プロフィール
HN:
赤澤 舞
性別:
女性
職業:
飲食店店員
趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。
レトロゲームや特撮も好物です。
ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
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ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
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2018/10/22 (Mon)
今回もとっても長いです!
妄想大爆発!!
※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
○第十四章
さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代の話です。
この王さまたちはソドムの王ベラ、ゴモラの王ビエベル、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわちツォアルの王と戦いました。
このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち今の塩の海に進みました。
彼らは12年間ケドルラオメルに仕えていましたが、13年目に背きました。
14年目に、ケドルラオメルと彼に味方する王たちがやって来て、アシュロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進みました。
彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破りました。
そこでソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイム、ベラ(ツォアル)の王が出ていって、シディムの谷で彼らと戦う準備をしました。
シディムの谷にはたくさんの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたときその穴に落ち込み、残りの者は山の方に逃げました。
そこで彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪いました。
彼らは、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトの全財産も奪いました。
ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来てそのことを告げました。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいました。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいました。
アブラムは自分の親類の者が虜になったのを聞き、彼の家で生まれたしもべたち318人を召集して、ダンまで追跡しました。
夜になって彼と奴隷たちは彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡しました。
そして彼はすべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産と、女たちや人々も取り戻しました。
こうしてアブラムがケドルラオメルと、彼と一緒にいた王たちを打ち破って帰った後、ソドムの王は、王の谷と呼ばれるシャベの谷まで彼を迎えに出てきました。
シャレムの王メルキセデクはいと高き神の祭司で、パンとぶどう酒を持ってきて言いました。
「祝福を受けよ。アブラム。
天と地を造られた方、いと高き神より。
あなたの手に、あなたの敵を渡された
いと高き神に、誉れあれ。」
(※原文まま)
アブラムはすべての物の10分の1を彼に与えました。
ソドムの王はアブラムに言いました。
「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
しかしアブラムは言いました。
「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓います。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取りません。それはあなたが『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためです。ただ若者たちが食べてしまった物と、私と一緒に行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
はい、この章はまた読みにくいですねー!!!(泣)
新登場の民族名もキャラも多すぎだし、なんか王さまたくさん出てきて話がいつの間にか壮大になってる!
神さまと人間の話だったはずなのに、国家とか戦争とか出てきて、なんだか雰囲気が変わっています。たぶん、また違う人が書いたんでしょうな。
まあ仕方ありません。一つずつ読んでいきましょう。
えー、まずこの話は
シヌアルの王アムラフェル
エラサルの王アルヨク
エラムの王ケドルラオメル
ゴイムの王ティデアル
の時代の話である、と前置きがついています。
この話が書かれた当時のひとは、これで時代がわかったんでしょうか。紀元後2018年の日本に生きる私にはさっぱり分かりませんので調べてみます。
シヌアルは第10章のニムロデのところでも出てきたし、11章のバベルの塔のところでも出てきましたが、今のイラクのことです。
当時そこの王さまだったというアムラフェルは、一説では都市国家バビロンの6代目王でありバビロニア帝国の初代国王であるハンムラビ(在位:紀元前1792年頃~紀元前1750年頃)と同一視されているようです。しかし同一人物かどうかは未だに分かっていません。最近は、どうやら違うんじゃないかとか言われてるみたいです。
「アムラフェル」はセム系の名前なので、ハム系のアムル人(エモリ人)であるハンムラビは当てはまらない、というわけです。
個人のブログを書いている方で、面白い意見の方もいらっしゃいました。
アッカド王朝の大王ナラム・シンがアムラフェルなのではないか、という説です。
ナラム・シンはアッカド帝国を建国したサルゴン王の孫にあたる人物です。(在位:紀元前2155年~紀元前2119年 学者によって数十~数百年のズレあり)
アッカド人ならセム系なので名前の不一致もないし、可能性はありますね。
彼は祖父のサルゴン亡きあと、叔父と父を経て王位を引き継ぎました。大規模な遠征を繰り返してアッカド帝国を広大にしましたが、その結果反乱に悩まされるようになり、王朝が傾くきっかけをつくったとも言われています。
伝説では、彼がニップルのエンリル神殿を破壊したために神々の怒りを買い、神罰として『山の大蛇(竜)』すなわちグディ人を送り込まれたせいで王国は滅亡することになった、とされています。
(実際には各都市の自立発展による社会変化が原因との説が色濃いですが…)
また、自らを神格化するメソポタミア王の習慣は彼から始まりました。
いずれにしても高慢で暴力的で、賢王とは言い難い扱いで伝えられている王さまですね。
ハンムラビかナラム・シンか定かではありませんが、いずれにしてもバビロニアかアッカドか…南メソポタミアの王さまですね。アムラフェルという人物は、シヌアル(イラク)に当時存在していた帝国の、頂点にいた人物とみられている、ということはわかりました。あるいはどんぴしゃでその人物じゃなくて、ニムロデやメネスのように複数の王さまの要素を集めた架空の人物かもしれません。
ちなみにアムラフェルとは「秘密を話す」という意味みたいです。
その次のエラサルという国は、どこのことだか分かっていません。どこかの都市国家だったんだろう、とはされていますけども。
とあるブログで、エラサルの王アリヨクについて『ヌジ文書はフリ人アルリウクに、マリ文書はイラズルという地名に言及している』と書いてらっしゃるのをちらっと拝見しました。ソースは不明ですが、興味深いので一応調べてみましょう。
「ヌジ文書」とは、イラク北東部のキルクークから南西約16kmのところにあるヌジ(現:ヨルガン・テペ)という所から出土した、楔形文字で書かれた粘土板の文書です。
ヌジ法律とも呼ばれるこの文書には、結婚、養子縁組などの慣習についての規定が書かれた部分があるそうです。 編纂されたのは紀元前15世紀頃と言われています。
ヌジという名前でこの地が呼ばれ出したのも紀元前15世紀くらいからといいますから、想像するに新しい町が出来たとか支配者が変わっただとかそんな理由で「あたらしい法律を作ろう!」と作られた文書なのではないかと思います。素人考えですけども。
それより前、紀元前3000年紀末には、このあたりはガスールと呼ばれていたそうです。
紀元前15世紀頃に書かれた文書はとってもたくさん見つかっていて、数千枚くらい出土しています。これらはフルリ語混じりのアッカド語で書かれていたそうです。
アッカド語は当時の国際共通語でしたから、公的な書類だったのかもしれません。
紀元前15世紀のヌジは、アラプハ王国の一都市だったそうでミタンニ王国の支配下にあり、かなりのフルリ人人口を擁していたといいます。
アラプハ王国は、紀元前16世紀頃にバビロニア崩壊の混乱に乗じてフルリ人が作った国です。同じくフルリ人の国であるミタンニと、大体同じくらいの時期に出来た感じですかね。
アラプハには「イティ・テシュプ」や「イティヤ」などのフルリ人王が君臨したそうです。けれども同じ頃建国されたミタンニほどの大国にはなれなかったアラプハは、紀元前15世紀半ばにミタンニの支配に下ります。(その頃のミタンニ王はサウシュタタル)
その後アラプハは、紀元前14世紀にアッシリア人によって破壊されてしまいました。
アラプハ王国に住んでいた、或いは伝わっていた「アルリウク」というフリ人(フルリ人)が『エラサルの王アリヨク』なのではないかとヌジ文書には書いてある、というわけです。残念ながらアルリウクという人物については資料がなく、どんな人物かは分かりませんでした。
一方、 マリ文書はイラズルという地名に言及している、とあります。 「イラズル」という土地についても、調べてみましたけれども何も分かりませんでした。
癪なので、マリについて少し調べてみます。
マリ文書とは、現在のシリアのユーフラテス川中流にあった都市国家マリの遺跡から発掘された文書です。やはり楔形文字で書かれた粘土板で、その数は2万枚を超えるといいます。こちらもアッカド語を用いた楔形文字で書かれており、その大部分は紀元前18世紀のヤスマハ=アダド王の時代とジムリ=リム王の時代に書かれたものとのことです。内容は大部分がマリ国王に宛てて臣下や西アジア諸国の君主から送られた報告書と書簡で、外交文書、儀式文、歴史記録、商業文書、行政文書などを含み、紀元前2000年紀メソポタミアの歴史や国際情勢を探るのに重要な役割を果たしています。
マリには紀元前5000年紀くらいから人が住んでいたとみられておりますが、都市国家として重要になったのは紀元前3000~紀元前2000年紀くらいです。
元々のマリ人はアッカド人などと同じセム系の民族でした。シュメールはシリア北部の山々から材木や石材などといった建材を輸入していましたが、マリはその中継地点として繁栄しました。
