プロフィール
HN:
赤澤 舞
性別:
女性
職業:
飲食店店員
趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。
レトロゲームや特撮も好物です。
ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
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2016/05/21 (Sat)
はい。あまりに長くなってしまったのでページを分けさせていただきました。
ではハムの子孫紹介、後編に参りたいと思います!
次に名前が挙がっているエモリ人は、紀元前2000年前半に勢力をふるったアムル(アモリ)人と見られています。さっきミツライム…エジプトのヒクソスの話のとこでチラッと出てきましたね。
アムル人を示すアッカド語の「アムル」やシュメール語の「マルトゥ」は元来メソポタミアの西の地域を指す地名で、そこから西の方角のことをアムルもしくはマルトゥと呼ぶようになり、更にメソポタミアから見て西方に位置するシリア地方のビシュリ山周辺を中心に遊牧民として生活していた人々もこの呼称で呼ばれるようになったとのことです。
アムル人たちが記録に登場するのはウル第3王朝時代からです。シュメール人社会に傭兵などの形で入り込んでいた彼らは、次第にメソポタミア周辺地域に定住しはじめます。そんなアムル人をシュメール人たちは《野蛮人》と呼んで疎んでいたらしく、城壁を作ったり武力で撃退したりしていたようです。
しかしアムル人は傭兵や労働者としてメソポタミア全域に浸透し、王朝末期には上級役人に採用されるまでになりました。一方、シュメール人の勢力は弱まり、結果的にアムル人との戦いが王朝の衰退の一因となってしまいました。
ウル第3王朝滅亡後にメソポタミア各地に成立したイシン、ラルサ、バビロン、マリ等の諸王朝はいずれもアムル系の人々によって成立したものです。ただしアムル人が統一した政治集団として活動を起こしたわけではなくて、互いに覇権を争う競合関係にあったようです。
上記のアムル人の王朝の中でも、特に有名なのはバビロンでしょう。
都市国家バビロンの6代目の王であり、古バビロニア王国の初代の王さまが、あのハンムラビです。歴史の教科書に『ハンムラビの法典』で出てきたのを覚えておいでの方もいらっしゃるかと思います。
彼は自らを「アムルの王」と称していたそうで、有名なハンムラビ法典の一説「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理はアムル人の習俗から導入されたものだそうです。
バビロンがハンムラビによって統一されメソポタミア下流域の重要都市になってから、以後のメソポタミア下流域…つまりシュメールとアッカドの地は「バビロニア」と呼ばれるようになったのです。
前回紹介したニムロド王を、ハンムラビとみる説はここから来ているようです。
これらの王がアムル人から輩されてからもアムル人のメソポタミアへの流入は続き、アムル人の人口割合は増加し続けました。
ただしシュメール人やアッカド人の王権や宗教観はそれによって変わることはなく、逆にアムル人たちは彼らの文化を受け入れて同化していきました。紀元前17世紀頃には、バビロニアに移住したアムル人はほぼ現地人と同化し、残ったのは移住せずにシリア地方に残ったグループだけになってしまいました。
シリアに残ったアムル人グループは、紀元前15世紀末、レバノン北部に「アムル王国」を作ります。この王国は、当時超大国だったエジプトとヒッタイトに挟まれた緩衝国家として両国からの重圧を強く受けるようになり、最終的にヒッタイトの従属国となります。
その後、紀元前13世紀末までヒッタイトへの従属が続きながらも独立した王国として存続していたのですが、《前1200年のカタストロフ》によるによる社会の混乱によってアムル人の独立国家は消滅しました。
次に言及されているギルガシ人は、ヨルダン川の西に住んでいた人々とされております。一説では、エリコ付近の住民といいます。
エリコは死海の北西部、ヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在ヨルダン川西岸地区に含まれる地域にある町です。古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現していたそうで世界最古の町と評されることもあります。世界で最も標高の低い町でもあります。
最古の町と評されることもありますが、後に現れるメソポタミア文明などの文明とは区別されています。
紀元前3300年頃には周壁を備えた都市が形成されますが、紀元前2300年頃に異民族の来襲によるものと思われる火災にあい、しばらく空白期間となります。
紀元前1900年頃に再び町が建設され、町の領域は初期の壁の外にも拡大します。さらに外側により高い周壁が建設されますが、紀元前1560年頃にヒクソスの侵入にあい、大火災に見舞われて廃墟となってしまいます。やたら火事にあう街ですね…。
その後紀元前1550年頃~紀元前1150年頃には古代エジプトの圧迫を受けたりと、受難が続きます。
現在は、パレスチナ自治区になっています。
ヒビ人は、北メソポタミア及びその東西の地域に居住していたフルリ人と見られています。ヒッタイトのところで少し言及がありましたが、ヒッタイトととても関係があります。
フルリ人は恐らくコーカサス山脈から移住したとされている、紀元前25世紀頃から記録に登場する民族です。当時の彼らは根拠地であるスバルやハブール川流域、北メソポタミアなど、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域のいたるところで小国を築いていました。紀元前2千年紀のオリエントの殆どの地域にフルリ人が居住していたのですが、大半の地域でフルリ人は少数派でした。
フルリ人たちの最初の王国は紀元前3000年紀の終わり頃、ウルケシュ市周辺に建てられた「ウルケシュ王国」です。アッカド帝国が滅びたために、フルリ人がこの地域を支配できるようになったのです。
しかし王国の周辺には強力な隣国がいくつも存在し、紀元前2000年紀初頭にはマリのアムル人王国に征服されました。(つまりエモリ人ですね)
当時メソポタミアでは多くのアムル人の王国による覇権争いが生じておりました。上記で説明致しました、ウル第3王朝滅亡後のお話です。
紀元前18世紀頃には更に別のアムル人王国であったアッシリア(紀元前1813年にアッシリアはシャムシ・アダド1世率いるアムル人に征服された)がマリを支配下に入れ、ハブール川流域のフルリ人居住地帯にシュバト・エンリル(エンリル神の住まい)と呼ばれる首都を建設しました。
居住地を追われたフルリ人たちは西へ移動して、そこでまた自分達の国を作りました。
(現トルコ南部のアララハやアナトリア南東部のキッズワトナなど)
アムル人の国だったヤムハド(現シリア北部・アレッポ)にも住み着きましたが、ここではうまく共存していたみたいです。神殿にはアムル人の信仰するヤムハドの主神・風の神ハダドのほかに、フルリ人の信仰する同様の風の神テシュブが祀られていたそうです。
ヤムハド王国は青銅器時代中期、紀元前19世紀頃から紀元前17世紀後半頃にかけて栄え、最終的に紀元前16世紀にヒッタイトに滅ぼされてしまいます。しかし逆にアナトリアにフルリ文化が伝わり、ヒッタイトは数世紀にわたってフルリ人の文化を取り入れていきました。
ヒッタイトはヤムハドを打ち倒した後南へと拡大を続け、バビロンも破壊しました。
その隙に、フルリ人はまた新しい国を作ります。それがのちにオリエントで最も強力な国となる、ミタンニ王国です。
紀元前1500年頃メソポタミア北部のハブル川上流域を中心に建国されたミタンニは、多民族社会で戦士階級に支配される封建的国家だったといいます。
