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音楽とお酒と歴史探索が趣味です。色々書きなぐってます。
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赤澤 舞
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女性
職業:
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趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。

一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿

音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。

レトロゲームや特撮も好物です。

ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
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2017/08/16 (Wed)
こんにちは!

ちょっとスマホの故障やら何やらでデータがふっとんでしまい、だいぶ間が開いてしまいました。
しかしまだまだ地道に読み続けてはおります。どうぞご興味おありの方はお付き合いください。


※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。



○第十一章

このころ全ての地は同じ言葉を話していました。
この時に人々は東の方に移動してきて、シヌアルの地に平野を見つけて、そこに定住しました。
彼らは互いに言いました。「さあ、れんがを造ってよく焼こう。」こうして彼らは石のかわりに、れんがを、粘土のかわりに、瀝青を使うようになりました。
そのうちに彼らはこう言うようになりました。「さあ、我々は町を建て、頂が天に届く塔を建てて名を上げよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
そのとき主は人間の建てた町と塔を見るために下りてこられました。
主はこう言いました。「彼らがひとつの民で、ひとつの言葉だからこういうことをしたのなら、彼らがしようとする事はもはや何事もとどめ得ないだろう。
さあ、(われわれは)下りて行って、そこで彼らの言葉を混乱させ、互いに言葉が通じないようにしよう。」
こうして主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らは町を建てるのをやめました。
このため、その町はバベルと呼ばれました。主がそこで全地の言葉を混乱させ、彼らを全地に散らされたからです。

セムの系図は次のとおりです。セムは百歳になって洪水の二年の後にアルパクシャデを生みました。
セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生きて、息子と娘たちを生みました。
アルパクシャデは三十五歳になってシェラフを生みました。
アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生きて、息子と娘たちを生みました。
シェラフは三十歳になってエベルを生みました。
シェラフはエベルを生んで後、四百三年生きて、息子と娘たちを生みました。
エベルは三十四歳になってペレグを生みました。
エベルはペレグを生んで後、四百三十年生きて、息子と娘たちを生みました。
ペレグは三十歳になってレウを生みました。
ペレグはレウを生んで後、二百九年生きて、息子と娘たちを生みました。
レウは三十二歳になってセルグを生みました。
レウはセルグを生んで後、二百七年生きて、息子と娘たちを生みました。
セルグは三十歳になってナホルを生みました。
セルグはナホルを生んで後、二百年生きて、息子と娘たちを生みました。
ナホルは二十九歳になってテラを生みました。
ナホルはテラを生んで後、百十九年生きて、息子と娘たちを生みました。
テラは七十歳になってアブラムとナホルとハランを生みました。

 テラの系図は次のとおりです。
テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生みました。
ハランは父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤのウルで死にました。
アブラムとナホルは妻をめとりました。アブラムの妻の名はサライといいます。ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘です。ハランはミルカの父、またイスカの父でした。
サライは不妊の女で、子がいませんでした。
テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤ人のウルを出ましたが、ハランに着いてそこに住みつきました。
テラの年は二百五歳でした。テラはハランで死にました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

やっとこ話が先に進みまして、有名な《バベルの塔》のお話です。前回まで半年かけて読んだ十章の情報が、ここで役に立つわけですな。

この章によりますと、世界中全ての人々が同じ言葉をしゃべっていたという時代に(ほんとにそんな時代があったかは置いといて)ひとつところにかたまって住んでいた人々の中から
「引っ越ししよう!!」
という一団が現れたようです。
彼らが住み着いたのは、ノアが大洪水から逃れてから代々住んでいた土地から東にある《シヌアル》というところ。十章の、クシュの息子ニムロデについて記述があった土地で、今のイラクあたりです。
そのあたりの平地というと、チグリス川とユーフラテス川のまわりに広がるメソポタミア平原のことだと思われます。豊かな土と水に恵まれたこの土地は、農耕に最適でした。

さて、山暮らしが長らく続いたノアの一族の人々(方舟が流れ着いたのがアララテ山なので、そこからさほど移動はしなかったと仮定)が、さぁ平地に住もうとなったとき、困ったことがありました。
山には石やら粘土やらがたんまりあったもので家を作る材料には困らなかったのですが、平原には草と土しかありません。
そこで、彼らは考えました。

