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赤澤 舞
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東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。

一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿

音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。

レトロゲームや特撮も好物です。

ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
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2025/05/14 (Wed)
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2016/05/21 (Sat)
はい。あまりに長くなってしまったのでページを分けさせていただきました。

ではハムの子孫紹介、後編に参りたいと思います!

次に名前が挙がっているエモリ人は、紀元前2000年前半に勢力をふるったアムル(アモリ)人と見られています。さっきミツライム…エジプトのヒクソスの話のとこでチラッと出てきましたね。

アムル人を示すアッカド語の「アムル」やシュメール語の「マルトゥ」は元来メソポタミアの西の地域を指す地名で、そこから西の方角のことをアムルもしくはマルトゥと呼ぶようになり、更にメソポタミアから見て西方に位置するシリア地方のビシュリ山周辺を中心に遊牧民として生活していた人々もこの呼称で呼ばれるようになったとのことです。

アムル人たちが記録に登場するのはウル第3王朝時代からです。シュメール人社会に傭兵などの形で入り込んでいた彼らは、次第にメソポタミア周辺地域に定住しはじめます。そんなアムル人をシュメール人たちは《野蛮人》と呼んで疎んでいたらしく、城壁を作ったり武力で撃退したりしていたようです。
しかしアムル人は傭兵や労働者としてメソポタミア全域に浸透し、王朝末期には上級役人に採用されるまでになりました。一方、シュメール人の勢力は弱まり、結果的にアムル人との戦いが王朝の衰退の一因となってしまいました。

ウル第3王朝滅亡後にメソポタミア各地に成立したイシン、ラルサ、バビロン、マリ等の諸王朝はいずれもアムル系の人々によって成立したものです。ただしアムル人が統一した政治集団として活動を起こしたわけではなくて、互いに覇権を争う競合関係にあったようです。

上記のアムル人の王朝の中でも、特に有名なのはバビロンでしょう。
都市国家バビロンの6代目の王であり、古バビロニア王国の初代の王さまが、あのハンムラビです。歴史の教科書に『ハンムラビの法典』で出てきたのを覚えておいでの方もいらっしゃるかと思います。
彼は自らを「アムルの王」と称していたそうで、有名なハンムラビ法典の一説「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理はアムル人の習俗から導入されたものだそうです。

バビロンがハンムラビによって統一されメソポタミア下流域の重要都市になってから、以後のメソポタミア下流域…つまりシュメールとアッカドの地は「バビロニア」と呼ばれるようになったのです。
前回紹介したニムロド王を、ハンムラビとみる説はここから来ているようです。

これらの王がアムル人から輩されてからもアムル人のメソポタミアへの流入は続き、アムル人の人口割合は増加し続けました。
ただしシュメール人やアッカド人の王権や宗教観はそれによって変わることはなく、逆にアムル人たちは彼らの文化を受け入れて同化していきました。紀元前17世紀頃には、バビロニアに移住したアムル人はほぼ現地人と同化し、残ったのは移住せずにシリア地方に残ったグループだけになってしまいました。
シリアに残ったアムル人グループは、紀元前15世紀末、レバノン北部に「アムル王国」を作ります。この王国は、当時超大国だったエジプトとヒッタイトに挟まれた緩衝国家として両国からの重圧を強く受けるようになり、最終的にヒッタイトの従属国となります。
その後、紀元前13世紀末までヒッタイトへの従属が続きながらも独立した王国として存続していたのですが、《前1200年のカタストロフ》によるによる社会の混乱によってアムル人の独立国家は消滅しました。


次に言及されているギルガシ人は、ヨルダン川の西に住んでいた人々とされております。一説では、エリコ付近の住民といいます。
エリコは死海の北西部、ヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在ヨルダン川西岸地区に含まれる地域にある町です。古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現していたそうで世界最古の町と評されることもあります。世界で最も標高の低い町でもあります。
最古の町と評されることもありますが、後に現れるメソポタミア文明などの文明とは区別されています。
紀元前3300年頃には周壁を備えた都市が形成されますが、紀元前2300年頃に異民族の来襲によるものと思われる火災にあい、しばらく空白期間となります。
紀元前1900年頃に再び町が建設され、町の領域は初期の壁の外にも拡大します。さらに外側により高い周壁が建設されますが、紀元前1560年頃にヒクソスの侵入にあい、大火災に見舞われて廃墟となってしまいます。やたら火事にあう街ですね…。
その後紀元前1550年頃~紀元前1150年頃には古代エジプトの圧迫を受けたりと、受難が続きます。
現在は、パレスチナ自治区になっています。


ヒビ人は、北メソポタミア及びその東西の地域に居住していたフルリ人と見られています。ヒッタイトのところで少し言及がありましたが、ヒッタイトととても関係があります。

フルリ人は恐らくコーカサス山脈から移住したとされている、紀元前25世紀頃から記録に登場する民族です。当時の彼らは根拠地であるスバルやハブール川流域、北メソポタミアなど、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域のいたるところで小国を築いていました。紀元前2千年紀のオリエントの殆どの地域にフルリ人が居住していたのですが、大半の地域でフルリ人は少数派でした。

フルリ人たちの最初の王国は紀元前3000年紀の終わり頃、ウルケシュ市周辺に建てられた「ウルケシュ王国」です。アッカド帝国が滅びたために、フルリ人がこの地域を支配できるようになったのです。
しかし王国の周辺には強力な隣国がいくつも存在し、紀元前2000年紀初頭にはマリのアムル人王国に征服されました。(つまりエモリ人ですね)
当時メソポタミアでは多くのアムル人の王国による覇権争いが生じておりました。上記で説明致しました、ウル第3王朝滅亡後のお話です。

紀元前18世紀頃には更に別のアムル人王国であったアッシリア(紀元前1813年にアッシリアはシャムシ・アダド1世率いるアムル人に征服された)がマリを支配下に入れ、ハブール川流域のフルリ人居住地帯にシュバト・エンリル(エンリル神の住まい)と呼ばれる首都を建設しました。
居住地を追われたフルリ人たちは西へ移動して、そこでまた自分達の国を作りました。
(現トルコ南部のアララハやアナトリア南東部のキッズワトナなど)
アムル人の国だったヤムハド(現シリア北部・アレッポ)にも住み着きましたが、ここではうまく共存していたみたいです。神殿にはアムル人の信仰するヤムハドの主神・風の神ハダドのほかに、フルリ人の信仰する同様の風の神テシュブが祀られていたそうです。
ヤムハド王国は青銅器時代中期、紀元前19世紀頃から紀元前17世紀後半頃にかけて栄え、最終的に紀元前16世紀にヒッタイトに滅ぼされてしまいます。しかし逆にアナトリアにフルリ文化が伝わり、ヒッタイトは数世紀にわたってフルリ人の文化を取り入れていきました。

ヒッタイトはヤムハドを打ち倒した後南へと拡大を続け、バビロンも破壊しました。
その隙に、フルリ人はまた新しい国を作ります。それがのちにオリエントで最も強力な国となる、ミタンニ王国です。
紀元前1500年頃メソポタミア北部のハブル川上流域を中心に建国されたミタンニは、多民族社会で戦士階級に支配される封建的国家だったといいます。
周辺のフルリ人たちを統一し、東隣のアッシリアも支配下に置き、以後シリアを含むメソポタミア北部を支配しました。

そうして紀元前1450年頃~紀元前1350年頃にはオリエント屈指の強国になったミタンニですけれども、それにはただ他国を攻め滅ぼすだけじゃない、「コツ」があったんですね。
それは《政略結婚》です。かつてイギリスとかオーストリアも使ってた手ですが、こんなに昔からやってたんですね。ミタンニは、他のオリエントの国々に国力の差をつけるために、エジプト王家との繋がりを濃くしたわけです。

〇6代目王アルタタマ1世(紀元前1410年~紀元前1400年頃)が自分の娘をエジプト王トトメス4世と結婚させる

〇 7代目王シュッタルナ2世(紀元前1400年~紀元前1380年頃 )の娘ギルヒパはエジプト王アメンホテプ3世(トトメス4世の子)と結婚

〇9代目王 トゥシュラッタ(ダシャラッタ)(紀元前1380年 ~紀元前1350年頃 )が娘タドゥキパとアメンホテプ3世の政略結婚を打診し、アメンホテプ3世も乗り気だったが結婚する前に死んでしまった。なのでその息子であるアメンホテプ4世とタドゥキパが結婚した

……などなど。
さて、アメンホテプ4世(アクテンアテン)はさっきエジプトのところで出てきましたね。そう、ミタンニの姫タドゥキパはアメンホテプ4世の2番目の后キヤ、あるいは王妃ネフェルティティと同一人物であると言われています。

《アマルナ宗教改革》についてはさっき触れましたが、アメンホテプ4世がなんでいきなり熱狂的アテン神信者になったかは分かっておりません。ただ、まことしやかに語られている説では彼の奥さんの影響でアテン神を広めることになったと言われています。ってことは、フルリ人であるタドゥキパが嫁ぎ先のエジプトに自分のふるさとミタンニの宗教を持ち込んで、それに旦那がダダはまりしてしまったってことですかね。フロイトの説では、それがエジプトにいたユダヤ人にも広まって、ヤハウェになったというわけです。

では、ミタンニの神さまはどんな神さまだったんでしょう。
ミタンニは、言語的にはインドのサンスクリット語にとても近いそうです。つまり文化もインド寄りってことだと思われます。
実はイラン系神話とインド系神話は元々分離していなくて、ひとつの神話だったみたいです。その時代をスィームルグ文化時代(ミタンニ=メディア時代)といいます。立ち位置的にはギリシャ=ローマ神話くらいの近さと考えてよさそう…かも?
ヒッタイトとミタンニとの間で交わされた条約では、インドのヴェーダ神話の神ミトラ、ヴァルナ、インドラやナーサティヤ(アシュヴィン双神)に誓いが立てられておりました。

上記のミトラとヴァルナは古代のイラン・インドの神話共有時代における始源神です。
ミトラは十二人の太陽神(アーディティヤ)の一人で、毎年6月の一カ月間、太陽戦車に乗って天空を駆けるとされています。(イランでは「ミスラ」、名前の意味は「契約」←!)
そしてヴァルナはミトラと表裏一体の、天空神、司法神(=契約と正義の神)と見なされています。

炎の主にして太陽神であるミトラを唯一神として崇めたのが、ミタンニ=メディア時代(前1700~前550年)のミトラ教、つまりミトラ単一神教(原始ミトラ教)のミトラ神話です。
以前天使について色々考えたときに、エノク昇天で生まれた天使メタトロンはミトラトン…つまり太陽神ミトラを元ネタにしたものではないかと書きました、あのミトラ教です。
ミトラ教最大のミトラス祭儀である冬至の後で太陽の復活を祝う12月25日の祭は、キリスト教のクリスマス(降誕祭)の原型とされています。

…前回ニムロドに触れたときには、12月25日はバビロニアの安息日でありニムロドの誕生日と書きましたし、それより前に生け贄の羊について調べたときには古代ギリシャのデュオニュソス祭がクリスマスのモデルと書きましたがこれは如何に。
そこで考えたのですが、これらの神話の時代よりも大昔に決まった《神さまの誕生日》が12月25日で、時代や宗教が変わってもその日にちだけが代々受け継がれてきたのかな、と思います。

一方ヴァルナは、イランのゾロアスター教では最高神アフラ・マズダーとされ、有翼光輪を背景にした王者の姿で表されています。

上記のとおりミトラとヴァルナはニ柱でひとつ、表裏一体の神さまです。「契約」の名を持つミトラが契約を祝福し、ヴァルナが契約の履行を監視し、契約に背いた者には罰を与えます。人間と神の契約を描いた旧約神話のヤハウェが持つキャラクターは、このニ柱を習合して生まれたと考えると納得がいきます。
つまり、タドゥキパ姫がエジプトに嫁に行ってなければミトラとヴァルナの特性を持ったアテン神も生まれなかったし、ひいてはヤハウェも生まれなかった可能性があるわけですな。

……さて、話がまた長くなってしまいました。

そうして政略結婚で力をつけていたミタンニですが、相変わらず周囲の国とドンパチやっていました。紀元前1350年頃にヒッタイトのシュッピルリウマ1世が再びミタンニに攻め込みます。
ネフェルティティのお父さんトゥシュラッタ王は逃げたのですが、息子のひとりに暗殺されてしまいました。哀れ。
次に王様になったアルタタマ2世はトゥシュラッタの政敵でした。彼はシュッピルリウマ1世の擁立でミタンニの新王になり、ヒッタイトと条約を結んで国境線を決めました。
その次の王シュッタルナ3世は、アルタタマ2世の息子でしたが紀元前1330年頃にかつてミタンニの支配下にあった東側のアッシリア王アッシュール・ウバリト1世(紀元前1365年~紀元前1330年)の下でヒッタイトから独立しました。彼はアッシリアから支援をもらえないかなー、と模索してたのですが上手くいかなくて、結局ヒッタイトに撃破されてしまいました。
その次に王様になったトゥシュラッタの弟シャッティワザ(マッティヴァザ)は、これまたヒッタイトのシュッピルリウマ1世の庇護を受けながら即位しました。しかし今度はアッシリアとドンパチやって負けてしまい、以後アッシリアに臣従することになります。

紀元前13世紀には、その他のフルリ人の国も全部異民族によって征服されてしまい、ミタンニを含むハブール川流域はアッシリアの州となりました。
その後、シリアのフルリ人の多くがアラム語やアッシリア語を話すようになり、フルリ語を使用しなくなりました。そうしてゆっくりと他の民族と同化して、フルリ人は終焉を迎えたのです。 青銅器時代の終わりにフルリ人たちに何が起こったのかは明らかではありませんが、もしかしたらまたも《前1200年のカタストロフ》が関係してる…かもしれません。
ちなみにフルリ人が鉄器時代前半までアッシリアの北のスバルの地で生き残ったと主張する学者さんも居ます。


さて、次のアルキ人はレバノン山脈の西の地中海沿岸に定住した民族と言われています。
まだ確認されていないカナン人の一部族の成員を指している可能性もありますが、ベテルという町の南西部アタロトの地域にいた有名な家族もしくは氏族を指している可能性が高いそうです。
その名の起源あるいは現存する証拠として、ベテルの西にあるエイン・アリクという町を挙げる人もいます。

ベテルは「神の家」という意味で、現在のテル・ベイティン(ベイティン遺跡)ではないかと言われております。
現在のパレスチナ自治区ラマッラの北東8㎞、エルサレムから北に19㎞ほどのところにある遺跡で、人口2000人程度の小さな村の中に銅石器時代から始まるテル(遺跡丘) 、谷沿いの墓群、ビザンツ時代以降の塔をともなう遺跡(ブルジュ・ベイティンと呼ばれる)、貯水池、前近代の農耕設備群などがあり、紀元前3500年頃から約百年前までのこの地方の歴史を概観することができます。
以前はルズと呼ばれていました。
ラマッラはパレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区中部に位置する都市でエルサレムの北10kmに位置します。現在のパレスチナ自治政府の事実上の首都でもあります。街の名前は「至高の神」を意味するアラム語をアラビア語に投影したものですが、今日のラマッラは16世紀半ばにキリスト教徒アラブ人がヨルダン川流域に居住し建設したものです。

他に、レバノンのアルカという地名を引き合いに出す人もいます。レバノン北部に位置する地名で、遺跡テル・アルカがあります。
どちらにしてもカナン人…つまりフェニキア人という説になります。