周辺のフルリ人たちを統一し、東隣のアッシリアも支配下に置き、以後シリアを含むメソポタミア北部を支配しました。
そうして紀元前1450年頃~紀元前1350年頃にはオリエント屈指の強国になったミタンニですけれども、それにはただ他国を攻め滅ぼすだけじゃない、「コツ」があったんですね。
それは《政略結婚》です。かつてイギリスとかオーストリアも使ってた手ですが、こんなに昔からやってたんですね。ミタンニは、他のオリエントの国々に国力の差をつけるために、エジプト王家との繋がりを濃くしたわけです。
〇6代目王アルタタマ1世(紀元前1410年~紀元前1400年頃)が自分の娘をエジプト王トトメス4世と結婚させる
〇 7代目王シュッタルナ2世(紀元前1400年~紀元前1380年頃 )の娘ギルヒパはエジプト王アメンホテプ3世(トトメス4世の子)と結婚
〇9代目王 トゥシュラッタ(ダシャラッタ)(紀元前1380年 ~紀元前1350年頃 )が娘タドゥキパとアメンホテプ3世の政略結婚を打診し、アメンホテプ3世も乗り気だったが結婚する前に死んでしまった。なのでその息子であるアメンホテプ4世とタドゥキパが結婚した
……などなど。
さて、アメンホテプ4世(アクテンアテン)はさっきエジプトのところで出てきましたね。そう、ミタンニの姫タドゥキパはアメンホテプ4世の2番目の后キヤ、あるいは王妃ネフェルティティと同一人物であると言われています。
《アマルナ宗教改革》についてはさっき触れましたが、アメンホテプ4世がなんでいきなり熱狂的アテン神信者になったかは分かっておりません。ただ、まことしやかに語られている説では彼の奥さんの影響でアテン神を広めることになったと言われています。ってことは、フルリ人であるタドゥキパが嫁ぎ先のエジプトに自分のふるさとミタンニの宗教を持ち込んで、それに旦那がダダはまりしてしまったってことですかね。フロイトの説では、それがエジプトにいたユダヤ人にも広まって、ヤハウェになったというわけです。
では、ミタンニの神さまはどんな神さまだったんでしょう。
ミタンニは、言語的にはインドのサンスクリット語にとても近いそうです。つまり文化もインド寄りってことだと思われます。
実はイラン系神話とインド系神話は元々分離していなくて、ひとつの神話だったみたいです。その時代をスィームルグ文化時代(ミタンニ=メディア時代)といいます。立ち位置的にはギリシャ=ローマ神話くらいの近さと考えてよさそう…かも?
ヒッタイトとミタンニとの間で交わされた条約では、インドのヴェーダ神話の神ミトラ、ヴァルナ、インドラやナーサティヤ(アシュヴィン双神)に誓いが立てられておりました。
上記のミトラとヴァルナは古代のイラン・インドの神話共有時代における始源神です。
ミトラは十二人の太陽神(アーディティヤ)の一人で、毎年6月の一カ月間、太陽戦車に乗って天空を駆けるとされています。(イランでは「ミスラ」、名前の意味は「契約」←!)
そしてヴァルナはミトラと表裏一体の、天空神、司法神(=契約と正義の神)と見なされています。
炎の主にして太陽神であるミトラを唯一神として崇めたのが、ミタンニ=メディア時代(前1700~前550年)のミトラ教、つまりミトラ単一神教(原始ミトラ教)のミトラ神話です。
以前天使について色々考えたときに、エノク昇天で生まれた天使メタトロンはミトラトン…つまり太陽神ミトラを元ネタにしたものではないかと書きました、あのミトラ教です。
ミトラ教最大のミトラス祭儀である冬至の後で太陽の復活を祝う12月25日の祭は、キリスト教のクリスマス(降誕祭)の原型とされています。
…前回ニムロドに触れたときには、12月25日はバビロニアの安息日でありニムロドの誕生日と書きましたし、それより前に生け贄の羊について調べたときには古代ギリシャのデュオニュソス祭がクリスマスのモデルと書きましたがこれは如何に。
そこで考えたのですが、これらの神話の時代よりも大昔に決まった《神さまの誕生日》が12月25日で、時代や宗教が変わってもその日にちだけが代々受け継がれてきたのかな、と思います。
一方ヴァルナは、イランのゾロアスター教では最高神アフラ・マズダーとされ、有翼光輪を背景にした王者の姿で表されています。
上記のとおりミトラとヴァルナはニ柱でひとつ、表裏一体の神さまです。「契約」の名を持つミトラが契約を祝福し、ヴァルナが契約の履行を監視し、契約に背いた者には罰を与えます。人間と神の契約を描いた旧約神話のヤハウェが持つキャラクターは、このニ柱を習合して生まれたと考えると納得がいきます。
つまり、タドゥキパ姫がエジプトに嫁に行ってなければミトラとヴァルナの特性を持ったアテン神も生まれなかったし、ひいてはヤハウェも生まれなかった可能性があるわけですな。
……さて、話がまた長くなってしまいました。
そうして政略結婚で力をつけていたミタンニですが、相変わらず周囲の国とドンパチやっていました。紀元前1350年頃にヒッタイトのシュッピルリウマ1世が再びミタンニに攻め込みます。
ネフェルティティのお父さんトゥシュラッタ王は逃げたのですが、息子のひとりに暗殺されてしまいました。哀れ。
次に王様になったアルタタマ2世はトゥシュラッタの政敵でした。彼はシュッピルリウマ1世の擁立でミタンニの新王になり、ヒッタイトと条約を結んで国境線を決めました。
その次の王シュッタルナ3世は、アルタタマ2世の息子でしたが紀元前1330年頃にかつてミタンニの支配下にあった東側のアッシリア王アッシュール・ウバリト1世(紀元前1365年~紀元前1330年)の下でヒッタイトから独立しました。彼はアッシリアから支援をもらえないかなー、と模索してたのですが上手くいかなくて、結局ヒッタイトに撃破されてしまいました。
その次に王様になったトゥシュラッタの弟シャッティワザ(マッティヴァザ)は、これまたヒッタイトのシュッピルリウマ1世の庇護を受けながら即位しました。しかし今度はアッシリアとドンパチやって負けてしまい、以後アッシリアに臣従することになります。
紀元前13世紀には、その他のフルリ人の国も全部異民族によって征服されてしまい、ミタンニを含むハブール川流域はアッシリアの州となりました。
その後、シリアのフルリ人の多くがアラム語やアッシリア語を話すようになり、フルリ語を使用しなくなりました。そうしてゆっくりと他の民族と同化して、フルリ人は終焉を迎えたのです。 青銅器時代の終わりにフルリ人たちに何が起こったのかは明らかではありませんが、もしかしたらまたも《前1200年のカタストロフ》が関係してる…かもしれません。
ちなみにフルリ人が鉄器時代前半までアッシリアの北のスバルの地で生き残ったと主張する学者さんも居ます。
さて、次のアルキ人はレバノン山脈の西の地中海沿岸に定住した民族と言われています。
まだ確認されていないカナン人の一部族の成員を指している可能性もありますが、ベテルという町の南西部アタロトの地域にいた有名な家族もしくは氏族を指している可能性が高いそうです。
その名の起源あるいは現存する証拠として、ベテルの西にあるエイン・アリクという町を挙げる人もいます。
ベテルは「神の家」という意味で、現在のテル・ベイティン(ベイティン遺跡)ではないかと言われております。
現在のパレスチナ自治区ラマッラの北東8㎞、エルサレムから北に19㎞ほどのところにある遺跡で、人口2000人程度の小さな村の中に銅石器時代から始まるテル(遺跡丘) 、谷沿いの墓群、ビザンツ時代以降の塔をともなう遺跡(ブルジュ・ベイティンと呼ばれる)、貯水池、前近代の農耕設備群などがあり、紀元前3500年頃から約百年前までのこの地方の歴史を概観することができます。
以前はルズと呼ばれていました。
ラマッラはパレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区中部に位置する都市でエルサレムの北10kmに位置します。現在のパレスチナ自治政府の事実上の首都でもあります。街の名前は「至高の神」を意味するアラム語をアラビア語に投影したものですが、今日のラマッラは16世紀半ばにキリスト教徒アラブ人がヨルダン川流域に居住し建設したものです。
