に対しても同じで、カインは一番に特別に扱って欲しかったわけです。
それに対して神様は、「頑張ったらそれだけ特別になれるとか人生そんなにうまくいかないよ。言っとくけど君らお仕置き中なんだからね。自分の心をコントロールして、頑張って日々生きるのが大事なんよ。」
と言って諭します。もしもカインが表面上でなく、本当にそれを受け入れて、アベルと仲直りしてたら。神様は人間たちを、再び楽園に戻してくれたかもしれません。
さて、神様に自分の罪状と罰を説明されたカインは報復に怯えます。
一体誰に殺されると思ったのか。
一応お話の設定上は、この地上にはアダム夫妻とカイン兄弟しかまだ人間は居ないんですけども…
これに関してはキリスト教の解釈はもちろんあるんですけど、私キリスト教徒じゃないんで勝手に妄想します。(爆)
実際にはアダム一家が住んでいた以外にも、集落はたくさんあったと予想します。
紀元前5000~4000年代といえば、もうあちこちで文明が発達しつつあった頃です。
のちにエラム王国の首都になるエラム人の町・スーサは紀元前4000年代くらいにはあったようで、その頃の神殿跡も見つかっているそうです。
そしてこの頃一番発達した文明を持っていたのはシュメールでしたが、ウバイド期(紀元前5500~3500年)からウルク期(紀元前4000年)にかけて、「よそ者」の侵入によって引き起こされる地域間における緊張感が高まっていたらしいのです。一説では、「よそ者」はシュメール人側で、ここに元々住んでいたウバイド人を追い出したと言われていますが…
ウバイド期は平和な時代が長く続いていたのですが、終末期になると「よそ者」との争いが絶えなかったようです。
北メソポタミアの遺跡・ガウラでは、ウバイド終末期の地層からウルク前期併行の地層にかけて、集落入り口を防御する軍事施設や土製投弾などの武器が出てきたそうです。
「よそ者」の進出により、集落内の人間関係にも変化が起きて社会的な緊張が高まっていたようで、ウルク前期頃までにはウルなどで武器としての銅製の槍先がつくられるようになったといいます。
本格的な軍事施設や武器はもう少し後のウルク期後半にそろってくるらしいので(ウルク中期後半の地層から塁壁の内側に石の基礎で建てられた堅牢な施設から銅製の槍先や短剣が出土している。)まだ本格的な戦争は起こってなかったようなのですが、集落同士の争いはこの頃から始まったと言って良いでしょう。
つまり、ただ食べ物を得るために動物を殺すんじゃなくて、自分の住むエリアを確保するために同族の人間を殺すわけです。そして同じ人間でも、言葉が違ったり生まれたエリアが違うものを「よそ者」として排除するのに武器を発達させるのです。
…7000~6000年前から、人間の思考は変わっていないことに驚きます。
ということは。
もしもカインという人物が本当に土の呪いを受けてさすらい人になったとして、彼が放り出されるのはウバイド人とシュメール人が睨み合ってる真っ只中というわけです。
ただでさえ緊張状態の村々、どこに行ってもよそ者な自分が一人でうろうろしていたら絶対に殺される!!
そこで神様は言いました。
「それじゃあ、お前を殺したものには7倍の罰が下るようにしよう」
そしてそれが一目で分かるという「しるし」をくれました。
それがどんな印なのか、この時点ではなにも分かりません。
とりあえず、他の人が見たら「こいつを殺すと7倍の報復があるよ!だから見かけても殺さないでね!」と一目で分かるようになったという事実だけがわかります。
(これにもキリスト教の説が複数ありますが割愛)
そうして父母と神様の元を離れて一人さ迷うという罰を与えられたカインですが、なんと大してさ迷い歩かないうちに定住して、あろうことか町まで作ってしまいます。またも神様の言いつけを破ってしまいました。
彼が住み着いたノデという地は、「流浪の地」という意味があります。
そして生まれた子供と自分の作った町に付けたエノクという名は、「従う者、捧げる」または「始め、始まり」という意味です。
彼は定住していながら「流浪」の地に住み、息子に「捧げる、始まる」と名付けた。どういう事でしょう。
もしかしたらカインはまた自分ルールを発動して、
「《流浪の地》に住んで、何より大事な息子を神様に《捧げる》んだから、自分はちゃんと神様の言いつけを守ってる!」
と思ってたのでしょうか。多少なりとも罪悪感があったのでしょうか。
しかしその後の行動を見てると、神様の赦しを得ようと奮闘したりとか神様の元に戻りたいと思うとかそういった行動が一切無いので、どっちかというと
「ここからが僕の人生の再スタートだ!」
といった感じでしょうか。
考えてみれば、裏切った神のことも殺した弟のことも置いてきぼりにした両親のことも省みずに、殺される心配が無くなったらとっとと出てって自分の町を作ってしまうような男です。
利己的だなぁと思う一方、かなり人間くさい。
その後
イラデ(「町の人」の意)…完全に定住してます
メフヤエル(「神は私を生かす」の意)…神には祈ってるかもしれないけどやっぱり自分ルールっぽい。神とのコンタクトもなさそう
メトシャエル(「神の人」の意)…高慢な名前だなぁ
レメク(「征服者、強い者、王」の意)…言わずもがな
とエノクの町の長は代替わりしていくのですが、時代が下るほどカインの利己的な部分が濃く受け継がれていったようで、6代目の子はついに「王」と名付けられます。
この頃にはエノクの町はかなり大きく、強くなっていたと想像できます。
「征服者」というからには、他の集落を攻め落とすとかもしたのでしょう。
自他共に認める権力者となったレメクは、2人の妻をめとります。一夫一妻の伝統が、ここで崩れました。
アダ(飾り立てる者)
ツィラ(賑やかな音を立てる、陰険で凶悪な者、輝く)
どちらも、名前の印象からしてあまり貞淑な女じゃなさそうです。
アダとレメクの息子、ヤバルとユバルは、どちらも「作り出す」という意味の名前です。
専業農家のヤバルと音楽家のユバル。さしずめ大企業社長と国民的アーティストの兄弟、ってところでしょうか。(牧畜は当時の一大産業だった)
ツィラとレメクの息子トバル・カインは、
ひいひいひいひいおじいちゃんの名前を一部もらって、「製作力を得た人」。
その名前のとおり、鍛冶屋になって色々なものを作ります。技術を発達させるということは、神様に頼らなくても自分達の力で楽に暮らせるようにしようと試みる、というニュアンスを含んでいます。
ちなみに一説では、先住民ウバイド人を追い払ってメソポタミア南部を占拠したシュメール人が金属製の武器を開発したといいます。
ウルク後期までには金属鋳造技術が発展し銅製の槍先や剣などが生産されたようで、アナトリア(現・トルコ)のハジネビではウルク文化が波及する前から在地の銅器生産が専業化されて、主に鑿(のみ)などの日用品やピンなどの装飾品を鋳造していたようです。
つまり、もとはよそ者だったシュメール人が周囲の町を征服して国をつくり、鋳物産業を開花させた…というわけ。
シュメール人は、地理的な起源がどこなのか、どの民族系統なのか謎に包まれています。いつ、どこから来たのかわからない民族です。
神に作られた土の子アダムの子孫の血筋も今でも謎のままなので、シュメール人との関係がとても気になります。
…話が脇道に逸れました。
トバル・カインの妹ナアマは、「見目麗しい」「楽しい」「喜ばしい」「性的魅力のある」という意味の名前です。 相当な美人で、尚且つ悦楽主義だったのでしょう。
ウルク中期ころには冶金技術ももっぱら装飾品の製造に向けられていたのを考えると、例えるならアクセサリーデザイン会社社長の兄とセレブ美人ビッチの妹。
腹違いの兄弟も合わせると、とんでもないロイヤルファミリーです。(身を飾る術を人に伝えたのは悪魔だとするキリスト教的な考えでいくと)
父王レメクも相変わらずで、
「ねー聞いてよマイハニーズ、今日いきなり若造がワシにぶっかってきてさー!ワシ怪我したの!ムカついたから殺しちゃった!
ほら、ワシのひいひいひいひいひいじいさん神様に《人からダメージ受けたら7倍返し》って印をもらったじゃん。じいさんで7倍なんだから、こんなでっかい町を治めてて人も金も物も思い通りに出来るワシなら77倍にしてもいいよね!」
こんな調子です。
エノクの町は経済的にも豊かな町だったのでしょう。音楽など芸術も盛んで貴金属に溢れ、巨大畜産業で食糧供給も安定。
けれども神様が一番最初に人間を作ったときに望んだ姿とは、大きくかけ離れていました。
子孫たちのきらびやかな繁栄を影からそっと見ていたアダム夫妻はがっかりします。
自分達のすべては神様からもらったものだ、と感謝する姿勢も、信仰も、息子たちにはひとつも引き継がれなかったのです。
次の章に書いてありますが、アダムは930歳まで生きたと書いてありますので、かなり後世まで子孫たちを見守ったことになります。
カインの血筋にもはや希望を持てなくなったアダムは、妻にもう一人子供を生ませます。
このときアダム130歳。すげー。
妻はその子に「カインとアベルの代わりに神が授けてくださったので」、セツ(立てる、固定する、基礎、土台)と名付けました。
この子はカインの血筋の者たちに代わって立てられた、神に忠誠を誓いアダムの志を継ぐ血族の基礎になるべく生まれた子なわけです。
セツは大きくなって、エノシュという息子をもうけました。エノシュは「壊れやすい、なおらない、癒えない」といった宿命的な弱さを表わすことばで、人間は神の助けが無ければこんなにも弱い存在ですよ、といった意味だと言われております。
エノシュの代から、やっと人間は神に祈ることをはじめる、とあります。
つまりアダム夫妻が作り主を裏切ってしまって少なくとも100年以上経ってから、ようやっと「裏切ってすみませんでした、許してください」と言える人々が現れだした、ということです。
人間ってめんどくさいですねえ(爆)
さて、人の『信仰』の歴史がやっとここからスタートします。
まだまだ序盤です。
ここからどうなることやら?次回に続く!
