プロフィール
HN:
赤澤 舞
性別:
女性
職業:
飲食店店員
趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。
レトロゲームや特撮も好物です。
ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
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2016/05/21 (Sat)
まだまだ懲りずに続きます。
※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
前回ですが、
↓↓↓
聖書を楽しむ【7】 http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/33/
ハムの一族の説明の途中で終わってしまいました。前回のおさらいですが、ハムの4人の子孫のうち、クシュとその子孫たちのお話をしました。
今回は残りの兄弟のお話です。
・ミツライム(単数形「ミスル(国、都市、土地、要塞)」の複数形で「2つの要塞」「2つの街」、別説では「鉄の溶鉱炉」の意。エジプトを指す)
・プテ(「弓」の意)
・カナン(「商人」あるいは「赤紫の染料」の意 /前々回の記事参照)
まずミツライムですが、エジプト人の諸部族(および非エジプト人の一部の部族)の祖先と言われており、その名前はエジプトの同義語になりました。
古代エジプト人は自国のことを『ケメト』(Kemet …「赤い砂漠」に対する『黒い土の国』の意) や『タ・ウイ』(Ta‐wi…上エジプトと下エジプトの『二つの国』の意)などと呼んでいたそうです。
ミツライムという名前は、タ・ウイの方をヘブライ語に訳したものということになります。
大勢の考古学ファンが古代エジプトに現代でもロマンを抱いていることからも分かるように、古代エジプトは他の文明とは一線を画する存在です。
人が住み始めたのは紀元前30500年頃(エチオピア・スーダン方面からの古代エジプト人の祖先の移住)と、古さも断トツの土地です。
古代エジプトの歴史についてはウィキペディアなどに載ってますのでご興味ありましたら見てみてください。面白いです。
とりあえずミツライムを指すエジプトがいつの時代なのか、探ってみることにします。
『二つの国』という名でヘブライ人が呼んでいたということは、この時点でエジプトは二つに分裂していたことになります。
上エジプトで興った文明のエジプト人たちが、下エジプト下流域の開拓に乗り出したのが紀元前5000年頃。
紀元前3500年頃に、まず上エジプト、そして下エジプトと二つの統一国家ができます。
ちなみに紀元前3800年頃にはビールが、紀元前3500年頃にはワインが生産されています。
関係ないですね。そうですね。
紀元前3150年頃、上下エジプトの統一がなされます。エジプト初期王朝時代(第1ー2王朝)のはじまりです。
紀元前2686年~紀元前2181年の
エジプト古王国時代(第3ー6王朝)では中央政権が安定します。
ただし後期につれて政治体制や経済など上エジプトが先行し、下エジプトでの体制整備は遅れていきます。二国の間で格差が生まれてしまったんですね。
エジプト第1中間期(第7ー10王朝)に入り、紀元前2200年頃に内乱が起きます。
これがどうにか収まって、再統一がされるのが紀元前2040年頃です。エジプト中王国時代(第11ー12王朝)に入ります。
エジプト第2中間期(第13ー17王朝)になるとまたまたちょっと不安定になって、紀元前1785年頃に内乱勃発。
紀元前1650年頃(第15ー16王朝)に、「ヒクソス」による下エジプト支配が始まります。
「ヒクソス」とは、古代エジプトに登場したエジプト人じゃない人々です。「異国の支配者達」を意味する古代エジプト語、「ヘカ・カスウト」のギリシア語形に由来して、ヒクソスと呼ばれました。
彼らがどんな起源を持つ人々だったのか、詳しくは分かっていません。
元々はシリア、パレスチナ、ヌビア地方にいた異国の首長や、エジプトに移住してきた外国人のリーダーを指したものであったと考えられますが、いつしか一種の尊称として使用されるようになりました。
一般的に彼らはシリア・パレスチナ地方に起源を持つ雑多な人々の集団であったと考えられています。その他、もうちょい先に出てくるヤコブの逸話や、「出エジプト記」と関連づけてアジア人とする説(支配者であるヒクソスとの直接的な関係ではなくても、第2中間期に下エジプトで活動したヒクソスを含むセム系アジア人の中にヘブライ人が含まれていたという説は一定の支持者を持つそうな)、ヒクソスに先行して紀元前3000年の最末期~紀元前2000年前半にメソポタミア各地に移住して王朝を次々と打ち立てた「アムル人」と関連づける説、壁画の酷似からクレタ島と関係づける説…などなど、色々言われております。まあ詳細は謎なんですけど。
トリノ王名表によれば6人のヒクソス人の王が108年間在位したと伝えられ、マネトの記録によれば第15王朝の王も6人といたとされております。第15王朝を「ヒクソス政権」と呼ぶこともあります。
その次のエジプト新王国時代(第18ー20王朝)はエジプトが一番栄えた時代です。
紀元前1540年頃にイアフメス1世がヒクソス放逐と再統一を果たします。やっぱ外国人が自国の政権取るのは気にくわないですよねえ。
紀元前1500年頃、トトメス1世がユーフラテス河畔まで侵攻、オリエント一円を属州とします。トトメス1世、覚えていらっしゃいますでしょうか。
前回ハムの長男クシュの国であるエチオピアをご紹介したときに、クシュを支配下に置き植民地化した王さまです。
紀元前1470年頃、トトメス3世によりアナトリア、アジア遠征と、ヒッタイト・バビロニア属国化が行われます。バビロニアは前回申し上げたとおり、クシュの息子ニムロデが征服した土地でした。
紀元前1360年頃、アメンホテプ4世(アクエンアテン)による『アマルナ宗教改革』が行われます。
これは、伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止して太陽神アテンの一神崇拝に改めさせた改革です。アテン神信仰は、世界最初の一神教といわれています。
アメン神は元はナイル川東岸のテーベ(現・ルクソール)地方の大気の守護神、豊饒神でした。アモンと表されることもあります。中王国時代第11王朝にテーベを首都としてエジプトを再統一して以来、エジプトの神々の主神として崇められてきた神さまです。ラー神と一体してエジプトの歴史・文明の中心に位置し、アメン神殿と祭司団は絶大な権力を奮っていました。歴代のファラオの名前にもアメンの名が入るようになります。だから“アメン”ホテプ4世は自分の名前をアクテン“アテン”に改名したんですね。
ちなみにアンモナイト、アンモニウム塩、アンモニアなどの語源にもなっています。
一方アテン神は夕日を神格化した神で、こちらもテーベで祀られておりましたが、マイナーな地方神の一つに過ぎずこれといった神像も神話もなく、どんな神なのかはっきりした性質も持ってなかった神です。
人間の形態を取っている他のエジプトの神々とは異なり、先端が手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤(←!)の形で表現されていす。
あまり信仰は盛り上がらず、後には神性が薄れて天体としての太陽を表すようになっていきました。
そんなアテン神を、アメンホテプ4世はいきなり国の最高神に仕立てて、それまで信じられていた他の神さまたちを全部淘汰してしまったんですね。
この宗教改革はあまりにも急激だったために、アメン神団の抵抗が激しく、最終的に失敗に終わります。アクエンアテンが亡くなった後、その息子である、あの有名なツタンカーメン王の時代に、エジプトはアメン信仰に戻り(紀元前1345年頃)、アテンはアマルナ革命以前の「天体としての太陽」に戻され、アテン信仰は消滅しました。ちなみにツタンカーメンも生まれたときはアテン神にちなんで『ツタンカーテン』と名付けられましたが、アメン神の名を入れたツタンカーメンに自分で改名しました。
ジークムント・フロイトは、アクエンアテンの治世年と出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤーウェの原形であるとする『唯一神起源説』を唱えました。
(コレ、後でもう一度出てくるので覚えておいてください。)
そうして栄華を誇ったエジプト帝国ですが、紀元前945年頃から、ヌビア、アッシリア、アケメネス朝などの他民族支配により衰退していきます。紀元前730年頃にはクシュ(ヌビア)に征服され、紀元前671年にはアッシリアに侵入され………かつての帝国は日陰の時代に入っていきます。
…えー、エジプトのお話はこれくらいにするとして、ミツライムは少なくとも上下エジプトの統一がなされた紀元前3150年以降ということになります。アクテンアテンによる『アマルナ宗教改革』も気になりますね。
そんなミツライムの子孫として紹介されているのが
・ルデ人…リビア東部の部族
・アナミム人…リビア北岸キュレネに住むアナミ族?
