プロフィール
HN:
赤澤 舞
性別:
女性
職業:
飲食店店員
趣味:
お菓子作ったりピアノ弾いたり本読んだり絵描いたり
自己紹介:
東京・神奈川・埼玉あたりでちょこまか歌 を歌っております。
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
音楽とお酒と猫を愛してます(*´▽`*) 美味しいものには目がありません。
レトロゲームや特撮も好物です。
ヴァイオリンは好きだけど弾けませんorz
一応声種はソプラノらしいですが、自分は あんまりこだわってません(笑) 要望があればメッツォもアルトもやりま すヽ(^。^)丿
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2016/07/20 (Wed)
まだまだ続いています。早く先のお話に進みたいなー…。
※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
前回↓↓↓
聖書を楽しむ【8】(1)
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%908%E3%80%91%EF%BC%881%EF%BC%89
聖書を楽しむ【8】(2)
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%908%E3%80%91%EF%BC%882%EF%BC%89
ヤペテ、ハムときて最後に長男セムの子孫の紹介です。
子孫の説明の前に、セムについて説明が少しあります。
「セムはエベルのすべての子孫の先祖で、ヤペテの兄です。」
エベルはセムの三男アルパクシャデの孫ですので、セムにとってはひ孫になりますね。
なんでわざわざエベルの名前を出したのか?きっと詳しく読んでみたらわかることでしょう。
ヤペテの兄、と改めて言っているのも気になります。ハムの兄ではない、つまりセムが長男ですよ、ということなのでしょうか?それとも「呪われてるハムなんて兄弟なんかじゃねーよ」ってことでしょうか?
ともかく一人ずつ子孫を調べていきます。
今回、ヤペテの子孫が結構たくさん登場します。
ですので、わからなくなったら以下もご参照ください。
↓↓↓
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/聖書を楽しむ【6】
セムの子供たちとして挙げられているのが
・エラム(エラム人のこと)
・アシュル(「支持」「城壁」の意?)
・アルパクシャデ
・ルデ(「闘争」の意)
・アラム(古代シリアの別名)
の5人です。
まずエラムは、メソポタミアの東、現代のフーゼスターンなどを含むイラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域を指します。エラム人自身は自らをハタミ、又はハルタミと呼び、土地を指す際にはハルタムティ(Haltamti、後に訛ってアタムティAtamti)と呼んでいました。シュメール語のエラムはこれの転訛したものだそうな。
関係ないかもしれないけど、ペルシア語でエラムは「楽園」という意味です。聖書のエラムからきている言葉だったら面白いな。
エラム人の話していたエラム語は系統不明の言語で、謎の多い民族です。原エラム文字と呼ばれる絵文字が現在のアフガニスタン近くでも見つかっていて、エラム文化はイラン高原各地に影響を与えていたと考えられています。
主に紀元前3200年頃からエラム語の記録が存在し既にスーサ(現イラン西南部)に都市を築いていたエラム人は、紀元前2700年頃に最初の王朝・アワン王朝を作ります。
この時代エラム地方はアッカド帝国やウル第3王朝の支配下にあったのですが、やられっぱなしではなくてちょこちょこやり返していました。
アワン朝の王はシュメールを3代に渡って支配したと伝えられておりますが、これらの説話にどの程度史実が含まれているのかは分かりません。
アワン朝の後にはハマズィ朝(紀元前2500~紀元前2400年)が再びシュメールを支配したといいます。
シュメールの都市国家の中にはその初期にエラムの支配を受けたという伝説を持ったものが結構あるそうです。
その次のシュマシュキ朝(紀元前2030~紀元前1850年)のときに、エラム人たちは逆にウルに侵攻して、遂にウル第3王朝を滅亡させます。紀元前2004年(または紀元前1940年)のことです。エラム人たちは、ウルの王さまを遥か東方へ連行してしまったと伝えられています。
けれども、それより前に王都から離脱していた王の後継者イシュビ・エッラ( アムル系の王。アッカド人とする説もある)のイシン第1王朝(南部メソポタミアのアムル人国家)にウルを奪回されてしまいました。栄華は長くは続かなかったですねー…。
その後シュマシュキ朝はメソポタミア各地に成立したアムル系王朝と対立し、戦闘を繰り返します。
(アムル人は、聖書ではカナンの子孫エモリ人です)
紀元前19世紀頃になると、エパルティ朝がエラムの支配権を握ります。この王朝はエラムの主要部分を含んでいたと考えられていますが、相変わらず主導権は取ったり取られたりの不安定な状態だったみたいです。
3代目の王以降、エパルティの王さまはスッカル・マフ(シュメール語で大総督の意)という称号を用いていて、メソポタミアの王朝と何らかの宗属関係があったとみられています。
また、古代バビロニアの都市ラルサではスサ(エラム王国の王都)北部の別のエラム人国家の王であるクドゥル・マブクが、ラルサ王ツィリ・アダドを追放して支配権を奪い取ったりしてました。彼は「アムルの父」と名乗ったそうです。エラム人なのに。
クドゥル・マブクとその後継者はバビロン第1王朝のハンムラビ王の時代まで、たびたびバビロンとドンパチやってたみたいです。
そうこうしてるうちに、インド・ヨーロッパ系集団やカッシート人、フルリ人の移動などによりエラムは混乱に陥ります。この時代のエラム各地にはフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出たようです。(フルリ人は聖書ではこれまたカナンの子孫ヒビ人)
エパルティ王朝は混乱の中、紀元前1600年に滅亡します。
アワン王朝成立からエパルティ王朝滅亡まで(紀元前2700~紀元前1600年)を『古エラム時代(古王国時代)』といいます。
エパルティ王朝の次に生まれた強力なエラムの国はイゲ・ハルキ王朝です。
キディヌ朝を経て紀元前1600年頃に成立したイゲ・ハルキ朝は、古エラム時代に侵入したフルリ人と何らかの関係があると考えられております。
やっぱりバビロニアとドンパチやったり交渉したり、濃ゆいお付き合いをしていたみたいです。
紀元前1320年には一時カッシート朝(バビロン第3王朝)に服属したのですが、紀元前1230年頃にはやり返して同王朝を破り、更にアッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世(ニムロデのモデル説のうちの一つだった王さま)の圧迫によって弱体化したカッシート朝へ、二度にわたって侵攻し滅亡させます。漁夫の利ですね。
しかし間もなく、今度はトゥクルティ・ニヌルタ1世率いるアッシリアと戦って破れ、イゲ・ハルキ朝はバビロニアから駆逐されてしまいます。
次に紀元前13世紀末から紀元前12世紀にかけてシュトルク朝が成立して、バビロニアに再び進出を図ります。2代目の王さまシュトルク・ナフンテ1世は、バビロンを陥落させてバビロニアを支配下におくことに成功し、マルドゥク神像やらハンムラビ法典の石碑やらのお宝を強奪してスサへ持ち帰りました。
(ハンムラビ法典は後に現代の考古学者によってスサで発見される。つまりここでエラムに強奪されなければ、貴重な資料が失われてた可能性も!)
アッシリアの政治混乱もあいまって、エラムはこの時期オリエントで最も強大な国家となります。
けれども間もなくバビロニアに新たに勃興したイシン第2王朝(バビロン第4王朝)の英王ネブカドネザル1世によってエラム軍は打ち破られ、スサを占領されるとともにマルドゥク神像を奪還されてしまいました。
それ以降、エラム人は300年にわたる弱体化と混乱の時代を迎えることになります。紀元前1600年頃のイゲ・ハルキ朝の成立~紀元前1100年頃のイシン第2王朝のネブカドネザル1世によるエラム侵攻までの時代を、中エラム時代といいます。そしてこれ以降の時代を新エラム時代と呼びます。
そこからしばらく時間が経ちまして、紀元前8世紀。また新たにフンバンタラ朝という王朝ができました。
今度の王朝は、戦って政略するだけではありません。当時急激に拡大していたアッシリアに対抗するために、エラムはバビロニアを熱心に支援します。今までバビロニアには散々辛酸を舐めさせられてきましたけれども、敵の敵は味方ってことですね。
バビロニアは紀元前729年にアッシリアのティグラト・ピレセル3世に征服されていたのですが、エラムの支援の元でメロダク・バルアダン2世がアッシリアに反乱を起こし、自立しました。アッシリア王サルゴン2世はメロダク・バルアダン2世を攻撃して再びバビロニアを征服しましたが、この時敗走したメロダク・バルアダン2世が助けを求めたのもこれまたエラムでした。エラム人は彼を匿って、紀元前703年頃に再び彼をバビロニア王に返り咲かせました。
しかし今度はサルゴン2世の息子センナケリブ王の遠征によって、バビロニアは再びアッシリアに併合さ れてしまいました。
その後もエラムはたびたびバビロニアを支援して、アッシリアと敵対します。アッシリアはそのたびにバビロニアを取り返してたんですけども、いい加減うざかったんでしょうね。アッシュールバニパルという王さまのときに、アッシリアはエラムに対して本格的な攻撃に乗り出しました。
紀元前647年、アッシリアVSエラムの『スサの戦い』で多大な被害を受けたエラムは、その後紀元前640年にスサを占領され、大国としての歴史に幕を閉じます。
まあアッシリアも国内ごたごたでエラムにばっかりかまけてる暇がなかったものですから、しばらくするとエラム王国は復活しちゃうんですけど。もう最盛期ほどの勢いがないエラムの王国は、スサを中心とするスシアナ地方だけに縮小されました。