紀元前24世紀頃に一度何者かに破壊されてしまって小さな村になってしまったマリですが、メソポタミアにやってきたアムル人たちの王朝のもと、紀元前1900年頃に再び栄えます。
マリ文書はこの頃書かれたものだとみられています。
一時は勢力圏を現トルコまで広げたマリでしたが、紀元前1759年に再度破壊されてしまいます。滅ぼしたのはバビロン王ハンムラビでした。
その後マリは同じユーフラテス川中流域の都市国家テルカに覇権を奪われ、再び村落となって歴史の表舞台から消えていくことになります。
マリはアッカド人の都市でしたが、その後の王朝はハム系のアムル人(エモリ人) のものなので、住んでた人も大半はアムル人だったかもしれません。或いは、アッカドとアムルの混血だったかも。
ただ、マリの人々はメソポタミアの文化を嗜み(シュメールの特徴である精巧な髪型と服装)、シュメールの神さまを信仰していました。(マリの最高神は西セム系の穀物神で嵐の神ダゴン)文化的にはバビロニアに近かったんですね。
そんな国の跡地から発掘された文書に「イラズル」という土地名があって、そこが「エラサル」と関係あるんじゃないか、というわけです。
その他、ラルサ(古代バビロニアの都市のひとつ)またはテルサル(不明)に関係するんじゃないかという記述もありました。
次のエラムは、そのまんまセムの子孫エラムですね。今のイランです。エラム人の都市国家は紀元前3200年には成立していました。
先程の、シヌアルの王アムラフェルをハンムラビかナラム・シンと仮定した場合。その頃のエラムの王朝と言えば、シュメールのウル第三王朝を滅ぼしたシュマシュキ朝(紀元前2030~紀元前1850年)か、バビロンと度々交戦していたエパルティ朝(紀元前19世紀頃~紀元前1600年)でしょうか。
エラムの王国にケドルラオメルという名前の王がいたという記録は見つかっていませんが、まあこのあたりの王さまのことなのかもしれません。
ちなみにケドルラオメルもハンムラビと同一人物なのではないか?という説があるようですが、よくわかりませんでした。
まあ、要するにくわしくはわかってないんですね(爆)
「しもべクドルと神名ラゴマルの合成語」だと書いてあるサイトがあったのですが、クドルという名前もラゴマルという神も検索して出てこなかったので、これもよく分かりません。情報求む。
その次のゴイムは、その言葉自体は「諸民族」という意味だそうです。ヘブライ語の「ゴイ」がイスラエル民族を指す言葉で、「ゴイム」はその複数形です。
元々は非ユダヤ民族を表す言葉で、別に悪意のある言葉じゃなかったのですが、現在はもっぱら差別用語として使われているそうです。《家畜》《豚》くらいの強い卑下の言葉です。
ゴイムを国名として扱う場合。一説では、ゴイムはグティウムのことを指すとされております。
さっきアムラフェルのところでナラム・シンについて言及したとき出てきた、グディ人のことですね。
メソポタミアに侵入した蛮族として伝わっておりますが、果たしてどんな人々だったのでしょう。
彼らの名前が最初に登場したのは紀元前3000年のシュメールでした。楔形文字で書かれたシュメールの粘土板に、 "Kar-da"あるいは"Qar-da"と呼ばれる土地の名前が見つかっているそうです。
グディ人たちはペルシャとメソポタミアの間、ヴァン湖(トルコ)の南と南東の高山地域を支配していたといいます。
紀元前2400年頃、彼らは現在のイラクにあたる地域に《グティウム王国》を作ります。首都はアラフカという町で、現在のキルクーク(イラク北部の町・油田が有名)です。
彼らはザグロス山脈方面からメソポタミアに侵入し、一時はサルゴン亡きあとのアッカドを押し退けてシュメールを支配するほどの力を持ちます。
グディウムは紀元前2150年くらいにウルクを破り、紀元前2115年あたりにもアッカドの都市を破壊して覇権を握りました。シュメール王名表にはウルク第4王朝とウルク第5王朝の間に19人のグディ人の王が記録されています。
グディ人たちの支配は125年ほど続きましたが、複雑な文明に慣れていなかった彼らは、問題を適切に対処することが出来ず幾度も飢饉に見舞われることになったそうです。
特に運河の管理がうまくできなかったことは致命的でした。メソポタミア文明は、チグリス・ユーフラテス川が雪解け水で定期的に増水することを利用し、運河を整備して豊かな農業収穫を得たことで発達した文明だからです。
グディ人最後の王ティリガンは紀元前2050年頃(紀元前2100年頃との説もあり)、シュメール人のウルク王ウトゥ・ヘガルに倒されたと伝えられています。ティリガンと彼の家族は囚人として捕らえられ、ティリガンはウトゥ・ヘガルの「シュメールを離れグディウムに戻る」という要求を承諾したということです。
ただ、最近の研究では、グディ人は単一の政治集団ではなく勢力範囲も限定的だったと推定されています。
つまりアムラフェルのところで書いたとおり、グディ人のせいでアッカドが滅びたわけではなく、実際にはメソポタミアの各都市が自律的発展を遂げたために社会変化が起こったことが直接の原因だろうというのです。けれども歴史を記す側のシュメール人やアッカド人は、何かのせいにしたかったんでしょうね。
王権は神から与えられるもの、とする宗教観も関係してるのかもしれません。
とりあえず、こののちグディ人はシュメールの地域では「蛮族」として忌み嫌われるものとなりました。
ちなみにグディ人はクルドゥとも呼ばれていたので、現在のクルド人との繋がりが研究されているようです。
そんなグディ人たちの支配する国が、「ゴイム」なのではないかという説です。
グディ人の中に「ティデアル」という王はいませんでしたが、最後の王ティリガンがなんとなく名前の響き似てるような…気がしなくもない。
とあるブログには「ティデアル」という名前がヒッタイト王のトゥダリアスに似てると書かれておりましたが、その王さまとみられる人物はWikipediaではトゥドゥハリヤ1世という名前で載っていました。(名前似てる?かな?)ヒッタイト古王国が成立する前の、紀元前17世紀頃の王です。
ハムの子孫ヘテのところでヒッタイト人については調べましたが、ヒッタイト=フルリ人(ヒビ人)とする説もありましたね。
・ヘテ=ヒッタイト人(アナトリア半島/紀元前1680年頃~紀元前1190年頃)《前1200のカタストロフ》により滅亡=フルリ人?
・ヒビ人=フルリ人(オリエント全域/紀元前3000年紀の終わり頃~紀元前13世紀)ミタンニ王国が有名、 青銅器時代の終わり頃《前1200年のカタストロフ》をきっかけに衰退?
どちらもハムの子孫として10章に載ってました。
仮に候補に入れておくとして、さてこれで4人の王さまについて触れましたね。まとめてみます。
シヌアルの王アムラフェル…バビロニア王国のアムル人or アッカド帝国のアッカド人
エラサルの王アルヨク…ミタンニ王国のフルリ人or マリのアムル人
エラムの王ケドルラオメル…エラム王国のエラム人
ゴイムの王ティデアル…グディウム王国のグディ人 or ヒッタイト王のヒッタイト人 or フルリ人
年代は紀元前22世紀~紀元前18世紀といったところでしょうか。バベルの塔から一気に時代が経ってることがわかりました。
ということは、前章でのエジプトのファラオの年代も、だいぶずれることになります。前章までは時代の手がかりが出てこなかったので、バベルの塔の時代(紀元前3000年あたり)を取り上げました。
でも紀元前22世紀~紀元前18世紀というと、その頃のエジプトといえば古王国時代(紀元前2686年頃~紀元前2185年前後)も終わりを告げて中央集権国家としてのエジプト第6王朝は有名無実になり下がり、そこからエジプト第11王朝(紀元前2134年頃~紀元前1991年頃)に再統一されるまで国情は安定せず、混乱していた時期です。第12王朝(紀元前1991年頃~紀元前1782年頃)には、リビアやクシュなどへの遠征に成功し、活発な建築活動や農地開発が行われましたので、このあたりは豊かな時代だったと言えます。
さて、とりあえずこのあたりの時代に上記の4つの王国は
ソドムの王ベラ
ゴモラの王ビエベル
アデマの王シヌアブ
ツェボイムの王シェムエベル
ベラ(ツォアル)の王
と戦争になった、とあります。
この地名を見て思い出すのは、第10章で紹介していたカナン人の領土についてです。
『カナン人の領土は、シドン(現レバノン・サイダ)からゲラル(現イスラエルのテル・アブ・フレイラ遺跡)に向かってガザ(シナイ半島北東部、東地中海に面するパレスチナの一角)に至り、ソドムとゴモラ( 死海東南部に存在する前期青銅器時代の都市遺跡バブ・エ・ドゥラーとヌメイラ)、アデマ(ソドムとゴモラの姉妹都市。場所不明)とツェボイム( エルサレムの東北東約13kmの所にあるワディ・アブー・ダバー(「ハイエナの父の谷」の意)の可能性あり)に向かってレシャ(場所不明)にまで広がった。 』
と書いてありました。
ソドムとゴモラは隣接している都市で、一説では現代のヨルダン・ハシミテ王国、カラク県に位置します。
場所はわかりませんが、アデマはソドムとゴモラの姉妹都市。
ツェボイムは死海の下に沈んだ古代都市とみる人もいますし、死海南東にある涸れ川に沿った遺跡だとする人もいるようです。
ツォアルは前章でも出てきましたね。死海の近くのシディムの谷という所にあった町、とのことです。
まあつまり、この5つの街はみんなカナン人の街で、この戦争は
アッカド、アムル、フルリ、エラム、グディ、ヒッタイト人など(仮定) VS カナン人
つまり
メソポタミア各国 VS カナン人諸国
というわけです。
カナン人たちは連合軍を組んで、『シディムの谷、すなわち今の塩の海』に進んだとあります。
このお話が書かれた頃には既に死海があって、それより前はそこは「シディム」という名前の谷だった、と伝わっていたということがここでわかりました。
次から、どういう経緯で戦争が始まって、どんな戦いになったかの説明に入ります。
12年間、ケドルラオメル…つまりエラム人に仕えていたカナン人王たちは、13年目に「やってられっか!」と蜂起を起こします。(今まで数百年単位で話が進んでたのに、急に現実的な数字になりましたね)
それで連合軍を組んで、シディムの谷に進軍していったというわけです。
その次の年、ケドルラオメル率いる連合軍が制圧のためにやってきて、次々に土着の人々を倒していったとのことです。その土着の人々ですが、これまた10章のセム、ハム、ヤペテの子孫紹介には載ってない人達ですね。アダムの血族でない人達ですよ、ってことでしょう。
まず、アシュロテ・カルナイムでレファイム人を倒したとありますが、まずアシュロテ・カルナイムってどこやねん。
そのままで検索してもさっぱり出てこなかったので、ちょっと調べるのに時間かかりました。
どうやら『カルナイムのそばのアシュロテ』という意味らしく、トランスヨルダン北部のガリラヤ湖東側にあった古代都市カルナイム(「二つの角」の意)のそばにあった町だそうです。
バシャン(ヨルダン川の東、ヤボク川からヘルモン山までの間、ゲネサレ湖からハウラン山脈までの間の地帯)の地域にあった都市で、一般にガリラヤ湖東約32kmの所にあるテル・アシュタラという遺跡と同定されている………とのことで、カルナイムはその遺跡の近くにあるというシーク・サアドとのことらしいです。ペトラ遺跡のシーク(遺跡の入り口である狭い峡谷)とは関係ないのかな?
ペトラ遺跡はエドム人を調べたところで登場しましたが、 現ヨルダンの死海とアカバ湾の間にある渓谷にある遺跡です。地域的にも近いし、なんか関係あるんでないかな?