・レハビム人…リビアのどこかに住んでたレハビ族
・ナフトヒム人…現在のカイロの近くにいたナフト族
・パテロス人…「南部」の意。古代エジプトのテーベ周辺の部族
カスルヒム人…のちのフィリスティア人(ペリシア人)
カフトル人…カナンの南西部の土地に移住してきた人々。スエズ運河北端の街という説もあるが、定説はない。 エジプトのデルタ地帯、小アジアの南東沿岸(キリキアを含む)、カパドキア、クレタなど諸説あり。
です。
みんな民族名です。
詳しくはよく分からない民族ばっかりですが、上記のうち上から5つの民族はリビア(エジプトの東隣)とエジプトに住んだ人々のようです。
古代リビアは現在の北西アフリカのナイル川より西側の地区を指していて、現在のベルベル人と考えられる人々が住んでいました。
ベルベル人は何千年も前から古代エジプトにいた人々で、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来しています。彼ら自身は自分達のことをアマジグ人と呼んでいたようです。
後述しますが、ミツライムの弟・プテはベルベル人の祖先とされています。
ベルベル人のことはそっちでご説明致しましょう。
カスルヒム人とカフトル人ですが、私の持っている聖書では「カスルヒムからペリシテ人がでた」とあるのですが、別の版ではカフトル人がペリシテ人の祖先だとしているものもありました。
実際カスルヒムがどこなのかは、分かっていません。カスルヒムという名前が出てくるのは、聖書の中でもここだけだから手掛かりが無いんです(^_^;)
このあとに出てくるアモス書とかエレミア書のペリシテ人の紹介では「カフトルから来た人々」としているので、そっちに合わせたのかもしれません。
恐らく地理的なもので、彼らがカフトルの領地から移住したことを示していると考えられています。
ではカフトルってどこなのかというと、これも上記のように様々な説がありますけれども
今日ではギリシャのクレタ島である説が有力だそうです。
アッシリア・バビロニアの文書中に出て来るカプターラとか、およびエジプトの碑文のクフティに当たると理解されています。エジプトは初期の時代からクレタ人と商取り引きをしていたようです。
クレタ島はギリシャ南方の地中海に浮かぶ同国最大の島。ヨーロッパにおける最初の文明のひとつであるミノア文明が栄えた土地です。
文献がないため遺跡での想像がされていますが、ミノア文明は平和で開放的な文明だったと考えられています。壮麗な石の建築物や複数階の宮殿があり、排水設備、女王のための浴場、水洗式のトイレがあり、水力を動力とする仕組みに関する技術者の知識はとても高度なものだったようです。エジプトなどとの交易によってもたらされた遺物から、ミノア文明は、紀元前3000年頃からクノッソスが衰退した紀元前1400年頃ごろまで栄えたと考えられています。衰退の原因のひとつは、前々回にお話した《紀元前1200年のカタストロフ》とも言われていますね。
ということは、ペリシテ人(フィリスティア人)はクレタ島からの移民ということでしょう。「ペリシテ」という名前も「移民」という意味を持っています。
ペリシテ人は紀元前13世紀から紀元前12世紀にかけて地中海東部地域に来襲した「海の民」と呼ばれる諸集団を構成した人々の一部であり、エーゲ海域とギリシアのミケーネ文明を担った人々に起源を持つと考えられています。
「海の民」の出現は紀元前1400年頃のミノア文明の崩壊から紀元前1120年ごろのドーリス人のギリシア定着と先住ギリシア人の小アジアへの移住定着に至る、約300年間に及ぶ東地中海世界の混乱の過程のひとつとして引き起こされたものです。
つまり文明が崩壊して暮らしていけなくなった地中海の人々が海に出て、他の安住の地を探してさまよってた期間ってことですね。
彼らは現在のパレスチナに住みましたが、先にネタバレしてしまいますとこの土地は古代は「カナン」と呼ばれていました。彼らは古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺に入植したと言われています。
カナンといえばハムの末っ子で、ノアに呪われたあの子ですが、ペリシテ人はカナンに元から住んでいたカナン人とは別の、移民してきた人たちと思われてます。
ちなみに「パレスチナ」という土地名は言わずもがな「ペリシテ」から取られたもので「ペリシテ人の土地」という意味です。
(現在のパレスチナ人はアラブ民族であり、ペリシテ人とはまったく関係がないそうですが。)
ペリシテ人は古代イスラエルの主要な敵として、このあとも何度か登場します。
ミツライムの弟のプテは、先程も申しましたとおりベルベル人とされています。
今までも何度か出てきたフラティウス・ヨセフスが、プテをリビアだとしているのが所以です。
ベルベル人はとても古い民族で、先祖はカプサ文化と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられています。
カプサ文化は北アフリカ、チュニジア、アルジェリアに分布する旧石器時代後期から中石器時代にかけての文化です。
○タドラルト・アカクス(サハラの一部にあたるリビア西部の砂漠地帯で、先史時代(1万2000年前)の岩絵が多数現存している)
○タッシリ・ナジェール(アルジェリア南東部、サハラ砂漠にある台地状の山脈。一帯が砂漠でなくサバンナに恵まれ湿潤だった新石器時代に描かれた、先史的な岩絵群や他の考古学的景観で知られている。(1万年前~4000年前)牛の群れ、ワニなどの大型生物、狩猟や舞踏といった人々の活動などを活写している。)
などが有名です。
ベルベル人は大きく4つのグループに分かれていました。
カビール人…アルジェリアのカビリア(アルジェから100マイル東北)に住んでいたベルベル人。アルジェリアの中でベルベル語を話す人の中では最も人口が多く、アフリカでは2番目に多い。