他に、レバノンのアルカという地名を引き合いに出す人もいます。レバノン北部に位置する地名で、遺跡テル・アルカがあります。
どちらにしてもカナン人…つまりフェニキア人という説になります。
ちなみにイタリアのアルキ(Archi)(人口2330人のイタリア共和国アブルッツォ州キエーティ県のコムーネの一つ)やフランス軍のアルキ(Harki)(アルジェリア戦争でフランス側に協力して戦ったアルジェリア人のこと。元々アラブ語で「運動」を意味するharkaが「機動部隊」と言う意味で使われ始めた)は関係ないようです(爆)
シニ人は詳細不明ですが、多分レバノンのどっかにあったフェニキア人の町なんじゃね?と考えられているようです。
全く関係なさそうですが、クロアチアにシニという町があります。人が住み始めたのは新石器時代頃で、長らくオスマン帝国の支配下にありました。
シニではアルカ(Alka)と呼ばれる伝統的な競技が毎年8月の第1週に行われていて、上記のアルキとはこれまた何の関係もなさそうですが何だか放っとけないのでメモしておきます。
ちなみにアルカは馬に乗った競技者が全速力で駆け抜け地上3.2m上の鉄輪の中心を槍で狙う、流鏑馬みたいな競技です。
次のアルワデ人はフェニキア沿岸最北部の島民と言われています。つまりアルワデ人もフェニキア人です。
アルワデ島は地中海に浮かぶ小さな島で、現在シリアに属しています。 シリア第2の港湾都市・漁港であるタルトゥースの3km沖合にある、シリア唯一の有人島です。
Wikipediaには「アルワード島」で載ってました。
別名ルアド島で旧名はアラドといいます。
紀元前2000年紀の初期、フェニキア人が島に住み始めて、「島」を意味する「アルヴァド」(Arvad)または「ジャズィラット」(Jazirat)という名前の独立王国を作りました。
この街は、君主よりは人民が主権者である国と記録されており、共和国のもっとも古い例の一つとされています。
ツェマリ人は北シリアの町ゼメルの住人といわれておりますが、ゼメルという町についてはネットでは何も出てきませんでした。
トリポリ(多分リビアのトリポリじゃなくて、レバノンのトリポリ。 アラビア語ではタラーブルスと呼ばれてて、Googleマップではタラーブルスで出てきた)とアルワデ(前述のアルワード島と思われる)の間にあるズムラに名残がある、と別のサイトに書いてありましたが、このズムラに関しても特に記述はなかったです。Googleマップでも出てこなかったし。
恐らくゼメルとズムラは同じ町を指してるのかなーと思います。
どうやらゼメルとズィムラーという言葉はヘブライ語で「歌」「賛歌」を示すようですので、もしかしたらツェマリも同義語かもしれません。
トリポリ(タラーブルス)は砂漠の多い地域ですが、古来オリーブなどの果樹と穀物栽培が盛んで、古くから東地中海有数の富裕な港として栄えた町です。
フェニキア人に植民地化され、後にはローマ帝国やビザンティン帝国に併合されてヨーロッパの穀倉地帯になります。第1回十字軍 (1096年~1099年)のときに町が破壊される前は、「ダール・アル=イルム(知識の館)」という大図書館があったそうです。
フェニキア人の植民地であったタラーブルスと、フェニキア人が建国したアルヴァド王国の間にあったということは、きっとゼメルのツェマリ人も民族的にはフェニキア人だったんでしょう。
最後に言及されておりますハマテ人は、北シリアのオロンテス川に沿う町の住人と出てきました。
オロンテス川(またはアラビア語でアースィー川、トルコ語でアスィ川)は、レバノンから出てシリアとトルコを流れる河です。
古代オリエントでは主要な川の一つで、ドラコ川、ティフォン川、アクシオス川とも呼ばれました。アクシオスは地元の呼び名で、これが後にアラビア語の「アシ(アースィー)」へと変化したそうです。「アシ」は「逆らう」という意味で、「流れの激しさ」や「メッカとは逆の方向へ流れるから」などの由来でこう呼ばれるようになったとか。
オロンテス川の渓谷を越えたシリア西部の町ホムス近郊には、現存する世界最古のダム・ホムス湖があります。紀元前1300年頃に建設されたと推定されているホムス湖のダムは、修繕を重ねて現在に至っております。
オロンテス川は流れが急で船が航行できず、川床が浅いので灌漑にもあまり使われませんでした。
じゃあ全然役に立たないじゃないか、というと決してそんなことは無く、南から北へまっすぐ谷が走る地形のため、川沿いの道が昔から各国方面に向かう街道として使われたのです。
北のアナトリアと北東のアッシリアやアルメニア、ダマスカス方面やエルサレム方面や西の地中海方面、更にギリシャ、ペルシャ、エジプトをそれぞれ繋ぐ、大事な道だったわけです。
このため交易都市が川沿いにたくさんできました。また、戦いの場になることもしばしばでした。
ヘテ人の説明のところで出てきた「カデシュの戦い」も、オロンテス川沿いの都市国家カデシュ付近が決戦の場でした。
オロンテス川は自然の境界線としても役立ちました。古代エジプトにとってはアムル人との北の境界線、フェニキアの東の境界線となっていたようです。
そんな重要な川であるオロンテス川の川沿いには、先程も書きました通り交易都市がいっぱい出来たのですが、その中のひとつにハマーという都市があります。
「要塞」の意味を持つ、この「ハマー」という街が、恐らくハマテなのではないかなーと思います。
ハマーはシリア西部のオロンテス川中流にある都市で、北のアレッポ(アムル人とフルリ人のヤムハド王国)と南のダマスカスの間にあり、ダムのあるホムスからは北に当たります。
周囲の平野部は農業が盛んで、ハマー県の面積の3分の1を超える3680平方kmもの広さの農地が広がっており現在シリアで収穫されるジャガイモとピスタチオの半分以上はここで生産されています。
川床が浅いオロンテス川から灌漑を行うためのノーリアという大型水車は、紀元前1100年頃から使われていました。
どうやらこの土地には北メソポタミアのハラフ文化(紀元前5000~6000年のシュメール人文化)の時代くらいから人が住んでいたようです。
ハラフ文化層の上にヒッタイト文化層があり、さらにその上にはアラム文化の層が発見されているので、ここはアラム人の都市だったとみられております。
ハマーはダマスカスとともにシリア内陸部のアラム人国家の中枢を占めており、アラム文字の書かれた数少ない文書はハマーで発見されているそうです。
アラム人はセム・ハム・ヤペテの兄弟のうち、セムの子孫ですので説明は次回に回します。
カナン人の領土は、
シドン(現レバノン・サイダ)からゲラル(現イスラエルのテル・アブ・フレイラ遺跡)に向かってガザ(シナイ半島北東部、東地中海に面するパレスチナの一角)に至り、ソドムとゴモラ( 死海東南部に存在する前期青銅器時代の都市遺跡バブ・エ・ドゥラーとヌメイラ)、アデマ(ソドムとゴモラの姉妹都市。場所不明)とツェボイム( エルサレムの東北東約13kmの所にあるワディ・アブー・ダバー(「ハイエナの父の谷」の意)の可能性あり)に向かってレシャ(場所不明)にまで広がっていきました…と聖書には記してあります。
それだけ広く分布しましたよ、っていうことなのでしょう。
さてさこれまたずいぶん長くなってしまいましたが、やっとハムの子孫ぜんぶ紹介できました。
まとめてみましょう。
《ハムの子孫》
○ クシュ=クシュ王国(北アフリカのヌビア地方/紀元前3100年頃から紀元前2890年頃)、あるいはキシュ(イラク共和国バービル/紀元前3000年くらい)
↓↓↓
クシュの子孫
・セバ=メロエ王国(クシュ王国の遷都後 /紀元前591年~350年頃)、あるいは サバア王国(アラビア半島南西部/紀元前8~紀元前2世紀頃)=※シェバ(?)
