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音楽とお酒と歴史探索が趣味です。色々書きなぐってます。
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赤澤 舞
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趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。

一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿

音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。

レトロゲームや特撮も好物です。

ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
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2017/01/11 (Wed)
第10章の最終回です。

※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。


前回、セムの五男アラムまで調べてみました。
本日はその子どもたちから見てみます。

・ウツ(「豊穣」の意?)

・フル(「高貴な」の意)

・ゲテル(?)

・マシュ(?)


まずウツは、元々はアラム人の一部族に与えられた名前だそうですが、のちに地名になったようです。
古代エドム王国と同一視される事があります。
エドムは現パレスチナの南南東、アカバ湾から死海にかけての地名です。
そこに住んだというエドム人は古代パレスチナに居住したセム系民族で、現在のエジプト人だそうな。(ほんとかどうかは知りませんが) 後にヘレニズム文化でギリシア語化し、イドマヤ人と呼ばれるようになるそうです。エドムについてはこの先でまた名前が出てきますので簡単に…。

エドムの地には紀元前4000年紀にはすでに半農半遊牧の人々が居住していたのですが、紀元前1900年以降の中期および後期青銅器時代にはほとんど居住の跡がないそうです。かわりに紀元前1200年頃からエジプトの記録に現れるようになり、この頃からセム系のエドム人が居住したと言われています。
紀元前6世紀頃まで、エドム人たちはペトラ(現ヨルダンの死海とアカバ湾の間にある渓谷にある遺跡。ギリシャ語で「崖」を意味する。)を拠点に生活していました。山から銅や鉄などを発掘して輸出したり、交易路を支配してそこを通る商人たちから利益を得たりしていたようです。
紀元前6世紀にエドムはバビロニアに滅ぼされ、その跡地には北アラビアを起源とする遊牧民族であったナバテア人たちが住み着きました。紀元前4世紀頃には1万人程だったナバテア人の人口は、紀元前2世紀頃には爆発的に増えて20万人になったといいます。
紀元前168年にはナバテア王国を建国し、ローマ帝国との衝突をうまく避けつつ領土を広げていきましたが、紀元前63年にローマの属国となり、106年にアラビア属州に併合という形で滅亡しました。


次男フルは、色々説があります。
フラティウス・ヨセフス曰くアルメニアの始祖だそうな。

アルメニア人はこれまた起源が不明の人種で、彼らが住んでいたチグリス川とユーフラテス川の源流近くにあるアルメニア高原はメソポタミアの一部として世界最古の文明発祥地の一つとされています。
しかし文明の成立以前の遺物も発掘されていて、この地にはかなり昔から人が暮らしていたと思われます。

・アラガツ山から前期旧石器時代アブヴィル期(50~60万年前?)の石器猿投
・アルティン山から中石器時代(紀元前20000~紀元前9000年頃)の遺構

その他、アルメニア各地で新石器時代の刀剣や陶器など

紀元前7000年紀には、色々な用途に加工された黒曜石の品がトロス山脈を越えたメソポタミア平野へと輸出されていたと推定されています。この時代から既に、アルメニアではチグリス・ユーフラテス川を利用した河川交易が行われていたんですね。紀元前2000年紀の遺構からは青銅の装飾品も出土しており、さらにはそれらに宝石で象嵌(ぞうがん)を施す技術も生み出されていたそうです。

この土地に王国ができたのは紀元前9世紀頃。何度か名前だけ登場しましたが、『ウラルトゥ』という国です。 ウラルトゥを作ったのはアルメニア人ではなくて、「ウルアトリ」または「ナイリ」と呼ばれていた民族でした。
紀元前1250年頃のアッシリアの文書に登場した彼らは、紀元前860年~紀元前830年に王国を形成しました。
ウラルトゥは、最盛期にはアルメニア高原の全域を含み、東は現在のタブリーズを越え、南はティグリス川、西はユーフラテス川の上流域にまで至る帝国になります。けれども紀元前714~紀元前585年の《ウラルトゥ・アッシリア戦争》やキンメリア人の攻撃で疲弊していた王国は、紀元前585年のスキタイ人の攻撃によって滅びました。このあと、アケメネス朝ペルシアが成立してから、やっとこの地にアルメニア人が定住したといいます。
ウラルトゥを作ったウルアトリ人が外来のインド・ヨーロッパ語族の勢力…西隣のヒッタイト人(マイコープ文化の系統の集団)南隣のフルリ人、アッシリア人、グティ人(アッカド王朝末期にメソポタミアに侵入した人々)…などと混ざり合ったことにより、現代に繋がるアルメニア人が誕生したと考えられています。
アルメニア人による独立国家が現れるのは、紀元前188年とずいぶん先です。「アルメニア王国」は一時は黒海からカスピ海までを統べる大国になりますが、紀元前66年に共和政ローマに敗れ衰退します。

別の人の説ですと、ヘロドトスは「アルメニア人=紀元前7世紀頃ヴァン湖周辺に移住したフリギア人の植民者」だとしています。ただし言語学的にはフリギア語とアルメニア語の関係ははっきりしていません。

また、フルという名前に似てるという理由でガリラヤの海の北方にある『メロムの水』に近いフーラ地方を支持する人もいます。
メロムの水とはメロム市の水源のことで、現在のフラ湖(イスラエル北部、ガリラヤ湖の北にある湖)です。

ちなみに、『歴代誌』ではフルはセムの子として挙げられているようです。


三男ゲテルについては、資料が出てこなくて分かりませんでした。


四男マシュは、モンス・マシウスという山に関係があると出てきました。
ドイツ語のWikipediaをえんやこらと読んだところ、どうやらマシウス山付近に住んでいた「ミュグドニア人」という民族が関係しているようです。ミュグドニア人はイラク北部あたりの地域に古代住んでいたという人々で、コンマゲネ地方(古代アルメニアの地名。 現トルコ共和国の南東部、シリアの国境沿い)に幾つも町を作っていたといいます。
そのうちの一つであるゼウグマはユーフラテスの川幅が狭くなった地点に造られた町で、古くから知られた軍事上の要衝だったそうな。アレクサンダー大王もここを通過して遠征し、紀元前4世紀には軍の駐屯地として栄えたそうです。