ちなみにイタリアのアルキ(Archi)(人口2330人のイタリア共和国アブルッツォ州キエーティ県のコムーネの一つ)やフランス軍のアルキ(Harki)(アルジェリア戦争でフランス側に協力して戦ったアルジェリア人のこと。元々アラブ語で「運動」を意味するharkaが「機動部隊」と言う意味で使われ始めた)は関係ないようです(爆)


シニ人は詳細不明ですが、多分レバノンのどっかにあったフェニキア人の町なんじゃね?と考えられているようです。

全く関係なさそうですが、クロアチアにシニという町があります。人が住み始めたのは新石器時代頃で、長らくオスマン帝国の支配下にありました。
シニではアルカ(Alka)と呼ばれる伝統的な競技が毎年8月の第1週に行われていて、上記のアルキとはこれまた何の関係もなさそうですが何だか放っとけないのでメモしておきます。
ちなみにアルカは馬に乗った競技者が全速力で駆け抜け地上3.2m上の鉄輪の中心を槍で狙う、流鏑馬みたいな競技です。


次のアルワデ人はフェニキア沿岸最北部の島民と言われています。つまりアルワデ人もフェニキア人です。

アルワデ島は地中海に浮かぶ小さな島で、現在シリアに属しています。 シリア第2の港湾都市・漁港であるタルトゥースの3km沖合にある、シリア唯一の有人島です。

Wikipediaには「アルワード島」で載ってました。
別名ルアド島で旧名はアラドといいます。
紀元前2000年紀の初期、フェニキア人が島に住み始めて、「島」を意味する「アルヴァド」(Arvad)または「ジャズィラット」(Jazirat)という名前の独立王国を作りました。
この街は、君主よりは人民が主権者である国と記録されており、共和国のもっとも古い例の一つとされています。


ツェマリ人は北シリアの町ゼメルの住人といわれておりますが、ゼメルという町についてはネットでは何も出てきませんでした。
トリポリ(多分リビアのトリポリじゃなくて、レバノンのトリポリ。 アラビア語ではタラーブルスと呼ばれてて、Googleマップではタラーブルスで出てきた)とアルワデ(前述のアルワード島と思われる)の間にあるズムラに名残がある、と別のサイトに書いてありましたが、このズムラに関しても特に記述はなかったです。Googleマップでも出てこなかったし。
恐らくゼメルとズムラは同じ町を指してるのかなーと思います。
どうやらゼメルとズィムラーという言葉はヘブライ語で「歌」「賛歌」を示すようですので、もしかしたらツェマリも同義語かもしれません。

トリポリ(タラーブルス)は砂漠の多い地域ですが、古来オリーブなどの果樹と穀物栽培が盛んで、古くから東地中海有数の富裕な港として栄えた町です。
フェニキア人に植民地化され、後にはローマ帝国やビザンティン帝国に併合されてヨーロッパの穀倉地帯になります。第1回十字軍 (1096年~1099年)のときに町が破壊される前は、「ダール・アル=イルム(知識の館)」という大図書館があったそうです。

フェニキア人の植民地であったタラーブルスと、フェニキア人が建国したアルヴァド王国の間にあったということは、きっとゼメルのツェマリ人も民族的にはフェニキア人だったんでしょう。


最後に言及されておりますハマテ人は、北シリアのオロンテス川に沿う町の住人と出てきました。

オロンテス川(またはアラビア語でアースィー川、トルコ語でアスィ川)は、レバノンから出てシリアとトルコを流れる河です。
古代オリエントでは主要な川の一つで、ドラコ川、ティフォン川、アクシオス川とも呼ばれました。アクシオスは地元の呼び名で、これが後にアラビア語の「アシ(アースィー)」へと変化したそうです。「アシ」は「逆らう」という意味で、「流れの激しさ」や「メッカとは逆の方向へ流れるから」などの由来でこう呼ばれるようになったとか。
オロンテス川の渓谷を越えたシリア西部の町ホムス近郊には、現存する世界最古のダム・ホムス湖があります。紀元前1300年頃に建設されたと推定されているホムス湖のダムは、修繕を重ねて現在に至っております。

オロンテス川は流れが急で船が航行できず、川床が浅いので灌漑にもあまり使われませんでした。
じゃあ全然役に立たないじゃないか、というと決してそんなことは無く、南から北へまっすぐ谷が走る地形のため、川沿いの道が昔から各国方面に向かう街道として使われたのです。
北のアナトリアと北東のアッシリアやアルメニア、ダマスカス方面やエルサレム方面や西の地中海方面、更にギリシャ、ペルシャ、エジプトをそれぞれ繋ぐ、大事な道だったわけです。
このため交易都市が川沿いにたくさんできました。また、戦いの場になることもしばしばでした。
ヘテ人の説明のところで出てきた「カデシュの戦い」も、オロンテス川沿いの都市国家カデシュ付近が決戦の場でした。

オロンテス川は自然の境界線としても役立ちました。古代エジプトにとってはアムル人との北の境界線、フェニキアの東の境界線となっていたようです。

そんな重要な川であるオロンテス川の川沿いには、先程も書きました通り交易都市がいっぱい出来たのですが、その中のひとつにハマーという都市があります。
「要塞」の意味を持つ、この「ハマー」という街が、恐らくハマテなのではないかなーと思います。

ハマーはシリア西部のオロンテス川中流にある都市で、北のアレッポ(アムル人とフルリ人のヤムハド王国)と南のダマスカスの間にあり、ダムのあるホムスからは北に当たります。
周囲の平野部は農業が盛んで、ハマー県の面積の3分の1を超える3680平方kmもの広さの農地が広がっており現在シリアで収穫されるジャガイモとピスタチオの半分以上はここで生産されています。
川床が浅いオロンテス川から灌漑を行うためのノーリアという大型水車は、紀元前1100年頃から使われていました。

どうやらこの土地には北メソポタミアのハラフ文化(紀元前5000~6000年のシュメール人文化)の時代くらいから人が住んでいたようです。
ハラフ文化層の上にヒッタイト文化層があり、さらにその上にはアラム文化の層が発見されているので、ここはアラム人の都市だったとみられております。
ハマーはダマスカスとともにシリア内陸部のアラム人国家の中枢を占めており、アラム文字の書かれた数少ない文書はハマーで発見されているそうです。
アラム人はセム・ハム・ヤペテの兄弟のうち、セムの子孫ですので説明は次回に回します。


カナン人の領土は、
シドン(現レバノン・サイダ)からゲラル(現イスラエルのテル・アブ・フレイラ遺跡)に向かってガザ(シナイ半島北東部、東地中海に面するパレスチナの一角)に至り、ソドムとゴモラ( 死海東南部に存在する前期青銅器時代の都市遺跡バブ・エ・ドゥラーとヌメイラ)、アデマ(ソドムとゴモラの姉妹都市。場所不明)とツェボイム( エルサレムの東北東約13kmの所にあるワディ・アブー・ダバー(「ハイエナの父の谷」の意)の可能性あり)に向かってレシャ(場所不明)にまで広がっていきました…と聖書には記してあります。
それだけ広く分布しましたよ、っていうことなのでしょう。


さてさこれまたずいぶん長くなってしまいましたが、やっとハムの子孫ぜんぶ紹介できました。
まとめてみましょう。


《ハムの子孫》
○ クシュ=クシュ王国(北アフリカのヌビア地方/紀元前3100年頃から紀元前2890年頃)、あるいはキシュ(イラク共和国バービル/紀元前3000年くらい)
↓↓↓
クシュの子孫
・セバ=メロエ王国(クシュ王国の遷都後 /紀元前591年~350年頃)、あるいは サバア王国(アラビア半島南西部/紀元前8~紀元前2世紀頃)=※シェバ(?)

・ハビラ=アラビア半島の北部か、エジプトの近く(詳細不明)

・サブタ=ハドラマウト王国の首都サボタ(現イエメン共和国領東部/紀元前8~3世紀)

・ラマ=ランマニテ人(ハドラマウト北方/?)
↓↓↓
ラマの子孫
・・シェバ=サバア王国(※セバの欄参照)
・・デダン =北方アラビア人(アラビアの一部/?)

・サブテカ=?(アラビア南部かエチオピア/?)


★クシュの息子ニムロデとみられる人物・神
①アッシリアの都市ニネヴェを建設したとされるニムス

②アッカドの狩猟農耕の神ニヌルタ

③中アッシリア王国時代アッシリア王 トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:紀元前1244年~紀元前1208年)

④バビロニア王国初代王 ハンムラビ(在位 紀元前1792年頃~紀元前1750年)

⑤ウルク第一王朝王 エンメルカル


○ミツライム=エジプト王国(紀元前3150年以降)
↓↓↓
ミツライムの子孫
・ルデ人=リビア東部の部族←ベルベル人?

・アナミム人=アナミ族(リビア北岸キュレネ)←ベルベル人?

・レハビム人=レハビ族(リビアのどこか)←ベルベル人?

・ナフトヒム人=ナフト族(現エジプト カイロの近く)←ベルベル人?

・パテロス人=エジプト テーベ周辺の部族←ベルベル人?

・カスルヒム人=フィリスティア人(ペリシテ人) ※カフトル人と同一かも

・カフトル人 =フィリスティア人(ペリシテ人)(古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺にミノア島などから移住/紀元前12、13世紀以降)《前1200のカタストロフ》の影響


○プテ=ベルベル人(リビアの先住民/12000年前~)

○カナン=フェニキア人(現レバノン/ 紀元前15世紀頃~)
↓↓↓
カナンの子孫
・シドン(長子)=フェニキア人(現レバノン サイダ/ 紀元前3000年以降)

・ヘテ=ヒッタイト人(アナトリア半島/紀元前1680年頃~紀元前1190年頃)《前1200のカタストロフ》により滅亡=フルリ人?

・エブス人=エルサレムの先住民(エルサレム/紀元前1900年より前~)

・エモリ人=アムル人(シリア地方ビシュリ山周辺~メソポタミア各地/紀元前20世紀~紀元前13世紀末)バビロン王国などが有名、純血のアムル人は《前1200のカタストロフ》で滅亡

・ギルガシ人=エリコ付近の住人(現ヨルダン川西岸地区の町/紀元前8000年紀~)現パレスチナ自治区

・ヒビ人=フルリ人(オリエント全域/紀元前3000年紀の終わり頃~紀元前13世紀)ミタンニ王国が有名、 青銅器時代の終わり頃《前1200年のカタストロフ》をきっかけに衰退?

・アルキ人=フェニキア人(ベテル(現ベイティン遺跡)の西にあるエイン・アリク/紀元前3500年頃~1900年 or レバノン北部アルカ)

・シニ人=フェニキア人(レバノンのどこか)

・アルワデ人=フェニキア人(現シリア アルワード島/紀元前2000年紀の初期以降)

・ツェマリ人=フェニキア人(現レバノン タラーブルスと現シリア アルワード島の間/?)

・ハマテ人=アラム人(シリア西部オロンテス川中流の都市ハマー/紀元前5、6000年以降)

カナン人は現在のレバノン・イスラエル・パレスチナに広がり栄えていったそうな。
ちょうど現在、中東問題でドンパチやっているところですね……。

ここで、一番はじめに聖書を調べ始めたとき、アダムの妻エバの元ネタと思われる神様を信仰していた民族がやっと出てきたところに注目です。
フルリ人の大地母神ヘバトと、エブス人の女神へバ。ともに数あるエバのモデルの一つです。
ミタンニ王国のミトラとヴァルナも含め、この『旧約聖書』神話を作った人々はかなり彼らの文化に影響を受けていたんだな、と改めて思います。


えー、本日の楽曲は、クラシック音楽とは少々ずれてしまうのですが現在研究されているフルリ人音楽です。

シリアの古代都市ウガリットで発掘された、紀元前1400年頃のものと思われる数枚の粘土板に書かれていた歌を、研究家の方がメロディーやリズムや使用楽器などを推測して再現しました。
粘土板はフルリ語(紀元前2300年頃~紀元前1000年頃)で使用するくさび型文字が使用されていて、七分音符の全音階だけではなく、旋律を示すハーモニーが使われています。

https://youtu.be/Brvy4BbK2ZQ

https://youtu.be/9c-hmFN610g


女神ニンガル(別名ニッカル)への賛美を歌った歌詞がついており、おそらく竪琴と歌のよって、式典や祭典など特別な時に演奏される礼拝の讃美歌であろうと推測されています。

ニンガル(またはニッカル)は、シリア・バビロニアで信仰されていた女神で月神ナンナ(スエン)の妻であり太陽神ウトゥ(ヌスク)の母です。イナンナ(イシュタル)の母とされることもあります。
ニッカル女神への礼拝は紀元後1000年紀になってもキリスト教と並行してシリアで確認されていました。
ニッカル信仰が途絶えたのは、イスラム布教が進みだしてからだそうです。

1972年にはカルフォルニア大学古代アッシリア研究の第一人者であるAnne Draffkorn Kilmer教授が「この粘土板は現存するなかで最も古い音楽で、3400年前の礼拝のための讃美歌である」と発表しました。

私が大学生の時は、ギリシャの《セイキロスの墓碑銘》が世界最古の音楽として教えていただきましたが、それより古い音楽が残ってたんですねえ。

ちなみに
《セイキロスの墓碑銘》 紀元前2世紀頃~紀元後1世紀 はこちら。
https://youtu.be/xERitvFYpAk

寝る前に聴くといい感じにリラックスできます。


ではまた次回!

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2016/03/05 (Sat)
えー、相変わらず続いています。

※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。

前回の続きからです。
第十章の途中から。相も変わらず読みにくい部分ですが、聖書のこの章は最古の『擬人化ジャンル作品』だと信じて疑いません(爆)ヘタリアの古代版、みたいな。
萌えさえあれば、難関な文献も読むのは容易いものです。(笑)

(ちなみに前回↓↓)
聖書を楽しむ【6】 http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/31/


今回は3兄弟の真ん中、ハムの子孫の説明です。
前々回、第9章でノアの裸を見たために末っ子カナンの子孫が呪われてしまった、因縁の一族です。

「熱い、暑い」という名のハムには、4人の子孫が生まれました。

・クシュ(「黒い」の意。あるいは「人殺し」という意味?)

