プロフィール
HN:
赤澤 舞
性別:
女性
職業:
飲食店店員
趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。
レトロゲームや特撮も好物です。
ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。
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2015/02/19 (Thu)
どうもこんにちは。
私は本日も通常運転で、果てしない妄想に取りつかれております。今年も相変わらず好きなこと考えて生きていたいなーと思う所存です(爆)
そうそう、一昨年は巳年だった為、蛇のことで色々とあること無いこと考えていたのでした。
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%81%AF%E5%B7%B3%E5%B9%B4
そういえば去年は午年だったけど、馬について妄想するの忘れた!!!
まぁ11年年後のお楽しみにしましょう。
今年は未年なので、まぁ最近は羊について色々妄想してたわけです。
もふもふでのんびりした顔つきで可愛いし癒されるし、羊毛やミルクや肉は貴重な財産だったし、羊は昔から人々の生活に寄り添ってた動物です。
そして羊といえば「アニュス デイ」…神の生け贄としてのキリスト教的シンボリカルなイメージが強いですが、それより前の地中海文明時代から、デュオニュソス祭の生け贄は羊が定番の動物だったようです。
羊というのはそもそもどんな動物なのか。
そもそも何故生け贄といえば羊なのか。なんで「神の仔牛」とか「神の仔豚」じゃダメなのか。
色々調べてみました。
*
ヒツジ(羊、学名 Ovis aries)は、動物界脊椎動物門哺乳綱ウシ目ウシ科 ヤギ亜科の1種です。
新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡があるそうで、家畜化が始まったのは紀元前7000-6000年ごろの古代メソポタミアと言われています。牛を家畜化したのはそれよりもっと後の紀元前6000-5000年頃なので、まさに羊は家畜の元祖だったわけですね。
「複数の河の間」という名の通り、メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川の間に栄えた文明です。地理的には現在のイラクの一部にあたります。
古代メソポタミア文明はメソポタミアに生まれては滅びていった複数の文明を総称する呼び名で、シュメール、バビロニア、アッシリア、アッカド、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々がありました。
ちなみにメソポタミアは旧約聖書とも関係があって、アブラハムさんはメソポタミアの都市ウルの出身、エデンの園はメソポタミアの都市、バベルの塔はジッグラトだという説もあります。あくまで一説ですが。
最古の文明と言われるシュメール人の村で飼育の始まった羊は、彼らの生活に非常に密着しました。
羊は人間にとって、とても大切な財産になりました。
それまでの人間といえば、他の動物の食べ残した屍肉や、同じ霊長類や時には同族の初期人類ですら食料にするほどたんぱく質に飢えていたのですから(アウストラロピテクスはヒヒを殺して食べていたというし、北京原人もネアンデルタール人も他者に食べられたあとがある遺骨が見つかっている。脳味噌が一番美味らしい)、思う通りに管理でき、尚且つ同族を殺すほどは心痛まずに殺すことができる家畜は実に画期的だったことでしょう。
ともかく人類は植物の栽培の次に、動物を管理することを覚えました。(農業はじまったのは紀元前9000年)
家畜を飼い始めるにあたり、彼らは今まで別に持つ必要のなかった知識を持たなくてはならなくなります。
羊を放牧に連れて行って草を食べさせ帰ってくるときに、行きと同じ数の羊を連れて帰ってこなければならないわけです。
他動物の食べ残した屍肉を持ち帰ったりだとか、狩りをして仕留めた獲物を持ってくるとか、人類がそういうレベルだったときには《数》は別段必要無かったでしょう。
そこで人間は数を数え始めたわけでした。
まず、
両手の指で10まで数える
↓
10進法