コンマゲネが最初に登場するのはアッシリアの文献で、「Kummuhu」と記されています。
紀元前708年、コンマゲネはアッシリアのサルゴン2世の勢力下に置かれ、以降はアッシリアの同盟国の地位を保っていました。紀元前6世紀にアッシリアが滅亡するとメディア、そしてメディアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアの支配下に入ります。紀元前4世紀後半にアレクサンドロス3世によってアケメネス朝が倒され、帝国がディアドコイ戦争によってヘレニズム諸国へ分裂すると、コンマゲネはヘレニズム諸国の一つであるセレウコス朝の州へと移行しました。コンマゲネは北をカッパドキア、西をキリキアに面しており、セレウコス朝にとっても重要な地位を占める州だったようです。

そのセレウコス朝(紀元前312~紀元前63年)というのは、マケドニア王国アレクサンドロス大王の後継者のひとりであったセレウコス1世がオリエントに作った王国なのですが、『征服した領土内で活発な都市建設を行った』のが特徴です。
セレウコス朝だけじゃなくてヘレニズム時代の大きな国にはみんな言えることなのですけれども、セレウコス1世と二代目王のとアンティオコス1世は特に熱心に都市を作ってたみたいです。なんでかっていうと、まずひとつに軍の主力が歩兵のため、連続した都市網の整備が重要だったから。ひとつ町を過ぎたら次の町までしばらく平野、となると進軍も大変ですからね。(RPGではよくあるけど)
もうひとつは、新しく占領した地域の支配を確立するために領内にギリシア人やマケドニア人を定着させる必要があったから。住んでしまったもん勝ち、というわけですね。
でも、たくさん都市を作るにあたって、一から建設していたんじゃお金も時間もすごくかかります。そこで、多くの場合既存の都市を拡張したり、再整備したりしたわけです。
たとえば北メソポタミアに建設されたアンティオキア(ミュグドニアのアンティオキア)は旧ニシビスを基盤として拡張された計画都市でした。
ちなみにアンティオキアというのは、セレウコス1世が父アンティオコスを記念して各地に建てた都市です。だから、アンティオキアという名前の都市はたくさんあります。
小アジア南東部、モンス・マシウスの麓にあった町ニシビスは、古代の城市で現トルコのヌサイビンです。ここは小アジアの山岳道から北部シリアに入る地点に位置していたので、古くから戦略上とか商業の東西交通の要衝でした。そしてこの町も、元々はミュグドニア人たちが造った町のひとつであろう、ということです。

セレウコス1世の在位が紀元前305年~紀元前281年ですので、この期間中にニシビスはアンティオキアに造り直されたというわけですね。
残念ながら元々のニシビスがいつ頃造られた町なのかは、分かりません。そしてミュグドニア人たちがどうなったかも不明です。様々な民族の支配を受けるうちに、混血が進んで同化してしまったのかもしれません。
その後、紀元前162年にコンマゲネ地方は「コンマゲネ王国」として独立しますが、国民の人種的にはマケドニア人の国でした。
その独立は72年、最後の国王アンティオコス4世の死をもって終わりを告げ、以降はローマ帝国のシリア属州に編入されます。

色々書きましたが、つまりマシュは最初にアッシリアに支配される紀元前708年よりも前にコンマゲネ地方に住んでいたミュグドニア人を指すのではないか?というわけです。


さて、次はちょっと戻ってセムの三番目の子アルパクシャデです。
彼についてはあまり記述がなかったのですが、アルバニア人の祖先ではないかという記述がネットにありました。ほかに手がかりもありませんでしたので、とりあえずアルバニア人について調べます。
アルバニア人といえば、私がとっさに思い浮かぶのはモーツァルトのオペラ『Cosi fan tutte』でフェランドとグリエルモが恋人を欺くために変装していた「変な髭の異国人」でした。しかしそれは台本作者であるイタリア人及び、作曲家であるオーストリア人から見て「変」なのであって、アルバニア人にはアルバニア人の歴史と文化があるわけなんですね。

さて、アルバニア人とはどんな民族かというと、東ヨーロッパのバルカン半島南西部に住んでいる人々です。現在のアルバニア共和国は西はアドリア海に面し、北はモンテネグロ、東はマケドニア共和国とコソボ、南にはギリシャと国境を接しています。
アルバニア人は、古代はイリュリア人と呼ばれていた民族でした。紀元前1000年頃から、イリュリア語(インド・ヨーロッパ語族に属する言葉)を話す人々が住むようになったようです。文化的には、南隣のギリシャの影響を受けていました。

考古学の一説によれば、イリュリア人の祖先は青銅器時代の初期にはイリュリア地方に定着し、非インド・ヨーロッパ語族の祖先と混合したと考えられています。ポーキス(コリンティアコス湾の北部にあった、古代ギリシアの一地方)から移住してきた人たちじゃね?という意見の方もお見かけしました。
こうしてイリュリア人が誕生し、

アウタリティア
ダッサレティア
セリドネス
タウランティ

など、古代イリュリア人の部族が形成されました。 さらにもうちょい北に住んでいた

ダルマティア(のちのクロアチア人)
パンノニ

などの部族も、イリュリア部族として分類されたりします。ただしダルマティア人は、言語的にはイリュリア人ですがイリュリア王国には短期間しか所属しませんでした。(紀元前180年にイリュリアから独立)
古代イリュリア人は牛や馬や農産物、銅や鉄製の道具などを作り、それを交易して生活していたようです。
宗教の面では、古墳葬や生け贄の儀式などが行われていたといいます。古代イリュリアにも独自の神様の信仰がありまして、イリュリアの都市リゾン(現モンテネグロのリサン)の守護神はメダウラスという、槍を持って馬の背に乗った姿の神様だったそうです。