「無いならば 作ってしまおう 建築材」

彼らは土を型に入れ、固めて作る建材を発明しました。煉瓦(れんが)です。歴史的にも、煉瓦が使われるようになったのはメソポタミア文明からだとウィキペディア先生に書いてありました。
紀元前4000年からの約1000年間は、乾燥させただけの日干し煉瓦が使用されていたそうです。焼いて作る焼成煉瓦が使われるようになったのは紀元前3000年から。つまりこの物語の舞台は紀元前3000年あたりというわけですな。

レンガ造りの建物は、日本(北の地方を除く)の気候では暑くて仕方ない上に地震に弱いという弱点がありますけれども、 昼間は灼熱、夜は氷点下という砂漠気候の土地には最適です。

煉瓦は内部に無数の気泡があるためそれ自体に断熱効果があり、耐熱性能と蓄熱性を持っています。外気の熱や寒さを一旦取り込み、約10時間後に放出するという特性があるので、昼間は涼しくて夜はあったかい、というわけです。しかも丈夫なのでメンテナンスもいりません。

ちなみに粘土のかわりに使われるようになったという瀝青とは、アスファルトのことです。石油を精製したものに、骨材や砂などを混ぜて使います。
天然アスファルトも紀元前3000年前には使われていて、エジプトではミイラの防腐剤としても使用されたそうな。

こうして人間は、《材質》を発明して作り始めました。つまり建築に使える硬さの石や最適な粘土を探して歩き回ったり、また長い距離を運んだりする必要がなくなります。建物を建てる時間がかなりショートカットされ、たくさん作れるようになりました。
この一文だけで、かなりの技術革新が伺えます。

人間的には万々歳ですけれど、思い出してください。《主》が与えた万物のものを人間が勝手に加工するのは、《主》にとってかなり不愉快なことだという前提がありました。
エノクの町の繁栄やら何やらが積もり積もって、あの大洪水が起きたわけです。

そんなわけですから、新素材を使うようになった人間たちを主はきっとイライラしながら見下ろしていたことでしょう。
その上、人間たちは
「町を作って、天まで届くでっかい塔を作ろう!」
と言い始めました。主は作業中の彼らをわざわざ見に下界へ「降りて」きました。
たぶん、主が自ら人間の方にわざわざ来たのってこの時が初めてだと思います。しかも「降りてきた」ってことは上の方にお住まいだったんですね。
とにかく、その目で実態を見た主は
「えー、もうこうなっちゃったら止められないじゃん。しょうがない、言葉を通じなくさせちゃえ。」
と人間たちの言葉をバラバラにしてしまいました。

このお話には、色々な解釈があるみたいです。
もちろんキリスト教的な解釈は読んだんですが、なんかよく理解できなかったです(汗)いや、意味はわかるんですけども。
曰く、「産めよ増やせよ地に満ちよ」という神さまの命令に反してひとつところに留まろうとしたこと、更には神さまのところくらい高い建物を建てることで神さまと同等の力(すなわち科学力?技術力?)を手に入れようとした…とのことです。神さまと同じ存在になれれば、言いなりになって流浪しなくてよくなる、と考えた人間たちの驕りと神への不信に主は怒ったと。
まあ理由のひとつの可能性ではあるかもしれません。

そもそも人間たちは「なぜ」塔を作ろうと思ったのでしょうか?