・ハビラ=アラビア半島の北部か、エジプトの近く(詳細不明)
・サブタ=ハドラマウト王国の首都サボタ(現イエメン共和国領東部/紀元前8~3世紀)
・ラマ=ランマニテ人(ハドラマウト北方/?)
↓↓↓
ラマの子孫
・・シェバ=サバア王国(※セバの欄参照)
・・デダン =北方アラビア人(アラビアの一部/?)
・サブテカ=?(アラビア南部かエチオピア/?)
★クシュの息子ニムロデとみられる人物・神
①アッシリアの都市ニネヴェを建設したとされるニムス
②アッカドの狩猟農耕の神ニヌルタ
③中アッシリア王国時代アッシリア王 トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:紀元前1244年~紀元前1208年)
④バビロニア王国初代王 ハンムラビ(在位 紀元前1792年頃~紀元前1750年)
⑤ウルク第一王朝王 エンメルカル
○ミツライム=エジプト王国(紀元前3150年以降)
↓↓↓
ミツライムの子孫
・ルデ人=リビア東部の部族←ベルベル人?
・アナミム人=アナミ族(リビア北岸キュレネ)←ベルベル人?
・レハビム人=レハビ族(リビアのどこか)←ベルベル人?
・ナフトヒム人=ナフト族(現エジプト カイロの近く)←ベルベル人?
・パテロス人=エジプト テーベ周辺の部族←ベルベル人?
・カスルヒム人=フィリスティア人(ペリシテ人) ※カフトル人と同一かも
・カフトル人 =フィリスティア人(ペリシテ人)(古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺にミノア島などから移住/紀元前12、13世紀以降)《前1200のカタストロフ》の影響
○プテ=ベルベル人(リビアの先住民/12000年前~)
○カナン=フェニキア人(現レバノン/ 紀元前15世紀頃~)
↓↓↓
カナンの子孫
・シドン(長子)=フェニキア人(現レバノン サイダ/ 紀元前3000年以降)
・ヘテ=ヒッタイト人(アナトリア半島/紀元前1680年頃~紀元前1190年頃)《前1200のカタストロフ》により滅亡=フルリ人?
・エブス人=エルサレムの先住民(エルサレム/紀元前1900年より前~)
・エモリ人=アムル人(シリア地方ビシュリ山周辺~メソポタミア各地/紀元前20世紀~紀元前13世紀末)バビロン王国などが有名、純血のアムル人は《前1200のカタストロフ》で滅亡
・ギルガシ人=エリコ付近の住人(現ヨルダン川西岸地区の町/紀元前8000年紀~)現パレスチナ自治区
・ヒビ人=フルリ人(オリエント全域/紀元前3000年紀の終わり頃~紀元前13世紀)ミタンニ王国が有名、 青銅器時代の終わり頃《前1200年のカタストロフ》をきっかけに衰退?
・アルキ人=フェニキア人(ベテル(現ベイティン遺跡)の西にあるエイン・アリク/紀元前3500年頃~1900年 or レバノン北部アルカ)
・シニ人=フェニキア人(レバノンのどこか)
・アルワデ人=フェニキア人(現シリア アルワード島/紀元前2000年紀の初期以降)
・ツェマリ人=フェニキア人(現レバノン タラーブルスと現シリア アルワード島の間/?)
・ハマテ人=アラム人(シリア西部オロンテス川中流の都市ハマー/紀元前5、6000年以降)
カナン人は現在のレバノン・イスラエル・パレスチナに広がり栄えていったそうな。
ちょうど現在、中東問題でドンパチやっているところですね……。
ここで、一番はじめに聖書を調べ始めたとき、アダムの妻エバの元ネタと思われる神様を信仰していた民族がやっと出てきたところに注目です。
フルリ人の大地母神ヘバトと、エブス人の女神へバ。ともに数あるエバのモデルの一つです。
ミタンニ王国のミトラとヴァルナも含め、この『旧約聖書』神話を作った人々はかなり彼らの文化に影響を受けていたんだな、と改めて思います。
えー、本日の楽曲は、クラシック音楽とは少々ずれてしまうのですが現在研究されているフルリ人音楽です。
シリアの古代都市ウガリットで発掘された、紀元前1400年頃のものと思われる数枚の粘土板に書かれていた歌を、研究家の方がメロディーやリズムや使用楽器などを推測して再現しました。
粘土板はフルリ語(紀元前2300年頃~紀元前1000年頃)で使用するくさび型文字が使用されていて、七分音符の全音階だけではなく、旋律を示すハーモニーが使われています。
https://youtu.be/Brvy4BbK2ZQ
https://youtu.be/9c-hmFN610g
女神ニンガル(別名ニッカル)への賛美を歌った歌詞がついており、おそらく竪琴と歌のよって、式典や祭典など特別な時に演奏される礼拝の讃美歌であろうと推測されています。
ニンガル(またはニッカル)は、シリア・バビロニアで信仰されていた女神で月神ナンナ(スエン)の妻であり太陽神ウトゥ(ヌスク)の母です。イナンナ(イシュタル)の母とされることもあります。
ニッカル女神への礼拝は紀元後1000年紀になってもキリスト教と並行してシリアで確認されていました。
ニッカル信仰が途絶えたのは、イスラム布教が進みだしてからだそうです。
1972年にはカルフォルニア大学古代アッシリア研究の第一人者であるAnne Draffkorn Kilmer教授が「この粘土板は現存するなかで最も古い音楽で、3400年前の礼拝のための讃美歌である」と発表しました。
私が大学生の時は、ギリシャの《セイキロスの墓碑銘》が世界最古の音楽として教えていただきましたが、それより古い音楽が残ってたんですねえ。
ちなみに
《セイキロスの墓碑銘》 紀元前2世紀頃~紀元後1世紀 はこちら。
https://youtu.be/xERitvFYpAk
寝る前に聴くといい感じにリラックスできます。
ではまた次回!