アシュロテの町はアッシリア碑文やアマルナ文書の中でも言及されているそうです。
その名前から女神アシュトレテ(アスタルテ、アスタルト)の崇拝地と考えられています。
少々脱線しますが、アシュトレテは地中海各地で信仰された、セム系の豊穣・多産の女神です。ビュブロス(現:レバノン)などで崇拝されまして、イナンナ、イシュタル、アフロディテなどこれまた様々な女神の雛形になっています。女神アナトと同一視されることもあります。
これまでに調べたニンフルサグやセミラミスに続き、また古い女神の登場です。
他の古い神たち(デュオニュソスやニンフルサグなど)と同じく、この女神も崇拝のために性的な乱行の祭りが神殿で行われており、男娼や売春婦が仕えていたそうです。多産や繁栄を司る神にはよくあることですな。
アシュトレテは性器を誇張した裸婦という見た目と、バアルの妻という身分から、カナン地域では主要な異教の神とされました。本来のヘブライ語名は「アシュテレト」ですが、旧約聖書ではこれに「恥」という意味の「ボシェト」の母音を読み込んだ「アシュトレト」の蔑称で書かれます。その複数形「アシュタロト」は、異教の女神を指す普通名詞として用いられます。アシュトレトは後にヨーロッパに渡って、グリモワール(魔術書)の悪魔アスタロトになります。地母神と悪魔の元ネタが同じとは、これまた皮肉な話です。
またアシュトレテは基本は豊穣の女神ですが、エジプト人やフィリスティア人たちの間では戦神として信仰を集めていたようです。
古代エジプトではアースティルティトと呼ばれ、プタハの娘として系譜に加えられました。信仰が始まったのはエジプト第18王朝頃(紀元前1570年~)からだそうです。
まあとりあえず、そんな女神を祀っていた町で、メソポタミア連合軍は「レファイム人」たちを倒したわけです。
レファイム人については、ここではあんまり深く知ることはできませんが、どうやら巨人族のようです。サムエル記、申命記に登場するっぽい。あとで調べてみましょう。
その次にハムという町でズジム人を倒したとのことですが、このハムはノアの息子のハムとは関係ないようです。
どうやらヨルダン川の東側にあった都市らしく、そこから名前をとった「ハム」という名前の村がイルビド(ヨルダン北西部の都市)の約6km南南西、ガリラヤ湖の南端から約30km南東の位置にあるそうな。(今でも在るかは知らん)
ズジム人に関しては何も情報が得られませんでした。そもそもズジム人っていう人種は居るのか謎。
その次に、シャベ・キルヤタイムでエミム人を倒したとあります。シャベは「平地」、キルヤタイムは「二重の町、二つの町」という意味です。
古代ヨルダン川の本流の始まりだったフーラ盆地から西北西約21kmのところにある、キルベト・エル・クレーエという遺跡と同定されているそうな。
マダバ(ヨルダンの都市)の南30kmにあるディボン(現:ジーバーン)から更に約10km西北西にあるクライヤートという町とする説もあるようですが、そこの遺跡は紀元前1世紀より新しいものらしいのでどうやら違うっぽいです。
そこで倒されたエミム人とやらも、これまた巨人の類いのようです。エミムは【恐ろしいもの】という意味らしく、先に出てきたレファイム人を指して「エミム」と呼ぶこともあるそうな。
エミム人を、レファイム人の一支族と考える方もいるようです。
ただしエミム人とレファイム人に関して詳しく出てくるのはもっとずっと先なので、ここは触れずにおきましょう。
快進撃を続けるメソポタミア連合軍、次はセイルの山地(死海とアカバ湾の間の山地)でホリ人を倒します。
セイルは「おぞ気立つ」という意味で、「樹木の茂った丘」を指す説だとか、「戦慄さを覚えて身震いする場所」である意味だとか、色々説があります。
「毛皮のよう」という解釈で「エサウ(超毛深い)が住んだ土地」という説もあるみたいですが、エサウが出てくるのはだいぶ後です。この時点でセイルと呼ばれてるのを鑑みると、後付け設定なんではないでしょうか。
そこで倒されたホリ人は、 ハムの子孫として紹介されていたヒビ人(フルリ人)とみられています。
ヘブライ語の「穴」に由来して「洞窟に住む人々」という意味とみる人もいます。
ちなみにエブス人も人種的にはフルリ人と同じとみる学者さんもいて、そう考えるとヒビ人もホリ人もエブス人も住んでる場所や細かい文化や言語が違うだけでみんな『フルリ人』って言いたいんですかね。
ただし、紀元前2000~紀元前1000年にフルリ人の集落がヨルダンにあった考古学的根拠は無いそうなので、実際のところはよくわかりません。
全く信者でない私からすれば、当時(紀元前1500年頃)オリエント屈指の強国(ミタンニ王国人)だったフルリ人の名前を出すことで、より当時の人々の信仰心を煽りやすくするために差し込んだお話としか思えないのですけど。
一応、過去に調べたヒビ人(フルリ人)とエブス人について。
↓↓↓
聖書を楽しむ【8】(前半)
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%908%E3%80%91%EF%BC%881%EF%BC%89
聖書を楽しむ【8】(後半)
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%908%E3%80%91%EF%BC%882%EF%BC%89
さて、メソポタミア軍は上記の民たちを打ち倒しつつ『砂漠の近くのエル・パランまで進んだ』そうです。
パランというのは、シナイ半島の中央部と北東部の地域のようです。どうやら一定の境界を持たない漠然としたエリアのことらしいです。砂漠の近く、という説明通り、このあたりは現在はエジプトです。
つまりメソポタミア軍はヨルダン北部から死海の東沿いにずっと南下してきて、死海とアカバ湾の間を通りシナイ半島まで来たというわけです。
そこまで来て、彼らは「エン・ミシュパテ、今のカデシュ」まで引き返したとあります。
カデシュはノアの子孫たちを調べる過程で何回か出てきました。シリアとトルコを流れるオロンテス川沿いの、かつての大都市です。
カデシュは現在のシリア西部の大都市ホムスから24km南西にある場所とのことなので(テル・ネビ・メンドという遺跡がカデシュの跡とされる)、メソポタミア軍はシナイ半島から一気に死海を通り越してシリアの中心部まで進んだことになります。
カデシュが「ミシュパテ」と呼ばれていた時代があったかは残念ながら分かりませんでしたが、カデシュが滅びたのは紀元前12世紀。アナトリアの他の都市と同じように「海の民」に破壊され、その後再建されることはありませんでした。
『今の』と呼ばれているということは、この文章が書かれたときにはカデシュがまだ存在していたということですので、当時は紀元前12世紀よりは確実に前なのだと分かりました。
そのカデシュで、メソポタミア軍は「アマレク人」のすべての村落を破壊します。アマレク人は、アラバ(「乾燥した荒野」の意。ヨルダン地溝帯の一部で、ガリラヤ湖南部から死海を経てアカバ湾までに達する谷)と地中海の間にある、パランという荒れ地に住んでいた古代パレスチナの遊牧民族です。(後にユダヤ人に吸収されて消滅)
更に、「ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも」打ち破った、とあります。
エモリ人「さえ」という表現が使われているのは、エモリ人が当時どれだけ力を持っていたかが分かれば納得ですね。
10章でカナンの子孫として記載されていましたが、エモリ人は紀元前2000年前半に中東各地で勢力をふるった『アムル人』のことです。どれだけ強力だったかは上記のシヌアルとエラサルのところでも書きましたとおり。紀元前2004年頃にウル第3王朝が滅びたあと、メソポタミア各地に成立した緒王朝…イシンやラルサ、マリ、そしてバビロンは、すべてアムル人たちの国です。
のちにメソポタミア随一の王国となったバビロニアの王、ハンムラビも「アムルの王」を名乗っていたくらいです。
アムル人たちはひとつの民族としてまとまっていたわけではなく、それぞれの地域で都市国家を築いてお互いに覇権を争っていたらしいので、同じ民族同士だからって容赦はしません。
アムラフェルやアルヨクはもしかしたらアムル人だったかもしれないけど、同族だからって見逃すほど優しくはなかったと思われます。
ちなみにその倒されたアムル人たちが住んでいた「ハツァツォン・タマル」とはどこかと申しますと、現イスラエル南東部、死海の西岸にある町エン・ゲディです。(歴代誌Ⅱ20-2より)
いつからエン・ゲディ(「子ヤギの泉」の意)という名前で呼ばれているのかは分かりませんが、 歴代誌の年代からしてソロモン王の時代には既にこの名前だったんではないかと思われます。
エルサレムまで約55km、イスラエル公道90号線沿いにある観光地としても名高いこの町には、死海湖岸にはエン・ゲディ・ビーチ、西郊外にエン・ゲディ国立公園、北郊外にクムラン洞窟(死海文書が発見された所)、南郊外にマサダ要塞(第一次ユダヤ戦争の遺跡)が、町中には近隣のオアシスの水と太陽光を利用したスパがあるなど見所たっぷりです。いつか行ってみたいわー。
まあ、こんなかんじで死海の東側からスタートしてぐるっと回って西側まで、メソポタミア軍はカナン軍の近隣の町村をまるっと制圧したわけです。
こりゃいかんということで、カナン軍も直接対決の準備。直々に王さまが戦場に馳せ参じ、シディムの谷でいざ迎え撃つ構えをとります。
ところがどっこい。
戦いの様子は一切描かれないまま、カナン軍が撤退する様子のみが詳細に説明されます。書くまでもないってことなんでしょうか。まあ大国相手に無茶な戦だったということですかね。
シディムの谷には瀝青…つまり天然アスファルトが採掘された後の穴があちこちにあいていたので、ソドム王とゴモラ王はその穴に落っこちてしまいました。
ほかの仲間は王さまたちを助けることもなく山の方に逃げ(薄情な…)、メソポタミア軍はソドム王とゴモラ王の全財産と食糧をぜんぶ奪いました。
王さまたちが捕まったのですから、彼らの町もメソポタミア軍の支配に墜ちます。ソドムとゴモラはメソポタミア軍の支配下になりました。
そこでやっと出てくるのが、前章でアブラムと袂を分かったアブラムの甥ロトです。
ソドムの近隣にテントを張って住んでいたロトも、ソドムの住人と思われたからなのか知りませんが、メソポタミア軍にすべての財産を没収された上にさらわれてしまいました。
捕虜として使い道がありそうだったからなのか、それとも他の理由があったのか?詳しいところは謎ですが、ロトはここではヒロインの立ち位置です(爆)
この事実を、ひとりの逃亡者がやってきてアブラムに伝えます。もしかしたら命からがら逃げてきたロト家の使用人かもしれません。
このとき初めて、「ヘブル人アブラム」とアブラムに民族名が付きました。
彼がどのタイミングで「俺は今日からヘブル人」と名乗り出したのか、或いは説明はされてないけど伝統的にこの時既にエベルの子孫はそう名乗っていたのかは分かりませんが、やっと「あ、このお話の主人公ってヘブル人なんだー。」ということは分かりました。
ロトと別れてから、アブラムはずっと同じところに住んでいました。でも、ただ何にもしてないわけではなかったようです。
どうやら、その土地の持ち主と同盟を結んでいたらしい。
いくら神さまが「そこの土地みんなおまえにやる」と言ったところで、既に人間社会の中では土地の売買が行われています。
アブラム一族がやってきたヘブロン(現パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区南端)の土地は、そこに生えている樫の木も含め「マムレ」という名前のエモリ人(アムル人)の所有でした。アブラムはマムレと、更にマムレの兄弟エシュコルとアネルと盟約を結び、流浪の身でありながらそこに住む正当な権利を手に入れていました。
どんな盟約かは知り得ませんが、なかなかやり手だなアブラム。
さて、カワイイカワイイ甥っ子が囚われの身となったと聞いたアブラムは、「自分の家で生まれたしもべたち」318人を集めてメソポタミア軍を追跡します。
わざわざ「自分の家で生まれた」と付け加えるということは、よっぽどアブラムが金持ちだって言いたいんですかね。
要は召し使いたちを結婚させて、子供を生ませて、それを300人以上養えるだけの財力がアブラムにはあったんですからね。両親ともアブラムの召し使いだったとしたら、単純計算で親は600人いることになります。(兄弟が多い夫婦がたくさんいればその分少ないですが)
土地の有力者と対等に渡り合ってる時点で想像はつきますが、個人で財を築き尚且つ自衛ができるだけの兵力も持っていたはずですね。
自らの手で鍛え上げた生え抜きの若い戦士たちを引き連れ、アブラムはダンという土地までやってきます。
ダンという名前は後で出てくるのですが、アブラムの子孫のひとりです。彼にちなんでその土地にダンという名前がついたとのことですが、この時点では生まれてないのになんで既にこの名前が登場するんでしょーか。後付けなんじゃない?