《自分たちが散らされないように、名を上げるため》だと、人間たちは自分たちが塔を建てようとした理由として話しています。
ここで「誰に」散らされることを恐れていたのか?という疑問が出てきます。
キリスト教の解釈ですと、その対象は神さまだったわけなのですが…「名を上げる」ということが有効な対策になると思われる相手だったということですので、なんか違和感。

人は何故塔を作るのでしょうか?
ただ有名になりたいだけなら、別に作るものは塔じゃなくても良いと思うのですが…。
そもそも、塔とは何なのか。

たすけてー、Wikipedia先生ー。

というわけで、以下Wikipedia先生による『塔』の情報(※仏教的なものは除く)

『塔(とう)とは、接地面積に比較して著しく高い構造物のことである。

西洋建築の世界では、見張り台というような軍事的目的とともに、宗教的な意味を持つ建造物を指す。

(中略)

tower の語源は、ドイツ語の Turm (トゥルム)やフランス語の tour (トゥール)、イタリア語 torre (トッレ)などと同様、ラテン語 turrem (トゥルレム)< turris (トゥルリス、意味: high structure、palatium、arx、高層建造物、(古代ローマの七つの丘の)大宮殿、城塞)に由来する。それはさらに古く、古代ギリシア人がエトルリア人を指して呼ぶところの Τυρρήνιοι (Turrēnoi、英: Tyrrhenians、テュレニア人)という言葉に起源を見ることができる。また、漢字の「塔」と同様にサンスクリット語の stūpa との関連性が指摘されることもあるが、定かではない。

(中略)

仏教文化圏以外の地域、すなわち、中近東や欧米、古代アメリカなどでは、見張り台というような軍事的目的とともに宗教的な意味を持つ建造物である。 つまり、地上と天上を結ぶ象徴としてのモニュメントの側面を持つ。 したがって、単なる高い建物というわけではなく、人を天上へと運ぶというような意味もある。 このため、人が立ち入ることを前提とし、単に構造物の目的機能を満たすために高くなった構造物、例えば「煙突」は塔と呼ばない。

(中略)

塔の定義は不明確であり、よって、ここでの分類は一つの目安でしかない事に留意。

1. モニュメントとしての塔
西洋の塔は地上と天上とをつなぐ建造物という意味が色濃く、人間が中に立ち入ることができることも求められる。
宗教の目的が薄れ、戦勝や建国など世俗的な記念のモニュメントとしての塔が造られることもあった。さらには、都市のランドマークとしての塔も近代以降は顕著である。

2. 信仰の家としての塔
東南アジア文化圏における「塔」は、モニュメントの性格を持ちつつも、人々が訪れる事のできる釈迦の住居であり、聖域である。

3. 情報伝達としての塔
キリスト教会に見られる「鐘塔」や、イスラム教のモスクの「ミナレット」は宗教上のモニュメントの性格を持つ一方で、信者に対して祈りの時間を知らせるための機能を併せ持っていた。このため、できる限り広範囲に届くように高さが求められた。近代においては、時計塔が登場した。現代においては、テレビ放送などの情報送信を目的とした電波塔もこれにあたる。

4. 搬送手段としての塔
送電線や通信線を地上から分離するために、電線を支えるための鉄塔がある。給水塔は塔の頂にタンクを置き、塔の高さから得られる位置エネルギーを送水圧に変換して広範囲に水を供給する目的で設置される。蒸留塔は混合物を塔のなかで移動させ、加熱蒸発・冷却凝縮することで各成分を分離する目的を持つ。

5. 監視としての塔
軍事目的として西欧その他の城壁に設けられた監視および防御のための構造物はしばしば「塔(turris、torre、tower、など)」と呼ばれた。空港における管制塔などもここに分類できる。

6. 展望、観光用の塔
他目的の塔も展望用に開放されていることがあるが、もっぱら展望用に設置された塔もある。展望塔参照。
※なお、高層ビルの名称・愛称に「タワー」という語が付されることもある(横浜ランドマークタワー、JRタワーなど)が、建物の構造からすると普通は本稿で述べられるようなタワー・塔とは区別される。


(中略)


旧約聖書の『創世記』には、バベルの塔が登場する。 バベルの塔は、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせようとする野望の実現と、それに対して主の与えた罰の寓話である。

そのモデルになったのは、メソポタミアの新アッシリア王国の首都ドゥール・シャルキン(現・コルサバード Khorsabad 村近郊)に建築されたジッグラトであるとも言われている。 ジッグラトは、メソポタミア文明も最初期にあたるウル王朝時代に成立した、日干し煉瓦で造られる伝統的な立方体の大規模な塔であった。 多層のテラスを階段や斜路で結び、最上段に神殿や祭壇を設置してあった。 ドゥール・シャルキンのジッグラト(コルサバードのジッグラト)は高さ約42mの、しかし、高層と言うよりむしろ巨大との形容に相応しい一大建築物であった。