そんなイリュリア人たちですが、部族同士は仲が悪くていつもドンパチ喧嘩しておりました。たまにある部族が他の部族を支配したりして、そうして生まれた小さな国が生まれたり滅んだりを繰り返していたようです。
状況が大きく変わったのが紀元前4世紀で、バルデュリスという王さまがイリュリアを強力な国に変えたといいます。紀元前359年、イリュリア王国はマケドニア王国に侵攻して勝利し、マケドニアの一部を支配下に置くことに成功しました。けれども翌年あっさり取り返されてしまいます。マケドニアがアレクサンドロス大王の時代になってから、イリュリアは再び戦いを挑みますがやっぱり負けてしまいました。それから36年間、イリュリアはマケドニアの支配下に置かれた時代がアレクサンドロス大王の死まで続きます。
ちなみにアレクサンドロス大王のペルシア遠征にはイリュリア部族の指導者と兵士が同行したそうです。

再びイリュリアに独立王国ができたのは、紀元前323年にアレクサンドロス大王が亡くなったあとです。
紀元前312年にエピダムノス(現ドゥラス。アルバニア第二の都市)からギリシア人を追放したイリュリアは、紀元前3世紀の終わりには現アルバニアの都市シュコドラ近くに首都をおき、アルバニア北部、モンテネグロ、ヘルツェゴビナを支配するようになります。
新王国を築いたアグロン王は、ローマ帝国にも喧嘩を売るほどのたいそう気の強いお人でしたが、ローマとの戦がこれからというときに死んでしまいました。残されたアグロンの息子ピネスは彼のあとをついでイリュリア王になりましたが、幼すぎて政務ができません。そこでピネスの後見人および摂政になったのが、ピネスのお母さんであるお妃トリテウタ…ではなく、後妻のテウタでした。
このテウタこそ、「イリュリアの女王」と呼ばれた人物です。謎の多い人物で、イッサ(現:ヴィス島)出身のイリュリア人だとか、現在のヴェネツィア近郊に住んでいたリブリニア人の可能性もあるとか、 色々言われています。
彼女は紀元前231年から紀元前228年にかけて、イリュリア(バルカン半島西部)及びその周辺を支配しました。
彼女の政策でおそらく一番有名なのは「海賊の保護」です。国の財政を補うためにローマ商船を襲う海賊たちを保護し、自らもそこから利益を得ていたといいます。イギリスのエリザベス1世よりも1780年以上も前に、「海賊女王」が居たんですね。びっくり。
この行為はもちろんローマを怒らせました。地中海を「我らの海」(マーレ・ノストルム)と呼んでいたローマ人にとって、テウタの海賊たちは非常に不愉快な存在でした。ローマの元老院はテウタに二人の使者を送り、海賊を取り締まるよう要求します。しかし、それに対するテウタの返答は『海賊行為はイリュリアでは合法であり、王であっても止めさせる力はない』というものでした。この時、使者のひとりがテウタに不敬な発言をしたらしく、 ローマに帰る途中でテウタの手の者に殺されてしまいます。この事件にローマの世論は沸騰し、紀元前229年、ローマはイリュリアへ宣戦布告します。所謂《第一次イリュリア戦争》のはじまりです。

ローマは200隻の軍船をコルキラ島(現:ケルキラ)に送り、更に陸軍をアポロニアの遥か北へ上陸させ、海軍と協力してイリュリア各地を平定させつつ首都シュコドラを包囲しました。帝国の本気におののいたのか、テウタの代理で司令官を務めていたデミトリウスは戦うことなくあっさり降伏してしまいます。
テウタは籠城して抵抗しましたが大軍に敵うわけもなく、紀元前227年にローマへ降伏します。ローマはシュコドラ周辺の僅かな領地を除くテウタの旧領を没収、テウタ配下の海賊船がリスッス(現:レジャ)より下ることを禁じ、テウタにローマの命令には従うことと貢ぎ物を収めることを命じました。

これ以降のテウタの消息は不明です。謎に満ちた彼女の人生は、地元の人に伝説として語り継がれているそうです。言い伝えでは、どうやら彼女が宝飾品を隠した秘密の場所がどこかにあるとか。ロマンですねぇ。

ちなみにそのあとのイリュリアですが、先ほど登場しましたテウタの部下でローマに屈したデミトリウスが首謀者の《第二次イリュリア戦争》(紀元前220〜紀元前219年)、そしてイリュリア最後の王ゲンティウスの時代、ローマに侵攻され首都スコドラ(現アルバニアのシュコドラ)が陥落した《第三次イリュリア戦争》(紀元前168年)を経て、ローマの支配に下ります。後に、この地域は、ローマに直接支配される属州イリュリクムとなりました。


さて、最後にアルパクシャデの子孫の紹介です。

シェラフ(?)

エベル(「渡る、横断する」「向こう側、反対側」の意)

ペレグ(「分ける」「分割する」)
ヨクタン(?)


アルパクシャデの子として挙げられているシェラフは、詳細は分かりませんでした。
名前の意味も出てこなかったのですが、版によっては「シェラ」と表記されていて、もしかしたらずいぶん前に出てきたメトシェラの「シェラ(送る)」と同じ意味かもしれません。


その子孫のエベルは、どうやらヘブライ人の始祖となる人物のようです。
エベルという言葉自体は「渡る」「向こう側」の意味で、慣例的にユーフラテス川の向こう側、ユーフラテス川の西の地域、シリアやパレスチナを指したりもするそうです。
彼から発生したヘブライ人は、「過ぎ行く人、渡る人」の意味を持ちます。ヘブライ人は、今後の聖書の主役となる人々ですので後々ゆっくり調べることにしましょう。

エベルは二人の息子たち、ペレグとヨクタンの兄弟をもうけます。
ヨクタンはちょっと名前の意味は出てこなかったのですが、ペレグは「分岐(パーラグ)」から付けられた名前です。「ペレグの時代に地が分けられた」という文がわざわざ書かれていますので、エベルはその意味の名前を子供にそのまんま付けたわけですね。

ペレグの子孫はひとまず置いておいて、この章ではヨクタンの子孫を紹介しています。


・アルモダデ( 「計り知れないもの」「計られない者」「愛される者」「神は愛される」の意)=サヌア王国?