少し時代が下ってアッシリア帝国が没落したあとの 紀元前539年、スサはアケメネス朝ペルシアの支配下に置かれ、これ以降エラム王国は歴史から姿を消します。ただ、イラン高原において最も高い文化を誇った集団の一つであったエラムの文化、兄弟が王位を継ぐ相続制度、独特の政治制度などはその後アケメネス朝時代でも受け継がれ、メディアやペルシアに大きな影響を及ぼしていくことになります。
さて次ですが、次男のアシュルは上記のエラムの項でも大活躍で、これまで何度も話に出てきたアッシリアのことです。ようやく登場といったところですね。
ハムの子孫の説明のとき、クシュの子ニムロデがアシュルに進出したとありまして、その際に軽くアッシリアの説明はいたしましたけれども、
聖書を楽しむ【7】ニムロデ登場の回
↓↓↓
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%907%E3%80%91
このときは初期の歴史だけピックアップしていましたので、今回それ以降も少し触れてみたいと思います。
そもそもアシュルの地とは、バビロニアの北西に位置するチグリス川沿いの高原地帯のことです。
ここはバビロニアのようなメソポタミア低地域と違って雨がたくさん降るため、畑を作るのにわざわざ川の水を汲み上げなくてもよい土地です。
つまりバビロニアが常に悩まされてきた農地の塩類集積とは無縁で、塩分に弱い小麦を豊富に生産できました。更に肥沃な三日月地帯の中央部でもあるため、メソポタミアとアナトリア半島、シリア、イラン高原といったオリエント各地を結ぶ交易の中継地でもあったのです。
アッシリアの歴史は、主に言語の変化、即ちアッカド語北方方言であるアッシリア語の時代変化に基づいて4つに時期区分される…とウィキペディアに書いてありました。 つまり、アッシリア自体はアッカドの流れを汲んでるということですね。アッカド語は現在知られているセム語派(西アジア、北アフリカ地域)
の最も古い言語とされております。
ただし、歴史学の上で言ういわゆる「アッシリア帝国」がセム系だったかというとそうでもないようです。アッシリア帝国の支配階級となった人々は、ハムの子カナンの子孫であるエモリ人…つまりアムル人でしたので、そこら辺は複雑です。たぶん、アシュル族としてのアッシリア人は生き残れなかったと思われます。生き残りも、混血が進んで他の民族と同化してしまったのでしょう。
とりあえず、アシュルの地に興った王国と、そこから広がったアッシリア帝国の流れをざっと見てみます。
①初期アッシリア時代…基本的に文字史料の無い時代。ニムロド紹介のときにちょこっと調べたあたり。アッカド帝国(紀元前2334年頃~)の時代には都市国家の形になっていたらしいです。
②古アッシリア時代…アッシリア語が古アッシリア語と呼ばれる形であった時代。(紀元前1950年頃~紀元前15世紀頃)
紀元前1813年にアッシリアを征服して王となったアムル人(聖書でいうとエモリ人)のシャムシ・アダド1世が、アッシリアをオリエント最大の王国にします。ただし後継者が巨大な王国を維持できず崩壊、 小規模勢力に戻ってしまいました。
ちなみにアムル人の王国バビロンがアッシリアを征服したのが紀元前1757年頃。シュメールとアッカドも制圧してメソポタミア地方を統一、 南半分のシュメールと北半分のアッカドをあわせた領域をバビロニアと呼ぶようになり、アッカド語がバビロニアの言語となります。
③中アッシリア時代…アッシリア語が中アッシリア語と呼ばれる形に変化した時代。(紀元前14世紀初頭~紀元前10世紀の末頃)
初期はミタンニ(フルリ人)王国の支配下にありましたが、アッシュール・ウバリト1世の時代に独立。
当時オリエント世界に君臨していたヒッタイト、ミタンニ、バビロニア、エジプト等の列強諸国に食い込み、大国として台頭します。
トゥクルティ・ニヌルタ1世(ニムロド候補のひとり)の時代にはバビロニアを征服。が、彼の死後に《前1200年のカタストロフ》が起こり、政治混乱によって勢力が減衰しました。
この時代から始まったバビロニアへの政治介入と征服によって、バビロニア文化が取り入れられるようになります。またアッシュール神(アッシリアの首都を神格化した神)をシュメールのエンリル神と習合させたり、共通の宗教儀礼を決めたりするなど宗教面の整備が進みました。
④新アッシリア時代…アッシリア語が新アッシリア語と呼ばれた形であった紀元前10世紀の末頃から滅亡までの時代。
この時代に、アッシリアは全オリエント世界を支配する初の帝国になります。その礎を築いたのは、ティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744年~紀元前727年)という王さまです。アッカド語ではトゥクルティ・アピル・エシャラという名前で、「我が頼りとするはエシャラの息子」と言う意味です。弱体化していたアッシリアの王権を強化し、アッシリアの最盛期と言われる時代の端緒を開きました。彼はバビロニアやヘブライ人の記録では「プル」という蔑称で呼ばれていて、被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から相当嫌われていたようです。ちなみにプルは「区分」という意味です。…いまいちどんな嫌味なのか、わからないですが。
アッシリアは帝国を維持するために色々な策を講じましたが、最も有名なものの一つが大量捕囚政策です。つまり被征服民の強制移住ですね。それ自体は他の国もやってましたが、アッシリアはとにかく規模がデカかったのです。アッシリア王たちは盛んに遠征を行って次々領地を拡大していったのですが、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的として捕囚政策はたびたび行われたようです。
さて、この時代のアッシリアの悩みの種はバビロニアでした。上記のエラムのところでも説明しましたけれども、征服したバビロニアがことあるごとにエラムを味方につけて反乱を起こしてきたんですね。
アッシリアはアッシュールバニパル王の時《スサの戦い》でエラムを滅亡させたのですが、彼の治世の後半からアッシリアは急激に衰退していき、彼の死後20年あまりでアッシリアは滅亡してしまいます。
衰退の原因が何であるのかは分かっていませんが、王家の身内の中でのいざこざとか、広すぎる領地や多様な征服民族を支配しきれなくなったとか、色々な問題が噴出したものとも考えられています。
更に北方からスキタイ等の外敵に圧迫されたのも原因の一端と言われています。スキタイ人、だいぶ前に出てきましたね。ヤペテの長子ゴメルの息子アシュケナズ、あるいはヤペテの次男マゴグを指します。
紀元前625年に新バビロニアが独立すると衰退の勢いはさらに増し、紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落しました。(ニネヴェの戦い)
そのあと亡命政権がハランに誕生してアッシュール・ウバリト2世が即位し、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦しましたが、紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡しました。
さて、次は順番どおりにいくと三男のアルパクシャデなんですけども、彼の系譜からお話が先に進みますので先に四男のルデから紹介します。
ルデは、ハムの子孫ミツライム(エジプト人)の子孫のルデ人とは別人です。
こちらのルデはリュディア人を指します。
リュディア地方はアナトリア(現トルコ)の、北はミュシア、南はカリア、東はフリギアに接する範囲です。そこを中心としたリュディア王国は紀元前7世紀~紀元前547年に栄え、世界で初めて硬貨(コイン)を導入した国として知られています。
《前1200年のカタストロフ》によってヒッタイトが滅亡し、南東アナトリアにシリア・ヒッタイト(紀元前1180年~紀元前700年頃)と呼ばれる国家群を形成したのですけれども、これらの国家群の中からリュディアなどが台頭してきました。
リュディアは東側の大国フリギアと西側のギリシャの間に挟まれていたので交易するのに優位でした。あと領内で金が採れたのでお金持ちになれたんですね。
あ、フリギアとギリシャも以前紹介しましたね。フリギアはヤペテの長子ゴメルの三男トガルマ、ギリシャはヤペテの四男ヤワンです。
インド・ヨーロッパ語族であるフリギア人とギリシャ人がお隣さんなので、リュディアもギリシャの文化に近かったんじゃないかと思われます。
ヘロドトスの記録によれば、ここに住んでた人々は元は「マイオニア人」と呼ばれていたそうです。
マイオニア人の最初の王さまであるマーネスに由来してるのでしょうか?ちなみにマーネス王はゼウスとガイアの息子であると信じられていたようです。(死者の魂を神格化した「マネス」という神さまがギリシャ神話にいますが、たぶん関係ない)
ギリシャ人の自称である「イオニア」と、なにか関係あるのでしょうか。興味深いところです。
「マイオニア人」が「リュディア人」と呼ばれるようになったのには逸話がありまして、それに関して少し気になる点があります。話せば長いんですけれども、まあ今さらなので記載しておきます(爆)
ヘロドトスによりますとリュディア人という名前は「アティス朝」を開いたリュドスという王さまに由来しているそうなのですが、このリュドスの父親で王朝の名前にもなっているアティスはギリシャ神話のアッティス(フリギアを起源とする死と再生の神。一部の像などでは有翼の男性として表される。)だという話です。 …英語のウィキペディアをエキサイト翻訳で無理矢理読んだので、ちょっと違うところもあるかもしれません。
アッティスの名前の意味はリュディア語で「美少年」のことをいう言葉であるとも、フリギア語で「山羊」を意味するアッタグスに由来するとも言われます。
神さまの子孫が国の王になるという話自体は、神話ではよくある話ですね。問題はその中身です。
アッティスはフリギア出身という身の上のせいか、ギリシャの中ではちと異彩を放つ神さまです。
アッティスの母親コテュトーはローマ神話に出てくるトラキア(バルカン半島南東部、現ブルガリアの一部)の大地・豊饒・多産・病気治療の女神で、治癒・預言・戦いを司り、アナトリア半島のフリギアで崇拝されていた大地母神・キュベレに関連づけられています。トラキアが紀元前6世紀頃からギリシャの植民地支配を受けてて、そのあとアケネメス朝ペルシアに支配されたからですかね。
キュベレ自体はとても古い神で、様々な地域で色々な女神と同一視されました。( ギリシャ神話のレア、メソポタミア神話のイシュタル、ギリシャ神話のアグディスティス、ローマ神話のゲネトリクスなど)