シャウィーア人…古代にはヌミディア(アルジェリアの東側。オーレス山地の麓の、オーレス、Nememcha(読み方不明)、ベレーズマなどの地域)に住んでいたベルベル人。自身をシャウィーア人と呼び、シャウィーア語を話した。
ムザブ人…アルジェリアの北のサハラ砂漠に住んでいたベルベル人。ゼナティ語(北東のモロッコからアルジェ、および北のサハラ砂漠や北アフリカで話されたベルベル語方言)やアラビア語を話した。
トゥアレグ人…ベルベル人系の遊牧民。アフリカ大陸サハラ砂漠西部(アザワド)が活動の範囲で、自身では「ケル・タマシェク(Kel Tamasheq)」(タマシェク語を話す人々)と呼ぶ。ベルベル語のひとつであるトゥアレグ語を話す。
さらにそこから
リーフ人…モロッコの北に住むベルベル人の民族。
シェヌアス人…主にアルジェリアの西に住んだベルベル人。アルジェリアのベルベル語話している人口の多くを占めている。
シルハ人…シルハ語またはシュルー方言を話す、モロッコのベルベル人。主にモロッコのアトラス山脈とスース谷に住んでおり、モロッコの先住民と考えられている。
ザイエン族…モロッコ中央、アトラス山脈のヘニフラ地域に住んでいたベルベル人。
Zouaoua(ズアヴ?)族…ドジュショージュラ山脈の山で家に住んでいるベルベル人の種族。カビール人の一部らしい
グアンチェ族…スペインのカナリア諸島に住んでいた先住民。金髪碧眼長身の風貌で、ベルベル語の一種であるグアンチェ語を話していた。ヨーロッパ人が中世にカナリア諸島を初めて訪れたときには、まだ石器時代の生活を営んでいた。今では彼らの文化はほぼ消え果てしまっているが、その血統を受け継ぐ人たちは現在のカナリア諸島の住民、そしてさらには同諸島の住民の移住先であるキューバやプエルトリコに多数見受けられる。
Nafusis(ナフシ族?)…ナフサ山地、北西のリビアの広いエリアで話されていたナフシ語を話したベルベル人。
Siwis(シーワ族?)…エジプトのシーワ・オアシスで暮らし、シーワ語を話すベルベル人。またオアシスベルベル人として知られている。現存するベルベル人の中で最も古いとされている。
などのグループに分かれます。
ベルベル人は昔から様々な民族に侵略されてきたといいます。紀元前10世紀頃、フェニキアから北アフリカの沿岸に至って勢力範囲が広がったフェニキア人がカルタゴなどの交易都市を建設すると、ベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられたそうです。古代ギリシアではベルベル人のことをリビュア人と称していました。
ミツライムの子孫たちもリビアの住民でしたが、ベルベル人は元々はモロッコやアルジェリアに古くからいた民だったようです。ということは、プテ…つまりベルベル人が先住民で、ミツライムの子孫(エジプト人)があとから居住地を広げた…ということでしょうか。
さて次はこれまで何度も言及があった、末っ子カナンです。
カナンは地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯で、紀元前3000年くらいから文献に登場したとても古い土地です。シュメール人の都市マリの紀元前18世紀の残骸で発見された文書では、政治的な共同体として登場しました。
紀元前2000年代には古代エジプト王朝の州の名称として使われました。
この地域に住んでいた「カナン人」と記されている人々は、フェニキア人だと言われています。
フェニキアは古代の地中海東岸に位置した土地で、現在のシリアのタルトゥースのあたりからパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域で、およそ現在のレバノンの領域にあたります。ラテン語では「ポエニ」と呼びます。こっちの呼び方の方が有名ですね。世界史で『ポエニ戦争』とか聞いたことがおありかもしれません。
フェニキア人は、エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に住んでおりました。ですので彼らの文明は、それら古代国家の影響をとても受けています。
彼らは紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始め、紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出し、地中海全域を舞台に活躍し、紀元前8世紀頃に繁栄を極めました。
また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えたそうです。
フェニキア人の建設した主な主要都市には、ティルス(現在のスール)、シドン、ビュブロス、アラドゥスなどがあります。カナンの子孫たちも絡めて、紹介していきたいと思います。
さて、カナンの子孫として挙げられているのは
・シドン(長子)…「漁場」「漁師」の意。フェニキア人の自称
・ヘテ…ハッティ人(ヒッタイト人)のこと
・エブス人…「踏みにじる、踏みつける」の意に由来。エルサレムの先住民
・エモリ人…主に紀元前2000年期半に中東各地で権力を握った諸部族の名称、アムル人ともいう
・ギルガシ人…ヨルダン川の西に住んでいたとされる先住民
・ヒビ人…カナン人の部族のひとつ。フルリ人のことという説も
・アルキ人…レバノン山に住んだ人々
・シニ人…?(カナンのどこかの町とみられている)
・アルワデ人…「解き放つ」の意。フェニキア沿岸最北部の島民
・ツェマリ人…北シリアの町ゼメルの住人
・ハマテ人…「要塞」の意。北シリアのオロンテス川に沿う町
シドンはわざわざ「長子」とつけられておりますので、カナンの直系の息子として扱われてます。商人(カナン)の息子はどうやら漁師(シドン)になったようです。
海上交易で地中海を征したことが由来なのでしょうか?