とりあえず、 ツォルア(現イスラエルのエルサレム地区、エルサレムから20km、ベト・シェメシュ市の近く)やエシュタオル(「神に訊ねる場所」の意。シェフェラ( パレスチナの中央山岳地帯とフィリスティアの沿岸平原との間に位置する低い丘陵地帯を指す名称)にあったとされる都市)等が、ダンと呼ばれる土地になるようです。
そこまで追いかけていったアブラム軍は、夜になってからメソポタミア軍に襲いかかりました!夜襲は立派な戦略です。少数精鋭で戦しようってんですから、手加減などしてる場合じゃありません。
初戦で勝利をおさめたアブラム軍、さらわれたロトたちを追ってダマスコ…つまりダマスカスまでメソポタミア軍を追い詰めます。
ちなみにWikipediaによりますと、ダマスカスという土地が最初に出てきた文献は紀元前15世紀のエジプトのトトメス3世の残した地理文献にある「T-m-ś-q」と読める文字だそうです。「T-m-ś-q」の語源は不明ですが、アッカド語では「ディマシュカ Dimašqa」、古代エジプト語では「T-ms-ḳw」、古アラム語では「ダマスク Dammaśq דמשק」、聖書ヘブライ語では「ダメセク Dammeśeq דמשק」と呼ばれており、アッカド語のものは紀元前14世紀のアマルナ文書におけるアッカド語文献に出てくるそうな。
そのダマスカスの北にある、ホバというところで再び戦いになります。
学者さんたちはパルミラ(現パルミラ遺跡)とダマスカスの間の道路沿いにある、ホバという泉がその場所なんじゃないかと考えてるようです。
そこで一騎討ちになったアブラムとメソポタミア軍の戦いの様子は、これまた別段深くも語られないまま
「そして彼はすべての財産と、親類のロトとその財産と、女たちや人々(たぶん召し使い)を取り戻しました。」
の一文で済ませられてしまっています。
これまで死海近隣をことごとく制圧したメソポタミア軍をいとも容易く撃ち破ってしまったわけですから、アブラム家はそれだけの強さを持っていた隊だったんですね。とりあえずロトたちの奪還は成功です。
さて、目的を達したのでアブラムが帰ってきたところに、色々な人がお迎えにきました。アブラムは別に戦争をどうにかしようとしたわけではなかったですが、結果的にはメソポタミア軍を個人の所有する部隊で倒してしまったわけなので、《戦争終結の英雄》扱いになります。なんかゲームの主人公によくある設定ですね。
まず、ソドムの王さまが直々にシャベの谷(王の谷)までアブラムを出迎えに来ました。
シャベの谷は、正確な場所はどこか分かっておりませんが、エルサレムの近くとみられているそうです。(ヨセフスはエルサレムから370m離れたところとしている)
と、ここへきていままで欠片も出てこなかった新キャラ登場です。
ソドム王がアブラムを出迎えるよりも先に「シャレムの王メルキセデク」とやらがアブラムと接触したのです。
「シャレム(サレム)」は現在のエルサレムのことを指すそうです。名前の意味は「平和」で、後々ヘブル人たちの国ができてから「神の(エル)」が付いて「エルサレム(神の平和)」という名前になったというわけ。
とりあえずそこの王さまメルキセデクは、王であると同時に「いと高き神」の祭司だったとのことです。つまりはアダムを作って歴代の子孫と契約し、アブラムをここに導いた「主」側の人ってわけですな。
ちなみに、『天と地を造られた方』『いと高き神』っていう宗教曲でもよく使われる御名はここで初登場しました。
実はこのメルキセデクさん、ほんとに人間なのか?という説が色々あるそうな。
Wikipediaには、彼の名前はウガリットの文書に記されていたカナンの神ツェデクに由来していると書いてありましたけども、実際そういう名前の神が信じられていたという資料は見つかりませんでした。
ヘブライ語ではツェデクは「義( צֶדֶק / tsedeq)) 」という意味になります。いずれにしてもちょっと意味深な名前ですね。
神学では、「義」は「救い」と同義と考えてよいそうです。本来は「まっすぐなもの」という意味で、「筋を通す・曲がっていないこと」を指すようです。
また、当時のシャレムに住んでるのはカナン人だったが、ノアの呪いをうけたカナン人たちが主の司祭にはなれないこと。まだキリスト教のキの字もない時代に「パンとぶどう酒」(聖体)というアイテムを引っ提げて、いきなり登場してきたことなども、この人物が只者ではないと思われる要因です。
ちなみにパンとぶどう酒のセットが聖書に初めて出てきたのもこのシーンです。
以上の理由などから、メルキセデクは
〇神そのもの
〇神の使い(天使的な何か)
〇後のイエス・キリスト
なんじゃないのかと議論されているそうです。
まあここでは答えはでないのでスルーします(爆)この疑惑のおっさんは、パンとぶどう酒をアブラムに差し出していきなりこう言いました。
「天と地を作った神さまから祝福でーす。君に敵をくれた神万歳\(^o^)/」
メソポタミア軍はアブラムのために神さまが遣わした試練だったのだと言いたいようです。また、そのままにしておくと勝利に有頂天になって調子に乗り出しそうなアブラムを諌めるために来たとも考えられます。
(アブラムってそういうところあるよね)
「この勝利も神のおかげなんだから調子乗るなよ」 ってわけですね。
パンとぶどう酒を合わせて食べる儀式は、果たしていつからあったのかは分かりませんが、この時代にはとりあえず既にあったようです。一応参考までに過去の記事↓↓↓↓
《羊についてのあれやこれや》
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E6%9C%AA%E5%B9%B4%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%A7%E7%BE%8A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8C%E3%82%84%E3%81%93%E3%82%8C%E3%82%84
ぶどう酒及びぶどうを崇める宗教といえばギリシャのデュオニュソスが有名ですが、ギリシャ神話のなかではデュオニュソスは比較的新しい神さまです。
しかしそれは「ギリシャ神話のなかでは」という話で、アフロディーテやアドニスのように、元々地方の豊穣神だった神さまが後から加えられたからです。
そういう意味では、デュオニュソスはかなり古くから信仰されていた神さまでした。上記のリンクの過去記事でも取り上げた《デュオニュソス祭》の起源はアッティカ(アテネ周辺の地域)のエレウテライで行われていたDionysia ta kat' agrous(おそらくぶどうの木の栽培を祝う祭り)だそうで、元々はデュオニュソスは全然関係ないお祭りだったとみられています。これがいつから始まったかは分かりませんでしたが、デュオニュソスの名前が出てきた一番古い記録はミケーネ文明の時代の文書だそうですので、もしかしたらこの創世記の話が書かれた時には既にデュオニュソス信仰は知られていたかもしれません。(ミケーネ文明…紀元前1450年頃~紀元前1150年頃)
では、パンは?
過去の記事でも調べましたとおり、パンは古代
から《生け贄》の性質を持っています。
人間は農耕を始めるよりも早くから、採ってきた植物を使ってパンを焼いていました。Wikipediaによると、ヨルダンでは約1万4400年前のパンが見つかっているそうな。パン焼き釜で一番古いのはバビロンの、約6000年前のものです。
昔のパンはそのまま食べるものではなく小麦を保存しておく手段で、焼いて保存しておいたパンを貯えておいて、食べるときに水と一緒に土器に入れて煮てお粥にするものでした。
そんなパン文化を大幅に進歩させたのが古代エジプト。穀物神であるオシリスとイシスの名のもと、エジプト人たちはより美味しいパンとビールを作って食べ、それを奉納することが日々の習慣となっていました。
子供の誕生のお祝い、死者の埋葬の儀式にも欠かせないパンは、日本に置き換えたら日々の米とケーキ(誕生日・ウエディング・クリスマス含む)と雛あられと柏餅と鏡餅と千歳飴と落雁etc…をすべて引っくるめて済ませられてしまうくらい重要な食べ物というわけです。
のちにパンを神々の礼拝の儀式で奉納する文化はギリシャに伝わり、狩猟の女神に捧げる用に雄鹿の形をしたパンだとか、血液を練り込んだパンだとかも作られたそうな。
とにかくパンをお供えするのは昔からやっていたことで、別にそれから数千年後にイエスさんが「パンは私の身体ですよ」と言ったから初めてやられるようになったわけではないのです。
同じように、お酒の奉納もずいぶん昔からされていました。(世界的にみればワインに限らず、あらゆる酒が奉納されてたようです)
ですから、私はメルキセデクさんとアブラムのやり取りは以前のノアと神さまの契約と同じように
「既存の儀式をユダヤ教に取り入れるために挿入したエピソード」
と解釈します。そういう意味ではメルキセデクは神そのものでもあるし、天使でもあるでしょうし、イエスのモデルとも言えるでしょう。
彼の名前が「義」という意味ならば、彼は人と神の「救い」の擬人化ということになります。
旧約においての「義」は「神と人の関係を本来の形に戻すための意志」で、アブラムは拐われた甥を助けるために戦っただけだけど結果的には神が用意した試練を見事クリアし、それ以前に神の言う通りにカナンの地を動かず、豊かな土地への移動をしませんでした。
つまり「義」を貫きました。
なので、「義」の使者である司祭が祝福を持ってきた。こう考えると私自身は納得いったんですけど、これは完全に私の妄想なので本気にしないでください(笑)
彼がアブラムに手渡したパンとぶどう酒は神さまに捧げられるものであって、メルキセデクは主に選ばれたアブラムを通して主そのものを拝んでいる、という解釈です。(メルキセデクが主そのものだった場合、自画自賛ということになりますが(爆))
メルキセデクからパンとぶどう酒をもらったアブラムは、「すべての物の10分の1」をメルキセデクに与えました。たぶんアブラムが持ってた全財産ということでしょう。
この「十分の一」という数字は、今でもユダヤ・キリスト教で行われている習慣だそうで、組織を支援するために『自発的に』寄付、租税、徴税として支払われます。現在では現金や株式、小切手による支払いですが、昔は農作物でも支払われたこともあったそうな。
その習慣も、聖書のこのくだりに倣って行われているというわけです。
ここも、「神さまの祝福を得るかわりに手持ちの財産の10%を支払う」という教会のシステムを理由付けするためにお話を挿入したんですかね?(爆)
メルキセデクが帰ると、やっとこソドムの王が登場。
アブラムがメソポタミア軍から奪ったもののうち、「国民は返して欲しいけど、財産はあげる」と超太っ腹な申し出をしました。もちろん、戦闘報酬でしょう。それをアブラムはあっけなく断りました。
さっきメルキセデクに言われたことをちゃんと守ってるんですな。メルキセデクが言ってた「天と地を造られた方、いと高き神」もちゃんと引用してます。
それにしても「神に誓って、あなたからは糸くず1本だって貰うつもりはない」とは、なかなか失礼な返しだと思います(爆)
ただ、一緒に戦ってくれた若い召し使いたちの食料代や、同盟者のマムレとその兄弟アネルとエシュコルの分の報酬はきっちりもらいました。
自分の一存で「神が調子こくなって言ったから、おまえら全員無報酬だ!」とやらない辺りは良いと思います。個人の宗教に赤の他人を巻き込んじゃいけないですよねー。全世界の宗教戦争やってる方々に、改めて考えていただきたいところです。
さて、長すぎましたので今回は楽曲はお休みします。
続きは次回に!