ちなみに今回の作品はアレッサンドロ・スカルラッティ作曲のオラトリオ『最初の殺人』
https://youtu.be/3hA7gIM1VCo
聖書を楽しむ企画、2回目です。
※この記事の内容は、キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
前回の続きから読んでいきたいと思います。
5ページ目、第四章から。(文章は相当崩して、解釈を加えています。悪しからず。)
○第四章
エバは人(アダム)の子カインを産みました。
それから、弟アベルを産みました。
成長したアベルは羊飼いに、カインは農夫になりました。
ある時、カインは主に作物の捧げ物を持ってきました。一方アベルは自分の羊の初子の中から最上のものを持ってきました。
主はアベルの持ってきた捧げ物に目を留めましたがカインの捧げ物には目を留めませんでした。
カインはひどく怒って、アベルを野原に連れていって、殺してしまいます。
主がカインに、アベルが何処に居るのか尋ねますと
「知りません。私は弟の番人なのですか。」
とカインはとぼけて答えました。
なんでもお見通しな主はカインに言いました。
「あなたはなんてことをしたんだ。あなたの弟の血が、その土地から私に叫んでいるぞ。
あなたは土地に呪われてしまったから、そこを耕してももう何にも生まないよ。これからあなたは地上をさすらわないといけない。」
カインは急に怖くなって
「私の咎は大きすぎて担いきれません。この土地から外に出てさすらい人になったら、きっと私は殺されてしまいます。」
と言いました。
そこで主は言いました。
「じゃ、カインを殺す者には7倍の復讐を受けるようにしよう。そしたら殺されることは無くなるよ。」
そしてカインにひとつのしるしを授けました。
カインは主の元を離れて、エデンの東にあるノデという土地に住みつきました。
そこで奥さんをもらって、授かった子供にエノクという名前をつけました。カインは自分の作った町にも、息子と同じエノクという名前をつけました。
エノクの子の名はイラデ
イラデの子の名はメフヤエル
メフヤエルの子の名はメトシャエル
メトシャエルの子の名はレメク
といいました。
レメクは奥さんをふたりもらいました。
ひとりはアダ
もうひとりはツィラ
という名前です。
アダはレメクとの間にヤバルとユバルという兄弟を生みました。
ヤバルは天幕に住んで、家畜を飼うものの先祖になりました。
ユバルは竪琴と笛を演奏するすべての音楽家の先祖になりました。
ツィラとレメクとの間には、トバル・カインという名前の男の子とナアマという名前の女の子が生まれました。
トバル・カインは鍛冶屋になりました。
レメクはあるときふたりの妻に言いました。
「私が傷つけられたら若者をひとり殺すからね。
カインに7倍の復讐があるなら、レメクには77倍あるからね。」
一方、アダムはもうひとり子供を作っておりました。
妻はその子にセツと名付け、「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに神はもうひとり子を授けてくださいました」
と喜びました。
セツは大きくなって、エノシュという息子をもうけました。
この頃くらいから、人々は主の御名によって祈ることを始めましたとさ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、お話は楽園を追われた人間夫妻のその後に続きます。
アダムの子供は
長男カイン(「鍛冶屋、鋳造者、私は得た、形作る」の意)
次男アベル(「息、儚さ、虚しさ、無価値」の意)
そして兄たちが居なくなってから生まれた
三男セツ(「立てられた者」の意)
の3人でした。
さて第4章は、3兄弟の中のカイン&アベル兄弟とカインの血筋の子供たちが主人公です。
長男は形作る者、次男は無価値な者、と名前をつけたアダム夫妻の心境やいかに。ちょっと酷くないですか、このネーミング。
キリスト教的な解釈では、
楽園を追われたアダムとイブが「蛇の頭を踏みつける者(第3章より)」を与えると主が言っていたのを自分たちの息子のことだと思っていたので、初めての息子が生まれたときに「私は得たり(カイン)」と名付けたけど、どうもそうではないらしいと気付いてガッカリして「空虚(アベル)」と次男坊に名付けた
…とありますが。(ちなみにキリスト教では、このとき主が言った「蛇の頭を踏みつける者」こそイエスだとしている。)
このお話が書かれたときにはもちろんイエスは居ませんので、もうちょい現実的に想像してみます。
勝手な妄想ですけれども、カインは夫妻の初めての子供ですし、生まれた時から相当可愛がられて甘やかされて育ったのではなかろうか。
夜泣きも少なくて物覚えも早く、小さい頃から器用な息子。両親ベタベタに可愛がります。
そしてその子の手が離れてきた辺りで、二番目の子が生まれるわけです。
性格の違いなのか、次男坊は勝ち気で手がかかる。根は真っ直ぐなんだけど、どうにもこうにも不器用で物覚えも悪い。更にちょっと大きくなったら、兄に反発してか不良になってしまった!(※妄想です)
「まったくカインお兄ちゃんはこんないい子なのに、弟は仕方ないねえ。これじゃあ穀潰しだよ。アベルって名前にしようかね。この子にはぴったりかもしれん。」
シンデレラ(灰かぶり姫)的なネーミングセンス。ちなみにディズニー映画のシンデレラの元ネタであるグリム童話のシンデレラは、苛められて育ったために性格も根暗だし、最後には自分を苛めた姉たちに復讐して彼女たちの眼球をえぐり出すという心まで灰色な女性。名は体を表すとはまさにこのこと。
大きくなったカインは、父アダムの仕事を継いだ形で農夫になります。
一方アベルは羊飼いになりました。兄への対抗心か、アベルは違う仕事を選んだのです。
(もっとも、この時代には牧畜or農耕しか職業はなかったでしょうけれども)
せっかく父親がいばらとかあざみとかトゲトゲの植物と戦って苦労して作り上げた畑があるんですから、アベルもお兄ちゃんを手伝って畑をやれば良かったのに、彼はそうしなかったんですよねえ。兄が優遇されているアダム家の傘下から出て、独立して対等になろうとしたのでしょうか。
あるいは、父の財産である畑を貰えたのは兄だけだったのでしょうか。
ともかく兄と弟は職業上ライバル関係にありました。古代メソポタミアでは、しばしば農耕と牧畜で土地の争いをしていたようです。
さて、神様に捧げ物をするときは、動物を捧げるものだ、ということをこの兄弟は知っておりました。お父さんに教えてもらったのかもしれないし、彼らもまだ神様と話が出来ていたので直接聞いたのかもしれません。
――自分たちは神様の信頼を裏切ってしまって、その罰を受けている最中であり、その罪をあがなうためには他の生き物の命でなくては相応しない。お父さんたちが楽園を出るときに、イチヂクの葉っぱで作った腰巻きじゃなくて毛皮の服を神様に頂いたのと同じことで、自分の身代わりには血と肉を捧げるものである。―――
それが分かってて、カインは自分の採れた畑で一番出来の良かったものを持ってきました。
(以下、想像)
「僕が誠心誠意込めて作った野菜は絶対に神様のお気に召すはず!父さんも母さんも誉めてくれたし、こんなに苦労して作ったんだから絶対喜んでくれるよね!!アベルのヤツは羊捧げるんだって?アイツはだめでしょー、あんな不良が僕なんかに勝てるわけないってwww何故なら僕はエリートだから!!」
…えー、なんというか、居ますわ。こういう人。誰かをおとしめることで、自分の威厳を保つ人。
とりあえずそんなわけで自信満々で捧げ物を持ってきたわけですが、まあ無視されました。だって「正しい捧げ物」は「動物の肉」って最初に決まってたんですから。
《肉牛コンテスト》に野菜持ってきたようなものですね。
「あなたが正しく行ったならば受け入れられる」と神様も言ってますよ。「ルールは守ってくださいよ。」ってわけです。
神が受け入れられる捧げ物とは、すなわち罪を贖うべきものであり、それには動物の血が流される必要があったのです。なぜなら、「罪の支払うべき報酬は死であり、命は血の中にある」からです。
自己流ルールで神様に拒まれてしまったお兄ちゃんは、ルールを守って認められた弟に嫉妬します。
「真面目にやってきて、父さん母さんの言うことをよく聞いて、こんなに我慢してきたこの僕が!あんなヤツに負ける…だと!?ありえない!」
現代、小学校や中学校まで成績優秀だった子が、高校や大学でつまづいて引きこもりになり、挙げ句大量殺人など犯罪に走ってしまうケースがとても多いです。
これと全く同じ心理状況ですよ。
アベルはアベルで家族から離れてから真面目に働いてきたのでしょう。
父母や兄から離れることができてようやく自分の価値を見出だし、神様にも真面目に向き合えるようになった。
その矢先のあの事件………そう考えるとアベルが可哀想すぎて涙を禁じ得ません。
カインはカインで、今までの人生を考えますとこりゃアダム夫妻の育て方の問題だったんじゃないかと。人類最初の子育ては、あまり良い例ではなかったようです。
というか、現代の社会問題である犯罪や引きこもりの原因例が聖書のこんな序盤に書いてあるとか。どんだけ人間進歩ないんだ。
カインは、弟が神様に誉められるのをすごく面白くなく思いました。そして「なんで僕のことも見てくれないんだ!」と神様にも怒ります。顔をまともに見れません。
神様は言いました。「どうして顔を伏せるのか?」
カインは何故自分の捧げ物が弟に負けたのか、本当は分かってました。
だって捧げ物の相場は肉だもん。僕野菜持ってきちゃったもん。
でもでも、僕は神様が一番可愛がってた人間アダムの一番の息子なんだから!弟より劣るなんて納得できない!!
不条理な怒りだと心の底では分かってたから、それを悟られたくなくてカインはじっと下を向いていたんですね。
でも神様にはバレてます。
「罪は戸口であなたを恋慕っている。あなたはそれを治めるべきである。」
犯罪の誘惑はあちこちにありますよ、怒りの感情に任せて行動すると大変なことになるよ。まるで学校の先生のようだ。
それでもカインは結局弟を殴り殺してしまうのです。その場でやったんでなくて、後から殺したのがミソです。
その場では表面上、神様の言ったことを受け入れて納得したフリをしてたってことですから。いじめっ子もよくやりますね。
心理学者カール・グスタフ・ユングは、彼にちなんで「カイン・コンプレックス」という概念を提唱しました。
兄弟間の心の葛藤、兄弟・姉妹間で抱く競争心や嫉妬心のことを言います。
人間は誰しも自分が「親の」一番になりたいのです。
自分たち人間を作った神様に対しても同じで、カインは一番に特別に扱って欲しかったわけです。
それに対して神様は、「頑張ったらそれだけ特別になれるとか人生そんなにうまくいかないよ。言っとくけど君らお仕置き中なんだからね。自分の心をコントロールして、頑張って日々生きるのが大事なんよ。」
と言って諭します。もしもカインが表面上でなく、本当にそれを受け入れて、アベルと仲直りしてたら。神様は人間たちを、再び楽園に戻してくれたかもしれません。
さて、神様に自分の罪状と罰を説明されたカインは報復に怯えます。
一体誰に殺されると思ったのか。
一応お話の設定上は、この地上にはアダム夫妻とカイン兄弟しかまだ人間は居ないんですけども…
これに関してはキリスト教の解釈はもちろんあるんですけど、私キリスト教徒じゃないんで勝手に妄想します。(爆)
実際にはアダム一家が住んでいた以外にも、集落はたくさんあったと予想します。
紀元前5000~4000年代といえば、もうあちこちで文明が発達しつつあった頃です。
のちにエラム王国の首都になるエラム人の町・スーサは紀元前4000年代くらいにはあったようで、その頃の神殿跡も見つかっているそうです。
そしてこの頃一番発達した文明を持っていたのはシュメールでしたが、ウバイド期(紀元前5500~3500年)からウルク期(紀元前4000年)にかけて、「よそ者」の侵入によって引き起こされる地域間における緊張感が高まっていたらしいのです。一説では、「よそ者」はシュメール人側で、ここに元々住んでいたウバイド人を追い出したと言われていますが…
ウバイド期は平和な時代が長く続いていたのですが、終末期になると「よそ者」との争いが絶えなかったようです。
北メソポタミアの遺跡・ガウラでは、ウバイド終末期の地層からウルク前期併行の地層にかけて、集落入り口を防御する軍事施設や土製投弾などの武器が出てきたそうです。
「よそ者」の進出により、集落内の人間関係にも変化が起きて社会的な緊張が高まっていたようで、ウルク前期頃までにはウルなどで武器としての銅製の槍先がつくられるようになったといいます。
本格的な軍事施設や武器はもう少し後のウルク期後半にそろってくるらしいので(ウルク中期後半の地層から塁壁の内側に石の基礎で建てられた堅牢な施設から銅製の槍先や短剣が出土している。)まだ本格的な戦争は起こってなかったようなのですが、集落同士の争いはこの頃から始まったと言って良いでしょう。
つまり、ただ食べ物を得るために動物を殺すんじゃなくて、自分の住むエリアを確保するために同族の人間を殺すわけです。そして同じ人間でも、言葉が違ったり生まれたエリアが違うものを「よそ者」として排除するのに武器を発達させるのです。
…7000~6000年前から、人間の思考は変わっていないことに驚きます。
ということは。
もしもカインという人物が本当に土の呪いを受けてさすらい人になったとして、彼が放り出されるのはウバイド人とシュメール人が睨み合ってる真っ只中というわけです。
ただでさえ緊張状態の村々、どこに行ってもよそ者な自分が一人でうろうろしていたら絶対に殺される!!