が生まれました。これなら折り返しも含めれば20まで、いつでもどこでも数えられます。
しかし間も無くそれじゃ足りなくなったので、
親指の先で他の指の関節に触れる
↓
手の小指、薬指、中指、人差し指にそれぞれある3つの関節を順次右手の親指の先で触れていく
↓
小指の第1関節、第2関節、第3関節、薬指の第1関節、第2関節、第3関節・・・
そうすると3×4で12まで数えることができる
↓
その12の数を1まとまりに捉える
↓
1ダース
が生まれました。
それでも足りなくなったので
1ダースまで羊の数を数えたら、左手の指の親指を1本折る
↓
改めて右手で数え始める
↓
また右手の最後の人差し指の第三関節まできたら、今度は2本目として左手の人差し指を折る
↓
この数え方で左手を小指まで折りきったら、
12×5=60
このようにしてできた、60をひとまとまりの数としてとらえる考え方が60進法です。
これが後に古代ギリシャに伝わって天文学で使われるようになり、暦や時計の数え方に60進法が使われるようになり、古代中国へ渡り、干支が生まれ、それが日本にも伝わってきたというわけ。
ちなみに干支があるのは中国と日本だけじゃなくて、アジアの数ヵ国やロシアとかにもあります。だいたい動物は同じだけど、
チベットとタイとベトナムとベラルーシはウサギのかわりに猫が入ってます。
干支にはそれぞれ意味がありまして、未は《家族の安泰・豊作》の願いが込められております。
象形文字で木の枝葉の茂った様を表す「未」ですが、昔々は「昧曖(あいまい)」の「昧」と記され
・作物が茂って「暗い」
・果実が熟した状態「味(み)」
を指すと言われているそうです。
後に、覚えやすくするために動物のヒツジが使われるようになりました。
未の月にあたる6月は、様々な作物が成熟する大切な季節です。未月(びげつ)…陰暦6月は現代の太陽暦では8月です。
さてさて、そんなヒツジですが。
現在キリスト教に支配されたヨーロッパではヒツジといえば生け贄です。
以前、古代ユダヤの過ぎ越し祭について書いたとき調べた限りでは、『仔羊のような清らかなものにすがる者を神は守ってくださるから』というような理由が出てきたのですが、どうにも納得できませんでした。
古代の祭りとは総じて血なまぐさいものです。生きるために必要な生々しさに、人間は折り合いをつけるために祭事を行うのだと常々思っていたからです。そして現代に残る賑やかな祭りも、元々は生きることと直結したものなはずです。
そこでまたアレコレ調べました。
それでまた面白い説を見つけました。
時は数百万年前、直立二足歩行をする類人猿が出現しました。(どうやって出現したかはこの際置いといて)
彼らは他の動物に比べ牙も爪もか弱く、雌に至っては産道の短縮によっての流産率の上昇など、生物として、ともすれば欠陥品のような不合理な進化を遂げました。
彼らにあって他の動物たちに無いもの、それは両手の自由です。彼らは他の雑食性哺乳類よりも効率よく木の実を集め、小さな哺乳動物を捕獲し、時には他の肉食獣が食べ残した大型獣の屍肉を喰らって少しずつ数を増やしていきます。
コミュニティを作り、獣に襲われる頻度も減ったことでしょう。
はじめはそれで良かったかもしれませんが、個体数の増加は食料不足という事態をもたらしました。
木の実を採取するだけでは到底まかないきれません。熱量が高いのはなんと言っても肉ですが、小さなネズミなどでは足りないし、そうそう屍肉にありつけるわけでも無かったでしょう。
元来他の動物を補食するようには進化してこなかった人間は、爪や牙も持たず《殺すこと=生きること》という本能も失っています。というよりは、大脳新皮質が発達したことで覆い隠されたといった方が良いかもしれません。
それは進化なのか、退化なのか、生物的にはどうなのか考え込むところです。マンボウも、最も進化した魚と言われているけれど、非常にか弱い個体ですし、果たして生物は何をもって進化していると言えるのやら。
とにかく、このままでは種としての存続も危ぶまれる。そうした事態の中で生き残るために、人間は唯一他の動物には無い両手の自由を、武器として使うことを覚えます。
石を握り、それで殴る。あるいは投げて当てる。石をかち割って鋭くして殺傷能力を上げる。握りやすいよう持ち手を作る。
そうして殺すことを覚えたヒトは、本来本能に無い動作を生きるために続けることに、折り合いをつける必要が出てきます。