妄想大爆発!!
※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
○第十四章
さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代の話です。
この王さまたちはソドムの王ベラ、ゴモラの王ビエベル、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわちツォアルの王と戦いました。
このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち今の塩の海に進みました。
彼らは12年間ケドルラオメルに仕えていましたが、13年目に背きました。
14年目に、ケドルラオメルと彼に味方する王たちがやって来て、アシュロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進みました。
彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破りました。
そこでソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイム、ベラ(ツォアル)の王が出ていって、シディムの谷で彼らと戦う準備をしました。
シディムの谷にはたくさんの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたときその穴に落ち込み、残りの者は山の方に逃げました。
そこで彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪いました。
彼らは、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトの全財産も奪いました。
ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来てそのことを告げました。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいました。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいました。
アブラムは自分の親類の者が虜になったのを聞き、彼の家で生まれたしもべたち318人を召集して、ダンまで追跡しました。
夜になって彼と奴隷たちは彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡しました。
そして彼はすべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産と、女たちや人々も取り戻しました。
こうしてアブラムがケドルラオメルと、彼と一緒にいた王たちを打ち破って帰った後、ソドムの王は、王の谷と呼ばれるシャベの谷まで彼を迎えに出てきました。
シャレムの王メルキセデクはいと高き神の祭司で、パンとぶどう酒を持ってきて言いました。
「祝福を受けよ。アブラム。
天と地を造られた方、いと高き神より。
あなたの手に、あなたの敵を渡された
いと高き神に、誉れあれ。」
(※原文まま)
アブラムはすべての物の10分の1を彼に与えました。
ソドムの王はアブラムに言いました。
「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
しかしアブラムは言いました。
「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓います。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取りません。それはあなたが『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためです。ただ若者たちが食べてしまった物と、私と一緒に行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
はい、この章はまた読みにくいですねー!!!(泣)
新登場の民族名もキャラも多すぎだし、なんか王さまたくさん出てきて話がいつの間にか壮大になってる!
神さまと人間の話だったはずなのに、国家とか戦争とか出てきて、なんだか雰囲気が変わっています。たぶん、また違う人が書いたんでしょうな。
まあ仕方ありません。一つずつ読んでいきましょう。
えー、まずこの話は
シヌアルの王アムラフェル
エラサルの王アルヨク
エラムの王ケドルラオメル
ゴイムの王ティデアル
の時代の話である、と前置きがついています。
この話が書かれた当時のひとは、これで時代がわかったんでしょうか。紀元後2018年の日本に生きる私にはさっぱり分かりませんので調べてみます。
シヌアルは第10章のニムロデのところでも出てきたし、11章のバベルの塔のところでも出てきましたが、今のイラクのことです。
当時そこの王さまだったというアムラフェルは、一説では都市国家バビロンの6代目王でありバビロニア帝国の初代国王であるハンムラビ(在位:紀元前1792年頃~紀元前1750年頃)と同一視されているようです。しかし同一人物かどうかは未だに分かっていません。最近は、どうやら違うんじゃないかとか言われてるみたいです。
「アムラフェル」はセム系の名前なので、ハム系のアムル人(エモリ人)であるハンムラビは当てはまらない、というわけです。
個人のブログを書いている方で、面白い意見の方もいらっしゃいました。
アッカド王朝の大王ナラム・シンがアムラフェルなのではないか、という説です。
ナラム・シンはアッカド帝国を建国したサルゴン王の孫にあたる人物です。(在位:紀元前2155年~紀元前2119年 学者によって数十~数百年のズレあり)
アッカド人ならセム系なので名前の不一致もないし、可能性はありますね。
彼は祖父のサルゴン亡きあと、叔父と父を経て王位を引き継ぎました。大規模な遠征を繰り返してアッカド帝国を広大にしましたが、その結果反乱に悩まされるようになり、王朝が傾くきっかけをつくったとも言われています。
伝説では、彼がニップルのエンリル神殿を破壊したために神々の怒りを買い、神罰として『山の大蛇(竜)』すなわちグディ人を送り込まれたせいで王国は滅亡することになった、とされています。
(実際には各都市の自立発展による社会変化が原因との説が色濃いですが…)
また、自らを神格化するメソポタミア王の習慣は彼から始まりました。
いずれにしても高慢で暴力的で、賢王とは言い難い扱いで伝えられている王さまですね。
ハンムラビかナラム・シンか定かではありませんが、いずれにしてもバビロニアかアッカドか…南メソポタミアの王さまですね。アムラフェルという人物は、シヌアル(イラク)に当時存在していた帝国の、頂点にいた人物とみられている、ということはわかりました。あるいはどんぴしゃでその人物じゃなくて、ニムロデやメネスのように複数の王さまの要素を集めた架空の人物かもしれません。
ちなみにアムラフェルとは「秘密を話す」という意味みたいです。
その次のエラサルという国は、どこのことだか分かっていません。どこかの都市国家だったんだろう、とはされていますけども。
とあるブログで、エラサルの王アリヨクについて『ヌジ文書はフリ人アルリウクに、マリ文書はイラズルという地名に言及している』と書いてらっしゃるのをちらっと拝見しました。ソースは不明ですが、興味深いので一応調べてみましょう。
「ヌジ文書」とは、イラク北東部のキルクークから南西約16kmのところにあるヌジ(現:ヨルガン・テペ)という所から出土した、楔形文字で書かれた粘土板の文書です。
ヌジ法律とも呼ばれるこの文書には、結婚、養子縁組などの慣習についての規定が書かれた部分があるそうです。 編纂されたのは紀元前15世紀頃と言われています。
ヌジという名前でこの地が呼ばれ出したのも紀元前15世紀くらいからといいますから、想像するに新しい町が出来たとか支配者が変わっただとかそんな理由で「あたらしい法律を作ろう!」と作られた文書なのではないかと思います。素人考えですけども。
それより前、紀元前3000年紀末には、このあたりはガスールと呼ばれていたそうです。
紀元前15世紀頃に書かれた文書はとってもたくさん見つかっていて、数千枚くらい出土しています。これらはフルリ語混じりのアッカド語で書かれていたそうです。
アッカド語は当時の国際共通語でしたから、公的な書類だったのかもしれません。
紀元前15世紀のヌジは、アラプハ王国の一都市だったそうでミタンニ王国の支配下にあり、かなりのフルリ人人口を擁していたといいます。
アラプハ王国は、紀元前16世紀頃にバビロニア崩壊の混乱に乗じてフルリ人が作った国です。同じくフルリ人の国であるミタンニと、大体同じくらいの時期に出来た感じですかね。
アラプハには「イティ・テシュプ」や「イティヤ」などのフルリ人王が君臨したそうです。けれども同じ頃建国されたミタンニほどの大国にはなれなかったアラプハは、紀元前15世紀半ばにミタンニの支配に下ります。(その頃のミタンニ王はサウシュタタル)
その後アラプハは、紀元前14世紀にアッシリア人によって破壊されてしまいました。
アラプハ王国に住んでいた、或いは伝わっていた「アルリウク」というフリ人(フルリ人)が『エラサルの王アリヨク』なのではないかとヌジ文書には書いてある、というわけです。残念ながらアルリウクという人物については資料がなく、どんな人物かは分かりませんでした。
一方、 マリ文書はイラズルという地名に言及している、とあります。 「イラズル」という土地についても、調べてみましたけれども何も分かりませんでした。
癪なので、マリについて少し調べてみます。
マリ文書とは、現在のシリアのユーフラテス川中流にあった都市国家マリの遺跡から発掘された文書です。やはり楔形文字で書かれた粘土板で、その数は2万枚を超えるといいます。こちらもアッカド語を用いた楔形文字で書かれており、その大部分は紀元前18世紀のヤスマハ=アダド王の時代とジムリ=リム王の時代に書かれたものとのことです。内容は大部分がマリ国王に宛てて臣下や西アジア諸国の君主から送られた報告書と書簡で、外交文書、儀式文、歴史記録、商業文書、行政文書などを含み、紀元前2000年紀メソポタミアの歴史や国際情勢を探るのに重要な役割を果たしています。
マリには紀元前5000年紀くらいから人が住んでいたとみられておりますが、都市国家として重要になったのは紀元前3000~紀元前2000年紀くらいです。
元々のマリ人はアッカド人などと同じセム系の民族でした。シュメールはシリア北部の山々から材木や石材などといった建材を輸入していましたが、マリはその中継地点として繁栄しました。
紀元前24世紀頃に一度何者かに破壊されてしまって小さな村になってしまったマリですが、メソポタミアにやってきたアムル人たちの王朝のもと、紀元前1900年頃に再び栄えます。
マリ文書はこの頃書かれたものだとみられています。
一時は勢力圏を現トルコまで広げたマリでしたが、紀元前1759年に再度破壊されてしまいます。滅ぼしたのはバビロン王ハンムラビでした。