ではハムの子孫紹介、後編に参りたいと思います!
次に名前が挙がっているエモリ人は、紀元前2000年前半に勢力をふるったアムル(アモリ)人と見られています。さっきミツライム…エジプトのヒクソスの話のとこでチラッと出てきましたね。
アムル人を示すアッカド語の「アムル」やシュメール語の「マルトゥ」は元来メソポタミアの西の地域を指す地名で、そこから西の方角のことをアムルもしくはマルトゥと呼ぶようになり、更にメソポタミアから見て西方に位置するシリア地方のビシュリ山周辺を中心に遊牧民として生活していた人々もこの呼称で呼ばれるようになったとのことです。
アムル人たちが記録に登場するのはウル第3王朝時代からです。シュメール人社会に傭兵などの形で入り込んでいた彼らは、次第にメソポタミア周辺地域に定住しはじめます。そんなアムル人をシュメール人たちは《野蛮人》と呼んで疎んでいたらしく、城壁を作ったり武力で撃退したりしていたようです。
しかしアムル人は傭兵や労働者としてメソポタミア全域に浸透し、王朝末期には上級役人に採用されるまでになりました。一方、シュメール人の勢力は弱まり、結果的にアムル人との戦いが王朝の衰退の一因となってしまいました。
ウル第3王朝滅亡後にメソポタミア各地に成立したイシン、ラルサ、バビロン、マリ等の諸王朝はいずれもアムル系の人々によって成立したものです。ただしアムル人が統一した政治集団として活動を起こしたわけではなくて、互いに覇権を争う競合関係にあったようです。
上記のアムル人の王朝の中でも、特に有名なのはバビロンでしょう。
都市国家バビロンの6代目の王であり、古バビロニア王国の初代の王さまが、あのハンムラビです。歴史の教科書に『ハンムラビの法典』で出てきたのを覚えておいでの方もいらっしゃるかと思います。
彼は自らを「アムルの王」と称していたそうで、有名なハンムラビ法典の一説「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理はアムル人の習俗から導入されたものだそうです。
バビロンがハンムラビによって統一されメソポタミア下流域の重要都市になってから、以後のメソポタミア下流域…つまりシュメールとアッカドの地は「バビロニア」と呼ばれるようになったのです。
前回紹介したニムロド王を、ハンムラビとみる説はここから来ているようです。
これらの王がアムル人から輩されてからもアムル人のメソポタミアへの流入は続き、アムル人の人口割合は増加し続けました。
ただしシュメール人やアッカド人の王権や宗教観はそれによって変わることはなく、逆にアムル人たちは彼らの文化を受け入れて同化していきました。紀元前17世紀頃には、バビロニアに移住したアムル人はほぼ現地人と同化し、残ったのは移住せずにシリア地方に残ったグループだけになってしまいました。
シリアに残ったアムル人グループは、紀元前15世紀末、レバノン北部に「アムル王国」を作ります。この王国は、当時超大国だったエジプトとヒッタイトに挟まれた緩衝国家として両国からの重圧を強く受けるようになり、最終的にヒッタイトの従属国となります。
その後、紀元前13世紀末までヒッタイトへの従属が続きながらも独立した王国として存続していたのですが、《前1200年のカタストロフ》によるによる社会の混乱によってアムル人の独立国家は消滅しました。
次に言及されているギルガシ人は、ヨルダン川の西に住んでいた人々とされております。一説では、エリコ付近の住民といいます。
エリコは死海の北西部、ヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在ヨルダン川西岸地区に含まれる地域にある町です。古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現していたそうで世界最古の町と評されることもあります。世界で最も標高の低い町でもあります。
最古の町と評されることもありますが、後に現れるメソポタミア文明などの文明とは区別されています。
紀元前3300年頃には周壁を備えた都市が形成されますが、紀元前2300年頃に異民族の来襲によるものと思われる火災にあい、しばらく空白期間となります。
紀元前1900年頃に再び町が建設され、町の領域は初期の壁の外にも拡大します。さらに外側により高い周壁が建設されますが、紀元前1560年頃にヒクソスの侵入にあい、大火災に見舞われて廃墟となってしまいます。やたら火事にあう街ですね…。
その後紀元前1550年頃~紀元前1150年頃には古代エジプトの圧迫を受けたりと、受難が続きます。
現在は、パレスチナ自治区になっています。
ヒビ人は、北メソポタミア及びその東西の地域に居住していたフルリ人と見られています。ヒッタイトのところで少し言及がありましたが、ヒッタイトととても関係があります。
フルリ人は恐らくコーカサス山脈から移住したとされている、紀元前25世紀頃から記録に登場する民族です。当時の彼らは根拠地であるスバルやハブール川流域、北メソポタミアなど、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域のいたるところで小国を築いていました。紀元前2千年紀のオリエントの殆どの地域にフルリ人が居住していたのですが、大半の地域でフルリ人は少数派でした。
フルリ人たちの最初の王国は紀元前3000年紀の終わり頃、ウルケシュ市周辺に建てられた「ウルケシュ王国」です。アッカド帝国が滅びたために、フルリ人がこの地域を支配できるようになったのです。
しかし王国の周辺には強力な隣国がいくつも存在し、紀元前2000年紀初頭にはマリのアムル人王国に征服されました。(つまりエモリ人ですね)
当時メソポタミアでは多くのアムル人の王国による覇権争いが生じておりました。上記で説明致しました、ウル第3王朝滅亡後のお話です。
紀元前18世紀頃には更に別のアムル人王国であったアッシリア(紀元前1813年にアッシリアはシャムシ・アダド1世率いるアムル人に征服された)がマリを支配下に入れ、ハブール川流域のフルリ人居住地帯にシュバト・エンリル(エンリル神の住まい)と呼ばれる首都を建設しました。
居住地を追われたフルリ人たちは西へ移動して、そこでまた自分達の国を作りました。
(現トルコ南部のアララハやアナトリア南東部のキッズワトナなど)
アムル人の国だったヤムハド(現シリア北部・アレッポ)にも住み着きましたが、ここではうまく共存していたみたいです。神殿にはアムル人の信仰するヤムハドの主神・風の神ハダドのほかに、フルリ人の信仰する同様の風の神テシュブが祀られていたそうです。
ヤムハド王国は青銅器時代中期、紀元前19世紀頃から紀元前17世紀後半頃にかけて栄え、最終的に紀元前16世紀にヒッタイトに滅ぼされてしまいます。しかし逆にアナトリアにフルリ文化が伝わり、ヒッタイトは数世紀にわたってフルリ人の文化を取り入れていきました。
ヒッタイトはヤムハドを打ち倒した後南へと拡大を続け、バビロンも破壊しました。
その隙に、フルリ人はまた新しい国を作ります。それがのちにオリエントで最も強力な国となる、ミタンニ王国です。
紀元前1500年頃メソポタミア北部のハブル川上流域を中心に建国されたミタンニは、多民族社会で戦士階級に支配される封建的国家だったといいます。
周辺のフルリ人たちを統一し、東隣のアッシリアも支配下に置き、以後シリアを含むメソポタミア北部を支配しました。
そうして紀元前1450年頃~紀元前1350年頃にはオリエント屈指の強国になったミタンニですけれども、それにはただ他国を攻め滅ぼすだけじゃない、「コツ」があったんですね。