・ミツライム(単数形「ミスル(国、都市、土地、要塞)」の複数形で「2つの要塞」「2つの街」、別説では「鉄の溶鉱炉」の意。エジプトを指す)

・プテ(「弓」の意)

・カナン(「商人」あるいは「赤紫の染料」の意 /前々回の記事参照)



クシュは、旧約聖書の古代訳であるアレキサンドリヤ・ギリシャ語訳では「エチオピア」となります。

クシュ(またはクシテ)は現在の南エジプトと北スーダンに当たる北アフリカのヌビア地方を中心に繁栄した文明です。最初の発達した社会が現れたのは、エジプト第1王朝(紀元前3100年頃から紀元前2890年頃)の時代頃と言われています。
最も早い時代にナイル川流域で発達した文明の一つで、エジプトの領域内への進入の時期後に発展しました。並存していた期間は短かったですが、エジプト新王国と相互に影響を与え合っていたといいます。

クシュの国として知られている最初の国はケルマ王国で、紀元前2600年ごろに興り、ヌビアの全てとエジプトの一部を支配したといいます。文字資料が発見されていない上、エジプトの資料もめったに言及していないので、詳しくはわかっていません。

紀元前1500年ごろ、この地域はトトメス1世の支配下に置かれ、植民地化されます。トトメス1世の軍隊はたくさんの堅固な要塞を築き、クシュはエジプトに金や奴隷をはじめとする様々な資源を供給しました。
紀元前11世紀にエジプトで内部抗争が起こったことによって植民地支配が崩壊して王国の独立運動が起こると、王国は植民地の政権を転覆させた地元民によって支配されました。

エジプトの文化と技術の影響は、ピラミッドの建築(「ヌビアのピラミッド」)、土着の神と同じように崇拝されたエジプトの神の崇拝などにはっきりと見ることができます。

紀元前10世紀ごろからは、現在のスーダンのナパタ(ゲベル・バルカル)周辺でエジプトの影響を受けたクシュ王国が繁栄しました。
紀元前4世紀頃まではナパタを首都としたので、ナパタ王国とも呼ばれます。全盛期にはエジプトを支配し、ブラックファラオと言われる黒人の王を誕生させたといいます。
エジプト支配は100年ほどで終わりましたが、クシュ王国は紀元4世紀まで1300年にわたって続きました。

更に年時代が下って紀元前591年、アスペルタ王という王さまがメロエに都を遷都し、以降クシュは「メロエ王国」と呼ばれるようになりました。
メロエ王国は鉱物資源や農産物に恵まれ、アビシニア(エチオピア)からインド洋へ通じる交易路の結節点として栄えました。
アッシリアから導入した製鉄技術が高度に発達し、アフリカ大陸全土に広まり、クシュ人自らも製鉄を行いアフリカ黒人の歴史上最初の鉄器製造の中心地となりました。
また小型のピラミッドが数多く建造され、ヒエログリフをもとにしたとみられるメロエ文字が発明されるなど、クシュ王国同様エジプトの影響を色濃く受けておりました。
エルガメネス(在前248~220)王の頃に最盛期を迎えたメロエ王国でしたが、350年頃、アビシニア高原(エチオピア高原)に興ったアクスム王国の侵攻を受けて滅亡しました。


個人的に、クシュはキシュ王国との関係もあるんじゃないのかなぁ、と思っているのですが、如何せん資料が全然ないのでただの妄想です。
キシュは古代メソポタミアの都市またはそこに起こった国家で、現代名はテル・アル・ウハイミル。イラク共和国バービル県内のバビロン遺跡の東12kmに位置します。
人が住み始めたのは紀元前6000年くらいで、紀元前3000年に入るとシュメール人やセム人達にとって特別な地位を持った都市として歴史に登場します。
シュメール王名表の説話によれば、伝説的な大洪水の後、最初に王権が降りたとされる都市で、この王朝をキシュ第1王朝と呼び、シュメール人達による繁栄と栄光の時代であるとされました。


クシュの名前についてですが、聖書関係のサイトなどで調べると「黒い」という意味が出てくることが多かったのですけれども、ペルシア語では「殺人」を意味するようで興味深く思っています。
アフガニスタンの北東からパキスタン北西に「ヒンドゥークシュ山脈」と呼ばれる1200kmもの山脈があるのですが、 ヒンドゥークシュとはペルシア語で「インド人殺し」という意味だそうです。インド人の奴隷がかつてペルシアに抜ける際にこの山中の険しさから何人も亡くなったことに由来していると言われています。

関係ないかもしれませんが、大麻合法化時代に突入したアメリカでは『KUSH (クッシュ)』はマリファナの代名詞となっています。
「人を殺すもの」という意味をもって付けられた名だとしたら、と考えるとゾッとしますね。麻薬ダメ、ゼッタイ。


そんな不穏な名をもつクシュの子孫は

・セバ(「誓い」「約束」の意?)

・ハビラ(「砂地」の意)

・サブタ(ハドラマウトの古代首都サボタ?)

・ラマ(「高い所」の意)

・サブテカ(ペルシャ湾東側の都サムダケを建設した民族?)

が紹介されています。


セバはエチオピア南方の地域で、エチエピアの町メロイの旧名だそうです。
このメロイは、どうやら先程クシュの説明のとき出てきたメロエのことみたいです。
最初に興ったケルマ王国をクシュ、紀元前591年に遷都されたメロエ王国をセバ、と分けているってことでしょうか。或いは国としてじゃなく、大きな都市としてのメロエを指したかもしれません。
まあ同じ地域から生まれた国ですから、親子に擬人化しても不自然ではないですかね。

アラビア半島南西部のマリブを都とする商業国の建設者、という説もあります。
こちらは、もっとあとに出てくる《シェバ》を指すとも言われていますが、この二国は同一視されたりもしています。



ハビラは、実は超序盤で一度登場済みの名前なのですけれども覚えておいででしょうか??
《エデン》から流れる一本の川から別れた《チグリス》《ユーフラテス》《ピション》《ギホン》が流れる土地の名前です。
アラビア半島の北部だとか、エジプトの近くだとか、色々言われてます。
いずれにしても、「砂地」で「良質な金や松脂や縞瑪瑙が採れる場所」だったのでしょう。全く記録は残ってませんが、とても古い土地だと思われます。


サブタはアラビア南部の、恐らく後日サブタに似たような名前が付いた場所の一つに住み着いた一族の祖と考えられています。
一説には、ハドラマウトの古代の首都サボタが挙げられていて、もう1つはペルシャ湾の近くのサプタという町が候補になってます。
これらの場所とサブタとの関係はいまだに定かではないそうですが。

ハドラマウト(Hadramawt、Hadhramaut)は、南アラビアの一地域です。現在のイエメン共和国領の東部にあたります。
アラビア海に面したアラビア半島の南端部の一角を占めており、深いワジ(砂漠気候地帯や乾燥地帯の各地にある、流水のない「涸れ川」 (かれがわ)。雨季の一時的な豪雨のときのみに水が流れる)が広がる地形です。
紀元前8~3世紀にハドラマウト王国が栄えましたが、それ以前にも交易の中心地、および物資集散地として繁栄しました。古代ギリシャや古代ローマの時代には「幸福のアラビア (Arabia a Felix)」として知られていたそうです。

ペルシャ湾のサプタは、いくら探してもネットでは出てきませんでした。
この説を唱えたプトレマイオスとは、恐らく古代ローマの学者クラウディオス・プトレマイオス(90~168)じゃないかなーと思うのですが。
ネパールにもサプタリ郡という場所がありましたが、関係があるのか無いのか。
知ってる方いたら教えてください m(__)m

ちなみにサブタの名前の意味は分かりませんでしたが、《サプタ》はサンスクリット語で数字の《7》でした。これまた全然関係ないかもしれませんけども(^_^;)


ラマは、ハドラマウト北方に住んだランマニテ人のことだそうです。ランマニテ人についても、ネットでさっぱり出てこなかったんでよく分かりませんでした。
ハドラマウトは、ハドラミ人の王国ができる前からアラブ人の部族の国がいくつああったようですので、そのうちのひとつなのかもしれません。
(イスラム教の開祖・ムハンマドが現れる以前のアラブ人は統一された社会共同体もなく、部族社会を形成していました。)
「高いところ」という名前なので、ワジの高いところに集落を築いていたのでしょうか。

そんなラマの子孫として挙げられているのが

・シェバ(※セバの欄参照)

・デダン(「低い国」の意)

シェバは、シバ王国、あるいはサバ王国とされています。名前だけなら「シバの女王」で有名かと思います。アラビア半島南部に存在していたと思われる国家です。

紀元前1000年頃の鉄器時代からアラビア半島南部では諸王国ができていたのですが、史料に初めてアラビア半島の国家の名が現れたのは紀元前8世紀頃です。その国はサバアと呼ばれ、ダムを利用した灌漑農業や香料の生産、エジプトからメソポタミア、インドに渡る海上貿易などによって経済的に豊かな国であったとされています。
サバ王国がいつ頃まであったのかはよくわかりませんでしたが、紀元前2世紀頃、気候変動による乾燥化やエジプトによる海洋交易網の整備に伴う陸上交易の縮小などにより、南アラビアの諸国が衰退しましたので、その頃に消滅したのかもしれません。

一般的に、シェバはクシュの子孫として出てきた「セバ」と同一視されているようです。
アラビア半島とエチオピアは紅海を挟んでお隣さんなので、もしかしたら元はひとつの国として数えられていたのかもしれません。(現在は、ヨーロッパ植民地から独立した国々が間にあります。)


デダンはのちにアラビアの一部に定住した人々のようです。北方アラビア人の祖であるという説もありました。


サブテカはアラビア南部か、恐らくエチオピアに住み着いた人種の祖と言われています
が,その正確な位置は謎です。
ペルシャ湾東側の都サムダケを建設した民族を指すという説もありますが、サムダケについてはネットでは何も分かりませんでした。

さて、これまでクシュの子孫の話をしてましたが、次に紹介されているのはクシュの《息子》です。原文にわざわざ「クシュが生んだ」とつけられているので、血の繋がった息子(個人名)なのでしょう。他の子孫たちと違って、民族名というわけでも無さそうです。


読んでてちょっとわかりにくかったのが、原文の

『彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるようになった。』
(原文ママ)

というところでした。

ニムロデという名前は「反逆する」という意味がありまして、一般的に彼は神さまに反逆した人物として解釈されているようです。
『地上で最初の権力者になった』と書かれてますし。
アダムの息子カインが建てた『エノクの町』もそうでしたけども、神さまは人間が定住するのをそもそも好んでませんでした。人間同士で支配したりされたりするのも好きじゃなかったですね。
(聖書を楽しむ【2】参照)
↓↓↓↓
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%902%E3%80%91


『猟師』という表現は、昔の王さまの表現だと思われます。
古代のエジプトの壁画にも王がライオンを仕留めている絵があることから分かるように、『王』=『強力な武器をもって敵を殺し、人を従える力を持つ英雄』というのが当時の一般的なイメージだったようです。
ニムロデが力あるハンターであったというのは、彼が武器をもって人々を黙らせ、従わせる力ある英雄だったことを意味していると考えられます。

また、これはもっと後で出てくるので検証はまだしていないのですが、エゼキエル書の中では「偽りの預言者」を「猟師」と表現しているそうです。人の魂…すなわち信仰心を奪い、人の命そのものも手中に入れてしまうことからの表現です。

聖書の神様側からすると「反逆者」に他ならないかもしれないニムロデですが、人間側からすると当時はどうだったんでしょう。
人々の支持を得るカリスマ性を持った支配者です。もしかすると名君だったかも。
ニムロデという名前も後から付けられたのでは、という説もありました。

まあとにかく、これで上記の一文の意味が少し分かりましたね。

『彼は神さまのおかげで強力な王さま(あるいは予言者)になったので、「反逆者のようだ。」と言われるようになった。』
ということです。

そうなると「神さまのおかげ」というのがちと気になります。これにはいくつか説がありました。

・ノアの洪水後の人々は後に来る厄災を恐れていたが、ニムロデの治世のときにはそれが起こらなかった為、みんなが勝手にそう思った

・「おかげ」と訳されている単語は「~の前で」とも訳すことができ、つまり「神さまの前では反逆者です」という意味

・ニムロデも最初は神さまの加護を得た「正しき王」だったが、その後の治世で神さまの信頼を失って「反逆者」となった

・元々神に反抗するために、「力ある猟師」になった

あとは

・ニムロデは神さまがアダムに与えた「皮の服」を盗んだために強力な王になった

なんて説もありました。

楽園を追放されたアダムに神様が与えた「皮の服」は神の権威の象徴として代々受け継がれていましたが、ハムが全裸で泥酔したノアを見つけたときにこの「神の着物」を盗み、以後ハムの一族が受け継ぐようになり、そのおかげでニムロデは強力な王になった…という説です。だからノアはハムの末っ子のカナンを呪ったんだ、ということにこの説ではなっています。
ニムロデは神の力の篭った着物のお陰で権力を手に入れ、それゆえ神の反逆者である、ということですね。

こんなかんじに色んな解釈がありましたが、「主のおかげで」じゃなくて「主の前で」と訳した方が良いという説を(たまたまかもしれませんが)よく見かけたので、ここではひとまず

《彼は神さまの前で強力な王さまになったので、「反逆者のようだ。」と言われるようになった。》

としておきましょう。

ともかく、『地上で最初の権力者』と記されるからには、これまでの登場人物たちとは段違いの力を持っていたのでしょう。
実際ほんとにニムロデという、バベル、エレク、アカデ、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、レセンという計7つの国を治めた王さまはいたのでしょうか?

伝説上では、ニネヴェ(古代メソポタミア北部にあったアッシリアの都市。現在は、イラクのモースル市域に含まれる)を建設したとされるニムスと、ニムロデを同一視する説があるそうです。

他にも、
アッカドの狩猟農耕の神と讃えられたニヌルタ(古代バビロニアの豊穣・戦闘の神。エンリルの子とされる。元来シュメール起源の神でニンギルスとしばしば同一視される)
王名にその名を冠したトゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:紀元前1244年~紀元前1208年。中アッシリア王国時代のアッシリア王)
「ハンムラビの法典」で有名なハンムラビ(バビロニア王国の初代王。在位 紀元前1792年頃~紀元前1750年 その名は「偉大なるハム」とも解釈可能)
あるいは、『シュメール王名表』にウルクの王として記録されているエンメルカルなどがニムロデと見られています。


彼はシヌアル(今のイラクあたり)にあったという、

・バベル…アッカド語で「神の門(バブ・イル)」を意味した。のちに「混乱(バーラル)」を意味するとの神話的解釈が与えられた。

・エレク…メソポタミアの古代都市ウルクのこと。

・アカデ…アッカドのこと。メソポタミア南部を占めるバビロニアの北半分の地域、またはそこに興った最古の帝国。南側にシュメールが隣接し、北西側にアッシリアが隣接している。シュメール文明を征服して、チグリス川とユーフラテス川の間を中心に栄えた。


という国の王さまでした。
私の持ってる《日本聖書刊行会出版 新改訳 中型聖書 第3版》には載ってなかったのですが、カルネという国もシヌアルにあったニムロデの国で、メソポタミア南部にあったと思われますがその位置は定かではありません。
タルムードの伝承などから古代メソポタミアの都市ニップールがその場所ではないかとされてきましたが、他にもバビロンの近くにあった重要都市クルウヌだとか、キシュ(古代メソポタミアの都市)の双子都市フルサグカラマなんじゃないかとか、色々言われてます。

一部の翻訳(改標、エルサレム、新英)はカルネを地名としてではなく「それらすべて」という意味の句として訳しているそうで、恐らく私の持ってる聖書はそっちの訳を取ったのでしょう。


ここから彼はアシュル(アッシリア)に進出し、

・ニネベ…古代メソポタミア北部にあったアッシリアの都市。アッシリア帝国の後期には首都が置かれた。

・レホボテ・イル…「レホボテ」は「広い場所」、「イル」は「神(?)」場所は不明

・ケラフ…現在のイラク北部ニーナワー県あたり。現代に残っている街の遺跡は41平方キロメートル。
アッシリアの時代にはカルフと呼ばれた都市で、一時はアッシリア帝国の首都となる。現在この都市の遺跡はニムロドにちなんでニムルドと呼ばれている。

・レセン…場所不明

を建てました。
ニムロデはチグリス川を遡行して次々に領土拡張していったわけですね。

アッシリアという土地はそもそもどんな土地だったかというと、紀元前6000年紀頃には既に文明が生まれていた、とても古い土地です。(ハッスーナ文化)