ローマでは「マグナ・マーテル(大いなる母)」と呼ばれていたそうです。
とりあえず、そんなコテュトーの息子がアッティスという、フリギアの神さまでした。
アッティスをキュベレの息子ではなく恋人とする説もあり、両方だとも言われています。
アッティスは、元は両性有具だったアグディスティス(キュベレ)から切除された男性器から生まれました。正確に言うと、切除された性器からアーモンド、またはザクロの木が生え、その実をサンガリオ河神の娘ナーナが取り込んで身籠り生まれたのですけども、いずれにしても丸々神の力を引き継げたわけではないので『半神』の扱いです。
牡の山羊に世話され生き延びた赤子は、人間の里親に育てられ美しい青年に成長します。
キュベレ(紛らわしいので、以下キュベレに統一します)は、成長したアッティスを一目見て恋に落ちてしまいました。実の息子だとか、そんなの神さまの世界ではお構い無しです。
けれどもこのときアッティスは人間として育てられていたので、ちゃんと人間の里親がおりました。
里親はペシヌス(フリギアの大商業都市)の王女さまと彼を結婚させようとします。一説ではこのときのペシヌス王は、ギリシャ神話の逸話で有名なミダス王だとも言われております。
そこで怒ったのがキュベレです。
息子であり想い人であるアッティスを渡したくない大地母神は、結婚式の真っ最中だったアッティスに強力なエクスタシーを与えました。性的絶頂と宗教的体験における脱魂、両方だと思われます。いきなり人間の精神では処理出来ないほどのエクスタシーに襲われたアッティスは正気を失い、自分の男性器を切り取って絶命します。後悔したキュベレはアッティスを復活させ、更に不老不死にしたということです。
神として復活したアッティスはキュベレの付き人兼恋人になりました。
……というのがリュドス王の父親という設定になっている神さまのお話なのですけれども。
これまた「処女懐妊」やら「半神」やら「復活」やら、新訳のモチーフがたくさん出てきますね。
彼女の熱狂的信者はコリュパンテスという、自ら完全に去勢した男性でした。コリュパンテスは女性の服を着て、社会的にも女性とみなされたそうな。
キュベレ信仰は、その祭りの熱狂性から、デュオニュソス崇拝と密接に関連づけられました。
以前調べましたが、《神の息子》の意味の名を持ち毎年冬に死んで春に生まれかわる葡萄の神は、分かりやすくイエスの神性のモデルでした。植物神という意味では、ニムロデの息子タンムズも同じでしょう。タンムズ、すなわちシュメールの牧神ドゥムジは、フェニキアに渡り植物神アドニスになります。地母神アフロディテの愛人で、名は「主」を意味し、木々と共に毎年死んでまた春に復活します。
………つまり何が言いたいかって、このリュディアという国が根本に持っていた宗教はそういう宗教なんですよ。他の国にも言えますけどもキリスト教が受け入れられやすかったのはこういう宗教を昔から持ってた所で、きっと多くの国の人間にとって「どこか懐かしい」感があったからだと思うんですよ。
日本に神道や仏教が浸透しやすかったのも、日本に元々いた神さまに近いものがあったからなんじゃないかなあ。
さて、だいぶ話が横道に逸れてしまいました。
とにかくそういう血筋だと信じられていたリュドスという王さまが、リュディアの根底を築いたんですね。
けれどもアティス朝については全然資料が残ってなくて、詳細はさっぱり不明です。
その後、これまた伝説的ですけれども、ヘラクレスと奴隷女を祖とするというヘラクレス家という一族が『ヘラクレス朝』を開いて505年間にわたりリュディアを統治したそうです。
そのまたあとに、ヘラクレス朝最後の王さまカンダウレス(在位:紀元前733~716年、または紀元前728~711年、または紀元前680年頃没)を殺害して王になったギュゲス(在位:紀元前680年~640年、または紀元前716~678年)が開いた『メルムナデス朝』が始まります。
リュディアが栄えだして記録に残るようになった紀元前7世紀からをリュディア王国の始まりとするなら、このメルムナデス朝がスタート地点と言えましょう。
ギュゲス王は、アケメネス朝の王キュロス2世が書いた『キュロスの円筒印章』に登場しております。
それによりますと、紀元前666年頃アッシリア王アッシュールバニパルの元にリュディア王ギュゲスから使者があり、彼の王国にキンメリア人が侵入してくるので助けてくれ、と言ってきそうです。
キンメリア人は聖書だとヤペテの長男ゴメルのことでしたね。
キンメリア人のリュディア侵入にも理由があって、紀元前7世紀の後半にリュディアのお隣さんだったフリギアがキンメリア人の支配に屈してしまったんです。
フリギアを手に入れたキンメリア人たちの、次の標的がお隣のリュディアだったわけですね。
助けを乞われたアッシリアはリュディアを支援し、それによってギュゲスはキンメリア人に勝つことができたので、捕らえたキンメリア人の族長2名を貢物と共にアッシリアに送りました。
しかし勝利によって自信を持ったギュゲスはアッシリアへの貢納を打ち切ってしまい、更にアッシリアと敵対していたエジプトと同盟を結びます。なんとも恩知らずな話です。
当然アッシリアは怒りますね。アッシュールバニパル王は今度はキンメリア人と同盟を結んで支援し、リュディアを征服させました。ギュゲス王は戦いで戦死してしまい、彼の息子アルデュスが王になると、アルデュスはアッシリアに謝罪して服従を誓ったといいます。
アルデュスの後、その息子サデュアッテスが王位を継いだのですが、彼はその治世の間にキンメリア人を駆逐しスミルナ(現・イズミル。エーゲ海に面するトルコの都市)を占領するなどして勢力を拡張しました。
そのまた後、アルデュスの息子アリュアッテスが王位を継ぎます。世界初のリュディア貨幣ができたのはこの時代です。一番古いエレクトロン(琥珀)貨と呼ばれる貨幣は、川から採集される砂金の粒に刻印を打ったものだったそうです。記録だけで実物はないですけれども。現存する最古のリュディア貨幣は、金銀の合金で作られたギリシャ様式のものだそうな。
この頃にはアッシリアは新バビロニアとメディア王国に滅ぼされていました。(メディアはヤペテの三男マダイです。)
アッシリア帝国を滅ぼしたメディア王国は、リュディアにも侵入してきました。しかしその戦争中に突然日食が発生し、両軍がびっくりして怯えてしまったので、ハリュス川(現在のクズルウルマク川)を国境とする合意を結んで休戦したと伝えられています。(ハリュス川の戦い /紀元前585年5月28日)
長らくアッシリアの支配下にあったリュディアはアッシリアが滅亡したことで更に勢力を増し、アナトリア半島の西半分を領有する大国となりました。この頃のリュディアは、イオニア同盟の諸都市と密接な関係を持っていたようです。
イオニア同盟、またはパンイオニア同盟は、紀元前800年頃アナトリア半島のイオニア地方(現トルコ)の諸都市を中心に結成された同盟です。基本的に宗教的・文化的同盟で、その象徴だったのがパンイオニアという、ポセイドンを祀っているミュカレ山にある《パンイオニウム》と呼ばれる聖域で開催されていたお祭りでした。ちなみにこの祭はアジアのイオニア人が行っていただけで、他のイオニア人たちは毎夏デロス島のアポロン神殿に詣でていたようです。
イオニア同盟はがっちり同盟を組んでいたわけでなくて、「同じ宗教の仲間だよ!」くらいのニュアンスでした。リュディアはイオニア同盟には入ってませんでしたが、イオニア同盟の国とリュディアは縁が深かったわけです。
さて、アリュアッテスの次に王位を継いだのは息子のクロイソスでした。彼は様々な理由をつけてエーゲ海東岸のギリシア人都市を攻撃し、ほぼ全域を征服します。これによってリュキア(現トルコ南沿岸のアンタルヤ県とムーラ県の地域)を除くアナトリア半島西部の殆どの地域がリュディアの支配下に入りました。
クロイソスはイオニア人をはじめ各地のギリシア都市国家と密接に関わったらしく、エーゲ海島嶼部のギリシア人都市との艦隊建造に関わる交渉やアテナイ人ソロンとの対話、フリギア王家の末裔アドラストスとの交流、デルフォイへの奉納など多岐にわたる説話がヘロドトスによって伝えられております。父の代から続く、上記のイオニア同盟とも関わりがあったかもしれませんね。
さて、クロイソスの時代にリュディアはアッシリア亡きあとのオリエントを構成する四大王国のひとつとなったのですが(残りはカルデア(新バビロニア)、メディア 、エジプト)、この均衡があるとき崩れます。
アケメネス朝ペルシアの王キュロス2世が、メディア王国を滅ぼしたのです。怒ったクロイソスは新バビロニアやエジプト、それにギリシャのスパルタと同盟を結び、アケメネス朝に侵攻しました。
しかし戦いの末、結局リュディアは負けてしまって、帝国としての滅びを迎えます。リュディアの首都サルディスはアケメネス朝の拠点となり、クロイソスはキュロス2世の参謀となったそうな。(ヘロドトス談)
余談ですけど、リュディアとの戦いの中でペルシア軍は馬のかわりにラクダを使ったらしいです。リュディア軍の馬はラクダの強烈な体臭に怯んで逃走してしまい、そのおかげでリュディアは追い詰められたということです。
……ちなみに対エジプトのときは、盾に生きたネコをくくりつけたそうですよ!(怒)ネコを一番早く家畜化したエジプト人はネコを非常に可愛がっていて、一部の地域では猫神バステトは最高神として崇められていました。なのでネコを人質にされたエジプト人は攻撃を躊躇ってしまったそうな。ネコ好きの敵ですな!許すまじ。とりあえず、ペルシアは戦に動物をよく取り入れてたんですな。
さて、先に進みます。
五男のアラムは、そのままアラム人を指します。地名としては古代シリアの別名になります。
アラム人はアラビア半島からやってきたセム系の遊牧民で、紀元前11世紀頃までにティル・バルシップ、サマル(現在のジンジルリ)、アルパド、ビト・アディニなどを拠点とするユーフラテス川上流に定住しました。
その後シリアに進出して新たな都市国家を形成したのですが、当初はハマー、その後はダマスカスがアラム人勢力の中心となりました。
ハマーという地名は実は前回紹介済みです。カナンの一番末の息子ハマテは、ここの住人を指していたのではないかという話でした。つまりアラム人というわけですね。ということはハマテはアラム人の中でもハマーの住人で、アラムはダマスカスを拠点にした人々のことですかね?