・シェレフ(トルコ語で「名誉」「尊厳」の意?)=アラビア南部のどこか

・ハツァルマベテ(「死の住まい」「死の法廷」の意)=ハドラマウト王国

・エラフ(「神は見ている」の意)=?

・ハドラム(ペルシャ語で「征服されない」の意)=サヌアの南らへん?

・ウザル(「放浪」の意)=サヌア王国

・ディクラ(?)=?

・オバル(「古い時代の不便」の意)=ソマリランドのゼイラorエリトリアのアッサブ


・アビマエル(「マエルの父」の意)=メッカ

・シェバ(「宣誓」「7」の意)=イエメン付近(サバア王国?)

・オフィル(「豊作な土地」の意)=エチオピアorスーダン?

・ハビラ(「砂地」の意)=バーレーンorハウラン(アラビア南西海岸から現イエメン北方の地域)

・ヨバブ(?)=オマーン湾の都市

ヨクタンの13人の子どもたちは、「メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯」に住んだということです。
メシャは、この先で出てくる《イシュマエル人》の「マサ」という人物の名前のつづりの変形だという説がありまして、つまりマサが定住した北アラビアを指すと言われております。
セファルは、正確な場所は定かではありませんが、イエメンのツァファル(紅海の南端から北東へ約160kmの地点、ヒムヤル王国の首都ザファール)か、アラビア海に面したイエメンのマハラ(マフラ)県にある都市という説があります。
つまり、アラビア半島ほぼ全域というわけですね。

13人の子どものうち、アルモダデ、ハドラム、ウザルの3人が『サヌア王国』に関係があります。
人類最古の町のひとつでアラビア半島南西にあり、サバア王国の首都マアリブ(今日のマアリブ県)と紅海を結ぶ十字路に位置していたサヌアは、10世紀頃にはサバア王国の都市として栄えていたそうな。(つまりそれより前の、独立していた時代を指しているのか…?)
古くはウザルの名にちなんで、「アザル」という名前で呼ばれていました。

ハツァルマベテは『ハドラマウト王国』を指すとありましたが、ハドラマウトは以前も出てきましたね。
クシュの子孫サブタがハドラマウト王国の首都サボタ、そして同じくクシュの子孫ラマがハドラマウト北方に住んだランマニテ人のことだと前に出てきました。
更に言うと、シェバとハビラは出てくるのこれで3回目です。

あれ、この13人クシュの一族と居住区域かぶってる?
どうやらヨクタンの子孫であるこの13人の名前は、アラビア半島の交易ルート中継地点のリストからの引用という説があります。
つまり創世記の10章を書いた人は、商人の交易ルートの町の名前リストをまるっと拝借してヨクタンの子孫に当てたというわけですね。
引用元が違うわけなので、クシュの子孫たちと居住区域はかぶっていますが同じ人種ではない可能性もあります。
クシュの子であるハビラは一般的に、古代シバ人の碑文の中で『ハウラン』と呼ばれている地域と結びつけられているそうです。
ハウランはアラビアの南西海岸から現代のイエメンの北方までの地域で、この部族の人々がやがて紅海を渡ってアフリカのジブチやソマリアとして現在知られる地域に移動したのではないか、或いはその逆でアフリカからアラビアに渡ったのではないか、と考えられています。
一方ヨクタンの子のハビラは、同じ南アラビアに関係があるとはされますが、クシュ(エチオピア)との血縁を考えるとハウラン人とは別の地域(おそらくアラビアのもっと北寄りの地域)を支配した人々と考えられています。
こちらのハビラの方が、聖書の第二章で「エデンから流れる川の支流があり、良質な金や松ヤニや、縞瑪瑙が取れる土地」と紹介されていたハビラの名称の起源になったのではと考える人もいるようです。


オバルは、紀元後40年から70年ごろに成立したと推定される『エリュトゥラー海案内記』に記載されていた、エチオピア沿岸のアヴァリタエという町だという説があるそうです。そのアヴァリタエがどこかというのにも諸説ありまして、ソマリランドのゼイラとエリトリアのアッサブが候補に挙がっています。
ソマリランドもエリトリアも、どちらも現在『アフリカの角』と呼ばれているアフリカ大陸東端のソマリア全域とエチオピアの一部などを占める半島にある国です。
『アフリカの角』はとても古い土地で、現人類が進化した場所と言われています。氷河期終わりにはすでに現生人類がエリトリアを占領していたそうです。
エリトリアの最も古い人類の痕跡は200万年前に遡り、アブドゥールの石器(12.5万年前のもの)は海岸の海洋環境にヒトが住んでいたことの最も古い証明になっています。また、岩絵に描かれているのがほとんど家畜化された動物の絵であるため、ここに住んでいた人々は主に牧畜を営んで生活していたと考えられています。

そんな『アフリカの角』に王国が現れたのは紀元前25世紀のことです。「プント国」という国が、現在のジブチ、エチオピア、エリトリア、北部ソマリア、スーダン紅海沿岸の地域にあった………とみられています。というのは、プント国の正確な位置はいまだ不明なのです。とりあえずエジプトの南東にあったとする学者さんが大勢で、ソマリア、ジブチ、エリトリア、スーダンなどに比定されていますが、アラビアにあったと主張する学者さんもいらっしゃいます。
プント国の記録などは、本国ではなくて交易相手のエジプトに残っております。
いちばん古いもので紀元前26世紀、エジプト第4王朝のクフ王の時代にプント国から黄金がもたらされたという記録がある他、その後の王たちもプント国から色々なものを輸入していたそうです。
ハトシェプスト女王(在位:紀元前1479年頃~紀元前1458年頃)はプント国との交易に殊更熱心で、レリーフなどの資料が残っているのも彼女の葬祭殿からでした。当時、プントは「神の国 (Ta netjer)」と呼ばれていたそうです。
エジプトとプントの交易はエジプト第20王朝のおわりまで続きましたが、紀元前1070年頃にエジプト新王国時代が終わると以降交易は断絶してしまい、いつしかプントはおとぎ話に出てくる国のように語られるようになったといいます。