そこで神様は言いました。
「それじゃあ、お前を殺したものには7倍の罰が下るようにしよう」
そしてそれが一目で分かるという「しるし」をくれました。
それがどんな印なのか、この時点ではなにも分かりません。
とりあえず、他の人が見たら「こいつを殺すと7倍の報復があるよ!だから見かけても殺さないでね!」と一目で分かるようになったという事実だけがわかります。
(これにもキリスト教の説が複数ありますが割愛)
そうして父母と神様の元を離れて一人さ迷うという罰を与えられたカインですが、なんと大してさ迷い歩かないうちに定住して、あろうことか町まで作ってしまいます。またも神様の言いつけを破ってしまいました。
彼が住み着いたノデという地は、「流浪の地」という意味があります。
そして生まれた子供と自分の作った町に付けたエノクという名は、「従う者、捧げる」または「始め、始まり」という意味です。
彼は定住していながら「流浪」の地に住み、息子に「捧げる、始まる」と名付けた。どういう事でしょう。
もしかしたらカインはまた自分ルールを発動して、
「《流浪の地》に住んで、何より大事な息子を神様に《捧げる》んだから、自分はちゃんと神様の言いつけを守ってる!」
と思ってたのでしょうか。多少なりとも罪悪感があったのでしょうか。
しかしその後の行動を見てると、神様の赦しを得ようと奮闘したりとか神様の元に戻りたいと思うとかそういった行動が一切無いので、どっちかというと
「ここからが僕の人生の再スタートだ!」
といった感じでしょうか。
考えてみれば、裏切った神のことも殺した弟のことも置いてきぼりにした両親のことも省みずに、殺される心配が無くなったらとっとと出てって自分の町を作ってしまうような男です。
利己的だなぁと思う一方、かなり人間くさい。
その後
イラデ(「町の人」の意)…完全に定住してます
メフヤエル(「神は私を生かす」の意)…神には祈ってるかもしれないけどやっぱり自分ルールっぽい。神とのコンタクトもなさそう
メトシャエル(「神の人」の意)…高慢な名前だなぁ
レメク(「征服者、強い者、王」の意)…言わずもがな
とエノクの町の長は代替わりしていくのですが、時代が下るほどカインの利己的な部分が濃く受け継がれていったようで、6代目の子はついに「王」と名付けられます。
この頃にはエノクの町はかなり大きく、強くなっていたと想像できます。
「征服者」というからには、他の集落を攻め落とすとかもしたのでしょう。
自他共に認める権力者となったレメクは、2人の妻をめとります。一夫一妻の伝統が、ここで崩れました。
アダ(飾り立てる者)
ツィラ(賑やかな音を立てる、陰険で凶悪な者、輝く)
どちらも、名前の印象からしてあまり貞淑な女じゃなさそうです。
アダとレメクの息子、ヤバルとユバルは、どちらも「作り出す」という意味の名前です。
専業農家のヤバルと音楽家のユバル。さしずめ大企業社長と国民的アーティストの兄弟、ってところでしょうか。(牧畜は当時の一大産業だった)
ツィラとレメクの息子トバル・カインは、
ひいひいひいひいおじいちゃんの名前を一部もらって、「製作力を得た人」。
その名前のとおり、鍛冶屋になって色々なものを作ります。技術を発達させるということは、神様に頼らなくても自分達の力で楽に暮らせるようにしようと試みる、というニュアンスを含んでいます。
ちなみに一説では、先住民ウバイド人を追い払ってメソポタミア南部を占拠したシュメール人が金属製の武器を開発したといいます。
ウルク後期までには金属鋳造技術が発展し銅製の槍先や剣などが生産されたようで、アナトリア(現・トルコ)のハジネビではウルク文化が波及する前から在地の銅器生産が専業化されて、主に鑿(のみ)などの日用品やピンなどの装飾品を鋳造していたようです。
つまり、もとはよそ者だったシュメール人が周囲の町を征服して国をつくり、鋳物産業を開花させた…というわけ。
シュメール人は、地理的な起源がどこなのか、どの民族系統なのか謎に包まれています。いつ、どこから来たのかわからない民族です。
神に作られた土の子アダムの子孫の血筋も今でも謎のままなので、シュメール人との関係がとても気になります。
…話が脇道に逸れました。
トバル・カインの妹ナアマは、「見目麗しい」「楽しい」「喜ばしい」「性的魅力のある」という意味の名前です。 相当な美人で、尚且つ悦楽主義だったのでしょう。
ウルク中期ころには冶金技術ももっぱら装飾品の製造に向けられていたのを考えると、例えるならアクセサリーデザイン会社社長の兄とセレブ美人ビッチの妹。
腹違いの兄弟も合わせると、とんでもないロイヤルファミリーです。(身を飾る術を人に伝えたのは悪魔だとするキリスト教的な考えでいくと)
父王レメクも相変わらずで、
「ねー聞いてよマイハニーズ、今日いきなり若造がワシにぶっかってきてさー!ワシ怪我したの!ムカついたから殺しちゃった!
ほら、ワシのひいひいひいひいひいじいさん神様に《人からダメージ受けたら7倍返し》って印をもらったじゃん。じいさんで7倍なんだから、こんなでっかい町を治めてて人も金も物も思い通りに出来るワシなら77倍にしてもいいよね!」
こんな調子です。
エノクの町は経済的にも豊かな町だったのでしょう。音楽など芸術も盛んで貴金属に溢れ、巨大畜産業で食糧供給も安定。
けれども神様が一番最初に人間を作ったときに望んだ姿とは、大きくかけ離れていました。
子孫たちのきらびやかな繁栄を影からそっと見ていたアダム夫妻はがっかりします。
自分達のすべては神様からもらったものだ、と感謝する姿勢も、信仰も、息子たちにはひとつも引き継がれなかったのです。
次の章に書いてありますが、アダムは930歳まで生きたと書いてありますので、かなり後世まで子孫たちを見守ったことになります。
カインの血筋にもはや希望を持てなくなったアダムは、妻にもう一人子供を生ませます。
このときアダム130歳。すげー。
妻はその子に「カインとアベルの代わりに神が授けてくださったので」、セツ(立てる、固定する、基礎、土台)と名付けました。
この子はカインの血筋の者たちに代わって立てられた、神に忠誠を誓いアダムの志を継ぐ血族の基礎になるべく生まれた子なわけです。
セツは大きくなって、エノシュという息子をもうけました。エノシュは「壊れやすい、なおらない、癒えない」といった宿命的な弱さを表わすことばで、人間は神の助けが無ければこんなにも弱い存在ですよ、といった意味だと言われております。
エノシュの代から、やっと人間は神に祈ることをはじめる、とあります。
つまりアダム夫妻が作り主を裏切ってしまって少なくとも100年以上経ってから、ようやっと「裏切ってすみませんでした、許してください」と言える人々が現れだした、ということです。
人間ってめんどくさいですねえ(爆)
さて、人の『信仰』の歴史がやっとここからスタートします。
まだまだ序盤です。
ここからどうなることやら?次回に続く!
ちなみに今回の作品はアレッサンドロ・スカルラッティ作曲のオラトリオ『最初の殺人』
https://youtu.be/3hA7gIM1VCo
2015/06/14 (Sun)
どうもこんにちは。
相も変わらず妄想大爆発な私でございます。
さてちょいと今回は真面目に?お勉強をしてみようと思います。
歌を学ぶものの端くれといたしまして、聖書は知っておかねばならぬ大切なテキストでございます。ヨーロッパ音楽とキリスト教は切っても切れませんからね。聖書自体は私すごく好きですよ。
ただし私はキリスト教徒ではないので、ひとつの読み物として好きなわけなのですが。
聖書はものすっっっごく分厚くて、しかもペラッペラな紙のページにこれでもかと文字が書いてありますので、非常に読みにくいっちゃ読みにくい代物です。
まぁ、そんな読みにくいけれども読んでみたらまぁ面白い、そんな聖書を楽しく読んでみよう!あわよくば色々妄想してみたり、テーマになってる音楽も一緒に勉強してしまおう!
今回はそんな企画です。
…………まぁ、妄想を呟きたいのが一番の理由なのですけれどもね(爆)
そんなこんなでまず第一回目!
張り切っていってみましょう!!!
【創世記】
はい、取り出したりました聖書(日本聖書刊行会出版 新改訳 中型聖書 第3版)の最初のページをあけまして、目次をすっ飛ばしますとまず出てくるのがこの名前。
後々のユダヤ・イスラム・キリスト教は、すべてこの最初のページから始まるわけですね。
創世記だけで95ページあって、全部で50章あります。(まあ章自体はそんなに長いもんじゃありません。)
では頭から読んでみましょう。
(以下内容簡略)
○第一章
神様が天と地を作りました。地面はなくて、真っ暗で広大な水の上を、神の
霊が動いておりました。
神様は光を作って、昼と夜を作りました。
二日目に空を作りました。
三日目に陸と海を作って、陸に植物を作りました。
四日目に太陽と月と星を作りました。
五日目に水棲生物と鳥を作りました。
六日目に動物と、自分に似せて人間を作りました。
○第二章
神様は七日目はお休みしました。
そのあと《神である主》は東にエデンという場所を作って、人間を置きました。
エデンはおいしい実のなる樹がいっぱいあって、あと《いのちの木》と《善悪の知識の木》もあります。
エデンには川がひとつ流れてて、《ピション》《ギホン》《ティグリス》《ユーフラテス》の源流になりました。4つの川は《ハビラ》という土地を流れていて、この土地には良質な金や、ベドラハ(松ヤニみたいなもん)や、しまめのうが取れました。
主はエデンを耕して守らせるために人間を置いて、
「木になってる実はどれでも食べていいけど、善悪の知識の実は絶対食べちゃいかん。食べると死ぬぞ。」
と言いました。
あと、人間が一人じゃ寂しかろうと動物をたくさん作って、人間に名前を付けさせました。
しかし動物だけだと人間の助けになるものが居なかったんで、人間からあばら骨をひとつ取ってそれを元に女をつくりました。
ふたりは裸でしたが恥ずかしいと思いませんでした。
………………
ここまでが、いわゆる【天地創造】というやつですね。
まぁ有名なお話です。
しかしながら、このお話が無くては聖書は始まらんのです。
この短いお話に、すごくたくさんの内容が含まれております。
ティグリス川とユーフラテス川という名前がありますので、エデンはこの位置よりも東にあったと物語では言っているわけですね。
ちなみにピション川はインダス川である
とか
ギホン川はナイル川である
とか
ピション川とギホン川両方ナイル川を形成する二つの流れである
とか
ギホン川はイラン南西部のカルン川である
とか
いやいや、ピション川とギホン川が乾燥して現在は存在していない涸れ川である
とか。
まあ色々な学者さんが色々な説を唱えていらっしゃいます。
天地創造がいつ頃の話なのか、これも諸説ありますが、東方正教会では紀元前5508年(西暦)のことだとしていて、これを元年とした「世界創造紀元」を用いております。
ここで注目するのは、このお話はおとぎ話なんだろうけども、確かにかつてその土地に暮らしていた人間が語り継いでるお話だったということですよ。
旧約聖書の天地創造も、できた頃は一地方の一少数民族が語り継いでる昔ばなしに過ぎなかったのでしょうね。
ちなみに似たような創世神話は世界中あちこちにあります。世界各国の創世神話を読み比べるのも面白いです。
Wikipedia 創造神話↓↓↓↓
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E9%80%A0%E7%A5%9E%E8%A9%B1
さて、とりあえず続きいきます。
○第三章
生き物の中で一番狡猾な蛇が、あるとき女に言いました。
「園の中央にある木の実(善悪の知識の木の実)を食べても死ぬことはないし、むしろ神のようになって善悪を知るようになるよ!」
それを聞いた女はこの木の実を食べて、一緒にいた夫にも食べさせました。
するとふたりの《目は開かれ》、自分たちが裸であることに気付いて、いちじくの葉で腰を覆いました。そして神の声が聞こえたので木の間に隠れました。
神が尋ねると、男は女のせいにし、女は蛇のせいにします。
神は蛇に、一生腹這いで歩かなければならず、女の子孫に忌み嫌われる呪いをかけました。
そして女には「子を産む苦しみ」と「夫に支配されること」、人には「農作業の苦労」と「死んだら土に帰ること」、とそれぞれ罰を与えました。
人は妻をエバと呼び、神はアダムと妻のために皮の衣を作って着せました。
そして人をエデンの園から追放して、いのちの木を守るため園の東にケルビムと、回る炎の剣を置きました。
…………………………………
はい、いわゆる《失楽園》のお話ですね。
ミルトンの失楽園は言ってしまえばこれを元にした二次創作本というわけです(爆)
まだちゃんとは読んでないので、いつか読んでみたいところです。
さてさて、よくある創世神話から始まりましたこの物語ですが、ここから少し様子が変わってきます。
蛇のことをいきなり《野の獣のうちで一番狡猾な》とひどい言い様ですよ。
いつだか、世界各国の蛇神さまについて書いてみたことがありますが
今年は巳年 http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/1/
蛇は、今読んでいるこの神話を語り継いでいた民族よりも当時力を持っていた他の部族にとっては最高神と仰ぐ存在でした。
まだ本筋に名前すら出ていない、この話を語り継いでいた民族は、同じ頃蛇を崇めていた他の民族を脅威に思っていたのでしょうか?