他の哺乳類と違い、人間の赤ん坊は自力で母親にしがみついたり、或いは生まれてすぐに立って歩くことができません。母親は、いつも子供を抱いて守ってあげる必要がありました。食料を集めるのは必然的に雄の役目になります。
雄は雌と違い、生理や出産などで血を見る機会がありません。
でも狩りをすれば血を見なくてはならない。
生物的に父親的要素を持つ人間の雄にとって、血を日常的に見続けるのは辛いことでした。牧畜が始まって狩の必要がなくなっても、育てた動物を殺さなくてはならないことに変わりはありません。
そこで古代に最も発達したのは、女神信仰だったというわけです。大地母神たる古代の女神は大抵、お供に動物を連れています。
人間の雄が狩猟によって得る苦痛を、「女神に捧げる」ことで許しを得、祭りにすることで共同殺害を行い罪悪感を分け合う。そして輪廻を司る女神に捧げられた動物は、いつかまた神の庇護のもと甦る、というわけ。
ウェディングケーキのカットも、元々は新たにつがいとなる男女が生け贄に刃を突き立てるという儀式が変化したものです。
クリスマスツリーに飾るジンジャークッキーだって、冬になると急激に増える行方不明者を《神隠し》と怖れた古代の人びとが、《神の宿る樹》つまり常緑樹に生け贄の子供を吊るして捧げたゲルマンの風習が原型です。
ケーキという『可愛らしいお菓子』に姿を変えて、そうして今も人間は『食べること=生きること=殺すこと』に折り合いをつけているということなのでしょうか。
ナザレのイエスは「わたしの体はパン、わたしの血はぶどう酒」と言いました。
これは、デュオニュソス祭の模倣との説があります。絞り潰され、ぐちゃぐちゃに叩き殺された葡萄…即ちデュオニュソス。その身体をワインに熟成させて飲む。人はデュオニュソスと一体となり、酩酊して精神も神のところへ飛ぶ。
食べたり飲んだりすることは、最も古くて強い呪術です。
デュオニュソス…若いゼウス・神の息子 の名を持つこの神は、葡萄酒の解禁である冬が誕生日です。(デュオニュソス祭)そして祭りの中で死に、人々に呑まれたデュオニュソスは、春にまた葡萄畑に復活します。
同じく神の子としてナザレのイエスは人に屠られ、過ぎ越の羊のように《膝を折ることなく》磔から下ろされ、復活を遂げます。
ところで、ここまで考えて、まだ『なぜ《神の仔羊》でないといけないのか』の答えが出ていません。
調べてみてもそこに突っ込んだ記事が出てこなかったので、また妄想を巡らしました。
羊で思い出すのは羊飼いの神パンですが、彼はデュオニュソスとも関わりがあります。男性のデュオニュソス信者のことを、パンと同一視されている神『サテュロス』と呼びます。(パンの息子という説もある)
そしてサテュロスはデュオニュソスの養父でもあり、師匠であり、酒飲み友達です。
パンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、四足獣のような下半身と山羊のような角を持っています。
父親はゼウスともヘルメスともいわれ、母親はニュムペー(森に住む下級神)であるといわれています。
名前の説はいくつかあり、
○古形「パオーン、Παων、Paon」(「牧夫」の意、現代英語のpastureと同じ接頭辞)から名付けられた
○ギリシア語の「全ての」の意「Pan」
○インド・ヨーロッパ語の「√pa」(飼う、食わす)←
ちなみに、食べるパンの語源も√paらしい。
○オルペウス教の創世神話に登場する原初の両性存在の神、プロートゴノス(Πρωτογονο�、最初に生まれた者)あるいはパネース(Φανη�、顕現する者)と同じものである
などなど…。
どうでしょう、なんだかとてもすごい神さまみたい。
上記に出てきたプロートゴノスは、原初神エロース(愛)の別名です。エロスは、今でこそアプロディーテ(美)に付き従う幼子の神とされていますが、元々はオリュンポス12神なんかよりずっとずっと古い、ティタンの血族の一番初めの神なのです。
原初に卵より生まれた両性の神で、みずからの娘ニュクス(夜)とのあいだに初原の神々、大地(ガイア)と天(ウーラノス)を生み出した存在(Protogonus/Phanes)。また「全て」という意味から「宇宙全ての神」であると解釈されるようにもなったそうです。