アッシリアの碑文ではハマーとダマスカスが分けて記載されていたので、恐らく民族的には同じでも、別の国として認識されていたようです。
さて、遊牧しながらユーフラテス川上流に移住してきた古代アラム語をしゃべっていた人々は、ラクダに乗ってシリア砂漠を旅してまわる隊商貿易を生業としていました。
その後交通網を拡大して古代オリエント世界に商業語としての古代アラム語を定着させ、更にシリア沿岸部のフェニキア人が用いていたフェニキア文字からアラム文字を作ります。彼らの言語はその後の西アジア・南アジア・中央アジアの様々な文字に影響を与えました。
キャラバンで生活の糧を得ていたアラム人たちは、やがてシリアに町をいくつも築きます。その中心になったのが、紀元前1100年頃はハマーでした。
ハマーの町については前回ハマテを紹介した際に触れましたが、農業の盛んな川沿いの豊かな町でした。
一方ダマスカスはハマーよりもさらに古く、紀元前8000年から人が定住していました。そのため世界で最も古い都市であると言われたりしています。
地中海から約80km内陸にあるアンチレバノン山脈の麓、海抜680mの高原の上に、ダマスカスの街があります。
現在は急速な住宅や産業の拡大により面積が減り汚染されてきてしまっていますが、豊かなオアシスに囲まれた土地でした。古代都市はバラダ川のすぐ南岸にあって、その近郊には『エデンの園』のモデルなんじゃないか?と言われている大きなオアシスがあります。
しかし元々ダマスカスに住んでいた人たちは特に記録に残ることもなく、静かに暮らしていたようです。
ダマスカスが重要視されだすのは、やっぱりアラム人が移住してきてからです。
勢力の中心をハマーからダマスカスに移したアラム人たちは、紀元前10世紀にはこの地をアラム王国の首都にしました。アラム・ダマスカスと呼ばれる強力なアラム人国家の中心となったこの土地は、たびたびアッシリア人とイスラエル人との戦争に巻き込まれます。
一番有名なのが『カルカルの戦い』というやつです。
紀元前853年にシャルマネセル3世率いるアッシリア軍とシリア諸国の同盟軍との間で行われました。
急激な領土拡大を続けるアッシリアがシリアのすぐそばまで領土を広げてきたのに対し、それまでごたごたと争っていたシリア地方の緒王国は同盟を結んで抵抗したのです。
アッシリア側の史料には「ハッティ(シリア)と海岸の12人の王」としてその同盟参加者が記録されております。
以前の紹介で ハッティはカナンの次男ヘテ…つまりヒッタイトを指していましたが、この場合のハッティはヒッタイト人でなく、王国が滅びたあと南東アナトリアに移動して都市国家群(シリア・ヒッタイト)を形成した人々のことを言います。この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられています。
同盟の参加者は以下の通りです。
↓↓↓↓
ダマスカス王ハダドエゼルが率いる戦車1,200両、騎兵1,200騎、歩兵20,000人。
ハマテ王イルフレニが率いる戦車700両、騎兵700騎、歩兵10,000人。
イスラエル王アハブが送った戦車2,000両、歩兵10,000人。
キズワトナ軍、歩兵500人。
ムスリ軍、歩兵1,000人。
アルキ軍、戦車10両、歩兵10,000人。
アルヴァド王マタンバールが送った歩兵200人。
ウスヌ軍、歩兵200人。
シアヌ王アドニバールが送った戦車30両、歩兵数千人。
アラビア王ギンディブが送った駱駝騎兵1,000騎。
ベトルホブ王バアシャーが送った戦車30両、歩兵数百人。
ダマスカスはアラム人王国。ハマテもアラム人だけどハマテ王国として別扱いされてますね。
イスラエル王国はまだ出てきていませんので詳しくは飛ばしますが、紀元前1020年には統一国家ができていました。そして紀元前928年に南北に分裂します。アハブという名前は、北イスラエル王国の7代目の王さまとして記録に残っています。
キズワトナは現キリキアの古代名で、紀元前18世紀頃、アッシリアに居住地を追われたフルリ人たちが西へ移動して作った国です。
ムスリは、現在のムスリムとは無関係です。アッカド語のムスリ(Musri)は通常エジプトと翻訳されますが、この戦いでのムスリは北シリア地方の王国であると考える人もいます。
アルキ人はエイン・アリクかレバノン北部アルカに住んだフェニキア人。アルヴァドはたぶんアルワード島のことだと思うので、聖書でいうとアルワデ人、民族的にはフェニキア人。
ウスヌはウガリット南方の都市です。ウガリットの
属国でしたが、ヒッタイトのムルシリ2世によって重要都市カルケミシュの支配下に編入されました。
シアヌについては不明。
アラビアは、たぶんサバア王国のことかな?
ベトルホブも詳細は不明ですが、バアシャーという名前の王は北イスラエル王国の3代目国王にいます。なにか関係あるのでしょうか?うむむ。
とりあえず上記の11カ国が、同盟を結んでアッシリアとドンパチやったわけです。12人の王、と銘打ってますが、実際の参加国は11個なんですね。
アレッポ(ヤムハド王国)を経由してカルカル市を略奪したアッシリアは、オロンテス川のそばで同盟軍と対決します。(オロンテス川については、前回のハマテの欄参照)
この戦いの結果ですが、アッシリア側の記録ではアッシリアの勝利とされているんですけども、実際のところその後アッシリアがシリアを征服できていないのでどうやら同盟軍側が勝ったようです。
強敵アッシリアを力を合わせて撃退し、これでシリアのみんなは幸せに暮らしました。めでたしめでたし…………とはならないのが人間です。
アッシリアの脅威が去ったシリア諸国は、また前のギスギスした関係に戻ってしまいました。同盟は白紙になり、紀元前853年以降にはダマスカスとイスラエルの間で争いが生じます。この戦いについては『列王記』にも記載があります。
紀元前732年、アッシリアのティグラト・ピレセル3世(アシュルの欄の④新アッシリア時代を参照)の占領・破壊を受けたダマスカスはアッシリアの支配下に入り、以後数百年の間、独立国家としての立場を失うことになります。紀元前572年ネブカドネザル2世による新バビロニア王国の支配下に入り、紀元前539年にはキュロス率いるペルシアに支配され、更にそのあとマケドニア王国アレクサンドリア大王の支配を受けました。
どうやら、ハマーも大体同じような道を辿っていったようです。どちらも、マケドニア王国の次にはローマ帝国の支配下に入ります。
さて、ここまででまた長くなってしまいましたので、とりあえずここで一度区切らせて頂きます。
本日の楽曲は、リュディア王国最後の王・クロイソスが主人公のオペラ『クロイソス』、原題『うぬぼれ男、転落し再び高貴になったクロイソス(Der hochmütige, gestürzte und wieder erhabene Croesus)』(1711年、ハンブルク、ゲンゼマルクト劇場初演) です。
作曲者はラインハルト・カイザー(Reinhard Keiser, 1674年1月9日~1739年9月12日)。
ドイツ盛期バロック音楽の作曲家で、ハンブルクを拠点に活躍しました。かつてはハンブルクゆかりのヘンデルやテレマンと並ぶ巨匠に数えられたそうですが、大方その作品は長年にわたって忘れられています。
私もこれ調べるまで知らなかったです。(爆)
《登場人物》
クロイソス…リュディア王(バリトン)
アティス…クロイソスの息子(ソプラノ)
ハリマクス…アティスの腹心(カウンターテナーorメゾソプラノ)
オルサネス…リュディアの領主(バリトン)
エリアテス…リュディアの領主(テノール)
クレリーダ…リュディアの姫(ソプラノ)
エルミーラ…メディア王国の姫(ソプラノ)
キュロス大王…ペルシャ王(バス)
ソロン…哲学者(バリトン)
エルキウス…アティスの召使い(テノール)
トリゲスタ…エルミーラの召使い(ソプラノ)
ペルシャ人船長…(バリトン)
初演は1711年ですが、その19年後の1730年に改訂版が書かれました。カイザーは37個のアリアを書き換えオーケストレーションを豊かにした他、3ヵ所声域を変更したそうです。というのも、アティスは元々はバリトンの役だったのですがソプラノ役に変わったため、ハリマクスもメゾソプラノやカウンターテナーになったのです。
新しいアリアを挿入するときにいくつかの部分をカットしてしまったようで、元の版のスコアは完全には残っていません。
お話のあらすじはヘロドトスの『歴史』を元にしつつ、原作ではちょろっと出てきてすぐに戦死してしまう息子のアティスに《生まれつき話すことが出来ない》というキャラクターや、メディア王国の王女エルミーラとの恋などのドラマを与えています。
原作ですとクロイソスにはアティスとは別に、話すことが出来ない息子がもうひとり居るんですが、ふたりの兄弟のキャラクターを混ぜ合わせたんですね。
まあオペラですと実はアティスは喋れるようになってて、それがまたドラマの鍵になるんですが。
更にアティスはクロイソスの部下オルサネスの謀反を暴くために農夫に変装したり、父が火あぶりにされそうになったら共に死のうと火に飛び込んだり、もうこれクロイソスじゃなくてアティスが主人公なんじゃね?
最後はキュロス大王に捕まったクロイソスも許されて、エルミーラとアティスは結ばれて、謀反をたくらんでいたオルサネスも許されて、めでたしめでたしです。
YouTubeには全曲はありませんでしたが、いくつかの録音がUPされていました。
○シンフォニア
https://youtu.be/_65iWD47i5s
○一幕・キュロス(2世)のアリア
https://youtu.be/OPQqvGURzsI
○エルミーラのアリア
https://youtu.be/Hbrrc3tu29g
個人的な妄想なのですが、事実上の主役であるアティスがバリトンからソプラノになったのは《カストラート》が関係してるのではないかなぁ、と思います。
カストラートとは、かつてヨーロッパで大流行した《去勢歌手》のことです。男の子が子どものときにイチモツを取ってしまうと男性ホルモンの関係で声変わりが起こらず、尚且つ身長や肺活量は普通に育つので、女性では成し得ない音色と持続力の声を持つことができます。
元々は、教会で沈黙していなくてはならなかった女性のかわりに教会音楽の高声を担当していたのですが、オペラが大流行するとそちらでも大活躍するようになりました。
1650年ごろから1750年ごろにかけてヨーロッパ各地でそのピークを迎え、毎年4000人もの子どもが去勢されたそうです。
カストラートブームの中心はイタリアでしたが、ドイツにも流行りの波は来ていたようで、バロックオペラで一番有名と思われるヘンデルが最初のオペラ『アルミーラ』(HWV1)の初演を行ったのが1705年、場所は『クロイソス』と同じハンブルクのゲンゼマルクト劇場でした。
『クロイソス』はその6年後に初演されますが、もしかしたら当時はあんまりうけなかったのかなあと思います。改訂前だと主要の男性陣は全員バリトンですから、カストラート全盛期にバリトン祭のようなオペラをやってもお客さんの反応は微妙だったでしょうね………
熱狂的な人気を集めていたカストラートは曲の追加や登場のシュチュエーションを要求したりすることもあったそうで、人気歌手や興行主に要請されてやむなく改訂した可能性もあるかと思います。あるいは、作曲者自身が納得いかなくて書き直した可能性もあります。
余談ですが、ちなみにあのベートーヴェンも、子どものとき素晴らしいボーイソプラノだったそうで周辺の人々からカストラートにされることを望まれたようです。
結局お父さんが反対したのでルートヴィッヒは去勢しないで済みました。もし彼が作曲家にならず歌い手になってたら多くの名曲は生まれなかったので、ヨハン父さんに大感謝です。
※キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもプロの考古学者でもないただの一般日本人が、聖書を読んで楽しんでいるだけです。
気になったことは本を読んだりネットで情報を拾ったりしていますが、あくまで一般人が手に入れられる範囲です。
多大なる妄想を含んでいます。本気にしないでください。
前回↓↓↓
聖書を楽しむ【8】(1)
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%908%E3%80%91%EF%BC%881%EF%BC%89
聖書を楽しむ【8】(2)
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%908%E3%80%91%EF%BC%882%EF%BC%89
ヤペテ、ハムときて最後に長男セムの子孫の紹介です。
子孫の説明の前に、セムについて説明が少しあります。
「セムはエベルのすべての子孫の先祖で、ヤペテの兄です。」
エベルはセムの三男アルパクシャデの孫ですので、セムにとってはひ孫になりますね。
なんでわざわざエベルの名前を出したのか?きっと詳しく読んでみたらわかることでしょう。
ヤペテの兄、と改めて言っているのも気になります。ハムの兄ではない、つまりセムが長男ですよ、ということなのでしょうか?それとも「呪われてるハムなんて兄弟なんかじゃねーよ」ってことでしょうか?