この蛇は、原文をそのまま読む限り、別に嘘はついていません。善悪の知識の木の実を食べれば、その名のとおり善悪の知識が手に入りますし、実際人間は善悪の知識を手に入れたわけですね。
では何故この話の神さまは、蛇を呪い、人間に罰を与えたのか。
自分の解釈ですけども…
神さまの希望としては、土から作ったゴーレム(人間)には無垢でいて欲しかったんでしょう。
自分に似せて作ったものたちが美しい箱庭で穏やかに暮らしているのを見ていたかったわけで、人間にとっても苦労なく生きられるので幸せだったというわけ。(果たしてそれがほんとに幸せなのかは置いといて)
とにかく蛇に言われるまで、人間は神を疑うことなど考えもしませんでしたし、愛し愛される関係を築いていたのです。
ここで蛇が言ったのは、
「神はおまえたちに嘘をついているぞ」
ということです。(正しいっちゃ正しい)
女は初めて神さまを疑います。
彼女の中には、自分が神の被造物であることを忘れ神と同等になりたいと願う傲慢が芽生えています。
そして神でなくて蛇の言うことを信じました。
(《蛇》を《近隣の他部族の神》と置き換えると、なんとも面白い)
そして実を食べ、神が嘘をついていたことを証明してしまいます。
しかしながらそれは神を無条件で信じられる無垢さを失ったことの証になりました。
女と、夫である人間は実を食べて、知恵を得ます。
それでまず、自分が裸であるのに気付いた、というのがミソです。自己の認識、というのは客観的な視点を持たなくては出来ないことです。
裸を恥ずかしい、と思うことは、自己の情欲などをありのままに他者に見せることを隠したい、ということで、この二人の間に個人としての意識が生まれたことを示します。更に、神に造られた自分の姿を恥じるのは、それを作った神からも気持ちが離れてしまったからというわけです。
神の声を聞いただけで逃げ出したのは、罪を指摘される前に彼らに罪悪感があったからで、既に彼らは自分たちが何をしてしまったかは分かっていました。
それでも認めたくないから、男は女のせいにし、女は蛇のせいにして罪の擦り合いをします。人間同士の分裂、というわけです。
神さまは地上を律する立場上、規律を乱したものを放置してはおけません。
そこで二人をエデンの園から追放したわけですが…エデンには善悪の知識の実のほかに、もうひとつ重要な実がありました。
《いのちの木の実》ってやつです。
これを食べ続けていれば、楽園の住人たちは永遠に生きることができます。
でも追放されたらもうこの実が食べられないので、遅かれ早かれ人間は死んでしまいます。
その前に神は《罰》を与えるのですが、ある意味ではこれは救済策なのか?と考えたりもします。
まず女に、「出産」と「恋愛」を与えます。
「恋愛」と書いたけど、原文では「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配する」とあります。
恋愛観は人それぞれですが、「尽くす愛」が女性的なものという認識はこの頃既にあったのでしょうか。
対して男には、「労働」を与えます。
「うーーん、このままエデンから出て死なせるのもなんだから、子孫を自分らで作れるようにしてあげようかな。
ただし子ども産むのはメチャクチャ痛いよ。
最初に実食べたの女だから、これは女の役目にしよう。神(私と同等)になりたかったんでしょ?これで命作れるし、私と同じになったよ。
子ども作るのには男の種が要るから、女は男のこと好きになるようにしよう。
あ、でも初期設定で男は女のこと《自分を手助けするもの》って認識なんだった。まあいいか。
男は頑張って作物作ってね。エデンの外には果物ないからね。
いばらとかあざみとか、トゲトゲの植物いっぱい生えてるけど頑張ってね。
あ、寿命切れたら君たち土になっちゃうからね。もともと土から作ったから仕方ないけど。」
……まぁ分かりやすく言うとこんな感じでしょうか?本来ならその場で消し去られても文句は言えない人間たちに、破格の対応です。
しかも楽園を旅立とうとする二人に、《皮の服》をプレゼント。
これは、単に気前が良いってことじゃなくて《二人の罪をあがなうための生け贄》を使用したというわけですよ。
生け贄に関しては、前に色々好き勝手妄想しましたが↓↓↓
未年なので羊についてのあれやこれや http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/25/
罪を生け贄にあがなってもらう、という古代の習慣が、ここにも現れてるわけですね。
創世記が紀元前5、6000年の話という説を信じるなら、この頃メジャーな家畜といったら羊ですから(牛はこの頃、やっと最近飼い始めた新しい家畜)、多分この時生け贄にされたのも羊だったんじゃないかなー。
生け贄といえば羊、の起源はもしかしてここから始まったのかも。
まあとにかく、神は自分が生み出した他のどの生物よりも人間を可愛がっていたんだよ、ということです。
さて、この話の最後らへんで、ようやくこの二人に個人としての名前がつきます。
女は、男が《エバ》という名前をつけました。
エヴァ (Eva) は、ラテン語の女性名で、語源はヘブライ語で「命」または「生きるもの」を意味するハッヴァー (Chavvh)です。
後期青銅器時代にエルサレムで信仰された、フルリ人(紀元前2500頃~紀元前1300年、北メソポタミア周辺に栄えた民族)の大地母神ヘバト、あるいはエブス人(紀元前1900年以前に現在のイスラエルに住んでいた先住民)の女神へバに由来するという説もあります。
一方、男の方には《アダム》という名前がついています。
名の由来は「土」、「血」。
ちなみにこの名前に関しても面白い説を見つけました。
アダムの本名がアブディヘバ…《ヘバのしもべ(Abdi-Heba)》
だという説です。
よくある名前だったみたいですが、アブディヘバは紀元前14世紀のエルサレム王の名前でもあります。
ナイル川上流のアマルナ遺跡から出土した《アマルナ文書》(エジプトとの外交文書。エルサレム王アブディヘバからエジプト王へ送られた6通の手紙を含む。)に登場します。
《ヘバ》は先程エバの名前の由来の説もある、と書いた女神ヘバのこと。ヘバは古代ではすごく信仰を集めていた女神で、彼女の名前を含んだ名前を持つ人はたくさんいたようです。
この説ですと、つまりアダムは女神信仰が国教の古代イスラエルの国あるいは街で王位に就いていた男で、その妻エバは信仰対象の古代の女神だったということになります。
仕える女神に食べるよう差し出された木の実を拒むことなど出来るわけありません。すべて命あるものの母の言い付けは絶対です。
伝承としての創世記の話が昔から語り継がれたものだとして、実際に現在旧約聖書に載っているこの形に直したのがアブディヘバの治世の時代か、そこから少し下った時代だとしたら…?
そう考えたら、なんとなくこの話が生まれた経緯が想像できるような。
ちなみにもう1人、エバの元ネタだという説を持つ、ニンティというメソポタミアの女神がいるのですけれども
彼女が生まれた経緯の話が2種類の話があって、どっちも面白いです。
①
女神ニンフルサグ(シュメールの大地母神)がディルムン(メソポタミア文明とインダス文明の交易地)の中に野菜や果物が繁るエディヌという美しい庭園を造りました。
ニンフルサグは夫のエンキ(シュメールの水神)に野生動物の制御と庭園の手入れを担当させました。
あるとき庭の世話の手伝いをしていたアルリム(古代メソポタミア王で、人類最初の王)が、7つの植物を選んでエンキに差し出し、エンキはそれらを食べました。
するとニンフルサグは大激怒!エンキを、肋骨が痛くなる病気にしてしまいます。
その後他の神に宥められて怒りが収まったニンフルサグは、エンキを治療するために「肋骨の女」の名を持つ女神・ニンティを作ってあげましたとさ。
②
エンキは妻のニンフルサグとの間に女神ニンサル(植物の女神)という娘がいましたが、ニンフルサグ不在の間にニンサルと関係を持ち、女神ニンクルラ(農耕・牧畜の女神)という娘をもうけました。
さらに彼はそのニンクルラとも関係を持ち、女神ウットゥ(機織り、もしくは蜘蛛を司る女神)をもうけます。
そしてさらにエンキは女神ウットゥと関係を持ちました。しかし、エンキは、ニンサルとニンクルラに対してしたのと同様に、しばらくするとウットゥのもとを去ってしまいました。ウットゥは、戻ってきたニンフルサグにこのことを相談します。
ニンフルサグは、ウットゥの子宮からエンキの精を取り出して土に埋めました。
すると、そこから8種類の植物が芽を出し、みるみると成長しました。エンキはそれを見ると、その植物の実を食べてしまったのですが、すると彼のあご・歯・口・のど・四肢・肋骨などに腫れ物ができました。(腫れ物は8箇所に出来たらしい)
ニンフルサグは、エンキの体からアブ(Ab:精)を取り出して、ウットゥの体に戻しました。するとウットゥから8つの神
アブー(Abu)
ニントゥルラ(Nintulla:またはニントゥル(Nintul))
ニンストゥ(Ninsutu)
ニンカシ(Ninkasi)
ナンシェ(Nanshe)
エンシャグ(Enshag:またはエンシャガグ(Enshagag))
ダジムア(Dazimua)
ニンティ(Ninti)
が生まれ、エンキの体の各部にあった腫れ物は癒されましたとさ。
【エンキ】
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%AD
【ニンフルサグ】
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%B0
エンキは、メソポタミア神話の創世神でもある水神です。バビロニア神話ではエアと呼ばれます。
エンキの母である女神ナンムは神々に命を与えたとされる海神で、その役目を息子が引き継いだというわけです。(ナンムがエンキに変身、つまり女神から男神に性転換したという説も)
これは命を生み出す「水」のモチーフが、女性的な「海」から男性の「精子」に変化したということで、当時のメソポタミアが男性主導の社会になっていて、それを正当化したかったのかな、と想像できます。
エンキを表す象徴は、山羊と魚。両者はのちに統合され、ローマへ渡って、黄道十二星座のやぎ座を象徴する怪物カプリコルヌスとなります。また、知恵や魔法を司るため蛇も彼のモチーフです。
一方その妻ニンフルサグは、アン(シュメールの最高神で天空の神)の妻だった女神キ(大地の女神)と同一視されています。アンとキは原初の海ナンムから生まれた兄妹神だそうな。
……………ん???
てぇことは、エンキとニンフルサグは姉弟??ニンフルサグは兄と弟両方の妻ということ??!
…まぁ神話の世界じゃよくあることですけど…。
とある話ではニンフルサグは、エンキによって作られた「鍬」によって、頭を現わした人間(はじめは植物のようなものであったとされる)を完成させたとか。
また別の神話では、ナンムが粘土の塊から人間を作り出したとき、ニンフルサグが助産婦の役割を果たしたとか。
人間を作るのに大いに協力したとされています。
そんな彼女は、羊の角を生やし、子ライオンを連れ矢筒を背負った姿で描かれます。
また、蛇や雌牛の姿で描かれることもあるそう。
こうしてみると、聖書のモチーフがたくさん出てきてとても面白い。
ロバート・マッケルバン教授という人が言うには
「これらの神話は家父長制成立の黎明期に成立したことを示そうとしている。
神話のストーリーによって、すでに慣行となっていた男性による支配を正当化しようとしているとのことである。上記の神話においては、生命を生み出す過程で女神ニンフルサグが積極的な役割を果たしているが、その後の家父長制となるにつれ、男性の精が生命を生み出す種子として位置づけられる一方、女性は「大地のように、豊かで、肥沃でしかし種子がその中に根を張らない限り空虚である」存在に矮小化されたとらえられ方をされるようになった。「種子のメタファーが、男性を、命を生み出す際には傍観者の役割にしかすぎない状態から一歩進ませて、神のような創造者として位置づけた一方で、女性の位置づけは生命の創造者そのものから、創造の力を持たない土くれのようなものに変質させた」
らしいです。
…そうそう、ニンティの話に戻ります。
「あばら骨から出た女」の名をもつ彼女は、のちに母ニンフルサグの称号のひとつだった《生命の女神》を受け継ぎ、《すべての生命の母》と呼ばれるようになります。
シュメール語で"ti"は「肋骨」と「生命」の両方を意味するそうで、つまり彼女は生まれながらにして"Ninti"…「肋骨の女神」&「生命の女神」という名を負っているということになります。
また、"ni"はメソポタミアでは「蛇」を意味する発音でもあるそうな。
肋骨から生まれたという生まれ方がエバと酷似しているため、そして《すべての生命の母》の称号から、エバの元ネタであろうと言われているわけですが
実は、彼女の母ニンフルサグと、古代フェニキアの太陽女神ヘバトは元を辿れば同じ神だという説もあります。
http://bellis.sakura.ne.jp/mediawiki2/index.php?title=%E3%83%98%E3%83%90%E3%83%88
まとめると、つまり聖書においては人類の祖であるエバ(イブ)のモデルは古代フェニキアの太陽女神ヘバトであり、シュメールの大地母神ニンフルサグであり、その娘ニンティである、というわけ。
アダムはアダマ(塵)、あるいはアブディヘバ(ヘバのしもべ)。彼についての神話は、ほとんどがユダヤ・キリスト教が成立してから作られたものです。
メソポタミアは男性優位の社会体型でした。
古くからのこの神話がそのままの形ですと、色々不具合が生じます。
そこで、ヘバよりもアダムよりも大きな存在が必要になったため、名前のない神《すべての存在の主》を生み出したのでしょう。
《主》という、なにかの擬人化でない神というものはこのとき初めて生まれました。
これはすごく新しいことで、この話が後々、世界一のベストセラーである《聖書》へと発展し、更にたくさんの国を作り、そしてたくさんの国を滅ぼし、未だに戦争の種となっている《ユダヤ教》《キリスト教》《イスラム教》の始まりとなるのです。
さあ、ここからどうなるのでしょう?