古代エジプトのパイロン
古代エジプトでは、神殿の門が2つの塔に挟まれたかたちをとっていた。 この形式をパイロン(塔門)と呼ぶが、現在でもルクソール神殿やエドフ神殿など主な神殿遺跡でそれらを確認することができる。

また、古代ギリシア人が「オベリスク」と呼び、後世、ヨーロッパ社会でモニュメントとして転用されることともなる、四角錘の記念塔が神殿の入り口などに設置された。 これは太陽神信仰と関係し、聖なる石「ベンベン」が発展したものとも考えられている。

(以下省略)』


……………………

Towerの語源であるエトルリア人は、イタリア半島中部の先住民族です。ヤペテの子孫のひとり、ティラスについて調べたとき出てきましたね。
まあそれは置いといて。


えー、つまり

まず西洋においての『塔』(とう)の定義をまとめますと、

・縦に長い建物
・中に人が入れる

ことが条件で、目的としては

・地上と天上とをつなぐ建造物という宗教的な意味プラス、祈りの時間を知らせる機能
・戦勝や建国など世俗的な記念のモニュメント
・見張り台など軍事的目的
・展望、観光用

などで作られたもの、ということです。

バベルの塔がなんの目的の塔なのかは具体的に明記されていませんので、妄想し放題ですね!(爆)
もちろん聖書の性質上、宗教的な意味をもって建てられたことに一般的にはなっていますけど。

たとえば。

妄想①
シヌアルに住み着いた人々はレンガを使って町と、その町ができた記念の塔を建てました。とても高い塔を作れば、町の豊かさのアピールになります。食べていくのがやっとの町には、でっかい建物なんて作ってる余裕は無いはずですからね。
高い塔は遠くからでも目立つし、キャラバンの旅人たちの目に留まれば彼らも住みはじめるかもしれません。町が豊かなら、人が集まってきます。物流が生まれ、交易も行われ、物も集まってきます。つまりこの町に居れば大抵のものは手にはいるようになり、わざわざ他の地方まで出かけなくても良くなるわけです。
町の中だけで経済が回るから、バラバラになる必要がありません。というわけで、《全地に散らされ》ずに自分達の民族を繁栄させることができる!と彼らは考えたのでした。

妄想②
シヌアルに住み着いた人々はレンガを使って町と、その町を守るために見張りの塔を建てました。肥沃なこの土地で築いたたくさんの富を、他の町の人々や盗賊たちに横取りされるわけにはいかないからです。
平地の中の町なので、高い塔の上から見れば攻めてくる敵はすぐにわかります。天まで届く塔ならば、もっともっと早く気付けます。それから戦いの準備をし始めても十分間に合うというわけです。いつでも戦いの準備があれば、よその町と戦いになっても絶対に負けません。町の民が奴隷になって、あちこちに連れていかれることもなくなります。つまり《全地に散らされ》ないために、必要なものだ!と彼らは考えたのでした。

妄想③
シヌアルに住み着いた人々はレンガを使って町と、町の名物になるような観光用の塔を建てました。町の繁栄のためには、他の土地からたくさんお客さんが来てくれる必要があるからです。
この町は平地のど真ん中にあるので、高い塔は遠くからでも目立ちます。旅人たちは物珍しい塔に惹かれてやって来て、この町で飲み食いなどして町の豊かさを体感するでしょう。そしてまた旅立って、他の町を立ち寄ったときや、他の旅人に会ったときに言うのです。「この前シヌアルという平地でたまたま立ち寄った町は、天国のようなところだったよ。水も食べ物もたっぷりあって、人はみんな親切だ。とても高い塔が建っていて遠くからでもわかるから、君も行ってみるといい。」そして旅人の間で評判になった町は、毎年大量の観光客を迎える観光地として《名をあげる》ことになるだろう!と彼らは考えたのでした。