それは《政略結婚》です。かつてイギリスとかオーストリアも使ってた手ですが、こんなに昔からやってたんですね。ミタンニは、他のオリエントの国々に国力の差をつけるために、エジプト王家との繋がりを濃くしたわけです。
〇6代目王アルタタマ1世(紀元前1410年~紀元前1400年頃)が自分の娘をエジプト王トトメス4世と結婚させる
〇 7代目王シュッタルナ2世(紀元前1400年~紀元前1380年頃 )の娘ギルヒパはエジプト王アメンホテプ3世(トトメス4世の子)と結婚
〇9代目王 トゥシュラッタ(ダシャラッタ)(紀元前1380年 ~紀元前1350年頃 )が娘タドゥキパとアメンホテプ3世の政略結婚を打診し、アメンホテプ3世も乗り気だったが結婚する前に死んでしまった。なのでその息子であるアメンホテプ4世とタドゥキパが結婚した
……などなど。
さて、アメンホテプ4世(アクテンアテン)はさっきエジプトのところで出てきましたね。そう、ミタンニの姫タドゥキパはアメンホテプ4世の2番目の后キヤ、あるいは王妃ネフェルティティと同一人物であると言われています。
《アマルナ宗教改革》についてはさっき触れましたが、アメンホテプ4世がなんでいきなり熱狂的アテン神信者になったかは分かっておりません。ただ、まことしやかに語られている説では彼の奥さんの影響でアテン神を広めることになったと言われています。ってことは、フルリ人であるタドゥキパが嫁ぎ先のエジプトに自分のふるさとミタンニの宗教を持ち込んで、それに旦那がダダはまりしてしまったってことですかね。フロイトの説では、それがエジプトにいたユダヤ人にも広まって、ヤハウェになったというわけです。
では、ミタンニの神さまはどんな神さまだったんでしょう。
ミタンニは、言語的にはインドのサンスクリット語にとても近いそうです。つまり文化もインド寄りってことだと思われます。
実はイラン系神話とインド系神話は元々分離していなくて、ひとつの神話だったみたいです。その時代をスィームルグ文化時代(ミタンニ=メディア時代)といいます。立ち位置的にはギリシャ=ローマ神話くらいの近さと考えてよさそう…かも?
ヒッタイトとミタンニとの間で交わされた条約では、インドのヴェーダ神話の神ミトラ、ヴァルナ、インドラやナーサティヤ(アシュヴィン双神)に誓いが立てられておりました。
上記のミトラとヴァルナは古代のイラン・インドの神話共有時代における始源神です。
ミトラは十二人の太陽神(アーディティヤ)の一人で、毎年6月の一カ月間、太陽戦車に乗って天空を駆けるとされています。(イランでは「ミスラ」、名前の意味は「契約」←!)
そしてヴァルナはミトラと表裏一体の、天空神、司法神(=契約と正義の神)と見なされています。
炎の主にして太陽神であるミトラを唯一神として崇めたのが、ミタンニ=メディア時代(前1700~前550年)のミトラ教、つまりミトラ単一神教(原始ミトラ教)のミトラ神話です。
以前天使について色々考えたときに、エノク昇天で生まれた天使メタトロンはミトラトン…つまり太陽神ミトラを元ネタにしたものではないかと書きました、あのミトラ教です。
ミトラ教最大のミトラス祭儀である冬至の後で太陽の復活を祝う12月25日の祭は、キリスト教のクリスマス(降誕祭)の原型とされています。
…前回ニムロドに触れたときには、12月25日はバビロニアの安息日でありニムロドの誕生日と書きましたし、それより前に生け贄の羊について調べたときには古代ギリシャのデュオニュソス祭がクリスマスのモデルと書きましたがこれは如何に。
そこで考えたのですが、これらの神話の時代よりも大昔に決まった《神さまの誕生日》が12月25日で、時代や宗教が変わってもその日にちだけが代々受け継がれてきたのかな、と思います。
一方ヴァルナは、イランのゾロアスター教では最高神アフラ・マズダーとされ、有翼光輪を背景にした王者の姿で表されています。
上記のとおりミトラとヴァルナはニ柱でひとつ、表裏一体の神さまです。「契約」の名を持つミトラが契約を祝福し、ヴァルナが契約の履行を監視し、契約に背いた者には罰を与えます。人間と神の契約を描いた旧約神話のヤハウェが持つキャラクターは、このニ柱を習合して生まれたと考えると納得がいきます。
つまり、タドゥキパ姫がエジプトに嫁に行ってなければミトラとヴァルナの特性を持ったアテン神も生まれなかったし、ひいてはヤハウェも生まれなかった可能性があるわけですな。
……さて、話がまた長くなってしまいました。
そうして政略結婚で力をつけていたミタンニですが、相変わらず周囲の国とドンパチやっていました。紀元前1350年頃にヒッタイトのシュッピルリウマ1世が再びミタンニに攻め込みます。
ネフェルティティのお父さんトゥシュラッタ王は逃げたのですが、息子のひとりに暗殺されてしまいました。哀れ。
次に王様になったアルタタマ2世はトゥシュラッタの政敵でした。彼はシュッピルリウマ1世の擁立でミタンニの新王になり、ヒッタイトと条約を結んで国境線を決めました。
その次の王シュッタルナ3世は、アルタタマ2世の息子でしたが紀元前1330年頃にかつてミタンニの支配下にあった東側のアッシリア王アッシュール・ウバリト1世(紀元前1365年~紀元前1330年)の下でヒッタイトから独立しました。彼はアッシリアから支援をもらえないかなー、と模索してたのですが上手くいかなくて、結局ヒッタイトに撃破されてしまいました。
その次に王様になったトゥシュラッタの弟シャッティワザ(マッティヴァザ)は、これまたヒッタイトのシュッピルリウマ1世の庇護を受けながら即位しました。しかし今度はアッシリアとドンパチやって負けてしまい、以後アッシリアに臣従することになります。
紀元前13世紀には、その他のフルリ人の国も全部異民族によって征服されてしまい、ミタンニを含むハブール川流域はアッシリアの州となりました。
その後、シリアのフルリ人の多くがアラム語やアッシリア語を話すようになり、フルリ語を使用しなくなりました。そうしてゆっくりと他の民族と同化して、フルリ人は終焉を迎えたのです。 青銅器時代の終わりにフルリ人たちに何が起こったのかは明らかではありませんが、もしかしたらまたも《前1200年のカタストロフ》が関係してる…かもしれません。
ちなみにフルリ人が鉄器時代前半までアッシリアの北のスバルの地で生き残ったと主張する学者さんも居ます。
さて、次のアルキ人はレバノン山脈の西の地中海沿岸に定住した民族と言われています。
まだ確認されていないカナン人の一部族の成員を指している可能性もありますが、ベテルという町の南西部アタロトの地域にいた有名な家族もしくは氏族を指している可能性が高いそうです。
その名の起源あるいは現存する証拠として、ベテルの西にあるエイン・アリクという町を挙げる人もいます。
ベテルは「神の家」という意味で、現在のテル・ベイティン(ベイティン遺跡)ではないかと言われております。
現在のパレスチナ自治区ラマッラの北東8㎞、エルサレムから北に19㎞ほどのところにある遺跡で、人口2000人程度の小さな村の中に銅石器時代から始まるテル(遺跡丘) 、谷沿いの墓群、ビザンツ時代以降の塔をともなう遺跡(ブルジュ・ベイティンと呼ばれる)、貯水池、前近代の農耕設備群などがあり、紀元前3500年頃から約百年前までのこの地方の歴史を概観することができます。
以前はルズと呼ばれていました。
ラマッラはパレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区中部に位置する都市でエルサレムの北10kmに位置します。現在のパレスチナ自治政府の事実上の首都でもあります。街の名前は「至高の神」を意味するアラム語をアラビア語に投影したものですが、今日のラマッラは16世紀半ばにキリスト教徒アラブ人がヨルダン川流域に居住し建設したものです。