ハッスーナ文化の人々は、農業のために雨の多かった最北端のメソポタミアの山のふもとの山麓に移住した人々で、全体の人口約6000人、2エーカーから8エーカー(8093~32374平方メートル)の小さい村に住んでいたそうです。

彼らはハッスーナ文化独特の「ハッスーナ土器」(乳白色の化粧土の上に赤色・黒褐色の彩文・刻線文・あるいは両者を併用して平行斜線・斜格子・ジグザグ文などにより種々の幾何学文を施した土器)を造り、古来からの女神信仰を崇拝して暮らしていました。

シュメール人の「ハラフ文化」が、大体同じ時期に栄えていました。

紀元前5000年半ば以降になると、南部メソポタミアで発生したウバイド文化が北部メソポタミアにおいてもその全域に広がってきます。この頃に、ニネヴェなどに大規模集落が形成されました。

ウバイド文化、以前にカインの話のときに少し語りましたね。

南部メソポタミアの人々がシュメール人で、北部のウバイド人を追い出したという説もありました。
一般的には、南部メソポタミアでの灌漑農業の拡大とそれによる人口増加、経済の発展に伴って、いろいろな資源の需要が高まり、金属資源や木材や家畜類などの交易規模が増大した結果、交易中の継地として人々の移動が激しくなった影響で、南部メソポタミアの文化が北部メソポタミア全域にまで拡大したものと考えられています。

その後のウルク期を経て、アッシリアは
南部メソポタミアとは一線を画す独自の地方文化を形成していきます。

紀元前3000年紀半ば頃(初期王朝時代)に、後に神格化される都市、アッシュルへの最初の居住が始まります。同じ時期までにカルフ(ニムルド)やアルベラ(チグリス川上流のアッシリアの古代都市。現イラクのエルビル)など、アッシリアの中心的役割を果たす都市の基礎も形成されました。

つまりこの情報を信じるとすると、ニムロデは少なくとも、紀元前5000~紀元前3000年半ばの人物、ということになります。範囲広すぎですね(爆)


これまた想像ですが、旧約聖書の逸話はノアの洪水にしろニムロデ王にしろ、“当時の人々”が『誰でも知ってる』神話を盛り込んだ話なのかな、と思います。

「今でこそ偉そうにしてるあの民族も、あの伝説のあの方も、私たちが信じる神が造ったアダムの子孫なんだよ」
って言いたかったのかなあ。


実はバビロニアの古い文献によると、ニムロデは自分を神として崇拝させていたようです。
更に彼の妻・セミラミスは大祭司で、“奇跡的に”妊娠して「タンムズ」という息子を生み「彼こそ神の救い主」と唱えたそうです。

えー、具体的にどんなことが起きたかっていうと、まず、ニムロドはまだ少年のとき、彼の母親であるセミラミスに望まれて彼女と結婚しました。彼は在位中、自らを太陽神として人々に崇めさせました。
ニムロドが亡くなったあと、セミラミスはタンムズを産んで「タンムズは、夫でもあり息子でもあるニムロドの生まれ変わりである」と主張します。

このタンムズは初期王朝時代Ⅰ(大洪水以前)の5代目の王さまとシュメール王名表に記載されています。
ということはニムロデは《ノアの洪水》伝説の元ネタとなった《ギルガメッシュ叙事詩》よりもずっと古い人物ということになります。
ちなみにギルガメシュは初期王朝期第Ⅱ期末期(紀元前2600年頃)の人物と言われていますが、《ギルガメッシュ叙事詩》の一番最初の成立は紀元前3000年紀に遡るとされていまして、のちに伝説化して主人公にされたとみられています。
つまり叙事詩を構成する個々の題材が、シュメール時代には既に流布していたということです。


古代の人々はこの二人を象った母子像を礼拝し、聖水を注ぎ、宗教儀式を行いました。
セミラミスは「天の女王」「月の女神」として知られるようになり、やがて、それはその後の「女神」のプロトタイプになっていった、というわけ。

救世主として生まれたタンムズはシュメール神話、アッカド神話の神として記録されています。
元々はシュメールの牧羊の神ドゥムジを源としていて、本人よりも『イナンナの夫』としての方が有名です。アッカド神話ではイナンナに対応するイシュタルの夫となります。

イナンナ(イシュタール)といえば後のアフロディーテやヴェヌス(ヴィーナス)の元ネタで、『イナンナの冥界下り』などネタにも事欠かない、愛と肉欲の奔放な女神です。

そしてこのバビロニアの信仰は、様々な国に渡って、今日まで残る神話となっていきます。

〇カナン
・バアル…カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神。その名はセム語で「主」を意味する

・アシェラ…名は「海を行く貴婦人」の略称。シュメールでは天界の王アンの子マルトゥ(アムル)の配偶者、ウガリットにおいては最高神イルの妻であり、神々の母


〇ギリシャ
・アフロディーテ…生殖と豊穣、春、金星の女神。元来は、古代オリエントや小アジアの豊穣の植物神・植物を司る精霊・地母神であったと考えられる

・アドニス…アフロディテの愛人としてギリシア神話に取入れられた。名は「主」を意味するセム語アドナイと関係があるとされる。
元々はビュブロスとパポスにおいて信仰されていたフェニキア神話の植物の神。
シュメールのドゥムジ、メソポタミアのタンムズにあたる。大地女神の愛人として毎年死んでまた春に復活する、植物神的青年神と思われる


〇エジプト
・オシリス…生産の神。民に小麦の栽培法やパン及びワインの作り方を教え、法律を作って広めた

・イシス…元々はナイル川デルタ地帯のブシリス北方のペル・ヘベットの女神で、豊饒を司る。
玉座(現世の王権)を神格化した女神で、女性神でありながら王権の守護神が持つとされる「権力と支配」を意味するウアス杖(普通は男性神や王が持つ)と、「生命」を意味するアンクを持った姿で表されることもある。
エジプトでムト女神やハトホル女神に代わって信仰を集め、紀元前1千年紀に地中海沿岸全域に広がった。ギリシャではデメテル、後にアプロディーテと同一視された。
セトに殺されバラバラにされたオシリスの遺体を集めて(ただし男根は見つからなかった)繋ぎ合わせて復活させるなど、生と死を操る強大な魔力を持つ。
永遠の処女であり、オシリスの死後、処女のまま神(ホルス)を身ごもったとされ、「天上の聖母」「星の母」「海の母」などさまざまな二つ名を持った

・ホルス…オシリスとイシスの息子。
エジプト神話の天空と太陽の神。エジプトの神々の中で最も古く、最も偉大で、最も多様化した神の一つ。ラーの息子で天空神・隼の神であるホルスと、ゲブとヌトの息子あるいはオシリスとイシスの息子のホルスという同名の神が二柱存在し、やがて習合されたものだとされている 。これ以外にも様々な神との習合が見られる。
有名なシンボルである「ウジャトの目」とは、ホルスの目のことである。初期のホルスは原住民の神と習合されてハロエリス(「大ホルス」の意)またはハルウェルという名の光の神となり、太陽の右目と月の左目を持っているとされた。
プロビデンスの目もホルスの目とされていて、フリーメーソンのシンボルにもよく登場する。


などなど。

「処女懐妊」「死後復活」「母子像崇拝」………

どこかで聞いた単語が並びますね。

そう、聖母マリアと救世主イエスも、これらの神話の影響をとても受けています。

グレゴリオ聖歌でも歌われる中世の聖歌『アヴェ・マリス・ステラ』の「マリス・ステラ(Maris stella)」は、「海の星」の意味ですが、この星は金星であるとする説があります。聖母マリアがオリエントの豊穣の女神…イシュタルとかアフロディーテとか、ローマ神話のウェヌス、エジプトのイシスの後継であることを示しているとされます。
タンムズが元々シュメールの牧神…羊飼いの神だったことも興味深いです。イエスが生まれて最初に礼拝しにきたのは羊飼いたちでしたしね。

ちなみに以前、キリストの誕生日であるクリスマスとデュオニュソス祭の関係について少し書きましたが
↓↓↓
未年なので羊についてのあれやこれや http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/25/

実は12月25日はバビロニアの安息日です。
そして、ニムロデ王の誕生日と言われてます。ですので、フリーメイソンやらイルミナティやらの関連記事で色々語られておりますね。
(ちなみにイエスの誕生日は紀元前7年9月15日だとか、紀元前2年6月17日だとか色々言われてます。クリスマス関係ねーな!!)


とりあえず、クシュ(北アフリカのヌビア地方/紀元前3100年頃から紀元前2890年頃)、あるいはキシュ(イラク共和国バービル/紀元前3000年くらい)の擬人化キャラの息子として描かれた人物は、このように色々な神格と王としての実績を持った人物だということがわかりました。

様々な人物がモデルにいたり、既存の神話で盛りたてられたりするあたり、彼も新興宗教を広めるための広告塔だったのではないかなぁ…と考えます。

………ニムロデの話がだいぶ長くなってしまいました(汗)
まだハムの血筋の中の、クシュの子孫の話しかしていませんが、残りの子孫は次回にご紹介しようと思います。

さて、今回の楽曲はエドワード・エルガー作曲『エニグマ変奏曲』または『謎の変奏曲』作品36  の中から、第9変奏Adagio“Nimrod”変ホ長調です。

https://youtu.be/VXc9ezCbNdk

「エニグマ」とはギリシア語で「なぞなぞ」「謎かけ」「謎解き」といった意味で、の変奏曲には2つのエニグマが込められています。
第1のエニグマは「この変奏曲には
主題とは別の、作品中に現われない謎の主題も使われている」
第2のエニグマは「各変奏に付けられたイニシャルや略称などの該当人物」です。この変奏曲は「作品中に描かれた友人たち」に献呈されています。
ちなみに『エニグマ変奏曲』というタイトルは通称で、正式名を『独創主題による変奏曲』といいます。
管弦楽曲として知られていますが、エルガー自身によるピアノ独奏版もあります。

「ニムロッド」は楽譜出版社ノヴェロに勤めるドイツ生まれのアウグスト・イェーガーに、ドイツ語の “イェーガー” (Jger「狩人」「狙撃手」の意)にちなんでエルガーが付けた愛称です。
エルガーはイェーガーの気高い人柄を自分が感じたままに描き出そうとしただけでなく、2人で散策しながらベートーヴェンについて論じ合った一夜の雰囲気をも描き出そうとしたそうです。
この曲単体で、アンコール・ピースとして演奏されることもあります。

拍手[1回]

2016/01/18 (Mon)
さて、年の始めにその干支の動物についてなんとなく調べて、妄想を膨らませるというシリーズですが今回で3回目です。
地味に続いてます。


ちなみに過去↓

巳年(2013)
今年は巳年 http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/1/

未年(2015)
未年なので羊についてのあれやこれや http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/25/

今年、2016年は申年です。

申は本来「しん」と読み、稲妻を描いたもので「電」の原字でした。
更に「臼(両手)」と「|印(まっすぐ)」の形となり、手でまっすぐ伸ばすことで、「伸(のばす)」の原字となりました。
『漢書 律暦志』では「申堅」とし、草木が伸びきり、果実が成熟して堅くなっていく状態を表すと解釈しています。

これを「サル」としたのは、無学の庶民に十二支を浸透させるため、動物の名前を当てたと言われています。
順番や選ばれた理由は定かではありません。

…理由が定かでないのなら、妄想し放題ですよね!!!ですよね!!!??(爆)

さて、まずサルとはどんな生物なのか確認してみたいと思います。



日本語におけるサル(猿)とは、通俗的な意味ではサル目(霊長目)のうち、ヒト(古人類を含む)を除いたものの総称である。ただし、生物学的観点から見ればヒトもまた「サル」の一種に他ならない。 日本の歴史的文献においては、単に猿といえば日本固有種のニホンザルを指す場合が多い。

一方、英語のmonkey(モンキー)や、いくつかの言語での相当する語は、学術的な定義上はオナガザル科(旧世界猿、old world monkey)と広鼻猿(新世界猿、new world monkey)の総称である。つまり、サルのうち原猿(曲鼻猿とメガネザル)と類人猿を含まない(メガネザルは分類学上の地位が不安定だが、それとは関係なくmonkeyには含めない)。そのため日本語でも、特に翻訳文献で、サルにこれら(特にヒトに最も近いチンパンジー)を含めないことがある。

By、ウィキペディア。
つまりは、日本語でいう「猿」は人間以外のサル全部で、特に指定が無ければニホンザルのこと。
英語の「monkey」は、キツネザルだとかロリスだとかの古い時代のサルと、人間と、人間にちょっと近いゴリラだとかオランウータンだとかチンパンジーとかの類人以外のサルを指します。

サルといえば頭が良いというイメージの一方で、人間に似ているけど人間ほど知能が高くないということでしばしば差別表現に使われることもある、なんともかわいそうな扱いの動物です。
猿の生息しないヨーロッパ諸国やキリスト教国家では猿を見下す傾向にあり、韓国ではタブー視され忌み嫌われているそうです。

でも、インド・タイ・中国・日本といった猿が存在する多くのアジアの国では、比較的に猿自体は親しまれ(ハヌマーン・孫悟空など)、時には神仏の使いとして敬われています。

今回は日本の干支について考えるので、日本での「猿」たるニホンザルに的を絞ってみます。

ニホンザル(日本猿、学名:Macaca fuscata)は、哺乳綱サル目(霊長目)オナガザル科マカク属に分類されます。
体長47~60cm。尾長はオスが7~11cm、メスが6~11cm。体重はオス6~18kg、メス6~14kg。
顔や尻は裸出し、赤いのが特徴です。

属内ではアカゲザル、カニクイザル、タイワンザルに近縁と推定されていて、最も近縁なのはアカゲザルで50万年前に分化したとされております。

常緑広葉樹林や落葉広葉樹林に生息し、昼行性で、群れで行動します。
食性は植物食傾向の強い雑食で、主に果実を食べますが植物の葉、芽、草、花、種子、キノコ、昆虫なども食べます。


日本語の「猿(さる)」は、元来ニホンザルを指して使われた呼び名でした。 異称は「ましら」で、名前の説には諸説あります。

・知恵が勝っていることから「勝る(マサル)」の意とする説

・木にぶらさがることから「サガル」の略とする説

・「騒ぐ(サワグ)」の「サ」にルを添えたとする説

・「触(サハル)」や「戯(サルル)」の略とする説

・猿(サル)を意味する漢字「獣偏+孫」の字音「sar」

・サルを意味するアイヌ語「saro(サロ)」が転じた説

・インド中部のクリ語「sara」

・東南アジア方面の「sero」に由来する説


異名の「ましら」の方ですが、

南方熊楠氏曰く、これは梵語(古代インドのサンスクリット語)で猿を意味する「摩斯咤(マシタ)(markata)」の音が転訛したものだそうです。

ニホンザルは日本人にとって身近な動物でしたので、「桃太郎」とか「さるかに合戦」みたいな昔話とか、寓話や例え話、狂言とかによく登場します。


さて、ここで小話をひとつ。
日本人なら誰でも知ってる「桃太郎」や「カチカチ山」や「浦島太郎」ですが、このような昔話は、ずっとずっと昔は『神様へのささげもの』でした。
どういうことかっていいますと、古い民話というものは元々子供が夜寝る前に読んでもらったりするような軽いものではなく、正月や祭りなどの「ハレの日」に行われる「語り」だったのです。
恐らくですが各国の神話や、もっと言えば旧約聖書の元ネタたちも同じようなものだったのではないでしょうか。
人々が神と出会う神聖な日、村の語り手が正装して、神の代弁者として皆に話を語り、捧げ物とする…。古代社会において芸能は、神や支配者を楽しませるもの、奉納するものとしての要素があったのです。天岩戸に隠れた天照を、神楽で呼び起こしたように。