………………ちょっと世俗的すぎかもしれませんが。
でも、私の妄想ですと《自分たちが散らされないように、名を上げるため》に塔を建てようとしていた人間たちの心理が納得いくんですなー。まあ自己満足なんで聞き流して頂いて構わないのですが。

要は、私はこの塔は【人のため】に建てられたものだと思うわけです。巨大な建造物を作るために協力するのも、塔によって威嚇したりアピールする相手も、同じ【人間】だからこそ、神さまは人間たちの団結と町の発展に危機感を覚えたのかもしれません。人間の中でことがおさまってしまうと、神さま必要なくなっちゃいますからね。どっちかというとこれが《不信》や《驕り》のような気もします。
一度このような事態に陥ってしまったら、もう止められないと神さまも悟ったみたいです。
言葉を通じなくするっていうのも、そりゃ最初は混乱するでしょうけども根本的な解決にはなってないので、ただの延命措置に思えます。人間はあたらしい技術や富を手に入れたり、国を作って地位を得るたびに、神さまから離れていくというジレンマにこの先ずっと捕らわれることになります。


さて、町と塔の建設という共通目的のもと団結していた人々は、言葉がいきなり通じなくなってしまったために工事を断念せざるを得なくなりました。工事現場で意志疎通が困難だったら、作業にならないですからね。
やがて経済も回らなくなっていったのでしょう、作りかけの町を放置して、みんな出ていってしまいました。作りかけで放置された町は《バベル》と呼ばれるようになりました。
アッカド語ではバベルは《神の門》という意味ですが、ヘブライ語では《混乱、ごちゃまぜ》という意味になります。言葉が通じなくなってしまった人々の混乱ぶりが伺えます。
《散らされないように》対策で作った塔のために散らされることになってしまうとは、なんというか皮肉なものですね。


さて、先程塔についての情報を調べたとき、Wikipedia先生はこのバベルの塔のモデルも教えてくれましたね。
新アッシリア王国(紀元前934~紀元前609年)の首都、ドゥール・シャルキン(現・コルサバード村近郊)のジッグラトだと書いてありました。

でもこれにも諸説あって、都市バビロン(紀元前3000年紀末~紀元前130年代)にあったジッグラトが伝説化したものだ、という説もあります。

ジッグラトというのは古代メソポタミアで造られていた、日乾煉瓦を使って数階層に組み上げて建てられた巨大な聖塔のことで、「高い所」という意味があります。シュメール語では「エ・ウ・ニル(驚きの家)」と言いまして、一般に地上の神殿又は神殿群に付属しながらジッグラトの頂上にも神殿を備えているそうな。神の訪れる人工の山としてメソポタミアの諸都市に建造されたと考えられていますが、機能的には不明な点も多いらしいです。
一番最初に、メソポタミアで都市や神殿の建設が始まったと見られているのが紀元前5000年頃。メソポタミア南部の都市エリドゥができました。
その少しあと、シュメール・アッカド時代と呼ばれる紀元前3000年期に都市の重要な展開がみられ、ジッグラトもこの頃に現れます。
王さまがいる都市を中心とする専制体制の社会だった当時のメソポタミアでは《大規模な建造物》は王の力の象徴だったようです。エジプトのピラミッドと同じ理屈ですね。

ドゥール・シャルキンのジッグラトは、紀元前8世紀末にアッシリア帝国時代にサルゴン2世によって造営されたものです。ちょーっと時代が下りすぎてる気がするから、やっぱりバベルの塔はバビロンのジッグラトが元ネタなんじゃないの?と思います。
まあその年代でいきますと、塔が作られ始めたのは紀元前3000年くらいということになりますな。

第9章でノアが大洪水後にぶどう栽培を始めた時期を、メソポタミアでのぶどう栽培の歴史から紀元前4000年頃と仮定しましたが。
この流れでいきますと、シヌアルの地で塔の建設が試みられ始めたのが紀元前3000年頃なので、ノアから1000年後です。…うん、なんか辻褄が合ってる気がする。