その後マリは同じユーフラテス川中流域の都市国家テルカに覇権を奪われ、再び村落となって歴史の表舞台から消えていくことになります。
マリはアッカド人の都市でしたが、その後の王朝はハム系のアムル人(エモリ人) のものなので、住んでた人も大半はアムル人だったかもしれません。或いは、アッカドとアムルの混血だったかも。
ただ、マリの人々はメソポタミアの文化を嗜み(シュメールの特徴である精巧な髪型と服装)、シュメールの神さまを信仰していました。(マリの最高神は西セム系の穀物神で嵐の神ダゴン)文化的にはバビロニアに近かったんですね。
そんな国の跡地から発掘された文書に「イラズル」という土地名があって、そこが「エラサル」と関係あるんじゃないか、というわけです。
その他、ラルサ(古代バビロニアの都市のひとつ)またはテルサル(不明)に関係するんじゃないかという記述もありました。
次のエラムは、そのまんまセムの子孫エラムですね。今のイランです。エラム人の都市国家は紀元前3200年には成立していました。
先程の、シヌアルの王アムラフェルをハンムラビかナラム・シンと仮定した場合。その頃のエラムの王朝と言えば、シュメールのウル第三王朝を滅ぼしたシュマシュキ朝(紀元前2030~紀元前1850年)か、バビロンと度々交戦していたエパルティ朝(紀元前19世紀頃~紀元前1600年)でしょうか。
エラムの王国にケドルラオメルという名前の王がいたという記録は見つかっていませんが、まあこのあたりの王さまのことなのかもしれません。
ちなみにケドルラオメルもハンムラビと同一人物なのではないか?という説があるようですが、よくわかりませんでした。
まあ、要するにくわしくはわかってないんですね(爆)
「しもべクドルと神名ラゴマルの合成語」だと書いてあるサイトがあったのですが、クドルという名前もラゴマルという神も検索して出てこなかったので、これもよく分かりません。情報求む。
その次のゴイムは、その言葉自体は「諸民族」という意味だそうです。ヘブライ語の「ゴイ」がイスラエル民族を指す言葉で、「ゴイム」はその複数形です。
元々は非ユダヤ民族を表す言葉で、別に悪意のある言葉じゃなかったのですが、現在はもっぱら差別用語として使われているそうです。《家畜》《豚》くらいの強い卑下の言葉です。
ゴイムを国名として扱う場合。一説では、ゴイムはグティウムのことを指すとされております。
さっきアムラフェルのところでナラム・シンについて言及したとき出てきた、グディ人のことですね。
メソポタミアに侵入した蛮族として伝わっておりますが、果たしてどんな人々だったのでしょう。
彼らの名前が最初に登場したのは紀元前3000年のシュメールでした。楔形文字で書かれたシュメールの粘土板に、 "Kar-da"あるいは"Qar-da"と呼ばれる土地の名前が見つかっているそうです。
グディ人たちはペルシャとメソポタミアの間、ヴァン湖(トルコ)の南と南東の高山地域を支配していたといいます。
紀元前2400年頃、彼らは現在のイラクにあたる地域に《グティウム王国》を作ります。首都はアラフカという町で、現在のキルクーク(イラク北部の町・油田が有名)です。
彼らはザグロス山脈方面からメソポタミアに侵入し、一時はサルゴン亡きあとのアッカドを押し退けてシュメールを支配するほどの力を持ちます。
グディウムは紀元前2150年くらいにウルクを破り、紀元前2115年あたりにもアッカドの都市を破壊して覇権を握りました。シュメール王名表にはウルク第4王朝とウルク第5王朝の間に19人のグディ人の王が記録されています。
グディ人たちの支配は125年ほど続きましたが、複雑な文明に慣れていなかった彼らは、問題を適切に対処することが出来ず幾度も飢饉に見舞われることになったそうです。
特に運河の管理がうまくできなかったことは致命的でした。メソポタミア文明は、チグリス・ユーフラテス川が雪解け水で定期的に増水することを利用し、運河を整備して豊かな農業収穫を得たことで発達した文明だからです。
グディ人最後の王ティリガンは紀元前2050年頃(紀元前2100年頃との説もあり)、シュメール人のウルク王ウトゥ・ヘガルに倒されたと伝えられています。ティリガンと彼の家族は囚人として捕らえられ、ティリガンはウトゥ・ヘガルの「シュメールを離れグディウムに戻る」という要求を承諾したということです。
ただ、最近の研究では、グディ人は単一の政治集団ではなく勢力範囲も限定的だったと推定されています。
つまりアムラフェルのところで書いたとおり、グディ人のせいでアッカドが滅びたわけではなく、実際にはメソポタミアの各都市が自律的発展を遂げたために社会変化が起こったことが直接の原因だろうというのです。けれども歴史を記す側のシュメール人やアッカド人は、何かのせいにしたかったんでしょうね。
王権は神から与えられるもの、とする宗教観も関係してるのかもしれません。
とりあえず、こののちグディ人はシュメールの地域では「蛮族」として忌み嫌われるものとなりました。
ちなみにグディ人はクルドゥとも呼ばれていたので、現在のクルド人との繋がりが研究されているようです。
そんなグディ人たちの支配する国が、「ゴイム」なのではないかという説です。
グディ人の中に「ティデアル」という王はいませんでしたが、最後の王ティリガンがなんとなく名前の響き似てるような…気がしなくもない。
とあるブログには「ティデアル」という名前がヒッタイト王のトゥダリアスに似てると書かれておりましたが、その王さまとみられる人物はWikipediaではトゥドゥハリヤ1世という名前で載っていました。(名前似てる?かな?)ヒッタイト古王国が成立する前の、紀元前17世紀頃の王です。
ハムの子孫ヘテのところでヒッタイト人については調べましたが、ヒッタイト=フルリ人(ヒビ人)とする説もありましたね。
・ヘテ=ヒッタイト人(アナトリア半島/紀元前1680年頃~紀元前1190年頃)《前1200のカタストロフ》により滅亡=フルリ人?
・ヒビ人=フルリ人(オリエント全域/紀元前3000年紀の終わり頃~紀元前13世紀)ミタンニ王国が有名、 青銅器時代の終わり頃《前1200年のカタストロフ》をきっかけに衰退?
どちらもハムの子孫として10章に載ってました。
仮に候補に入れておくとして、さてこれで4人の王さまについて触れましたね。まとめてみます。
シヌアルの王アムラフェル…バビロニア王国のアムル人or アッカド帝国のアッカド人
エラサルの王アルヨク…ミタンニ王国のフルリ人or マリのアムル人
エラムの王ケドルラオメル…エラム王国のエラム人
ゴイムの王ティデアル…グディウム王国のグディ人 or ヒッタイト王のヒッタイト人 or フルリ人
年代は紀元前22世紀~紀元前18世紀といったところでしょうか。バベルの塔から一気に時代が経ってることがわかりました。
ということは、前章でのエジプトのファラオの年代も、だいぶずれることになります。前章までは時代の手がかりが出てこなかったので、バベルの塔の時代(紀元前3000年あたり)を取り上げました。
でも紀元前22世紀~紀元前18世紀というと、その頃のエジプトといえば古王国時代(紀元前2686年頃~紀元前2185年前後)も終わりを告げて中央集権国家としてのエジプト第6王朝は有名無実になり下がり、そこからエジプト第11王朝(紀元前2134年頃~紀元前1991年頃)に再統一されるまで国情は安定せず、混乱していた時期です。第12王朝(紀元前1991年頃~紀元前1782年頃)には、リビアやクシュなどへの遠征に成功し、活発な建築活動や農地開発が行われましたので、このあたりは豊かな時代だったと言えます。
さて、とりあえずこのあたりの時代に上記の4つの王国は
ソドムの王ベラ
ゴモラの王ビエベル
アデマの王シヌアブ
ツェボイムの王シェムエベル
ベラ(ツォアル)の王
と戦争になった、とあります。
この地名を見て思い出すのは、第10章で紹介していたカナン人の領土についてです。
『カナン人の領土は、シドン(現レバノン・サイダ)からゲラル(現イスラエルのテル・アブ・フレイラ遺跡)に向かってガザ(シナイ半島北東部、東地中海に面するパレスチナの一角)に至り、ソドムとゴモラ( 死海東南部に存在する前期青銅器時代の都市遺跡バブ・エ・ドゥラーとヌメイラ)、アデマ(ソドムとゴモラの姉妹都市。場所不明)とツェボイム( エルサレムの東北東約13kmの所にあるワディ・アブー・ダバー(「ハイエナの父の谷」の意)の可能性あり)に向かってレシャ(場所不明)にまで広がった。 』
と書いてありました。
ソドムとゴモラは隣接している都市で、一説では現代のヨルダン・ハシミテ王国、カラク県に位置します。
場所はわかりませんが、アデマはソドムとゴモラの姉妹都市。
ツェボイムは死海の下に沈んだ古代都市とみる人もいますし、死海南東にある涸れ川に沿った遺跡だとする人もいるようです。
ツォアルは前章でも出てきましたね。死海の近くのシディムの谷という所にあった町、とのことです。
まあつまり、この5つの街はみんなカナン人の街で、この戦争は
アッカド、アムル、フルリ、エラム、グディ、ヒッタイト人など(仮定) VS カナン人
つまり
メソポタミア各国 VS カナン人諸国
というわけです。
カナン人たちは連合軍を組んで、『シディムの谷、すなわち今の塩の海』に進んだとあります。
このお話が書かれた頃には既に死海があって、それより前はそこは「シディム」という名前の谷だった、と伝わっていたということがここでわかりました。
次から、どういう経緯で戦争が始まって、どんな戦いになったかの説明に入ります。
12年間、ケドルラオメル…つまりエラム人に仕えていたカナン人王たちは、13年目に「やってられっか!」と蜂起を起こします。(今まで数百年単位で話が進んでたのに、急に現実的な数字になりましたね)
それで連合軍を組んで、シディムの谷に進軍していったというわけです。
その次の年、ケドルラオメル率いる連合軍が制圧のためにやってきて、次々に土着の人々を倒していったとのことです。その土着の人々ですが、これまた10章のセム、ハム、ヤペテの子孫紹介には載ってない人達ですね。アダムの血族でない人達ですよ、ってことでしょう。
まず、アシュロテ・カルナイムでレファイム人を倒したとありますが、まずアシュロテ・カルナイムってどこやねん。
そのままで検索してもさっぱり出てこなかったので、ちょっと調べるのに時間かかりました。
どうやら『カルナイムのそばのアシュロテ』という意味らしく、トランスヨルダン北部のガリラヤ湖東側にあった古代都市カルナイム(「二つの角」の意)のそばにあった町だそうです。
バシャン(ヨルダン川の東、ヤボク川からヘルモン山までの間、ゲネサレ湖からハウラン山脈までの間の地帯)の地域にあった都市で、一般にガリラヤ湖東約32kmの所にあるテル・アシュタラという遺跡と同定されている………とのことで、カルナイムはその遺跡の近くにあるというシーク・サアドとのことらしいです。ペトラ遺跡のシーク(遺跡の入り口である狭い峡谷)とは関係ないのかな?
ペトラ遺跡はエドム人を調べたところで登場しましたが、 現ヨルダンの死海とアカバ湾の間にある渓谷にある遺跡です。地域的にも近いし、なんか関係あるんでないかな?