更に、パーンと同一視されるローマのファウヌス(家畜と田野や森を守る神。この他、多産も司る)。名は「いるもの」を意味します。(旧約の神も「わたしは在るものである」って言ってたし、関連性を感じずにはいられない)
あるいはファブルウスFabruus。2月、フェブルア月(フェブルアリウス)の神。2月Februaryの語源。 「清めの具」の意。
神祇官が祭儀の王と神官に求めた羊毛や、
喪中の家で清めとして手に取る塩、粒を混ぜて焼いたスペルト小麦パンなどなど、つまり体を清めるものは何でもフェブルアであったそうな。
他に「恵みを与えるもの」とする説も。
それに対し、サテュロスは神の中では下級の部類に入ります。
その名前はギリシア語で男性器を意味する言葉に由来していて、享楽的な性質を濃く持っています。
原初の神であるエロース=プロートゴノス=牧神パン=ファウヌス≒サテュロス
だとすると。
生殖という、生物にとって最も重要な行動を守護し、守る神という点は、ヤハウェと変わらないのでは。
「産めよ、増えよ、地に満ち全ての生き物を支配せよ」は、主が最初に人間に命じたことです。
パンは「全て」であり、「最初に生まれたもの」であり、清めるもの、恵みをもたらすもの。
人類が最初に飼い慣らした大人しい羊を守り、羊の数イコール財産であった古代の人々にとって生命を繋ぐための最も重要となった神。
その神の血族たる羊の末裔だけが、罪を購う価値を持つ…とあらば。
神の怒りを鎮めることができる生物が、羊であるというのも頷けます。
何故山羊は駄目なのか。
羊だってヤギ亜科の動物じゃないか。
そう思ったけど、旧約聖書ではヤギはスケープゴートの役割の方が大きくて、しかも異教徒の神を悪魔として描いてるからヤギは悪魔の象徴にされてしまっています。
かつての原初神パンも、聖書の中ではインキュバス。世知辛い…。
だけど、パン(神)はパン(食べ物)として聖体になり、その養い子のデュオニュソス(ワイン)は神の血となった。
人は神を食べ、神に近付こうとする
人の罪を購うのは今も昔も一匹の仔羊で、その犠牲を見て人は生きることの罪深さに折り合いをつけて生きている。
。
それは、ホモ・サピエンスが生まれてから今もずっと変わらないし、これから滅びるまで形を変えることはあれど、本質が変わることは無いんだろうなー。
なんだかすごく長くなっちゃったけど、取り敢えず妄想は果てしないのでここらへんで切り上げます。
お付き合いありがとうございましたー!
私は本日も通常運転で、果てしない妄想に取りつかれております。今年も相変わらず好きなこと考えて生きていたいなーと思う所存です(爆)
そうそう、一昨年は巳年だった為、蛇のことで色々とあること無いこと考えていたのでした。
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%81%AF%E5%B7%B3%E5%B9%B4
そういえば去年は午年だったけど、馬について妄想するの忘れた!!!
まぁ11年年後のお楽しみにしましょう。
今年は未年なので、まぁ最近は羊について色々妄想してたわけです。
もふもふでのんびりした顔つきで可愛いし癒されるし、羊毛やミルクや肉は貴重な財産だったし、羊は昔から人々の生活に寄り添ってた動物です。
そして羊といえば「アニュス デイ」…神の生け贄としてのキリスト教的シンボリカルなイメージが強いですが、それより前の地中海文明時代から、デュオニュソス祭の生け贄は羊が定番の動物だったようです。
羊というのはそもそもどんな動物なのか。
そもそも何故生け贄といえば羊なのか。なんで「神の仔牛」とか「神の仔豚」じゃダメなのか。
色々調べてみました。
*
ヒツジ(羊、学名 Ovis aries)は、動物界脊椎動物門哺乳綱ウシ目ウシ科 ヤギ亜科の1種です。
新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡があるそうで、家畜化が始まったのは紀元前7000-6000年ごろの古代メソポタミアと言われています。牛を家畜化したのはそれよりもっと後の紀元前6000-5000年頃なので、まさに羊は家畜の元祖だったわけですね。
「複数の河の間」という名の通り、メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川の間に栄えた文明です。地理的には現在のイラクの一部にあたります。