ちなみに一般的には、クシュの息子ニムロデが塔の建設を指示したのではないかという説が唱えられています。
彼はシヌアルの地にあったバベル(バビロン)、エレク(ウルク)、アカデ(アッカド)の王だったと聖書に記載されていますので、バベルの王だった彼が建設を指示したとしても何ら不思議はありません。
ただそうなると、何人かのニムロデのモデル候補たちの年代とは合わないので、伝説として創作されたのかも。

一応メモ。

①アッシリアの都市ニネヴェを建設したとされるニムス… 実在した一人の人物を指しているのではなく、古代の複数の人物や架空の人物の集まりである可能性が高い。 ただし彼が寵愛したというセミラミス(ニムロデの妻としても伝わっている)のモデルが紀元前9世紀のアッシリア王シャムシ・アダド5世の王妃シャムラマット(在位:紀元前811年~紀元前808年、または紀元前809~紀元前792年)なので、ニムス王の伝説もこのあとにできた可能性あり

②アッカドの狩猟農耕の神ニヌルタ…元来はシュメール地方を中心としてまつられた大地の神で農業や狩猟などの豊穣をつかさどっていたが、都市国家間の争いが激しかった紀元前3000年紀頃から狩猟から戦闘の神として崇められるようになった。ニムロドの名前の元ネタ。

③中アッシリア王国時代アッシリア王 トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:紀元前1244年~紀元前1208年)

④バビロニア王国初代王 ハンムラビ(在位:紀元前1792年頃~紀元前1750年)

⑤ウルク第一王朝王 エンメルカル…ウルク第一王朝のひとつ前の、キシュ第一王朝が没落したのが紀元前2700年頃で、その次のウルク第一王朝の有名な王ギルガメシュが紀元前2600年頃の王と考えられているので、この間の期間で王さまだった人物と思われる。


ほかにも、バベルはエリドゥをモデルにした町なのではないかという説もあります。
現在のイラク南部の、テル・アブ・シャハライン遺跡がエリドゥとされています。
デイヴィッド・ロールさんというイギリスの考古学者さん(元ロックミュージシャン!)などが唱えている説だそうです。

エリドゥは、さっきジッグラトについて調べたとき出てきた、メソポタミアで最初に都市や神殿の建設が始まったと見られている土地です。メソポタミアの初期王朝時代の最初に王権があったのもこのエリドゥです。 紀元前5000年頃に形成され、紀元前2050年頃に衰退したとされているこの都市は、ウバイド文化からシュメール文化に渡って栄えました。エリドゥの都市神エンキ(アダムとイブのところで出てきた)を祀るための神殿が、1000年以上にわたって拡張されていた跡があるそうです。

バベルの塔がエリドゥのジッグラトだと思われる理由としては、

・エリドゥのジッグラトの遺跡が他の都市のものと比べてはるかに大きく、年代も古く、かつ聖書における未完成のバベルの塔の描写に適合していること

・エリドゥを表すシュメール語の文字のひとつである「ヌン・キ」(「強力な場所」の意)が後世ではバビロンを表すものとして理解されていた点

・ベロッソス(紀元前3世紀はじめに活躍したヘレニズム期バビロニアの著述家)によるギリシャ語の王名表の古い版において、「王権が天から下された」最古の町の名前として、「エリドゥ」の代わりに「バビロン」の名が記されている点

などが挙げられています。

とにもかくにも、人が初めて協力して造ろうとした町は打ち捨てられて、人々は散り散りになってしまいました。

さて、そのお話の次からは前回の10章の続きの家系図になっております。
ノアの息子のひとり、セムの子孫に焦点を絞って詳しく書いてあります。
まとめると、


セム(享年602歳)…洪水時100歳、102歳でアルパクシャデ誕生

アルパクシャデ(享年438年)…35歳でシェラフ誕生

シェラフ(享年433歳)…30歳でエベル誕生

エベル(享年464歳)…34歳でペレグ誕生

ペレグ(享年239歳)…30歳でレウ誕生

レウ(享年239歳)…32歳でセルグ誕生

セルグ(享年230歳)…30歳でナホル誕生

ナホル(享年148歳)…29歳でテラ誕生

テラ(享年205歳)…70歳でアブラムとナホルとハラン誕生


こうしてみますと、だんだん寿命が短くなってるのがわかります。第6章で神さまが「人の寿命は120年にしよう」と言ったのに近づいていますね。それも、洪水後に生まれた子たちからどんどん進んでいったような。
やっぱり遺伝子操作か…?洪水によって酸素濃度が薄くなったからか…?
あと、子供を作る年が現代の人間とほぼ同じになったことにも注目です。セムより前の人々は余裕で100歳越えで子供つくってました。