ともかく一人ずつ子孫を調べていきます。
今回、ヤペテの子孫が結構たくさん登場します。
ですので、わからなくなったら以下もご参照ください。
↓↓↓
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/聖書を楽しむ【6】
セムの子供たちとして挙げられているのが
・エラム(エラム人のこと)
・アシュル(「支持」「城壁」の意?)
・アルパクシャデ
・ルデ(「闘争」の意)
・アラム(古代シリアの別名)
の5人です。
まずエラムは、メソポタミアの東、現代のフーゼスターンなどを含むイラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域を指します。エラム人自身は自らをハタミ、又はハルタミと呼び、土地を指す際にはハルタムティ(Haltamti、後に訛ってアタムティAtamti)と呼んでいました。シュメール語のエラムはこれの転訛したものだそうな。
関係ないかもしれないけど、ペルシア語でエラムは「楽園」という意味です。聖書のエラムからきている言葉だったら面白いな。
エラム人の話していたエラム語は系統不明の言語で、謎の多い民族です。原エラム文字と呼ばれる絵文字が現在のアフガニスタン近くでも見つかっていて、エラム文化はイラン高原各地に影響を与えていたと考えられています。
主に紀元前3200年頃からエラム語の記録が存在し既にスーサ(現イラン西南部)に都市を築いていたエラム人は、紀元前2700年頃に最初の王朝・アワン王朝を作ります。
この時代エラム地方はアッカド帝国やウル第3王朝の支配下にあったのですが、やられっぱなしではなくてちょこちょこやり返していました。
アワン朝の王はシュメールを3代に渡って支配したと伝えられておりますが、これらの説話にどの程度史実が含まれているのかは分かりません。
アワン朝の後にはハマズィ朝(紀元前2500~紀元前2400年)が再びシュメールを支配したといいます。
シュメールの都市国家の中にはその初期にエラムの支配を受けたという伝説を持ったものが結構あるそうです。
その次のシュマシュキ朝(紀元前2030~紀元前1850年)のときに、エラム人たちは逆にウルに侵攻して、遂にウル第3王朝を滅亡させます。紀元前2004年(または紀元前1940年)のことです。エラム人たちは、ウルの王さまを遥か東方へ連行してしまったと伝えられています。
けれども、それより前に王都から離脱していた王の後継者イシュビ・エッラ( アムル系の王。アッカド人とする説もある)のイシン第1王朝(南部メソポタミアのアムル人国家)にウルを奪回されてしまいました。栄華は長くは続かなかったですねー…。
その後シュマシュキ朝はメソポタミア各地に成立したアムル系王朝と対立し、戦闘を繰り返します。
(アムル人は、聖書ではカナンの子孫エモリ人です)
紀元前19世紀頃になると、エパルティ朝がエラムの支配権を握ります。この王朝はエラムの主要部分を含んでいたと考えられていますが、相変わらず主導権は取ったり取られたりの不安定な状態だったみたいです。
3代目の王以降、エパルティの王さまはスッカル・マフ(シュメール語で大総督の意)という称号を用いていて、メソポタミアの王朝と何らかの宗属関係があったとみられています。
また、古代バビロニアの都市ラルサではスサ(エラム王国の王都)北部の別のエラム人国家の王であるクドゥル・マブクが、ラルサ王ツィリ・アダドを追放して支配権を奪い取ったりしてました。彼は「アムルの父」と名乗ったそうです。エラム人なのに。
クドゥル・マブクとその後継者はバビロン第1王朝のハンムラビ王の時代まで、たびたびバビロンとドンパチやってたみたいです。
そうこうしてるうちに、インド・ヨーロッパ系集団やカッシート人、フルリ人の移動などによりエラムは混乱に陥ります。この時代のエラム各地にはフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出たようです。(フルリ人は聖書ではこれまたカナンの子孫ヒビ人)
エパルティ王朝は混乱の中、紀元前1600年に滅亡します。
アワン王朝成立からエパルティ王朝滅亡まで(紀元前2700~紀元前1600年)を『古エラム時代(古王国時代)』といいます。
エパルティ王朝の次に生まれた強力なエラムの国はイゲ・ハルキ王朝です。
キディヌ朝を経て紀元前1600年頃に成立したイゲ・ハルキ朝は、古エラム時代に侵入したフルリ人と何らかの関係があると考えられております。
やっぱりバビロニアとドンパチやったり交渉したり、濃ゆいお付き合いをしていたみたいです。
紀元前1320年には一時カッシート朝(バビロン第3王朝)に服属したのですが、紀元前1230年頃にはやり返して同王朝を破り、更にアッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世(ニムロデのモデル説のうちの一つだった王さま)の圧迫によって弱体化したカッシート朝へ、二度にわたって侵攻し滅亡させます。漁夫の利ですね。
しかし間もなく、今度はトゥクルティ・ニヌルタ1世率いるアッシリアと戦って破れ、イゲ・ハルキ朝はバビロニアから駆逐されてしまいます。
次に紀元前13世紀末から紀元前12世紀にかけてシュトルク朝が成立して、バビロニアに再び進出を図ります。2代目の王さまシュトルク・ナフンテ1世は、バビロンを陥落させてバビロニアを支配下におくことに成功し、マルドゥク神像やらハンムラビ法典の石碑やらのお宝を強奪してスサへ持ち帰りました。
(ハンムラビ法典は後に現代の考古学者によってスサで発見される。つまりここでエラムに強奪されなければ、貴重な資料が失われてた可能性も!)
アッシリアの政治混乱もあいまって、エラムはこの時期オリエントで最も強大な国家となります。
けれども間もなくバビロニアに新たに勃興したイシン第2王朝(バビロン第4王朝)の英王ネブカドネザル1世によってエラム軍は打ち破られ、スサを占領されるとともにマルドゥク神像を奪還されてしまいました。
それ以降、エラム人は300年にわたる弱体化と混乱の時代を迎えることになります。紀元前1600年頃のイゲ・ハルキ朝の成立~紀元前1100年頃のイシン第2王朝のネブカドネザル1世によるエラム侵攻までの時代を、中エラム時代といいます。そしてこれ以降の時代を新エラム時代と呼びます。
そこからしばらく時間が経ちまして、紀元前8世紀。また新たにフンバンタラ朝という王朝ができました。
今度の王朝は、戦って政略するだけではありません。当時急激に拡大していたアッシリアに対抗するために、エラムはバビロニアを熱心に支援します。今までバビロニアには散々辛酸を舐めさせられてきましたけれども、敵の敵は味方ってことですね。
バビロニアは紀元前729年にアッシリアのティグラト・ピレセル3世に征服されていたのですが、エラムの支援の元でメロダク・バルアダン2世がアッシリアに反乱を起こし、自立しました。アッシリア王サルゴン2世はメロダク・バルアダン2世を攻撃して再びバビロニアを征服しましたが、この時敗走したメロダク・バルアダン2世が助けを求めたのもこれまたエラムでした。エラム人は彼を匿って、紀元前703年頃に再び彼をバビロニア王に返り咲かせました。
しかし今度はサルゴン2世の息子センナケリブ王の遠征によって、バビロニアは再びアッシリアに併合さ れてしまいました。
その後もエラムはたびたびバビロニアを支援して、アッシリアと敵対します。アッシリアはそのたびにバビロニアを取り返してたんですけども、いい加減うざかったんでしょうね。アッシュールバニパルという王さまのときに、アッシリアはエラムに対して本格的な攻撃に乗り出しました。
紀元前647年、アッシリアVSエラムの『スサの戦い』で多大な被害を受けたエラムは、その後紀元前640年にスサを占領され、大国としての歴史に幕を閉じます。
まあアッシリアも国内ごたごたでエラムにばっかりかまけてる暇がなかったものですから、しばらくするとエラム王国は復活しちゃうんですけど。もう最盛期ほどの勢いがないエラムの王国は、スサを中心とするスシアナ地方だけに縮小されました。
少し時代が下ってアッシリア帝国が没落したあとの 紀元前539年、スサはアケメネス朝ペルシアの支配下に置かれ、これ以降エラム王国は歴史から姿を消します。ただ、イラン高原において最も高い文化を誇った集団の一つであったエラムの文化、兄弟が王位を継ぐ相続制度、独特の政治制度などはその後アケメネス朝時代でも受け継がれ、メディアやペルシアに大きな影響を及ぼしていくことになります。
さて次ですが、次男のアシュルは上記のエラムの項でも大活躍で、これまで何度も話に出てきたアッシリアのことです。ようやく登場といったところですね。
ハムの子孫の説明のとき、クシュの子ニムロデがアシュルに進出したとありまして、その際に軽くアッシリアの説明はいたしましたけれども、
聖書を楽しむ【7】ニムロデ登場の回
↓↓↓
http://katzeundgeige.blog.shinobi.jp/mouso/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%907%E3%80%91
このときは初期の歴史だけピックアップしていましたので、今回それ以降も少し触れてみたいと思います。
そもそもアシュルの地とは、バビロニアの北西に位置するチグリス川沿いの高原地帯のことです。
ここはバビロニアのようなメソポタミア低地域と違って雨がたくさん降るため、畑を作るのにわざわざ川の水を汲み上げなくてもよい土地です。
つまりバビロニアが常に悩まされてきた農地の塩類集積とは無縁で、塩分に弱い小麦を豊富に生産できました。更に肥沃な三日月地帯の中央部でもあるため、メソポタミアとアナトリア半島、シリア、イラン高原といったオリエント各地を結ぶ交易の中継地でもあったのです。