上記のとおり、シドンはフェニキア人の自称です。カナンがフェニキア人のことですので、息子として描くのはまあ頷けます。
シドンはフェニキア人が造った主要都市のひとつの名前でもあります。レバノンの沿岸部に位置する古代都市で、現在もサイダという名前の都市で残っています。
紀元前3000年紀に創設され、紀元前2000年紀頃に裕福で栄えた街となり、ガラスの質の高さと紫の染料で有名になりました。
元々は漁業と交易の中心地でしたが、最近はサウジアラビアからのアラビア横断パイプラインの地中海側の終着地としての役割を果たしているようです。
紀元前2700年頃、シドンの入植者たちは40キロほど沿岸を下ったところにある町、ティールを発見し、以後長きにわたり両都市はフェニキアの富と権力のトップを巡って争います。これが、上記にも記したティルスのことです。ティルスは紀元前2500年、ビブロス(上記のビュブロス)やベイルートと共にフェニキア人の都市として成立し、 紀元前11世紀から紀元前9世紀に最盛期を迎えます。カルタゴは、ティルスの植民地として後々作られます。
現在のティルスは「スール」(アラビア語で「岩」)と呼ばれる小さな漁村になっているようですが、かつてはフェニキア人の造った都市国家の中で最大規模を誇り、紀元前1000年頃にはフェニキアの首都にもなりました。
次に言及のあるヘテは、ハッティ人…つまりヒッタイト人と考えられています。
ボアズキョイ出土の粘土板文書やバビロニア、アッシリアの史料では「ハッティ」エジプトの史料では「ケタ」と記されております。
ヒッタイトはインド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指します。
高度な製鉄技術によってメソポタミアを征服し、最初の鉄器文化を築いたとされます…が、最近実はそれより前から鉄が使われていたことがわかりました。(^_^;)
彼らの由来ですが、黒海を渡って来た北方系民族説(クルガン仮説)と、近年提唱されているアナトリア地域を故郷として広がって行ったという説(アナトリア仮説)が提唱されていて、まだ決着はついていません。
ちなみに、ヒッタイトの宗教はフルリ人の影響をとても受けておりました。ですので、ヒッタイトはフルリ人だとする学者さんもいます。
ヒッタイトの最初の王国ができたのは、紀元前1680年頃です。クズルウルマック(「赤い河」の意)周辺にできたヒッタイト古王国は、紀元前1595年頃ムルシリ1世の治世のときに、サムス・ディタナ(都市国家バビロニアの第11代目王)率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立します。
紀元前1500年頃成立したヒッタイト中王国を経て紀元前1430年頃成立したヒッタイト新王国は、他国を侵略し領土を広げていきます。紀元前1330年頃にミタンニを制圧、紀元前1285年頃に古代エジプトと衝突しラムセス2世のエジプトを撃退しシリアを支配します。(カデシュの戦い)この際に、世界最古の講和条約が結ばれました。
後世にエジプトで発見された「アマルナ文書」によると、ヒッタイト王スッピルリウマがエジプト王にあてた書簡やその他の外交文書から紀元前14世紀はヒッタイトが北シリア・アナトリア一帯を領有する一大勢力であったことがわかります。
ところが紀元前1190年頃、ヒッタイト王国は約500年の栄華に突如幕を閉じます。
通説では「海の民」によって滅ぼされたとされていましたが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになりました。カフトル人…クレタ島と同じく、《前1200年のカタストロフ》が滅亡の原因ということになります。
新王国が滅びたあと、ヒッタイトは南東アナトリアに移動し紀元前8世紀頃までシロ・ヒッタイト国家群(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動しました。(紀元前1180年~紀元前700年頃)ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられています。
次に言及されているエブス人は、現在のエルサレムに住んでいた原住民です。
いずれこの土地にイスラエル人の王国ができるのですけれども、この時点ではエブス人の街がありました。
実はこのエブス人、日本でいう弥生人なんじゃないかという説もあったりします。面白いんでちょっと調べてみました。《日ユ同祖論》という説です。
日本がまだ大陸と陸続きだった時代に半島に移住して、その後大陸から切り離された古来からの住人が「縄文人」。
大陸から移住してきて稲作やら鉄工やらを伝え、所謂《弥生文化》を花開かせた移民たちが「弥生人」です。
弥生時代の早期のはじまりが紀元前1000年頃、イスラエル王国が建国されたのが紀元前11世紀頃ですので時代的にもありえない話じゃないと思います。
彼らは古代中国の殷(いん)(紀元前1600年頃~紀元前12、11世紀頃)の時代から日本に渡っていて、「南倭人」だとか「夷人(いじん)」と呼ばれていたそうです。
「夷」という漢字は「大」な「弓」と書いて、「好戦的な民族」を表します。(蔑んだ意味合い)
元々は漢民族が古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対して使っていた呼び名でしたが、異民族全般を指す意味に変わっていきました。
日本では「夷」をえびす、えみし、ころす、たいらげる、と訓読します。
以下のような用法があります。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)…大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)に住む人々を異端視・異族視した呼称。
東夷(あずまえびす)…京都人が、荒々しい武士、情を理解しない荒っぽい人、風情が無く、教養・文化に欠ける人、特に東国の武士を指して呼ぶ呼称。
夷曲(ひなぶり)…都から遠くはなれた未開の土地の風俗(田舎ふう)をさす上代の歌謡の一種。あるいは田舎風の詩歌、狂歌。
…などなど。ちょっと蔑んだ意味合いで使われることが多いですね。
エブス人と製鉄族のヒッタイト人を乗せたフェニキア(つまりシドン)のタルシシ船(大きな外洋航行船)隊は、はるばる海を越えて九州国東半島にたどり着きました。そこで製鉄基地を築き、「たたら」の技術を日本に伝えます。
エブスが訛って「エビス(エミシ)」になり、彼らは長い時間をかけて日本文化に馴染んでいったというわけです。
(ジブリの名作『もののけ姫』のアシタカはエミシの末裔でしたね。蝦夷の歴史を踏まえて観ると、一層面白い作品です。)
そして遂には神格化されました。それが現在は七福神の一員として親しまれている恵比寿さまです。
恵比寿は漁業・留守・商いを司る、日本古来の“唯一の”福の神です。他の福の神、たとえば福天(吉祥天)などはインドや中国から伝わってきた神様なんです。
「えびす」という名を持つ神さまは何人かおりまして、
○イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)
○事代主神(ことしろぬしかみ)…大黒の息子。恵比寿が釣竿と鯛を持っているのは、この神様が由来
○少彦名神(すくなびこな)…海の彼方から来たという国造り神。
○彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)…初代天皇である神武天皇の祖父。稲穂・穀物の神。
などなど。
えびすは記紀に出てこない神なので、古くから記紀の中に該当する神を探しだす説がいろいろ出てきたためにこんなことになったみたいです。
「夷」の名のとおり、えびすの本来の神格は《人々の前にときたま現れる外来物》に対する信仰で、海の向こうからやってくる海神・水の神さまでした。
最初に記録に登場したのは平安時代の末期です。『伊呂波字類抄』(三巻本)に「夷 毘沙門」と「三郎殿 不動明王」の二柱の神さまが登場します。この二柱の神さまが時代と共に混同され、「夷三郎」という神さまになりました。初期には毘沙門天や不動明王とされていて、「荒々しい神」として信仰されていたということです。
その後、室町時代に記紀のヒルコノミコトとエビスが同一視されます。
ヒルコはアマテラスやスサノオより前の、イザナギとイザナミの第一子でした。
しかし、3歳になっても足が立たなかったために流し捨てられてしまいます。その神話を受けて、流されたヒルコはどこかの地に漂着したという信仰が生まれました。そしてヒルコが海からやってくる姿が海の神であるエビスの姿と一致したため、二柱は同一視されるようになったというわけです。
蛭子命の漂着の伝承は各地にありますが、その中でも西宮神社はえびすという名の神を祀った神社としては現存する記録上で最古なので、全国のえびす神社の総本宮とされているそうです。江戸時代から明治にかけて「えびす=蛭子説」に基づいて祭神名を「えびす」から「蛭子」に改めた神社もあるとか。