その次に王国の記録が残っているのが、紀元前10~紀元前5世紀にエリトリアと北部エチオピアにあった「ダモト王国」です。かつてダモト王国の都市だったエリトリア南部のタマラには大規模な寺院の遺跡があり、かなり栄えていた国だったようです。
ダモト王国が崩壊したあと、後継の小国による支配の時代がしばらく続きます。

その次に現れた大きな王国は、1世紀~940年頃にエリトリアとエチオピア北部、そしてアラビア半島の紅海沿岸部に栄えた貿易国である「アスクム王国」です。アフリカで初めて独自の硬貨を持った国でもあります。
王国の成り立ちとしては、一般的には現在のイエメンに当たる南アラビアから紅海を越えてきたセム語系のサバ(シェバ)人が中心になって建国されたと考えられています。その一方で、土着の王国である前述のダモト王国を継承した国である説もあります。
王たちは、ソロモン王とシバの女王の子であるメネリク1世の血筋を引いているとして自分たちの正当性を主張し、"negusa nagast"(「王の中の王」)と公称していたそうです。
350年頃にはヌビアのクシュ王国を征服し、最盛期には現在のエリトリア、北部エチオピア、イエメン(ヒムヤル王国)、北部ソマリア、ジブチ、北部スーダンに広がる大国になりました。 この頃のアクスムの住民は、エチオピアと南アラビアにいるセム系民族とハム系民族が混ざり合って構成されていたそうです。
しかし7世紀にイスラム教が成立すると、次第に新興のイスラム帝国に圧迫されていきました。経済的に孤立し弱体化した王国は、950年または1137年に滅亡しました。

長々書きましたが、つまりエチオピア沿岸のアヴァリタエは「プント王国(紀元前25世紀~紀元前10世紀頃)」か「ダモト王国(紀元前10~紀元前5世紀)」か「アスクム王国(1世紀~940年頃)」の港町だったんだろう、ということです。他の国の年代から考えて、たぶんプント王国かダモト王国だろうな、と思います。


その次に名前の挙がっているアビマエルは、現在のメッカのことらしい、とありました。
如何せんごく普通の日本人である私はキリスト教以上にイスラム教のことに関して無知なので、メッカというとイスラム教最大の聖地であるらしい、というくらいしか知りません。

ですのでちょっと調べてみました!!

メッカは、現サウジアラビアのマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域 (アラビア半島の紅海沿岸の地方 ))の州都で正式名は《マッカ・アル=ムカッラマ》、別名《ウンム・アル=クラー「町々の母」)》といいます。雨のほとんど降らない砂漠地帯で、山々にはさまれた狭い谷の中に街があります。
ここに住む人々は古くから湧き水を頼りに生活していたそうですが、メッカの街がいつ出来たかはよく分かりません。2世紀に書かれたクラウディオス・プトレマイオスの「地理学」にはマコラバという名前で記載があるそうなので、少なくともこれより前に街は出来ていたことになります。
この《マコラバ》という名称の由来は「神殿」を意味するミクラーブという言葉であることから、2世紀には既に聖地として認識されていたと考えられます。

何故イスラム教にとってメッカは聖地なのかというと、ズバリ!イスラム教を作ったムハンマドがメッカの生まれだから。でもまあ、これはムハンマドが生まれた570年より後の話です。
ではメッカには何があるのか、といいますと。
街のいちばん低地の中心部に『マスジド・ハラーム』というモスク(イスラム教の礼拝堂)があります。
イスラム教徒の人々はマスジド・ハラームを地上で最も神聖な場所と考えていて、そこにはイスラム教徒しか入ることはできません。ムスリムに変装してメッカを訪れた異教徒が、検問で引っ掛かって処刑されたこともあるそうです。
このモスクは『カアバ神殿』を守るために638年に建てられたものです。イスラム教徒の人々はみんな、この『カアバ神殿』に礼拝するために一日何度もメッカの方向に向かってお祈りしたり、一生に一度はメッカに行ったりするわけです。最近は携帯のGPS機能で方向が分かるようになって、ムスリムさんたちも喜んでいるとか。
そこまでイスラム教徒の皆さんが拝みたがる『カアバ神殿』とは一体なんぞや?と思って調べたところ。
なんとこれまた、元々はイスラム教のものじゃなかったんですよね。尚且つ、キリスト教にもとても関わりのあるものでした。

昔々、イスラム教ができるよりもキリスト教ができるよりも前の時代。
当時のアラビア人は多神教を信仰しておりまして、カアバ神殿もその多神教の神殿でありました。神殿には360体もの神々の像が置かれていたそうです。その中でもいちばん偉い最高神は緊急時の救済を司る『アッラーフ』で、二番目に偉いのが月の女神『アッラート』でした。アッラートはアッラーフの娘で、彼女の「御神体」は、天然ガラスである黒曜石(もしくは隕石由来のテクタイト)でできていると言われている『黒石』でした。アニミズム時代は「月からの隕石」と信じられていたそうです。

イスラム教の伝承によりますと、黒石は神が人類の祖であるアーダム(アダム)とその妻ハウワー(イヴ)に与えたもので、どこに祭壇を築いて神に生け贄を捧げれば良いのかを指し示すものだったそうです。その石を祀るために、神さまは二人に命じて『カアバ神殿』を建設させました。これが地上で最初の寺院となったということです。
天国から降って来たこの石は最初は目映く輝く純粋な白だったのですが、長年に亘り人々の罪業を吸収し続けたために黒くなってしまったのだそうな。
アーダムの祭壇と石は大洪水で失われ一度忘れ去られてしまいますが、大天使ジブリール(ガブリエル)がその在処をイブラーヒーム(アブラハム)に示し再発見されます。イブラーヒームは息子のイスマーイール(イシュマエル)と共に、石を埋め込むための新しい寺院を建設しました。この新しい寺院がメッカのカアバ神殿で、イスマーイールはムハンマドの祖先である、というわけです。
その後、カアバはイスマーイールの子孫であるアラビア人が信仰の中心とする神殿となったのですが、やがてイブラーヒーム親子の真正な一神教は忘れ去られて多神教の神殿となったとされています。
つまり、黒石がアッラートの御神体になったのは後からで、元々は一神教のものだったんですよ、と言ってるわけですね。