他に、レバノンのアルカという地名を引き合いに出す人もいます。レバノン北部に位置する地名で、遺跡テル・アルカがあります。
どちらにしてもカナン人…つまりフェニキア人という説になります。
ちなみにイタリアのアルキ(Archi)(人口2330人のイタリア共和国アブルッツォ州キエーティ県のコムーネの一つ)やフランス軍のアルキ(Harki)(アルジェリア戦争でフランス側に協力して戦ったアルジェリア人のこと。元々アラブ語で「運動」を意味するharkaが「機動部隊」と言う意味で使われ始めた)は関係ないようです(爆)
シニ人は詳細不明ですが、多分レバノンのどっかにあったフェニキア人の町なんじゃね?と考えられているようです。
全く関係なさそうですが、クロアチアにシニという町があります。人が住み始めたのは新石器時代頃で、長らくオスマン帝国の支配下にありました。
シニではアルカ(Alka)と呼ばれる伝統的な競技が毎年8月の第1週に行われていて、上記のアルキとはこれまた何の関係もなさそうですが何だか放っとけないのでメモしておきます。
ちなみにアルカは馬に乗った競技者が全速力で駆け抜け地上3.2m上の鉄輪の中心を槍で狙う、流鏑馬みたいな競技です。
次のアルワデ人はフェニキア沿岸最北部の島民と言われています。つまりアルワデ人もフェニキア人です。
アルワデ島は地中海に浮かぶ小さな島で、現在シリアに属しています。 シリア第2の港湾都市・漁港であるタルトゥースの3km沖合にある、シリア唯一の有人島です。
Wikipediaには「アルワード島」で載ってました。
別名ルアド島で旧名はアラドといいます。
紀元前2000年紀の初期、フェニキア人が島に住み始めて、「島」を意味する「アルヴァド」(Arvad)または「ジャズィラット」(Jazirat)という名前の独立王国を作りました。
この街は、君主よりは人民が主権者である国と記録されており、共和国のもっとも古い例の一つとされています。
ツェマリ人は北シリアの町ゼメルの住人といわれておりますが、ゼメルという町についてはネットでは何も出てきませんでした。
トリポリ(多分リビアのトリポリじゃなくて、レバノンのトリポリ。 アラビア語ではタラーブルスと呼ばれてて、Googleマップではタラーブルスで出てきた)とアルワデ(前述のアルワード島と思われる)の間にあるズムラに名残がある、と別のサイトに書いてありましたが、このズムラに関しても特に記述はなかったです。Googleマップでも出てこなかったし。
恐らくゼメルとズムラは同じ町を指してるのかなーと思います。
どうやらゼメルとズィムラーという言葉はヘブライ語で「歌」「賛歌」を示すようですので、もしかしたらツェマリも同義語かもしれません。
トリポリ(タラーブルス)は砂漠の多い地域ですが、古来オリーブなどの果樹と穀物栽培が盛んで、古くから東地中海有数の富裕な港として栄えた町です。
フェニキア人に植民地化され、後にはローマ帝国やビザンティン帝国に併合されてヨーロッパの穀倉地帯になります。第1回十字軍 (1096年~1099年)のときに町が破壊される前は、「ダール・アル=イルム(知識の館)」という大図書館があったそうです。
フェニキア人の植民地であったタラーブルスと、フェニキア人が建国したアルヴァド王国の間にあったということは、きっとゼメルのツェマリ人も民族的にはフェニキア人だったんでしょう。
最後に言及されておりますハマテ人は、北シリアのオロンテス川に沿う町の住人と出てきました。
オロンテス川(またはアラビア語でアースィー川、トルコ語でアスィ川)は、レバノンから出てシリアとトルコを流れる河です。
古代オリエントでは主要な川の一つで、ドラコ川、ティフォン川、アクシオス川とも呼ばれました。アクシオスは地元の呼び名で、これが後にアラビア語の「アシ(アースィー)」へと変化したそうです。「アシ」は「逆らう」という意味で、「流れの激しさ」や「メッカとは逆の方向へ流れるから」などの由来でこう呼ばれるようになったとか。
オロンテス川の渓谷を越えたシリア西部の町ホムス近郊には、現存する世界最古のダム・ホムス湖があります。紀元前1300年頃に建設されたと推定されているホムス湖のダムは、修繕を重ねて現在に至っております。
オロンテス川は流れが急で船が航行できず、川床が浅いので灌漑にもあまり使われませんでした。
じゃあ全然役に立たないじゃないか、というと決してそんなことは無く、南から北へまっすぐ谷が走る地形のため、川沿いの道が昔から各国方面に向かう街道として使われたのです。
北のアナトリアと北東のアッシリアやアルメニア、ダマスカス方面やエルサレム方面や西の地中海方面、更にギリシャ、ペルシャ、エジプトをそれぞれ繋ぐ、大事な道だったわけです。
このため交易都市が川沿いにたくさんできました。また、戦いの場になることもしばしばでした。
ヘテ人の説明のところで出てきた「カデシュの戦い」も、オロンテス川沿いの都市国家カデシュ付近が決戦の場でした。
オロンテス川は自然の境界線としても役立ちました。古代エジプトにとってはアムル人との北の境界線、フェニキアの東の境界線となっていたようです。
そんな重要な川であるオロンテス川の川沿いには、先程も書きました通り交易都市がいっぱい出来たのですが、その中のひとつにハマーという都市があります。
「要塞」の意味を持つ、この「ハマー」という街が、恐らくハマテなのではないかなーと思います。
ハマーはシリア西部のオロンテス川中流にある都市で、北のアレッポ(アムル人とフルリ人のヤムハド王国)と南のダマスカスの間にあり、ダムのあるホムスからは北に当たります。
周囲の平野部は農業が盛んで、ハマー県の面積の3分の1を超える3680平方kmもの広さの農地が広がっており現在シリアで収穫されるジャガイモとピスタチオの半分以上はここで生産されています。
川床が浅いオロンテス川から灌漑を行うためのノーリアという大型水車は、紀元前1100年頃から使われていました。
どうやらこの土地には北メソポタミアのハラフ文化(紀元前5000~6000年のシュメール人文化)の時代くらいから人が住んでいたようです。
ハラフ文化層の上にヒッタイト文化層があり、さらにその上にはアラム文化の層が発見されているので、ここはアラム人の都市だったとみられております。
ハマーはダマスカスとともにシリア内陸部のアラム人国家の中枢を占めており、アラム文字の書かれた数少ない文書はハマーで発見されているそうです。
アラム人はセム・ハム・ヤペテの兄弟のうち、セムの子孫ですので説明は次回に回します。
カナン人の領土は、
シドン(現レバノン・サイダ)からゲラル(現イスラエルのテル・アブ・フレイラ遺跡)に向かってガザ(シナイ半島北東部、東地中海に面するパレスチナの一角)に至り、ソドムとゴモラ( 死海東南部に存在する前期青銅器時代の都市遺跡バブ・エ・ドゥラーとヌメイラ)、アデマ(ソドムとゴモラの姉妹都市。場所不明)とツェボイム( エルサレムの東北東約13kmの所にあるワディ・アブー・ダバー(「ハイエナの父の谷」の意)の可能性あり)に向かってレシャ(場所不明)にまで広がっていきました…と聖書には記してあります。
それだけ広く分布しましたよ、っていうことなのでしょう。
さてさこれまたずいぶん長くなってしまいましたが、やっとハムの子孫ぜんぶ紹介できました。
まとめてみましょう。
《ハムの子孫》
○ クシュ=クシュ王国(北アフリカのヌビア地方/紀元前3100年頃から紀元前2890年頃)、あるいはキシュ(イラク共和国バービル/紀元前3000年くらい)
↓↓↓
クシュの子孫
・セバ=メロエ王国(クシュ王国の遷都後 /紀元前591年~350年頃)、あるいは サバア王国(アラビア半島南西部/紀元前8~紀元前2世紀頃)=※シェバ(?)