聖書はまだ5ページしか進んでいません。続きは次回ということで!
あ、ちなみにこのお話(天地創造)がテーマの音楽↓↓↓↓
【オラトリオ『天地創造』】ハイドン作曲
https://youtu.be/xPT_pOsJWnI
相も変わらず妄想大爆発な私でございます。
さてちょいと今回は真面目に?お勉強をしてみようと思います。
歌を学ぶものの端くれといたしまして、聖書は知っておかねばならぬ大切なテキストでございます。ヨーロッパ音楽とキリスト教は切っても切れませんからね。聖書自体は私すごく好きですよ。
ただし私はキリスト教徒ではないので、ひとつの読み物として好きなわけなのですが。
聖書はものすっっっごく分厚くて、しかもペラッペラな紙のページにこれでもかと文字が書いてありますので、非常に読みにくいっちゃ読みにくい代物です。
まぁ、そんな読みにくいけれども読んでみたらまぁ面白い、そんな聖書を楽しく読んでみよう!あわよくば色々妄想してみたり、テーマになってる音楽も一緒に勉強してしまおう!
今回はそんな企画です。
…………まぁ、妄想を呟きたいのが一番の理由なのですけれどもね(爆)
そんなこんなでまず第一回目!
張り切っていってみましょう!!!
【創世記】
はい、取り出したりました聖書(日本聖書刊行会出版 新改訳 中型聖書 第3版)の最初のページをあけまして、目次をすっ飛ばしますとまず出てくるのがこの名前。
後々のユダヤ・イスラム・キリスト教は、すべてこの最初のページから始まるわけですね。
創世記だけで95ページあって、全部で50章あります。(まあ章自体はそんなに長いもんじゃありません。)
では頭から読んでみましょう。
(以下内容簡略)
○第一章
神様が天と地を作りました。地面はなくて、真っ暗で広大な水の上を、神の
霊が動いておりました。
神様は光を作って、昼と夜を作りました。
二日目に空を作りました。
三日目に陸と海を作って、陸に植物を作りました。
四日目に太陽と月と星を作りました。
五日目に水棲生物と鳥を作りました。
六日目に動物と、自分に似せて人間を作りました。
○第二章
神様は七日目はお休みしました。
そのあと《神である主》は東にエデンという場所を作って、人間を置きました。
エデンはおいしい実のなる樹がいっぱいあって、あと《いのちの木》と《善悪の知識の木》もあります。
エデンには川がひとつ流れてて、《ピション》《ギホン》《ティグリス》《ユーフラテス》の源流になりました。4つの川は《ハビラ》という土地を流れていて、この土地には良質な金や、ベドラハ(松ヤニみたいなもん)や、しまめのうが取れました。
主はエデンを耕して守らせるために人間を置いて、
「木になってる実はどれでも食べていいけど、善悪の知識の実は絶対食べちゃいかん。食べると死ぬぞ。」
と言いました。
あと、人間が一人じゃ寂しかろうと動物をたくさん作って、人間に名前を付けさせました。
しかし動物だけだと人間の助けになるものが居なかったんで、人間からあばら骨をひとつ取ってそれを元に女をつくりました。
ふたりは裸でしたが恥ずかしいと思いませんでした。
………………
ここまでが、いわゆる【天地創造】というやつですね。
まぁ有名なお話です。
しかしながら、このお話が無くては聖書は始まらんのです。
この短いお話に、すごくたくさんの内容が含まれております。
ティグリス川とユーフラテス川という名前がありますので、エデンはこの位置よりも東にあったと物語では言っているわけですね。
ちなみにピション川はインダス川である
とか
ギホン川はナイル川である
とか
ピション川とギホン川両方ナイル川を形成する二つの流れである
とか
ギホン川はイラン南西部のカルン川である
とか
いやいや、ピション川とギホン川が乾燥して現在は存在していない涸れ川である
とか。
まあ色々な学者さんが色々な説を唱えていらっしゃいます。
天地創造がいつ頃の話なのか、これも諸説ありますが、東方正教会では紀元前5508年(西暦)のことだとしていて、これを元年とした「世界創造紀元」を用いております。
ここで注目するのは、このお話はおとぎ話なんだろうけども、確かにかつてその土地に暮らしていた人間が語り継いでるお話だったということですよ。
旧約聖書の天地創造も、できた頃は一地方の一少数民族が語り継いでる昔ばなしに過ぎなかったのでしょうね。
ちなみに似たような創世神話は世界中あちこちにあります。世界各国の創世神話を読み比べるのも面白いです。
Wikipedia 創造神話↓↓↓↓
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E9%80%A0%E7%A5%9E%E8%A9%B1
さて、とりあえず続きいきます。
○第三章
生き物の中で一番狡猾な蛇が、あるとき女に言いました。
「園の中央にある木の実(善悪の知識の木の実)を食べても死ぬことはないし、むしろ神のようになって善悪を知るようになるよ!」
それを聞いた女はこの木の実を食べて、一緒にいた夫にも食べさせました。
するとふたりの《目は開かれ》、自分たちが裸であることに気付いて、いちじくの葉で腰を覆いました。そして神の声が聞こえたので木の間に隠れました。
神が尋ねると、男は女のせいにし、女は蛇のせいにします。
神は蛇に、一生腹這いで歩かなければならず、女の子孫に忌み嫌われる呪いをかけました。
そして女には「子を産む苦しみ」と「夫に支配されること」、人には「農作業の苦労」と「死んだら土に帰ること」、とそれぞれ罰を与えました。
人は妻をエバと呼び、神はアダムと妻のために皮の衣を作って着せました。
そして人をエデンの園から追放して、いのちの木を守るため園の東にケルビムと、回る炎の剣を置きました。
…………………………………
はい、いわゆる《失楽園》のお話ですね。
ミルトンの失楽園は言ってしまえばこれを元にした二次創作本というわけです(爆)
まだちゃんとは読んでないので、いつか読んでみたいところです。
さてさて、よくある創世神話から始まりましたこの物語ですが、ここから少し様子が変わってきます。
蛇のことをいきなり《野の獣のうちで一番狡猾な》とひどい言い様ですよ。
いつだか、世界各国の蛇神さまについて書いてみたことがありますが
今年は巳年 http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/1/
蛇は、今読んでいるこの神話を語り継いでいた民族よりも当時力を持っていた他の部族にとっては最高神と仰ぐ存在でした。
まだ本筋に名前すら出ていない、この話を語り継いでいた民族は、同じ頃蛇を崇めていた他の民族を脅威に思っていたのでしょうか?
この蛇は、原文をそのまま読む限り、別に嘘はついていません。善悪の知識の木の実を食べれば、その名のとおり善悪の知識が手に入りますし、実際人間は善悪の知識を手に入れたわけですね。
では何故この話の神さまは、蛇を呪い、人間に罰を与えたのか。
自分の解釈ですけども…
神さまの希望としては、土から作ったゴーレム(人間)には無垢でいて欲しかったんでしょう。
自分に似せて作ったものたちが美しい箱庭で穏やかに暮らしているのを見ていたかったわけで、人間にとっても苦労なく生きられるので幸せだったというわけ。(果たしてそれがほんとに幸せなのかは置いといて)
とにかく蛇に言われるまで、人間は神を疑うことなど考えもしませんでしたし、愛し愛される関係を築いていたのです。
ここで蛇が言ったのは、
「神はおまえたちに嘘をついているぞ」
ということです。(正しいっちゃ正しい)
女は初めて神さまを疑います。
彼女の中には、自分が神の被造物であることを忘れ神と同等になりたいと願う傲慢が芽生えています。
そして神でなくて蛇の言うことを信じました。
(《蛇》を《近隣の他部族の神》と置き換えると、なんとも面白い)
そして実を食べ、神が嘘をついていたことを証明してしまいます。
しかしながらそれは神を無条件で信じられる無垢さを失ったことの証になりました。
女と、夫である人間は実を食べて、知恵を得ます。
それでまず、自分が裸であるのに気付いた、というのがミソです。自己の認識、というのは客観的な視点を持たなくては出来ないことです。
裸を恥ずかしい、と思うことは、自己の情欲などをありのままに他者に見せることを隠したい、ということで、この二人の間に個人としての意識が生まれたことを示します。更に、神に造られた自分の姿を恥じるのは、それを作った神からも気持ちが離れてしまったからというわけです。
神の声を聞いただけで逃げ出したのは、罪を指摘される前に彼らに罪悪感があったからで、既に彼らは自分たちが何をしてしまったかは分かっていました。
それでも認めたくないから、男は女のせいにし、女は蛇のせいにして罪の擦り合いをします。人間同士の分裂、というわけです。
神さまは地上を律する立場上、規律を乱したものを放置してはおけません。
そこで二人をエデンの園から追放したわけですが…エデンには善悪の知識の実のほかに、もうひとつ重要な実がありました。
《いのちの木の実》ってやつです。
これを食べ続けていれば、楽園の住人たちは永遠に生きることができます。
でも追放されたらもうこの実が食べられないので、遅かれ早かれ人間は死んでしまいます。
その前に神は《罰》を与えるのですが、ある意味ではこれは救済策なのか?と考えたりもします。
まず女に、「出産」と「恋愛」を与えます。
「恋愛」と書いたけど、原文では「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配する」とあります。
恋愛観は人それぞれですが、「尽くす愛」が女性的なものという認識はこの頃既にあったのでしょうか。
対して男には、「労働」を与えます。
「うーーん、このままエデンから出て死なせるのもなんだから、子孫を自分らで作れるようにしてあげようかな。
ただし子ども産むのはメチャクチャ痛いよ。
最初に実食べたの女だから、これは女の役目にしよう。神(私と同等)になりたかったんでしょ?これで命作れるし、私と同じになったよ。
子ども作るのには男の種が要るから、女は男のこと好きになるようにしよう。
あ、でも初期設定で男は女のこと《自分を手助けするもの》って認識なんだった。まあいいか。
男は頑張って作物作ってね。エデンの外には果物ないからね。
いばらとかあざみとか、トゲトゲの植物いっぱい生えてるけど頑張ってね。
あ、寿命切れたら君たち土になっちゃうからね。もともと土から作ったから仕方ないけど。」
……まぁ分かりやすく言うとこんな感じでしょうか?本来ならその場で消し去られても文句は言えない人間たちに、破格の対応です。
しかも楽園を旅立とうとする二人に、《皮の服》をプレゼント。
これは、単に気前が良いってことじゃなくて《二人の罪をあがなうための生け贄》を使用したというわけですよ。
生け贄に関しては、前に色々好き勝手妄想しましたが↓↓↓
未年なので羊についてのあれやこれや http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/25/
罪を生け贄にあがなってもらう、という古代の習慣が、ここにも現れてるわけですね。
創世記が紀元前5、6000年の話という説を信じるなら、この頃メジャーな家畜といったら羊ですから(牛はこの頃、やっと最近飼い始めた新しい家畜)、多分この時生け贄にされたのも羊だったんじゃないかなー。
生け贄といえば羊、の起源はもしかしてここから始まったのかも。
まあとにかく、神は自分が生み出した他のどの生物よりも人間を可愛がっていたんだよ、ということです。
さて、この話の最後らへんで、ようやくこの二人に個人としての名前がつきます。
女は、男が《エバ》という名前をつけました。
エヴァ (Eva) は、ラテン語の女性名で、語源はヘブライ語で「命」または「生きるもの」を意味するハッヴァー (Chavvh)です。
後期青銅器時代にエルサレムで信仰された、フルリ人(紀元前2500頃~紀元前1300年、北メソポタミア周辺に栄えた民族)の大地母神ヘバト、あるいはエブス人(紀元前1900年以前に現在のイスラエルに住んでいた先住民)の女神へバに由来するという説もあります。
一方、男の方には《アダム》という名前がついています。
名の由来は「土」、「血」。
ちなみにこの名前に関しても面白い説を見つけました。
アダムの本名がアブディヘバ…《ヘバのしもべ(Abdi-Heba)》
だという説です。
よくある名前だったみたいですが、アブディヘバは紀元前14世紀のエルサレム王の名前でもあります。
ナイル川上流のアマルナ遺跡から出土した《アマルナ文書》(エジプトとの外交文書。エルサレム王アブディヘバからエジプト王へ送られた6通の手紙を含む。)に登場します。
《ヘバ》は先程エバの名前の由来の説もある、と書いた女神ヘバのこと。ヘバは古代ではすごく信仰を集めていた女神で、彼女の名前を含んだ名前を持つ人はたくさんいたようです。
この説ですと、つまりアダムは女神信仰が国教の古代イスラエルの国あるいは街で王位に就いていた男で、その妻エバは信仰対象の古代の女神だったということになります。
仕える女神に食べるよう差し出された木の実を拒むことなど出来るわけありません。すべて命あるものの母の言い付けは絶対です。
伝承としての創世記の話が昔から語り継がれたものだとして、実際に現在旧約聖書に載っているこの形に直したのがアブディヘバの治世の時代か、そこから少し下った時代だとしたら…?