イスラム教の創始者で預言者とされているムハンマドが生まれた時代、カアバ神殿はこの地の豪族であるクライシュ族が管理していました。クライシュ族は、遡るとアドナーン族というアラム人がアラブ化した民族だと言われているそうです。メッカの東方で遊牧生活を営んでいたクライシュ族は、5世紀末頃にメッカを征服しカアバ神殿の守護権を手に入れました。

当時メッカはアラビア半島の交易路の十字路だったためにキャラバンの避難所としても使われていて、キャラバンの人々は自分達が信じる多神教の偶像を奉納していました。
クライシュ族出身のムハンマドが興したイスラム教は多神教と偶像を否定していましたが、クルアーンに記されていた上記の伝承からカアバ神殿と黒石は大事なものだと思っていました。
ですんで、630年にムハンマド率いるムスリム軍がメッカを征服して偶像をぜんぶ破壊したときも、カアバ神殿と黒石だけは残しました。(当時のカアバ神殿は、ムハンマドが602年に建て直したもの)
偶像崇拝の禁じられているイスラム教において黒石は唯一拝むことが許されているもので、ムスリムたちは黒石を通して神さまを拝んでいるんだそうです。
特別な事情がない限り、一日に5回(シーア派は3回)メッカのカアバの方角(キブラ)を向いて祈りを捧げることが義務付けられているため、カアバを守護するマスジド・ハラームを除く世界中のすべてのモスクには、必ずキブラを示す壁のくぼみ(ミフラーブ)があります。
イスラム教の根底にはキリスト教と同じ神さまがいるわけですね。今あんなにいがみ合ってるのに。

さて、カアバの話が長くなりました(汗)
とりあえず、2世紀に聖地として認識されていたということはそれよりもかなり昔から街があったことになります。
アラブ地域のイスラム教以前の時代を「ジャーヒリーヤ(無明時代)」と呼びます。とにかく資料が少なくて、あんまり知られていない時代なんですね。

詳しくはよくわからなかったので、とりあえず昔アラビア半島にあった文明や国をざっと書き出しますと

・紀元前2450年~1700年以降 ディルムーン文明
バハレイン島を主な中心地として栄えた文明。メソポタミアとインダス両文明の交差点であり、重要な交易中継地でした。

・紀元前1700年~紀元前400年 リフヤーン王国(ディーダーン王国)
アラビア半島北西部の現在のウラーからヒジュルへの谷間にあった古代アラビアの王国。首都はアルウラ。古代文明を結び付ける主要交易路に沿った戦略的な存在だったようです。

・紀元前8~紀元前7世紀 アラビア半島北西部のアドゥーマートゥー王国
北アラビア北部にあるアラブ居住区ドゥーマ・ジャンダルというところで興った王国。アドゥーマートゥーとは『荒れ地の中心にあるアラブの砦』という意味だそうで、アッシリアの年代記に記載されていました。中心になっていたのはケダールというアラブ部族で、領地の中にあったオアシスを利用してケダールの各支族や他部族を従属させていたようです。女王の国で、歴代5人の女王が国を支配していたと記録に残っています。

・紀元前8~3世紀 ハドラマウト王国
過去の記事参照。首都は涸れ谷イルマにあった街シャブワ。

・紀元前8世紀頃~280年 サバア王国
過去の記事参照。首都マリブはダーナという涸れ谷の中にあった街。

・紀元前800年~紀元前500年 アウサーン王国
現イエメンの古代王国。首都だったハガール・ヤッヒルはマールハという涸れ谷の中にありました。ヘレニズム文明の影響を受けた街には日干し煉瓦で出来た家々が建ち並び、寺院や宮殿がそびえ、隊商用の市場や宿が栄えていたそうです。
シバの碑文によると、この都市はシバの王兼ムカリブ(司祭)のカラビール・ワタールによって紀元前7世紀に破壊されてしまいましたが、紀元前2世紀末に復活して1世紀の初めまで続いていたと考えられています。

・紀元前4世紀~200年 カタバーン王国
バイハーン渓谷に栄えたイエメンの古代王国。首都はティムナ。紀元前1000年期後半で最も代表的な南アラビア古代王国でした。他の王国と同じく、乳香と没薬の交易で莫大な富を得ていましたが、2世紀後半にハドラマウト王国によって属領化されました。

・紀元前8世紀~紀元前1世紀 マイーン王国
シバ族、ハドラマウト族、カタバーン族と並ぶ、セム系古代イエメン4部族のひとつである「マイーン族」の国。首都は涸れ谷ジョウフにあった街カルナーウ。やはり乳香と没薬の交易で栄えました。最盛期は紀元前4~紀元前1世紀で、紀元前2世紀後半にシバ王国に敗れ、紀元前1世紀に滅びます。ちょうどこの時期が
第一次南アラビア王国郡の最初の終焉でした。マイーン語は紀元後100年くらいに途絶えたと言われています。