アシュロテの町はアッシリア碑文やアマルナ文書の中でも言及されているそうです。
その名前から女神アシュトレテ(アスタルテ、アスタルト)の崇拝地と考えられています。
少々脱線しますが、アシュトレテは地中海各地で信仰された、セム系の豊穣・多産の女神です。ビュブロス(現:レバノン)などで崇拝されまして、イナンナ、イシュタル、アフロディテなどこれまた様々な女神の雛形になっています。女神アナトと同一視されることもあります。
これまでに調べたニンフルサグやセミラミスに続き、また古い女神の登場です。
他の古い神たち(デュオニュソスやニンフルサグなど)と同じく、この女神も崇拝のために性的な乱行の祭りが神殿で行われており、男娼や売春婦が仕えていたそうです。多産や繁栄を司る神にはよくあることですな。
アシュトレテは性器を誇張した裸婦という見た目と、バアルの妻という身分から、カナン地域では主要な異教の神とされました。本来のヘブライ語名は「アシュテレト」ですが、旧約聖書ではこれに「恥」という意味の「ボシェト」の母音を読み込んだ「アシュトレト」の蔑称で書かれます。その複数形「アシュタロト」は、異教の女神を指す普通名詞として用いられます。アシュトレトは後にヨーロッパに渡って、グリモワール(魔術書)の悪魔アスタロトになります。地母神と悪魔の元ネタが同じとは、これまた皮肉な話です。
またアシュトレテは基本は豊穣の女神ですが、エジプト人やフィリスティア人たちの間では戦神として信仰を集めていたようです。
古代エジプトではアースティルティトと呼ばれ、プタハの娘として系譜に加えられました。信仰が始まったのはエジプト第18王朝頃(紀元前1570年~)からだそうです。
まあとりあえず、そんな女神を祀っていた町で、メソポタミア連合軍は「レファイム人」たちを倒したわけです。
レファイム人については、ここではあんまり深く知ることはできませんが、どうやら巨人族のようです。サムエル記、申命記に登場するっぽい。あとで調べてみましょう。
その次にハムという町でズジム人を倒したとのことですが、このハムはノアの息子のハムとは関係ないようです。
どうやらヨルダン川の東側にあった都市らしく、そこから名前をとった「ハム」という名前の村がイルビド(ヨルダン北西部の都市)の約6km南南西、ガリラヤ湖の南端から約30km南東の位置にあるそうな。(今でも在るかは知らん)
ズジム人に関しては何も情報が得られませんでした。そもそもズジム人っていう人種は居るのか謎。
その次に、シャベ・キルヤタイムでエミム人を倒したとあります。シャベは「平地」、キルヤタイムは「二重の町、二つの町」という意味です。
古代ヨルダン川の本流の始まりだったフーラ盆地から西北西約21kmのところにある、キルベト・エル・クレーエという遺跡と同定されているそうな。
マダバ(ヨルダンの都市)の南30kmにあるディボン(現:ジーバーン)から更に約10km西北西にあるクライヤートという町とする説もあるようですが、そこの遺跡は紀元前1世紀より新しいものらしいのでどうやら違うっぽいです。
そこで倒されたエミム人とやらも、これまた巨人の類いのようです。エミムは【恐ろしいもの】という意味らしく、先に出てきたレファイム人を指して「エミム」と呼ぶこともあるそうな。
エミム人を、レファイム人の一支族と考える方もいるようです。
ただしエミム人とレファイム人に関して詳しく出てくるのはもっとずっと先なので、ここは触れずにおきましょう。
快進撃を続けるメソポタミア連合軍、次はセイルの山地(死海とアカバ湾の間の山地)でホリ人を倒します。
セイルは「おぞ気立つ」という意味で、「樹木の茂った丘」を指す説だとか、「戦慄さを覚えて身震いする場所」である意味だとか、色々説があります。
「毛皮のよう」という解釈で「エサウ(超毛深い)が住んだ土地」という説もあるみたいですが、エサウが出てくるのはだいぶ後です。この時点でセイルと呼ばれてるのを鑑みると、後付け設定なんではないでしょうか。
そこで倒されたホリ人は、 ハムの子孫として紹介されていたヒビ人(フルリ人)とみられています。
ヘブライ語の「穴」に由来して「洞窟に住む人々」という意味とみる人もいます。
ちなみにエブス人も人種的にはフルリ人と同じとみる学者さんもいて、そう考えるとヒビ人もホリ人もエブス人も住んでる場所や細かい文化や言語が違うだけでみんな『フルリ人』って言いたいんですかね。
ただし、紀元前2000~紀元前1000年にフルリ人の集落がヨルダンにあった考古学的根拠は無いそうなので、実際のところはよくわかりません。
全く信者でない私からすれば、当時(紀元前1500年頃)オリエント屈指の強国(ミタンニ王国人)だったフルリ人の名前を出すことで、より当時の人々の信仰心を煽りやすくするために差し込んだお話としか思えないのですけど。
一応、過去に調べたヒビ人(フルリ人)とエブス人について。
↓↓↓
聖書を楽しむ【8】(前半)
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%908%E3%80%91%EF%BC%881%EF%BC%89
聖書を楽しむ【8】(後半)
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%908%E3%80%91%EF%BC%882%EF%BC%89
さて、メソポタミア軍は上記の民たちを打ち倒しつつ『砂漠の近くのエル・パランまで進んだ』そうです。
パランというのは、シナイ半島の中央部と北東部の地域のようです。どうやら一定の境界を持たない漠然としたエリアのことらしいです。砂漠の近く、という説明通り、このあたりは現在はエジプトです。
つまりメソポタミア軍はヨルダン北部から死海の東沿いにずっと南下してきて、死海とアカバ湾の間を通りシナイ半島まで来たというわけです。
そこまで来て、彼らは「エン・ミシュパテ、今のカデシュ」まで引き返したとあります。
カデシュはノアの子孫たちを調べる過程で何回か出てきました。シリアとトルコを流れるオロンテス川沿いの、かつての大都市です。
カデシュは現在のシリア西部の大都市ホムスから24km南西にある場所とのことなので(テル・ネビ・メンドという遺跡がカデシュの跡とされる)、メソポタミア軍はシナイ半島から一気に死海を通り越してシリアの中心部まで進んだことになります。
カデシュが「ミシュパテ」と呼ばれていた時代があったかは残念ながら分かりませんでしたが、カデシュが滅びたのは紀元前12世紀。アナトリアの他の都市と同じように「海の民」に破壊され、その後再建されることはありませんでした。
『今の』と呼ばれているということは、この文章が書かれたときにはカデシュがまだ存在していたということですので、当時は紀元前12世紀よりは確実に前なのだと分かりました。
そのカデシュで、メソポタミア軍は「アマレク人」のすべての村落を破壊します。アマレク人は、アラバ(「乾燥した荒野」の意。ヨルダン地溝帯の一部で、ガリラヤ湖南部から死海を経てアカバ湾までに達する谷)と地中海の間にある、パランという荒れ地に住んでいた古代パレスチナの遊牧民族です。(後にユダヤ人に吸収されて消滅)
更に、「ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも」打ち破った、とあります。
エモリ人「さえ」という表現が使われているのは、エモリ人が当時どれだけ力を持っていたかが分かれば納得ですね。
10章でカナンの子孫として記載されていましたが、エモリ人は紀元前2000年前半に中東各地で勢力をふるった『アムル人』のことです。どれだけ強力だったかは上記のシヌアルとエラサルのところでも書きましたとおり。紀元前2004年頃にウル第3王朝が滅びたあと、メソポタミア各地に成立した緒王朝…イシンやラルサ、マリ、そしてバビロンは、すべてアムル人たちの国です。
のちにメソポタミア随一の王国となったバビロニアの王、ハンムラビも「アムルの王」を名乗っていたくらいです。
アムル人たちはひとつの民族としてまとまっていたわけではなく、それぞれの地域で都市国家を築いてお互いに覇権を争っていたらしいので、同じ民族同士だからって容赦はしません。
アムラフェルやアルヨクはもしかしたらアムル人だったかもしれないけど、同族だからって見逃すほど優しくはなかったと思われます。
ちなみにその倒されたアムル人たちが住んでいた「ハツァツォン・タマル」とはどこかと申しますと、現イスラエル南東部、死海の西岸にある町エン・ゲディです。(歴代誌Ⅱ20-2より)
いつからエン・ゲディ(「子ヤギの泉」の意)という名前で呼ばれているのかは分かりませんが、 歴代誌の年代からしてソロモン王の時代には既にこの名前だったんではないかと思われます。
エルサレムまで約55km、イスラエル公道90号線沿いにある観光地としても名高いこの町には、死海湖岸にはエン・ゲディ・ビーチ、西郊外にエン・ゲディ国立公園、北郊外にクムラン洞窟(死海文書が発見された所)、南郊外にマサダ要塞(第一次ユダヤ戦争の遺跡)が、町中には近隣のオアシスの水と太陽光を利用したスパがあるなど見所たっぷりです。いつか行ってみたいわー。
まあ、こんなかんじで死海の東側からスタートしてぐるっと回って西側まで、メソポタミア軍はカナン軍の近隣の町村をまるっと制圧したわけです。
こりゃいかんということで、カナン軍も直接対決の準備。直々に王さまが戦場に馳せ参じ、シディムの谷でいざ迎え撃つ構えをとります。
ところがどっこい。
戦いの様子は一切描かれないまま、カナン軍が撤退する様子のみが詳細に説明されます。書くまでもないってことなんでしょうか。まあ大国相手に無茶な戦だったということですかね。
シディムの谷には瀝青…つまり天然アスファルトが採掘された後の穴があちこちにあいていたので、ソドム王とゴモラ王はその穴に落っこちてしまいました。
ほかの仲間は王さまたちを助けることもなく山の方に逃げ(薄情な…)、メソポタミア軍はソドム王とゴモラ王の全財産と食糧をぜんぶ奪いました。
王さまたちが捕まったのですから、彼らの町もメソポタミア軍の支配に墜ちます。ソドムとゴモラはメソポタミア軍の支配下になりました。
そこでやっと出てくるのが、前章でアブラムと袂を分かったアブラムの甥ロトです。
ソドムの近隣にテントを張って住んでいたロトも、ソドムの住人と思われたからなのか知りませんが、メソポタミア軍にすべての財産を没収された上にさらわれてしまいました。
捕虜として使い道がありそうだったからなのか、それとも他の理由があったのか?詳しいところは謎ですが、ロトはここではヒロインの立ち位置です(爆)
この事実を、ひとりの逃亡者がやってきてアブラムに伝えます。もしかしたら命からがら逃げてきたロト家の使用人かもしれません。
このとき初めて、「ヘブル人アブラム」とアブラムに民族名が付きました。
彼がどのタイミングで「俺は今日からヘブル人」と名乗り出したのか、或いは説明はされてないけど伝統的にこの時既にエベルの子孫はそう名乗っていたのかは分かりませんが、やっと「あ、このお話の主人公ってヘブル人なんだー。」ということは分かりました。
ロトと別れてから、アブラムはずっと同じところに住んでいました。でも、ただ何にもしてないわけではなかったようです。
どうやら、その土地の持ち主と同盟を結んでいたらしい。
いくら神さまが「そこの土地みんなおまえにやる」と言ったところで、既に人間社会の中では土地の売買が行われています。
アブラム一族がやってきたヘブロン(現パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区南端)の土地は、そこに生えている樫の木も含め「マムレ」という名前のエモリ人(アムル人)の所有でした。アブラムはマムレと、更にマムレの兄弟エシュコルとアネルと盟約を結び、流浪の身でありながらそこに住む正当な権利を手に入れていました。
どんな盟約かは知り得ませんが、なかなかやり手だなアブラム。
さて、カワイイカワイイ甥っ子が囚われの身となったと聞いたアブラムは、「自分の家で生まれたしもべたち」318人を集めてメソポタミア軍を追跡します。
わざわざ「自分の家で生まれた」と付け加えるということは、よっぽどアブラムが金持ちだって言いたいんですかね。
要は召し使いたちを結婚させて、子供を生ませて、それを300人以上養えるだけの財力がアブラムにはあったんですからね。両親ともアブラムの召し使いだったとしたら、単純計算で親は600人いることになります。(兄弟が多い夫婦がたくさんいればその分少ないですが)
土地の有力者と対等に渡り合ってる時点で想像はつきますが、個人で財を築き尚且つ自衛ができるだけの兵力も持っていたはずですね。
自らの手で鍛え上げた生え抜きの若い戦士たちを引き連れ、アブラムはダンという土地までやってきます。
ダンという名前は後で出てくるのですが、アブラムの子孫のひとりです。彼にちなんでその土地にダンという名前がついたとのことですが、この時点では生まれてないのになんで既にこの名前が登場するんでしょーか。後付けなんじゃない?