それを踏まえて、神話の中のサルという生き物を見てみましょう。

「日吉」

滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られている、比叡山に鎮まる神さまを指します。山王さまともいいます。

日吉大社に祀られているのは、

○大山咋神(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ)
別名、山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)。名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、つまり大きな山の所有者の神を意味します。山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神。

○大物主神(または大国主神)
・大物主神(おおものぬしのかみ)
日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。別名、三輪明神。
蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めています。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされています。なお、大国主の分霊であるため大黒天として祀られることも多いです。

・大国主(おおくにぬし)
『古事記』『日本書紀』に登場する日本神話の神。国津神の代表的な神ですが、天孫降臨で天津神に国土を献上したことから「国譲りの神」とも呼ばれます。出雲大社の祭神で、スサノオの息子。

彼らは使いとして猿を使役します。
日吉の流れをくむ日枝神社(比叡山)でも、猿は使い番とされておりました。

また江戸の山王祭・神田祭では南伝馬町(現在の京橋一~三丁目)が、烏帽子狩衣姿で御幣を持つ猿の人形を飾った「幣猿の吹貫の山車」を祭礼に出していました。この御幣を持つ猿は山王・神田以外の祭礼の山車にも取り入れられています。


「庚申様」

庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教(特に密教)・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰です。

庚申(かのえさる、こうしん)は、十干・十二支の60通りある組み合わせのうちの一つです。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされております。
昔からこの庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰がありました。
おそらく8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる、庚申の夜に謹慎して眠らずに過ごすという行事が始まっていたと思われます。
これは先程の小話で説明致しました「語り」にも深く関わってます。実は昼間に昔話を語ると不幸が起こるとされていて、禁忌とされていました。逆に、「話はお庚甲の晩」といって、庚申の日や正月などは夜通し語りを続けなくてはならない、という禁忌もあったのです。

日本独特の民間信仰である庚申信仰で祀られる主尊・青面金剛は、ラーマーヤナ説話の主人公・ラーマの本体であるヴィシュヌ神が日本で転化したものであると言われています。
青面金剛の足元にたびたび描かれる猿は、ラーマに仕えた猿神ハヌマーンの変形だそうです。



「厩神」

厩神(うまやがみ)は、かつての日本の厩(農民の家の中に設けられた馬の部屋)で信仰されていた守り神です。
日光東照宮の神厩舎(神馬をつなぐ厩)にある三猿の彫刻「見ざる・言わざる・聞かざる」が超有名ですね。(あれも神さまだったんだーーー!!)

昔の農家にとっては馬は牛と並んで重要な労働力であり、家族同然に大切に扱われておりました。人間を守る神と同様、馬を守る存在として生まれたものが厩神の信仰とされています。そして、厩神を祀る多くの地方では猿が馬の守り神とされていたのです。

日本には古来、猿は馬を守る守護者であるとする伝承がありました。
たとえば「猿は馬の病気を防ぐ」として、大名屋敷などでは厩において猿を舞わせる習慣があったのですが、こうした猿の舞を生業とする猿曳き(後の猿回し)は元来“馬医”も生業に兼ねていたそうです。
東北地方では「厩猿(まやざる)」と呼ばれる風習で、馬(や牛)の健康、安産、厩の火除けなどを願って厩の柱の上に厩神の祠を設け、猿の頭蓋骨や手足を御神体として納めていました。簡易な方法で済ます際には、猿の絵を描いた絵馬やお札を魔除けとして貼っていました。
これは非常に古い伝統で、元来は実物の猿を厩につないでいたものだったそうです。

守護仏として馬頭観音(馬頭明王)を祀ることもあり、馬が不慮の死を遂げた際には、その場所に馬頭観音の像を建てて供養をすることもあったそうです。

馬頭観音(ばとうかんのん / めづかんのん、梵名ハヤグリーヴァ)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊です。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つで、柔和相(ニコニコな仏さまの顔)と憤怒相(激おこな修羅の顔)の二つの相をもっています。

憤怒の顔の方のみ、馬頭明王とも呼ばれます。馬頭明王は梵名をそのまま訳して大持力明王ともよばれている、八大明王の一尊。憤怒の形相でさまざまな魔性を砕き、苦悩を断つ明王です。

神道の保食神(うけもちのかみ。とばっちりで殺されてしまった可哀想な女神。彼女の死体から馬や牛などあらゆる食べ物が生まれた。)、駒形神や蒼前神(馬の守護神)と習合し、民間信仰では馬の守護神とされ、さらに馬のみならずあらゆる畜生類を救うとされています。

本来はインド神話の梵天(ブラフマー)が倒した悪魔であり、転じてハヤグリーヴァはブラフマー神、またはヴィシュヌ神の化身とされております。 または、ヴィシュヌ神が魔を鎮めるために変身した馬の姿を起源にしているといわれ、ヴィシュヌ神の化身とされる説もあります。

梵名のハヤグリーヴァは「馬の首」「馬のたてがみを持つもの」の意です。これはヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもあります。つまりは青面金剛(ラーマ)=ヴィシュヌ神=馬頭観音ということですね。

サルがウマを守るといわれ、厩の守護とする伝承は古く広範囲に見られます。
例えば孫悟空が天界に召されたとき最初に任ぜられたのが天馬の厩の担当『官弼馬温』(ピーマーウェン、日本の発音では「ひつぱおん」)という役職でした。これは同音中国語の『避馬瘟』(サルはウマを守るもの)という伝承が元になっているそうです。
同じような伝承がインドにもあって、北インド地方の古いことわざに「ウマの病気がサルの頭上に集まる」というものがあります。恐らくこれが中国に渡り、そして日本に伝わったのでしょう。



「猿田彦」

サルタヒコ、またはサルタヒコノカミ
日本神話に登場する、天孫降臨の際に天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神。
伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には庚申信仰や道祖神と結びつきました。

天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らしている神。
鼻の長さは七咫(約1m26cm)、背長は七尺(約2m12cm)。目が八咫鏡やホオズキのように照り輝いているという姿です。

上記の風貌から、天狗の原形とする説があり、仏教(特に密教系)の烏天狗と混同されます。

また「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もあります。

天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり道祖神と同一視されました。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られています。
さらに江戸時代に入って「サル」の音から庚申講と結び付けられたほか、垂加神道では「導きの神」として神道の「教祖」とされるなど複雑な神格を持ちます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~


猿は古来“山神”とされておりました。 猿は他の獣とは違って人の異形にして縮小態であり、それゆえに、山神の使者、あるいは神そのものとされたのです。

農業の神とも言われていますが、これは田畑を荒らされるのを防ぐために猿に餌をやったことが、かえって猿は田畑の守り神であると認知させることになったそうな。

また日吉大社の神々は猿を使いとしています。おそらくその字のとおり太陽崇拝に関係しており、日の出とともに騒ぎ出す猿は日神の使者と考えられたのではないかといいます。

妄想ですが、彼らが猿を使いとした経緯は、キリスト教が呑み込んだ他宗教の神を『天使』としたのに似ている気がします。
ミトラス教の太陽神ミトラを天使メタトロンとしたように、日本に昔からいた山神・太陽神・農工神としての猿神がまず神道に呑み込まれ、更に仏教とともに流入したインドの土俗神と混ざっていった。
今は格下の「神の使い」に甘んじてはいますが、かつては山一帯で信仰された、強力な力を持つ主神だったかもしれません。

「日吉」「庚申様」「猿田彦」…今も残る猿神の多さと、猿の登場する民話の数をを考えれば想像がつきます。



……えー、またもや話がとても長くなってしまったのですが、これで「猿神」がとても古くて、そこそこ力の強い神ってことがお分かり頂けたかと思います。
そこで一番最初のテーマ『なんで申に猿を当てはめた?』です。

干支は中国で生まれたものですから中国の偉い人が当てはめる動物を決めたと思うのですが。無学な人でも分かるように決めた動物ということは、一般人に身近な動物だったはずです。
でも、龍とか身近じゃないし。寧ろ想像上の生き物だし。

まだ深くは調べてないので何とも言えませんが、干支に選ばれた動物はみんな元々は神としての性質をかわれて選ばれたんじゃないでしょうか?

今回調べて、猿はそれなりに古い神だってことが分かりました。性質としては神の使い……旧約聖書の天使に近いですかね。

神の力は信仰です。新しい神が現れて人々の信仰心を奪えば、旧い神は呑まれて淘汰されるか吸収される。あるいは習合したり、下級神として据え置かれる。
そうしたことを繰り返して、人は宗教と共に土地と文化を奪い合って生きてきたのでしょう。今も昔も、やること変わりませんね。

そう思いながら見てみると、干支も深いものな気が致します。

私がそう考える、ひとつの例をご紹介しましょう。

誰もが知ってる「 桃太郎」ですが、このお話には起源となる伝説があります。
《温羅(うら)伝説》という、岡山の伝説です。

~~~~~~~~~~~~~~~~
昔々、吉備の国・阿曽の里に百済の国の王子《温羅》が渡来してきます。温羅は髭ぼうぼうに光る目をもち、身の丈は4mもある乱暴者で、居城を築き吉備の国を占拠しました。
里人は朝廷に助けを求め、朝廷は吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣し、討伐の命を与えました。
激しい戦いの末、温羅は雉(きじ)や鯉に姿を変えて逃げますが、吉備津彦命は追いかけてその首をはねます。温羅の首は串に刺されても、何年経っても吠え続けました。吉備津彦命がその首を犬に喰わせて、吉備津神社のお釜殿の下に埋めても、静まりませんでした。
ある晩、吉備津彦命の夢に温羅が出てきて、「私の妻にお釜殿の火を炊かせて、吉凶を占え」とお告げをしました。そのとおりにすると、温羅の首は大人しくなりました。
それからお釜殿では毎年、吉凶を占う神事が行われるようになりましたとさ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

このお話をもとにして、室町時代に桃太郎が作られたそうです。

ちなみに百済が滅びたのが660年、室町幕府が興ったのが1336年です。

ほんとは、百済から渡来した温羅が阿曽の里に技術を伝え富をもたらしたために、地方が力を持つことを恐れた朝廷によって排除された…のではないかという説もあります。(個人的には、こっちが事実なんだろうなと思います)

ちなみに犬、猿、雉のモデルともいえる3人の家来もいて、
犬飼建命(いぬかいたけるのみこと)
楽々森彦命(ささもりひこのみこと)
留玉臣命(とよたまおみのみこと)

といいます。

参謀は猿、兵士は犬、密偵は雉というわけですが、この動物擬人化にもどうやら理由があるようです。

鬼を意味する『鬼門』は北東の方角です。十二支では丑寅で、それを封じ込めるために、真逆の方角である申・酉・戌を連れていった…というわけ。

かつての蛇神アラハバキたるヤマタノオロチを封じたスサノオのように、神を封じるのは同じく神です。

てことで、十二支はそれぞれが強い力を持つ神さまなんじゃないかなー。というお話でした。

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2015/11/26 (Thu)
このシリーズを始めてから、まぁ当然ですがしょっちゅう聖書や関連文書やサイトを読むようになりました。

でも私は信者ではないし、研究者でもない。
ただ趣味で聖書を読んでいます。それで知らなかったことがわかったり、日常の悩みが少し軽くなったり。
本来そんな使い方だったんじゃないのかなー、差別の材料とか戦争の原因とかにするもんじゃなかったんじゃないのかなー、とぼんやり思ったりする今日この頃です。


※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。

前回の続きからです。


○第十章

これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史です。
大洪水の後に、彼らに子どもが生まれました。

《ヤペテの子孫》
ゴメル ①
マゴグ
マダイ
ヤワン ②
トバル
メシェク
ティラス

ここから
↓↓↓↓↓
①ゴメルの子孫
アシュケナズ
リファテ
トガルマ

②ヤワンの子孫
エリシャ
タルシシュ
キティム人
ドダニム人

これらから海沿いの国々が分かれて、地方や氏族ごとにそれぞれの国語ができました。


《ハムの子孫》
クシュ③
ミツライム④
プテ
カナン⑤

ここから
↓↓↓↓↓
③クシュの子孫
セバ
ハビラ
サブタ
ラマ ①´
サブテカ

①´ラマの子孫
シェバ
デダン

ちなみにクシュの息子ニムロデは、地上で最初の権力者になりました。
彼は主のおかげで力のある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになりました。

彼の王国は初めはバベル、エレク、アカデで、これらはみんなシヌアルの地にありました。
ここから彼はアシュルに進出し、ニネベ、
レホボテ・イル、ケラフ、そしてニネベとケラフの間にレセンを建てました。レセンはとても大きな街でした。


④ミツライムの子孫
ルデ人
アナミム人
レハビム人
ナフトヒム人
パテロス人
カスルヒム人(のちのペリシテ人)
カフトル人

⑤カナンの子孫
シドン(長子)
ヘテ
エブス人
エモリ人
ギルガシ人
ヒビ人
アルキ人
シニ人
アルワデ人
ツェマリ人
ハマテ人

そのあとカナン人の諸氏族が分かれました。
カナン人の領土は、シドンからゲラルに向かってガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムに向かってレシャにまで及びました。

《セムの子孫》
セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄でした。


エラム
アシュル
アルパクシャデ ⑦
ルデ
アラム ⑥

ここから
↓↓↓↓↓↓↓
⑥アラムの子孫
ウツ
フル
ゲテル
マシュ

⑦アルパクシャデの子孫
シェラフ

エベル

ペレグ
ヨクタン②´
(ペレグの時代に地が分けられた)

②´ヨクタンの子孫
アルモダデ
シェレフ
ハツァルマベテ
エラフ
ハドラム
ウザル
ディクラ
オバル
アビマエル
シェバ
オフィル
ハビラ
ヨバブ

彼らの定住地はメシャからセファルに及ぶ東の高原地帯でした。

以上がノアの子孫の諸氏族の家系です。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出ました。

~~~~~~~~~~~~~~

数字がついてるのがノアの息子の代、数字にダッシュがついてるのがノアの孫の代です。

えー、この章は正直めちゃくちゃ読みにくいです。だってただひたすら子孫の紹介してるだけなんだもん(爆)
ですが、よくよく調べてみるとすっごく面白いし、ここを理解できないとこの先が良くわからんことになるので、細かく砕いて読んでみることにします。

今回、文がものっすごく長くなってしまったので、何回かに分けることにします。
そして、結論を先に説明してしまいましょう。ギルガメシュ叙事詩を元にしたノアの神話の次に、何故このような章を置いたのか。

あくまで想像ですけれど、ヤハウェという神を崇めるこの神話に現実味を持たせるために、(この章が書かれた)当時の人種全てがアダムの血族であると説いてるのでしょう。
ノアの子孫たちとして記されている人種の中には、メソポタミアと同じくらい、或いはもっと古い文明を持つと思われる民族もいるのです。
自分達よりも古く、強かった国を神話の中で『自分達の血族』とする。元ネタを他の神話から持ってくるよりも大胆な手です。
要は民族そのものを擬人化しているわけですから…。
読みながら『ヘタリア』(国擬人化漫画)を思い出しました。そう考えるとかなり先駆けてますね。


では、この章でアダムの血族に《された》人々はどんな民族なのでしょう。

まず、ノアの3人の息子のうち、末っ子ヤペテの子孫の紹介です。
「広い」という意味の名を持つヤペテには、7人の息子が生まれました。


・ゴメル(「完全」の意味)

・マゴグ(「ゴグの地」の意、「ゴグ」は山のこと、つまり「山地」?)