・紀元前2世紀~2世紀 ナバテア王国
ウツのところで少し出てきた国。エドム人が居なくなったあとに住み着いた遊牧民たちが築いた王国。

・紀元前110~525年 ヒムヤル王国
アラビア半島南部に住んでいたヒムヤル族がイエメンに築いた王国。 ヒムヤル族はサバア人、ミナエア人の文化と商業を継承し、同じ言語を話していたと考えられています。ザファール(現:イッブ)を占領し、首都としました。そして紀元前25年からサバア王国と抗争を続け最終的に280年に征服、その他カタバーン王国を200年頃、ハドラマウト王国を300年頃に征服して併呑し、国土を広げます。しかし南アラビアの王国同士の争いは続き、これがエチオピアのアクスム王国の介入を招き、首都ザファールは3世紀の初めに陥落させられてしまいます。のちにザファールは奪還したのですが、その後ヒムヤル王国の支配はあまり安定しませんでした。陸上交易はヒジャーズの北にあるナバテア人の領土で遮られ、海上交易はローマ帝国がはるかに卓越して居たためです。民族間の争いも不安の種でした。そのなかでも恐らく王国没落の決定打となったのは、6世紀にデュヌワス王が国教をユダヤ教に変えたことです。当時ヒムヤル王国に介入していたアスクム王国はキリスト教でしたので、これに大激怒。アスクム王国はビザンチン帝国の奨励を得てヒムヤル王国を侵略し属領化しました。そしてその50年後、イエメンはサーサーン朝ペルシアに支配されることになり、628年に総督がイスラム教に改宗するとヒムヤル族の多くもイスラム教を受け入れました。

・紀元前6~紀元後数世紀 都市国家ジャルハー
アラビア半島東部にあったらしいけど正確な位置は不明。ナバテア人が支配していた隊商路とはまた別のルートの隊商路の、終点にあたる町だったそうです。イラクへの陸路と海路両方を支配していた大貿易センターで、アラビア湾からアラビア半島北西部、そして地中海へと陸路で運ばれる全ての交易を支配していたそうです。


他にも小さな国はたくさんあったっぽいけど、とりあえずこんなかんじです。


ヨバブはオマーン湾の都市らしい、とのことです。インド洋の一部で、アラビア湾とペルシア湾をつなぐ部分を差します。現在のオマーンはアラビア半島の東端にありますので、たぶんそのあたりなんじゃないでしょうか?
オマーンには紀元前3000年紀に既に町があり、銅を作ってシュメールに輸出していたそうな。(アフダル山脈のバット遺跡)この遺跡が残る地域こそ、紀元前2300年前後から紀元前550年頃までシュメール人の楔形文字文書に登場するマガン(マカン)地方であるというのが多くの学者さんのご意見です。ただしイエメン、上エジプト、ヌビア、スーダン、イラン、パキスタンのあたりとする説なども存在します。
ここにアラブ人がやって来て、住み始めたのは紀元前2世紀頃だそうです。


さて、ひとまずこれで第十章に書かれたノアの子孫たち全部触れたと思います。
改めて十章に出てきた人々を全員まとめてみましょう!


《ヤペテの子孫》
○ゴメル =キンメリア人(南ウクライナ/紀元前15~7世紀)
↓↓↓
・アシュケナズ=小アジア~ヨーロッパ人※マゴグの欄参照

・リファテ=パフレゴニア人(現トルコ黒海沿岸/?~紀元前12)

・トガルマ=フルギア人(現トルコ中西部/紀元前12~7世紀頃)=※メシェク(?)→アルメニア人

○マゴグ=スキタイ人(南ロシア、ウクライナ/?~紀元後3世紀)=※アシュケナズ(?)

○マダイ=メディア人(現在イラン・アフガニスタン・パキスタン西部・トルコ東部/紀元前20~5世紀)→ペルシャ人→アーリア人

○ヤワン =イオニア人(ギリシャ中部、小アジア北西部/紀元前20世紀~)
↓↓↓
・エリシャ=キプロス島民※キティム人の欄参照

・タルシシュ=(トルコorスペイン/?)

・キティム人=キプロス島民(アカイア人?)(キプロス島/紀元前70世紀~)=エリシャ(ヒッタイト人?)

・ドダニム人=ロードス島民(ロドス島/紀元前16世紀~)

○トバル=グルジア人(グルジア共和国付近/?)orティバレニ人(小アジア東部のキリキア/?)

メシェク=モスコイ人(現ロシア共和国付近/?)orフルギア人※トガルマの欄参照

ティラス=エトルリア人(イタリア半島中部・ローマ/?)orエトラシヤ人(エーゲ海周辺/?~紀元前12世紀)

《ハムの子孫》
○ クシュ=クシュ王国(北アフリカのヌビア地方/紀元前3100年頃から紀元前2890年頃)、あるいはキシュ(イラク共和国バービル/紀元前3000年くらい)
↓↓↓
・セバ=メロエ王国(クシュ王国の遷都後 /紀元前591年~350年頃)、あるいは サバア王国(アラビア半島南西部/紀元前8~紀元前2世紀頃)=※シェバ(?)

・ハビラ=アラビア半島の北部か、エジプトの近く(詳細不明)

・サブタ=ハドラマウト王国の首都サボタ(現イエメン共和国領東部/紀元前8~3世紀)

・ラマ=ランマニテ人(ハドラマウト北方/?)
↓↓↓
・・シェバ=サバア王国(※セバの欄参照)
・・デダン =北方アラビア人(アラビアの一部/?)

・サブテカ=?(アラビア南部かエチオピア/?)


★クシュの息子ニムロデとみられる人物・神
①アッシリアの都市ニネヴェを建設したとされるニムス

②アッカドの狩猟農耕の神ニヌルタ

③中アッシリア王国時代アッシリア王 トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:紀元前1244年~紀元前1208年)

④バビロニア王国初代王 ハンムラビ(在位 紀元前1792年頃~紀元前1750年)

⑤ウルク第一王朝王 エンメルカル


彼はシヌアル(今のイラクあたり)にあったという、バベル(バビロン)、エレク(ウルク)、
アカデ(アッカド)の王で、
ここからアシュル(アッシリア)に進出し、ニネベ(アッシリアの都市)、レホボテ・イル(場所不明)、ケラフ(現イラク北部ニーナワー県あたり)、レセン(場所不明)を建てた。

○ミツライム=エジプト王国(紀元前3150年以降)
↓↓↓
・ルデ人=リビア東部の部族←ベルベル人?