・ハビラ=アラビア半島の北部か、エジプトの近く(詳細不明)
・サブタ=ハドラマウト王国の首都サボタ(現イエメン共和国領東部/紀元前8~3世紀)
・ラマ=ランマニテ人(ハドラマウト北方/?)
↓↓↓
ラマの子孫
・・シェバ=サバア王国(※セバの欄参照)
・・デダン =北方アラビア人(アラビアの一部/?)
・サブテカ=?(アラビア南部かエチオピア/?)
★クシュの息子ニムロデとみられる人物・神
①アッシリアの都市ニネヴェを建設したとされるニムス
②アッカドの狩猟農耕の神ニヌルタ
③中アッシリア王国時代アッシリア王 トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:紀元前1244年~紀元前1208年)
④バビロニア王国初代王 ハンムラビ(在位 紀元前1792年頃~紀元前1750年)
⑤ウルク第一王朝王 エンメルカル
○ミツライム=エジプト王国(紀元前3150年以降)
↓↓↓
ミツライムの子孫
・ルデ人=リビア東部の部族←ベルベル人?
・アナミム人=アナミ族(リビア北岸キュレネ)←ベルベル人?
・レハビム人=レハビ族(リビアのどこか)←ベルベル人?
・ナフトヒム人=ナフト族(現エジプト カイロの近く)←ベルベル人?
・パテロス人=エジプト テーベ周辺の部族←ベルベル人?
・カスルヒム人=フィリスティア人(ペリシテ人) ※カフトル人と同一かも
・カフトル人 =フィリスティア人(ペリシテ人)(古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺にミノア島などから移住/紀元前12、13世紀以降)《前1200のカタストロフ》の影響
○プテ=ベルベル人(リビアの先住民/12000年前~)
○カナン=フェニキア人(現レバノン/ 紀元前15世紀頃~)
↓↓↓
カナンの子孫
・シドン(長子)=フェニキア人(現レバノン サイダ/ 紀元前3000年以降)
・ヘテ=ヒッタイト人(アナトリア半島/紀元前1680年頃~紀元前1190年頃)《前1200のカタストロフ》により滅亡=フルリ人?
・エブス人=エルサレムの先住民(エルサレム/紀元前1900年より前~)
・エモリ人=アムル人(シリア地方ビシュリ山周辺~メソポタミア各地/紀元前20世紀~紀元前13世紀末)バビロン王国などが有名、純血のアムル人は《前1200のカタストロフ》で滅亡
・ギルガシ人=エリコ付近の住人(現ヨルダン川西岸地区の町/紀元前8000年紀~)現パレスチナ自治区
・ヒビ人=フルリ人(オリエント全域/紀元前3000年紀の終わり頃~紀元前13世紀)ミタンニ王国が有名、 青銅器時代の終わり頃《前1200年のカタストロフ》をきっかけに衰退?
・アルキ人=フェニキア人(ベテル(現ベイティン遺跡)の西にあるエイン・アリク/紀元前3500年頃~1900年 or レバノン北部アルカ)
・シニ人=フェニキア人(レバノンのどこか)
・アルワデ人=フェニキア人(現シリア アルワード島/紀元前2000年紀の初期以降)
・ツェマリ人=フェニキア人(現レバノン タラーブルスと現シリア アルワード島の間/?)
・ハマテ人=アラム人(シリア西部オロンテス川中流の都市ハマー/紀元前5、6000年以降)
カナン人は現在のレバノン・イスラエル・パレスチナに広がり栄えていったそうな。
ちょうど現在、中東問題でドンパチやっているところですね……。
ここで、一番はじめに聖書を調べ始めたとき、アダムの妻エバの元ネタと思われる神様を信仰していた民族がやっと出てきたところに注目です。
フルリ人の大地母神ヘバトと、エブス人の女神へバ。ともに数あるエバのモデルの一つです。
ミタンニ王国のミトラとヴァルナも含め、この『旧約聖書』神話を作った人々はかなり彼らの文化に影響を受けていたんだな、と改めて思います。
えー、本日の楽曲は、クラシック音楽とは少々ずれてしまうのですが現在研究されているフルリ人音楽です。
シリアの古代都市ウガリットで発掘された、紀元前1400年頃のものと思われる数枚の粘土板に書かれていた歌を、研究家の方がメロディーやリズムや使用楽器などを推測して再現しました。
粘土板はフルリ語(紀元前2300年頃~紀元前1000年頃)で使用するくさび型文字が使用されていて、七分音符の全音階だけではなく、旋律を示すハーモニーが使われています。
https://youtu.be/Brvy4BbK2ZQ
https://youtu.be/9c-hmFN610g
女神ニンガル(別名ニッカル)への賛美を歌った歌詞がついており、おそらく竪琴と歌のよって、式典や祭典など特別な時に演奏される礼拝の讃美歌であろうと推測されています。
ニンガル(またはニッカル)は、シリア・バビロニアで信仰されていた女神で月神ナンナ(スエン)の妻であり太陽神ウトゥ(ヌスク)の母です。イナンナ(イシュタル)の母とされることもあります。
ニッカル女神への礼拝は紀元後1000年紀になってもキリスト教と並行してシリアで確認されていました。
ニッカル信仰が途絶えたのは、イスラム布教が進みだしてからだそうです。
1972年にはカルフォルニア大学古代アッシリア研究の第一人者であるAnne Draffkorn Kilmer教授が「この粘土板は現存するなかで最も古い音楽で、3400年前の礼拝のための讃美歌である」と発表しました。
私が大学生の時は、ギリシャの《セイキロスの墓碑銘》が世界最古の音楽として教えていただきましたが、それより古い音楽が残ってたんですねえ。
ちなみに
《セイキロスの墓碑銘》 紀元前2世紀頃~紀元後1世紀 はこちら。
https://youtu.be/xERitvFYpAk
寝る前に聴くといい感じにリラックスできます。
ではまた次回!
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