初登場のキャラが何人かおりますね。

レウ(「彼の友人・彼の羊飼い」の意)

セルグ(「低い枝・ねじれ」」の意)

ナホル(「鼻を鳴らす」の意)

テラ(「月」「口臭を爆破する(?)」の意)

「テラ」はラテン語では「陸地・地球・月や金星や火星の大陸」を指しますが、元々は「月」をあらわす言葉だそうです。
テラバイトとかの「テラ」は違う語源で、ギリシャ語で「怪物」です。
もうひとつの、口臭がうんちゃらいうのはよく解りません(^_^;)名前の意味サイトで調べたら出てきましたので、一応載せました。

次のお話の主人公はこのテラの家族のようです。

テラ一家は、カルデア(メソポタミア南東部)のウルという町に住んでいました。
ウルはシュメール人の主要都市で、現在のイラク首都バグダードから約300km南東のところにあります。紀元前4000年紀あたりから都市として拡張をはじめ、ウル第一王朝(紀元前2650~紀元前2400年)とウル第三王朝(紀元前2130~紀元前2021年)の時期はメソポタミア南部一帯の首都となった町です。
つまりは、とっても豊かな町だったわけですな。

ちなみにウルの都市神は月の神ナンナ(アッカド神話ではシン)です。アッカド時代には、メソポタミア緒王のお姫さまがナンナの神官となって月神に仕えるという習慣が生まれました。
またウルと並んで、メソポタミア北部のハランもシンの祭儀の中心だったそうな。
月を司るナンナは大地と大気の神として、また満ち欠けの性質から暦を司る神としてメソポタミアで大人気でした。
最高神エンリル(嵐の神)とニンリル(風の女神。ニンフルサグなどとも同一視される)の第一子で、ニンガル(葦の女神)との間に太陽神ウトゥ(シャマシュ)と金星神イナンナ(イシュタル)をもうけています。
子供たちも人気者な神さまですねー。

つまり何が言いたいって、メソポタミアでは月神信仰が盛んだったわけです。だから「月」という意味のテラは、この土地では結構いい名前だったんではないかなー。


そんなテラには息子が3人おりました。

アブラム (「群衆(多数のもの)の父」「父は高められる」の意)
ナホル(お祖父さんと同じ名前)
ハラン(「山国」の意)

三兄弟のうち、ハランはお父さんより先に亡くなってしまいます。でも、亡くなる前に子供を残していきました。


ロト(「覆い、ベール」「隠された」「自由人?」の意)
ミルカ(「女王」の意)←女の子です
イスカ(?)

残る兄弟、アブラムとナホルはそのあとで奥さんをもらいました。

アブラムの奥さんはサライといいます。

サライ(ヘブライ語で「私の女王」、ペルシャ語で「家、旅館、宮殿」「世間、世界」、ソース不明「女戦士」)

サライは所謂不妊症でしたので、アブラムとの間に子供はいませんでした。

ナホルの奥さんは、なんと亡くなった兄弟ハランの娘ミルカです。……姪と結婚か……なんか色々想像してしまいます(笑)


こんな感じで、テラの息子たちは各々幸せな家庭を築きました。
さて、テラはあるとき、孫のロト、息子アブラムとその妻サライを連れてお引っ越しをすることにします。
なんでいきなり住んでた町を出ることにしたのか、孫のロトは連れてくのにナホル夫妻は連れていかんのか、など色々謎ですが。

とりあえず結論からいうと、テラ一行はカルデアのウルを出てカナンという土地を目指したのですが、ハランという町にたどり着きそこに定住します。

カナンについては、10章でハムの息子カナンについて調べたときに書きましたけども、

http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/聖書を楽しむ【8】(1)