・アナミム人=アナミ族(リビア北岸キュレネ)←ベルベル人?

・レハビム人=レハビ族(リビアのどこか)←ベルベル人?

・ナフトヒム人=ナフト族(現エジプト カイロの近く)←ベルベル人?

・パテロス人=エジプト テーベ周辺の部族←ベルベル人?

・カスルヒム人=フィリスティア人(ペリシテ人) ※カフトル人と同一かも

・カフトル人 =フィリスティア人(ペリシテ人)(古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺にミノア島などから移住/紀元前12、13世紀以降)《前1200のカタストロフ》の影響


○プテ=ベルベル人(リビアの先住民/12000年前~)

○カナン=フェニキア人(現レバノン/ 紀元前15世紀頃~)
↓↓↓
・シドン(長子)=フェニキア人(現レバノン サイダ/ 紀元前3000年以降)

・ヘテ=ヒッタイト人(アナトリア半島/紀元前1680年頃~紀元前1190年頃)《前1200のカタストロフ》により滅亡=フルリ人?

・エブス人=エルサレムの先住民(エルサレム/紀元前1900年より前~)

・エモリ人=アムル人(シリア地方ビシュリ山周辺~メソポタミア各地/紀元前20世紀~紀元前13世紀末)バビロン王国などが有名、純血のアムル人は《前1200のカタストロフ》で滅亡

・ギルガシ人=エリコ付近の住人(現ヨルダン川西岸地区の町/紀元前8000年紀~)現パレスチナ自治区

・ヒビ人=フルリ人(オリエント全域/紀元前3000年紀の終わり頃~紀元前13世紀)ミタンニ王国が有名、 青銅器時代の終わり頃《前1200年のカタストロフ》をきっかけに衰退?

・アルキ人=フェニキア人(ベテル(現ベイティン遺跡)の西にあるエイン・アリク/紀元前3500年頃~1900年 or レバノン北部アルカ)

・シニ人=フェニキア人(レバノンのどこか)

・アルワデ人=フェニキア人(現シリア アルワード島/紀元前2000年紀の初期以降)

・ツェマリ人=フェニキア人(現レバノン タラーブルスと現シリア アルワード島の間/?)

・ハマテ人=アラム人(シリア西部オロンテス川中流の都市ハマー/紀元前5、6000年以降)


カナン人の領土は、シドン(現レバノン・サイダ)からゲラル(現イスラエルのテル・アブ・フレイラ遺跡)に向かってガザ(シナイ半島北東部、東地中海に面するパレスチナの一角)に至り、ソドムとゴモラ( 死海東南部に存在する前期青銅器時代の都市遺跡バブ・エ・ドゥラーとヌメイラ)、アデマ(ソドムとゴモラの姉妹都市。場所不明)とツェボイム( エルサレムの東北東約13kmの所にあるワディ・アブー・ダバー(「ハイエナの父の谷」の意)の可能性あり)に向かってレシャ(場所不明)にまで広がった。


《セムの子孫》
○エラム=エラム人(イラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域、エラム王国/ 紀元前3200年頃~紀元前539年以降アケメネス朝ペルシアの支配下)

○アシュル=アッシリア(バビロニア北西に位置するチグリス川沿いの高原地帯/紀元前6000年紀~紀元前609年)混血が進み他の民族と同化

○アルパクシャデ=アルバニア(イリュリア)人?(バルカン半島南西部/紀元前1000年頃~)
↓↓↓
・シェラフ=?
↓↓↓
・・エベル=ヘブライ人の始祖
↓↓↓
・・・ペレグ=?
・・・ヨクタン=?
↓↓↓

・・・・アルモダデ=サヌア王国?( アラビア半島南西/10世紀以前~)

・・・・シェレフ=アラビア南部のどこか

・・・・ハツァルマベテ=ハドラマウト王国( 現イエメン共和国領東部/紀元前8~3世紀) 

・・・・エラフ=?

・・・・ハドラム= サヌア王国( アラビア半島南西/10世紀以前~)


・・・・ウザル=サヌア王国( アラビア半島南西/10世紀以前~)


・・・・ディクラ=?

・・・・オバル=プント王国またはダモト王国のアヴァリタエ(エチオピア沿岸・現ソマリランドのゼイラorエリトリアのアッサブ/ 紀元前25世紀~紀元前10世紀頃 or 紀元前10~紀元前5世紀)

・・・・アビマエル=メッカ(2世紀より前~)

・・・・シェバ=イエメン付近(サバア王国?)
(アラビア半島南西部/紀元前8~紀元前2世紀頃)

・・・・オフィル=エチオピアorスーダン?

・・・・ハビラ=バーレーンorハウラン(アラビア南西海岸から現イエメン北方の地域)(詳細不明)

・・・・ヨバブ(?)=バット遺跡のマガン人(現オマーン/紀元前3000年頃~)or移住してきたアラブ人(紀元前2世紀~)

彼らの定住地はメシャ(北アラビア)からセファル(イエメンのツァファルorマハラ)に及ぶ東の高原地帯だった。


○ルデ =リュディア王国(現トルコ/紀元前7世紀~紀元前547年)

○アラム=アラム人(シリア/紀元前11世紀頃までに移住)
↓↓↓
・ウツ=アラム人の一部・古代エドム王国(現パレスチナ/紀元前1200年頃~紀元前6世紀)

・フル=ウラルトゥ王国(アルメニア/紀元前9世紀頃~紀元前585年)orフリギア人植民者(ヴァン湖周辺/紀元前7世紀頃)or フーラ地方(イスラエル北部/?)

・ゲテル=?

・マシュ=ミュグドニア人(現トルコ共和国の南東部、シリアの国境沿い/?~紀元前708年)



こうしてみるとノアは超大家族ですね!!
無事に大洪水を切り抜けて、家族もたくさん増えて、とりあえずめでたしめでたしです。

人間は果たしてこれからどうなっていくのでしょう?
楽しみですね!(笑)

では本日はここまで。
楽曲紹介は今回おやすみさせていただきますm(__)m

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