古代エルサレム人の血脈がこんな極東の島国で神さまになっていたとしたらと思うと、人種や宗教の壁なんて実に小さなものだと思います。
…えー、話が大変長くなってしまいました。
諸事情のため、ここで一度区切らせていただきます。(ブログの文字数が限界になってしまったので(爆))
続きはこちらです↓↓↓↓
聖書を楽しむ【8】(2): http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/35/
後半もまだまだ聖書の裏側のあんなことこんなことがざくざく出てきます。
※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
前回ですが、
↓↓↓
聖書を楽しむ【7】 http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/33/
ハムの一族の説明の途中で終わってしまいました。前回のおさらいですが、ハムの4人の子孫のうち、クシュとその子孫たちのお話をしました。
今回は残りの兄弟のお話です。
・ミツライム(単数形「ミスル(国、都市、土地、要塞)」の複数形で「2つの要塞」「2つの街」、別説では「鉄の溶鉱炉」の意。エジプトを指す)
・プテ(「弓」の意)
・カナン(「商人」あるいは「赤紫の染料」の意 /前々回の記事参照)
まずミツライムですが、エジプト人の諸部族(および非エジプト人の一部の部族)の祖先と言われており、その名前はエジプトの同義語になりました。
古代エジプト人は自国のことを『ケメト』(Kemet …「赤い砂漠」に対する『黒い土の国』の意) や『タ・ウイ』(Ta‐wi…上エジプトと下エジプトの『二つの国』の意)などと呼んでいたそうです。
ミツライムという名前は、タ・ウイの方をヘブライ語に訳したものということになります。
大勢の考古学ファンが古代エジプトに現代でもロマンを抱いていることからも分かるように、古代エジプトは他の文明とは一線を画する存在です。
人が住み始めたのは紀元前30500年頃(エチオピア・スーダン方面からの古代エジプト人の祖先の移住)と、古さも断トツの土地です。
古代エジプトの歴史についてはウィキペディアなどに載ってますのでご興味ありましたら見てみてください。面白いです。
とりあえずミツライムを指すエジプトがいつの時代なのか、探ってみることにします。
『二つの国』という名でヘブライ人が呼んでいたということは、この時点でエジプトは二つに分裂していたことになります。
上エジプトで興った文明のエジプト人たちが、下エジプト下流域の開拓に乗り出したのが紀元前5000年頃。
紀元前3500年頃に、まず上エジプト、そして下エジプトと二つの統一国家ができます。
ちなみに紀元前3800年頃にはビールが、紀元前3500年頃にはワインが生産されています。
関係ないですね。そうですね。
紀元前3150年頃、上下エジプトの統一がなされます。エジプト初期王朝時代(第1ー2王朝)のはじまりです。
紀元前2686年~紀元前2181年の
エジプト古王国時代(第3ー6王朝)では中央政権が安定します。
ただし後期につれて政治体制や経済など上エジプトが先行し、下エジプトでの体制整備は遅れていきます。二国の間で格差が生まれてしまったんですね。
エジプト第1中間期(第7ー10王朝)に入り、紀元前2200年頃に内乱が起きます。
これがどうにか収まって、再統一がされるのが紀元前2040年頃です。エジプト中王国時代(第11ー12王朝)に入ります。
エジプト第2中間期(第13ー17王朝)になるとまたまたちょっと不安定になって、紀元前1785年頃に内乱勃発。
紀元前1650年頃(第15ー16王朝)に、「ヒクソス」による下エジプト支配が始まります。
「ヒクソス」とは、古代エジプトに登場したエジプト人じゃない人々です。「異国の支配者達」を意味する古代エジプト語、「ヘカ・カスウト」のギリシア語形に由来して、ヒクソスと呼ばれました。
彼らがどんな起源を持つ人々だったのか、詳しくは分かっていません。
元々はシリア、パレスチナ、ヌビア地方にいた異国の首長や、エジプトに移住してきた外国人のリーダーを指したものであったと考えられますが、いつしか一種の尊称として使用されるようになりました。
一般的に彼らはシリア・パレスチナ地方に起源を持つ雑多な人々の集団であったと考えられています。その他、もうちょい先に出てくるヤコブの逸話や、「出エジプト記」と関連づけてアジア人とする説(支配者であるヒクソスとの直接的な関係ではなくても、第2中間期に下エジプトで活動したヒクソスを含むセム系アジア人の中にヘブライ人が含まれていたという説は一定の支持者を持つそうな)、ヒクソスに先行して紀元前3000年の最末期~紀元前2000年前半にメソポタミア各地に移住して王朝を次々と打ち立てた「アムル人」と関連づける説、壁画の酷似からクレタ島と関係づける説…などなど、色々言われております。まあ詳細は謎なんですけど。
トリノ王名表によれば6人のヒクソス人の王が108年間在位したと伝えられ、マネトの記録によれば第15王朝の王も6人といたとされております。第15王朝を「ヒクソス政権」と呼ぶこともあります。
その次のエジプト新王国時代(第18ー20王朝)はエジプトが一番栄えた時代です。
紀元前1540年頃にイアフメス1世がヒクソス放逐と再統一を果たします。やっぱ外国人が自国の政権取るのは気にくわないですよねえ。
紀元前1500年頃、トトメス1世がユーフラテス河畔まで侵攻、オリエント一円を属州とします。トトメス1世、覚えていらっしゃいますでしょうか。
前回ハムの長男クシュの国であるエチオピアをご紹介したときに、クシュを支配下に置き植民地化した王さまです。
紀元前1470年頃、トトメス3世によりアナトリア、アジア遠征と、ヒッタイト・バビロニア属国化が行われます。バビロニアは前回申し上げたとおり、クシュの息子ニムロデが征服した土地でした。
紀元前1360年頃、アメンホテプ4世(アクエンアテン)による『アマルナ宗教改革』が行われます。
これは、伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止して太陽神アテンの一神崇拝に改めさせた改革です。アテン神信仰は、世界最初の一神教といわれています。
アメン神は元はナイル川東岸のテーベ(現・ルクソール)地方の大気の守護神、豊饒神でした。アモンと表されることもあります。中王国時代第11王朝にテーベを首都としてエジプトを再統一して以来、エジプトの神々の主神として崇められてきた神さまです。ラー神と一体してエジプトの歴史・文明の中心に位置し、アメン神殿と祭司団は絶大な権力を奮っていました。歴代のファラオの名前にもアメンの名が入るようになります。だから“アメン”ホテプ4世は自分の名前をアクテン“アテン”に改名したんですね。
ちなみにアンモナイト、アンモニウム塩、アンモニアなどの語源にもなっています。
一方アテン神は夕日を神格化した神で、こちらもテーベで祀られておりましたが、マイナーな地方神の一つに過ぎずこれといった神像も神話もなく、どんな神なのかはっきりした性質も持ってなかった神です。
人間の形態を取っている他のエジプトの神々とは異なり、先端が手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤(←!)の形で表現されていす。
あまり信仰は盛り上がらず、後には神性が薄れて天体としての太陽を表すようになっていきました。
そんなアテン神を、アメンホテプ4世はいきなり国の最高神に仕立てて、それまで信じられていた他の神さまたちを全部淘汰してしまったんですね。
この宗教改革はあまりにも急激だったために、アメン神団の抵抗が激しく、最終的に失敗に終わります。アクエンアテンが亡くなった後、その息子である、あの有名なツタンカーメン王の時代に、エジプトはアメン信仰に戻り(紀元前1345年頃)、アテンはアマルナ革命以前の「天体としての太陽」に戻され、アテン信仰は消滅しました。ちなみにツタンカーメンも生まれたときはアテン神にちなんで『ツタンカーテン』と名付けられましたが、アメン神の名を入れたツタンカーメンに自分で改名しました。
ジークムント・フロイトは、アクエンアテンの治世年と出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤーウェの原形であるとする『唯一神起源説』を唱えました。
(コレ、後でもう一度出てくるので覚えておいてください。)
そうして栄華を誇ったエジプト帝国ですが、紀元前945年頃から、ヌビア、アッシリア、アケメネス朝などの他民族支配により衰退していきます。紀元前730年頃にはクシュ(ヌビア)に征服され、紀元前671年にはアッシリアに侵入され………かつての帝国は日陰の時代に入っていきます。
…えー、エジプトのお話はこれくらいにするとして、ミツライムは少なくとも上下エジプトの統一がなされた紀元前3150年以降ということになります。アクテンアテンによる『アマルナ宗教改革』も気になりますね。
そんなミツライムの子孫として紹介されているのが
・ルデ人…リビア東部の部族
・アナミム人…リビア北岸キュレネに住むアナミ族?