そう考えたら、なんとなくこの話が生まれた経緯が想像できるような。
ちなみにもう1人、エバの元ネタだという説を持つ、ニンティというメソポタミアの女神がいるのですけれども
彼女が生まれた経緯の話が2種類の話があって、どっちも面白いです。
①
女神ニンフルサグ(シュメールの大地母神)がディルムン(メソポタミア文明とインダス文明の交易地)の中に野菜や果物が繁るエディヌという美しい庭園を造りました。
ニンフルサグは夫のエンキ(シュメールの水神)に野生動物の制御と庭園の手入れを担当させました。
あるとき庭の世話の手伝いをしていたアルリム(古代メソポタミア王で、人類最初の王)が、7つの植物を選んでエンキに差し出し、エンキはそれらを食べました。
するとニンフルサグは大激怒!エンキを、肋骨が痛くなる病気にしてしまいます。
その後他の神に宥められて怒りが収まったニンフルサグは、エンキを治療するために「肋骨の女」の名を持つ女神・ニンティを作ってあげましたとさ。
②
エンキは妻のニンフルサグとの間に女神ニンサル(植物の女神)という娘がいましたが、ニンフルサグ不在の間にニンサルと関係を持ち、女神ニンクルラ(農耕・牧畜の女神)という娘をもうけました。
さらに彼はそのニンクルラとも関係を持ち、女神ウットゥ(機織り、もしくは蜘蛛を司る女神)をもうけます。
そしてさらにエンキは女神ウットゥと関係を持ちました。しかし、エンキは、ニンサルとニンクルラに対してしたのと同様に、しばらくするとウットゥのもとを去ってしまいました。ウットゥは、戻ってきたニンフルサグにこのことを相談します。
ニンフルサグは、ウットゥの子宮からエンキの精を取り出して土に埋めました。
すると、そこから8種類の植物が芽を出し、みるみると成長しました。エンキはそれを見ると、その植物の実を食べてしまったのですが、すると彼のあご・歯・口・のど・四肢・肋骨などに腫れ物ができました。(腫れ物は8箇所に出来たらしい)
ニンフルサグは、エンキの体からアブ(Ab:精)を取り出して、ウットゥの体に戻しました。するとウットゥから8つの神
アブー(Abu)
ニントゥルラ(Nintulla:またはニントゥル(Nintul))
ニンストゥ(Ninsutu)
ニンカシ(Ninkasi)
ナンシェ(Nanshe)
エンシャグ(Enshag:またはエンシャガグ(Enshagag))
ダジムア(Dazimua)
ニンティ(Ninti)
が生まれ、エンキの体の各部にあった腫れ物は癒されましたとさ。
【エンキ】
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%AD
【ニンフルサグ】
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%B0
エンキは、メソポタミア神話の創世神でもある水神です。バビロニア神話ではエアと呼ばれます。
エンキの母である女神ナンムは神々に命を与えたとされる海神で、その役目を息子が引き継いだというわけです。(ナンムがエンキに変身、つまり女神から男神に性転換したという説も)
これは命を生み出す「水」のモチーフが、女性的な「海」から男性の「精子」に変化したということで、当時のメソポタミアが男性主導の社会になっていて、それを正当化したかったのかな、と想像できます。
エンキを表す象徴は、山羊と魚。両者はのちに統合され、ローマへ渡って、黄道十二星座のやぎ座を象徴する怪物カプリコルヌスとなります。また、知恵や魔法を司るため蛇も彼のモチーフです。
一方その妻ニンフルサグは、アン(シュメールの最高神で天空の神)の妻だった女神キ(大地の女神)と同一視されています。アンとキは原初の海ナンムから生まれた兄妹神だそうな。
……………ん???
てぇことは、エンキとニンフルサグは姉弟??ニンフルサグは兄と弟両方の妻ということ??!
…まぁ神話の世界じゃよくあることですけど…。
とある話ではニンフルサグは、エンキによって作られた「鍬」によって、頭を現わした人間(はじめは植物のようなものであったとされる)を完成させたとか。
また別の神話では、ナンムが粘土の塊から人間を作り出したとき、ニンフルサグが助産婦の役割を果たしたとか。
人間を作るのに大いに協力したとされています。
そんな彼女は、羊の角を生やし、子ライオンを連れ矢筒を背負った姿で描かれます。
また、蛇や雌牛の姿で描かれることもあるそう。
こうしてみると、聖書のモチーフがたくさん出てきてとても面白い。
ロバート・マッケルバン教授という人が言うには
「これらの神話は家父長制成立の黎明期に成立したことを示そうとしている。
神話のストーリーによって、すでに慣行となっていた男性による支配を正当化しようとしているとのことである。上記の神話においては、生命を生み出す過程で女神ニンフルサグが積極的な役割を果たしているが、その後の家父長制となるにつれ、男性の精が生命を生み出す種子として位置づけられる一方、女性は「大地のように、豊かで、肥沃でしかし種子がその中に根を張らない限り空虚である」存在に矮小化されたとらえられ方をされるようになった。「種子のメタファーが、男性を、命を生み出す際には傍観者の役割にしかすぎない状態から一歩進ませて、神のような創造者として位置づけた一方で、女性の位置づけは生命の創造者そのものから、創造の力を持たない土くれのようなものに変質させた」
らしいです。
…そうそう、ニンティの話に戻ります。
「あばら骨から出た女」の名をもつ彼女は、のちに母ニンフルサグの称号のひとつだった《生命の女神》を受け継ぎ、《すべての生命の母》と呼ばれるようになります。
シュメール語で"ti"は「肋骨」と「生命」の両方を意味するそうで、つまり彼女は生まれながらにして"Ninti"…「肋骨の女神」&「生命の女神」という名を負っているということになります。
また、"ni"はメソポタミアでは「蛇」を意味する発音でもあるそうな。
肋骨から生まれたという生まれ方がエバと酷似しているため、そして《すべての生命の母》の称号から、エバの元ネタであろうと言われているわけですが
実は、彼女の母ニンフルサグと、古代フェニキアの太陽女神ヘバトは元を辿れば同じ神だという説もあります。
http://bellis.sakura.ne.jp/mediawiki2/index.php?title=%E3%83%98%E3%83%90%E3%83%88
まとめると、つまり聖書においては人類の祖であるエバ(イブ)のモデルは古代フェニキアの太陽女神ヘバトであり、シュメールの大地母神ニンフルサグであり、その娘ニンティである、というわけ。
アダムはアダマ(塵)、あるいはアブディヘバ(ヘバのしもべ)。彼についての神話は、ほとんどがユダヤ・キリスト教が成立してから作られたものです。
メソポタミアは男性優位の社会体型でした。
古くからのこの神話がそのままの形ですと、色々不具合が生じます。
そこで、ヘバよりもアダムよりも大きな存在が必要になったため、名前のない神《すべての存在の主》を生み出したのでしょう。
《主》という、なにかの擬人化でない神というものはこのとき初めて生まれました。
これはすごく新しいことで、この話が後々、世界一のベストセラーである《聖書》へと発展し、更にたくさんの国を作り、そしてたくさんの国を滅ぼし、未だに戦争の種となっている《ユダヤ教》《キリスト教》《イスラム教》の始まりとなるのです。
さあ、ここからどうなるのでしょう?
聖書はまだ5ページしか進んでいません。続きは次回ということで!
あ、ちなみにこのお話(天地創造)がテーマの音楽↓↓↓↓
【オラトリオ『天地創造』】ハイドン作曲
https://youtu.be/xPT_pOsJWnI
2015/02/19 (Thu)
どうもこんにちは。
私は本日も通常運転で、果てしない妄想に取りつかれております。今年も相変わらず好きなこと考えて生きていたいなーと思う所存です(爆)
そうそう、一昨年は巳年だった為、蛇のことで色々とあること無いこと考えていたのでした。
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%81%AF%E5%B7%B3%E5%B9%B4
そういえば去年は午年だったけど、馬について妄想するの忘れた!!!