古代メソポタミア文明はメソポタミアに生まれては滅びていった複数の文明を総称する呼び名で、シュメール、バビロニア、アッシリア、アッカド、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々がありました。
ちなみにメソポタミアは旧約聖書とも関係があって、アブラハムさんはメソポタミアの都市ウルの出身、エデンの園はメソポタミアの都市、バベルの塔はジッグラトだという説もあります。あくまで一説ですが。
最古の文明と言われるシュメール人の村で飼育の始まった羊は、彼らの生活に非常に密着しました。
羊は人間にとって、とても大切な財産になりました。
それまでの人間といえば、他の動物の食べ残した屍肉や、同じ霊長類や時には同族の初期人類ですら食料にするほどたんぱく質に飢えていたのですから(アウストラロピテクスはヒヒを殺して食べていたというし、北京原人もネアンデルタール人も他者に食べられたあとがある遺骨が見つかっている。脳味噌が一番美味らしい)、思う通りに管理でき、尚且つ同族を殺すほどは心痛まずに殺すことができる家畜は実に画期的だったことでしょう。
ともかく人類は植物の栽培の次に、動物を管理することを覚えました。(農業はじまったのは紀元前9000年)
家畜を飼い始めるにあたり、彼らは今まで別に持つ必要のなかった知識を持たなくてはならなくなります。
羊を放牧に連れて行って草を食べさせ帰ってくるときに、行きと同じ数の羊を連れて帰ってこなければならないわけです。
他動物の食べ残した屍肉を持ち帰ったりだとか、狩りをして仕留めた獲物を持ってくるとか、人類がそういうレベルだったときには《数》は別段必要無かったでしょう。
そこで人間は数を数え始めたわけでした。
まず、
両手の指で10まで数える
↓
10進法
が生まれました。これなら折り返しも含めれば20まで、いつでもどこでも数えられます。
しかし間も無くそれじゃ足りなくなったので、
親指の先で他の指の関節に触れる
↓
手の小指、薬指、中指、人差し指にそれぞれある3つの関節を順次右手の親指の先で触れていく
↓
小指の第1関節、第2関節、第3関節、薬指の第1関節、第2関節、第3関節・・・
そうすると3×4で12まで数えることができる
↓
その12の数を1まとまりに捉える
↓
1ダース
が生まれました。
それでも足りなくなったので
1ダースまで羊の数を数えたら、左手の指の親指を1本折る
↓
改めて右手で数え始める
↓
また右手の最後の人差し指の第三関節まできたら、今度は2本目として左手の人差し指を折る
↓
この数え方で左手を小指まで折りきったら、
12×5=60
このようにしてできた、60をひとまとまりの数としてとらえる考え方が60進法です。
これが後に古代ギリシャに伝わって天文学で使われるようになり、暦や時計の数え方に60進法が使われるようになり、古代中国へ渡り、干支が生まれ、それが日本にも伝わってきたというわけ。
ちなみに干支があるのは中国と日本だけじゃなくて、アジアの数ヵ国やロシアとかにもあります。だいたい動物は同じだけど、
チベットとタイとベトナムとベラルーシはウサギのかわりに猫が入ってます。
干支にはそれぞれ意味がありまして、未は《家族の安泰・豊作》の願いが込められております。
象形文字で木の枝葉の茂った様を表す「未」ですが、昔々は「昧曖(あいまい)」の「昧」と記され
・作物が茂って「暗い」
・果実が熟した状態「味(み)」
を指すと言われているそうです。
後に、覚えやすくするために動物のヒツジが使われるようになりました。
未の月にあたる6月は、様々な作物が成熟する大切な季節です。未月(びげつ)…陰暦6月は現代の太陽暦では8月です。
さてさて、そんなヒツジですが。
現在キリスト教に支配されたヨーロッパではヒツジといえば生け贄です。
以前、古代ユダヤの過ぎ越し祭について書いたとき調べた限りでは、『仔羊のような清らかなものにすがる者を神は守ってくださるから』というような理由が出てきたのですが、どうにも納得できませんでした。
古代の祭りとは総じて血なまぐさいものです。生きるために必要な生々しさに、人間は折り合いをつけるために祭事を行うのだと常々思っていたからです。そして現代に残る賑やかな祭りも、元々は生きることと直結したものなはずです。
そこでまたアレコレ調べました。
それでまた面白い説を見つけました。