・マダイ( メディア人のこと )

・ヤワン(ヘブル語で「ギリシャ人」の意※ギリシャ人たちは自分たちのことを「イオニア人」と呼んでいた)

・トバル(「騒ぐ」「あなたは運ばれる」「鍛冶」の意)

・メシェク(「引き出される」の意。“モスクワ”という地名の元らしい。語源は諸説あり)

・ティラス(ギリシャ語の「テュルセノイ」と同じと考えられる。=エトルリア人のこと)


彼らの名前は個人名でもあり、また一族の名前そのものになったと思われます。
ちょっと大変ですけど、ひとりずつご紹介致しましょう。

長子ゴメルは小アジア地方(今のトルコ)や、ヨーロッパ地方に移り住んだ民族の元祖と言われております。ちなみにゴメルという名前は、女性と男性両方に用いられます。このゴメルは、族長に名を連ねているのですから男性でしょう。

彼らの一族は後のキンメリア人だったと言われております。
キンメリア人はアッシリアとウラルトゥの文書にガミル人として表れていて、この名前はゴメルが訛ったものと思われます。

紀元前15世紀頃(諸説あり)に現れ、紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族であるキンメリアは、スキタイ人に追われ、最終的にはリディア人との戦に敗れて紀元前7世紀の終わりに滅びました。
クリミア半島の名は、この部族名が元だそうです。


彼には3人の子供が生まれました。

・アシュケナズ(「火」「炎がパチパチはぜる音」の意味)

・リファテ(パフレゴニヤ人のこと)

・トガルマ(フルギヤ人のこと)


アシュケナズは小アジアに移り住みましたが、さらに進んでヨーロッパに渡り、ドイツにも移り住んだようです。今でも、ユダヤ系のディアスポラ(元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族)のうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、およびその子孫はアシュケナジムと呼ばれています。
ユダヤ系の姓としてもよくある名前で、ロシアのピアニスト  ウラディーミル・アシュケナージなんかは有名ですね。彼は父方がユダヤ系だそうです。

次男のリファテ(名前の意味はわかりませんでした)は、後にパフレゴニア人となる一族の元祖になったようです。
パフレゴニアとはアナトリア(現在のトルコ)の黒海沿岸の古代地方名です。西はビチュニア,東はポントス,南はガラテアに囲まれていました。小アジアのなかでも最も古い国で,ホメロスの『イリアス』のなかにも登場します。
元々はカシュカ人という民族が住んでいたようで、ヒッタイト人の支配下に置かれたあとギリシアの植民地になり、トロイ戦争(紀元前1200年)においてトロイ人の同盟国に加盟し、トロイア陥落と共に王国が滅びたそうな。

三男のトガルマ(名前の意味不明)の一族は、のちのフルギア人だそうです。

フルギア、またはフリギアも古代アナトリアの王国の名前で、場所はトルコの中西部に位置します。
フルギア人はインド・ヨーロッパ語族のフリギア語を話す人々で、おそらくヨーロッパから紀元前12世紀頃移住してこの地域を支配し、紀元前8世紀に王国を建てたといいます。しかし紀元前7世紀末頃キンメリア人の支配に屈し、その後隣接するリディア、さらにペルシャ、アレクサンドロス3世(大王)とその後継者たち、そしてペルガモン王国に支配されたのち、ローマ帝国領内の地域名として名を残します。フリギア語は6世紀頃まで残ったらしいです。
その血脈は現在のアルメニア人に受け継がれていきます。

ということで、ゴメルの一族は今のトルコらへんに栄えましたとさ。



次男マゴグの一族はどうでしょうか?

ユダヤ人の歴史家ヨセフスの時代から,「マゴグの地」はヨーロッパの北東部と中央アジアにいるスキタイ人の諸部族と関係があるのではないかと言われてきました。

フラウィウス・ヨセフス(37~100年頃)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%82%B9


ただしスキタイ人に関しては、先程登場したマゴグの兄ゴメルの息子(つまりマゴグにとっての甥)・アシュケナズを祖とする説もあります。
アッシリア語でスキタイ人を指すアシュグザイという言葉に相当すると考える人もいるからです。

スキタイ人は、ウクライナを中心とする南ロシアに栄えたイラン系の騎馬民族です。
ギリシャやローマの時代の古典文学の著者たちはスキタイ人を「強欲かつ好戦的で大騎兵部隊を備え、しっかりと武装し弓に熟達した北方の野蛮人」として描写しています。
紀元前1000年頃には中央ユーラシアにいたらしく、彼らの文化はユーラシアに広く影響を与えたようです。

『アッシリア碑文』においてスキタイは、アシュグザあるいはイシュクザーヤと記されています。(紀元前7世紀)
古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けたそうです。

スキタイ人の発生についてはいくつか伝説があります。

【スキタイ人の伝説】
ゼウスとボリュステネス神(現:ドニエプル川)の娘の間に生まれた息子・タルギタオスには3人の息子がおりました。
あるとき黄金のすき、くびき、器が空から落てきました。人がこれを取ろうとするといきなり火がついて燃え始めるので、誰も黄金の道具に触れませんでした。唯一、3兄弟の末弟コラクサイスだけは、近づくと火が消えて持ち帰ることができたので、これによって長兄と次兄はコラクサイスを王とすることにしました。彼らの民族は王の名にちなんでストロコイと呼ばれるようになりました。これがスキュティアの王国の始まりです。

【黒海地方在住のギリシア人による伝説】
ヘラクレスは牛を追いの途中で逃げてしまった馬を探しまわっていた最中、ヒュライアという土地の洞窟で、上半身は娘の姿で下半身が蛇の姿である怪物と遭遇します。ヘラクレスの馬は蛇女が保護していましたが、彼女が「返して欲しければ私と寝ろ」(←!!)と言うので、ヘラクレスは渋々了承し、しばらく同棲したあと馬を返してもらいました。
蛇女は3つ子を身ごもり、ヘラクレスに子供の処遇をたずねました。ヘラクレスは自分の持っていた弓、帯、杯をへび女に渡し「弓にうまく弦を張り、杯を提げた帯をうまく腰に巻く子以外は追い出してしまえ」と言いました。この試練に合格したのは末子のスキュテスだけで、彼は蛇女の土地に留まり王となりました。ここからスキュティア王国が始まったのです。

【ヘロドトス説】
スキタイはもともとアジアの遊牧民でしたが、当時のキンメリア地方に移りました。当時のキンメリアは現在(ヘロドトス当時)のスキュティア(スキタイの地)とされているので、この時キンメリアはスキタイによって奪われ、スキュティアと呼ばれることとなったのです。

【アリステアスの説】
アリマスポイ人(古代ギリシャ人の伝承でヨーロッパ北方の地に棲むと言われた一つ目の巨人族)がイッセドネス人(紀元前6世紀の古代ギリシャ時代にもっとも東に住む民族とされた遊牧民。その居住地は中央アジアのカザフステップだと思われる)を追い払ったせいでスキタイがイッセドネス人によって追われ、そのせいでスキタイがキンメリオイを追い払ってその地に居座りました。


【ギリシア史家ディオドロス(紀元前1世紀)の説】
初めはアラクセス(ヴォルガ)河畔にわずかな部族が住みついただけでしたが、あるとき戦好きで統帥力のある王が現れ、南はカウカソス(コーカサス)山脈、東は大洋オケアノス沿岸、西はタナイス(ドン)川に至る範囲を治めました。
この土地でひとりの処女が大地から生まれましたが、彼女の上半身は人間、下半身は蛇の姿でした。ある時、ゼウスが彼女と交わって男児をもうけ、スキュテスという名前をつけました。スキュテスはやがて名を挙げたため、彼の部族はスキュタイと呼ばれるようになりました。

***

えー、こんな感じに色々説はありますが、共通点も多いですね。
キーワードは「蛇女」「3人兄弟」「3つの神器」
族長がゼウスの血筋だとする神話が多いのは、早くからギリシャに植民地化されたからでしょうか?

紀元前7世紀頃から永らく栄華を誇ったスキタイ人でしたが、3世紀にゲルマン民族の東ゴート人に滅ぼされました。

とりあえずゴメル、あるいはアシュケナズから出たとされるスキタイ人たちは南ロシアに栄えましたとさ。


三男のマダイの名は、まんま『メディア人』を意味するらしいです。


メディア (media) とはメディウム(medium)の複数形で、「媒介するもの」 という意味です。現在は一般的に、情報伝達を媒介する 「情報メディア」 の意味に用いられてますね。


メディア人はもともとは南ロシアのステップ地帯で半農半牧の共同生活を営んでいましが、 次第に南下してオリエント世界に進出してきたイラン系民族の一部族です。

インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属する古典語のメディア語を話していたメディア人がいつ頃イラン高原に定着したのかは明らかではありませんが、ギリシア語へ入ったメディア語人名の研究などから紀元前2千年紀末から紀元前1千年紀の初頭に、ガーサー語(古代アヴェスター語ともいう。サンスクリット語に近い 。ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラも使っていた)やヴェーダ語(サンスクリット語の古語)を話す人々と接触を持っていたであろうと推定されているメディア人が定着したらしいです。

紀元前14~15世紀頃にはザクロス山中に住んでいて、 紀元前8世紀にエクバタナ (現在のハマダン)を都とするメディア王国の基礎ができました。 その頃のオリエントはアッシリアの支配下にありまして、メディア王国もアッシリアの一つの属国だったようです。

紀元前612年、大帝国アッシリアの都ニネヴェをカルデア王国 (新バビロニア) と共同で襲撃して陥落させてアッシリアを滅ぼしたメディア王国は、カルデア (新バビロニア)・リュディア・エジプトと並び、アッシリア亡きあとのオリエントを構成する4つの王国の柱のひとつになりました。
メディア王国の領土は、 現在のイラン・アフガニスタン・パキスタン西部・トルコ東部にまたがる広大なものでした。

しばらくの間強勢を誇ったメディアでしたが、紀元前550年頃に属国だったアケメネス朝ペルシャによって滅ぼされてしまいます。彼らの栄華は60年余りしか続かなかったわけです。


ギリシアの歴史家ヘロドトスによると、メディア人は6つの部族に分かれていますがそのうちのいくつかはスキタイ人のものと一致しているそうです。
また広い領土を有していたため、イラン系とは思われない集団もメディア人に含まれています。

・ブサイ族 (busae)
この部族の名はペルシア語で「土着」を意味するブザ (buza) から来たと考えられる。

パルタケノイ族 (Paraetaceni)
パルタケネ山周辺に拠点を置いた遊牧民を指す。

・ストルカテス族 (Strukhat)
詳細不明

・アリザントイ族 (Arizanti)
アリザントイの名は「高貴な人」を意味するアーリア (Arya) と氏族を意味するザントゥ (Zantu) からなると考えられる。

・ブディオイ族 (Budii)
黒海周辺のスキタイ人の部族ブディニと関係があると考えられる。

・マゴイ族(マギ族) (Magi)
この部族は祭司階級であったと考えられ、血統によって地位を継承していた。当時はまだゾロアスター教は一般化していなかったが、彼らはインド・イラン系の神々を祀っていたと考えられる。この部族の名は、後のアケメネス朝ペルシア時代に祭司を意味する語(マグ)として残存しており、メディア人の宗教観が長くイラン高原に残ったことを示唆する。

近代ではクルド人をメディア人の子孫とする説も浮上しているそうです。
表向きはアケメネス朝の半ば頃にはメディア人はペルシャ人と同化しており、現在メディア人という民族は存在しません。
(ペルシャ人は、のちのアーリア人です)

四男のヤワンは、これまたそのまんまヘブル語で「ギリシャ人」の意味です。
イオニア人は、紀元前2000年ころにバルカン半島を南下し、ギリシャ中部や小アジア北西部に定住したとされるアカイア人の一部。アイオリス人やドーリア人と並び、古代ギリシアを構成した集団のひとつです。

上でも書きましたが、ギリシャ人たちは自分たちのことを「イオニア人」と呼んでいました。
ギリシア神話では、イオニア人たちの祖はエレクテウス(アテナイ王)の娘クレウーサとアポロンの間に生まれた息子イオンとされています。民族名もイオンから取られたんですね。

ペルシア人たちは最初に接触を持ったのが小アジア西岸のギリシア人だったのでギリシア人全体をイオニア人と呼んだそうで、その呼び方がインドなど東方に広まったようです。
ちなみにギリシア人のことを、パーリ語ではYona、サンスクリット語ではYavana、アルメニア語ではHuyn、トルコ語ではYunan、さらに現代ペルシア語ではYnnと呼びます。いずれも、「イオニア(の) Ionian」から派生した言葉です。
ヘブル語の「ヤワン」も同じと思われます。


…で、そのヤワンの子孫は

・エリシャ(「神は救い」の意)

・タルシシュ(「粉砕する・精錬所」の意)

・キティム人(「拳闘家」の意。キプロス島のこと。「キプロス」は古代ギリシャ語で「銅」)

・ドダニム人(「ロダニム」と読む説もある。ロードス島に住む人々と考えられている)

の4人が紹介されています。


エリシャはギリシャや地中海のキプロス島に渡った人々の元祖らしいです。彼に関してはあんまり説明が見つかりませんでした。

次男タルシシュは、スペインに移り住んだ説と、トルコに移り住んだ説があります。
彼の名を冠した国を、トルコ地中海岸のタルススとする説とスペイン南部のタルテッソスとする説があるからです。

《トルコのタルスス》
トルコ中南部メルスィン県の都市。アダナから西へ約40km離れた地中海沿岸に位置します。
タルススは新石器時代から人が住んでいた、とても古い文化を持つ土地です。銅器時代、青銅器時代の居住地が続き、ヒッタイト、アッシリア、ペルシャ、マケドニア王国、ローマ帝国、アルメニア、東ローマ帝国、セルジューク朝、キリキア・アルメニア王国、オスマン帝国と何度も侵略を受け、破壊され、支配されてきました。
古代の都市名は「タルソス」で、タルク神(トルコの地母神)に由来していると考えられています。
紀元前400年前期ごろからペルシアの総督の所在地になり、その後セレウコス朝シリアの一部となり、ローマの征服後の紀元前66年にキリキア州の首都となり、全ての住民はローマの市民権を授与されます。
タルソスは、いくつかの重要な通商路が交差する位置にあり、南アナトリアをシリア、ポントスへと連絡していました。
1198年の建国されたキルキア・アルメニア王国はこの街を首都とし、1375年にマムルーク朝により喪失するまで維持していました。

《スペインのタルテッソス》
現在のスペイン南部アンダルシア地方のグアダルキビール川河口近くに存在したとされる古代王国のこと。
タルテッソス人は“錫の島”(ヘロドトス曰く、イギリスのこと)との交易を独占し、紀元前8世紀フェニキア人と組み、盛んに交易をしていたそうです。ヘロドトスなどギリシアの古代史家は、タルテッソスの伝説上の王・アルガントニオスが常人を遥かに超える長命を誇っていたとしています。
また、6000年以上前から法律があったそうです。


三番目に、キティム人が挙げられています。これまで人名扱いされていた子孫たちですが、ここは人種として扱われています。
「キティム」はキプロス島のことだそうです。前述のエリシャもキプロス島に移り住んだ説がありますので、なにか関連があるのかもしれません。

キプロス島は中東、トルコの南にある地中海の島。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きな島です。
地中海貿易の中継点として栄え、ペルシャ、ギリシア、ローマなど、時代ごとの強大な国家の支配下に置かれました。

キプロス島には紀元前7000年の新石器時代から人が住んでいたそうです。紀元前1500年頃にヒッタイトがこの島にやってきて、紀元前1450年頃には古代エジプトの支配下に入り、紀元前1400年頃には、アカイア人(ギリシャ系)が入植してきました。その後、アカイア人はキプロス人のルーツの一つになりました。 ……もしかして、この「アカイア人」がキティムで、ヒッタイトが前述のエリシャとか…?