・レハビム人…リビアのどこかに住んでたレハビ族
・ナフトヒム人…現在のカイロの近くにいたナフト族
・パテロス人…「南部」の意。古代エジプトのテーベ周辺の部族
カスルヒム人…のちのフィリスティア人(ペリシア人)
カフトル人…カナンの南西部の土地に移住してきた人々。スエズ運河北端の街という説もあるが、定説はない。 エジプトのデルタ地帯、小アジアの南東沿岸(キリキアを含む)、カパドキア、クレタなど諸説あり。
です。
みんな民族名です。
詳しくはよく分からない民族ばっかりですが、上記のうち上から5つの民族はリビア(エジプトの東隣)とエジプトに住んだ人々のようです。
古代リビアは現在の北西アフリカのナイル川より西側の地区を指していて、現在のベルベル人と考えられる人々が住んでいました。
ベルベル人は何千年も前から古代エジプトにいた人々で、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来しています。彼ら自身は自分達のことをアマジグ人と呼んでいたようです。
後述しますが、ミツライムの弟・プテはベルベル人の祖先とされています。
ベルベル人のことはそっちでご説明致しましょう。
カスルヒム人とカフトル人ですが、私の持っている聖書では「カスルヒムからペリシテ人がでた」とあるのですが、別の版ではカフトル人がペリシテ人の祖先だとしているものもありました。
実際カスルヒムがどこなのかは、分かっていません。カスルヒムという名前が出てくるのは、聖書の中でもここだけだから手掛かりが無いんです(^_^;)
このあとに出てくるアモス書とかエレミア書のペリシテ人の紹介では「カフトルから来た人々」としているので、そっちに合わせたのかもしれません。
恐らく地理的なもので、彼らがカフトルの領地から移住したことを示していると考えられています。
ではカフトルってどこなのかというと、これも上記のように様々な説がありますけれども
今日ではギリシャのクレタ島である説が有力だそうです。
アッシリア・バビロニアの文書中に出て来るカプターラとか、およびエジプトの碑文のクフティに当たると理解されています。エジプトは初期の時代からクレタ人と商取り引きをしていたようです。
クレタ島はギリシャ南方の地中海に浮かぶ同国最大の島。ヨーロッパにおける最初の文明のひとつであるミノア文明が栄えた土地です。
文献がないため遺跡での想像がされていますが、ミノア文明は平和で開放的な文明だったと考えられています。壮麗な石の建築物や複数階の宮殿があり、排水設備、女王のための浴場、水洗式のトイレがあり、水力を動力とする仕組みに関する技術者の知識はとても高度なものだったようです。エジプトなどとの交易によってもたらされた遺物から、ミノア文明は、紀元前3000年頃からクノッソスが衰退した紀元前1400年頃ごろまで栄えたと考えられています。衰退の原因のひとつは、前々回にお話した《紀元前1200年のカタストロフ》とも言われていますね。
ということは、ペリシテ人(フィリスティア人)はクレタ島からの移民ということでしょう。「ペリシテ」という名前も「移民」という意味を持っています。
ペリシテ人は紀元前13世紀から紀元前12世紀にかけて地中海東部地域に来襲した「海の民」と呼ばれる諸集団を構成した人々の一部であり、エーゲ海域とギリシアのミケーネ文明を担った人々に起源を持つと考えられています。
「海の民」の出現は紀元前1400年頃のミノア文明の崩壊から紀元前1120年ごろのドーリス人のギリシア定着と先住ギリシア人の小アジアへの移住定着に至る、約300年間に及ぶ東地中海世界の混乱の過程のひとつとして引き起こされたものです。
つまり文明が崩壊して暮らしていけなくなった地中海の人々が海に出て、他の安住の地を探してさまよってた期間ってことですね。
彼らは現在のパレスチナに住みましたが、先にネタバレしてしまいますとこの土地は古代は「カナン」と呼ばれていました。彼らは古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺に入植したと言われています。
カナンといえばハムの末っ子で、ノアに呪われたあの子ですが、ペリシテ人はカナンに元から住んでいたカナン人とは別の、移民してきた人たちと思われてます。
ちなみに「パレスチナ」という土地名は言わずもがな「ペリシテ」から取られたもので「ペリシテ人の土地」という意味です。
(現在のパレスチナ人はアラブ民族であり、ペリシテ人とはまったく関係がないそうですが。)
ペリシテ人は古代イスラエルの主要な敵として、このあとも何度か登場します。
ミツライムの弟のプテは、先程も申しましたとおりベルベル人とされています。
今までも何度か出てきたフラティウス・ヨセフスが、プテをリビアだとしているのが所以です。
ベルベル人はとても古い民族で、先祖はカプサ文化と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられています。
カプサ文化は北アフリカ、チュニジア、アルジェリアに分布する旧石器時代後期から中石器時代にかけての文化です。
○タドラルト・アカクス(サハラの一部にあたるリビア西部の砂漠地帯で、先史時代(1万2000年前)の岩絵が多数現存している)
○タッシリ・ナジェール(アルジェリア南東部、サハラ砂漠にある台地状の山脈。一帯が砂漠でなくサバンナに恵まれ湿潤だった新石器時代に描かれた、先史的な岩絵群や他の考古学的景観で知られている。(1万年前~4000年前)牛の群れ、ワニなどの大型生物、狩猟や舞踏といった人々の活動などを活写している。)
などが有名です。
ベルベル人は大きく4つのグループに分かれていました。
カビール人…アルジェリアのカビリア(アルジェから100マイル東北)に住んでいたベルベル人。アルジェリアの中でベルベル語を話す人の中では最も人口が多く、アフリカでは2番目に多い。