地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯のことです。ちょうど今のイスラエルの場所ですね。
一方ハラン(別名カルラエ)は古代シリア地方の北部にあった町で、現在のトルコ南東部のシャンルウルファ県です。

ウルの遺跡は現在のイラク・ナーシリーヤ市の近くにある、とWikipedia先生に書いてありましたんで、試しにGoogleマップで検索してみました。

イラク・ナーシリーヤ市からイスラエルまで→徒歩で13日と1時間(1543km)

イラク・ナーシリーヤ市からトルコ・シャンルウルファ県まで→徒歩で9日と8時間(1109km)

ナーシリーヤから北西に出発して途中までは同じルートなのですが、ラザーザ湖という湖を越えた辺りで西に曲がるとイスラエル、北西に行くとシャンルウルファに着きます。

もちろん、現在の道路設備がある前提での距離や到達予測時間です。
古代の何もない平原はもっと旅するのには過酷な環境でしたでしょうし、GPSはおろか精密な地図もコンパスもない時代です。
既に老人となっていたテラには殊更辛い旅だったでしょう。

カナンを目指して旅だったテラたちでしたが、迷子になったのかそれとも目標を変更したのか、ハランに到着します。途中までルートは同じですが、決してカナンとハランは距離的に近くはありません。(徒歩で8日と9時間、984km離れています。)
ハランがカナンに行く途中にあった町だった、というわけでもありません。

これまた妄想ですが…
老年のテラは、カナン行きの旅を断念してハランに進路を変更したのではないでしょうか。

ハランはユーフラテス川の上流にある平原にあって、豊かな土壌と十分な雨量があるため早くから農耕が行われた土地でした。
最盛期にはハランは南のダマスカスからの道とニネヴェ・カルケミシュを結ぶ道が交わる地点になり、重要な都市となります。
ちなみにハランの特産品だったStobrumという木は、香りの良い粘液が取れる植物だったそうです。(日本名は不明)古代ローマでも高値で取引されたというその木は、どうやら麻酔みたいなものだと思われます。
薫製してヤシのワインで浸して火をつけるといい匂いがして、その香りを嗅ぎ続けると痛みはないけど脳に作用するそうです。病気の人の睡眠促進剤に使われたりしたんだとか。

前回調べたヨクタンの子孫の繁栄でもわかるとおり、アラビア半島の国々は没薬と乳香の交易で莫大な富を得ていました。
没薬も乳香も、焚いて香として使う他、没薬には殺菌作用・鎮静・鎮痛の効果が、乳香には鎮痛・止血・筋肉の攣縮攣急の緩和といった効能があるとされています。
たぶんStobrumも没薬や乳香のような扱いをされていて、そうだとすると当時のハランはこの木の交易によって富を得、かなり豊かな町だった可能性があります。

旅に行き詰まったテラは、豊かな町であるハランに標準を変えて移住をしたのではないでしょうか。
更に妄想すると、ハランは先ほど言及した月神シンの信仰の中心地であったそうです。バビロニア時代のみならず、古代ローマ時代までその崇拝は続いたそうな。
【月】という名前を冠しているから…というのは少々短絡的ですが、もしもテラがシンの信者だったら信仰の本場に行ってみたいと思うのは納得できます。
とりあえず現時点では、テラはカナンの地を踏むことなくハランに移住し、そこで205年の生涯を終えたことしか聖書には情報がありません。

ちなみに、イスラム教のコーランに出てくるテラ(ターリフ)は偶像造りの名人だそうな。唯一神への信仰を持つことはなく、唯一神の信仰を説く息子アブラハム(イブラーヒーム)を家から追い出したという逸話もあるらしい。
案外、ほんとにテラはナンナ神の信者だったのかも。

さて、テラ亡きあとの息子たちはこのあとどうなるのでしょうか。
続きはまた次回。


今回の楽曲はイーゴリ・ストラヴィンスキー作曲
カンタータ《バベル》

https://youtu.be/tTPjc2Hjpqc

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