もうひとつ、ヤワンから出た人種としてドダニム人が紹介されています。
彼らはロードス島に住む人々と考えられています。

ロードス島、またはロドス島は、エーゲ海南部のアナトリア半島沿岸部に位置するギリシャ領の島です。ドデカネス諸島に属し、ギリシャ共和国で4番目に大きな面積を持っています。紀元前16世紀にはミノア文明の人々が、そして紀元前15世紀にアカイア人が到来し、さらに紀元前11世紀にはドーリア人がこの島へとやってきたようです。


ヤワンの子孫はこんなかんじです。




さて、ヤペテの五男トバルは、これまたいくつかの説を持っています。

①旧ソ連の中にある、グルジヤ共和国あたりに住んだ説。グルジヤ共和国の首都トビリシの名は、「トバル」に由来しているとされています。

②小アジア東部のキリキアの北東に住んだ説。トバルの名を、アッシリアの碑文に出て来るタバリと同じ民族を指すものとみなしています。それらの碑文の中ではタバリとムスク(後述するメシェクと思われる)が一緒に言及されています。ヘロドトスも、それらの名称をティバレニ人とモスキ人として列挙しています。

ティバレニ(タバレニとも)人はトラキア-プリュギア語派の部族としてモッシュノイコイ人と一緒にバルカン半島から来ました。
ちなみにモッシュノイコイ人とはプリュギアメンデレス川中流の谷に住んだと言われる民族です。敵の首を切り落としてそれを持って奇妙な節回しで 歌うとか、イルカの膏をオリーブ油みたいに使うとか、人前で性行為が普通に行われるとか、独特の文化を持っていた為にギリシア人からは蛮族と呼ばれていました。肌の色は白かったそうです。

ティバレニ人はのんきで陽気な民族であったといわれております。その一部はポントスの平原に住んでいましたが、一部はキンメリア人がアッシリア王の代々の敵としての力をそぐために強制移住させられたあと  彼らと親族関係にあるムシュキ人と同様、キリキアにとどまったといいます。

ちなみに彼の名前、どっかで聞いたことありましたね。
人類初の殺人を犯して追放されたカインの血を引く、高慢な王レメクの息子。彼の名前が聖書における人類初の鍛冶士《トバル・カイン》でした。
トバルの名には「騒ぐ」「あなたは運ばれる」「鍛冶」の意味があります。
ティバレニ人を支配していたと言われるカリュベス人は鉄の技術に優れた民族で、ヒッタイトの武器を作っていたといいます。カリュベス人の支配を受けていたティバレニにも、その技術が残っていても不思議はありませんね。


六男のメシェクは、モスコイ人というロシア共和国付近に移り住んだ民族と言われております。その説ですと、モスクワという名は「メシェク」に由来しているといいます。

また、先程トバルの紹介のとき出てきたアッシリアの碑文に記されている《ムスク》をメシェクとした場合ですが、彼らはフリギア人と合致するとも言われているようです。
長兄ゴメルの3番目の息子トガルマも、のちのフリギア(フルギア)人と言われていました。またまた何やら関係がありそうですねえ。

ちなみにモスクワはモスクワ川に由来します。モスクワ川の名前の由来として一般に言われているのは、

①古代のフィン・ウゴル語派の言語で「暗い」「濁った」を意味する説

②コミ語の「牛」が語源とする説

③モルドヴィン諸語で「熊」を意味するという説

など諸説あります。

ヘブル語のメシェク(引き出される)と、何か関係はあるのか。気になるところです。


さて、最後に兄弟の末っ子ティラスです。
彼の一族はエトルリア人、或いはエーゲ海周辺に移り住んだエトラシヤ人のことだと言われております。

エトルリア人はイタリア半島中部の先住民族です。インド・ヨーロッパ語族に属さないエトルリア語を使用しており、エトルリア文化を築きましたが徐々に古代ローマ人と同化し消滅したそうです。

近年の研究では、エトルリア人は「海の民」とも関係がありまして、エジプトに侵入した際にその文化をイタリア半島に持ち帰ったと言われています。後のローマやイタリアの貴族の間でエジプト文化が大流行したのも、どうやらここから来ているようです。

初期のローマ人はエトルリアの高度な文化を模倣したとされ、ローマ建築に特徴的なアーチは元々エトルリア文化の特徴であったといわれております。また、初期の王制ローマの王はエトルリア人であったとも言われ、異民族の王を追放することによってローマは初期の共和制に移行したということです。

エトラシヤ人に関しては、あまり記述がありませんでした。
エーゲ文明といえば古代ギリシアにおける最古の文明で、有名なトロイア、ミケーネ、ミノアの三文明のほか、さらに古い段階のキクラデス文明やヘラディック期ギリシア本土の文化などがあります。

発掘された王の宮殿から基本的に戦争もなく比較的平和な時代だったと推測されております。
城壁もなく開放的な城の姿は海洋民族の特徴です。高度な文明を残し、古代エジプト文明の影響を受けたとされ、また青銅器文化も栄えました。しかし紀元前12世紀頃に突然滅亡します。原因は未だ解明されていません。
「前1200年のカタストロフ(破局)」と呼ばれるこの災厄は古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を襲ったそうです。この災厄は諸説存在しており、

・気候の変動により西アジア一帯で経済システムが崩壊、農産物が確保できなくなったとする説

・エジプト、メソポタミア、ヒッタイトらが密接に関連していたが、ヒッタイトが崩壊したことでドミノ倒し的に諸国が衰退したとする説

などがあります。
このカタストロフを切っ掛けに、ヒッタイトだけが持っていた鉄生産の技術が流出。青銅器の時代が終わりを告げ、東地中海に鉄が広がりました。

……………

えー、非常に長くなってしまいましたが、これでヤペテの子供たち全員紹介しましたね。
ちょっとあまりに長かったので、改めてまとめてみましょ。

《ヤペテの子孫》
○ゴメル =キンメリア人(南ウクライナ/紀元前15~7世紀)
↓↓↓
・アシュケナズ=小アジア~ヨーロッパ人※マゴグの欄参照

・リファテ=パフレゴニア人(現トルコ黒海沿岸/?~紀元前12)

・トガルマ=フルギア人(現トルコ中西部/紀元前12~7世紀頃)=※メシェク(?)→アルメニア人

○マゴグ=スキタイ人(南ロシア、ウクライナ/?~紀元後3世紀)=※アシュケナズ(?)

○マダイ=メディア人(現在イラン・アフガニスタン・パキスタン西部・トルコ東部/紀元前20~5世紀)→ペルシャ人→アーリア人

○ヤワン =イオニア人(ギリシャ中部、小アジア北西部/紀元前20世紀~)
↓↓↓
・エリシャ=キプロス島民※キティム人の欄参照

・タルシシュ=(トルコorスペイン/?)

・キティム人=キプロス島民(アカイア人?)(キプロス島/紀元前70世紀~)=エリシャ(ヒッタイト人?)

・ドダニム人=ロードス島民(ロドス島/紀元前16世紀~)

○トバル=グルジア人(グルジア共和国付近/?)orティバレニ人(小アジア東部のキリキア/?)

メシェク=モスコイ人(現ロシア共和国付近/?)orフルギア人※トガルマの欄参照

ティラス=エトルリア人(イタリア半島中部・ローマ/?)orエトラシヤ人(エーゲ海周辺/?~紀元前12世紀)


えー、こうして並べてみますと、民族の古い順とかにまとめられてるわけではなさそうですね。歴史の影に隠れて滅びてしまったマイナーな民族の名前もちらほら。

つまり、少なくともこの話のこの章が書かれたときには、ここに記されている民族がみんな存在していたわけですね。
これらの民族の存在していた時代が被るのは、紀元前12世紀のみ。
そしてこの紀元前12世紀というのは、先程ティラスの紹介のときに出てきた『紀元前1200のカタストロフ』の時代です。

何やら恐ろしい予感がしますねー。

さて、とても長くなってしまったので、続きは次回ということで。

今回の楽曲はストラヴィンスキーの『エディプス王』。三大ギリシア悲劇作家のひとりソフォクレスの『オイディプス王』を元にしたオペラ=オラトリオです。
https://youtu.be/YIdimmUtYOI

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2015/10/09 (Fri)
※この記事の内容は、キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。

前回の続きからです。
この章でノアのお話は最終回です。

○第九章
神はノアと、その息子たちを祝福してこう言いました。

「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。
野の獣、空の鳥、(地上を動く全てのもの)海の魚、これらはみんなあなたがたを恐れるよ。これらのこと、ぜんぶあなたがたに任せるからね。
生きて動いてるものはみんなあなたたちの食べ物だよ。草と同じように、すべてのものをあなたがたにあげるね。
でも肉は血のついたまま食べちゃだめだよ。
私は、あなたがの命のためには、あなたがたの血の値を要求します。獣にも人にも、兄弟であるものにも同じように人の命を要求します。

人の血を流すものは、
人によって、血を流される。
神は人を神のかたちに
お造りになったから。
あなたがたは生めよ。ふえよ。
地に群がり、地にふえよ。

さあ、私はあなたがたと、あなたがたの子孫と、あなたがたと一緒にいるすべての生き物との契約を立てよう。
大洪水が地上を滅ぼすことはもうないよ。

私は雲の中に契約のしるしとして虹を立てるからね。虹を見たらこの契約を思い出してね。私も虹を見たら契約のこと思い出すから。」

箱舟から出てきたノアの息子たちはセム、ハム、ヤペテといいました。ハムはカナンの父です。
この三人の息子から、全世界の民は分かれ出ました。

さて、ノアはぶどう畑を作り始めた農夫でした。
ノアはあるときぶどう酒を飲んで酔っぱらって、天幕の中で裸になっていました。
カナンの父ハムは、父の裸を見て外にいる二人の兄弟に告げました。
セムとヤペテは着物を持って後ろ向きに歩いてノアの裸をおおいました。そして顔をそむけて、父の裸を見ないようにしました。
酔いからさめたノアは息子が自分にしたことを知って言いました。
「※
呪われよ、カナン。兄弟たちのしもべとなれ。