まぁ11年年後のお楽しみにしましょう。
今年は未年なので、まぁ最近は羊について色々妄想してたわけです。
もふもふでのんびりした顔つきで可愛いし癒されるし、羊毛やミルクや肉は貴重な財産だったし、羊は昔から人々の生活に寄り添ってた動物です。
そして羊といえば「アニュス デイ」…神の生け贄としてのキリスト教的シンボリカルなイメージが強いですが、それより前の地中海文明時代から、デュオニュソス祭の生け贄は羊が定番の動物だったようです。
羊というのはそもそもどんな動物なのか。
そもそも何故生け贄といえば羊なのか。なんで「神の仔牛」とか「神の仔豚」じゃダメなのか。
色々調べてみました。
*
ヒツジ(羊、学名 Ovis aries)は、動物界脊椎動物門哺乳綱ウシ目ウシ科 ヤギ亜科の1種です。
新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡があるそうで、家畜化が始まったのは紀元前7000-6000年ごろの古代メソポタミアと言われています。牛を家畜化したのはそれよりもっと後の紀元前6000-5000年頃なので、まさに羊は家畜の元祖だったわけですね。
「複数の河の間」という名の通り、メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川の間に栄えた文明です。地理的には現在のイラクの一部にあたります。
古代メソポタミア文明はメソポタミアに生まれては滅びていった複数の文明を総称する呼び名で、シュメール、バビロニア、アッシリア、アッカド、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々がありました。
ちなみにメソポタミアは旧約聖書とも関係があって、アブラハムさんはメソポタミアの都市ウルの出身、エデンの園はメソポタミアの都市、バベルの塔はジッグラトだという説もあります。あくまで一説ですが。
最古の文明と言われるシュメール人の村で飼育の始まった羊は、彼らの生活に非常に密着しました。
羊は人間にとって、とても大切な財産になりました。
それまでの人間といえば、他の動物の食べ残した屍肉や、同じ霊長類や時には同族の初期人類ですら食料にするほどたんぱく質に飢えていたのですから(アウストラロピテクスはヒヒを殺して食べていたというし、北京原人もネアンデルタール人も他者に食べられたあとがある遺骨が見つかっている。脳味噌が一番美味らしい)、思う通りに管理でき、尚且つ同族を殺すほどは心痛まずに殺すことができる家畜は実に画期的だったことでしょう。
ともかく人類は植物の栽培の次に、動物を管理することを覚えました。(農業はじまったのは紀元前9000年)
家畜を飼い始めるにあたり、彼らは今まで別に持つ必要のなかった知識を持たなくてはならなくなります。
羊を放牧に連れて行って草を食べさせ帰ってくるときに、行きと同じ数の羊を連れて帰ってこなければならないわけです。
他動物の食べ残した屍肉を持ち帰ったりだとか、狩りをして仕留めた獲物を持ってくるとか、人類がそういうレベルだったときには《数》は別段必要無かったでしょう。
そこで人間は数を数え始めたわけでした。
まず、
両手の指で10まで数える
↓
10進法
が生まれました。これなら折り返しも含めれば20まで、いつでもどこでも数えられます。
しかし間も無くそれじゃ足りなくなったので、
親指の先で他の指の関節に触れる
↓
手の小指、薬指、中指、人差し指にそれぞれある3つの関節を順次右手の親指の先で触れていく
↓
小指の第1関節、第2関節、第3関節、薬指の第1関節、第2関節、第3関節・・・
そうすると3×4で12まで数えることができる
↓
その12の数を1まとまりに捉える
↓
1ダース
が生まれました。
それでも足りなくなったので
1ダースまで羊の数を数えたら、左手の指の親指を1本折る
↓
改めて右手で数え始める
↓
また右手の最後の人差し指の第三関節まできたら、今度は2本目として左手の人差し指を折る
↓
この数え方で左手を小指まで折りきったら、
12×5=60
このようにしてできた、60をひとまとまりの数としてとらえる考え方が60進法です。
これが後に古代ギリシャに伝わって天文学で使われるようになり、暦や時計の数え方に60進法が使われるようになり、古代中国へ渡り、干支が生まれ、それが日本にも伝わってきたというわけ。
ちなみに干支があるのは中国と日本だけじゃなくて、アジアの数ヵ国やロシアとかにもあります。だいたい動物は同じだけど、
チベットとタイとベトナムとベラルーシはウサギのかわりに猫が入ってます。
干支にはそれぞれ意味がありまして、未は《家族の安泰・豊作》の願いが込められております。
象形文字で木の枝葉の茂った様を表す「未」ですが、昔々は「昧曖(あいまい)」の「昧」と記され
・作物が茂って「暗い」
・果実が熟した状態「味(み)」
を指すと言われているそうです。
後に、覚えやすくするために動物のヒツジが使われるようになりました。
未の月にあたる6月は、様々な作物が成熟する大切な季節です。未月(びげつ)…陰暦6月は現代の太陽暦では8月です。
さてさて、そんなヒツジですが。
現在キリスト教に支配されたヨーロッパではヒツジといえば生け贄です。
以前、古代ユダヤの過ぎ越し祭について書いたとき調べた限りでは、『仔羊のような清らかなものにすがる者を神は守ってくださるから』というような理由が出てきたのですが、どうにも納得できませんでした。
古代の祭りとは総じて血なまぐさいものです。生きるために必要な生々しさに、人間は折り合いをつけるために祭事を行うのだと常々思っていたからです。そして現代に残る賑やかな祭りも、元々は生きることと直結したものなはずです。
そこでまたアレコレ調べました。
それでまた面白い説を見つけました。
時は数百万年前、直立二足歩行をする類人猿が出現しました。(どうやって出現したかはこの際置いといて)
彼らは他の動物に比べ牙も爪もか弱く、雌に至っては産道の短縮によっての流産率の上昇など、生物として、ともすれば欠陥品のような不合理な進化を遂げました。
彼らにあって他の動物たちに無いもの、それは両手の自由です。彼らは他の雑食性哺乳類よりも効率よく木の実を集め、小さな哺乳動物を捕獲し、時には他の肉食獣が食べ残した大型獣の屍肉を喰らって少しずつ数を増やしていきます。
コミュニティを作り、獣に襲われる頻度も減ったことでしょう。
はじめはそれで良かったかもしれませんが、個体数の増加は食料不足という事態をもたらしました。
木の実を採取するだけでは到底まかないきれません。熱量が高いのはなんと言っても肉ですが、小さなネズミなどでは足りないし、そうそう屍肉にありつけるわけでも無かったでしょう。
元来他の動物を補食するようには進化してこなかった人間は、爪や牙も持たず《殺すこと=生きること》という本能も失っています。というよりは、大脳新皮質が発達したことで覆い隠されたといった方が良いかもしれません。
それは進化なのか、退化なのか、生物的にはどうなのか考え込むところです。マンボウも、最も進化した魚と言われているけれど、非常にか弱い個体ですし、果たして生物は何をもって進化していると言えるのやら。
とにかく、このままでは種としての存続も危ぶまれる。そうした事態の中で生き残るために、人間は唯一他の動物には無い両手の自由を、武器として使うことを覚えます。
石を握り、それで殴る。あるいは投げて当てる。石をかち割って鋭くして殺傷能力を上げる。握りやすいよう持ち手を作る。
そうして殺すことを覚えたヒトは、本来本能に無い動作を生きるために続けることに、折り合いをつける必要が出てきます。
他の哺乳類と違い、人間の赤ん坊は自力で母親にしがみついたり、或いは生まれてすぐに立って歩くことができません。母親は、いつも子供を抱いて守ってあげる必要がありました。食料を集めるのは必然的に雄の役目になります。
雄は雌と違い、生理や出産などで血を見る機会がありません。
でも狩りをすれば血を見なくてはならない。
生物的に父親的要素を持つ人間の雄にとって、血を日常的に見続けるのは辛いことでした。牧畜が始まって狩の必要がなくなっても、育てた動物を殺さなくてはならないことに変わりはありません。
そこで古代に最も発達したのは、女神信仰だったというわけです。大地母神たる古代の女神は大抵、お供に動物を連れています。
人間の雄が狩猟によって得る苦痛を、「女神に捧げる」ことで許しを得、祭りにすることで共同殺害を行い罪悪感を分け合う。そして輪廻を司る女神に捧げられた動物は、いつかまた神の庇護のもと甦る、というわけ。
ウェディングケーキのカットも、元々は新たにつがいとなる男女が生け贄に刃を突き立てるという儀式が変化したものです。
クリスマスツリーに飾るジンジャークッキーだって、冬になると急激に増える行方不明者を《神隠し》と怖れた古代の人びとが、《神の宿る樹》つまり常緑樹に生け贄の子供を吊るして捧げたゲルマンの風習が原型です。
ケーキという『可愛らしいお菓子』に姿を変えて、そうして今も人間は『食べること=生きること=殺すこと』に折り合いをつけているということなのでしょうか。
ナザレのイエスは「わたしの体はパン、わたしの血はぶどう酒」と言いました。
これは、デュオニュソス祭の模倣との説があります。絞り潰され、ぐちゃぐちゃに叩き殺された葡萄…即ちデュオニュソス。その身体をワインに熟成させて飲む。人はデュオニュソスと一体となり、酩酊して精神も神のところへ飛ぶ。
食べたり飲んだりすることは、最も古くて強い呪術です。
デュオニュソス…若いゼウス・神の息子 の名を持つこの神は、葡萄酒の解禁である冬が誕生日です。(デュオニュソス祭)そして祭りの中で死に、人々に呑まれたデュオニュソスは、春にまた葡萄畑に復活します。
同じく神の子としてナザレのイエスは人に屠られ、過ぎ越の羊のように《膝を折ることなく》磔から下ろされ、復活を遂げます。
ところで、ここまで考えて、まだ『なぜ《神の仔羊》でないといけないのか』の答えが出ていません。
調べてみてもそこに突っ込んだ記事が出てこなかったので、また妄想を巡らしました。
羊で思い出すのは羊飼いの神パンですが、彼はデュオニュソスとも関わりがあります。男性のデュオニュソス信者のことを、パンと同一視されている神『サテュロス』と呼びます。(パンの息子という説もある)
そしてサテュロスはデュオニュソスの養父でもあり、師匠であり、酒飲み友達です。
パンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、四足獣のような下半身と山羊のような角を持っています。
父親はゼウスともヘルメスともいわれ、母親はニュムペー(森に住む下級神)であるといわれています。
名前の説はいくつかあり、
○古形「パオーン、Παων、Paon」(「牧夫」の意、現代英語のpastureと同じ接頭辞)から名付けられた
○ギリシア語の「全ての」の意「Pan」
○インド・ヨーロッパ語の「√pa」(飼う、食わす)←
ちなみに、食べるパンの語源も√paらしい。
○オルペウス教の創世神話に登場する原初の両性存在の神、プロートゴノス(Πρωτογονο�、最初に生まれた者)あるいはパネース(Φανη�、顕現する者)と同じものである
などなど…。
どうでしょう、なんだかとてもすごい神さまみたい。
上記に出てきたプロートゴノスは、原初神エロース(愛)の別名です。エロスは、今でこそアプロディーテ(美)に付き従う幼子の神とされていますが、元々はオリュンポス12神なんかよりずっとずっと古い、ティタンの血族の一番初めの神なのです。
原初に卵より生まれた両性の神で、みずからの娘ニュクス(夜)とのあいだに初原の神々、大地(ガイア)と天(ウーラノス)を生み出した存在(Protogonus/Phanes)。また「全て」という意味から「宇宙全ての神」であると解釈されるようにもなったそうです。
更に、パーンと同一視されるローマのファウヌス(家畜と田野や森を守る神。この他、多産も司る)。名は「いるもの」を意味します。(旧約の神も「わたしは在るものである」って言ってたし、関連性を感じずにはいられない)
あるいはファブルウスFabruus。2月、フェブルア月(フェブルアリウス)の神。2月Februaryの語源。 「清めの具」の意。
神祇官が祭儀の王と神官に求めた羊毛や、
喪中の家で清めとして手に取る塩、粒を混ぜて焼いたスペルト小麦パンなどなど、つまり体を清めるものは何でもフェブルアであったそうな。
他に「恵みを与えるもの」とする説も。
それに対し、サテュロスは神の中では下級の部類に入ります。
その名前はギリシア語で男性器を意味する言葉に由来していて、享楽的な性質を濃く持っています。
原初の神であるエロース=プロートゴノス=牧神パン=ファウヌス≒サテュロス
だとすると。
生殖という、生物にとって最も重要な行動を守護し、守る神という点は、ヤハウェと変わらないのでは。
「産めよ、増えよ、地に満ち全ての生き物を支配せよ」は、主が最初に人間に命じたことです。
パンは「全て」であり、「最初に生まれたもの」であり、清めるもの、恵みをもたらすもの。
人類が最初に飼い慣らした大人しい羊を守り、羊の数イコール財産であった古代の人々にとって生命を繋ぐための最も重要となった神。
その神の血族たる羊の末裔だけが、罪を購う価値を持つ…とあらば。
神の怒りを鎮めることができる生物が、羊であるというのも頷けます。
何故山羊は駄目なのか。
羊だってヤギ亜科の動物じゃないか。
そう思ったけど、旧約聖書ではヤギはスケープゴートの役割の方が大きくて、しかも異教徒の神を悪魔として描いてるからヤギは悪魔の象徴にされてしまっています。
かつての原初神パンも、聖書の中ではインキュバス。世知辛い…。
だけど、パン(神)はパン(食べ物)として聖体になり、その養い子のデュオニュソス(ワイン)は神の血となった。
人は神を食べ、神に近付こうとする
人の罪を購うのは今も昔も一匹の仔羊で、その犠牲を見て人は生きることの罪深さに折り合いをつけて生きている。
。
それは、ホモ・サピエンスが生まれてから今もずっと変わらないし、これから滅びるまで形を変えることはあれど、本質が変わることは無いんだろうなー。
なんだかすごく長くなっちゃったけど、取り敢えず妄想は果てしないのでここらへんで切り上げます。
お付き合いありがとうございましたー!
私は本日も通常運転で、果てしない妄想に取りつかれております。今年も相変わらず好きなこと考えて生きていたいなーと思う所存です(爆)
そうそう、一昨年は巳年だった為、蛇のことで色々とあること無いこと考えていたのでした。
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%81%AF%E5%B7%B3%E5%B9%B4
そういえば去年は午年だったけど、馬について妄想するの忘れた!!!