シャウィーア人…古代にはヌミディア(アルジェリアの東側。オーレス山地の麓の、オーレス、Nememcha(読み方不明)、ベレーズマなどの地域)に住んでいたベルベル人。自身をシャウィーア人と呼び、シャウィーア語を話した。
ムザブ人…アルジェリアの北のサハラ砂漠に住んでいたベルベル人。ゼナティ語(北東のモロッコからアルジェ、および北のサハラ砂漠や北アフリカで話されたベルベル語方言)やアラビア語を話した。
トゥアレグ人…ベルベル人系の遊牧民。アフリカ大陸サハラ砂漠西部(アザワド)が活動の範囲で、自身では「ケル・タマシェク(Kel Tamasheq)」(タマシェク語を話す人々)と呼ぶ。ベルベル語のひとつであるトゥアレグ語を話す。
さらにそこから
リーフ人…モロッコの北に住むベルベル人の民族。
シェヌアス人…主にアルジェリアの西に住んだベルベル人。アルジェリアのベルベル語話している人口の多くを占めている。
シルハ人…シルハ語またはシュルー方言を話す、モロッコのベルベル人。主にモロッコのアトラス山脈とスース谷に住んでおり、モロッコの先住民と考えられている。
ザイエン族…モロッコ中央、アトラス山脈のヘニフラ地域に住んでいたベルベル人。
Zouaoua(ズアヴ?)族…ドジュショージュラ山脈の山で家に住んでいるベルベル人の種族。カビール人の一部らしい
グアンチェ族…スペインのカナリア諸島に住んでいた先住民。金髪碧眼長身の風貌で、ベルベル語の一種であるグアンチェ語を話していた。ヨーロッパ人が中世にカナリア諸島を初めて訪れたときには、まだ石器時代の生活を営んでいた。今では彼らの文化はほぼ消え果てしまっているが、その血統を受け継ぐ人たちは現在のカナリア諸島の住民、そしてさらには同諸島の住民の移住先であるキューバやプエルトリコに多数見受けられる。
Nafusis(ナフシ族?)…ナフサ山地、北西のリビアの広いエリアで話されていたナフシ語を話したベルベル人。
Siwis(シーワ族?)…エジプトのシーワ・オアシスで暮らし、シーワ語を話すベルベル人。またオアシスベルベル人として知られている。現存するベルベル人の中で最も古いとされている。
などのグループに分かれます。
ベルベル人は昔から様々な民族に侵略されてきたといいます。紀元前10世紀頃、フェニキアから北アフリカの沿岸に至って勢力範囲が広がったフェニキア人がカルタゴなどの交易都市を建設すると、ベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられたそうです。古代ギリシアではベルベル人のことをリビュア人と称していました。
ミツライムの子孫たちもリビアの住民でしたが、ベルベル人は元々はモロッコやアルジェリアに古くからいた民だったようです。ということは、プテ…つまりベルベル人が先住民で、ミツライムの子孫(エジプト人)があとから居住地を広げた…ということでしょうか。
さて次はこれまで何度も言及があった、末っ子カナンです。
カナンは地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯で、紀元前3000年くらいから文献に登場したとても古い土地です。シュメール人の都市マリの紀元前18世紀の残骸で発見された文書では、政治的な共同体として登場しました。
紀元前2000年代には古代エジプト王朝の州の名称として使われました。
この地域に住んでいた「カナン人」と記されている人々は、フェニキア人だと言われています。
フェニキアは古代の地中海東岸に位置した土地で、現在のシリアのタルトゥースのあたりからパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域で、およそ現在のレバノンの領域にあたります。ラテン語では「ポエニ」と呼びます。こっちの呼び方の方が有名ですね。世界史で『ポエニ戦争』とか聞いたことがおありかもしれません。
フェニキア人は、エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に住んでおりました。ですので彼らの文明は、それら古代国家の影響をとても受けています。
彼らは紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始め、紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出し、地中海全域を舞台に活躍し、紀元前8世紀頃に繁栄を極めました。
また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えたそうです。
フェニキア人の建設した主な主要都市には、ティルス(現在のスール)、シドン、ビュブロス、アラドゥスなどがあります。カナンの子孫たちも絡めて、紹介していきたいと思います。
さて、カナンの子孫として挙げられているのは
・シドン(長子)…「漁場」「漁師」の意。フェニキア人の自称
・ヘテ…ハッティ人(ヒッタイト人)のこと
・エブス人…「踏みにじる、踏みつける」の意に由来。エルサレムの先住民
・エモリ人…主に紀元前2000年期半に中東各地で権力を握った諸部族の名称、アムル人ともいう
・ギルガシ人…ヨルダン川の西に住んでいたとされる先住民
・ヒビ人…カナン人の部族のひとつ。フルリ人のことという説も
・アルキ人…レバノン山に住んだ人々
・シニ人…?(カナンのどこかの町とみられている)
・アルワデ人…「解き放つ」の意。フェニキア沿岸最北部の島民
・ツェマリ人…北シリアの町ゼメルの住人
・ハマテ人…「要塞」の意。北シリアのオロンテス川に沿う町
シドンはわざわざ「長子」とつけられておりますので、カナンの直系の息子として扱われてます。商人(カナン)の息子はどうやら漁師(シドン)になったようです。
海上交易で地中海を征したことが由来なのでしょうか?