時は数百万年前、直立二足歩行をする類人猿が出現しました。(どうやって出現したかはこの際置いといて)
彼らは他の動物に比べ牙も爪もか弱く、雌に至っては産道の短縮によっての流産率の上昇など、生物として、ともすれば欠陥品のような不合理な進化を遂げました。
彼らにあって他の動物たちに無いもの、それは両手の自由です。彼らは他の雑食性哺乳類よりも効率よく木の実を集め、小さな哺乳動物を捕獲し、時には他の肉食獣が食べ残した大型獣の屍肉を喰らって少しずつ数を増やしていきます。
コミュニティを作り、獣に襲われる頻度も減ったことでしょう。
はじめはそれで良かったかもしれませんが、個体数の増加は食料不足という事態をもたらしました。
木の実を採取するだけでは到底まかないきれません。熱量が高いのはなんと言っても肉ですが、小さなネズミなどでは足りないし、そうそう屍肉にありつけるわけでも無かったでしょう。
元来他の動物を補食するようには進化してこなかった人間は、爪や牙も持たず《殺すこと=生きること》という本能も失っています。というよりは、大脳新皮質が発達したことで覆い隠されたといった方が良いかもしれません。
それは進化なのか、退化なのか、生物的にはどうなのか考え込むところです。マンボウも、最も進化した魚と言われているけれど、非常にか弱い個体ですし、果たして生物は何をもって進化していると言えるのやら。
とにかく、このままでは種としての存続も危ぶまれる。そうした事態の中で生き残るために、人間は唯一他の動物には無い両手の自由を、武器として使うことを覚えます。
石を握り、それで殴る。あるいは投げて当てる。石をかち割って鋭くして殺傷能力を上げる。握りやすいよう持ち手を作る。
そうして殺すことを覚えたヒトは、本来本能に無い動作を生きるために続けることに、折り合いをつける必要が出てきます。
他の哺乳類と違い、人間の赤ん坊は自力で母親にしがみついたり、或いは生まれてすぐに立って歩くことができません。母親は、いつも子供を抱いて守ってあげる必要がありました。食料を集めるのは必然的に雄の役目になります。
雄は雌と違い、生理や出産などで血を見る機会がありません。
でも狩りをすれば血を見なくてはならない。
生物的に父親的要素を持つ人間の雄にとって、血を日常的に見続けるのは辛いことでした。牧畜が始まって狩の必要がなくなっても、育てた動物を殺さなくてはならないことに変わりはありません。
そこで古代に最も発達したのは、女神信仰だったというわけです。大地母神たる古代の女神は大抵、お供に動物を連れています。
人間の雄が狩猟によって得る苦痛を、「女神に捧げる」ことで許しを得、祭りにすることで共同殺害を行い罪悪感を分け合う。そして輪廻を司る女神に捧げられた動物は、いつかまた神の庇護のもと甦る、というわけ。
ウェディングケーキのカットも、元々は新たにつがいとなる男女が生け贄に刃を突き立てるという儀式が変化したものです。
クリスマスツリーに飾るジンジャークッキーだって、冬になると急激に増える行方不明者を《神隠し》と怖れた古代の人びとが、《神の宿る樹》つまり常緑樹に生け贄の子供を吊るして捧げたゲルマンの風習が原型です。
ケーキという『可愛らしいお菓子』に姿を変えて、そうして今も人間は『食べること=生きること=殺すこと』に折り合いをつけているということなのでしょうか。
ナザレのイエスは「わたしの体はパン、わたしの血はぶどう酒」と言いました。
これは、デュオニュソス祭の模倣との説があります。絞り潰され、ぐちゃぐちゃに叩き殺された葡萄…即ちデュオニュソス。その身体をワインに熟成させて飲む。人はデュオニュソスと一体となり、酩酊して精神も神のところへ飛ぶ。
食べたり飲んだりすることは、最も古くて強い呪術です。
デュオニュソス…若いゼウス・神の息子 の名を持つこの神は、葡萄酒の解禁である冬が誕生日です。(デュオニュソス祭)そして祭りの中で死に、人々に呑まれたデュオニュソスは、春にまた葡萄畑に復活します。
同じく神の子としてナザレのイエスは人に屠られ、過ぎ越の羊のように《膝を折ることなく》磔から下ろされ、復活を遂げます。
ところで、ここまで考えて、まだ『なぜ《神の仔羊》でないといけないのか』の答えが出ていません。
調べてみてもそこに突っ込んだ記事が出てこなかったので、また妄想を巡らしました。