アッシリアの歴史は、主に言語の変化、即ちアッカド語北方方言であるアッシリア語の時代変化に基づいて4つに時期区分される…とウィキペディアに書いてありました。 つまり、アッシリア自体はアッカドの流れを汲んでるということですね。アッカド語は現在知られているセム語派(西アジア、北アフリカ地域)
の最も古い言語とされております。
ただし、歴史学の上で言ういわゆる「アッシリア帝国」がセム系だったかというとそうでもないようです。アッシリア帝国の支配階級となった人々は、ハムの子カナンの子孫であるエモリ人…つまりアムル人でしたので、そこら辺は複雑です。たぶん、アシュル族としてのアッシリア人は生き残れなかったと思われます。生き残りも、混血が進んで他の民族と同化してしまったのでしょう。
とりあえず、アシュルの地に興った王国と、そこから広がったアッシリア帝国の流れをざっと見てみます。
①初期アッシリア時代…基本的に文字史料の無い時代。ニムロド紹介のときにちょこっと調べたあたり。アッカド帝国(紀元前2334年頃~)の時代には都市国家の形になっていたらしいです。
②古アッシリア時代…アッシリア語が古アッシリア語と呼ばれる形であった時代。(紀元前1950年頃~紀元前15世紀頃)
紀元前1813年にアッシリアを征服して王となったアムル人(聖書でいうとエモリ人)のシャムシ・アダド1世が、アッシリアをオリエント最大の王国にします。ただし後継者が巨大な王国を維持できず崩壊、 小規模勢力に戻ってしまいました。
ちなみにアムル人の王国バビロンがアッシリアを征服したのが紀元前1757年頃。シュメールとアッカドも制圧してメソポタミア地方を統一、 南半分のシュメールと北半分のアッカドをあわせた領域をバビロニアと呼ぶようになり、アッカド語がバビロニアの言語となります。
③中アッシリア時代…アッシリア語が中アッシリア語と呼ばれる形に変化した時代。(紀元前14世紀初頭~紀元前10世紀の末頃)
初期はミタンニ(フルリ人)王国の支配下にありましたが、アッシュール・ウバリト1世の時代に独立。
当時オリエント世界に君臨していたヒッタイト、ミタンニ、バビロニア、エジプト等の列強諸国に食い込み、大国として台頭します。
トゥクルティ・ニヌルタ1世(ニムロド候補のひとり)の時代にはバビロニアを征服。が、彼の死後に《前1200年のカタストロフ》が起こり、政治混乱によって勢力が減衰しました。
この時代から始まったバビロニアへの政治介入と征服によって、バビロニア文化が取り入れられるようになります。またアッシュール神(アッシリアの首都を神格化した神)をシュメールのエンリル神と習合させたり、共通の宗教儀礼を決めたりするなど宗教面の整備が進みました。
④新アッシリア時代…アッシリア語が新アッシリア語と呼ばれた形であった紀元前10世紀の末頃から滅亡までの時代。
この時代に、アッシリアは全オリエント世界を支配する初の帝国になります。その礎を築いたのは、ティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744年~紀元前727年)という王さまです。アッカド語ではトゥクルティ・アピル・エシャラという名前で、「我が頼りとするはエシャラの息子」と言う意味です。弱体化していたアッシリアの王権を強化し、アッシリアの最盛期と言われる時代の端緒を開きました。彼はバビロニアやヘブライ人の記録では「プル」という蔑称で呼ばれていて、被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から相当嫌われていたようです。ちなみにプルは「区分」という意味です。…いまいちどんな嫌味なのか、わからないですが。
アッシリアは帝国を維持するために色々な策を講じましたが、最も有名なものの一つが大量捕囚政策です。つまり被征服民の強制移住ですね。それ自体は他の国もやってましたが、アッシリアはとにかく規模がデカかったのです。アッシリア王たちは盛んに遠征を行って次々領地を拡大していったのですが、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的として捕囚政策はたびたび行われたようです。
さて、この時代のアッシリアの悩みの種はバビロニアでした。上記のエラムのところでも説明しましたけれども、征服したバビロニアがことあるごとにエラムを味方につけて反乱を起こしてきたんですね。
アッシリアはアッシュールバニパル王の時《スサの戦い》でエラムを滅亡させたのですが、彼の治世の後半からアッシリアは急激に衰退していき、彼の死後20年あまりでアッシリアは滅亡してしまいます。
衰退の原因が何であるのかは分かっていませんが、王家の身内の中でのいざこざとか、広すぎる領地や多様な征服民族を支配しきれなくなったとか、色々な問題が噴出したものとも考えられています。
更に北方からスキタイ等の外敵に圧迫されたのも原因の一端と言われています。スキタイ人、だいぶ前に出てきましたね。ヤペテの長子ゴメルの息子アシュケナズ、あるいはヤペテの次男マゴグを指します。
紀元前625年に新バビロニアが独立すると衰退の勢いはさらに増し、紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落しました。(ニネヴェの戦い)
そのあと亡命政権がハランに誕生してアッシュール・ウバリト2世が即位し、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦しましたが、紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡しました。
さて、次は順番どおりにいくと三男のアルパクシャデなんですけども、彼の系譜からお話が先に進みますので先に四男のルデから紹介します。
ルデは、ハムの子孫ミツライム(エジプト人)の子孫のルデ人とは別人です。
こちらのルデはリュディア人を指します。
リュディア地方はアナトリア(現トルコ)の、北はミュシア、南はカリア、東はフリギアに接する範囲です。そこを中心としたリュディア王国は紀元前7世紀~紀元前547年に栄え、世界で初めて硬貨(コイン)を導入した国として知られています。
《前1200年のカタストロフ》によってヒッタイトが滅亡し、南東アナトリアにシリア・ヒッタイト(紀元前1180年~紀元前700年頃)と呼ばれる国家群を形成したのですけれども、これらの国家群の中からリュディアなどが台頭してきました。
リュディアは東側の大国フリギアと西側のギリシャの間に挟まれていたので交易するのに優位でした。あと領内で金が採れたのでお金持ちになれたんですね。
あ、フリギアとギリシャも以前紹介しましたね。フリギアはヤペテの長子ゴメルの三男トガルマ、ギリシャはヤペテの四男ヤワンです。
インド・ヨーロッパ語族であるフリギア人とギリシャ人がお隣さんなので、リュディアもギリシャの文化に近かったんじゃないかと思われます。
ヘロドトスの記録によれば、ここに住んでた人々は元は「マイオニア人」と呼ばれていたそうです。
マイオニア人の最初の王さまであるマーネスに由来してるのでしょうか?ちなみにマーネス王はゼウスとガイアの息子であると信じられていたようです。(死者の魂を神格化した「マネス」という神さまがギリシャ神話にいますが、たぶん関係ない)
ギリシャ人の自称である「イオニア」と、なにか関係あるのでしょうか。興味深いところです。
「マイオニア人」が「リュディア人」と呼ばれるようになったのには逸話がありまして、それに関して少し気になる点があります。話せば長いんですけれども、まあ今さらなので記載しておきます(爆)
ヘロドトスによりますとリュディア人という名前は「アティス朝」を開いたリュドスという王さまに由来しているそうなのですが、このリュドスの父親で王朝の名前にもなっているアティスはギリシャ神話のアッティス(フリギアを起源とする死と再生の神。一部の像などでは有翼の男性として表される。)だという話です。 …英語のウィキペディアをエキサイト翻訳で無理矢理読んだので、ちょっと違うところもあるかもしれません。
アッティスの名前の意味はリュディア語で「美少年」のことをいう言葉であるとも、フリギア語で「山羊」を意味するアッタグスに由来するとも言われます。
神さまの子孫が国の王になるという話自体は、神話ではよくある話ですね。問題はその中身です。
アッティスはフリギア出身という身の上のせいか、ギリシャの中ではちと異彩を放つ神さまです。
アッティスの母親コテュトーはローマ神話に出てくるトラキア(バルカン半島南東部、現ブルガリアの一部)の大地・豊饒・多産・病気治療の女神で、治癒・預言・戦いを司り、アナトリア半島のフリギアで崇拝されていた大地母神・キュベレに関連づけられています。トラキアが紀元前6世紀頃からギリシャの植民地支配を受けてて、そのあとアケネメス朝ペルシアに支配されたからですかね。
キュベレ自体はとても古い神で、様々な地域で色々な女神と同一視されました。( ギリシャ神話のレア、メソポタミア神話のイシュタル、ギリシャ神話のアグディスティス、ローマ神話のゲネトリクスなど)
ローマでは「マグナ・マーテル(大いなる母)」と呼ばれていたそうです。
とりあえず、そんなコテュトーの息子がアッティスという、フリギアの神さまでした。
アッティスをキュベレの息子ではなく恋人とする説もあり、両方だとも言われています。
アッティスは、元は両性有具だったアグディスティス(キュベレ)から切除された男性器から生まれました。正確に言うと、切除された性器からアーモンド、またはザクロの木が生え、その実をサンガリオ河神の娘ナーナが取り込んで身籠り生まれたのですけども、いずれにしても丸々神の力を引き継げたわけではないので『半神』の扱いです。