ほめたたえよ。
セムの神、主を。
カナンは彼らのしもべとなれ。

神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。
カナンは彼らのしもべとなれ。」

ノアは大洪水の後、350年生きました。
ノアの一生は950年で、彼は死にました。

~~~~~~~~~~~~~~~~

※は、詩のように書かれていたので原文ままです。

洪水が終わって、ノアの生け贄の儀式を受けて反省した神様は(前回の第八章参照)、ノアと息子たちに契約をもちかけます。
人間に対しての二回目の契約です。
(前々回の記事参照)

今回の契約内容は

①野の獣、空の鳥、(地上を動く全てのもの)海の魚の管理を任せる。またこれらの補食を認める。

②命の値の要求

③契約のしるしとして神は空に虹をかけ、大洪水を起こさない証とする。

神(甲)は人間(乙)に②を求める代わりに、①の権利を認める。乙が契約を執行し続ける限り、甲は大洪水を再び起こさない。その証として甲は③を執行する。



①は、神様が今までベジタリアン推奨だったのを肉魚も解禁にしたということですかね。
エデンのときから人間に食べてもよいとしていたのは木の実だったし、アダムに命じたのは農業だったので、牧畜はほんとは神公認ではなかったんですね。家畜は持ってもいいけど、自分達で食べるためじゃなくてあくまで神様への生け贄…自分達の命の身代りとして使うことのみ許されていたということです。

②は、死刑制度の確立だとか、動物でも人間でも命を大事にしなさいねとか、色々解釈があったのですが…

私にはどうも「生け贄」の要求に思えました。
あんたたちは神に生かされているんだから、自分の命と同等のものを捧げてよね、と。
あと、「死刑制度」と「命を大事に」、両方の意味をも含んでいるような気がします。
つまり、
「人は神の形として作られた、とても尊いものです。血は命そのものであるから、人に
血を流させるのは神の命を奪うことになります。
人の血を流させて殺してしまったら自分も同じように血を流すか、自分の命と同等のものを捧げるとかしないといけません」
ってことかと。

こうして具体的に神が生け贄を求めてきたのは初めてですけれども、実は一番はじめのアダムから、神様が求めてきたのはずっと同じものです。アダムが楽園を出るときに貰った毛皮も、カインの捧げ物の失敗も、つまりはこのことを言いたかったわけです。

①も②も、結局言っていることは「命を大切にしなさい」ということなんですね。

動物の犠牲に感謝してお肉を食べて、自分の命が生かされていることに日々感謝して、他の人の命も大事にしてあげなさい。そしたら、洪水は起こさないであげるからね。
平たくいうとこう言うことが言いたかったんではないかと。


恐らくですけど、この契約が結ばれるよりも前から、初期のユダヤ教の生け贄の儀式は確立していたと思われます。
前章の時点で、ノアは箱舟から出てすぐに『全焼のいけにえ』を捧げた、と書かれていますので。この神話を語り継いでいた民族には、既に当たり前の習慣だったのだと想像できます。

『全焼のいけにえ』についての詳しいルール説明はもっと後、モーセの十戒のところまでおあずけです。


あと、肉は血抜きして食べなさい、というのは所謂おばあちゃんの知恵袋的な、健康や暮らしの知恵のような気がします。
血抜きは、肉に血液が残る量が最小限に抑えられ肉の劣化や腐敗を遅らせる効果もあります。冷蔵庫が普及する以前は、鮮度の低下で廃棄される肉を最小限に抑えるための技術でもありました。この技術が発達した背景には食中毒の予防と同時に、犠牲となる生命に敬意を払い、無駄を最小限とするための倫理的な思想も見出されるとされています。

もちろん、「血=命そのもの」という古代から続く宗教観もあると思うのですが。


さて、人間が命を大事にし続ければ、神様は洪水を起こさないと約束してくれました。その印として、神様は虹をかけるよ、と言ったのですけども。

前回、大洪水を古代の水蒸気層と絡めてお話ししましたが、『虹』もこの説で重要な証明材料になっております。

虹(にじ)とは、赤から紫までの光のスペクトルが並んだ、円弧状の光です。気象現象の中でも、大気光学現象に含まれております。
太陽の光が空気中の水滴によって屈折、反射されるときに水滴がプリズムの役割をするため、光が分解されて複数色(日本では七色とされる)の帯に見える現象です。
雨が止んだ直後、あるいはまだ雨が止んでいない時に日射があると、太陽のある方向と逆の方にできることがあります。

主虹(しゅこう、しゅにじ)、または1次の虹と呼ばれる虹は、「太陽」-「プリズムとなる水滴」-「観察者」のなす角度が40~42度となる位置に見られます。このため、虹は太陽の反対側に見られ、太陽が高い位置にあるときは小さな虹が、夕方など太陽が低い位置にあるときは大きな虹が見られます。
主虹の内側に副虹(ふくこう、ふくにじ)、または2次の虹と呼ばれるうっすらとした虹が見られることがありますが、これは「太陽」-「プリズムとなる水滴」-「観察者」のなす角度が51~53度となる位置に見られるものです。

太陽高度が高い日中は虹は低くしか見えませんが、太陽高度が低い朝や夕方には大きくきれいな虹がみられます。
日中に虹が見えづらいのは、太陽の高度が42度以上になる真昼になると折した光が地上に達しなくなってしまうためです。


虹色現象は低気圧や前線の近くで発生することが多く、日本ではそれらが日本列島の近くを通過・停滞しやすい「春~梅雨」と「秋」に多く見られます。
現代の地球では、普通雨は低気圧になると降ります。気圧が周りよりも低いため周りの空気が入りこんできて上昇気流が生じます。すると水蒸気が上に押しやられて雲が発生しやすくなるためです。

熱帯低気圧とは熱帯地域で発生する低気圧のこと。『台風』とは熱帯低気圧が発達して最大風速が17.2m/s以上になったもののことで、構造上は熱帯低気圧と変わりません。
よく、「台風が温帯低気圧になり、消滅しました」といいますが、これは低気圧が温帯に移動して、あったかい空気と冷たい空気が混ざったというだけ、構造が変わりましたよというだけで、台風がかき消えたり、雨風が弱くなったというわけでは無いです。


【NAVERまとめ
超レア現象?太陽の周りにハロ現象と言われる虹色の輪と環水平アークがW出現!】
http://matome.naver.jp/m/odai/2143226306017978701


【NAVERまとめ  
台風が過ぎてみんなのTLが「虹の写真展」になってた!】
http://matome.naver.jp/m/odai/2143726021948707501


水滴において光の屈折が起こるか否か、また屈折が起きた場合の屈折率は、水滴の密度と大気の密度の差によります。
もし大洪水以前の大気圧が本当に今の二倍あったら。大気と水滴の密度の差は今日ほどは大きくなく、虹を生じさせるような光の屈折が起こらず、虹は見られなかったと考えられます。
地球全体を覆う水蒸気層が無くなって、部分的に冷たい空気や低い気圧の部分が生まれて、それが大気と共に移動して、色々な条件が揃って初めて虹は見られるわけです。

この説でいくと
『大洪水が起きて初めて虹が与えられた』という点で聖書は理屈に合っています。

6550万年前に、このことを客観的に見ていて伝えようとした存在がもしいたら、すごく面白いなぁとぼんやり考える今日この頃です。




さて、続きです。
神様のお導きで未曾有の災害を逃れたノア一家の、その後の話です。

ここで、やっとノアの息子が話に登場します。今まで名前だけ出てましたけど、ノアばっかり活躍してて出番なかったものね。

ノアの息子は3人います。

セム(「名前」の意味)
ハム(「熱い」「暑い」の意味)
ヤペテ(「広い」「開かれた」の意味)


セムの名前に一言加えて「ハ・シェム」と言えば「御名」という意味になって、創造主たる神を表します。三兄弟の中でいちばん優遇された名前と言えます。
ハムは「熱い」の他に「戦争」という意味もあるそうです。
あとイスラエルの死海方面から吹く熱い東風は今でも「ハムシーン」と呼ばれています。

これは次の章で詳しく説明がありますが、この三兄弟から、全世界の人種が分かれたと言われております。

○セムの子孫は、ヘブル人やアラビア人、そのほか中東の民族(黄色がかった白色か、褐色の肌)
この聖書の話を語り継いでいた民族の血筋、ということになります。

○ハムの子孫は、アフリカ大陸やアラビア半島、メソポタミア、パレスチナ、スリヤ(今のシリア)、小アジア(今のトルコ)あたりの地域の人々(黒色から、黄色がかったうすい褐色の肌)
ハムの名の由来はもしかして、その後「暑い」地域に住んだからかも?

○ヤペテの子孫はいわゆる「インド・ヨーロッパ語族」の人々…スラブ系、ゲルマン系、ラテン系、ギリシャ系、インドのアーリア人とか(白色から、黄色がかったうすい褐色の肌)
一説ではモンゴロイドもヤペテの血脈で、つまり日本人もヤペテ族ということになります。名前のとおり、ヤペテは「広く」栄え、未開の地を「開かれた」お人なわけですねえ。


この3人の息子は前からちょこちょこ名前が出てたからわかるんですが、この章でいきなり新キャラが登場します。
ハムの息子、カナンです。
なんでここでなんの前触れもなくノアの孫が出てくるんでしょうか。

ちなみにカナンという名称ですが、文献への登場は紀元前3000年くらいからだそうです。シュメール人の都市マリの紀元前18世紀の残骸で発見された文書では政治的な共同体として書かれていたようです。のちに『約束の地』とされるカナンの名称はここから来ていると思われます。
語源は、フェニキア人がみずから呼ぶのに用いた「ケナアニ (商人) 」に由来するとされています。(ネタバレですが、次の章で紹介されるカナンの子孫《シドン人》は、のちのフェニキア人です)
また当時の貴重な商品だった、赤みを帯びた紫の染料をアッカド人がキナフ kinahhuと呼んだことにも関連するといわれております。


さて、人物紹介が終わったところでノアのその後が語られます。
大洪水を無事に生き抜き、方舟から出たノアは新しい商売を始めます。
彼が選んだ商売はぶどうの栽培。
《ぶどう畑を作り始めた農夫》ということは、ノア以前にぶどうを栽培していた前例はなかったわけですね。


ブドウは温帯の農作物で、平均気温が10度から20度程度の地域が栽培適地です。水はけがよく日当たりが良い土地を好みます。
最適の降水量は品種によって差がありますが、ヨーロッパブドウは一般に乾燥した土地で育てられます。

メソポタミアは、実はぶどうの栽培には適さない土地でした。一応聖書の話通りだとすると大洪水の直後ですし、そうでなくても当時のメソポタミアは雨季はしょっちゅう大雨が降っててチグリス・ユーフラテス川の氾濫に困ってた土地ですし。



ワインは極めて歴史の古い酒の一つとされていて、現在のジョージア(グルジア)があるコーカサス山脈の南麓周辺では遅くとも紀元前8000年頃からワインが飲まれていたらしいです。また、アルメニアでは約6000年前のものとされる世界最古のワイン醸造所跡が発見されており、その頃には既に高度な醸造技術が確立されておりました。

この地域には人類が古くから住みついていたそうで、紀元前9500年ごろの金属器が発見されていたり、紀元前4000年ごろからのマイコプ文化(紀元前3700-2500年頃の青銅器時代にロシア南部に栄えた)やクラ・アラクセス文化(紀元前3500-2200年)の遺跡が発見されて多くの金属器が出土し銅石器や青銅器文化であったことが分かっています。


つまり………大陸の北の方が、文明は先に発達していたことになりますね。
チーズ製造も一番古くから行っていたのはポーランドで、紀元前5500年前だといいますし。
チーズとワイン……私大好物なんですけど、初期人類の頃からこんなに製造技術が発達してたということは、人間は遺伝子的にこれらを好んでるのかもしれません。



えー話が逸れましたが、ともかくノアは初めて(とりあえず聖書において、メソポタミアでは初めて)ぶどう栽培に成功し、ワインを作り始めた人ということです。

考古学的には、どうやらワインの醸造法はぶどうの栽培よりも先に伝わっていたようで、イラン高原では紀元前6000年頃から生産が始まっていて広く飲まれていたそうです。
メソポタミアは葡萄の栽培に適した土地でなかったため、メソポタミア(※特に南部のシュメール)においては紀元前4000年頃になってようやく醸造できるようになったみたいです。(一応つじつまは合ってますな)

ワインについて書かれた世界最古の文献は紀元前2000年前後に作られたシュメールの粘土板で、例えば、『ギルガメシュ叙事詩』(アッカド語版)には、メソポタミアの英雄ギルガメシュ王が大洪水に備えて箱舟を造らせた際、船大工たちにワインを振舞ったという場面があります。
ちなみに、シュメールでは紀元前5000年頃に世界初となるビールの醸造技術が確立しており、紀元前3000年代初期に双方が古代エジプトへと伝わったとされています。ビールの醸造の方が比較的簡単であったらしく、これら古代オリエント地域では、ビールを日常消費用、ワインを高級品として飲み分けていたようです。


ワインが高級品ということは、ワイン職人のノアはかなり経済的に豊かになれたかもしれません。生活に余裕が出来たから、この歳になってやっとお酒を飲む余裕も生まれたと考えたら
「おじいちゃんお疲れ様!」ってノアさんに言ってあげたくなります。
年老いたかつての英雄が、ちょっとお酒で失敗したくらい大したことじゃないじゃない。ノアさんだって人間なんだし。
別に神様だって「裸になるのはいけない」なんて一言も言ってませんし。

でもまあ、自宅とはいえ粗相をさらすのはやっぱ恥ずかしいことなんでしょうね。アダムのときから《裸=恥ずかしいこと》という概念が出来てしまっていますので。

息子のハムは、ベッドで素っ裸で酔い潰れた父を見て愕然としたのでしょう。
「厳格だった父があんな醜態をさらすとは!!」

思うだけで留めとけば良かったのに、ハムは外にいた兄弟たちにこのことを言ってしまったんですね。

「なー親父が酔い潰れて裸で寝てるんだけど!!マジあり得なくね?!普段俺らには規律とか生活態度とか厳しいくせにさー!」

成功者とか、普段弱味を見せない人がたまに失敗をしたりすると、ここぞとばかりに叩く人はいつの時代にもいるものです。
芸能ニュースとかまさにそうですし、最近だったらSNSやらlineやらTwitterであっという間に拡散出来てしまいますね。
ハムがもし現代にいたら

――――――――――――――――
カナンの父 @hamu_

親父(元・救世主)が酔い潰れて寝てるなう。全裸で。マジねーわ。

――――――――――――――――

とでも呟いてそうですね。


それを聞いたセムとヤペテはどうしたか。
後ろ向きに歩いてノアの裸を見ないように近付き、ノアの身体を服で覆ったのです。

つまりどういうことかっていうと、
現時点で、人間の中で一番神に近いところにいるノアの権威に対して、息子たちがどう反応したかが試されたわけです。

声高に失態を糾弾したハム
沈黙することで権威を守ったセムとヤペテ

ノアは神の代理人ですから、その彼にとった態度はそのまま神への姿勢になります。
アダムたちへ求めたことからも分かるように、神様は人間に服従を求めています。ハムの行動は、ノアの権威を失墜させようという悪意があります。それはそのまま神様への反逆、というわけです。

なので目覚めたノアは彼らの行動を知って、呪いの言葉を口にしたわけです。
なんで本人じゃなくて、わざわざハムの息子を呪ったのか。これには諸説あり、現代に至るまで論議の的になってるみたいです。

説①
カナンの子孫・フェニキア人たちはその後堕落していくため、それをノアは予言していた。

これが、一応一般的にキリスト教で説かれている理由みたいです。


説②
本当はカナンがノアの裸を直接見たのであって、呪いを受けたのはカナンである。

カナンという地名は今のパレスチナのことですが、「イスラエル人がカナンの地を占領する前はそこをカム(ハム)と呼んでいたらしくて、そのカムをカナンに訂正したのだ」という説があります。


説③
本当に呪われたのはノアである。

これは、第三回目のネフィリムの話のときにチラっと出てきた、堕天使と人間の子供がネフィリムという説が下敷きになった説です。

そして、話の根本はアダムの長男・カインにまで遡ります。
第二回目のときには特筆しませんでしたが、カインが悪魔の子だとする説もあります。

イブを誘惑した蛇とは悪魔のことで、蛇とイブの間に出来た子がカインである。(この悪魔がルシファーという説も)
悪魔は即ち堕天した天使で、堕天使と人間の間の子だからカインはネフィリムだ。
旧約聖書という神話での彼のモデルとなった神がギリシャ神話の《サトゥルヌス》(農耕神)で、つまり彼は魔王サターンである、と。

《サトゥルヌス》
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%8C%E3%82%B9

ハムの妻となったエジプタスも実はカインの血を引いていて、この名前からわかる通りエジプト文明はこの夫妻から始まったらしいです。
彼らは場所や食料の制限があったため生殖行為が禁じられていた方舟の中で、あろうことか子を成してしまったらしく、ノアはそのことを思い悩んで、飲みすぎて酩酊してしまったそうな。(ハムが男色に走ったからという説も)

酩酊状態という神や霊が降りやすい状態のうえに、ノアは子供のしでかした罪によって神さまに対する罪悪感でいっぱいでした。なので、悪魔の囁きに心を奪われてしまったというわけです。
「ハムの血筋は我ら悪魔の血筋だ。お前たちとは相入れない。」

裸を見られて言いふらされたくらい、確かに不名誉だけど息子なんだから許してやんよ、と普段の温厚なノアなら思っただろうに、目覚めたノアは
「お前の一族はウチの子じゃありません!」
と宣言したわけですね。つまり、ノアは呪いの言葉を悪魔に言わされたってことです。

ノアに呪われたのはカナンたちかもしれませんけども、その後5000年以上、ノアの血族から新訳のイエスに至るまでがその呪われた民に苦しめられることになるので…果たしてホントに呪われたのはどっちなんでしょうね、というお話です。

現代に至るまで世の中の経済や戦争を動かしているのはカナンの末裔と言われているのですから恐ろしい話です。

ホントかどうかは知りません。
でも、そういうこと知ってると知らないでは、物の見方も変わってきます。

のちのち、ちゃんと読んでいきますけれども、とりあえずザックリとメモしておきましょう。
ノアの元を離れたハムの一族…そこから出たカナン人たちは、後にフェニキア人として地中海文明に君臨し、ローマ帝国を築き、ローマが滅びたらヴェネチアに避難して《ヴェネチア貴族》となりました。彼らは肌が浅黒かったために《ヴェネチアの黒い貴族》と呼ばれます。(ハム系の血筋の肌は黒い)
十字軍遠征の資金源となり、マルティン・ルターを操ってプロテスタントとカトリックの分裂を起こし、イエズス会を作り、宗教戦争を操縦した張本人たち。
彼らは地中海貿易から大西洋貿易に移るためにヴェネチアからオランダへ、さらにイギリスへと移動していき、世界初の株式会社であるイギリス東インド会社を設立します。
そして大航海時代、海を制覇したイギリスは第一次世界大戦を裏で操っていたといいます。第二次世界大戦ではその役がアメリカに替わりましたが、元々アメリカはイギリスの植民地です。
《ヴェネチアの黒い貴族》の末裔…戦争を使ってルシフェルの思想を世の理にしようと計画する人々が《イルミナティ》と呼ばれています。

イルミナティの始まりこそが、『カナンの呪い』という説………
考古学的な意味とは違う観点ですが、今の不安定な情勢もあり見過ごせない説です。

…ちなみに、5年前くらい前から「なんか最近メディアとかおかしいな」「(父に聞いていた)第二次大戦前みたいな雰囲気だな」と思ってたんですけど、最近マジで笑えなくなってきてる今日この頃です。

では、続きは次回ということで。


えー、今回の作品はサン・サーンス作曲のオラトリオ《ノアの洪水》
https://youtu.be/3x_dMvqlKCI
です。

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* ILLUSTRATION BY nyao *