まぁ11年年後のお楽しみにしましょう。
今年は未年なので、まぁ最近は羊について色々妄想してたわけです。
もふもふでのんびりした顔つきで可愛いし癒されるし、羊毛やミルクや肉は貴重な財産だったし、羊は昔から人々の生活に寄り添ってた動物です。
そして羊といえば「アニュス デイ」…神の生け贄としてのキリスト教的シンボリカルなイメージが強いですが、それより前の地中海文明時代から、デュオニュソス祭の生け贄は羊が定番の動物だったようです。
羊というのはそもそもどんな動物なのか。
そもそも何故生け贄といえば羊なのか。なんで「神の仔牛」とか「神の仔豚」じゃダメなのか。
色々調べてみました。
*
ヒツジ(羊、学名 Ovis aries)は、動物界脊椎動物門哺乳綱ウシ目ウシ科 ヤギ亜科の1種です。
新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡があるそうで、家畜化が始まったのは紀元前7000-6000年ごろの古代メソポタミアと言われています。牛を家畜化したのはそれよりもっと後の紀元前6000-5000年頃なので、まさに羊は家畜の元祖だったわけですね。
「複数の河の間」という名の通り、メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川の間に栄えた文明です。地理的には現在のイラクの一部にあたります。
古代メソポタミア文明はメソポタミアに生まれては滅びていった複数の文明を総称する呼び名で、シュメール、バビロニア、アッシリア、アッカド、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々がありました。
ちなみにメソポタミアは旧約聖書とも関係があって、アブラハムさんはメソポタミアの都市ウルの出身、エデンの園はメソポタミアの都市、バベルの塔はジッグラトだという説もあります。あくまで一説ですが。
最古の文明と言われるシュメール人の村で飼育の始まった羊は、彼らの生活に非常に密着しました。
羊は人間にとって、とても大切な財産になりました。
それまでの人間といえば、他の動物の食べ残した屍肉や、同じ霊長類や時には同族の初期人類ですら食料にするほどたんぱく質に飢えていたのですから(アウストラロピテクスはヒヒを殺して食べていたというし、北京原人もネアンデルタール人も他者に食べられたあとがある遺骨が見つかっている。脳味噌が一番美味らしい)、思う通りに管理でき、尚且つ同族を殺すほどは心痛まずに殺すことができる家畜は実に画期的だったことでしょう。
ともかく人類は植物の栽培の次に、動物を管理することを覚えました。(農業はじまったのは紀元前9000年)
家畜を飼い始めるにあたり、彼らは今まで別に持つ必要のなかった知識を持たなくてはならなくなります。
羊を放牧に連れて行って草を食べさせ帰ってくるときに、行きと同じ数の羊を連れて帰ってこなければならないわけです。
他動物の食べ残した屍肉を持ち帰ったりだとか、狩りをして仕留めた獲物を持ってくるとか、人類がそういうレベルだったときには《数》は別段必要無かったでしょう。
そこで人間は数を数え始めたわけでした。
まず、
両手の指で10まで数える
↓
10進法
が生まれました。これなら折り返しも含めれば20まで、いつでもどこでも数えられます。
しかし間も無くそれじゃ足りなくなったので、
親指の先で他の指の関節に触れる
↓
手の小指、薬指、中指、人差し指にそれぞれある3つの関節を順次右手の親指の先で触れていく
↓
小指の第1関節、第2関節、第3関節、薬指の第1関節、第2関節、第3関節・・・
そうすると3×4で12まで数えることができる
↓
その12の数を1まとまりに捉える
↓
1ダース
が生まれました。
それでも足りなくなったので
1ダースまで羊の数を数えたら、左手の指の親指を1本折る
↓
改めて右手で数え始める
↓
また右手の最後の人差し指の第三関節まできたら、今度は2本目として左手の人差し指を折る
↓
この数え方で左手を小指まで折りきったら、
12×5=60
このようにしてできた、60をひとまとまりの数としてとらえる考え方が60進法です。
これが後に古代ギリシャに伝わって天文学で使われるようになり、暦や時計の数え方に60進法が使われるようになり、古代中国へ渡り、干支が生まれ、それが日本にも伝わってきたというわけ。
ちなみに干支があるのは中国と日本だけじゃなくて、アジアの数ヵ国やロシアとかにもあります。だいたい動物は同じだけど、
チベットとタイとベトナムとベラルーシはウサギのかわりに猫が入ってます。
干支にはそれぞれ意味がありまして、未は《家族の安泰・豊作》の願いが込められております。
象形文字で木の枝葉の茂った様を表す「未」ですが、昔々は「昧曖(あいまい)」の「昧」と記され
・作物が茂って「暗い」
・果実が熟した状態「味(み)」
を指すと言われているそうです。
後に、覚えやすくするために動物のヒツジが使われるようになりました。
未の月にあたる6月は、様々な作物が成熟する大切な季節です。未月(びげつ)…陰暦6月は現代の太陽暦では8月です。
さてさて、そんなヒツジですが。
現在キリスト教に支配されたヨーロッパではヒツジといえば生け贄です。
以前、古代ユダヤの過ぎ越し祭について書いたとき調べた限りでは、『仔羊のような清らかなものにすがる者を神は守ってくださるから』というような理由が出てきたのですが、どうにも納得できませんでした。
古代の祭りとは総じて血なまぐさいものです。生きるために必要な生々しさに、人間は折り合いをつけるために祭事を行うのだと常々思っていたからです。そして現代に残る賑やかな祭りも、元々は生きることと直結したものなはずです。
そこでまたアレコレ調べました。
それでまた面白い説を見つけました。
時は数百万年前、直立二足歩行をする類人猿が出現しました。(どうやって出現したかはこの際置いといて)
彼らは他の動物に比べ牙も爪もか弱く、雌に至っては産道の短縮によっての流産率の上昇など、生物として、ともすれば欠陥品のような不合理な進化を遂げました。
彼らにあって他の動物たちに無いもの、それは両手の自由です。彼らは他の雑食性哺乳類よりも効率よく木の実を集め、小さな哺乳動物を捕獲し、時には他の肉食獣が食べ残した大型獣の屍肉を喰らって少しずつ数を増やしていきます。
コミュニティを作り、獣に襲われる頻度も減ったことでしょう。
はじめはそれで良かったかもしれませんが、個体数の増加は食料不足という事態をもたらしました。
木の実を採取するだけでは到底まかないきれません。熱量が高いのはなんと言っても肉ですが、小さなネズミなどでは足りないし、そうそう屍肉にありつけるわけでも無かったでしょう。
元来他の動物を補食するようには進化してこなかった人間は、爪や牙も持たず《殺すこと=生きること》という本能も失っています。というよりは、大脳新皮質が発達したことで覆い隠されたといった方が良いかもしれません。
それは進化なのか、退化なのか、生物的にはどうなのか考え込むところです。マンボウも、最も進化した魚と言われているけれど、非常にか弱い個体ですし、果たして生物は何をもって進化していると言えるのやら。
とにかく、このままでは種としての存続も危ぶまれる。そうした事態の中で生き残るために、人間は唯一他の動物には無い両手の自由を、武器として使うことを覚えます。
石を握り、それで殴る。あるいは投げて当てる。石をかち割って鋭くして殺傷能力を上げる。握りやすいよう持ち手を作る。
そうして殺すことを覚えたヒトは、本来本能に無い動作を生きるために続けることに、折り合いをつける必要が出てきます。
他の哺乳類と違い、人間の赤ん坊は自力で母親にしがみついたり、或いは生まれてすぐに立って歩くことができません。母親は、いつも子供を抱いて守ってあげる必要がありました。食料を集めるのは必然的に雄の役目になります。
雄は雌と違い、生理や出産などで血を見る機会がありません。
でも狩りをすれば血を見なくてはならない。
生物的に父親的要素を持つ人間の雄にとって、血を日常的に見続けるのは辛いことでした。牧畜が始まって狩の必要がなくなっても、育てた動物を殺さなくてはならないことに変わりはありません。
そこで古代に最も発達したのは、女神信仰だったというわけです。大地母神たる古代の女神は大抵、お供に動物を連れています。
人間の雄が狩猟によって得る苦痛を、「女神に捧げる」ことで許しを得、祭りにすることで共同殺害を行い罪悪感を分け合う。そして輪廻を司る女神に捧げられた動物は、いつかまた神の庇護のもと甦る、というわけ。
ウェディングケーキのカットも、元々は新たにつがいとなる男女が生け贄に刃を突き立てるという儀式が変化したものです。
クリスマスツリーに飾るジンジャークッキーだって、冬になると急激に増える行方不明者を《神隠し》と怖れた古代の人びとが、《神の宿る樹》つまり常緑樹に生け贄の子供を吊るして捧げたゲルマンの風習が原型です。
ケーキという『可愛らしいお菓子』に姿を変えて、そうして今も人間は『食べること=生きること=殺すこと』に折り合いをつけているということなのでしょうか。
ナザレのイエスは「わたしの体はパン、わたしの血はぶどう酒」と言いました。
これは、デュオニュソス祭の模倣との説があります。絞り潰され、ぐちゃぐちゃに叩き殺された葡萄…即ちデュオニュソス。その身体をワインに熟成させて飲む。人はデュオニュソスと一体となり、酩酊して精神も神のところへ飛ぶ。
食べたり飲んだりすることは、最も古くて強い呪術です。
デュオニュソス…若いゼウス・神の息子 の名を持つこの神は、葡萄酒の解禁である冬が誕生日です。(デュオニュソス祭)そして祭りの中で死に、人々に呑まれたデュオニュソスは、春にまた葡萄畑に復活します。
同じく神の子としてナザレのイエスは人に屠られ、過ぎ越の羊のように《膝を折ることなく》磔から下ろされ、復活を遂げます。
ところで、ここまで考えて、まだ『なぜ《神の仔羊》でないといけないのか』の答えが出ていません。
調べてみてもそこに突っ込んだ記事が出てこなかったので、また妄想を巡らしました。
羊で思い出すのは羊飼いの神パンですが、彼はデュオニュソスとも関わりがあります。男性のデュオニュソス信者のことを、パンと同一視されている神『サテュロス』と呼びます。(パンの息子という説もある)
そしてサテュロスはデュオニュソスの養父でもあり、師匠であり、酒飲み友達です。
パンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、四足獣のような下半身と山羊のような角を持っています。
父親はゼウスともヘルメスともいわれ、母親はニュムペー(森に住む下級神)であるといわれています。
名前の説はいくつかあり、
○古形「パオーン、Παων、Paon」(「牧夫」の意、現代英語のpastureと同じ接頭辞)から名付けられた
○ギリシア語の「全ての」の意「Pan」
○インド・ヨーロッパ語の「√pa」(飼う、食わす)←
ちなみに、食べるパンの語源も√paらしい。
○オルペウス教の創世神話に登場する原初の両性存在の神、プロートゴノス(Πρωτογονο�、最初に生まれた者)あるいはパネース(Φανη�、顕現する者)と同じものである
などなど…。
どうでしょう、なんだかとてもすごい神さまみたい。
上記に出てきたプロートゴノスは、原初神エロース(愛)の別名です。エロスは、今でこそアプロディーテ(美)に付き従う幼子の神とされていますが、元々はオリュンポス12神なんかよりずっとずっと古い、ティタンの血族の一番初めの神なのです。
原初に卵より生まれた両性の神で、みずからの娘ニュクス(夜)とのあいだに初原の神々、大地(ガイア)と天(ウーラノス)を生み出した存在(Protogonus/Phanes)。また「全て」という意味から「宇宙全ての神」であると解釈されるようにもなったそうです。
更に、パーンと同一視されるローマのファウヌス(家畜と田野や森を守る神。この他、多産も司る)。名は「いるもの」を意味します。(旧約の神も「わたしは在るものである」って言ってたし、関連性を感じずにはいられない)
あるいはファブルウスFabruus。2月、フェブルア月(フェブルアリウス)の神。2月Februaryの語源。 「清めの具」の意。
神祇官が祭儀の王と神官に求めた羊毛や、
喪中の家で清めとして手に取る塩、粒を混ぜて焼いたスペルト小麦パンなどなど、つまり体を清めるものは何でもフェブルアであったそうな。
他に「恵みを与えるもの」とする説も。
それに対し、サテュロスは神の中では下級の部類に入ります。
その名前はギリシア語で男性器を意味する言葉に由来していて、享楽的な性質を濃く持っています。
原初の神であるエロース=プロートゴノス=牧神パン=ファウヌス≒サテュロス
だとすると。
生殖という、生物にとって最も重要な行動を守護し、守る神という点は、ヤハウェと変わらないのでは。
「産めよ、増えよ、地に満ち全ての生き物を支配せよ」は、主が最初に人間に命じたことです。
パンは「全て」であり、「最初に生まれたもの」であり、清めるもの、恵みをもたらすもの。
人類が最初に飼い慣らした大人しい羊を守り、羊の数イコール財産であった古代の人々にとって生命を繋ぐための最も重要となった神。
その神の血族たる羊の末裔だけが、罪を購う価値を持つ…とあらば。
神の怒りを鎮めることができる生物が、羊であるというのも頷けます。
何故山羊は駄目なのか。
羊だってヤギ亜科の動物じゃないか。
そう思ったけど、旧約聖書ではヤギはスケープゴートの役割の方が大きくて、しかも異教徒の神を悪魔として描いてるからヤギは悪魔の象徴にされてしまっています。
かつての原初神パンも、聖書の中ではインキュバス。世知辛い…。
だけど、パン(神)はパン(食べ物)として聖体になり、その養い子のデュオニュソス(ワイン)は神の血となった。
人は神を食べ、神に近付こうとする
人の罪を購うのは今も昔も一匹の仔羊で、その犠牲を見て人は生きることの罪深さに折り合いをつけて生きている。
。
それは、ホモ・サピエンスが生まれてから今もずっと変わらないし、これから滅びるまで形を変えることはあれど、本質が変わることは無いんだろうなー。
なんだかすごく長くなっちゃったけど、取り敢えず妄想は果てしないのでここらへんで切り上げます。
お付き合いありがとうございましたー!