牡の山羊に世話され生き延びた赤子は、人間の里親に育てられ美しい青年に成長します。
キュベレ(紛らわしいので、以下キュベレに統一します)は、成長したアッティスを一目見て恋に落ちてしまいました。実の息子だとか、そんなの神さまの世界ではお構い無しです。
けれどもこのときアッティスは人間として育てられていたので、ちゃんと人間の里親がおりました。
里親はペシヌス(フリギアの大商業都市)の王女さまと彼を結婚させようとします。一説ではこのときのペシヌス王は、ギリシャ神話の逸話で有名なミダス王だとも言われております。
そこで怒ったのがキュベレです。
息子であり想い人であるアッティスを渡したくない大地母神は、結婚式の真っ最中だったアッティスに強力なエクスタシーを与えました。性的絶頂と宗教的体験における脱魂、両方だと思われます。いきなり人間の精神では処理出来ないほどのエクスタシーに襲われたアッティスは正気を失い、自分の男性器を切り取って絶命します。後悔したキュベレはアッティスを復活させ、更に不老不死にしたということです。
神として復活したアッティスはキュベレの付き人兼恋人になりました。
……というのがリュドス王の父親という設定になっている神さまのお話なのですけれども。
これまた「処女懐妊」やら「半神」やら「復活」やら、新訳のモチーフがたくさん出てきますね。
彼女の熱狂的信者はコリュパンテスという、自ら完全に去勢した男性でした。コリュパンテスは女性の服を着て、社会的にも女性とみなされたそうな。
キュベレ信仰は、その祭りの熱狂性から、デュオニュソス崇拝と密接に関連づけられました。
以前調べましたが、《神の息子》の意味の名を持ち毎年冬に死んで春に生まれかわる葡萄の神は、分かりやすくイエスの神性のモデルでした。植物神という意味では、ニムロデの息子タンムズも同じでしょう。タンムズ、すなわちシュメールの牧神ドゥムジは、フェニキアに渡り植物神アドニスになります。地母神アフロディテの愛人で、名は「主」を意味し、木々と共に毎年死んでまた春に復活します。
………つまり何が言いたいかって、このリュディアという国が根本に持っていた宗教はそういう宗教なんですよ。他の国にも言えますけどもキリスト教が受け入れられやすかったのはこういう宗教を昔から持ってた所で、きっと多くの国の人間にとって「どこか懐かしい」感があったからだと思うんですよ。
日本に神道や仏教が浸透しやすかったのも、日本に元々いた神さまに近いものがあったからなんじゃないかなあ。
さて、だいぶ話が横道に逸れてしまいました。
とにかくそういう血筋だと信じられていたリュドスという王さまが、リュディアの根底を築いたんですね。
けれどもアティス朝については全然資料が残ってなくて、詳細はさっぱり不明です。
その後、これまた伝説的ですけれども、ヘラクレスと奴隷女を祖とするというヘラクレス家という一族が『ヘラクレス朝』を開いて505年間にわたりリュディアを統治したそうです。
そのまたあとに、ヘラクレス朝最後の王さまカンダウレス(在位:紀元前733~716年、または紀元前728~711年、または紀元前680年頃没)を殺害して王になったギュゲス(在位:紀元前680年~640年、または紀元前716~678年)が開いた『メルムナデス朝』が始まります。
リュディアが栄えだして記録に残るようになった紀元前7世紀からをリュディア王国の始まりとするなら、このメルムナデス朝がスタート地点と言えましょう。
ギュゲス王は、アケメネス朝の王キュロス2世が書いた『キュロスの円筒印章』に登場しております。
それによりますと、紀元前666年頃アッシリア王アッシュールバニパルの元にリュディア王ギュゲスから使者があり、彼の王国にキンメリア人が侵入してくるので助けてくれ、と言ってきそうです。
キンメリア人は聖書だとヤペテの長男ゴメルのことでしたね。
キンメリア人のリュディア侵入にも理由があって、紀元前7世紀の後半にリュディアのお隣さんだったフリギアがキンメリア人の支配に屈してしまったんです。
フリギアを手に入れたキンメリア人たちの、次の標的がお隣のリュディアだったわけですね。
助けを乞われたアッシリアはリュディアを支援し、それによってギュゲスはキンメリア人に勝つことができたので、捕らえたキンメリア人の族長2名を貢物と共にアッシリアに送りました。
しかし勝利によって自信を持ったギュゲスはアッシリアへの貢納を打ち切ってしまい、更にアッシリアと敵対していたエジプトと同盟を結びます。なんとも恩知らずな話です。
当然アッシリアは怒りますね。アッシュールバニパル王は今度はキンメリア人と同盟を結んで支援し、リュディアを征服させました。ギュゲス王は戦いで戦死してしまい、彼の息子アルデュスが王になると、アルデュスはアッシリアに謝罪して服従を誓ったといいます。
アルデュスの後、その息子サデュアッテスが王位を継いだのですが、彼はその治世の間にキンメリア人を駆逐しスミルナ(現・イズミル。エーゲ海に面するトルコの都市)を占領するなどして勢力を拡張しました。
そのまた後、アルデュスの息子アリュアッテスが王位を継ぎます。世界初のリュディア貨幣ができたのはこの時代です。一番古いエレクトロン(琥珀)貨と呼ばれる貨幣は、川から採集される砂金の粒に刻印を打ったものだったそうです。記録だけで実物はないですけれども。現存する最古のリュディア貨幣は、金銀の合金で作られたギリシャ様式のものだそうな。
この頃にはアッシリアは新バビロニアとメディア王国に滅ぼされていました。(メディアはヤペテの三男マダイです。)
アッシリア帝国を滅ぼしたメディア王国は、リュディアにも侵入してきました。しかしその戦争中に突然日食が発生し、両軍がびっくりして怯えてしまったので、ハリュス川(現在のクズルウルマク川)を国境とする合意を結んで休戦したと伝えられています。(ハリュス川の戦い /紀元前585年5月28日)
長らくアッシリアの支配下にあったリュディアはアッシリアが滅亡したことで更に勢力を増し、アナトリア半島の西半分を領有する大国となりました。この頃のリュディアは、イオニア同盟の諸都市と密接な関係を持っていたようです。
イオニア同盟、またはパンイオニア同盟は、紀元前800年頃アナトリア半島のイオニア地方(現トルコ)の諸都市を中心に結成された同盟です。基本的に宗教的・文化的同盟で、その象徴だったのがパンイオニアという、ポセイドンを祀っているミュカレ山にある《パンイオニウム》と呼ばれる聖域で開催されていたお祭りでした。ちなみにこの祭はアジアのイオニア人が行っていただけで、他のイオニア人たちは毎夏デロス島のアポロン神殿に詣でていたようです。
イオニア同盟はがっちり同盟を組んでいたわけでなくて、「同じ宗教の仲間だよ!」くらいのニュアンスでした。リュディアはイオニア同盟には入ってませんでしたが、イオニア同盟の国とリュディアは縁が深かったわけです。
さて、アリュアッテスの次に王位を継いだのは息子のクロイソスでした。彼は様々な理由をつけてエーゲ海東岸のギリシア人都市を攻撃し、ほぼ全域を征服します。これによってリュキア(現トルコ南沿岸のアンタルヤ県とムーラ県の地域)を除くアナトリア半島西部の殆どの地域がリュディアの支配下に入りました。
クロイソスはイオニア人をはじめ各地のギリシア都市国家と密接に関わったらしく、エーゲ海島嶼部のギリシア人都市との艦隊建造に関わる交渉やアテナイ人ソロンとの対話、フリギア王家の末裔アドラストスとの交流、デルフォイへの奉納など多岐にわたる説話がヘロドトスによって伝えられております。父の代から続く、上記のイオニア同盟とも関わりがあったかもしれませんね。
さて、クロイソスの時代にリュディアはアッシリア亡きあとのオリエントを構成する四大王国のひとつとなったのですが(残りはカルデア(新バビロニア)、メディア 、エジプト)、この均衡があるとき崩れます。
アケメネス朝ペルシアの王キュロス2世が、メディア王国を滅ぼしたのです。怒ったクロイソスは新バビロニアやエジプト、それにギリシャのスパルタと同盟を結び、アケメネス朝に侵攻しました。
しかし戦いの末、結局リュディアは負けてしまって、帝国としての滅びを迎えます。リュディアの首都サルディスはアケメネス朝の拠点となり、クロイソスはキュロス2世の参謀となったそうな。(ヘロドトス談)
余談ですけど、リュディアとの戦いの中でペルシア軍は馬のかわりにラクダを使ったらしいです。リュディア軍の馬はラクダの強烈な体臭に怯んで逃走してしまい、そのおかげでリュディアは追い詰められたということです。
……ちなみに対エジプトのときは、盾に生きたネコをくくりつけたそうですよ!(怒)ネコを一番早く家畜化したエジプト人はネコを非常に可愛がっていて、一部の地域では猫神バステトは最高神として崇められていました。なのでネコを人質にされたエジプト人は攻撃を躊躇ってしまったそうな。ネコ好きの敵ですな!許すまじ。とりあえず、ペルシアは戦に動物をよく取り入れてたんですな。
さて、先に進みます。
五男のアラムは、そのままアラム人を指します。地名としては古代シリアの別名になります。
アラム人はアラビア半島からやってきたセム系の遊牧民で、紀元前11世紀頃までにティル・バルシップ、サマル(現在のジンジルリ)、アルパド、ビト・アディニなどを拠点とするユーフラテス川上流に定住しました。
その後シリアに進出して新たな都市国家を形成したのですが、当初はハマー、その後はダマスカスがアラム人勢力の中心となりました。
ハマーという地名は実は前回紹介済みです。カナンの一番末の息子ハマテは、ここの住人を指していたのではないかという話でした。つまりアラム人というわけですね。ということはハマテはアラム人の中でもハマーの住人で、アラムはダマスカスを拠点にした人々のことですかね?