上記のとおり、シドンはフェニキア人の自称です。カナンがフェニキア人のことですので、息子として描くのはまあ頷けます。
シドンはフェニキア人が造った主要都市のひとつの名前でもあります。レバノンの沿岸部に位置する古代都市で、現在もサイダという名前の都市で残っています。
紀元前3000年紀に創設され、紀元前2000年紀頃に裕福で栄えた街となり、ガラスの質の高さと紫の染料で有名になりました。
元々は漁業と交易の中心地でしたが、最近はサウジアラビアからのアラビア横断パイプラインの地中海側の終着地としての役割を果たしているようです。
紀元前2700年頃、シドンの入植者たちは40キロほど沿岸を下ったところにある町、ティールを発見し、以後長きにわたり両都市はフェニキアの富と権力のトップを巡って争います。これが、上記にも記したティルスのことです。ティルスは紀元前2500年、ビブロス(上記のビュブロス)やベイルートと共にフェニキア人の都市として成立し、 紀元前11世紀から紀元前9世紀に最盛期を迎えます。カルタゴは、ティルスの植民地として後々作られます。
現在のティルスは「スール」(アラビア語で「岩」)と呼ばれる小さな漁村になっているようですが、かつてはフェニキア人の造った都市国家の中で最大規模を誇り、紀元前1000年頃にはフェニキアの首都にもなりました。
次に言及のあるヘテは、ハッティ人…つまりヒッタイト人と考えられています。
ボアズキョイ出土の粘土板文書やバビロニア、アッシリアの史料では「ハッティ」エジプトの史料では「ケタ」と記されております。
ヒッタイトはインド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指します。
高度な製鉄技術によってメソポタミアを征服し、最初の鉄器文化を築いたとされます…が、最近実はそれより前から鉄が使われていたことがわかりました。(^_^;)
彼らの由来ですが、黒海を渡って来た北方系民族説(クルガン仮説)と、近年提唱されているアナトリア地域を故郷として広がって行ったという説(アナトリア仮説)が提唱されていて、まだ決着はついていません。
ちなみに、ヒッタイトの宗教はフルリ人の影響をとても受けておりました。ですので、ヒッタイトはフルリ人だとする学者さんもいます。
ヒッタイトの最初の王国ができたのは、紀元前1680年頃です。クズルウルマック(「赤い河」の意)周辺にできたヒッタイト古王国は、紀元前1595年頃ムルシリ1世の治世のときに、サムス・ディタナ(都市国家バビロニアの第11代目王)率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立します。
紀元前1500年頃成立したヒッタイト中王国を経て紀元前1430年頃成立したヒッタイト新王国は、他国を侵略し領土を広げていきます。紀元前1330年頃にミタンニを制圧、紀元前1285年頃に古代エジプトと衝突しラムセス2世のエジプトを撃退しシリアを支配します。(カデシュの戦い)この際に、世界最古の講和条約が結ばれました。
後世にエジプトで発見された「アマルナ文書」によると、ヒッタイト王スッピルリウマがエジプト王にあてた書簡やその他の外交文書から紀元前14世紀はヒッタイトが北シリア・アナトリア一帯を領有する一大勢力であったことがわかります。
ところが紀元前1190年頃、ヒッタイト王国は約500年の栄華に突如幕を閉じます。
通説では「海の民」によって滅ぼされたとされていましたが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになりました。カフトル人…クレタ島と同じく、《前1200年のカタストロフ》が滅亡の原因ということになります。
新王国が滅びたあと、ヒッタイトは南東アナトリアに移動し紀元前8世紀頃までシロ・ヒッタイト国家群(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動しました。(紀元前1180年~紀元前700年頃)ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられています。
次に言及されているエブス人は、現在のエルサレムに住んでいた原住民です。
いずれこの土地にイスラエル人の王国ができるのですけれども、この時点ではエブス人の街がありました。
実はこのエブス人、日本でいう弥生人なんじゃないかという説もあったりします。面白いんでちょっと調べてみました。《日ユ同祖論》という説です。
日本がまだ大陸と陸続きだった時代に半島に移住して、その後大陸から切り離された古来からの住人が「縄文人」。
大陸から移住してきて稲作やら鉄工やらを伝え、所謂《弥生文化》を花開かせた移民たちが「弥生人」です。
弥生時代の早期のはじまりが紀元前1000年頃、イスラエル王国が建国されたのが紀元前11世紀頃ですので時代的にもありえない話じゃないと思います。
彼らは古代中国の殷(いん)(紀元前1600年頃~紀元前12、11世紀頃)の時代から日本に渡っていて、「南倭人」だとか「夷人(いじん)」と呼ばれていたそうです。
「夷」という漢字は「大」な「弓」と書いて、「好戦的な民族」を表します。(蔑んだ意味合い)
元々は漢民族が古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対して使っていた呼び名でしたが、異民族全般を指す意味に変わっていきました。
日本では「夷」をえびす、えみし、ころす、たいらげる、と訓読します。
以下のような用法があります。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)…大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)に住む人々を異端視・異族視した呼称。
東夷(あずまえびす)…京都人が、荒々しい武士、情を理解しない荒っぽい人、風情が無く、教養・文化に欠ける人、特に東国の武士を指して呼ぶ呼称。
夷曲(ひなぶり)…都から遠くはなれた未開の土地の風俗(田舎ふう)をさす上代の歌謡の一種。あるいは田舎風の詩歌、狂歌。
…などなど。ちょっと蔑んだ意味合いで使われることが多いですね。
エブス人と製鉄族のヒッタイト人を乗せたフェニキア(つまりシドン)のタルシシ船(大きな外洋航行船)隊は、はるばる海を越えて九州国東半島にたどり着きました。そこで製鉄基地を築き、「たたら」の技術を日本に伝えます。
エブスが訛って「エビス(エミシ)」になり、彼らは長い時間をかけて日本文化に馴染んでいったというわけです。
(ジブリの名作『もののけ姫』のアシタカはエミシの末裔でしたね。蝦夷の歴史を踏まえて観ると、一層面白い作品です。)
そして遂には神格化されました。それが現在は七福神の一員として親しまれている恵比寿さまです。
恵比寿は漁業・留守・商いを司る、日本古来の“唯一の”福の神です。他の福の神、たとえば福天(吉祥天)などはインドや中国から伝わってきた神様なんです。
「えびす」という名を持つ神さまは何人かおりまして、
○イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)
○事代主神(ことしろぬしかみ)…大黒の息子。恵比寿が釣竿と鯛を持っているのは、この神様が由来
○少彦名神(すくなびこな)…海の彼方から来たという国造り神。
○彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)…初代天皇である神武天皇の祖父。稲穂・穀物の神。
などなど。
えびすは記紀に出てこない神なので、古くから記紀の中に該当する神を探しだす説がいろいろ出てきたためにこんなことになったみたいです。
「夷」の名のとおり、えびすの本来の神格は《人々の前にときたま現れる外来物》に対する信仰で、海の向こうからやってくる海神・水の神さまでした。
最初に記録に登場したのは平安時代の末期です。『伊呂波字類抄』(三巻本)に「夷 毘沙門」と「三郎殿 不動明王」の二柱の神さまが登場します。この二柱の神さまが時代と共に混同され、「夷三郎」という神さまになりました。初期には毘沙門天や不動明王とされていて、「荒々しい神」として信仰されていたということです。
その後、室町時代に記紀のヒルコノミコトとエビスが同一視されます。
ヒルコはアマテラスやスサノオより前の、イザナギとイザナミの第一子でした。
しかし、3歳になっても足が立たなかったために流し捨てられてしまいます。その神話を受けて、流されたヒルコはどこかの地に漂着したという信仰が生まれました。そしてヒルコが海からやってくる姿が海の神であるエビスの姿と一致したため、二柱は同一視されるようになったというわけです。
蛭子命の漂着の伝承は各地にありますが、その中でも西宮神社はえびすという名の神を祀った神社としては現存する記録上で最古なので、全国のえびす神社の総本宮とされているそうです。江戸時代から明治にかけて「えびす=蛭子説」に基づいて祭神名を「えびす」から「蛭子」に改めた神社もあるとか。
古代エルサレム人の血脈がこんな極東の島国で神さまになっていたとしたらと思うと、人種や宗教の壁なんて実に小さなものだと思います。
…えー、話が大変長くなってしまいました。
諸事情のため、ここで一度区切らせていただきます。(ブログの文字数が限界になってしまったので(爆))
続きはこちらです↓↓↓↓
聖書を楽しむ【8】(2): http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/Entry/35/
後半もまだまだ聖書の裏側のあんなことこんなことがざくざく出てきます。
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