とりあえず、 ツォルア(現イスラエルのエルサレム地区、エルサレムから20km、ベト・シェメシュ市の近く)やエシュタオル(「神に訊ねる場所」の意。シェフェラ( パレスチナの中央山岳地帯とフィリスティアの沿岸平原との間に位置する低い丘陵地帯を指す名称)にあったとされる都市)等が、ダンと呼ばれる土地になるようです。
そこまで追いかけていったアブラム軍は、夜になってからメソポタミア軍に襲いかかりました!夜襲は立派な戦略です。少数精鋭で戦しようってんですから、手加減などしてる場合じゃありません。
初戦で勝利をおさめたアブラム軍、さらわれたロトたちを追ってダマスコ…つまりダマスカスまでメソポタミア軍を追い詰めます。
ちなみにWikipediaによりますと、ダマスカスという土地が最初に出てきた文献は紀元前15世紀のエジプトのトトメス3世の残した地理文献にある「T-m-ś-q」と読める文字だそうです。「T-m-ś-q」の語源は不明ですが、アッカド語では「ディマシュカ Dimašqa」、古代エジプト語では「T-ms-ḳw」、古アラム語では「ダマスク Dammaśq דמשק」、聖書ヘブライ語では「ダメセク Dammeśeq דמשק」と呼ばれており、アッカド語のものは紀元前14世紀のアマルナ文書におけるアッカド語文献に出てくるそうな。
そのダマスカスの北にある、ホバというところで再び戦いになります。
学者さんたちはパルミラ(現パルミラ遺跡)とダマスカスの間の道路沿いにある、ホバという泉がその場所なんじゃないかと考えてるようです。
そこで一騎討ちになったアブラムとメソポタミア軍の戦いの様子は、これまた別段深くも語られないまま
「そして彼はすべての財産と、親類のロトとその財産と、女たちや人々(たぶん召し使い)を取り戻しました。」
の一文で済ませられてしまっています。
これまで死海近隣をことごとく制圧したメソポタミア軍をいとも容易く撃ち破ってしまったわけですから、アブラム家はそれだけの強さを持っていた隊だったんですね。とりあえずロトたちの奪還は成功です。
さて、目的を達したのでアブラムが帰ってきたところに、色々な人がお迎えにきました。アブラムは別に戦争をどうにかしようとしたわけではなかったですが、結果的にはメソポタミア軍を個人の所有する部隊で倒してしまったわけなので、《戦争終結の英雄》扱いになります。なんかゲームの主人公によくある設定ですね。
まず、ソドムの王さまが直々にシャベの谷(王の谷)までアブラムを出迎えに来ました。
シャベの谷は、正確な場所はどこか分かっておりませんが、エルサレムの近くとみられているそうです。(ヨセフスはエルサレムから370m離れたところとしている)
と、ここへきていままで欠片も出てこなかった新キャラ登場です。
ソドム王がアブラムを出迎えるよりも先に「シャレムの王メルキセデク」とやらがアブラムと接触したのです。
「シャレム(サレム)」は現在のエルサレムのことを指すそうです。名前の意味は「平和」で、後々ヘブル人たちの国ができてから「神の(エル)」が付いて「エルサレム(神の平和)」という名前になったというわけ。
とりあえずそこの王さまメルキセデクは、王であると同時に「いと高き神」の祭司だったとのことです。つまりはアダムを作って歴代の子孫と契約し、アブラムをここに導いた「主」側の人ってわけですな。
ちなみに、『天と地を造られた方』『いと高き神』っていう宗教曲でもよく使われる御名はここで初登場しました。
実はこのメルキセデクさん、ほんとに人間なのか?という説が色々あるそうな。
Wikipediaには、彼の名前はウガリットの文書に記されていたカナンの神ツェデクに由来していると書いてありましたけども、実際そういう名前の神が信じられていたという資料は見つかりませんでした。
ヘブライ語ではツェデクは「義( צֶדֶק / tsedeq)) 」という意味になります。いずれにしてもちょっと意味深な名前ですね。
神学では、「義」は「救い」と同義と考えてよいそうです。本来は「まっすぐなもの」という意味で、「筋を通す・曲がっていないこと」を指すようです。
また、当時のシャレムに住んでるのはカナン人だったが、ノアの呪いをうけたカナン人たちが主の司祭にはなれないこと。まだキリスト教のキの字もない時代に「パンとぶどう酒」(聖体)というアイテムを引っ提げて、いきなり登場してきたことなども、この人物が只者ではないと思われる要因です。
ちなみにパンとぶどう酒のセットが聖書に初めて出てきたのもこのシーンです。
以上の理由などから、メルキセデクは
〇神そのもの
〇神の使い(天使的な何か)
〇後のイエス・キリスト
なんじゃないのかと議論されているそうです。
まあここでは答えはでないのでスルーします(爆)この疑惑のおっさんは、パンとぶどう酒をアブラムに差し出していきなりこう言いました。
「天と地を作った神さまから祝福でーす。君に敵をくれた神万歳\(^o^)/」
メソポタミア軍はアブラムのために神さまが遣わした試練だったのだと言いたいようです。また、そのままにしておくと勝利に有頂天になって調子に乗り出しそうなアブラムを諌めるために来たとも考えられます。
(アブラムってそういうところあるよね)
「この勝利も神のおかげなんだから調子乗るなよ」 ってわけですね。
パンとぶどう酒を合わせて食べる儀式は、果たしていつからあったのかは分かりませんが、この時代にはとりあえず既にあったようです。一応参考までに過去の記事↓↓↓↓
《羊についてのあれやこれや》
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E6%9C%AA%E5%B9%B4%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%A7%E7%BE%8A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8C%E3%82%84%E3%81%93%E3%82%8C%E3%82%84
ぶどう酒及びぶどうを崇める宗教といえばギリシャのデュオニュソスが有名ですが、ギリシャ神話のなかではデュオニュソスは比較的新しい神さまです。
しかしそれは「ギリシャ神話のなかでは」という話で、アフロディーテやアドニスのように、元々地方の豊穣神だった神さまが後から加えられたからです。
そういう意味では、デュオニュソスはかなり古くから信仰されていた神さまでした。上記のリンクの過去記事でも取り上げた《デュオニュソス祭》の起源はアッティカ(アテネ周辺の地域)のエレウテライで行われていたDionysia ta kat' agrous(おそらくぶどうの木の栽培を祝う祭り)だそうで、元々はデュオニュソスは全然関係ないお祭りだったとみられています。これがいつから始まったかは分かりませんでしたが、デュオニュソスの名前が出てきた一番古い記録はミケーネ文明の時代の文書だそうですので、もしかしたらこの創世記の話が書かれた時には既にデュオニュソス信仰は知られていたかもしれません。(ミケーネ文明…紀元前1450年頃~紀元前1150年頃)
では、パンは?
過去の記事でも調べましたとおり、パンは古代
から《生け贄》の性質を持っています。
人間は農耕を始めるよりも早くから、採ってきた植物を使ってパンを焼いていました。Wikipediaによると、ヨルダンでは約1万4400年前のパンが見つかっているそうな。パン焼き釜で一番古いのはバビロンの、約6000年前のものです。
昔のパンはそのまま食べるものではなく小麦を保存しておく手段で、焼いて保存しておいたパンを貯えておいて、食べるときに水と一緒に土器に入れて煮てお粥にするものでした。
そんなパン文化を大幅に進歩させたのが古代エジプト。穀物神であるオシリスとイシスの名のもと、エジプト人たちはより美味しいパンとビールを作って食べ、それを奉納することが日々の習慣となっていました。
子供の誕生のお祝い、死者の埋葬の儀式にも欠かせないパンは、日本に置き換えたら日々の米とケーキ(誕生日・ウエディング・クリスマス含む)と雛あられと柏餅と鏡餅と千歳飴と落雁etc…をすべて引っくるめて済ませられてしまうくらい重要な食べ物というわけです。
のちにパンを神々の礼拝の儀式で奉納する文化はギリシャに伝わり、狩猟の女神に捧げる用に雄鹿の形をしたパンだとか、血液を練り込んだパンだとかも作られたそうな。
とにかくパンをお供えするのは昔からやっていたことで、別にそれから数千年後にイエスさんが「パンは私の身体ですよ」と言ったから初めてやられるようになったわけではないのです。
同じように、お酒の奉納もずいぶん昔からされていました。(世界的にみればワインに限らず、あらゆる酒が奉納されてたようです)
ですから、私はメルキセデクさんとアブラムのやり取りは以前のノアと神さまの契約と同じように
「既存の儀式をユダヤ教に取り入れるために挿入したエピソード」
と解釈します。そういう意味ではメルキセデクは神そのものでもあるし、天使でもあるでしょうし、イエスのモデルとも言えるでしょう。
彼の名前が「義」という意味ならば、彼は人と神の「救い」の擬人化ということになります。
旧約においての「義」は「神と人の関係を本来の形に戻すための意志」で、アブラムは拐われた甥を助けるために戦っただけだけど結果的には神が用意した試練を見事クリアし、それ以前に神の言う通りにカナンの地を動かず、豊かな土地への移動をしませんでした。
つまり「義」を貫きました。
なので、「義」の使者である司祭が祝福を持ってきた。こう考えると私自身は納得いったんですけど、これは完全に私の妄想なので本気にしないでください(笑)
彼がアブラムに手渡したパンとぶどう酒は神さまに捧げられるものであって、メルキセデクは主に選ばれたアブラムを通して主そのものを拝んでいる、という解釈です。(メルキセデクが主そのものだった場合、自画自賛ということになりますが(爆))
メルキセデクからパンとぶどう酒をもらったアブラムは、「すべての物の10分の1」をメルキセデクに与えました。たぶんアブラムが持ってた全財産ということでしょう。
この「十分の一」という数字は、今でもユダヤ・キリスト教で行われている習慣だそうで、組織を支援するために『自発的に』寄付、租税、徴税として支払われます。現在では現金や株式、小切手による支払いですが、昔は農作物でも支払われたこともあったそうな。
その習慣も、聖書のこのくだりに倣って行われているというわけです。
ここも、「神さまの祝福を得るかわりに手持ちの財産の10%を支払う」という教会のシステムを理由付けするためにお話を挿入したんですかね?(爆)
メルキセデクが帰ると、やっとこソドムの王が登場。
アブラムがメソポタミア軍から奪ったもののうち、「国民は返して欲しいけど、財産はあげる」と超太っ腹な申し出をしました。もちろん、戦闘報酬でしょう。それをアブラムはあっけなく断りました。
さっきメルキセデクに言われたことをちゃんと守ってるんですな。メルキセデクが言ってた「天と地を造られた方、いと高き神」もちゃんと引用してます。
それにしても「神に誓って、あなたからは糸くず1本だって貰うつもりはない」とは、なかなか失礼な返しだと思います(爆)
ただ、一緒に戦ってくれた若い召し使いたちの食料代や、同盟者のマムレとその兄弟アネルとエシュコルの分の報酬はきっちりもらいました。
自分の一存で「神が調子こくなって言ったから、おまえら全員無報酬だ!」とやらない辺りは良いと思います。個人の宗教に赤の他人を巻き込んじゃいけないですよねー。全世界の宗教戦争やってる方々に、改めて考えていただきたいところです。
さて、長すぎましたので今回は楽曲はお休みします。
続きは次回に!
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