アッシリアの碑文ではハマーとダマスカスが分けて記載されていたので、恐らく民族的には同じでも、別の国として認識されていたようです。
さて、遊牧しながらユーフラテス川上流に移住してきた古代アラム語をしゃべっていた人々は、ラクダに乗ってシリア砂漠を旅してまわる隊商貿易を生業としていました。
その後交通網を拡大して古代オリエント世界に商業語としての古代アラム語を定着させ、更にシリア沿岸部のフェニキア人が用いていたフェニキア文字からアラム文字を作ります。彼らの言語はその後の西アジア・南アジア・中央アジアの様々な文字に影響を与えました。
キャラバンで生活の糧を得ていたアラム人たちは、やがてシリアに町をいくつも築きます。その中心になったのが、紀元前1100年頃はハマーでした。
ハマーの町については前回ハマテを紹介した際に触れましたが、農業の盛んな川沿いの豊かな町でした。
一方ダマスカスはハマーよりもさらに古く、紀元前8000年から人が定住していました。そのため世界で最も古い都市であると言われたりしています。
地中海から約80km内陸にあるアンチレバノン山脈の麓、海抜680mの高原の上に、ダマスカスの街があります。
現在は急速な住宅や産業の拡大により面積が減り汚染されてきてしまっていますが、豊かなオアシスに囲まれた土地でした。古代都市はバラダ川のすぐ南岸にあって、その近郊には『エデンの園』のモデルなんじゃないか?と言われている大きなオアシスがあります。
しかし元々ダマスカスに住んでいた人たちは特に記録に残ることもなく、静かに暮らしていたようです。
ダマスカスが重要視されだすのは、やっぱりアラム人が移住してきてからです。
勢力の中心をハマーからダマスカスに移したアラム人たちは、紀元前10世紀にはこの地をアラム王国の首都にしました。アラム・ダマスカスと呼ばれる強力なアラム人国家の中心となったこの土地は、たびたびアッシリア人とイスラエル人との戦争に巻き込まれます。
一番有名なのが『カルカルの戦い』というやつです。
紀元前853年にシャルマネセル3世率いるアッシリア軍とシリア諸国の同盟軍との間で行われました。
急激な領土拡大を続けるアッシリアがシリアのすぐそばまで領土を広げてきたのに対し、それまでごたごたと争っていたシリア地方の緒王国は同盟を結んで抵抗したのです。
アッシリア側の史料には「ハッティ(シリア)と海岸の12人の王」としてその同盟参加者が記録されております。
以前の紹介で ハッティはカナンの次男ヘテ…つまりヒッタイトを指していましたが、この場合のハッティはヒッタイト人でなく、王国が滅びたあと南東アナトリアに移動して都市国家群(シリア・ヒッタイト)を形成した人々のことを言います。この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられています。
同盟の参加者は以下の通りです。
↓↓↓↓
ダマスカス王ハダドエゼルが率いる戦車1,200両、騎兵1,200騎、歩兵20,000人。
ハマテ王イルフレニが率いる戦車700両、騎兵700騎、歩兵10,000人。
イスラエル王アハブが送った戦車2,000両、歩兵10,000人。
キズワトナ軍、歩兵500人。
ムスリ軍、歩兵1,000人。
アルキ軍、戦車10両、歩兵10,000人。
アルヴァド王マタンバールが送った歩兵200人。
ウスヌ軍、歩兵200人。
シアヌ王アドニバールが送った戦車30両、歩兵数千人。
アラビア王ギンディブが送った駱駝騎兵1,000騎。
ベトルホブ王バアシャーが送った戦車30両、歩兵数百人。
ダマスカスはアラム人王国。ハマテもアラム人だけどハマテ王国として別扱いされてますね。
イスラエル王国はまだ出てきていませんので詳しくは飛ばしますが、紀元前1020年には統一国家ができていました。そして紀元前928年に南北に分裂します。アハブという名前は、北イスラエル王国の7代目の王さまとして記録に残っています。
キズワトナは現キリキアの古代名で、紀元前18世紀頃、アッシリアに居住地を追われたフルリ人たちが西へ移動して作った国です。
ムスリは、現在のムスリムとは無関係です。アッカド語のムスリ(Musri)は通常エジプトと翻訳されますが、この戦いでのムスリは北シリア地方の王国であると考える人もいます。
アルキ人はエイン・アリクかレバノン北部アルカに住んだフェニキア人。アルヴァドはたぶんアルワード島のことだと思うので、聖書でいうとアルワデ人、民族的にはフェニキア人。
ウスヌはウガリット南方の都市です。ウガリットの
属国でしたが、ヒッタイトのムルシリ2世によって重要都市カルケミシュの支配下に編入されました。
シアヌについては不明。
アラビアは、たぶんサバア王国のことかな?
ベトルホブも詳細は不明ですが、バアシャーという名前の王は北イスラエル王国の3代目国王にいます。なにか関係あるのでしょうか?うむむ。
とりあえず上記の11カ国が、同盟を結んでアッシリアとドンパチやったわけです。12人の王、と銘打ってますが、実際の参加国は11個なんですね。
アレッポ(ヤムハド王国)を経由してカルカル市を略奪したアッシリアは、オロンテス川のそばで同盟軍と対決します。(オロンテス川については、前回のハマテの欄参照)
この戦いの結果ですが、アッシリア側の記録ではアッシリアの勝利とされているんですけども、実際のところその後アッシリアがシリアを征服できていないのでどうやら同盟軍側が勝ったようです。
強敵アッシリアを力を合わせて撃退し、これでシリアのみんなは幸せに暮らしました。めでたしめでたし…………とはならないのが人間です。
アッシリアの脅威が去ったシリア諸国は、また前のギスギスした関係に戻ってしまいました。同盟は白紙になり、紀元前853年以降にはダマスカスとイスラエルの間で争いが生じます。この戦いについては『列王記』にも記載があります。
紀元前732年、アッシリアのティグラト・ピレセル3世(アシュルの欄の④新アッシリア時代を参照)の占領・破壊を受けたダマスカスはアッシリアの支配下に入り、以後数百年の間、独立国家としての立場を失うことになります。紀元前572年ネブカドネザル2世による新バビロニア王国の支配下に入り、紀元前539年にはキュロス率いるペルシアに支配され、更にそのあとマケドニア王国アレクサンドリア大王の支配を受けました。
どうやら、ハマーも大体同じような道を辿っていったようです。どちらも、マケドニア王国の次にはローマ帝国の支配下に入ります。
さて、ここまででまた長くなってしまいましたので、とりあえずここで一度区切らせて頂きます。
本日の楽曲は、リュディア王国最後の王・クロイソスが主人公のオペラ『クロイソス』、原題『うぬぼれ男、転落し再び高貴になったクロイソス(Der hochmütige, gestürzte und wieder erhabene Croesus)』(1711年、ハンブルク、ゲンゼマルクト劇場初演) です。
作曲者はラインハルト・カイザー(Reinhard Keiser, 1674年1月9日~1739年9月12日)。
ドイツ盛期バロック音楽の作曲家で、ハンブルクを拠点に活躍しました。かつてはハンブルクゆかりのヘンデルやテレマンと並ぶ巨匠に数えられたそうですが、大方その作品は長年にわたって忘れられています。
私もこれ調べるまで知らなかったです。(爆)
《登場人物》
クロイソス…リュディア王(バリトン)
アティス…クロイソスの息子(ソプラノ)
ハリマクス…アティスの腹心(カウンターテナーorメゾソプラノ)
オルサネス…リュディアの領主(バリトン)
エリアテス…リュディアの領主(テノール)
クレリーダ…リュディアの姫(ソプラノ)
エルミーラ…メディア王国の姫(ソプラノ)
キュロス大王…ペルシャ王(バス)
ソロン…哲学者(バリトン)
エルキウス…アティスの召使い(テノール)
トリゲスタ…エルミーラの召使い(ソプラノ)
ペルシャ人船長…(バリトン)
初演は1711年ですが、その19年後の1730年に改訂版が書かれました。カイザーは37個のアリアを書き換えオーケストレーションを豊かにした他、3ヵ所声域を変更したそうです。というのも、アティスは元々はバリトンの役だったのですがソプラノ役に変わったため、ハリマクスもメゾソプラノやカウンターテナーになったのです。
新しいアリアを挿入するときにいくつかの部分をカットしてしまったようで、元の版のスコアは完全には残っていません。
お話のあらすじはヘロドトスの『歴史』を元にしつつ、原作ではちょろっと出てきてすぐに戦死してしまう息子のアティスに《生まれつき話すことが出来ない》というキャラクターや、メディア王国の王女エルミーラとの恋などのドラマを与えています。
原作ですとクロイソスにはアティスとは別に、話すことが出来ない息子がもうひとり居るんですが、ふたりの兄弟のキャラクターを混ぜ合わせたんですね。
まあオペラですと実はアティスは喋れるようになってて、それがまたドラマの鍵になるんですが。
更にアティスはクロイソスの部下オルサネスの謀反を暴くために農夫に変装したり、父が火あぶりにされそうになったら共に死のうと火に飛び込んだり、もうこれクロイソスじゃなくてアティスが主人公なんじゃね?
最後はキュロス大王に捕まったクロイソスも許されて、エルミーラとアティスは結ばれて、謀反をたくらんでいたオルサネスも許されて、めでたしめでたしです。
YouTubeには全曲はありませんでしたが、いくつかの録音がUPされていました。
○シンフォニア
https://youtu.be/_65iWD47i5s
○一幕・キュロス(2世)のアリア
https://youtu.be/OPQqvGURzsI
○エルミーラのアリア
https://youtu.be/Hbrrc3tu29g
個人的な妄想なのですが、事実上の主役であるアティスがバリトンからソプラノになったのは《カストラート》が関係してるのではないかなぁ、と思います。
カストラートとは、かつてヨーロッパで大流行した《去勢歌手》のことです。男の子が子どものときにイチモツを取ってしまうと男性ホルモンの関係で声変わりが起こらず、尚且つ身長や肺活量は普通に育つので、女性では成し得ない音色と持続力の声を持つことができます。
元々は、教会で沈黙していなくてはならなかった女性のかわりに教会音楽の高声を担当していたのですが、オペラが大流行するとそちらでも大活躍するようになりました。
1650年ごろから1750年ごろにかけてヨーロッパ各地でそのピークを迎え、毎年4000人もの子どもが去勢されたそうです。
カストラートブームの中心はイタリアでしたが、ドイツにも流行りの波は来ていたようで、バロックオペラで一番有名と思われるヘンデルが最初のオペラ『アルミーラ』(HWV1)の初演を行ったのが1705年、場所は『クロイソス』と同じハンブルクのゲンゼマルクト劇場でした。
『クロイソス』はその6年後に初演されますが、もしかしたら当時はあんまりうけなかったのかなあと思います。改訂前だと主要の男性陣は全員バリトンですから、カストラート全盛期にバリトン祭のようなオペラをやってもお客さんの反応は微妙だったでしょうね………
熱狂的な人気を集めていたカストラートは曲の追加や登場のシュチュエーションを要求したりすることもあったそうで、人気歌手や興行主に要請されてやむなく改訂した可能性もあるかと思います。あるいは、作曲者自身が納得いかなくて書き直した可能性もあります。
余談ですが、ちなみにあのベートーヴェンも、子どものとき素晴らしいボーイソプラノだったそうで周辺の人々からカストラートにされることを望まれたようです。
結局お父さんが反対したのでルートヴィッヒは去勢しないで済みました。もし彼が作曲家にならず歌い手になってたら多くの名曲は生まれなかったので、ヨハン父さんに大感謝です。
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