羊で思い出すのは羊飼いの神パンですが、彼はデュオニュソスとも関わりがあります。男性のデュオニュソス信者のことを、パンと同一視されている神『サテュロス』と呼びます。(パンの息子という説もある)
そしてサテュロスはデュオニュソスの養父でもあり、師匠であり、酒飲み友達です。
パンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、四足獣のような下半身と山羊のような角を持っています。
父親はゼウスともヘルメスともいわれ、母親はニュムペー(森に住む下級神)であるといわれています。
名前の説はいくつかあり、
○古形「パオーン、Παων、Paon」(「牧夫」の意、現代英語のpastureと同じ接頭辞)から名付けられた
○ギリシア語の「全ての」の意「Pan」
○インド・ヨーロッパ語の「√pa」(飼う、食わす)←
ちなみに、食べるパンの語源も√paらしい。
○オルペウス教の創世神話に登場する原初の両性存在の神、プロートゴノス(Πρωτογονο�、最初に生まれた者)あるいはパネース(Φανη�、顕現する者)と同じものである
などなど…。
どうでしょう、なんだかとてもすごい神さまみたい。
上記に出てきたプロートゴノスは、原初神エロース(愛)の別名です。エロスは、今でこそアプロディーテ(美)に付き従う幼子の神とされていますが、元々はオリュンポス12神なんかよりずっとずっと古い、ティタンの血族の一番初めの神なのです。
原初に卵より生まれた両性の神で、みずからの娘ニュクス(夜)とのあいだに初原の神々、大地(ガイア)と天(ウーラノス)を生み出した存在(Protogonus/Phanes)。また「全て」という意味から「宇宙全ての神」であると解釈されるようにもなったそうです。
更に、パーンと同一視されるローマのファウヌス(家畜と田野や森を守る神。この他、多産も司る)。名は「いるもの」を意味します。(旧約の神も「わたしは在るものである」って言ってたし、関連性を感じずにはいられない)
あるいはファブルウスFabruus。2月、フェブルア月(フェブルアリウス)の神。2月Februaryの語源。 「清めの具」の意。
神祇官が祭儀の王と神官に求めた羊毛や、
喪中の家で清めとして手に取る塩、粒を混ぜて焼いたスペルト小麦パンなどなど、つまり体を清めるものは何でもフェブルアであったそうな。
他に「恵みを与えるもの」とする説も。
それに対し、サテュロスは神の中では下級の部類に入ります。
その名前はギリシア語で男性器を意味する言葉に由来していて、享楽的な性質を濃く持っています。
原初の神であるエロース=プロートゴノス=牧神パン=ファウヌス≒サテュロス
だとすると。
生殖という、生物にとって最も重要な行動を守護し、守る神という点は、ヤハウェと変わらないのでは。
「産めよ、増えよ、地に満ち全ての生き物を支配せよ」は、主が最初に人間に命じたことです。
パンは「全て」であり、「最初に生まれたもの」であり、清めるもの、恵みをもたらすもの。
人類が最初に飼い慣らした大人しい羊を守り、羊の数イコール財産であった古代の人々にとって生命を繋ぐための最も重要となった神。
その神の血族たる羊の末裔だけが、罪を購う価値を持つ…とあらば。
神の怒りを鎮めることができる生物が、羊であるというのも頷けます。
何故山羊は駄目なのか。
羊だってヤギ亜科の動物じゃないか。
そう思ったけど、旧約聖書ではヤギはスケープゴートの役割の方が大きくて、しかも異教徒の神を悪魔として描いてるからヤギは悪魔の象徴にされてしまっています。
かつての原初神パンも、聖書の中ではインキュバス。世知辛い…。
だけど、パン(神)はパン(食べ物)として聖体になり、その養い子のデュオニュソス(ワイン)は神の血となった。
人は神を食べ、神に近付こうとする
人の罪を購うのは今も昔も一匹の仔羊で、その犠牲を見て人は生きることの罪深さに折り合いをつけて生きている。
。
それは、ホモ・サピエンスが生まれてから今もずっと変わらないし、これから滅びるまで形を変えることはあれど、本質が変わることは無いんだろうなー。
なんだかすごく長くなっちゃったけど、取り敢えず妄想は果てしないのでここらへんで切り上げます。
お付き合いありがとうございましたー!
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